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« 飯田蛇笏 山響集 昭和十三(一九三八)年 冬 | トップページ | 篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅳ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして―― 了 »

2014/11/18

篠原鳳作 芭蕉小論  (Ⅲ) ――芭蕉の末期の病床にシンクロして――

 呼びかけの形式はとらずとも、それに劣らず主觀を力強く吐露した句が芭蕉には、すこぶる多い。

 

野ざらしを心に風のしむ身かな

○露しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き

死にもせぬ旅寢の果よ秋のくれ

○山路きて何やらゆかしすみれ草  (以上野ざらし紀行)

 寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき

○鷹一つみつけてうれしいらこ崎

 春の夜や籠人ゆかし堂の隅

○父母のしきりに戀し雉子の聲

○蛸壺やはかなき夢を夏の月    (以上芳野紀行)

 あらたふと靑葉若葉の日の光り

 笠島はいづこ五月のぬかり道

○夏草やつはものどもが夢の跡

しづかさや岩にしみ入る蟬の聲

○あかあかと日はつれなくも秋の風 (以上奧の細道)

 

 以上の句を拾ふに際し、自分はいたく迷はざるを得なかつた。其は主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句が相當ある事であつた。たとへば

 

 辛崎の松は花よりおぼろにて

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音

 何の木の花とも知らず匂ひかな(伊勢山田)

 五月雨をあつめて早し最上川

 

等である。

 芭蕉の比較的客觀句を拾つて見よう。

 

 三十日月(ミソカ)無し千とせの杉を抱く嵐

 秋風や藪もはたけも不破の閑

△あけぼのやしら魚白き事一寸

△海くれて鴨のこゑほのかに白し

 年くれぬ笠きて草鞋はきながら

 水取やこもりの僧の沓の音  (以上野ざらし紀行)

 枯芝ややゝかげろふの一二寸

△草臥れて宿かる頃や藤の花

 雲雀より上にやすらふ峠かな

 一つぬいで後ろに負ひぬ衣がへ

 ほとゝぎす消えゆく方や島一つ  (以上芳野紀行)

 蚤虱馬の尿するまくらもと

△涼しさやほの三日月の羽黑山

 雲の峰いくつ崩れて月の山

 荒海や佐渡によこたふ天の川

 月淸し遊行のもてる砂の上

 浪の間や小貝にまじる萩の塵

 

大體以上の如きものであるが、現在我々の目から見ても感覺的にすぐれた句と云へば――客觀的句中に於ては△印の四句位のものである。其の他に於ても乏しい。

 芭煮はたしかに感覺的にすぐれた才能を持つてゐたであらうが、其の作品に感覺的に優れた作品は乏しい。

 彼は感覺を現代の俳人ほどに重視しなかつたのである。「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪の如くすべし」と彼はむしろ感覺を超えて直ちに自然の生命へ參入する事を第一としたからである。其角が「山吹や蛙とびこむ水の音」としてはと云ふ意見をのべたのに其をしりぞけて

 

 古池やかはずとびこむ水の音

 

とした芭蕉である。「山吹や」と色彩を點じて句を生命の世界より現象の世界へ墮せしめる事を欲しなかつたのである。

 芭蕉にあつては句に色彩を點ずる場合と雖も「心他門にかはりて、さび、しをりを第一とす」である。

 即ち感覺を感覺として終らしめず、更に背後の世界へ入る門たらしめてゐるのである。

 彼の句が總て其に成巧してゐるとは云はないが、唯其を旨としてゐたと云ふ事は云へると思ふ。

 彼は「句と我とを一にせよ」と説いてゐるが、更に彼は句と身と、そして背後の世界――イデヤの世界とを一たらしめんとしてゐるのである。

 

