杉田久女句集 305 杉田久女句集未収録作品 Ⅺ 大正七年(6)
東公園
金魚はや買ふ家もありぬ若葉かげ
[やぶちゃん注:「東公園」は恐らくは現在の福岡市博多区東公園(これは町名)にある日本風公園の東公園のことと思われる(公園の一部は博多区千代及び東区馬出に入る)。福岡市経済観光文化局文化財部文化財保護課公式サイト「福岡市の文化財」の「東公園」には、『文永の役で元軍と激戦が展開された古戦場跡で、かつては博多湾に面する千代の松原として知られた名所であった』ものを、明治九(一八七六)年の太政官布告に基づいて公園とし、明治三三(一九〇〇)年からは福岡県最初の県営公園となった。『園内には、元寇にちなんで建立された亀山上皇銅像、日蓮上人の銅像のほか、福の神である恵比須神を祭った十日恵比須神社や元寇史料館がある』とある。ウィキの「東公園(福岡市)」には、『その後、公園周辺の開発により白砂青松の景観は失われるが、代わって』明治四三(一九一〇)年には『川上音二郎によって洋風劇場の博多座(現在の博多座はこの名を踏襲したもの)が建てられ』、昭和八(一九三三)年には『福岡市動物園が開園し』ている(動物園は後の太平洋戦争による戦局悪化により昭和十九年に閉園、戦後の動物園再建では南公園へと移転したとある)。]
茄子植ゑをへし泥鍬川にすゝぎけり
[やぶちゃん注:当時、一家は小倉市外日明(ひあかり)(福岡県企救(きく)郡板櫃(いたびつ)村字日明。現在の小倉北区日明)にいた。住居は関門海峡に注ぐ板櫃川河口に面していたと年譜にあるので、この「川」もその板櫃川であろう。]
牡丹にひねもす降りぬ新井筒
栗の花ちるや大屋根の雨に炊煙這ふ
牡丹散るを笊にひろえる夕かな
アネモネしきりに散るを惜しみて竈焚く
貝すりの膳に榮えたり牡丹の灯
[やぶちゃん注:「貝すりの膳」は貝摺(かいすり)の膳で、螺鈿細工を施した漆塗りの箱膳又はそこに盛られた漆器の膳椀を指していよう。]
膳椀の百人前や松の花
牡丹に家寶の繪皿出したり
若葉の旭板間に靑く流れたり
厨窓の障子はづして若葉濃し
牡丹咲くや梁すゝぶ大厨
次女光子
ひまはりに背丈負けたる我子かな
[やぶちゃん注:当時次女光子さんは満三歳前後(大正五(一九一六)年八月二十二日生まれ)。]
茶釜たぎるや大笊の新茶つかみ入る
よべ豪雨に焚かれぬ竈や柿の花
古俎のかび白く噴いて梅雨入かな
[やぶちゃん注:「古俎」は「ふるまないた」と読んでいるか。すると上七・中八という字余りになるが、私には却ってそれが「ついり」の饐えた雰囲気をよく出せるように感ぜられるのである。]
ゆすらの實赤し垣根に櫃干たり
[やぶちゃん注:「櫃干たり」は読みが不明。「ひつほしたり」では字余りの効果がないように思われる。「ひたり」は響きが悪い。これはただの直感だが「干(ほ)せり」の誤り(判読の誤りか誤植か)ではなかろうか?]
コレラ流行れば蚊帳つりて喰ふひるげ哉
[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年角川版「杉田久女句集」に大正七(一九一八)年の作として、
コレラ怖ぢ蚊帳吊りて喰ふ晝餉かな
が載る。そこで注したが、この二年前の大正五年の夏に本邦ではコレラが流行、死者七千四百八十二人を数えていた。蚊帳の中の食事というのは呪(まじな)いなんどではなく、れっきとしたコレラ感染予防の蠅対策で、当時は小児の昼寝の際などにも蚊帳を吊ることが奨励されていた。]