現存する松尾芭蕉最後の書簡――芭蕉の末期の病床にシンクロして――
[やぶちゃん注:近江蕉門である膳所の菅沼曲水宛書簡。元禄七年九月二十五日附(グレゴリオ暦では一六九四年十一月十二日に相当する)。発信場所は洒堂亭か。これが現存する芭蕉生前最後の書簡である。
菅沼曲水(万治二(一六五九)年~享保二(一七一七)年)は近江国膳所(現在の滋賀県大津市)出身の武士。曲翠とも。本名は菅沼定常、通称は外記。徳川家康に従った菅沼定盈(さだみつ)の曾孫。膳所藩(本多家)では中老として重きを成しながら、近江蕉門の重鎮にして芭蕉のパトロン的存在でもあった。江戸在府中に芭蕉の門人となったが、芭蕉は初対面で「ただ者に非ず」と感じたとされる。芭蕉は「奥の細道」の旅を終えた後、膳所で越年して帰郷、その元禄三(一六九〇)年春に膳所を再訪、四月六日から七月二十三日まで、現在の滋賀県大津市国分にある近津尾(ちかつお)八幡宮境内にあった故菅沼定知(曲水の伯父)の別荘幻住庵に滞在、知られた名筆「幻住庵の記」を残したが、そこでは「勇士菅沼氏曲水子」と記している。彼は後の享保二(一七一七)年、不正を働く家老曽我権太夫を槍で一突きにして殺害、自らも切腹自害した。芭蕉と同じ義仲寺に眠る。
底本は新潮古典集成富山奏校注「芭蕉文集」を用いたが、恣意的に正字化し、読点と読みも増やした。句の読みは私の好みから排除した。最後に富山氏の注その他を参考に、簡単な注を附した。]
遊刀(いうたう)貴墨(きぼく)、かたじけなく拜見つかまつり、伊州(いしふ)へも素牛(そぎう)たよりに御細翰(ごさいかん)、文章・玉句、感心、且つは過ぎつる昔も思ひ出でられ候。このたび、また御句あまた、感心つかまつり候。御秀作も少々相(あひ)見え候。是非存知寄り申し上ぐべく候へども、なにかと心いとま御座無く、取り重なり候あひだ、暫時閑暇を得候時分、委細貴報申し上ぐべく候。さて、洒堂一家衆(さだういつけしゆう)、そこもと御衆(おんしゆう)、たつて御勸め候につき、わりなく杖(つゑ)をひき候。おもしろからぬ旅寢(たびね)の躰(てい)、無益(むやく)の歩行(ありき)、悔み申すばかりに御座候。まづ伊州にて山氣(さんき)にあたり、到着の明くる日より寒氣(さむき)・熱・晩々におそひ、やうやう頃日(けいじつ)、常の持病ばかりに罷(まか)り成り候。ここもと、おつつけ、發足(ほつそく)つかまつるべく候。もしくは貴境(ききやう)へめぐり申すべくやと、支考なども勸め候へども、まづ大寒(たいかん)いたらざる内に伊勢まで參り候て、その後の勝手につかまつるべく候。伊賀より大坂(おほざか)まで十七八里、ところどころ歩(あゆ)み候て、貴樣行脚(きさまあんぎや)の心だめしにと存じ奉り候へども、なかなか二里とは續きかね、あはれなるものにくづほれ候あひだ、御同心、必ず御無用に思(おぼ)し召し候。隨分おもしろからぬことと、御合點(おんがてん)なさるべく候。達者なる若法師めしつれられ候はんこそ、珍重たるべく候はん。ここもと愚句、珍しき事も得つかまつらず候。少々ある中に、
秋の夜を打ち崩したる咄かな
この道を行人なしに秋の暮
「人聲やこの道かへる」とも、句作り申候。京・江戸の狀したため候折ふしに御座候て、早々、何事をもわきまへ申さず候。以上
ばせを
(書判)
九月二十五日
曲翠樣
貴存
なほなほ子供たち御無事のよし、めでたく存じ奉り候。
□やぶちゃん注
・「遊刀」膳所住の近江蕉門の一人。この時、たまたま大阪に来ていた。
・「貴墨」あなたの手紙。曲水はこの遊刀に来阪していることを聴いた芭蕉への書簡を託したのである。
・「伊州」伊賀。
・「素牛たより」これに先立つ同年の夏、曲水は伊賀に芭蕉を訪ねた美濃蕉門の廣瀬素牛(惟然)にもやはり書簡を託していた。
