では
では――
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では――
今年最後の「耳囊」。来年は絶対、「耳囊」全十巻を完成させます!!!
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熊本城内狸の事
細川越中守在所にて鑓劔上手(さうけんじやうず)を召抱(めしかかへ)けるが、相應の長屋等を可給(たまふべき)處、折節屋敷無之(これなく)、見立(みたて)相願(あひねがひ)候樣、當人並(ならびに)役人へも申渡有之(まうしわたしこれある)ゆゑ相糺(あひただし)候處、家作(かさく)も相應にて屋敷も格式より廣き所明(あ)き居(ゐ)候ゆゑ、右を拜領致度(いたしたき)段申立(まうしたて)候處、右屋敷は前々より怪異あり、殊に右に住居(すまひ)候もの異變ある間、無用の旨、老職其外差留(さしとめ)けれど、某(それがし)は外の事にて被召抱(めしかかへられ)候にも無之、武術の申立にて御抱(おんかかへ)に相成(あひなり)、右樣(みぎやう)の儀承り御免を願(ねがひ)候ては、我身計(ばかり)にも無之、主君の不吟味(ふぎんみ)の一つなれば、是非右屋鋪(やしき)拜領を願ひけるに任せ主人も許容ありければ、日限(にちげん)に至り家内引連(ひきつ)れ從者共も一同引移り、家作の手入れなして立派に普請(ふしん)できあがりけるに、何の怪異も更になし。日數(ひかず)餘程たちて夜(よ)深更に及び、一人の男來りて燈(ひ)のもとに座(ざ)しける。何者なれば深夜に閨中まで來りしと尋(たづね)ければ、我等は此屋鋪に年久敷(ひさしく)住むものなり、御身引移りて我等甚だ難儀の由を申けるゆゑ、汝何ものなればかゝる事は申すや、定めて狐狸の類ひなるべし、我は拜領の屋鋪なれば今更明渡(あけわた)すことなりがたし、汝も年久敷住む事なれば、我等並(ならび)に家内等迄も目にかゝらざるやう住居の儀は勝手次第なり、若し女子供抔おどし或は人をたぶらかす事抔あらば、我(われ)取計(とりはから)ふ旨ありと申(まうし)ければ、畏(かしこま)り候由にて歸りぬ。其後折節出て機嫌など聞(きく)ゆゑ家内抔は恐れけれど、恐るべき筋なしと相應の挨拶なし置(おき)ぬ。半年も立(たち)て、かの者來りて申けるは、段々懇命(こんめい)に預り忝(かたじけな)し。一つの御願(おんねがひ)ありて罷越(まかりこし)候由にて、麻上下(あさかみしも)抔着して例の男まかりぬ。いかなる事やと申ければ、何卒御屋敷のはしに拾間(じつけん)四方程(ほど)の地面を給(たまは)り候へと申ける故、心得たる間(あひだ)繩張いたし置(おき)候樣(やう)申付(まうしつけ)、右の場所に勝手に普請可致(いたすべき)旨申ければ、忝(かたじけなき)由申立(まうしたて)歸りぬ。其翌日屋敷の片隅に拾間四方程の繩張致し、其夜きやりの聲などして普請にても致す體(てい)なれば、不思議の事なりと皆々恐れけれど、主人は全く狐狸なるべしと、聊(いささか)も心に不懸(かけず)、打捨置(うちすておき)ぬ。然るに或夜最前(さいぜん)の男、此度(このたび)は駕(かご)にのり、家來共(ども)外(ほか)由々敷(ゆゆしく)出立(いでたち)、麻上下着用、美々敷(びびしく)玄關迄來り、此間の御禮に罷越(まかりこし)ぬ、御目通(おめどほ)り相願(あひねがふ)旨申ける故、座敷へ通し面會なしければ、誠に年來の志願、御影(おかげ)にて相調(あひととの)ひ難有(ありがたし)、右に付(つき)、何卒私方へも被爲入被下(いらせられくだされ)候樣致度(いたしたく)、勿論御氣遣(きづかひ)の儀は聊(いささか)無之(これなく)、麁末(そまつ)の料理差上度(さしあげたき)旨にて、念頃(ねんごろ)に申述(まうしのべ)、菓子折持參なしけるゆゑ、念入(ねんいり)候儀忝(かたじけなし)、いつ幾日には可罷越(まこありこすべし)と約束して歸しぬ。家内下々までも、右折は定(さだめ)て穢敷(けがらはしき)ものなど詰置(つめおき)しならんと、忌み恐れけれど、開き見るに、城下の菓子や何某(なにがし)の製にて聊(いささか)疑敷(うあたがはしき)事なし。給(たべ)見候にかわる事もなければ、家内の者抔、某の日渠(かれ)が元に行(ゆか)ん事を禁じけれども、心だにすわりあらば何ぞ害をなすべきとて、更に不用い(もちいず)、屋敷の隅かれに與へし所へ至りけるに、玄關樣(やう)の所ありて數手桶(かずてをけ)などならべ、立派なる取次(とりつぎ)の侍兩三人出て座敷へ案内せしに、隨分綺麗に立(たて)し普請にて、左迄(さまで)廣きといふにもあらず。其所にて酒吸物(すひもの)抔出し、亭主殊の外歡び候體(てい)にて、是より勝手へ被爲入(いらせられ)候樣いたし度(たき)旨申けるゆゑ、案内にまかせ通りけるが、是よりは化(ばか)されたるなりと、後に語りける由。段々庭内抔通りて一つの座敷へ至りしに、廣廈金殿(くわうかきんでん)遖(あつぱれ)れの住居(すまひ)にて、種々の料理手を盡し馳走なし、土產(みやげ)の菓子抔折詰結構(おりづめけつかう)を盡し歸しけるとなり。さて宿元へ歸りて右の荒增(あらまし)をかたりしに、土產の折詰は、彌(いよいよ)婦女子抔恐れ合(あひ)しが、給(たまひ)候に替(かは)る事なければ、不審ながら、人に語るべきにもあらされば打過(うちすぎ)ぬ。