 しづかさや岩にしみ入る蟬の聲

 鷹一つみつけてうれしいらこ崎

 塚も動け我が泣く聲は秋の風

 這ひいでよかひ屋が下の蟾の聲


  
是等の句に於ける蟬の聲、鷹一つ、泣く聲、蟾の聲――何れも單なる個的存在ではない。大いなる背後の世界へ融合する所のものである。云はゞ、蟬が鷹が泣聲が大きな光の暈をきてゐるのである。

 芭蕉は句を通して背後の世界へ參入しようとしたのである。

 芭蕉が多くの俳人を拔いて獨り千古の詩人たる所以は、實に此處にあるのである。

 句と身と一枚にすると云ふだけなら、一茶の如きは芭煮に匹敵しうるものであらう。然し一茶の句には背後の世界の輝きが乏しい。

 句と身と、そして背後の世界とが一體になつてゐると云ふ所が、芭蕉の芭蕉たる所以である。

 別言するならば、芭蕉の句には哲學し、宗教し、思慕する彼の魂がのりうつてゐるから偉いのである。

 新興俳句の缺點は淺い事にあると云はれるのは(花鳥諷詠句は尚勿論の事であるが)センスだけあつてフイロソフイがないからである。

 哲學しない藝術なんて要するに光らない螢である。芭蕉の哲學する精神、背後の世界を思慕する精神は、往往にして力強き主觀の吐露となり、自他に對する願望命令――即ち叫びの句となつてゐるのである。

 芭蕉に客觀の句がすくなく主觀の句、呼びかけの句が多いのはこの爲である。

 
 

[やぶちゃん注:原文は改行して続くが、ここに注を挟む。

 

・「野ざらしを心に風のしむ身かな」「野ざらし紀行」の題名にもなった以下の冒頭の一句。

   *

「千里に旅立ちて、路糧(みちかて)を包まず、三更月下無何(むか)に入る」と言ひけむ昔の人の杖にすがりて、貞享甲子(ぢやうきやうきのえね)秋八月、江上(こうしやう)の破屋をいづる程、風の聲、そゞろ寒げなり。

 

  野ざらしを心に風のしむ身かな

 

  秋十年(ととせ)却(かへ)つて江戸を指す故郷

   *

「千里に旅立ちて、路糧を包まず、三更月下無何に入る」の部分は、実際には「荘子」の「逍遙遊篇」の中にある「適千里者三月聚糧」(千里に適(ゆ)く者は三月糧を聚(あつ)む)と、五山文学の範とされた元の松坡宗憩(ずんばそうけい)撰になる禅僧の偈頌(げじゅ)集「江湖風月集」の中の偃渓広聞(えんけいこうぶん)の句「路不賷糧笑復歌 三更月下入無何」(路を賷(つつ)まず 笑つて復た歌ふ/三更月下 無何に入る)をカップリングしたもの。「三更」は午後十一時から午前一時、「無何」は「無何有(むかう)之郷」の略で自然体で何の作為動作も行わない、自由自在の無我の境地に入ることをいう。

「貞享甲子」貞享元(一六八四)年。

「江上の破屋」天和二(一一八三)年の焼亡の後に再建された第二次芭蕉庵。

「秋十とせ」芭蕉は寛文一二(一六七二)年に故郷伊賀上野を出発、この時まで十二年の間、江戸に住んでいた。因みにこの二句目は、中唐の詩人賈島(かとう)の詩「渡桑乾」(桑乾(さうけん)を渡る)、「客舍幷州已十霜 歸心日夜憶咸陽 無端更渡桑乾水 却望幷州是故鄕」(幷州(へいしふ)に客舍すること 已に十霜/歸心 日夜 咸陽を憶ふ/端 無くも更に渡る 桑乾の水/却つて幷州を望めば 是れ 故鄕)をインスパイアしたもので、愛すべき江戸蕉門らへの別れの挨拶句である。

 

・「露しぐれ富士を見ぬ日ぞ面白き」「露」は「霧」の誤り。「野ざらし紀行」で前掲の句に続いて、

   *

  關こゆる日は雨降りて、山皆雲にかくれたり。

 

   霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き

   *

と出る句。「關」は箱根の関所。

 

・「死にもせぬ旅寢の果よ秋のくれ」大垣の谷木因(たにぼくいん)亭での句。

   *

 大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武藏野を出る時、野ざらしを心に思ひて旅立ちければ、

 

死にもせぬ旅寢の果よ秋の暮

   *

「野ざらし紀行」は恐らくここで満尾とする予定であったものと推定されている。

 

・「山路きて何やらゆかしすみれ草」貞享二年三月中の句。「野ざらし紀行」では、伏見西岸寺での句の後に、

   *

   大津に至る道、山路をこえて

 

 山路來て何やらゆかしすみれ草

   *

と置くが、山本健吉氏は「芭蕉全句」で、後の熱田での歌仙発句として創られたものを、紀行では逢坂を越えて大津へ出る途中吟に仕立て直したものと推定されておられる。この句は「野ざらし紀行」序文で俳友山口素堂が『山路來ての菫、道ばたの木槿(むくげ)こそ、この吟行の秀逸なるべけれ』と称賛している句である(「道ばたの木槿」は大井川を越えてからの一句「道のべに木槿は馬にくはれけり」を指す)。新潮日本古典集成の富山奏校注「芭蕉文集」で富山氏は、この素堂の絶賛から『察するに、この句は』『木槿の句』『と同様に、意識・心情の深さから、平凡な自然現象の中に、かえって純粋で深遠な自然の生命を感得した作品であることがわかる』と評されておられ、その見解が鳳作の論とよく合致して興味深い。

 

・「野ざらし紀行」前では「野晒紀行」と表記している。同一論文での不統一は珍しい。

 

・「寒けれど二人寢る夜ぞ賴もしき」私の『芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる』を参照されたい。

 

・「鷹一つみつけてうれしいらこ崎」私の『芭蕉、杜国を伊良湖に訪ねる』を参照されたい。

 

・「春の夜や籠人ゆかし堂の隅」「籠人」は「こもりど」と読む。「笈の小文」には「初瀨」(長谷寺の初瀬観音)と前書。貞享五(一六八八)年三月二十日の夜の情景である。この前日、芭蕉は杜国とともに伊賀を発ってこの日に長谷寺を詣で、その夜に参籠した。この「籠人」は高貴な女人に違いなく、私は芭蕉の恋句(初瀬観音は恋の成就の祈願所として知られていた)として特に偏愛する一句である。

 

・「父母のしきりに戀し雉子の聲」「笈の小文」には「高野」と前書。貞享五年三月中の句。山本健吉氏前掲書によれば、『松尾家の宗旨は真言宗で、先祖の鬂髪(びんぱつ)も、芭蕉の故主蟬吟』(せんぎん:藤堂良忠。伊賀国上野の城代付き侍大将藤堂新七郎良清(良精とも)の三男で芭蕉は少年期に良忠の扈従として出仕していた(現在では芭蕉は農民出身とする見解が主流である)。参照したウィキの「蝉吟」によれば、『良忠が松永貞徳や北村季吟について俳諧を嗜んでいた縁で芭蕉も俳諧を始めたと』される。ところが寛文六(一六六六)年四月二十五日に蟬吟は二十五歳で夭折してしまい、『芭蕉は良忠の遺骨を高野山におさめ、それよりして無常を観じて故郷を出奔し、一所不在の身で俳諧に専念するようになったという』とある。)『の位牌もここの納骨堂に納めてあった。また、』この『先月二月十八日には伊賀の実家で亡父三十三回忌法要を営み、また母の没後五年』目でもあったことから、芭蕉が『高野山に登ったのは、父母の供養という意味があったのだろう』と記しておられる。一句は「玉葉和歌集」所収の吉野山で詠まれた行基の「山鳥のほろほろと鳴く聲聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」をインスパイアするが、これにつき、個人ブログ「ぶらりぶらり見て歩記」の「今も生き続ける空海・高野山3」に、鶴田卓池の自筆稿本「柏青舎聞書」から以下の芭蕉自筆の長い遺文が載るのでこれを恣意的に正字化、読みを歴史的仮名遣にして追加し、読点も一部に加えて引用させて戴く。なおこれは山本氏の前掲書にも、文化七(一八一〇)年刊の士朗著「枇杷園随筆」に「高野登山端書」と仮題した芭蕉の遺文として一部を省略したほぼ同文のものが載っている。

