日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 モース、日本語廃止論をかます
印刷術の、このこみ入った制度を見ると、日本は結局発音制度を樹立しなくてはならぬことが知られる。かくしてのみ、日本は現代式の植字機械を使用することが出来る。漢字を用いる言語は、日本人には重荷である。若しこの場合、彼等すべてが英語を解し得るならば、それは彼等が我々の方面に向って進歩することを、非常に助けるであろう。英語を書くことを学んでいる者は、英語の方を日本語よりも佳しとする。彼等はすべて、英語の方が、より正確だといい、英語を教える、大学の予備校へ行っている少年達は、その方が容易な為に、好んでお互同志英語の手紙を書く。私の、可愛らしい少年の友人は、必ず彼の弟に英語で手紙を書き、その弟は十三歳だが英語を学び、同時に、ドイツ語で教授が行われる医学校へ入るために、外国語の学校でドイツ語を習つている。彼は日曜ごとに私の家へ来るが、すでに上手に英語を話す。
[やぶちゃん注:このモースの見解には私は強く反対するものである。第二次世界大戦後、桑原武夫や志賀直哉がフランス語を国語にしろ、高橋義孝はドイツ語にしろ、なんどとのたもうていた事実を思い出すのである。日本人の大半が漢詩も和歌も俳諧も全く読めなくなっている今の世界を考えると私は心底、慄っとするのである。
「私の、可愛らしい少年の友人」これは恐らく、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十一章 六ケ月後の東京 21 モース遺愛の少年宮岡恒次郎」で注した竹中成憲(八太郎)で、その「弟」とは年齢から考えると、やはりリンク先で既に注した宮岡恒次郎のことであろう。但し、この叙述には記憶の錯誤があると思われ、医学校を目指したのは兄の竹中成憲(後に軍医から開業医となっている)のことであろう。宮岡恒次郎は後に帝国大学法科大学に進学し、外交官となり、後に弁護士となっている(リンク先の私の注を参照されたい。但し、この時点では弟の恒次郎も医学を志していたという可能性も排除は出来ない)。]
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