四五日過て、例の男供𢌞(ともまは)り美々敷(びびしく)、麻上下を着し來りて、此間の御禮に罷出(まかりいで)候由ゆゑ、座敷へ通し、家來にも供𢌞り等心附(こころづけ)、異變あらばかくせよと密(ひそか)に申付(まうしつけ)けるが、彼(かの)男麻上下を着して、此間は忝(かたじけなき)段厚(あつく)申越(まうしこし)、誠に海山(かいさん)の厚恩(こうおん)謝(しや)するに所なし、何(なん)ぞ御禮可申上(まうしあぐべき)と心附、持傳(もちつた)へし一刀是(これ)ある間(あひだ)、是を獻上致度(いたしたし)と申けるゆゑ、忝(かたじけなく)は存候得(ぞんさふらえ)ども、持傳へと有れば其許(そこもと)の寶なり、無益の心遣ひと斷(ことわり)けれど、折角の志なり迚、則(すなはち)箱を取寄(とりよ)せ緞子(どんす)の袋入(ふくろいり)の刀を取出(とりいだ)し差出(さしだす)間(あひだ)、請取(うけとり)、先づ一覽可致(いたすべし)と、彼(かの)刀を拔き改め見るに、誠に其刃(やいば)氷玉(ひようぎよく)ちるが如く、ごうの義廣(よしひろ)なるべしと、賞美(しやうび)なすふりに、彼(かの)男を一刀兩斷に切付(きりつけ)ぬれば、わつと云(いひ)て倒(たふ)れけるが、この物音を聞(きき)て、供(とも)せしものどもは逃去(にげさら)んとせしを、家來供(ども)立出(たちいで)、捕へんとせしが、とりどり狸の姿をあらはし逃去(にげさ)りける。かくして役人へも申立(まうしたて)ければ、早速打寄(うちより)見分なせしに、やはり最前の男、切殺(きりころ)されぬれど形を不變(かへず)。しかれども家中にて知れる人にあらず、奴僕(ぬぼく)の怪敷(あやしき)形ちを顯(あらは)し逃去(にげさる)るうへは、老狸(ろうり)の類ひ急には本性あらはさぬものなりとて、さらし置(おき)しに、後(のち)は狸の形を顯はしける。さて段々糺しけるに、右料理と申(まうす)は、主人の臺所へ申付(まうしつけ)、渠が住居と思ひしは二の丸にてありし由。刀は主人寶蔵(ほうざう)に籠置(こめおく)品にて、土用干(どようぼし)抔のせつ、取隱(とりかく)し置くものならん。かく妖怪を不切殺(きりころさず)ば、追(おつ)ては不念(ぶねん)になりて其身の果(はて)ともなるべきと、皆々恐れ合(あひ)ぬとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。ここから三話連続で本格狐狸怪異譚となる。
・「熊本城」「細川越中守」熊本藩主細川家は第二代忠興(ただおき)以降、越中守を名乗っており、特定は出来ないが、特に第三代当主細川綱利(寛永二〇(一六四三)年~正徳四(一七一四)年)は、大石良雄始め赤穂浪士十七人を預かり、その切腹まで立ち会って激しく共感した人物として知られる。本話の当主としては如何にもぴったりくるように私には思われる。因みに当代(「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏)ならば、第八代細川斉茲(なりしげ)ではある。
・「住居(すまひ)」この場合の「居」は当て字であり、歴史的仮名遣はあくまで「すまゐ」ではなく、「すまひ」が正しい。
・「不吟味」原義は、よく吟味しないこと。取り調べを十分にしないことの謂いであるが、ここは、藩主から武術を以って雇われし者が、自ら望んだる屋敷を、そのたかが妖しき怪異故に拝領を藩主がまた差し止めたとあっては、如何にも風聞が悪く、藩主自身の名誉に瑕疵を残すことになるという、実に明快なる論理である。
・「懇命」懇意にして親切なる仰せ。
・「拾間四方」一八・二メートル四方。百坪相当。この主人の屋敷は(私の感覚では)かなり広いことが分かる。
・「きやり」木遣り。大木などを多人数で音頭(おんど)をとりながら運ぶこと。
・「志願」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『心願』とするのを訳では採った。
・「給(たべ)」は底本編者のルビ。
・「數手桶」この「數」は接頭語で、「あまり上品ではない・ありふれた」の意。現在は死語となった用法である。
・「遖(あつぱれ)」は底本編者のルビ。
・「緞子」繻子織り(しゅすおり:経(たて)糸と緯(よこ)糸の交わる点を少なくして布面に経糸或いは緯糸のみが現われるように織ったもの。布面に縦又は横の浮きが密に並んで光沢が生すると同時に肌触りもよい高級織布。)の一つ。経繻子(たてしゅす)の地にその裏織り組んだ緯繻子(よこしゅす)によって文様を浮き表わした光沢のある絹織物。室町中期に中国から渡来した。「どん」「す」は孰れも唐音である。
・「刃氷玉ちるが如く」研ぎ澄まされた刀が輝くさまをいう。かつての活動写真の弁士が剣劇で常套句として用いた「抜けば玉散る氷の刃」と同じい。
・「ごうの義廣」底本では「ごう」の右に『(郷)』と補注する。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『郷の義弘』とし、実在の刀工としてはバークレー校版が正しい。こちらは話柄が怪異譚であるから実名から意図的にずらす意識的変字ともととれるが、現代語訳では実在する郷義弘(生没年不詳)で採った。以下、ウィキの「郷義弘」より引用する。『南北朝時代の越中の刀工。越中国新川郡松倉郷(現在の富山県魚津市)に住』んだが、実に二十七の若さで没したと伝えられる。『師は岡崎正宗または佐伯則重と云われ、「郷」と通称する(後世には「江」の字もあてられた)』。相州伝の流れを生んだ知られた名工『正宗十哲の一人であり、相州正宗、粟田口吉光とともに天下三作(豊臣秀吉による)と呼ばれるほど珍重され、各大名はこぞって手に入れたがった。しかし、義弘と在銘の作は皆無であり、鑑定家の本阿弥が極めをつけた代物、無銘であるが郷だろうと言われるものしか存在しない。また、作風が似た刀を本阿弥が郷に出世させたものもあるという。そのことから、「郷とお化けは見たことがない。」と言われるほどであった。ただし、これは存在を疑うものではなく、在銘品のないことを言ったまでである』。新刀期の名工長曽祢興里(ちょうそやおきさと。「虎徹(こてつ)」の名で知られる)が私淑したと言われ、『その作を狙った刀を打ち、井上真改、南紀重国など一流の刀工たちもこの作を写したりしており、後世に与えた影響は大きい』。『恐らく、全ての日本刀の中で最も入手困難なものの一つである。国宝、重要文化財の刀がある』とあり、『義弘の現存作刀で在銘のものは皆無である』と注する。