   *

高野のおくにのぼれば、靈場さかんにして、法のともしび消る時なく、坊舍、地をしめて、佛閣、いらかを並べ、一印頓成(いちいんとんじやう)の春の花ハ、寂莫の霞の空に匂ひて、鐘の聲、鈴のひゞきも肝にしミておぼえ、猿の聲、鳥の啼(なく)にも腸を破るばかりにて、御廟(ごびやう)を心靜(しづか)に拜み、骨堂のあたりにたたずみて、倩(つらつら)おもふやうあり。此處(このところ)は多(おほく)の人のかたみ、集れる所にして、我(わが)先祖の鬢髮(びんぱつ)をはじめ、したしくなつかしきかぎりの白骨も、このうちにこそおもひこめつれと、袂もせきあへず、そゞろにこぼるゝなみだをとゞめかねて、

    父母の しきりに戀し 雉の聲           翁

   *

この雉子の声は実景であろうが、「焼け野の雉(きぎす)夜の鶴」(巣のある野を焼かれると雉子は身の危険を忘れて子を救おうとし、寒夜に巣籠る鶴は自身の翼で子を蔽って守るという故事、子を思う親の情の非常に深い譬えを受けていることは言うまでもない。

 

・「蛸壺やはかなき夢を夏の月」「笈の小文」では「明石夜泊」と前書。貞享五年四月二十日の作(但し、実際には明石には泊まらず、夜道を戻って須磨で泊まった)。安東次男氏は「芭蕉百五十句」で本句の「はかなき夢」を「源氏物語」の「明石」の帖にある、同じ卯月の一夜の相聞、

 一人寢は君も知りぬやつれづれと思ひあかしの浦さびしさを(明石の入道の娘の歌)

と、

 たび衣うら悲しさに明かし侘び草の枕は夢も結ばず(光源氏の返し)

に基づく一種の艶句として解釈され、諸家が『「夏の月」を当夜その場で出会った事実として、海底の蛸壺に情を寄せる式にたわいもなく読んでいる』『のは解釈とはいえない』と一刀両断しているのは、踝から胼胝(たこ)、基、目から鱗、痛快にして同感で、流石は正調安東節である。

 

・「あらたふと靑葉若葉の日の光り」私の評釈

 

・「笠島はいづこ五月のぬかり道」私の評釈

 

・「夏草やつはものどもが夢の跡」私の評釈

 

・「しづかさや岩にしみ入る蟬の聲」私の評釈

 

・「あかあかと日はつれなくも秋の風」私の評釈

 

・「以上の句を拾ふに際し、自分はいたく迷はざるを得なかつた。其は主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句が相當ある事であつた」ここまで鳳作はやや紋切型の二元論的な主観/客観の分類学に固執してしまっている気味がある。ここでその根本的な誤りに気づいるようだが、そうすると論が進まない。痛し痒しで続けているという気が私には少しする。しかし着眼点はやはり面白いと言えるし、この後の展開も必ずしも誤っているとは思わない。

 

・「辛崎の松は花よりおぼろにて」「野ざらし紀行」の句で、「湖水の眺望」と前書する句。恐らくは貞享元年四月中の句で、大津東今颪町にあった三上千那(せんな)の別院での作と推定される。千那は大津堅田の本福寺第十一世住職で大津蕉門の重鎮。山本氏前掲書によると初案は、

 

辛崎の松は小町が身の朧

 

であったらしく、改作して、

 

