橋本多佳子句集「海彦」 菊作者 Ⅲ
猛かりし鵙よ隻翼拡げて見る
鱗雲ことごとく紅どこから暮る
櫨採唄(はぜとりうた)なぜ櫨採りの子となりしと
[やぶちゃん注:「櫨」ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum 。木蠟(もくろう)を製するための果実採取をしている情景を詠んだものか。木蠟とはこのハゼノキの果実を蒸して圧搾し、そこから採取される高融点の脂肪質で、和蝋燭・坐薬や軟膏の基剤・ポマード・石鹸・クレヨンなどの原料として利用される。参照したウィキの「ハゼノキ」によれば、『日本では、江戸時代に西日本の諸藩で木蝋をとる目的で盛んに栽培された。
また、江戸時代中期以前は時としてアク抜き後焼いて食すほかすりつぶしてこね、ハゼ餅(東北地方のゆべしに近いものと考えられる)として加工されるなど、飢救作物としての利用もあった。現在も、食品の表面に光沢をつけるために利用される例がある』とある。また、ウィキの「木蝋」には、『生蝋(きろう)とも呼ばれ、ウルシ科のハゼノキ(櫨)やウルシの果実を蒸してから、果肉や種子に含まれる融点の高い脂肪を圧搾するなどして抽出した広義の蝋。化学的には狭義の蝋であるワックスエステルではなく、中性脂肪(パルミチン酸、ステアリン酸、オレイン酸)を主成分とする』。『搾ってからそのまま冷却して固めたものを「生蝋」(きろう)と呼び、さらに蝋燭の仕上げ用などにはこれを天日にさらすなどして漂白したものを用いる。かつては蝋燭だけでなく、びんつけ、艶(つや)出し剤、膏薬などの医薬品や化粧品の原料として幅広く使われていた。このため商品作物として明治時代まで西日本各地で盛んに栽培されていた』。『長崎県では島原藩が藩財政の向上と藩内の経済振興のため、特産物として栽培奨励をしたので、島原半島で盛んにハゼノキの栽培と木蝋製造が行われた。特に昭和になってから選抜された品種、「昭和福櫨」は、果肉に含まれる蝋の含有量が多く、島原半島内で広く栽培された。木蝋製造は島原市の本多木蝋工業所が伝統的な玉絞りによる製造を続け、伝統を守っている』とあり、また、『愛媛県では南予一体、例えば内子(内子町)や川之石(八幡浜市、旧・西宇和郡保内町)は、ハゼノキの栽培が盛んであった。中でも内子は、木蝋の生産が盛んで、江戸時代、大洲藩6万石の経済を支えた柱の一つであった。明治期には一時、海外にも盛んに輸出された』とあり、本句、特に詠唱地が記されていないが、これらの名産地の孰れかであったかとも思われる。]
噴井の水遁げをり葡萄作りの留守
乳(ち)足り子を地におき葡萄採りいそぐ
葡萄畑男が走り日に斑(ふ)ゆれ
葡萄樹下処女身に充つ酸さ甘さ
葡萄の房切るたび鋏の鉄にほふ
鶏頭もゆ疲れしときを伏し隠れ
穴まどゐ身の紅鱗をなげきけり
[やぶちゃん注:「穴まどゐ」「穴惑い」でるから本来は「穴まどひ」が正しい。秋彼岸を過ぎても冬眠のための穴に籠らずにいる蛇のこと。鱗が赤い色を帯びるとなると、有鱗目ヘビ亜目ユウダ科ヤマカガシ
Rhabdophis tigrinus 若しくはヘビ亜目クサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシ
Gloydius blomhoffii が想起される。孰れも毒蛇であるが、多佳子のアブナい句としてはマムシとしたい私と、実際の紅い鱗というイメージでは実体験上、ヤマカガシの紅い帯が好きな私の双方がいる。因みに、私は蛇好きである。]
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