・「不念」無念。不注意なこと。考えが足りないこと。
■やぶちゃん現代語訳
熊本城内の狸の妖異の事
熊本藩主細川越中守殿、在所に於いて、槍剣(そうけん)の名手を召し抱えられて御座ったが、その者に相応の長屋なんどを賜わんとされたものの、折から、手頃なる屋敷が、これ、見当たらず、
「ともかくも検分致いて相応の屋敷を見定め、拝領を願い出るように。」
と、細川殿より直々に、その当人及び職掌の役人へも申し渡いた。暫く致いて、主君より、かの屋敷の話は如何なった、と、じかにお糺しがあった。
されば、本人より、
「家作(かさく)も分相応のものと存じ、しかも、屋敷も我らが格式より広き所の、これ一軒、空いておりますを、見出しまして御座いますれば、お言葉に甘え、これを拝領致しとう存じまする。」
との言上(ごんじょう)で御座った。
ところが、担当の者がこの屋敷を確かめてみると、これが、訳ありの屋敷であることが分かった。
老中その外の家臣一同、
「……かの屋敷は、これ、前々より……その、怪異の御座いまするところの、いわくつきのものにて。……ことにそこに住んでおりましたる者には、これ、悉く、異変の御座いましたによって。お畏れながら、その儀はお差し止めになられたが、よろしゅう御座いまする。」
としきり申し上げた。
ところがその家士の方は、その話を伝え聴くや、
「某(それがし)は外の用にて召し抱えられたる者にては、これ、御座ない。まさに武術の見所ありと賜わってこそ御抱えに相い成ったる者。かようなる怪異あるとの儀を承っては、なおのこと、それに対し、御辞退を願い出づるなどと申すことは、これ、あってはならざることじゃ。それは我が身の問題どころでは、これ、御座ない。御主君の不名誉の一つともなろうずると存じますればこそ、是非ともその屋敷の拝領を、曲げて、お願い申し上げとう、存じ奉りまする。」
と逆に懇請致いた。
されば、細川殿もその謂いに感心なされ、謂うに任せて御許容が御座ったと申す。
さても、決まったる日限(にちげん)に至って、家内の者を引き連れ、従者(ずさ)下男ども一同にて、かの屋敷へと引き移り、少しく荒れたる家屋の手入れなんども成して、かなり立派に普請の終って御座ったと申す。
したが、これ、噂のような怪異は、一向に、御座ない。
ところが、日数(ひかず)もよほど経った、ある夜(よ)のこと。
深更に及び、かの屋敷の主人が私室へ、突如、一人の妖しき男が姿を現わした。
男は締め切ったる部屋の、書見の灯しのもとに、忽然と座して御座ったが、主人は、これ、少しも騒がず、
「――おぬし。何者なれば、この深夜に、かくも奥向きの、この我らが部屋に参ったものか?」
と訊ねた。すると、
「……我らは……この屋敷に……年久しゅう……住む者にて御座る……が……御身(おんみ)が……こちらへ引き移られてよりこのかた……我ら……はなはだ居心地の悪しゅう御座って……難儀致いて御座る……」
と、如何にも常人ならば卒倒する亡者染みた蒼ざめたる顔にて、如何にも地の底から響く如(ごと)恨めし気なる言い方にて、呟いた。されど、主人は、
「――汝、何者なれば、かくなる理不尽をば申すものか?――定めし、狐狸の類いに違いあるまい。ここは我らが御主君より拝領の屋敷。なれば、今更、明け渡すことなど、成り難きものじゃ。――汝も年久しゅう住むとのことなれば、我ら並びに家内(いえうち)の者らの目に、見えぬように住まい致すならば、これ、勝手次第じゃ。――但し、もし、女子どもなどを脅かし、或いは人を誑かすことなど、あらば――これ――我、取り計い方の――ある――そう、覚えおくが、よい。」
と告げた。すると、男は、
「……畏まって御座いまする……」
と素直に応じ、そのまま部屋を出て行った。
その後(のち)は、この男、折りにふれて、主人の前に現われ出でては、ご機嫌伺いなどと称して、普通に雑談なども致いて御座った。
その相手する主人が声は、これ時に家内の者にも聴こえ、彼らは殊の外、奇異に感じ、恐れ戦いて御座ったが、主人はといえば、
「――何の。恐るる程にては、これ、なき輩(やから)じゃ。」
と、その後(にち)も常人と変わらざる挨拶など交わし、捨て置いたと申す。
そうしてまた、かれこれ、半年も立った頃のことで御座った。
かの者がまた来たった。このたびは、見れば、麻裃(あさがみしも)などを着し、平伏して、
「……このところ……いろいろと……真心の籠ったる寛大なる仰せを頂戴致いて……まっこと……忝(かたじけな)きことにて御座いまする……が……さても……恐縮乍ら……ここに一つの御願いの……これ……御座いまして……かく罷り越しまして御座いまする……」
と申す。
「――如何なることか?」
と質してみれば、
