甲子夜話卷之一 25 木下淡路守公定、槍術の事
25 木下淡路守公定、槍術の事
足守侯の先代、木下淡路守公定と云しは、槍の達人なり。其槍穗、殊に小にして柄長し。即今の足守侯出行に持す所の槍是なり。予が先、加藤氏〔大洲侯〕の先も、皆その門人なり。世稱して淡路流と云しと。予此人の事蹟を聞に、槍を以て技を抗するとき、まづ槍刄を掌中に握て露さず。人因て戰べき物を知らず、突進てかゝるに輙其刄を發し遠く刺す。人因て當ること能はず。これを無形の構と謂ふとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「足守」足守(あしもり)藩。備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。藩庁を足守陣屋、現在の岡山県岡山市北区足守に置いていた。
「木下淡路守公定」足守藩第五代藩主木下㒶定(きんさだ、承応二(一六五三)年~享保一五(一七三一)年)を指しているが、彼は肥後守である。㒶定はこれが正式な名であるが、「公定」で代用されることが多いと、参照したウィキの「木下㒶定」にある(以下もその記載に拠る)。㒶定は、一般には元禄一四(一七〇一)年三月の赤穂事件で浅野長矩改易の際に龍野藩主脇坂安照とともに赤穂城の受取役を務めたことで知られ、宝永五(一七〇八)年には仙洞御所と中宮御所の普請で功を挙げている。『藩政においては「桑華蒙求」を著して家臣教育に務めるとともに、果樹栽培を奨励し、領民を豊かにしたと言われている。また、祖父の利当が開いた淡路流槍術の達人でもあった』とある。調べてみると、淡路守であったのはこの槍術の開祖である第三代利当(としまさ)、続く第四代利貞、下って静山の頃の文字通り、先代であった第八代利彪(としとら)がそうであるから、開祖と直近のそれとで間違えたものか。
「加藤氏〔大洲侯〕」底本では「加藤氏の〔大洲侯〕」となっているが、読み難いので、かく位置を動かした。これは「おほず(おおず)」と読む、大洲藩は伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩。藩主は静山が本書を書き始めた当時なら第十代加藤泰済(やすずみ 天明五(一七八五)年~文政九(一八二六)年)であった。その「先」で木下㒶定の門弟となり得るとすれば、第三代の泰恒か第四代泰統(やすむね)、以下泰済までの代々藩主が同門流であったということであろう。
「輙」「すなはち」。
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