篠原鳳作 芭蕉小論 (Ⅱ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――
二、芭煮俳句の特色
芭蕉の說く所はしばらく置いて芭蕉の句に卽して彼の特色とする所を見てゆく事にしよう。
芭蕉は旅の詩人と稱せられてゐるが彼の佳句はなる程多くは旅に於てなされたのである。其故今彼の句の特色を說くに際しては便宜上彼の三大紀行と稱せらるゝ野ざらし紀行(四十一歳―四十二歳)芳野紀行(四十四歳―四十五歳)奧の細道(四十六歳)に於て彼が自ら記載せる句からのみ材料を取る事にしたい。
和歌が主觀を調べに託してのべるものであるとされたのに對し俳句は客觀の姿を借りて主觀をのべる所の具象詩であると觀念されて來た。ことにホトトギス派の如きは俳句より主觀的語句を出來るだけ排除し客觀寫生俳句なるものを標榜して來たのである。此等のホトトギス派及び其の亞流に對抗して「客觀よりも主觀を尊重すべき事花鳥風月よりも社會の實生活を尊重すべき事」を說いて勃興したのが新興俳句である。
主觀尊重、生活尊重と云ふ限に於ては新興俳句運動は一種の「芭蕉の原始にかへれ」の運動と目する事も出來ると思ふ。
芭蕉を單なる花鳥風月の徒と見てはいけない。唯芭蕉は天性の個人主義者であり、社會的自覺がなかつただけである。――是は當時の人としては餘儀ない事であつた。自己の生活を重んじ自己の生活に卽した句――生活感情の句をつくると云ふ點に於ては芭蕉は何人にもひけをとらないのである。「句と我とを一にせよ」「句身一體」と云ふ事は芭蕉はよく說きもし自ら實踐もしてゐた。
句を生活よりひき離し花鳥風月のものとしたのは芭蕉でなく蕪村なのである。
この事は別の機會に說くとして、主觀尊重の芭蕉を說きたい。芭蕉には客觀の勝つた句より、主觀の勝つた句が遙かに多い事は勿論の事であるが、――他の俳人に是を見ずして芭蕉のみに是を多く見るのは――呼びかけの俳句、自他に對する願望命令の句である。主觀觀の最もあらはなる吐出である。三大紀行から「よびかけの句」を拾つて見よう。
○砧打つて我に聞かせよや坊が妻
我衣(きぬ)に伏見の桃のしづくせよ
(以上野晒紀行)
○旅人と我名呼ばれん初しぐれ
いざ行かん雪見にころぶ處まで
此の山のかなしさつげよ野老掘
よし野にて櫻見せうぞ檜木笠
○若葉して御目の雫ぬぐはばや
(以上芳野紀行)
○野を橫に馬牽きむけよほとゝぎす
○這ひ出でよかひ屋が下の蟾の聲
○塚も動け我泣く聲は秋の風
秋涼し手每にむけや瓜茄子
(以上奧のほそ道)
以上此處に記載しなかつた句まで加へると二十數句の多きに及んでゐるが、特に○印のものは佳句と思ふのである。この中で
這ひいでよかひ屋が下の蟾の聲
の句は社會的にさほど、もてはやされてゐないが、他の語句に劣らない佳句である。芭蕉は「調はずんば舌頭に千轉せよ」とリズムの重んずべき事を敎へてゐる。
芭蕉に於いては俳句は和歌と同樣「調ぶる」ものであつた。
卽ち、俳句は十七音を以て構成された音樂であつたのである。この句の中から下の調べの可憐な事をみよ。
HAI
IDEYO
KAIYA
GA SITANO
HIKI
NO KOE
I音とO音との微妙な配置から生ずるこの句のリズムの可憐さは、幾度誦して飽かないものがある。恐らくリズムの點から云へば芭蕉俳句中の名句たるを疑はないのである。
芭蕉は主情の詩人であり象徴の詩人である。而も彼の主情はしらべを通しての主情であり、しらべを通しての象徴であつた。當今俳壇に於て象徴を口にしつゝ而もしらべの何たるかを知らず、佶屈贅牙なる俳句をつくり自ら高しとせる如き者とは雲泥の差があるのである。
