甲子夜話卷之一 20 市川白猿が事
20 市川白猿が事
歌舞伎役者市川團十郎は、頗文史をも渉獵して風雅の心もありしとなり。後家業を子に讓り、隱居して名を白猿と更む〔これもその祖は歌舞伎名人と呼れしものにて、俳諧を善し、その名柏莚と云けるが、代代その名を襲用ふる俗習なれど、己は祖にも父にも家業は及ばぬ下手なりと自ら云しが、遂に普通の字を用ひて同字は用ひず、我志をあらはせしと云〕。小なる別莊を本庄の地に補理して住り。御放鷹抔此邊に御成あるときは、人に言て曰、河原者の身として、卸通路の傍に居ること畏憚るべきこと也迚、その日は必去て堺町の本宅に避く。又其業に依て其家富をなせども、衣服をつくるには、曾て一色のものを用ひず。別色のきれを縫接(ツギ)て之を着る。曰ふ、卑賤の人家貧からずと雖ども美服を着は、尊卑を辨ぜざる也と。又自餘の俳優は、其かつらに天鵞絨を以て包所、白猿は黑き木綿以て作る。その謹愼かくの如し。
■やぶちゃんの呟き
「市川白猿」五代目市川團十郎(寛保元(一七四一)年~文化三(一八〇六)年)。記されている通り、市川白猿初代。静山より十九年上。白猿が亡くなった当時は静山四十六歳。
「本庄」ウィキの「市川團十郎 (5代目)」に、寛政八(一七九六)年『に役者を引退し、成田屋七左衛門と名乗り向島反古庵に隠居した』とあるから(但し、寛政一一(一七九九)年に養子の六代目團十郎が数え二十二で急死、市川白猿の名で舞台に戻って老躯に鞭打って孫に芸を仕込んだとある)、これは本所向島の「本所」であろう。但し、厳密には本所と向島は別な地域で、江戸時代の「本所」は武家と両国界隈の庶民の娯楽の地であったのに対し、「向島」は近接し乍らも純粋な農村地帯であった。既に「甲子夜話」の現代語訳を手掛けておられ、私もしばしば注の参考にさせて戴いている、ゆうきこうじ氏のブログ「結城滉二の千夜一夜」の「『甲子夜話の44=松浦静山』新千夜一夜物語 第144話」によれば、『白猿は松浦静山の屋敷の近くに別宅を構えていた』らしいとある。
「補理」「しつらひ(しつらい)」と読んでいるものと思われる。設い。構え作ること。整え準備すること。室礼・鋪設」等とも書いた。
「放鷹」既注。「はうよう(ほうよう)」と読む。鷹狩。
「御成」当時は第十一代将軍徳川家斉。
「堺町」日本橋境町。現在の人形町内。
「自餘」爾余。この他、その外。白猿以外の。
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