芭蕉翁終焉記 其角 (後)――芭蕉の末期の病床にシンクロして――
以下を読むと、芥川龍之介の「枯野抄」で、如何にも如何にも芥川好みの言い掛けの語とばかり思い込んでいた、最初の其角の描写の中の、
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「では、御先へ」と、隣の去來に挨拶した。さうしてその羽根楊子へ湯呑の水をひたしながら、厚い膝をにじらせて、そつと今はの師匠の顏をのぞきこんだ。實を云ふと彼は、かうなるまでに、師匠と今生の別をつげると云ふ事は、さぞ悲しいものであらう位な、豫測めいた考もなかつた譯ではない。が、かうして愈末期(まつご)の水をとつて見ると、自分の實際の心もちは全然その芝居めいた豫測を裏切つて、如何にも冷淡に澄みわたつてゐる。のみならず、更に其角が意外だつた事には、文字通り骨と皮ばかりに瘦せ衰へた、致死期の師匠の不氣味な姿は、殆面を背(そむ)けずにはゐられなかつた程、烈しい嫌惡の情を彼に起させた。いや、單に烈しいと云つたのでは、まだ十分な表現ではない。それは恰も目に見えない毒物のやうに、生理的な作用さへも及ぼして來る、最も堪へ難い種類の嫌惡であつた。彼はこの時、偶然な契機(けいき)によつて、醜き一切に對する反感を師匠の病軀の上に洩らしたのであらうか。或は又「生」の享樂家たる彼にとつて、そこに象徴された「死」の事實が、この上もなく呪ふ可き自然の威嚇だつたのであらうか。――兎に角、垂死の芭蕉の顏に、云ひやうのない不快を感じた其角は、殆何の悲しみもなく、その紫がかつたうすい脣に、一刷毛の水を塗るや否や、顏をしかめて引き下つた。尤もその引き下る時に、自責に似た一種の心もちが、刹那に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じてゐた嫌惡の情は、さう云ふ道德感に顧慮すべく、餘り強烈だつたものらしい。
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この、私なんぞは、素敵におぞましいものとばかり感じていた「致死期」(下線太字やぶちゃん)という単語が実はまさに、この其角の終焉記に出る「知死期」という語を巧みにインスパイアしたのだということが分かる。
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九日・十日はことにくるしげ成に、其角、和泉の府淡の輪といふわたりへまいりたるたよりを、乙州に尋ねられけるに、なつかしと思ひ出でられたるにこそとて、やがて文したゝめて、むかひ參りし道たがひぬ。予は岩翁・龜翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕へ大坂に著て、何心なくおきなの行衞覺束なしとばかりに尋ければ、かくなやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかゞひより、いはんかたなき懷(ヲモヒ)をのべ、力なき聲の詞をかはしたり。是年ごろの深志に通じて、住吉の神の引立玉ふにやと歡喜す。わかのうらにても祈つる事は、かく有るべしとも思ひよらず、蟻通の明神の物とがめなきも、有がたく覺侍るに、いとゞ泪せきあげてうづくまり居るを、去來・支考がかたはらにまねくゆへに、退いて妄昧の心をやすめけり。膝をゆるめて病顏をみるに、いよいよたのみなくて、知死期も定めなくしぐるゝに、
吹井より鶴を招かん時雨かな 晉子