さて上記○印の句は芭蕉の理想とせる 「さび、しをり」を得てゐるかと云へば何れも「さび、しをり」をそなへてゐるのである。
たとえば蟾の句の如きも墨色の世界――而も一脈の生命のはやなぎのある墨色の世界 ――讀む者をして自然の生命の閑寂の殿堂へ奧深く誘引しないではをかないつやを含んだ墨繪の世界である。この讀む者を誘引してゆく力あるのがしをりの句である。さびしをりを完全に具へた佳句と云へよう。
○印の句中、只
塚も動け我が泣く聲は秋の風
の句は「さび、しをり」と云ふには餘りに强烈なる句である。「さび、しをり」といふ念慮をも斷つ絕對の境地に發する叫びの句と云ふべきであらう。
[やぶちゃん注:原文は改行して続くが、ここに注を挟む。
・「芳野紀行」「笈の小文」の別名。現在知られる紀行句文集「笈の小文」には当初、題名がなく、芭蕉の死後、近江蕉門の乙州がかくつけたもので、他にも「卯辰(うたつ)紀行」「大和紀行」「大和後の行記」「須磨紀行」などと呼ばれたが、現在は「笈の小文」以外、殆んど聴かれることがなくなった(なお、「笈の小文」というのは、「猿蓑」を撰した頃に芭蕉自らが厳選した理想的撰集を企画、その草稿の名称に芭蕉がつけたものが「笈の小文」で、全く別のものであった。かくつけたのは乙州の私意である、と中村俊定校注岩波文庫「芭蕉紀行文集」及び新潮日本古典集成「芭蕉文集」の富山奏氏の解説などにある。何故、多様な別名が残るかというと、乙州のこの私意に対して批判的な蕉門門人らが再編する際に以上の別名を附したことによるのである)。各種記載などで吉野巡りが主体であることから「吉野紀行」の標記でも載るのであるが、漢字表記は厳密には鳳作が記す通り、「芳野紀行」(湖中ら編に成る「俳諧一葉集」(いちようしゅう・文政一〇(一八二七)年刊)に初出する標題)が正しい。
・「句と我とを一にせよ」「句身一體」例えば、最晩年の元禄七(一六九四)年一月二十九日附芭蕉高橋怒誰(どすい:本名、高橋喜兵衛。膳所に於ける芭蕉のパトロンの一人で幻住庵を芭蕉に提供した膳所藩重臣菅沼曲水の弟で、兄弟ともに近江蕉門の重鎮であった。)宛書簡に以下のようにある(伊藤洋氏の「芭蕉DB」のものを正字化して使用させて戴いた。読みは私が歴史的仮名遣で附した)。
*
一、御修業相進(ごしゆげふあひすすみ)候と珍重(ちんちやう)、唯(ただ)小道小枝(せうだうせうし)に分別動(ふんべつうごき)候て、世上の是非やむ時なく、自智(じち)物(もの)をくらます處、日々より月々年々の修業ならでは物我一智(ぶつがいつち)之場所へ至間敷存(いたるまじくぞんじ)候。誠(まことに)御修業御芳志賴母敷(たのもしき)貴意(きいの)事に令ㇾ感(かんぜしめ)候。佛頂和尙も世上愚人に日々聲をからされ候。御噂なども適々出申(たまたままうしいで)候。猶追而可二申上一候(なほおつてまうしあぐべくさふらふ)。此節書狀取重(とりかさなり)候。 頓首
正月廿九日 はせを
怒誰雅丈
貴存
*
「物我一智」は禅語で物我一如(いちにょ)・物我一致などと同じい。自他の境目がない精神状態、即ち、菩薩行を修した境界(きょうがい)を指し、客観と主観が一つとなることをいう。「佛頂和尚」(寛永一九(一六四二)年~正徳五(一七一五)年)は常陸国鹿島生で元は鹿島の瑞甕山根本寺(ずいおうざんこんぽんじ:茨城県鹿嶋市宮中在)住職、後、宝光山大儀寺(茨城県鉾田市在。根本寺の北北西約十六キロ)中興開山であった臨済僧。