・「存知寄り申し上ぐべく候へども」それらの句について小生の感じたことを申し上げたく思っていたのですが。
・「取り重なり」瑣事多忙にして。
・「洒堂一家衆」膳所出身の近江蕉門であったが、この頃、大阪に移住して一家を成していた浜田酒堂一門のこと。既に各所で述べた通り、大坂蕉門の槐本(えのもと)之道一派と決定的な対立を起こしており、芭蕉の来阪もその仲介が目的であった(見た目は和解したように見えたが実際には不首尾であった)。この辺りは、「今日の芭蕉シンクロニティ この道を行く人なしに秋の暮」の私の注に引いた先立つ九月二十三日附窪田猿雖(えんすい)・服部土芳宛なども参照されたい。
・「そこもと御衆」曲水を始めとする膳所の近江蕉門。水田正秀らが特に仲裁の要請を芭蕉に懇請していた。以下、それを「わりなく」(仕方なく気が進まぬままに)受けた結果が「おもしろからぬ旅寢」「無益の歩行」であった、「悔み申すばかり」と、やや恨み言を含んだ謂いに読める。
・「山氣」山地独特の激しい温度差を伴う寒冷現象を指すか。
・「頃日」近頃になって。
・「常の持病」芭蕉は難治性の痔の外、推定で胆石症かとも思われるような疝痛や半ば習慣的となっていた胃痙攣の症状もあったらしい。
・「おつつけ」追っ付け。近いうちには。さっさと。
・「發足」旅立ち。
・「貴境へめぐり申すべくや」一つ、穏やかなあなた(曲水)のおられる膳所へ廻って見られては如何ですか?
・「大寒」ここは本格的な寒さの謂い。
・「勝手につかまつる」後はその折りの状況に合わせて対処したい。
・「貴樣行脚の心だめし」あなたと二人の吟行のためのウォーミング・アップ。富山氏注に、支考の「芭蕉翁追善之日記」によれば、曲水は『芭蕉と共に大和地方を行脚することを計画していた』とある。
・「御同心」私との同行(どうぎょう)の行脚。
・「隨分おもしろからぬことと、御合點なさるべく候」かくなる脆弱となり果てたる私との同行行脚では、如何にも不快なる旅となりますことと、御理解の上、どうか、お諦め下さいませ。
・「達者なる若法師」富山氏注に支考や素牛(惟然)を指すとある。二人とも僧形(支考は還俗していたが終生、僧形を通した)であった
・「珍重」俳諧連歌に於ける褒め言葉の常套語。至極結構。
・「ここもと」最近の私の。
・「秋の夜を打ち崩したる咄かな」本書簡を認める四日前の九月二十一日の夜、車庸(しゃよう)亭で興行された車庸・洒堂・游刀(ゆうとう)・諷竹(之道)・惟然・支考による七吟半歌仙(しかしこれは歌仙を半ばで打ち切ったもののようにも思われる)の発句。この夜会こそがまさに対立する洒堂と之道二人の不和を和ませようとするものであったのだが、実は十八句の内、之道は五句目の一句しか詠んでいない。芭蕉の――秋の夜の寂寥を一気に「うち崩す」ようなこの賑やかな夜の宴――という表面上の謂いが、「崩す」という不穏な響きとともに、逆に決裂している二人の間の深い底知れぬ闇と、その場の秋の一層の心の侘しさを厭が上にも感じさせる荒涼とした句として、私はずっとこの句を読んできた(この注については安東次男「芭蕉百五十句」を参考にした)。
・「この道を行人なしに秋の暮」以下の改案提案も含め、先にリンクした私の「今日の芭蕉シンクロニティ この道を行く人なしに秋の暮」を参照されたい。
・「子供たち」富山氏注に、芭蕉が以前の膳所滞在中、親しんだ曲水の息子竹助らに対して格別の『親愛感を持っていた』ことが先行する書簡にあることを示唆しておられる。
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