と祈誓してなぐさめ申けり。先賴む椎の木もありと聞えし幻住庵は、うき世に遠し。木曾殿と塚をならべてと有したはぶれも、後のかたり句に成ぬるぞ。其きさらぎの望月の比と、願へるにたがはず、常にはかなき句どものあるを、前表と思へば、今さらに臨終の聞えもなしとしられ侍り。露しるしなき藥をあたゝむるに、伽のものども寢もやらで、灰書に
うづくまる藥の下の寒さ哉 丈草
病中のあまりすゝるや冬ごもり 去來
引張てふとんぞ寒き笑ひ聲 惟然
しかられて次の間へ出る寒さ哉 支考
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもり 正秀
鬮とりて菜飯たかする夜伽哉 木節
皆子也みのむし寒く鳴盡す 乙州
十二日の申の刻ばかりに、死顏うるはしく睡れるを期として、物打かけ、夜ひそかに長櫃に入れて、あき人の用意のやうにこしらへ、川舟にかきにせ、去來・乙州・丈艸・支考・惟然・正秀・木節・呑舟・壽貞が子次郎兵衞・予ともに十人、苫もる雫、袖寒き旅ねこそあれ、たびねこそあれと、ためしなき奇緣をつぶやき、坐禪・稱名ひとりびとりに、年ごろ日比のたのもしき詞むつまじき教をかたみにして、俳諧の光をうしなひつるに、思ひしのべる人の名のみ慕へる昔語りを、今さらにしつ。東南西北に招かれて、つひの栖を定めざる身の、もしや奧松島・越の白山、しらぬはてしにてかくもあらば、聞て驚くばかりの歎ならんに、一夜もそひて、かばねの風をいとふこと本意也。此期にあはぬ門人の思いいくばくぞやと、鳥にさめ鐘をかぞへて、伏見につく。ふしみより義仲寺にうつして、葬禮義信を盡し、京・大坂・大津・膳所の連衆、披官・從者迄も、此翁の情を慕へるにこそ、まねかざるに馳來るもの三百餘人也。淨衣その外、智月と乙州が妻ぬひたてゝ着せまいらす。則義仲寺の直愚上人をみちびきにして、門前の少引入たる所に、かたのごとく木曾塚の右にならべて、土かいおさめたり。をのづからふりたる柳もあり。かねての墓のちぎりならんと、そのまゝに卵塔をまねび、あら垣をしめ、冬枯のばせうを植て、名のかたみとす。常に風景をこのめる癖あり。げにも所は、ながら山・田上山をかまへて、さゞ波も寺前によせ、漕出る舟も觀念の跡をのこし、樵路の鹿・田家の雁、遺骨を湖上の月にてらすこと、かりそめならぬ翁なり。人々七日が程こもりて、かくまでに追善の興行、幸ヒにあへるは予也けりと、人々のなげきを合感して、愚かに終焉の記を殘し侍る也。程もはるけき風のつてに、我翁をしのばん輩は、是をもて囘向のたよりとすべし。
於粟津義仲寺牌位下 晉 子 書
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が四字下げ。句と句の間に空行を設けた。]
元祿七年十月十八日 於義仲寺
追善之俳諧
晋 子
なきがらを笠に隠すや枯尾花
温石さめて皆氷る聲 支 考
行灯の外よりしらむ海山に 丈 草
やとはぬ馬士の緣に來て居る 惟 然
つみ捨し市の古木の長短 木 節
洗ふたやうな夕立の顏 李 由
森の名をほのめかしたる月の影 之 道
野がけの茶の湯鶉待也 去 來
ウ
水の霧田中の舟をすべり行 曲 翠
旅から旅へ片便宜して 正 秀
暖簾にさし出ぬ眉の物思ひ 臥 高
風のくすりを惣々がのむ 泥 足
こがすなと齋の豆腐を世話にする 乙 州
木戸迄人を添るあやつり 芝 柏
葺わたす菖蒲に匂ふ天氣合 昌 房
車の供ははだし也けり 探 芝
澄月の横に流れぬよこた川 胡 故
負々下て鴈安堵する 牝 玄
菴の客寒いめに逢秋の雨 游 刀
ぬす人二人相談の聲 蘇 葉
世の花に集の發句の惜まるゝ 智 月
多羅の芽立をとりて育つる 呑 舟
二
此春も折々みゆる筑紫僧 土 芳
打出したる刀荷作る 卓 袋