辛崎の松は花より朧かな

 

とするも、後の貞享元年五月十二日附千那書簡では、

 

辛崎の松は花より朧にて

 

でご記憶願いたいとしているとある。芭蕉の飽くなき推敲が思い知られる。

 

・「ほろほろと山吹ちるか瀧の音」「笈の小文」の句で、「西河(にしかう)」という前書を持つ。貞享五年三月二十二日か二十三日頃の作と推定される。「西河」とは吉野郡川上村大字大滝にある「西河(にしこう)の滝」で吉野大滝とも称するが、実際には滝ではなく激流である。「古今和歌集」の紀貫之の「吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへうつろひにけり」を元とするものの、思い切ったオノマトペイアの視覚が聴覚へと一気に転ずるという、非常に斬新な一句となっている。鳳作が『主觀的とも客觀的とも思はれる完全な主客融和の句』とするのも故なしとしない。

 

・「何の木の花とも知らず匂ひかな(伊勢山田)」「笈の小文」の句(前句「ほろほろと」よりも前に出る)。「伊勢山田」は前書。二月四日に伊勢神宮に参拝した際の感懐(山田はその後に興行を行った益光亭の地名らしい)。西行の「山家」に載る「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」の本歌取りであるが、山本氏は前掲書でさらに西行の「ねがはくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃」もインスパイアされているとされ、作句時期からも同感出来るが、山本氏はこれを益光亭の庭の実際の梅の花となさりたいようである(益光の付句「こゑに朝日を含むうぐひす」に拠るもの)。しかし寧ろ、山本氏も『この句の「匂」は神域から匂い出てくるものだから必ずしも花でなくてもよい』と前に記しておられるように、富山奏氏の前掲書で『現実に花の匂がしたにしても、一句は芭蕉の心象風景である』という評言を私はよしとしたいし、鳳作がこの句を敢えて引いたのもその『心象』にこそ目が止まったからに違いないと思われる。

 

・「五月雨をあつめて早し最上川」私の評釈

 

・「三十日(みそか)月無し千とせの杉を抱く嵐」「野ざらし紀行」貞享元年八月三十日の、偶然か、前の「笈の小文」の「何の木の」の句と同じ伊勢山田での句。本文とともに引く。

   *

 腰間(えうかん)に寸鐵をおびず、襟に一囊(いちなう)をかけて、手に十八の珠(たま)を携(たづさ)ふ。僧に似て塵(ちり)あり、俗ににて髮なし。われ、僧にあらずといへども、髮なきものは浮屠(ふと)の屬(ぞく)にたぐへて、神前に入ることを許さず。

 暮て外宮(げくう)に詣ではべりけるに、一の鳥居の陰ほのくらく、御燈(みあかし)ところどころに見えて、また上もなき峰の松風、身にしむばかり、深き心を起して、

 

  三十日月なし千年の杉を抱く嵐(あらし)

   *

「寸鐡」小刀(しょうとう)。武士でないことをいう。「一囊」僧が首に掛ける共感や布施を入れるための頭陀袋(ずだぶくろ)。「十八の珠」数珠。「塵」俗臭。「浮屠の屬」僧侶の類い。富山氏の注に『外宮の僧尼拝所には五百枝(いおえ)の杉と称する神杉の大樹があった』とある。

 

・「秋風や藪もはたけも不破の閑」美濃国の歌枕不破の関所跡(岐阜県関ヶ原市)で、実際に秋も末のことであった。言わずもがな、「新古今和歌集」の藤原良経の名歌「人住まぬ不破の関屋の板びさし荒れにしのちはただ秋の風」を実景の実感としてリアルに俳諧化している。

 

・「あけぼのやしら魚白き事一寸」十月、伊勢桑名の浜(山本氏によれば桑名の東郊外、浜の地蔵辺りで木曾川の河口付近とある)での吟詠。前文に、

 草の枕に寢あきて、まだほのぐらきうちに濱のかたに出でて、

とある。初案は、

 

