今日の芭蕉シンクロニティ 秋深き隣は何をする人ぞ
本日二〇一四年十一月 十五日(本年の陰暦では閏九月二十三日)
元禄七年 九月二十八日
はグレゴリオ暦では
一六九四年十一月 十五日
である。芭蕉五十一歳、芭蕉の永遠の旅立ちはこの十三日後のことであった。
【その二】この翌日、芭蕉は芝柏亭の俳席に出る予定であったが、畦止亭の俳莚から当時の宿所であった之道亭へ帰るとその夜から身体の不調を訴え始め、出座を断念、その代わりにこの句を代人(だいにん)に托して芝柏(堺の商人)亭に送った(以下に示す「笈日記」に拠る)。無論、この俳莚は流会となったと思われ、『顔ぶれも興行記録も残っていない』と安東次男「芭蕉百五十句」にある。
そうして――この日を最後に芭蕉は、遂に病床から復することは叶わなかったのであった……
秋深き隣は何をする人ぞ
ある人に對し
秋ふかし隣はなにをする人ぞ
[やぶちゃん注:これについても私は既に二〇一三年十一月一日のブログで記載しているが、そこで引用した安東次男氏の評釈はまさに安東的なる非常にドライで諧謔的なディグであった。しかしどうもそれではこの句の深奥は言い尽くされていない気が今はしている(私自身が年を追うごとに、そうした博覧強記への知的羨望を失いつつあるからかも知れない)。されば今回は、何か今の私の感懐に――すとん――と落ちた山本健吉氏の評言を引用したいと思う。
《引用開始》
「此の秋は」とともに、芭蕉の生涯の発句の頂点である。これも「偶感」とでもいうべき句である。「何をする人ぞ」とは、どんな生業にたずざわっている人か、の意になるが、別にその職業を詮索しているわけではなく、どういう人なのであろうと床しがっているのである。床しがらせるようなものが隣の気配に感じられたのであろう。「秋深き隣は」には、隣人と自分とのあいだの、それぞれ孤独でありながら、その孤独を通してつながり合うという、連帯の意識がある。ことりと音しない隣人のひそやかな在り方は、また自分の在り方でもあり、自分の存在の寂寞さを意識することが、隣人の存在の寂寞さへの共感となるのだ。その共感を具象化するものが、もっとも寂しい深秋という季節感情である。
孤独でありながら、隣人を通して他者へ拡がろうとする人優しさの心の動きが、この句を芝柏亭の俳席の句にふさわしいものにする。心のなかで自分に呟きながら、同時に他へ呼びかけているという、二重の声を、この句は響かせているのである。
《引用終了》
既に「此道や行人なしに秋のくれ」の山本氏の評釈――『人声の発散する暖い人間関係の場が思い描かれて』おり、本句には『芭蕉の人懐しさの気持ちが』こもっている――という見解に対し、私は、「そうした女々しさを、いささかもこの句からは感じとれない(原句を読んでしまえばそうした後戻りのようなことは決して出来るものではないということである)。芭蕉はそんなお人好しではない」と斬って捨てたのであるが、この句に対しては、山本氏の意見にすこぶる共感出来るのである。それは、「此道や」が実際の俳莚で示されたものであるのに対し、こちらの句は芭蕉のために開かれた俳席への欠席の挨拶句であるという有意に異なる背景があるからである。
芭蕉は遂にこの時、自身の死期を確かものとして意識していたと考えてよい。
さればこそ、彼は万感の思いを以って彼に繋がろうとする者たちに、最後の別れを心を込めて詠みたいと思ったに違いない。
そうした連衆へ、偏屈原の枯槁したような孤高の孤独者の後ろ影を見せるなどというのは、真の風狂人のすることではない(と私は思う)。であるなら、彼が出なければ流会となるに違いない俳莚に、欠席の代句など、そもそも送ったりはしないからである。
――連衆への『連帯』の想いが、『孤独でありながら、隣人を通して他者へ拡がろうとする人優しさの心の動き』として末期を確信した芭蕉の意識の中にはっきりと感得され、それを『心のなかで自分に呟きながら、同時に他へ呼びかけているという、二重の声を』確かにこの句は響かせている、と私も思うのである。]
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