今日の芭蕉シンクロニティ 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
本日二〇一四年十一月 五日(当年の陰暦では閏九月十三日)
元禄二年九月二十四日
はグレゴリオ暦では
一六八九年十一月 五日
である。
初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
[やぶちゃん注:真蹟詠草に、
あつかりし夏も過(すぎ)、
悲しかりし秋もくれて、
山家に初冬をむかへて
はつしぐれさるもこみのをほしげ也
とある。「卯辰集」は、
伊賀へ歸る山中にて
と前書し、翌元禄三年一月十七日附万菊丸(杜国)宛書簡には、
冬
と題する。
安東次男「芭蕉百五十句」(文春文庫一九八九年刊)の本句の評釈冒頭に以下のようにある。
《引用開始》
細道の旅のあと、芭蕉は伊勢の遷宮を拝んで、晩秋、郷里伊賀へ向う。上野の生家に着いたのは九月末。長野峠を越える時に詠んだ句らしい。初時雨は初冬の季だが、元禄二年の立冬は九月二十四日である。それ以後の句、もしくは今日あたり立冬のはずだがと思いながら詠んだとすれば、季に矛盾はない。もっとも、万感交々あって逸り立つ心を「初しぐれ」に托したとすれば、例外と心得て遣う季こそむしろふさわしいだろう。いずれにしろ、俳諧師が遣う季語に晩秋・初冬というあいまいな認識はない。事実がいかにあれ句は初冬の句だ。
《引用終了》
とある。長野峠は三重県津市と伊賀市の間にある峠。老婆心乍ら、「逸り立つ」は「はやりたつ」(心が勇み立つ/気負い立つ)と読む。安東氏は寧ろ、元禄二年の立冬であった九月二十四日よりも少し前に詠まれたものとした方が、より俳諧師の感懐を伝えるであろうという立場を採っておられる。因みに、今年二〇一四年の立冬は今日から二日後である十一月七日であるから、節気の附合から言うなら、今年の今日は逆に安東の謂いにしっくりとくるということにもなろう(なお、後掲する中村俊定校注本「猿蓑」の脚注では、この峠越えを九月二十日前後、山本健吉「芭蕉全句」(講談社学術文庫二〇一二年刊)では九月二十日以前と推定している)。
周知の如く、本句は去来・凡兆の編になる蕉門句集の最高峰とされる撰集「猿蓑」の標題ともなり、またその集初に配された時雨の句十三句の冒頭に掲げられた句である。門弟十二人の時雨を従えたこれはまさに芭蕉会心の一境地であったことを如実に物語るものである。以下にその時雨十三全句を示す(底本は中村俊定校注昭和四一(一九六六)年岩波文庫版を用いた)。
*
猿蓑集 卷之一
冬
初しぐれ猿も小簑をほしげ也 芭蕉
あれ聞けと時雨來る夜の鐘の聲 其角
時雨きや並びかねたる魦(いさざ)ぶね 千那
幾人かしぐれかけぬく勢田の橋
僧丈艸
鑓持の猶振(ふり)たつるしぐれ哉 膳所正秀
廣沢やひとり時雨るゝ沼太良 史邦
舟人にぬかれて乘(のり)し時雨かな 尚白
伊賀の境に入て
なつかしや奈良の隣の一時雨 曾良
時雨るゝや黑木つむ屋の窓あかり 凡兆
馬かりて竹田の里や行(ゆく)しぐれ
大津乙刕
だまされし星の光や小夜時雨 羽紅
新田(しんでん)に稗殼(ひえがら)煙るしぐれ哉
膳所昌房
いそがしや沖の時雨の眞帆片帆 去來
*
簡単に語注を施しておく。
・「魦」本句のロケーションは琵琶湖であり、さすればこれは琵琶湖固有種であるスズキ目ハゼ亜目ハゼ科ゴビオネルス亜科ウキゴリ属イサザ Gymnogobius isaza を指す。琵琶湖沿岸以外での「魦」(イサザ・イサダ)という呼称はシロウオやイサザアミなど本種以外の動物を指すので注意(ここはウィキの「イサザ」を参照した)。
・「沼太良」は「沼太郎(ぬまたろう)」で大きな雁或いはカモ科マガン属ヒシクイ
Anser fabalisともいう。
・「ぬかれて」「抜かれて」で、のせられて、欺されて、の意。
・「黑木」洛北大原辺りにて産した、燃えやすいように生木を燻製した薪のこと。
・「竹田の里」京から伏見に向かう途中の街道沿にある。