雪薄し白魚しろき事一寸

 

であったが、芭蕉は初五を「此五文字いと口おし」(「笈日記」)とし、「あけぼのや」と直している。透徹した鮮烈の印象句で私の偏愛する句である。

 

・「海くれて鴨のこゑほのかに白し」熱田での句。「野ざらし紀行」では、「海邊に日暮(ひくら)して」と前書、「俳諧 皺筥物語」(しわばこものがたり・東藤編・元禄八(一六九五)年跋)では、「尾張の國あつたにまかりける比(ころ)、人々師走の海みんとて船さしけるに」と前書する。「俳諧 蓬莱島」(よもぎじま・闌更編・安永四(一七七五)年刊)では巻末に「貞享岩塩臘月十九日」と記す(岩波文庫中村俊定校注「芭蕉俳句集」に拠る)。これは「ほろほろと」とは逆に聴覚印象が夢幻的に視覚に転ずることによる、寂寥感の余韻醸成が実に美事である。

 

・「年くれぬ笠きて草鞋はきながら」十二月二十五日に故郷伊賀へ着いて後の感懐吟。「野ざらし紀行」には、「爰に草鞋をとき、かしこに杖を捨て、旅寢ながらに年の暮ければ、」と前文する。故郷の地にあっても敢えてそこを旅の宿りとするところに風狂の旅に生きんとする芭蕉の覚悟が込められていることに気づく。

 

・「水取やこもりの僧の沓の音」「野ざらし紀行」の奈良東大寺二月堂での修二会(しゅにえ)の句。安東次男氏の名評釈(私のブログ記事)をご覧あれ。

 

・「枯芝ややゝかげろふの一二寸」「笈の小文」故郷伊賀上野滞在中の一句。「曠野」では、

 

枯芝やまだかげろふの一二寸

 

の句形で載る。感懐をストイックに抑えた「やゝ」の方を私は採る。

 

・「草臥れて宿かる頃や藤の花」「笈の小文」には、吉へ向かう途次として、

   *

 旅の具多きは道ざはりなりと、物皆拂ひ捨たれども、夜の料にと紙子(かみこ)ひとつ、合羽(かつぱ)やうの物、硯・筆・紙・藥など、晝餉なんど物に包みてうしろに背負ひたれば、いとど臑(すね)よわく力なき身の、あとざまにひかふるやうにて 、道なほ進まず、ただ物うき事のみ多し。

 

  草臥(くたぶれ)て宿かる頃や藤の花

   *

と描かれてある。但し、実はこの句、元は、

 

  丹波市(たんばいち)、やぎと云(いふ)處、耳なし山の東に泊る

ほとゝぎす宿かる頃や藤の花

 

という夏の句として作った(書簡等によって確認出来る。後述)ものを、春の句に改案してここに恣意的に挿入したものであった。「草臥れて」という上五を選んだことで、これが芭蕉が好んだ「徒然草」第十九段の「藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し」を念頭におきつつ、実体験の倦怠と旅愁を描いたものであるということが俄かに伝わってくるようになった。「ほとゝぎす」のままだったら、如何にもな句として最後にはこのシークエンスごと、捨てられていたように私には思われる。この「笈の小文」の構成自体も時間的な操作が加えられてあって(というよりこの句を一つネガティヴなアクセント史として配するためにといった方がよいように感じられる)、実際には吉野遊山のずっと後の四月十一日の吟であることが芭蕉の四月二十五日附猿雖(えんすい)宛書簡によって判明している。

 

・「雲雀より上にやすらふ峠かな」吉野へ参る途中の臍(ほぞ)峠(現在の奈良県の細峠。奈良から吉野に至る「吉野越え」と称されるルートの一つで、桜井から談山神社のある多武峰を通って吉野に至る。標高約七百メートル)に於いて三月二十一日頃、詠まれた句であるが、鳳作が引くのは「曠野」に載る句形で、「笈の小文」では(〔 〕は割注)、

