篠原鳳作 芭蕉小論 (Ⅰ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――
篠原鳳作 芭蕉小論
[やぶちゃん注:昭和一一(一九三六)年四月刊の『句と評論』に掲載された。底本は沖積舎平成一三(二〇〇一)年刊の「篠原鳳作全句文集」を元としたが、恣意的に正字化してある。鳳作はこの発表の翌五月頃より時々首筋の痛みを訴え始め、発作的な嘔吐も繰り返すようになり、同年九月十七日、午前六時五十五分、鹿児島市加治屋町の自宅にて心臓麻痺により急逝した(彼の死因については「篠原鳳作句集 昭和一〇(一九三五)年八月」の私の注を参照されたい)。満三十歳であった。
傍点は太字に代え、踊り字は「〱」は正字化した。一目瞭然の脱字誤植(誤りと思われるものも多数)が甚だしいが、総てそのままに電子化し(底本には不思議なことに一切、ママ注記がない)、途中に附した注の中でそれは指摘しておいた。また、ブログの一行字数の関係上、一部の字配を変更してある。
粗削りながら、芭蕉の句世界に素潜りでダイヴしていて、批評眼もなかなかに血気盛んで興味深い。]
芭 蕉 小 論
目次
一、芭煮の句作精神
さび、しをり、生命の消極的把握。
二、芭蕉の俳句の特色
呼びかけの句、主觀句、客觀句。
句身一體、背後の世界。
三、結語
新興俳句に「叫び」を「希求」を與へよ。
芭蕉ほど多數の人に依つて論ぜられた俳人は無いであらう。俳人、歌人、畫人、小説家等によつて百方説かれながら尚巍然としてそびゆる一大混沌(ケイオス)が芭蕉である。
其の一大混沌(ケイオス)の芭蕉を、こゝに又私が説かうと云ふのである。「鳳作の文章には稚氣がある」とよく云はれるが、「稚氣なくして今更芭蕉を説くなどと云ふ大それた事は出來ないんだ」と自らの無暴に微苦笑を送りながらこの筆をとる。
一、芭蕉の句作精神
芭蕉は二十一歳の折句作し初めてから五十一歳で病沒するまで、三十一年の長い間句作生活を送つてゐる。
無自覺に貞德の風を模倣してゐた時代(二十一-三十三歳)宗因の風を學んでゐた時代(三十四-三十六歳)の事は問はない。三十六歳にして
枯枝に烏のとまりけり秋の暮
雪の朝ひとり乾鱈をかみ得たり
の句を作り自己の藝術に對し、朧氣ながら自覺を持ち始めてから後五十一歳にして
秋ふかき隣は何をする人ぞ
旅にねて夢は枯野をかけめぐる
の句を殘して瞑目するまで彼は十六年の間自己の道を歩きつゞけたわけであるが、この覺醒期に於て彼は何を目標として句作したであらうか。
彼は
「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪の
ごとくすべし。折にふれて彩色なきにしもあ
らず、心他門にかはりて、さびしをりを第一
とす」(祖翁口訣)
とさびしをりを目標とすべき事を彼は門人に教へてゐる。ではその寂びしをりとは何ぞや? 先づ彼をして語らしめよう。彼は臨終の折去來等に教へて
「汝此の後とても地を離るる事勿れ、地とは心
は杜子美の老を思ひ、は寂は西行上人の道心
をしたひ、調べは業平が高儀をうつし、いつ
迄も我れ等世にありと思ひ、ゆめゆめ他に化
せらるゝなかれ」(翁反古)
と云つてゐる。地とは「心の地ごしらへ――素養」の義であらうと思ふ。即ち彼は「寂びは西行上人の道心を慕へ」と云つてゐる。其故芭蕉の寂びとは西行の
寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里
とふ人も思ひえたる山里の寂しさなくば住み憂からまし
といふ歌にある寂しさと同意義であろうと思ふ。芭蕉自身も同じ心を
憂き我をさびしがらせよ閑子鳥
と詠じてゐる。憂きとは憂悶である。寂びしむとは憂悶をこえて自然の生命の閑寂にしたる心であらう。
寂びとは芭蕉の心に映じたる自然の生命の色である。
さて一應芭蕉の所謂寂びについて述べたから「しをり」にうつりたい。さびとは心の色、しをりとは心の姿――句の姿――である。芭蕉は
「句の姿は靑柳の小雨に垂れたるが如くにして折々微風にあやなすもよし」(祖翁口訣)
と云つてゐる。「靑柳の小雨に垂れた風情」がしをりである。