「……何卒……どうか……この御屋敷の端に……十間(じっけん)四方ほどの地所をお下し下さいませ……」
と申す。されば、
「――心得たによって、明日すぐに、適当なる地所を繩張り致しおくよう、申し付けおこうぞ。――その場所に普請致すはお手前、勝手次第じゃ。」
と即許致いた。されば、
「……忝(かたじけの)う存じまする……」
と額(ぬか)を畳みに摺らんばかりに平伏すると、また帰って行った。
その翌日、屋敷の片隅に十間四方ほどの繩張りを致させたところ、その日の夜半には、木遣(きや)りの声なんどのして、まるで普請でも致すような雰囲気で御座ったれど、かと申して、その声のする辺りには、これ、明かり一つも見えず、家内の者ども皆、
「不思議なることじゃ……」
とこれまた、恐れ戦いて御座ったれど、主人はこれまた、平気の平左、
「――全く畜生たる狐狸の成すことに、過ぎん。」
とこれっぽちも気にかけることなく、打ち捨てておいたと申す。
翌朝になって見ても、繩を張ったる辺りには、見た目は、何の変わりも御座らなんだ。
しかるに、それから暫くしたある夜(よ)のこと、先前(さいぜん)の男が――このたびは立派なる大名駕籠に乗って、家来ども他、大勢の者を引き連れ、正門を通って屋敷を訪ねて参った。その出で立ちたるや、まっこと由々しく、またしても麻裃を着用、美々(びび)しきさまにて、玄関まで厳かに通り来たり、
「……この間(かん)の御礼に罷り越して御座る……御目通り……相い願い上げ奉りまする……」
と中に通して参ったによって、相応の武家の格式に則っとり、座敷へと通し、対面(たいめ)致いた。
すると、かの男は、
「……誠に年来の心願……御蔭さまにて……相い調え終え……有り難く存じ上げ申し上げまする……つきましては……何卒……私めが方(かた)へも……おみ足をお運び戴きまするように致しとう存じますれば……いや……勿論……御気遣いその他の儀は聊かも……これ……御無用にて御座いますれば……粗末なれど……御料理など差し上げとう存じまする……」
なんどと、殊勝なることを申し述べ、しかも家来の者に命じ、持参致いた菓子折なども差し出して御座った。
されば、主人は、
「――実に念入りなる仕儀御礼、これはまた、却って忝(かたじけな)きことにて御座る。……されば、そうさ、来たる○月○日には、貴殿が屋敷を訪問致さんと存ずる。」
と、きっと約束して、帰した。
家内にては、下々の者までも、
「……この折りには、きっと穢らわしき馬糞のようなるものなんどが、詰めおかれてあるに違いない!……」
などと申しては忌み恐れて御座ったれど、試みに開けさせて見るに、ちゃんとした御城下老舗の菓子やら、知られた何某(なにがし)本舗の製なる高級なる品々にして、これ、いささかも疑わしきところは御座らなんだ。実際、家来の者ども皆して、おっかなびっくり食べて見たところが、何のおかしなところものぅ、美味にして、右党(うとう)の老いたる家臣などは、
「これは! 確かに! かの御用達の老舗が銘菓に相違、御座らぬ!」
なんどと、真顔で太鼓判を押す始末で御座った。
しかれども、家内の者らは一人残らず、〇月○日に、かの妖しき男が元へ主人の赴かんとするを諌め制止して御座ったれど、
「――心だにどっしりとさせておれば、如何なる変化(へんげ)も、これ、我らに何の害をか加うること、出来ようものか!」
と聴く耳持たず、結局、制止諫言をも全く用いず、その当日、屋敷の隅の、かの男に与えた地所へと参った。
――と――
何時の間にこんなものが、と吃驚するような大きなる玄関の如き建て物のあって、そこにはありふれた手桶なんどまでも整然と並べ据えられて御座って、また、立派なる取り次ぎの者が、これ、合わせて三人も出で来て、恭しく彼を迎えると、座敷内へと案内(あない)致いた。
導かれた客間は――これは随分と綺麗に建てられたる――相応に金のかかったる普請で御座った――まあ、かと申して――それほどだだっ広いと申すわけでも、これ、御座ない。
ま、謂わば、まっこと、質素高雅なる趣き深き造りでは御座った。
そこにて酒や吸い物などが出だされ、対する亭主――かの妖しき男――は、これ、殊の外、歓待の心の極みといったる体(てい)にして、
「……さても……これより……奥の勝手方(かってがた)へも……ずずいと……お入り戴きとう……存ずる……」
と申したによって、申すがまま、案内(あない)にまかせ、奥へと入った。
〔*根岸注:かの主人の後日談によれば、『…あの折り、ここより後は正直、化(ばか)されて御座ったようには思われましたな。…』とのことで御座った。〕
そこからさらに奥庭内に開いたる廊下などを案内(あない)され、ずんずんと通り抜けてゆくと、またしても一つの建て物の座敷へと辿り着いて御座った。
が、これがまあ――棟高く且つ広き――大きなる美しき豪華な――遖(あっぱ)れの住まいにして――そこにて、種々の料理が出だされ、手を尽くしたる馳走をなし呉れ、土産(みやげ)の菓子の折詰なんどまで含め、実に用意万端怠りなく饗応された上、帰ったと申す。
さてもその日、自身の屋敷へと帰って、今日の夢の如き饗宴のあらましを、家人らに語ってみたものが、相変わらず、土産の贅沢なる折詰には、いよいよ、婦女子ら揃って恐れ戦き合(お)うて御座った。されどやはり、口にして見れば、貰い来ったそのままに、馬糞にも何にも、変化(へんげ)致すこと、これ、なければ、恐る恐る食うては、秘かに舌鼓を打って御座った。
そうしたさまを笑みを浮かべて黙って見ていた主人は、