・「いそがしや沖の時雨の眞帆片帆」この句について去来は「去来抄」で、
去来曰、猿ミノハ新風の始、時雨は此集の美目なるに、此句仕そこなひ侍る。たゞ有明や片帆にうけて一時雨といはゞ、いそがしや眞帆もその内にこもりて句のはしりよく、心のねばりすくないからん。先師曰、沖の時雨といふも、又一ふしにてよし。されど句ハはるかにおとり侍ると也。
と記している。――「猿蓑」は新風の始め、時雨はこの集の眉目――とあることに注目されたい。
また、本撰集「猿蓑」には其角のものした以下の序がある。私の偏愛する、「撰集抄」第五の「骨にて人を造る事」を素材にした私の大変好きな文章であるので以下に全文を引く。
*
晉其角序
俳諧の集つくる事、古今にわたりて此道のおもて起(おこす)べき時なれや。幻術の第一として、その句に魂の入(いら)ざれば、ゆめにゆめみるに似たるべし。久しく世にとゞまり、長く人にうつりて、不變の變をしらしむ。五德はいふに及ばず、心をこらすべきたしなみなり。彼(かの)西行上人の、骨にて人を作りたてゝ、聲はわれたる笛を吹(ふく)やうになん侍ると申されける。人には成(なり)て侍れども、五の聲のわかれざるは、反魂の法のをろそかに侍(はべる)にや。さればたましゐの入(いり)たらば、アイウエヲよくひゞきて、いかならん吟聲も出(いで)ぬべし。只俳諧に魂の入(いり)たらむにこそとて、我(わが)翁行脚のころ、伊賀越(ごえ)しける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神を入(いれ)たまひければ、たちまち断腸のおもひを叫びけむ、あたに懼(おそ)るべき幻術なり。これを元として此集をつくりたて、猿みのとは名付(なづけ)申されける。是が序もその心をとり魂を合せて、去來凡兆のほしげなるにまかせて書。
元祿辛未歳五月下弦 雲竹書
*
簡単に語注する。
・「おもて起べき」は面目を施さんがため、面目躍如たらん、といった謂い。
・「句に魂の入」るというのは『句に姿情花實そなはりて言外の餘意あるをさしていふ』と底本の中村氏の脚注に「逆志抄」より引く(「逆志抄」は樨柯(さいか)坊空然著になる評釈書「猿みのさがし」、別名「猿蓑逆志抄」のこと)。
・「不變の變」芭蕉の不易流行に基づく謂い。不変(不易)にしてしかも流行すること。
・「あた」元来は接頭で名詞や形容詞などに付いて(原義では不快の念を込めながら)程度の甚だしいことを強調する意を表す。ここは単に強調語として「あたに」(仮想された「あたなり」の連用形が副詞化したものか)と、「まさに」「まさしく」というニュアンスで使われたものであろう。
・「雲竹」底本の中村氏の脚注に『北向氏、通称八郎衛門、芭蕉書道の師という。元禄十六年没。七十二歳』とある。
ここでは其角が本句を――ただ、「俳諧に魂の入りたらむにこそ」とて、我が翁、行脚の頃、伊賀越えしける山中にて、猿に小蓑を着せて、俳諧の神(しん:魂。)を入れたまひければ、たちまち、斷腸のおもひを叫びけむ、まさに懼るべき幻術なり――と、子を求めて舟に飛び込み断腸の絶唱の声を挙げた、かの唐土の母猿を諧謔しつつ、絶賛してことに着目されたい。「猿蓑」の構成、この其角の序や去来の追懐から見ても、芭蕉自身が本句を自身のエポック・メーキングな特異点の句と自認していたこと、門人たちがこの師の今までにない、「軽み」というユーモアとペーソス(山本健吉氏は「芭蕉全句」で本句の軽快なリズムを述べた後、しかしそ『の奥に、単に小猿への哀憐には止まらない、人間存在の根源から発するどこか厳粛な観念を匂わせるものがある。それが芭蕉の詩のウィットなのだ』と評しておられる)、その神韻の混淆に、心底驚愕驚嘆したさまが、手にとるように見てとれるのではないか。
私は十代の若き日より、実は一度として本句を微笑みながら鑑賞したことは――ない。――
――それは
――この寒々とした小猿自身こそ――私――だからに――他ならない……]
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