芭蕉は又去來の
つまよぶ雉子のうろたへてなく
と云ふ句を
妻よぶ雉子の身をほそうする
と添削して「去來汝はいまだ句の姿をしらずや、同じことも漸く云へば姿あり」と教へてゐる。
この「身を細うする」と「なつかしく云ひとる」句の姿がしをりである。
即ち寂びとは芭蕉の心に映じた自然の生命の色であるならば、しをりとは彼の心に映じた自然の生命の姿である。其故に寂びは句の色となり、しをりは句の姿となるのである。寂び、しをりとは、別言すれは芭蕉における自然の生命の把握の仕方である。
兎も角、芭蕉は現象を現象としてみず、更に現象の奧に自然の生命を見た人である。唯其の見方が消極的だつただけである。
我々は芭蕉に生命を把握すると云ふ事は學ばねはならぬ。然し其も消極的仕方に於てでなく、積極的仕方に於て把握せねばならぬ。芭蕉の寂び、しをりに對し私がヴアイタリチーを説く所以は此處にあるのである。
■やぶちゃん注
・「三十六歳」数え。延宝八(一六八〇)年。
・「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」深川の第一次芭蕉庵での句(この年の句は計十七句が残る)。これは「曠野」の句形で、正確には、
かれ朶(えだ)に烏のとまりけり秋の暮
の表記。真蹟画賛や真蹟懐紙・真蹟色紙で伝存、「三冊子」その他にもこの句形で載ることから、最終決定稿と思われる(但し、今栄蔵校注新潮日本古典集成「芭蕉句集」によると、この真蹟類は天和期(一六八一年~一六八四年)の筆跡であるとし、改案の時期もその頃と推定されてある)。「泊船集」では、
秋のくれとは
という前書を持つ。初案は真蹟自画賛の短冊や「俳諧東日記」(あずまにっき・言水編・延宝九年刊)などに載る、
枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
であるが、この初案は延宝八年よりも以前の可能性もあり(ここは岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠る)、今栄蔵氏の注にもこの句形は「寒鴉枯木(かんあこぼく)」を「秋の暮」の寂しさに見立てる談林的作為が露出していると評されている。また、真蹟短冊には、
枯枝(カレエダ)に烏とまりたるや秋の暮
という句形も存在している。今氏は続けて、『成案「とまりけり」で見立ての心がやわらぎ、寂しさのすなおな詠嘆』へと変化していると解く。
・「雪の朝ひとり乾鱈をかみ得たり」同じく深川の第一次芭蕉庵での句。「鱈」は誤植。それが鳳作本人の誤記なのか、それとも原所載誌かは不詳(底本には「ママ」表記はないが、幾らなんでも底本の誤植とは思いたくもない)。これ、とんでもない誤りである(しかしこれ、鳳作自身の誤記なのかも知れぬ。何てったて「旅にねて夢は枯野をかけめぐる」とあるもの)。前書も併せて「俳諧東日記」所収のそれを正確に表記すると、
富家ハ喰ヒ二肌肉ヲ一丈夫ハ喫ス二菜根ヲ一
予ハ乏し
雪の朝(あした)獨リ干鮭(からざけ)を嚙み得タリ
である。六・七・五の破格の句である。前書は「『富家は肌肉(きにく)を喰(くら)ひ、丈夫は菜根を喫す。』、予は乏し。」と読む。真蹟短冊が残るが、それらは前句同様、この年よりも以前に記された可能性もある(これは前出今栄蔵氏の注に拠る)。明の洪自誠の随筆「菜根譚」の書名の由来として知られる修身の言説である、朱熹の撰した「小学」の「善行第六」末尾の、「汪信民嘗言人常咬得菜根、則百事可做。胡康侯聞之、撃節嘆賞。」(汪信民、嘗つて人は常に菜根を咬み得ば、則ち百事做(な)すべし、と言ふ。胡康侯はこれを聞き、節を擊つて嘆賞せり)――汪信民が「菜根を齧って暮らすことが出来得るとなれば、如何なる事をも成し得る。」と言った。胡文定はそれ聴いて、「尤もなことだ。」とその文言に感心して褒め讃えた。菜根は堅く筋が多いけれども、それを噛みしめてこそ、その滋養も味わい、真の価値が初めて解る――という謂いを受けて、前書と句も含めて漢文隊を模して諧謔した芭蕉庵入庵の覚悟の一句である。因みにこれは私も偏愛する芭蕉の一句である。