『……まあ……たしかに不審なことばかりではあったが……凡そ、この女子どもと同じく……他人に語っても、これ、容易には信じて貰えるような話では、ない、のぅ……』
と独りごち、やはり、そのままにうち過ごして御座ったと申す。
それから、四、五日ばかり過ぎてのこと、例の男が、またしても供廻りを大勢引き連れ、またまた麻裃を着して来たり、
「……この間(あいだ)の御来訪……まことに……嬉しゅう存じましたれば……このたびは……お出で戴いたるその御礼がために……罷り出でまして御座いまする……」
と申したによって、取り敢えず、座敷へと通しおいた。
しかしこのたびは、考えのあって、蔭にて家来をこっそりと呼びつけ、
「……よいか。……かの怪しげなる供廻りの者どもにも、注意を怠らぬように! 皆のものに、異変あらば、しかじかの仕儀を成すよう告げおけ! よいな?!」
と密かに申しつけておいた。
麻裃を着したる男は、
「……この間は忝(かたじけな)くも御来臨を賜わりまして有り難く存じまする……」
と慇懃に再礼成した後、
「……誠に……あなたさまの……深く高き御厚恩(ごこうおん)に……謝(しゃ)するには……これ……術(すべ)も所も御座いませぬ……なんぞ……御礼申し上げずんばならずと心づきましたれば……我らが家に……古えより……もち伝わったるところの……一太刀(ひとたち)……これ……御座いますれば……これを……あなたさまに……ご献上申し上げとぅ存ずる……」
と恭しく礼拝した。主人は、
「――それは忝(かたじけな)くは存じ候えども、貴殿の伝家の宝刀となれば――それはそれ、そこもとの宝で御座る。――それは凡そ、無益なる心遣いというもので御座るぞ。」
と辞退致いた。
ところが、男は、
「……我らが折角の志し……にて御座いますば……どうか……」
と食い下がって参り、すぐに家臣風の者を呼び、刀箱(かたなばこ)を取り寄せると、緞子(どんす)の袋に入ったる刀を取り出だし、主人に徐ろに差し出だいた。
されば、仕方なく、主人はそれを受け取って、
「――ともかくも――まずは一覧させて貰おうかの。」
と、その刀を静かに抜き放って改め見たところが、
「ウム!!」
――まことに
――抜けば玉散る氷の刃(やいば)
「……これは――郷義弘(ごうのよしひろ)――とお見受け致す。」
と、しきりに相槌を打っては、感嘆賞美(しょうび)せんとする振りをしつつ
〔*根岸注:『…いや、半ばはまことに感心致いて御座った…』(主人後日談より)〕
その瞬間! かの男を、その郷義弘(ごうのよしひろ)の太刀を以って!
――バラリ! ズン!
一刀両断に切りつけた。
「わつ!」
と一声挙げて、男はその場に倒れる。
この物音を聴きつけた、供(とも)をして参った眷属どもは、これ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去らんとする。
それをそこら中に潜み構えて御座ったこの家(や)の家来や門弟どもが、屋敷裏手の藪や前栽(せんざい)の後ろから踊り出で、捕り押えんとする。……と……
――散り散りに逃げる武士どもの顔が……
――尖がって鬚がわっと生え
――尻のあたりに……
――もっこり尻尾が飛び出でて
――遂には皆々
――一人、いやいや、一匹残らず
――四つん這いの狸そのものとなって
――衣服から抜け出でては逃げ去って行く……
……後には、殻になったる麻裃が、地べたに、だらしのぅ、累々と、横たわって御座ったと申す。
かくして、すぐに役人へも申し立てたれば、早速、役方の面々が、惨劇のあったこの屋敷へと検分に参ったが、主人が斬り殺したる先前の男は、これ、未だにやはり、切り殺されたるままに形を変えず、人のまま座敷に横たわって御座った。
しかれども、この死にたる男、検分役に参ったる御役人連中も口を揃えて、
「……御家中の見知れる者の中には、このようなる者は、御座らぬ。……家来風の輩(やから)が、妖しき形を現わして、散り散りに逃げ去ったと申さるる上は……そうじゃ。老いたる狸の類いは、これ、直ぐには姿を現わさぬものじゃと、よう、話に聞いて御座る。されば、今、少し……」
と、今暫く、遺体を庭に引き下ろして曝しおいたところが……
……やはり
……その日の黄昏(たそがれ)時には
……すっかり
……狸の姿を現わして
……畜生の亡骸を
……そこに横たえて御座ったと申す。……
さてもそれより、検分役の者らが、かの主人に、かの妖しき御殿での饗応を始めとして、いろいろと質してみたところが……
……かの折りに出でたと申す料理や折詰と申すは、これ――当日、御城厨房方へ申しつけられた、追加の膳と命ぜられたものして、怪しくもその当日に、その出来上がった追加の分のみが、何処かへ行方知れずと相い成ったなったもの――いや、そもそもが追加も折詰も、これ、奥方よりは注文して御座らなんだとも申す――まあ、それと全く同じ品で御座ったことが判明した……。
……また、かの男の住居と思うて御座った場所は、主人の証言より――お城の中の、二の丸に御座る部屋――とそっくりであることが、これも分かって御座った。……
……そうして――かの郷義弘(ごうのよしひろ)の名刀――これも、何と、藩主細川家の宝蔵(ほうぞう)に、大切に保管されて御座った名品にて、先の夏の土用干しの折りなんどにでも、どうも、こっそり奪い取ってどこぞへ隠しおいておいたものであろう、との結論に達して御座った。
ともかくも、かくも、この妖怪を斬り殺さずにおいたとならば、以上みたような、あらゆる場面に於いて、結果して重大なる不注意を生じさせ、あらゆる人々が、いろいろなる責任不行き届きの処分を下され、遂には、何人もの者が、あたら、命を落とすこととともなったに違いないと、皆々、恐れ合(お)うたと、申したということで御座る。