根本寺は直近にある鹿島神宮と領地争いがあってその訴訟のために根本寺末寺で江戸深川にあった臨川庵(後に臨川寺)に長く滞在、天和二(一六八二)年頃、近くに住んでいた芭蕉は彼を師として禅修業をしたと推測され、貞享四(一六八七)年八月十四日出立の、弟子の曾良と宗波を伴って仲秋の月を見に出かけた「鹿島詣」では、弟子に譲った根本寺に泊めて貰って師と再会している(月見は生憎の雨で果たせず句を作っている)。芭蕉が非常に尊敬し、二歳年長で芭蕉よりも二十一年も長生きした。「奥の細道」では那須の黒羽の雲厳寺にあった佛頂の修業跡を訪ねて「啄木鳥も庵は破らず夏木立」と詠んでいる(私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅7 奈須雲岩寺佛頂和尚舊庵 木啄も庵はやぶらず夏木立』を参照されたい)。「雅丈」芭蕉がしばしば用いる脇付。函丈(かんじょう)を洒落れてひねったものか。函丈は「礼記」曲礼上の「席の間丈を函(い)る」に由来し、師から一丈も離れて座る意。通常は師又は目上の人に出す書状の脇付である。彼が目上であるかどうかは不詳。藩士である彼に敬意を示したものと思われる(尤も芭蕉は年下の門人で俳諧師であった去来などにもこの脇付を用いている)。「貴存」も書簡の宛名に添えて敬意を示す脇付。
また、土芳の「三冊子」に芭蕉の言として(頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」であるが、「師の詞の有しも」は原文が「師の詞のおりしも」であるのを、やや腑に落ちない(「折しも私意を離れよ」でも意は通るが)ので頴原氏の注によって別本の記載に変更した。読みは私が歴史的仮名遣で附した)、
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師末期の枕に、門人此後の風雅をとふ。師の曰、此道の我に出て百變百化す。しかれどもその境、眞草行(しんさうぎやう)の三ツをはなれず。その三ツが中にいまだ一二をも不盡(つきず)と也。生前折々のたはむれに、俳諧いまだ俵口(たはらぐち)をとかずとも云出られし事度々也。高くこゝろをさとりて俗に歸るべしとの教なり。常に風雅の誠をせめとりて、今なす處俳諧に歸るべしと云(いへ)る也。常(つね)風雅にゐるものは、思ふ心の色、物となりて句姿定(さだま)るものなれば、取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば外に詞をたくむ。是則(これすなはち)常に誠を勤(つとめ)ざる心の俗なり。誠を勉むるといふは、風雅に古人の心を探り、近くは師の心よく知るべし。その心をしらざれば、たどるに誠の道なし。その心を知るは、詩の詠草の跡を追ひ、よく見知(みしり)て、即(すなはち)我(わが)心の筋押直し、爰に趣(おもむき)て自得するやうにせめる事を、誠を勤(つとむ)るとはいふべし。師のおもふ筋に我心をひとつになさずして、私意に師の道をよろこびて、その門を行(ゆく)と心得がほにして私(わたくし)の道を行(ゆく)事あり。門人よく己を押直すべき所也。松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へと、師の詞の有しも私意を離れよといふ事也。この習へといふ所をおのがまゝにとりて終に習はざる也。習へと云は物に入てその微の顯(あらはれ)て情感(かんず)るなり、句となる所也。
*
とあるのが参考となる。
・「砧打つて我に聞かせよや坊が妻」芭蕉四十歳、貞享元(一六八四)年九月中旬、吉野宿坊での吟。「野ざらし紀行」の真蹟復刻である安永九(一七八〇)年版「甲子吟行」では、
