『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 和田平太郎胤長屋敷蹟
●和田平太郎胤長屋敷蹟
荏柄天神社の前なり。胤長建保元年三月。奥州に配流の後。此宅地闕所(けつしよ)たるにより。昵近の諸士各是を所望す。然るに四月二日北條義時に此地ありしかは。即義時、金窪左衛門尉行親、安東兵衛尉忠家に割(さ)き與(あた)ふ。各爰に移住せり。今陸田の字に存せり。
[やぶちゃん注:この記載は頗る不十分である。まず、和田胤長(寿永二(一一八三)年~建暦三(一二一三)年)は、鎌倉幕府御家人で信濃源氏であった泉親衡が亡き将軍源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立して執権北条義時を打倒しようとしたとされる泉親衡の乱(私はこの乱自体が謀略と考えている)の首謀者の一人として陸奥国岩瀬に配流となったのであるが、彼は和田義盛の甥に当り、義盛は一族挙げて助命歎願を訴えたが(首謀者として捕縛された義盛の子義直と義重は赦免されていた)、結局、配流と決してしまう。しかもそうした際に欠所となった土地屋敷は一族連座が適応されない個別な罪状による個人の所領没収の場合、同族にそれを還付するのが原則であったにも拘わらず、強引に(当時の将軍実朝は義盛への屋敷地の引き渡しを一度許諾していた)義時が召し上げてしまい、自身の被官らにこれを与えた上、屋敷にいた義盛の代官を追い出してしまうのである。これが直後の和田合戦の直接の動機となったのであった。この辺りの詳細は、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る付謀叛人白状竝和田義盛叛逆滅亡〈和田義盛の嘆願と義憤そして謀叛の企て〉」を参照されたい。ここはせめて「鎌倉攬勝考卷之九」の、
和田平太胤長第跡 荏柄天神の大門路より、西の畠地をいふ。【東鑑】に、胤長が屋地、荏柄の前に有て、御所の東に隣り、昵近の士各々是を望み申す。然るに今日、義盛は五條局に附て愁申ていふ、故將軍家の御時より、一族が領所收公の時、いまだ他人に賜らず。彼地は宿直祗候の便あり。拜領せんことを申す。忽是を達しければ、殊に喜悦のおもひをなす。然處、翌四月二日、此地を義時に賜ひける。行親・忠家兩人にわかち與へ、義盛が代官久野谷彌次郎を追出す。是義盛が、憤りを含み、逆心の一ケ條となれりといふ。
ぐらいは書くべきところである。
「建保元年三月」建暦三年三月。同年十二月六日に建保に改元されている。
「陸田」「りくでん」と読む。畑のこと。]
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