*
淡路門崎(とざき)
渦潮見る断崖上のわが背丈よ
波あげて鵜岩の孤独わだなかに
渦潮に対ふこの大き寂しさに
燈台守よたぎつ渦潮汝(な)とへだつ
渦潮の圏にて鵜岩鵜を翔(た)たす
渦潮見ていのち継がむと吾立てり
渦潮見て荒き心を隠さざる
生き身疲る渦潮のはやく衰へよ
渦潮去る香を奪はれし髪そゝけ
渦潮のおとろへざるに断崖去る
南風(はえ)の迫門渦潮の刻解かれ
[やぶちゃん注:「淡路門崎」本州側の最先端鳴門岬のある現在の兵庫県南あわじ市阿那賀(あなが)の門崎。これは昭和二九(一九五四)年七月の年譜に載る、『淡路洲本の朝倉十艸に招かれ、誓子と同行、渦潮を見る』とある折りの吟である。「南風(はえ)」と辛うじて夏の季語を出だす。則ち、これらの句は基本、無季である点でも特異であることに気づかれたい。かなり意味深長な強烈な句群――と私は見る。……いや、多くは語るまい。なお、老婆心乍ら、「迫門」は「せと」で瀬戸と同義。]
伊予行
春夜解纜しづかに陸を退(しりぞ)けて
[やぶちゃん注:初五は「しゆんやかいらん」(春の夜に艫綱(ともづな)を解いて出船すること)と読んでいよう。すると自動的に「陸」は詰屈に「くが」と私は読みたくなる。標題が「伊予行」で、後の句に「八幡浜」が出るから、これは愛媛県西端にある佐田岬半島の付け根に位置する八幡浜への船旅の始まりであることが分かる(但し、出港地がどこかは定かでない。広島か。ただ夜の出帆というのが気になる)。年譜の昭和三一(一九五六年の条に、『四月、八幡浜の「七曜」支部発表会に出席』というのがそれであろう。]
春夜解纜それ以後潮のたぎちづめ
春夜解纜陸の燈ひとつだに蹤き来ず
[やぶちゃん注:「蹤き」は「つき」と読む。]
幾転舵春潮の舳(へ)に行方あり
春夜どの岬ぞ吾を呼ぶ燈台は
また転舵春夜の寄港短くして
海風に尾羽根(をは)を全開恋雀
[やぶちゃん注:「尾羽根」三字で「をは」とルビを振る。]
八幡浜郊外に緬羊を飼ふ百姓家多く
毛を刈る間羊に言葉かけとほす
かなしき声羊腹毛刈られをり
羊毛刈る膝下に荒きけものの息
羊毛刈る人とけものの夕日影
毛刈り了ふ赤膚羊がかたまり啼き
羊啼く毛を刈る鋏またあやまち
(三十一年)
[やぶちゃん注:底本では最後に本句集「海彦」の『(昭和三十二年二月二十五日発行角川書店刊)』という書誌データが載る。]
後記
「海彦」は「紅絲」に次ぐ第四句集である。昭和二十六年春から、三十一年春まで約五年間の作を収めた。
私の俳句は「紅絲」の延長であるが、旅に出る機会に恵まれ、健康のゆるす限り旅に出て旅の句を多く作つた。身体の弱い私は病気の隙をねらつてはそれを敢てしたやうである。しかし私には特に旅の句を作らうと云ふ意識はなく、その日その時にぶつかつた素材を通し、おのれの心に触れたものに徹して詠むだけであるが、旅に出れば心に触れる新しい事物に接することが多く楽しかつた。今後も折さへあれば旅に出たいと思ふ。
句集「海彦」の名は昨年の暮、山口誓子先生にお伴して行つた土佐の旅の句から選んだ。
誓子先生から序文を頂いた。はからずもその旅中の私の姿が書かれてあり、有難いことと思ふ。
私の俳句は、「紅絲」の、内へ向けた歎きを経て次第に外へ向ひはじめたやうであるが、老婆を詠んでも、童女を詠んでも私は自分との生(せい)のつながりに於て見ずにはゐられない。さういふ年齢に達したのであらう。そこから私の句の新しいいとぐちが引き出されるやうに思はれる。
「海彦」の出版に当つて角川源義氏、志摩芳次郎氏に御配慮に預かつた。厚く御礼申上げる次第である。
昭和三十一年九月
奈良にて
生いつまで
桜大枝刃もので載りしすがしさ
春嵐鳩飛ぶ翅を張りづめに
四方の扉(と)を閉(さ)して静かに春の塔
生(せい)いつまで桜をもつて日を裹(つゝ)む
手がとゞくかなしさ桜折りとりぬ
(二十八年)
[やぶちゃん注:多佳子、五十四歳。]
鶯
春の暮白き障子を光とし
流水と関る藤が色に出て
[やぶちゃん注:「関る」は「あづかる(あずかる)」と訓じていよう。]
子がつくりし干潟砂城(すなじろ)潮満ち来(く)
卒業近しバスケツトボールはづむを摑み
切株ばかり鶯のこだまを待つ
蝶食ひし山蟻を許すか殺すか
枯崖に雨鶯の鳴きしあと
加太浦に誓子先生、静塔氏と遊ぶ 三句
ばらばらに漕いで若布(め)刈の舟散らず
[やぶちゃん注:「加太浦」は「かだうら」で和歌山県和歌山市加太と思われるが、昭和二九(一九五四)年の年譜の年初の辺りにはこの旅の記載はない。「若布」二字で「め」と読ませている。]
海人の掌窪(てくぼ)棘だつ雲丹の珠が載り
子が駆け入る家春潮が裏に透く
たんぽゝの金環いま幸福載せ
(二十九年)
和具大島
津田清子さんと同行志摩へ二日の旅をして
潮潜るまで海女(あま)が身の濡れいとふ
[やぶちゃん注:年譜に昭和三〇(一九五五)年春、清子同伴で志摩へ二日間の旅を楽しんだとある。「和具大島」の「和具」は三重県志摩市志摩町和具(わぐ)。前島(さきしま)半島の中心的な集落で、同県鳥羽市の伊勢湾口にある菅島(すがしま)や的矢湾の北の岬の相差(おうさつ)と並んで海女の多い地域として知られる。その「大島」は熊野灘上にある無人島。志摩町布施田(和具の西側で接する)の広の浜の沖合二・五キロメートルにある二十平方メートルの小島である。和具の八雲神社が所有する私有地で三重県指定天然記念物の「和具大島暖地性砂防植物群落」(昭和一一(一九三六)年指定)があり、ハマユウの花が咲く(北東約五百メートルの本土寄りに和具小島があって、大島と同じくハマユウが群生する)。大島・小島は浅瀬と岩礁に取り囲まれており、付近はイセエビを始め、アジやサバなどが獲れる漁師や海女の好漁場で、「和具の金蔵」とも呼ばれる(以上はウィキの「志摩町和具」に拠った)。]