四十迄前髮置も郷ならひ 靈 椿
苦になる娘たれしのぶらん 野 童
一夜とて末つむ花を寐せにけり 素 顰
祭の留守に殘したる酒 万 里
河風の思の外に吹しめり 誐 々
藪にあまりて雀よる家 這 萃
鹽賣のことづかりぬる油筒 許 六
月の明りにかけしまふ絈 囘 鳬
秋も此彼岸過せば草臥て 荒 雀
くされた込ミに立し鷄頭
楚 江
小屏風の内より筆を取亂し 野 明
四ツになる迄起さねば寢る 風 國
二ウ
ねんごろに草鞋すけてくるゝ也 木 枝
女人堂にて泣もことはり 晉 子
ひだるさも侍氣にはおもしろく 角 上
ふるかふるかと雪またれけり 之 道
あれ是と逢夜の小袖目利して 去 來
椀そろへたる藏のくらがり 土 芳
呑かゝる煙管明よとせがまるゝ 芝 柏
ふとんを卷て出す藥物 臥 高
弟子にとて狩人の子をまいらする 尚 白
月さしかゝる門の井の垢離 昌 房
軒の露莚敷たるかたゝがへ 丹 野
野分の朝しまりなき空 丈 草
花にとて手廻し早き旅道具 惟 然
煮た粥くはぬ春の引馬 靈 椿
三
小機嫌につばめ近よる塀の上 正 秀
洗濯に出る川べりの石 囘 鳬
日によりて柴の直段もちがふ也 朴 吹
袋の猫のもらはれて鳴 角 上
里迄はやとひ人遠き峯の寺 泥 足
聞やみやこに爪刻む音 尚 白
七ツからのれども出さぬ舟手形 卓 袋
二季ばらひにて國々の掛 芝 柏
内に居る弟むす子のかしこげに 探 芝
うしろ山迄刈寄る萱 游 刀
此牛を三歩にうれば月見して 楚 江
すまふの地取かねて名を付 魚 光
社さえ五郎十郎立ならび 晉 子
所がらとて代官を殿 風 國
三ウ
打鎰に水上帳を引かけて 支 考
乳母と隣へ送る啼兒(ムシ) 正 秀
獅子舞の拍子ぬけする晝下リ
丈 草
雨氣の雲に瓦やく也 昌 房
在所から醫師の普請を取持て 臥 高
片町出かす畠新田 之 道
鳥さしの仕合わろき昏の空 去 來
木像かとて椅子をゆるがす 泥 足
三重がさねむかつくばかり匂はせて 尚 白
座敷のもやうかふる名月 卓 袋
漣や我ものにして秋の天 角 上
經よむうちもしのぶ聖靈 牝 玄
かろがろと花見る人に負れ來て 土 芳
村よりおろす伊勢講の種 芝 柏
ナヲ
暖になれば小鮓のなれ加減 這 萃
軍ばなしを祖父が手の物 臥 高
淵は瀨に薩唾の上を通る也 晉 子
朝日に向きて念珠押もむ 正 秀
幾人の著汚つらん夜著寒し 支 考
わすれて替ぬ大小の額 魚 光
味噌つきは沙禰に力をあらせばや 楚 江
かな聾の何か可笑しき 游 刀
ばらばらと恨之助をとりさがし 風 國
顏赤うするみりん酒の醉 之 道
白鳥の鎗を葛屋に持せかけ 探 芝
三河なまりは天下一番 去 來
飯しゐに内義も出るけふの月 尚 白
功者に機をみてもらふ秋 囘 鳬
ナウ
うそ寒き堺格子の窓明り 芝 柏
文庫をおろす獨山伏 土 芳
浮雲も晴て五月の日の長さ 惟 然
海へも近き武庫川の水 丈 草
寮にゐる外より鎖をかけさせて 牝 玄
思はぬ狀の奧に戒名 支 考
靑天にちりうく花のかうばしく 去 來
巣に生たちて千里鷺 正 秀
右四十三人滿座興行。大津・膳所・
京・嵯峨・攝津・伊賀之連衆也。
各感シテ二愁眉ヲ一而不レ求二巧言一也。
[やぶちゃん注:靈椿の句「四十迄前髮置も郷ならひ」の「郷」の傍線はママ。意味不明。音訓というのもおかしく、連句の何かの約束事を示すものか? 識者の御教授を乞うものである。また、野明の句「小屏風の内より筆を取亂し」の「筆」の右には半角の「?」が附されてある。判読字不審ということか?]
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