・「秋ふかき隣は何をする人ぞ」私の同句の評釈をリンクしておく。
・「旅にねて夢は枯野をかけめぐる」「旅に病んで」のトンデモ誤記。私の評釈をリンクしておく。
・『「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪のごとくすべし。折にふれて彩色なきにしもあらず、心他門にかはりて、さびしをりを第一とす」(祖翁口訣)』「祖翁口訣」は「そおうくけつ」と読む。これは芭蕉が文書としては記さず、口伝の秘伝として伝えたものの謂いで、「俳諧一葉集」の「遺語之部」に「祖翁口訣」として載るものの、その実は「雪の薄」(眠浪編・安永六(一七七七)刊)に「麦浪よりの聞書き」として掲載されているもので、その内容も既に蕉門の他の俳人らによって記されてあるものも多く、恐らくは後世になって蕉門俳書類から抜粋、再構成されて「祖翁口訣」なるものとして広まったというのが現在の見解のようである(以上は国立国会図書館の「レファレンス共同データベース」の大阪府立中央図書館提供の管理番号OSPR12060106に拠った)。私自身、この全貌を知らなかった。以下、国立国会図書館蔵の沼波瓊音編「芭蕉全集」(大正一〇(一九二一)年岩波書店刊)を近代デジタルライブラリー版によって視認して電子化した(踊り字は正字化した。最後の編者注は底本では全体がポイント落ちの字下げになっている)。
*
格に入りて格を出でざる時は狹く、又格に入らざる時は邪詠にはしる。格に入り格を出でゝはじめて自在を得べし。詩歌文章を味ひ心を向上の一路に遊び作を四海にめぐらすべし。
千歳不易一時流行。
他門の句は彩色のごとし。我門の句は墨繪のごとくすべし。折にふれては彩色なきにしもあらず。心他門にかはりてさびしをりを第一とす。
名人は地をよく調べし。折にふれてはあやふき處に妙有り。上手はつよき所におもしろみあり。
等類作例第一に吟味すべし。
古書撰集にまなこをさらすべし。
我門の風流を學ぶ輩は、先づ鶴のあゆみの百韻、冬の日、春の日、猿みの、ひさご、あら野、炭俵等熟覽すべし。發句は時代時代をわかつべし。
初心のうちは句數をもとむべし。夫より姿情をわかち大山をこえて向の麓へ下りたる所を案ずべし。六尺をこえんと欲するものはまさに七尺を望むべし。されば心高き時は邪路に入りやすからん。心低き時は古人の胸中を知ることあたはず。
俳諧は中人以下のものとあやまれるは俗談平話とのみ覺たる故なり。俗談平話をたゞさんが爲なり。拙き事ばかり云を俳諧と覺たるは淺ましき事なり。俳諧は萬葉集の心なり。されば貴となく賤となく味ふ道なり。唐明すべて中華の豪傑にも愧る事なし。只心のいやしきを恥とす。
手にをは專要なり。我國は手にをはの第一の國なれば、先哲の作を味ひ一字も麁末なることなかるべし。句の姿は靑柳の小雨にたれたる如くにして、折々微風にあやなすもあしからず。情は心裏の花をもながめ、眞如の月を觀ずべし。跗心は薄月夜に梅のにほへるがごとくあるべし。
(右の條〻祖翁口訣と云傳ふ。全部の眞僞はいかゝなれど、このうちに芭蕉の語含まれ居り且つこの口訣よく蕉門の要を得たる語にて棄難ければ、こゝに置く。)
*
鳳作の引用と改めて並べておく。
〇(原文)他門の句は彩色のごとし。我門の句は墨繪のごとくすべし。折にふれては彩色なきにしもあらず。心他門にかはりてさびしをりを第一とす。
●(鳳作)他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪のごとくにすべし。折にふれて彩色なきにしもあらず、心他門にかはりて、さびしをりを第一とす。
・『「汝此の後とても地を離るる事勿れ、地とは心は杜子美の老を思ひ、は寂は西行上人の道心をしたひ、調べは業平が高儀をうつし、いつ迄も我れ等世にありと思ひ、ゆめゆめ他に化せらるゝなかれ」(翁反古)』「翁反古」(おきなほご)は芥川龍之介が「枯野抄」でも主素材としたことで知られる、僧の文暁の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)の別名である。「芭蕉翁反古文(ばしようおうほごぶみ)」ともいう。上下二巻からなり、上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収めるが、現在は完全な偽作であることが分かっている(「翁反古」(おきなほご)という松岡大蟻編になる天明三(一七八三)年刊の芭蕉書簡集があるがこれではない。因みにこちらも偽書)。この引用部も全体に嘘臭さがぷんぷんする。岩波文庫版小宮豊隆校訂本で確認したところ、「は寂は」の部分は衍字で、「寂びは」と書いたものであろう。「杜子美」は杜甫。