海女舟に在り泳げざる身をまかせ
鎌遁れし若布が海女の身にからむ
あはび採(と)る底の海女にはいたはりなし
海女潜り雲丹を捧げ来(く)若布(め)を抱き来
[やぶちゃん注:「若布」二字で「め」と読ませている。]
南風(まぜ)吹けば海壊れると海女歎く
[やぶちゃん注:「南風」二字で「まぜ」と読んでいる。海上を南方から強く吹いて渡ってくる南風は「みなみかぜ」「なんぷう」以外に、漁師や船乗りらが「みなみ」「はえ」「まぜ」「まじ」「ぱいかじ」などと呼称し、これを天候が激変する予兆として強く警戒する。]
産みし乳産まざる乳海女かげろふ
海女あがり来るかげろふがとびつけり
かげろふを海女の太脚ふみしづめ
平砂に胸乳海女の濡身伏せ
春の日がじりじり鹹(から)き身が乾く
(三十年)
青葉木菟
青葉木菟記憶の先の先鮮か
[やぶちゃん注:「青葉木菟」は「あをばづく(あおばずく)」と読み、フクロウ目フクロウ科アオバズク Ninox scutulata のこと。ウィキの「アオバズク」によれば、全長二七~三〇・五センチメートル、翼開張六六~七〇・五センチメートル。『頭部から背面は黒褐色の羽毛で覆われる。下面の羽毛は白く、褐色の縦縞が入る。顔を縁取るような羽毛(顔盤)は不明瞭』。『虹彩は黄色。嘴の色彩は黒い。後肢の色彩は黄色』で、『オスはメスに比べて相対的に翼長が長く、腹面の縦縞が太くなる傾向がある』。『鳴き声は基本的に「ホッ、ホッ」と二回ずつで規則正しく分かりやすい』。『群れは形成せず単独もしくはペアで生活する。夜行性で、昼間は樹上で休む』。『食性は動物食で、昆虫類、両生類、爬虫類、小型の鳥類、小型哺乳類などを食べる』。『樹洞(時には庭石の間や巣箱)に巣を作り』、一回に二~五個の卵を産む。『抱卵はメスのみが行い、オスは見張りをしたりメスに獲物を運んだりする。抱卵期間は』約二十五日、巣立ちまでの日数は約二十八日で、『雛は巣立ち後、徐々に営巣木から周辺の林へ移動する』。『大木の樹洞に巣を作るため社寺林に飛来したり、昆虫類を食べるため夜間に街灯に飛来することもあり、日本では最も人間にとって身近なフクロウ』であるとある。グーグル画像検索「Ninox scutulata」。昼間の動画(1945tulip氏)と鳴き声(gaskg9氏)をリンクしておく。この「青葉木菟は」、前に注したが、年譜の昭和三〇(一九五五)年の八月の条に、『二十九日、俳句が出来ないので、津田清子に案内され、赤目の滝』(既注)『に吟行。滝本屋に一泊。宿の窓にみみずくが止る。幼鳥のときに拾われ、飼われて育ち、成鳥となり山に還されたもの。しかし、腹が空くと、餌をもらいに滝本屋にもどってくる』(「滝本屋」も同リンク先に既注)とある「みみずく」であろう。]
草炎や一歯(し)を欠きし口閉づる
春の蟬こゑ鮮(あたら)しくしては継ぎ
石光寺にて
牡丹百花衰ふる刻(とき)どつと来る
[やぶちゃん注:「石光寺」は「せつこうじ(せっこうじ)」と読む。奈良県葛城市染野にある浄土宗の寺。参照したウィキの「石光寺」によれば、『山号は慈雲山。本尊は阿弥陀如来。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説ゆかりの寺院である。境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたという井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。観光的にはボタンの寺として知られ、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、サルスベリなどが植えられている』。まさしく『牡丹・寒牡丹・芍薬と中将姫伝説で有名な奈良のお寺』と名打っている公式サイトはこちら。]
春の日の木樵また新しき株
手繰る藤素直に寄り来藤ちぎる
鶯の必死の誘ひ夕溪に
地上に母立つぴしぴしと椿折る
西の日に紅顕(た)ち来るや貴妃桜
[やぶちゃん注:「貴妃桜」楊貴妃桜。サトザクラ(グーグル画像検索「サトザクラ」)の一品種で花は大きく淡紅色の八重咲き。グーグル画像検索「楊貴妃桜」。
因みに、杉田久女は句にはこの貴妃桜を詠んだ連作がある。以下に示す。
掃きよせてある花屑も貴妃櫻
風に落つ楊貴妃櫻房のまゝ
花房の吹かれまろべる露臺かな
むれ落ちて楊貴妃櫻房のまゝ
むれ落ちて楊貴妃櫻尚あせず
きざはしを降りる沓なし貴妃櫻
……さても……誰が……美しくも哀しい楊貴妃だったのであろう…………]
信濃三月
句が作れず、春雪深き長野に一人旅立つ
雪原に没る三日月を木星追ひ
[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年の年譜に、『三月、句作れず、春雪の深い信州へ一人で行く。長野市の木口奈良堂居に滞在。積雪五尺余の内山紙漉場等へ吟行。湯田中へ泊る。連日雪崩つづく。小諸の小林朴壬居に泊る。バスにて雪崩の中仙道、和田峠を諏訪に行き、諏訪湖畔の伊東総子居に着く』とある。]
三日月を駆りて疾(はや)しや橇の馬
どこも雪解稚子より赤き毯ころがり
