偽書「芭蕉臨終記 花屋日記」(Ⅸ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――
文曉という男、これ、とんでもない贋作者だったことがよく解る。底本の小宮豊隆氏の解説によれば、文中の彼による割注にさりげなく記されてある「次郎兵衛日記」というのは、やはり彼の贋作で、彼はちゃっかりここでその広告をしているのである。他にも「凡兆日記」だの『芭蕉關係の僞書を幾つも製造した』とあり、さらに『或文學博士は、この文曉の僞書を、元祿當時のものと信用したらしく、大正時代に、芭蕉關係の貴重な文獻として、是を公けにさへしてゐるのである。文學博士を欺す事の出來るやうな坊主の頭は、心理學的に言つても、十分研究してみる價値があるに違ひない』と、如何にも小宮氏らしい皮肉を述べている(小宮氏のこの解説は昭和一〇(一九三五)年九月十六日のクレジットがある)。
さて、芥川龍之介が本偽書を主素材として「枯野抄」を書いたのは、大正七(一九一八)年(同年十月一日発行の雑誌『新小説』に掲載、後に『傀儡師』等の作品集に収められた)、芥川龍之介二十六歳の時であるが、現在の芥川研究に於いては、例えば伊藤一郎氏は芥川は本書が偽書であると知っていた可能性を示唆している。この伊藤氏の論文「あこがれと孤独――龍之介「枯野抄」の成立考――」(『文学』1982年6月)は未見であるが、勉誠出版刊「芥川龍之介作品事典」では『うすうす偽書だと知っていた』とし、翰林書房「芥川龍之介新辞典」では『偽書と知りつつこの作を利用(取捨)した』と表現に微妙な温度差がある。稀代のストーリー・テラーなればこそ、僕は、芥川は文曉のフェイクを既にして御見通しだったものと理解している。
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翁反故下 花屋日記
十六日 乙州亭に集合して、義仲寺の住持、其外僧徒に禮物、御遣物等の沙汰におよぶ。
[やぶちゃん注:以下の去来其角宛書簡と其角の返信は底本では全体が三字下げ。]
昨夜迄大に御苦勞被成候。扱今日は先師御遺言之通、御遺物夫々配分仕度、其外寺納等之義申談度、且亦伊賀より一向に返事も無之、至而不審に存候。態と人差立申渡に付、拙夫一人之名目少憚存候故、御連名に加入申度、是等之義及御談合度、又明後日一七日に候條、諸國連中退散無之中、於御靈前御追悼俳諧百韵興行仕度、付而者御終焉之記一章貴雅御書被成度、右膝々可申談間、只今より御出座可被下候。萬端は面上可申上候。以上。
十月十六日 去來
其角英雅
御書翰拜讀、御念之御事共忝侯。此間之御辛勞難盡筆頭。扨とよ今日は諸君御集會、先師御遺言之御遺物配分、且寺納其外之勘定可被成旨、又伊賀への御文通に付、拙者立會申候樣被仰聞候趣、畏候。早速馳參可申候得共、今日は宿主曲翠子始臥高・正秀・泥足同心仕、先師御舊跡の幻住庵に罷越、椎の冬木も見、御筆跡の一字一石塔も拜申度、前諾仕置、則唯今出立仕にて候。乍御不□御宥免可被下候。御遺物其外寺納等之事は、乙主人、諸風子に御談可被成候。伊賀への御紙面拙者御連名可被成旨、隨分御同意仕候。
一 御終焉記之義被仰聞いかゞ可仕哉。併貴命之事に候故、取懸り見可申候。御病氣最初よりの御樣體、貴兄始惟然・支考が覺書勿論、御夜伽の發句等、御書付御見せ可被成候。且次郎兵衞日記、共に御見せ可被成候。出立早々。以上。
十月十六日 其角
去來英推
【終焉記 枯尾花集といふに有。】
【次郎兵衞日記は芭蕉談四篇目也追て刻すべし。】
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