甲子夜話卷之一 24 羽州秋田、狐飛脚の事
24 羽州秋田、狐飛脚の事
是は昔のことなり。正しき物語と聞ゆ。羽州秋田に何狐とか云ありて、此狐人に馴て且よく走る。因て秋田侯の内にて、書信ある毎には、其狐に託して書翰を首に繞ひやれば、即江戸に通ず。其捷速を以て屢此獸の力を假る。然に或時書信達せず。人甚疑ひ訝て其行塗を授求るに、途中大雪に傷しと見へて、雪中に埋れてありしとぞ。晉の陸機が犬の故事に類せることなり。
■やぶちゃんの呟き
「繞ひ」「まとひ」。
「行塗」「かうと(こうと)」。「塗」は「途」に同じい。
「晉の陸機が犬の故事」fatboy fat 2 氏のブログ「備忘録と個人的見解」の「キツネの飛脚」に、『晋の陸機は、三国志で有名な呉の軍師、陸遜の孫にあたる。述異記によれば飼っていた犬の名前は「黄耳」といった。故郷の様子を知りたい陸機は、黄耳に手紙を届けることができるかと訊ねたところ、尾を振ったので、試しに首に括りつけてやると、無事返事を持ち帰った。50日かかるところをたった半月で往還。後に、犬が死に、憐れんで、塚を作った。人呼んで黄耳塚といった』とある。陸機(二六一年~三〇三年)は西晋の文学者・政治家・武将。書家としても知られた。なお、同記事には、この話柄について、『佐竹義宣のブレーンであった渋江内膳が、秋田の横手から江戸まで、佐竹氏転封の際、解雇された旧家臣を使い、雪中の中10日で、手紙を届けたという話がある。おそらく、この話を、徳川家に警戒されないよう(未だ関東に隠然たる勢力を持つことを誇示しているかの態度)、陸機の故事になぞらえ、当時不思議な生き物として考えられた狐を使って、世間に流布させたのではないかと思われる。途中で手紙が届かなくなったのは、その旧家臣が途中で殺されたか、幕府の警戒を解くためにやめたのかはわからないが、狐の死ということで片づけたのではなかろうか?』という、痒いところに手の届く解説がある(fatboy fat 2 氏の記事がなければ恐らくこの注を附すのに半日かかった多く引用させて戴いたが、ここで謝意を表しておきたい)。引用中の「佐竹義宣」(元亀元(一五七〇)年~寛永元(一六三三)年)は出羽久保田藩(秋田藩)初代藩主。かの伊達政宗は母方の従兄に当る。関ヶ原後の慶長七(一六〇二)年五月に常陸水戸五十四万石から出羽秋田二十万石へ減転封された(但し、佐竹氏の正式な石高の決定は二代藩主佐竹義隆の代)。参照したウィキの「佐竹義宣」によれば、この減転封は『無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざける狙いがあったとする説がある』とある。「渋江内膳」は渋江政光(天正二(一五七四)年~慶長一九(一六一四)年)の通称。元は下野国小山秀綱家臣荒川秀景の子であったが秀吉の小田原征伐の際に抵抗した小山氏は改易され、政光も浪人となった。しかし、政光の才能を見込んだ佐竹氏家臣人見藤道の推挙で義宣に仕え、佐竹家重臣渋江氏を相続、義宣は家中改革断行のため、慶長八(一六〇三)年に二十九歳の若さでこの政光を家老に抜擢しようとした。参照したウィキの「渋江政光」によれば、ところが、『他家の旧臣である政光らの抜擢に譜代の家臣からの不満が高まり、遂には義宣と政光の暗殺を企てた家老川井忠遠らが逆に粛清されるという事件(川井事件)まで起こっている。この影響で政光の家老昇格は一旦見送られ、正式に家老に任じられたのは』四年後の慶長十二年だったとある。政光は佐竹氏の新たな居城たる久保田城築城に従事、検地制度の改革などを実施、『農業生産と藩財政の安定に尽力した。これを渋江田法(しぶえでんほう)と呼んで、他藩や江戸幕府も農業政策の参考にしたといわれている』。慶長一九(一六一四)年、『主君・義宣とともに大坂冬の陣に出陣し、今福において後藤基次・木村重成と激突した(今福の戦い)。この際、主君を守って奮戦した政光であったが、最後は流れ弾を受けて』享年四十一の若さで戦死したとある。