ある坊に一夜をかりて
碪(きぬた)打(うち)て我にきかせよや坊が妻
と載る。「曠野」や明和版「野ざらし紀行」(明和五(一七六八)年)では中七の音数を合わせて、
きぬたうちて我にきかせよ坊がつま
とするが私は改悪と思う。但しこれは一説(山本健吉氏)に「曠野」の杜撰な編集に起因するものとも言われる。孰れにせよ、覚悟の字余りの呼びかけにこそ、この句の神髄はある。
・「我衣に伏見の桃のしづくせよ」貞享二年春三月、「野ざらし紀行」の後半、京都伏見の浄土真宗西岸寺での、当第三世上人宝誉上人(俳号、任口(にんこう)。松江重頼門で芭蕉とは旧知の仲であった。当時八十歳、翌年に入寂した)への挨拶句。
伏見西岸寺任口上人に逢うて
わが衣に伏見の桃の雫せよ
桃は伏見の名産。
・「旅人と我名呼ばれん初しぐれ」「芳野紀行」=「笈の小文」の冒頭を飾る名句。芭蕉四十三、貞享四年十月十一日の其角亭での餞別句会の世吉(よよし:百韻の初折と名残の折とを組み合わせた四十四句からなる連句形式。)の発句であった。「笈の小文」にはその脇句も引いて、
神無月の初、空定めなきけしき、身は風葉の行末なき心地して、
旅人と我名よばれん初しぐれ
また山茶花(さざんくわ)を宿々に(やどやど)して
磐城(いはき)の住(ぢゆう)、長太郞といふ者、この脇を付けて、其角亭におゐいて關送りせんともてなす。
と載せる。「長太郞」は岩城国平(たいら)藩(現在の福島県いわき市)藩主内藤義概(よしむね)の次男義英(俳号、露沾(ろせん)。「笈の小文」ではこの直後にその露沾の餞(はなむけ)の句と彼の屋敷での餞別会が描出される)の家臣井手由之(ゆうし)。「千鳥掛」(知足編・正徳二(一七一二)年序)には、
はやこなたへといふ露の、むぐらの宿は
うれたくとも、袖をかたしきて、御とま
りあれやたび人
たび人と我名よばれむはつしぐれ
と載り、この前書は謡曲「梅ヶ枝」(世阿弥作。管弦の役争いで討たれた楽人富士の妻の霊が津の国住吉を訪れた僧に嘆きを語る)の一節を引いたもので、「千鳥掛」原本には謠本通りの胡麻点がつけられてあるという。参照した山本健吉氏「芭蕉全句」には、『能の廻国の行脚僧の姿を自分に擬している気味合があり、句の姿そのものからも、芭蕉の心躍りが感得できる』と評されておられる。私の好きな一句である。
・「いざ行かん雪見にころぶ處まで」貞享四年十二月三日、名古屋本町の書肆風月堂の主人夕道(せきどう)の亭での作と推定される。初案は真蹟詠草などにある、
書林風月と聞きし其名もやさしく覺えて、
しばし立寄りてやすらふ程に、雪の降出
でければ
いざ出(いで)む雪見にころぶ所まで
丁卯臘月(ていばうらふげつ)初、夕道
何がしに贈る
で、「笈の小文」や「曠野」で鳳作の引いた、
いざ行(ゆか)む雪見にころぶ所まで
に改作した後、更に、「花摘」(其角編・元禄三(一六八九)年奥書)の、
いざさらば雪見にころぶ所迄
の形に決したものと推定されている。どの句形も私の偏愛する句である。
・「此の山のかなしさつげよ野老掘」貞享五年(九月三十日に元禄元年に改元)二月中旬、伊勢朝日山の西麓にあった菩提山神宮寺を訪れた際の吟。この寺は八世紀、聖武天皇の勅願によって行基が開山した古刹であったが、当時は既に荒廃していた(現存しない。個人サイト内の「伊勢への道」の「伊勢の寺」の中で、まさに「野老(ところ)掘」りに「かなしさ」を「つげよ」と声掛けしたくなる、「此の山の」現状が見られる)。「野老」は単子葉植物綱ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の一群を指す。