飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 冬
〈昭和十三年・冬〉
花温室二時日輪は虧けはじめけり
今日もはく娑婆苦の足袋の白かりき
すゝり泣く艶容足袋を白うしぬ
寒うして賣僧のしたる懷ろ手
冬かすみして誕生の窓の燭
萬年靑の實蝸盧の年浪流れけり
[やぶちゃん注:「蝸盧」は「かろ」で蝸牛の殻に喩えて小さい家、狭く粗末な住居、転じて自分の家のことを遜っていう語。]
こゝろもち寒卵とておもかりき
寒卵嚥(くんの)み世故を囁けり
遊龜公園
一蓮寺水べの神樂小夜更けぬ
[やぶちゃん注:「遊龜公園」既注。]
煖爐燃え蘇鐡の靑き卓に倦む
寒ゆるむ螺階は蠱(まじ)の光り盈つ
[やぶちゃん注:「蠱」は原義は呪(まじな)いによって相手を呪うことやその術をいうが、ここは、そこから転じた、人を惑わすもの、魔性の気配をいう。]
末弟結婚式後、S―園に晩餐を共にす
着粧ふ座邊(ざべ)の電氣爐あつすぎぬ
うす靄の日に温室(むろ)の娘は働けり
身延山
冬山に數珠賣る尼が栖(すみか)かな
二子塚所見
斃馬剝ぐ大火煙らず焚かれけり
[やぶちゃん注:馬が登場するところからは、長野県飯田市竜丘にある塚原二子塚古墳か? 五世紀後半頃、この地方が馬の生産を通じて中央の政権と深く関わり、国内屈指の馬生産を誇っていたと考えられており、古墳の発掘品の中には馬具がある旨、加茂鹿道&姫河童氏のサイト「信州考古学探検隊」の「塚原二子塚古墳」の飯田市教育委員会による現地案内板解説にある。]
冬耕の婦がくづほれて抱く兒かな
嶺々そびえ瀨音しづみて冬田打
新墾(にひばり)野照る日あまねく冬耕す
月いでて冬耕の火をかすかにす
放牧の冬木に胡弓ひく童あり
久しく病牀にありし白石實三、十二月二日
午後二時五十分遂に永劫不歸の客となる
臘月の大智おほよそ寒むかりき
[やぶちゃん注:「白石實三」(明治一九(一八八六)年~昭和一二(一九三七)年)は小説家。群馬県生まれ。早稲田大卒。田山花袋に師事。当初は自然主義的な作品を発表したが、後に武蔵野の地誌・歴史に関心を持ち、「武蔵野巡礼」「大東京遊覧地誌」などを執筆した。著作に「姉妹」「滝夜叉姫」など。蛇笏とは早稲田吟社時代からの旧知であった。享年五十二。蛇笏より一つ年下であった。]
うそぶきて思春の乙女毛絲編む
雲間出る編隊機あはれ寒日和
凍花めづ暖房の牕機影ゆく
[やぶちゃん注:「牕」は「まど」。窓。]
白晝の湯を出て寒の臙脂甘し
[やぶちゃん注:「臙脂」は「べに」と読んでいるものと思われる。湯上りの女の口の紅であろうか。]
曳きいでし貧馬の鬣(かみ)に雪かかる
冬鵙のゆるやかに尾をふれるのみ
馬柵の霜火山湖蒼くなりにけり
鷗とび磯の茶漁婦に咲きいでぬ
K―院境内に存する嵐外の書
「山路きて何やらゆかしすみれ草、はせを」
の句碑いと碑蒸したり
茶の木咲きいしぶみ古ぶ寒露かな
[やぶちゃん注:「嵐外」江戸後期の俳人辻嵐外(明和八(一七七一)年~弘化二(一八四五)年)と思われる。敦賀に生まれ、通称は政輔、別号に六庵・南無庵・北亭・梛の屋等。久村暁台・高桑闌更らに師事した。超俗的洒落の人で、後に藤田可都里に師事して甲府に住し、「甲斐の山八先生」と称されて敬愛された。現在の南アルプス市落合にある成妙寺に墓がある。「K―院」とあるが、笛吹市境川町藤垈(さかいがわちょうふじぬた)に万亀山向昌院(こうしょういん)という寺があり、ここに嵐外書になる「山路來て何やらゆかしすみれ草」の碑があることがサイト「ムーミンパパの旅日記」のこちらのページで判明した。もここに間違いない。リンク先によれば天保一四(一八四三)年建立とある。]
寒の雞とさかゆらりともの思ふ
金剛纂(やつで)咲き女醫に冷たき心あり
[やぶちゃん注:私好みの句である。]
苺熟る葉の焦げがちに冬かすみ
波奏(かな)で神護(まも)りもす冬いちご
いちご熟れ瑠璃空日々に深き冬
あるときは雨蕭々と冬いちご
冬いちご摘み黄牛(あめうし)を曳く娘かな
めざしゆく大刑務所の雪晴れぬ
電気爐の翳惱ましくうつろへり
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