ビェージンの草原 最終シークエンス
「猟人日記」「ビェージンの草原」中山省三郎訳より。最後のシークエンス。但し、最終段落のみ意図的にカットした。是非、全篇をお読み戴きたい。HTML横書版(本日只今再校訂終了版)はこちら。PDF縦書版は今暫くお待ちあれ。
すでに私が子供たちのそばへ腰を下ろしてから三時間あまりになる。月はやうやく昇つて來たが、すぐには眼につかなかつた。あまりに小さな、細い月であつたから。この月の光のたよりない夜は、前と同じやうに、すばらしい感じがした……。しかし、つい今しがたまで空高くかかつてゐた多くの星は、もはや暗い地の果てに傾いてゐた。あたりのものは何もかもが、常に夜の明け際にのみ見られるやうに、聲もなく靜まりかへつてゐる。何もかもが深い靜かな夜明け前の眠りに沈んでゐる。空氣のなかにはさして強い匂ひはなくなつてゐる。空氣にまたしても露じめりがあふれてゐるやうに思はれる……。夏の夜は永くはない!……子供達の話は焚火が消えると共に消えうせる。犬は微睡(まどろ)みさへしてゐる。微かに明るい星あかりに透かして見ると、馬もまた頸を垂れて、やすんでゐた……。快よい懈怠(けたい)がやつて來る。するうちに私も微睡(まどろ)んでしまつた。
爽かな微風が顏を吹き過ぎる。私は眼をあける――朝になりかかつてゐる。まだ曙の紅の色はどこにも射してゐないが、東の方はもう白みかかつてゐる。淡い灰色の空は明るく、冷たく、靑味を帶びて來る。星は微かな光を放つて、瞬いたり消えたりしてゐる。地はしつとりとし、葉は濕り、どこかにいきいきした物音や聲が聞こえる。朝の小風はそよそよと地のうへを吹き渡る。私のからだは輕く、樂しくふるへて風に應へる。私はふと立ち上つて子供たちのところへ行つた。燻つてゐる焚火のまはりに、子供たちはみな死んだやうになつて、眠つてゐる。ひとりパーウェルが身を半ば起こして、じつと私をみつめる。
私は彼に會釋して、うち煙る川に沿つて家路についた。まだ二露里(り)とは歩かないうちに、私のまはりの、廣い露にぬれた草原や、前の方の綠いろがかつた丘や、森から森、またうしろに長くつづく埃の道、赤らむ叢、薄らぐ霧のかげにおづおづと靑味を帶びてゐる川に、――最初は鮮紅、次には赤と金との靑々しい、燃えるやうな光が奔流のやうにふり注いだ……。何もかもが動き始め、眼をさまし、うたひ、そよぎ、話し始める。輝く金剛石のやうに大きな露しづくが、ここかしこに燃えあがる。私を迎へるかのやうに、澄んだ朗かな、恰も朝の涼氣に洗ひ淸められたやうな、鐘のひびきが聞こえて來る。すると不意に、息をやすめてゐた馬の群れが、さつきの顏見知りの子供たちに追ひたてられて、私のわきをまつしぐらに駈けぬけて行つた……。
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