・「寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべん冬の山里」「新古今和歌集」巻第六の冬歌の「題しらず」。六二七番歌。
・「とふ人も思ひえたる山里の寂しさなくは住み」「山家集」九三七番歌であるが、御覧の通りの重大な脱字があり、正しくは、
とふ人も思ひ絶えたる山里の淋しさなくば住み憂からまし
である。直後に鳳作が「憂き我をさびしがらせよ閑子鳥」と引くが、そもそもが「嵯峨日記」の四月二十二日(元禄四(一六九一)年)の条に、
*
二十二日 朝の間、雨、降る。今日は人もなく、さびしきままに、むだ書して遊ぶ。その言葉
喪に居る者は悲をあるじとし、酒を飮む
ものは樂しみをあるじとす。
「さびしさなくばうからまし」と西上人
の詠み侍るは、さびしさをあるじなるべ
し。
また、詠める
山里にこは又誰(たれ)を呼子鳥(よぶこどり)
ひとり住まむと思ひしものを
ひとり住むほど、おもしろきはなし。
長嘯隠士の曰く、「客は半日の閑(かん)
を得れば、あるじは半日の閑を失ふ」と。
素堂、この言葉を常にあはれぶ。予もまた
憂き我をさびしがらせよ閑古鳥(かんこどり)
とは、ある寺にひとり居て言ひし句なり。
*
と本歌を引いた上で本句を記している。なお、本句については私の「今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 -(マイナス)1 うきわれをさびしがらせよ秋の寺」の評釈をご覧になられたい。
・『「句の姿は靑柳の小雨に垂れたるが如くにして折々微風にあやなすもよし」(祖翁口訣)』前注の引用原文では(下線やぶちゃん)、
句の姿は靑柳の小雨にたれたる如くにして、折々微風にあやなすもあしからず。
・「芭蕉は又去來の……と教へてゐる」は「去来抄」の「先師評」中の一篇に基づく(底本は頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」)。
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妻呼雉子の身をほそうする 去來
初ハ雉子のうろたへてなく也。先師曰、去來かくばかりの事をしらずや。凡句にハ姿といふ物有。同じ事をかくいへバすがた出來る物をと也。
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に拠る。「身をほそうする」という芭蕉の斧正した表現が、確かに美事、擬人的に切なげな感じを醸し出しているといえる。
・『「なつかしく云ひとる」句の姿』という鍵括弧の引用は「去来抄」の「故實」中の次の一篇の末尾に基づく(底本は頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」を用いたが、一部に読みを入れた)。
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先師曰く、世上の俳諧の文章を見るに、或は漢文を假名に和らげ、或は和歌の文章に漢字を入レ、辭あらく賤しく云(いひ)なし、或は人情を云(いふ)とても今日のさかしきくまぐまを探さぐり求め、西鶴が淺間(あさま)しく下れる姿有(すがたあり)。吾徒(わがと)の文章は慥かに作意を立(たて)、文字はたとひ漢字をかるとも、なだらかに云ひつゞけ、事は鄙俗(ひぞく)の上に及ぶとも、懷しくいゝとるべしとなり。
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