   *

  三輪  多武峯(たふのみね)

  臍峠  〔多武峠より龍門(りゆうもん)へ越ゆる道なり。〕

 

雲雀より空にやすらふ峠かな

   *

個人的には「空に」の方が、天馬空を行くが如く突き抜けていて、遙かによいと思う。

 

・「一つぬいで後ろに負ひぬ衣がへ」「笈の小文」。「衣更」と前書。とすれば、四月一日の吟となる。現在の和歌山市南方の和歌の浦近くでの吟。文字通り「軽み」の重さが軽快に芭蕉の肩へふうわりとかかる小気味よい句である。因みに、「笈の小文」では杜国が、

 

 吉野出て布子賣たし衣がへ  万菊

 

とこの句に和して、載る。

 

・「ほとゝぎす消えゆく方や島一つ」須磨の鉄拐(てっかい)山(神戸六甲山南西にある。海抜二三七メートル。北に鵯越(ひよどりごえ)・南西に鉢伏山・南東の麓には一の谷という、源平の古戦場の直近)山頂より淡路島の方を遠望した際の吟とされる。これは「千載和歌集」夏之部の後徳大寺左大臣の「ほととぎす鳴きつる方を眺むればただ有明の月ぞ殘れる」の本歌取り乍ら、その声を裁ち入れて、その声が消えた彼方に島影(「鳥影」では断じてない)が幻のように浮かんでいるのである。さながら――マグリットの絵のように――

 

・「蚤虱馬の尿するまくらもと」私の評釈

 

・「涼しさやほの三日月の羽黑山」私の評釈

 

・「雲の峰いくつ崩れて月の山」私の評釈

 

・「荒海や佐渡によこたふ天の川」私の評釈

 

・「月淸し遊行のもてる砂の上」私の評釈

 

・「浪の間や小貝にまじる萩の塵」私の評釈

 

・「現在我々の目から見ても感覺的にすぐれた句と云へば――客觀的句中に於ては△印の四句位のものである。其の他に於ても乏しい」やや厳しい裁断である。というより、失礼ながら鳳作はこれらの句に潜んでいる感覚の夢幻的な自在にして驚くべきメタモルフォーゼ(私はそれこそ当時の新感覚派的なるものであったと言ってさえよいと考えている)が十分に呑み込めていないのではないかと私は深く疑っている。

 

・「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪の如くすべし」前出の「祖翁口訣」の一節。

 

・『其角が「山吹や蛙とびこむ水の音」としてはと云ふ意見をのべたのに……』この話、尤もらしく鳳作は書いているが、私も聴いたことはあるものの、どうも今一つ、私には不審に感じられるものであった。実際にかく書かれたものは本人は勿論、第一世代の門人たちの著作にも見当たらないようである。ただ、ウィキの「古池や蛙飛びこむ水の音」には、本句の初出は貞享三(一六八六)年閏三月刊の「蛙合」(かわずあわせ)で、次いで同年八月に「春の日」に収録されたものであるが、「蛙合」『巻末の仙花の言葉によれば、この句合は深川芭蕉庵で行われたものであり、「古池や」の句がそのときに作られたものなのか、それともこの句がきっかけとなって句合がおこなわれたのか不明な点もあるが、いずれにしろこの前後にまず仲間内の評判をとったと考えられる』。『「古池」はおそらくもとは門人の杉風が川魚を放して生簀としていた芭蕉庵の傍の池』と推定されており、元禄一三(一七〇〇)年の「暁山集」(芳山編)『のように「山吹や蛙飛び込む水の音」の形で伝えている書もあるが、「山吹や」と置いたのは門人の其角である。芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が「山吹や」と置いたのを受けて「古池や」と定めた。「山吹」は和歌的な伝統をもつ言葉であり、そうした言葉との取り合わせによる華やかさや、「蛙飛ンだる」のような俳意の強調を退け、自然の閑寂を見出したところにこの句が成立したのである』とあるので、こうしたシチュエーションもありかなという気はしている。山本健吉氏の「芭蕉全句」によれば『伝説』とした上で、所載するものとして元禄五年刊の支考の「葛の松原」を揚げておられる。原本画像を入手出来たが、読み下す意欲が湧かないので、いつもお世話になっているムーミンパパ氏の「葛の松原(支考著)」から引用させて戴いてお茶を濁すこととする(例によって恣意的に正字化した)。