「~ドコロ」と呼ばれる多くの種があるが、特にオニドコロ Dioscorea tokoro を指すことがある。参照したウィキの「トコロ」によれば、食用のヤマノイモなどと同属だが、『食用に適さない。ただし、灰汁抜きをすれば食べられる。トゲドコロは広く熱帯地域で栽培され、主食となっている地域もある。日本でも江戸時代にはオニドコロ』又はヒメドコロ Dioscorea tenuipes の栽培品種であるエドドコロ(学名はヒメドコロに同じ)が栽培されていた、とある。この句も私の好きな一句である。
・「よし野にて櫻見せうぞ檜木笠」「笈の小文」から引く。
彌生半過る程、そヾろにうき立心の花の、我を道引(みちびく)枝折(しをり)となりて、よしのゝ花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人の
、いせにて出(いで)むかひ、ともに旅寐(たびね)のあはれをも見、且は我爲(わがため)に童子となりて、道の便りにもならんと、自(みづから)万菊丸と名をいふ。まことにわらべらしき名のさま、いと興有(あり)。いでや門出(かどいで)のたはぶれ事せんと、笠のうちに落書す。
乾坤無住同行二人
よし野にて櫻見せふぞ檜の木笠
よし野にてわれも見せうぞ檜笠 万菊丸
「万菊丸」は若衆道に興じた坪井杜国の仮りの名である。「かのいらご崎にてちぎり置し」については、私の『芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる』を参照されたい(但し、分量膨大に附き、ご覚悟あれかし。急がれる方は最後の注部分のみをご覧になられることをお勧めする)。
・「若葉して御目の雫ぬぐはばや」貞享五年四月九日頃、奈良唐招提寺に於いて天平期の傑作として知られる日本最古の肖像彫刻鑑真和上の像を拝した折りの非常に美しい一吟である。「笈の小文」から引いておく。
招提寺鑑眞和尚來朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ、御目(おんめ)のうち鹽風吹き入りて、つひに御目盲(しひ)させ給ふ尊像を拜して、
若葉して御めの雫ぬぐはばや
・「野を横に馬牽きむけよほとゝぎす」私の評釈。
・「這ひ出でよかひ屋が下の蟾の聲」私の評釈。
・「塚も動け我泣く聲は秋の風」私の評釈。
・「秋涼し手每にむけや瓜茄子」私の評釈。
・「調はずんば舌頭に千轉せよ」「去来抄」の一節。以下に引用する(底本は頴原退蔵校訂岩波文庫「去来抄・三冊子・旅寝論」。読みは私が歴史的仮名遣で附した)、
*
卯の花に月毛の駒のよ明(あけ)かな
去来曰、予此(この)趣向有リキ。句ハ有明の花に乗込(のりこむ)といひて、月毛駒(つきげこま)・芦毛馬(あしげのむま)ハ詞つまれり。「の」字を入れバ口にたまれり。さめ馬ハ雅がならず。紅梅・さび月毛・川原毛(かはらげ)、おもひめぐらして首尾セず。其後六(りく)が句を見て不才を嘆ず。實(げ)に畠山左衞門佐と云(いへ)バ大名、山畠佐左衞門と云ヘバ一字をかえず庄屋也。先師の句、調(ととの)ハずんバ舌頭に千囀せよと有しハ、こゝの事也。
*
「さめ馬」白眼(さめ)馬。両眼の毛の白い馬のこと。
・「調ぶる」「しらぶる」と読む。「しらぶ(調ぶ)」の連体形。楽器の調子を合わせる・音律を整える、又は、音楽を奏でる・弾くべきもの、の意で鳳作は使っている。
・「佶屈贅牙」「佶屈聱牙」の誤り。]
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