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2014/11/23

偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅷ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして 芭蕉葬送―― 上巻 了

 大坂花屋より支考・惟然が二日に仕出の狀、羅漢寺の僧伊勢に急用有て參るよしを、花屋よりしらせければ、是幸ひと賴つかはしけるに、此僧奈良に著たる日より、痢疾にて歩行かなはず、やむことを得ず奈良に滯る。夫故十一日朝、伊賀上野に行人あるを聞つけゝれば、右の狀を仕出しけり。此狀、十二日の暮ごろに上野に屆きけり。土芳・卓袋ひらき見るより大に驚き、とる物もとりあへず松尾氏に參りたれば、是も同時に書狀著せりと云。夫より兩人は、したためそこそこにして、子の刻過より、兼て案内しりたる近道にかゝり、大和の帶解までたゞいそぎに急ぎけれど、月入ての事なれば、くらさはくらし、小路の事ゆゑ、挑灯も消ぬれば、其夜の明がたに帶解に著く。相知れる方に暫らく休らひて、したゝめなどし、是よりくらがり峠を越れば、大坂までは八九里には過ず。さらばとて、足にまかせてくらがり峠を越え、俊德海道をたゞ急にいそぎ【今の地方を以て見れば、くらがりの峠をこして俊德街道に出ず。十三峠とくらがり峠をおもひ誤れるなるべし[やぶちゃん字注:国会図書館版では「地方」は「地圖」となっており、「くらがりの峠をこして俊德街道に出ず」の箇所は「くらがり峠をこしはて俊德街道に出ず」となっている。後者は「越しては」の誤植かとも思われる。]。】、平野口より御城の南をかけぬけ、直に久太助町花屋にかけつけたるは、十三日の暮頃なり。何がなしに、翁の御病氣いかにと問ければ、仁左衞門しかじかと答ふ。爾人ともに殘念まうすばかりなく、さらば葬送なりとも逢ひたてまつらんとて、又ひきかへし、八軒屋にかけ行。幸ひ出船ありければ、其まゝ飛乘り、伏見京橋に著しは夜明也。直に飛下り狼谷にかゝり、義仲寺に著しは、未入棺し給はざるまへなりければ、諸子に斷りて、死顏のうるはしきを拜しまゐらせ、悲歎かぎりなく、一夜も病床に咫尺せざる事をかきくどきけれど、まづ因緣の深きことを身にあまり有がたく、嬉しく燒香につらなりけり。(〔土芳・卓袋〕物語)

 

 十二日暮に伏見を出舟したる臥高・昌房・探芝・牝玄・曲翠等は、其夜何處にて行違ひたるやらん、夜明て大坂に著。直に花屋にはせたるに、諸子御骸を守り奉りて、のぼり給ひぬと聞より、直に又十三日の晝船に大坂より引かへし、其夜酉の刻にふしみにつく。夜半頃に大津に歸る。(昌房物語)

 

 義仲寺眞愚上人、住職なれば導師なり。三井寺常住院より弟子三人まゐられ、讀經念佛あり。御入棺は其夜酉の刻なり。諸門人通夜して、伊賀の一左右をまつ。夜に入ても左右なし。去來・其角・乙州等評議して、葬式いよいよ十四日の酉上刻と相究む。晝のうちより集れる人は雲霞のごとく、帳にひかへたる人數凡そ三百人餘。しるしらぬ近郷より集る老若男女までをしみ悲しむ。時しも小春の半にて、しづかに天氣晴たわり、月淸朗として湖水の面にかゞやき渡り、名にし粟津のまつに吹起るは、無常の嵐かとおもはれて、月はおもしろきもの、露は哀なるものといへれど、折にふれては何かあはれ成ものならざらむ。矢橋の漣のよするひゞきも、愁人のためには胸にせまり泪を添ふ。(支考記)

 

     引導香語

雪月魂魄。風花精神。等閑一句。驚動人天。嗚呼。奇哉芭蕉。妙哉芭蕉。萬里白雲。一輪明月。五十一年。一字不説。

     各捻香

 丈草 其角 去來 李由 曲翠 正秀

 木節 乙州 臥高 惟然 昌房 探芝

 泥足 之道 芝栢 牝玄 尚白 土芳

 卓袋 許六 丹野 風國 野童 遊刀

 野明 角上 胡故 蘇葉 靈椿 素顰

 囘鳬 萬里 誐々 這萃 荒雀 楚江

 木枝 朴吹 魚光 支考

 諸國代香不記

 右の外近江國中は申に及ばず、京・大坂・美濃・尾張・伊勢・其外國々より京などに登りゐたる諸國の人々、三世値遇の緣をよろこび、我も我もと香手向奉る。其數何百人といふ數しれず。境内狹ければ、表より入たる人は裏へぬけ出るやうにしつらひ置、田の刈跡に道をつけゝれば、燒香の人々はすべて裏へぬけゝるにぞ、さして騷がしき事もなく、葬埋をはりけるは、子の時過になりにける。翁かねて遣命の通り、木曾殿の右のかたに埋葬し奉りけり。

十五日 去來・其角はじめ、膳所・大津の人々、朝疾詣して、先とて土かきあげて卵塔をかたどり、幸ひ塚のうしろに、年ふりたる柳あるをそのまゝにし、御名の形見とて、枯々の芭蕉を一本、兼てこのみ給ひたる茶の木の、今を盛りなる花とともに移し植て、竹もて垣ゆひまはし、香花を手向奉りけり。日のもと廣しといへども、生前に其名豐葦原の浪に響き、其德芙蓉の絶頂に竝ぶ。人丸・赤人のむかしはいざしらず、末代の今にしては實に我翁一人といふべし。

 

[やぶちゃん注:以下の遺筆軸物は底本では全体が三字下げ。]

御先に立候段、殘念に可被思召候。如何樣とも又右衞門便に被成御年被寄、御心靜に御臨終可被成候。至爰申上事無御座候。市兵衞・治右衞門殿・意專老初、不殘御心得奉賴候。中にも十左衞門殿・半左殿、右之通に候。はゝ樣、およし、力落し可申供。以上

  十月十日           桃 靑

                  〔花押〕

 松尾半左衞門樣

新藏は殊に骨被折忝候。

【此一軸再形庵什物。】

【市兵衞 雪芝 事】

【治右衞門 苔蘇 事】

【意專 猿雖 事】

【十右衞門 半殘 事】

【半左衞門 士芳 事】 

 

翁反故上

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