   *

 弥生も名殘お(を)しき比にやありけむ、蛙の水に落る音しばしばならねば、言外の風情この筋にうかびて、「蛙飛こむ水の音」といへる七五は得給へりけり。晋子が傍に侍りて、「山吹」といふ五文字をかふ(う)むらしめむかとを、よづけ侍るに、唯「古池」とはさだまりぬ。しばらく論ㇾ之、山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實也。實は古今の貫道なればならし。

   *

なるほど、確かに、という感じではある。しかし、である。何より無心に、この、

 

  山吹や蛙飛び込む水の音

 

という句を眺めて見よう。山本氏はこれを思いっきり学術的且つギリギリ好意的に、『山吹と蛙の取合せは伝統的で、二物触発の上に、晩春の濃厚な季節情趣がただよい、句柄が重くねばっている』と評されている。しかしこれ、どう見ても私には、無能な日曜画家が目立とう精神で彩色をやらかしっちまった、お粗末な絵にしか見えないのである。どこかの曖昧宿に埃を被って斜めに傾いで掛かっているような絵だ。そもそもが上五と中七以下が、何ら、精神によって繋がっていない、如何にもヘンテコリンな句にしか私には見えないのである。そもそもが鳴く蛙は声は和歌の伝統にあっても、飛ぶ蛙の水音は歌語にはないはずである(少なくとも日本古典集成「芭蕉句集」で今栄蔵氏はそう断言しておられる)。

 ともかくも取り敢えず以下、同ウィキから引いて本句のデータを纏めておくと、「蛙合」の編者は『芭蕉の門人の仙化で、蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)二十四番に出された』四十『句に追加の一句を入れて編まれており、芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。このときの句合は合議による衆議判制で行われ、仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようである』とし、『一般に発表を期した俳句作品は成立後日をおかず俳諧撰集に収録されると考えられるため、成立年は』貞享三年と見るのが定説であり、同年正三月下旬に、『井原西鶴門の西吟によって編まれた『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で芭蕉の句が出ており、これが初案の形であると思われ』、『「飛ンだる」は談林風の軽快な文体であり、談林派の理解を得られやすい形である』とある。

 気がつくのは寧ろ、初出と見て間違いない、

 

古池や蛙飛ンだる水の音

 

と、現行の、

 

古池や蛙飛びこむ水の音

 

の大きな印象の相違の方である。「飛んだる」はまさにウィキの最後で述べられている通り、談林派の受け狙いが見え見えの用字であって、その主眼はアッケラカンとした同派に媚びる低レベルな滑稽以外の何ものでもない。ところが「飛びこむ」とした途端に、この句は禅の公案のような静寂を湛えた水墨画に鮮やかに変容する。そうして先の其角の置いた「山吹や蛙飛び込む水の音」のけばけばしい黄色は言うに及ばず、まさしく「他門の句は彩色のごとし、我門の句は墨繪のごとくすべし」という「祖翁口訣」の戒めが美事にだぶってくるように私には思われるのである。この句を前にした門人たちは会心の笑みを漏らしたに違いない。違いないが、彼らの笑みは自ずと、談林の連中がバレ句のような低次元のいやらしい表現に浮かべていた軽佻浮薄な笑いとは、全く以って異なったものであったのである。

 

・「心他門にかはりて、さび、しをりを第一とす」同じく「祖翁口訣」の一節。


・「成巧」「成功」の誤植。

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