冷めたい場所で 伊東靜雄 解説 (9年目の再掲)
これは、9年前、実にブログを開設して15日後の2005年7月20日にブログに『「冷たい場所で」解説』として書いたものだが、思うところあって、再掲することにした(元はそのまま残してある)。その際に伊東静雄の詩や萩原朔太郎の評の表記の一部、を正字化(一部は原本の誤りを補正)し、多少、手を加えたことは断っておく。冒頭の「HPトップの詩」とあるが、当時、僕は頻繁にサイト・トップの冒頭(現在はずっとヴィトゲンシュタインの言葉に固定してある)を替えていた。この頃、以下の伊東静雄の「冷めたい場所で」を掲げていたのであった。
……因みに……この翌日、僕は右腕首を美事、粉微塵に粉砕したのであった…………
*
HPトップの今の詩が、良くわからないというメールを頂いた。昨日は(まだ今夜のつもりだが)、いささか疲れることと嬉しいこととが拮抗した。とりあえず、メモ。
私が愛し
そのため私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
眞白い花を私の憩ひに咲かしめよ
昔の人の堪へ難く
望郷の歌であゆみすぎた
荒々しい冷めたいこの岩石の
場所にこそ
◆恋の喪失者/それは真に故郷喪失者(漂泊者)/その哀しみ……
◆しかし、彼女には太陽が輝く幸福な未来よ、あれ
◆敢えて言えば、失恋した私には一本の真白い花[弔花?]を咲かせてくれればそれでよい。それが分相応だ。
そしてその花は
「昔のひと」~静雄以前の故郷を喪失した詩人達が
「歩み過ぎた」~「堪へ難く」て、とどまることなく足早に走り過ぎて行った(過ぎ行くべきでは、実はなかった)場所
だから、何者にも、悼まれることのなかった、この孤独な私が立つ「荒々しい冷たい岩石の場所にこそ」まさにふさわしい(だから咲かせてくれ)
「伊東君の抒情詩には、もはや靑春の悦びは何處にもない。たしかにそこには、藤村氏を思はせるやうな若さとリリシズムが流れて居る。だがその『若さ』は、春の野に萌える草のうららかな若さではなく、地下に堅く蹈みつけられ、ねぢ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである。』……『これは慘忍な戀愛詩である。なぜなら彼は、その戀のイメーヂと郷愁とを、氷の彫刻する岩石の中に氷結させ、いつも冷めたい孤獨の場所で、死の墓のやうに考へこんで居るからである。」(萩原朔太郎 「わがひとに與ふる哀歌」評/雑誌「コギト」昭和一一(一九三六)年一月号)
これで如何?
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