耳嚢 巻之九 不取計に其身を損ぜし事
不取計に其身を損ぜし事
四ツ谷邊に輕き武家の有(あり)しが、雜司ケ谷邊に至り歸りの節たそがれに及び壹人酒に醉ひかえりしが、肴賣(さかなうり)體(てい)の男あとへなり先へなりて道連れになり咄しなどせしが、暮かゝる野間(のあひ)にて、右肴賣も醉候(ゑひさふらふ)體(てい)にて、わるいたづらし給ふな、半臺(はんだい)の上に四五百文の賣溜(うりだめ)を置(おき)しが隱し給ふと見えたり、歸し給へといふゆゑ、右侍驚きて、何故右體の儀(ぎ)申候哉(まうしさふらふや)、一向覺えなき事なり、酒に醉ふたる樣子なれば、いづ方へか振落(ふりおと)しけるならんと答へければ、彼是(かれこれ)惡口(あつこう)などいひて行(ゆき)過ぎるゆゑ、其邊の町方へ寄(より)、名主のもとを尋ねて右の方へ至り、斯々(かくかく)の事あり、何とも迷惑なる事なり、糺しくれ候樣申(まうし)けれど、名も不知(しれず)いづ方の者やも難分(わかりがた)ければせんすべなしといふ。詮方なく立歸る道に、以前の肴賣、友傍輩(はうばい)大勢つれ立(だち)先刻の盜人は夫(それ)なりといふて、申解(まうしとき)も聞き入れず打擲(ちやうちやく)して逃(にげ)去りぬ。所より訴出(うつたへいで)、侍に不似合(にあはざる)迚、御咎(おとがめ)を請(うけ)、其身を亡(ほろぼ)しける由。いづれ取計(とりはから)ひもあるべきに、不了簡もの、不仕合(ふしあはせ)のうへなしといふべし。
□やぶちゃん注
○前項連関:味な取り計らいから、一転、身を亡ぼした拙い取り計らいで逆連関。
・「不取計」「ふとりはからひ」と名詞で読んでいるらしい。ちゃんとした処理をしないことを言う。
・「半臺」江戸の魚売りは縄を網のように編んだ畚(もっこ)の上に籠を置いてその上に半台と呼ばれる浅く大きな楕円形をした桶を置いて売り歩いた(大坂の魚売りは籠のぼてぶり)。
・「歸し給へ」底本では「歸」の右に『(返)』と訂正注がある。
■やぶちゃん現代語訳
正しき措置をとらなんだによってその身を損(そん)じたる事
四ッ谷辺りに、軽き身分の武家が御座ったが、出先から帰る折り――何でも、雜司ヶ谷辺りでのことと申す――黄昏ともなって、独り、酒に酔っての帰り道で御座ったらしい。
魚売(さなかう)りの体(てい)の男が、彼の後になり先になりして、道連れとなったによって、世間話など致いて暫く歩いておった。
ところが、暮れかかった薄暗き野辺にて――どうも、その魚売りも、これまた、同様に一杯ひっかけて酔うて御座ったらしく、
「……お侍さん……あんタ……悪い悪戯(いたずら)、なすっちゃぁ……いけやせんゼェ……俺(オラ)の半台の上の……かれこれ四、五百文の今日の売り溜(だめ)……これ、俺(オラ)、置いといたんゃ……アンタ……お隠しなすったと、見たネェ!……お返し、おくんなイ!」
と、突然、凄んだと申す。
されば、かの侍、驚いて、
「……な、なにゆえ、そのようなことを申さるるか?!……我ら、一向、覚えのないことじゃ!……そなた、酒に酔うておる様子なれば、いづ方へか振り落したのではないか?」
と答えたところ、魚屋、これ、いきなり憤った体(てい)にて、かれこれ、悪口(あっこう)なんどさんざんに吐き散らして、先へ先へと、どんどん行き過ぎてしもうた。
されば、侍、ともかくもと、その近くの町方へ立ち寄り、名主の家の場所を尋ねて、その名主の方へと至り、
「……かくかくしかじかのこと……これ御座って、何とも、迷惑なることにて御座る。我ら、潔白なれば、何とか糺して下さるるよう、お願い申す。」
と頼んでみたものの、名主は、
「……いやぁ……その魚売りの名は何と申しました?……はぁ?……御存じない。……と、なりますと……名も知れず、いづ方(かた)の者やらも分かり難しとなれば……これ、如何なる仕方も……御座いませぬがのぅ……」
と答えを濁した。
されば、詮方なく、侍はそこからまた、立ち帰らんものと道を辿っておったところが、向こうより、さきほどの魚売りが――これ――友や傍朋輩(はうばい)を大勢引き連れてやって参り、
「……さ、さっきの盜人(ぬすっと)は――あいつ! じゃあ!」
と叫んだかと思うと、言い訳を聞き入るる暇まもなく、さんざんに侍を打擲(ちょうちゃく)して、あっという間に逃げ去ってしもうたと申す。
その騒ぎを聴きつけた近隣の者、出でて参れば、道に這いつくばって御座った侍に吃驚仰天、直ちに先の名主にそれを告げたによって、名主もその場で直ぐ、役所へと訴え出た。
一部始終吟味されたものの、暮方のこととて、襲った魚屋とその朋輩どもも、これ、どこの誰ともよう分からず、また侍自身もかなり酔うており、しかも、太刀一つ抜いた跡ものぅ、そこたら中に瘤をこさえたる、その情けなき姿なれば、逆に、侍に似合わざる不始末と斷ぜられてしまい、遂にはお咎めを受け、何でも武士の身分をも失(うしの)うた由。
それなりの取り計い方もあったであろうに、まことに――悪しき対応と悪しき始末の――この上なきもので御座ったと申すほかには、これ、御座るまい。
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