長野市木口奈良堂氏の許に滞在
階下に手斧(てうな)の音雪どんどん解くる
内山紙漉場へ行く、なほ積雪五尺余り
紙漉女(め)と語る水音絶間なし
日当ればすぐに嬉しき紙漉女
雪嶺が雪嶺を負ひ紙漉き老ゆ
深雪の下くゞり来し水漉場に入る
雪原の太陽乙女灼きに灼く
枯れ立つは胡桃雪嶺いくつも暮る
[やぶちゃん注:「内山紙」奥信濃の長野県下高井郡木島平村内山で寛文元(一六六一)年に始めたとされる手漉き和紙。詳細は内山紙協同組合公式サイトを参照されたい。]
湯田中に泊る、雪崩つゞく 三句
一夜の床敷きくるる乙女雪崩音
旅の髪よりつめたきピンをいくつもぬく
子守唄そこに狐がうづくまり
雪野暮れすぐ木星より光来る
一族の墓雪嶺(せつれい)根より真白
雪に一歩一歩何の荷ぞ子の負ふは
電線や雪野はるばる来て吾を過ぐ
ぅつむくときおのが息の香雪野にて
切れ切れの雪野の虹をつぎあはす
一粒の星もこぼさず雪の原
信濃雪解(ゆきげ)口をそゝぎて天美し
小諸小林朴壬氏を訪ふ 二句
鱗甘(うま)し雪解千曲の荒鯉なり
母のどこか摑みてどれも雪焼け子
赤き雪下駄見てそのをとめを見上げる
雪解の中仙道、和田峠をバスにて諏訪へ下る
千木(ちぎ)の屋根重しや雪消(け)ざる家
[やぶちゃん注:「和田峠」長野県長和町と下諏訪町の間にある。最大標高一五三一メートル。参照したウィキの「和田峠」によれば、まさに多佳子が越したこの昭和二八(一九五三)年に、和田峠を含む前後の区間が国道一四二号に指定されている。『和田峠トンネルは戦前戦後を通じ、坑口のコンクリート覆いを延伸するなどの対策で積雪等への対処が図られてきたが、幅員は』現在も自動車一台分強の狭いままで、『信号機を設置して交互通行するようにされている』。後の昭和五三(一九七八)年、『低い標高の新和田トンネルで貫通する新和田トンネル有料道路が』『開通したことで、旧道は幹線道路としての役割を終えた。旧道の国道指定は解除されていないものの、現在の幹線自動車交通の大半は新トンネル経由の新道で賄われている』。『また、尾根道のビーナスライン(旧霧ヶ峰有料道路)が旧中山道と交わるかたちで通っており、旧道のトンネルの長和側出口付近で接続されている(ビーナスラインが有料だった頃は料金所が設置されていた)。この連絡もあって、旧道は観光道路としての性格が強くなっている』とある。
「千木(ちぎ)」は現行では神社の大棟の両端に載せたX字状の飾り材で堅魚木(かつおぎ)(神社本殿の棟上に棟と直角に太い丸太上の飾り材を並べたもの)とともに神社建築のシンボルであるが、古くは上流階級の屋敷の棟にも設けられ、私も山家の旧家にこれを見たことがあるから、ここも神社と限定する必要はなかろう。]
山バスも春水も疾(はや)し平地恋ひ
雪解の泉飲まむとすれば天うつる
和田峠茶屋にて暮れる
ランプの焰(ほ)ペロリとゆがむまた雪崩れる
雪崩音暮るれば明きランプの辺(へ)
諏訪湖畔の伊東純子さんの家に着く
吾待たで諏訪の大湖凍解(いてと)けたり
寝ね足りぬ紅梅は蕊朝日に向け
雪解鳩よろこぶこゑを胸ごもらせ
卒業歌弾くこの家(や)のをとめまだ吾見ず
信濃いま蘇枋紅梅氷(ひ)解くる湖(うみ)
[やぶちゃん注:「蘇枋」は「すはう(すおう)」。ジャケツイバラ亜科ハナズオウ Cercis chinensis 。同定の根拠を含め、既注。]
諏訪のうなぎ氷解けて揺られ吾食(た)うぶ
寒夜
――春日神社節分
何あるといふや万燈(まんとう)のつゞきをり
行く方の未知万燈の火が混みあふ
万燈の一つが消えて闇あそぶ
万燈の万のまたゝき五十路(いそぢ)よき
[やぶちゃん注:この時(昭和三〇(一九五五)年か)、多佳子五十六。]
恍惚と万燈照りあひ瞬きあひ
一燈に執し万燈の万忘る
呼ばれしにあらず万燈の火のまどはし
万燈の闇にぬめぬめけものの膚
稔、渡米
冬芒幡(はた)なす加勢子を発たす
[やぶちゃん注:「稔」この昭和三〇(一九五五)年の六月に三女美代子さんが柴山稔と結婚して奈良あやめ池の家に同居したとあるが、年譜にはそこに渡米の記事はない。]
叔母渋谷多美子八十二の高齢にて逝く
遺身の香女帯の長さ冬日に巻く
[やぶちゃん注:「いしんのか/めおびのながさ/ふゆびにまく」と読むか。]
室戸崎
大病後初めて旅に出らるる誓子先生に従ひて
冬の巌この身を寄せしあともなし
巌の黙石蕗の一花を欠きて去る
[やぶちゃん注:いわのもく/つはのいつくわを/かきてさる」(いわのもくつわのいっかをかきてさる」と読むか。この辺りより、多佳子の句には漢語の熟語(音読み)が有意に増えるように私は感ずる。]
断崖の穂絮きらきら宙にあり
[やぶちゃん注:「穂絮」「ほわた」(チガヤやアシなどの穂の綿毛)と訓じていよう。]
椿咲く冬や耳朶透く嫗の血
枕かへし冬藩の音ひきよせる
冬濤の壁にぶつかる陸(くが)の涯
遍路の歩岬(さき)の長路をたぐりよせ
崎に立ちおのれはためき冬遍路
崎に立つ遍路や何の海彦待つ
遍路歩むきぞの長路をけふに継ぎ
[やぶちゃん注:「きぞ」老婆心乍ら、昨・昨夜と書き、万葉以来の昨日・昨夜の意の古語。]
遍路笠裏(うら)に冬日の砂の照り
遍路笠かぶりし目路にまた風花
[やぶちゃん注:「目路」は「めぢ(めじ)」で目で見通した範囲・視界の意。]
冬の泉冥し遍路の身をさかしま
遍路笠かぶれば冬涛ばかり充つ
女(め)遍路や日没る方位をいぶかしみ
[やぶちゃん注:「没る」は「いる」と訓じていよう。]
女(め)遍路や背負へるものに身をひかれ
孤(ひと)りは常(つね)会へば二人の遍路にて
眼前に浮く鴨旅に何責むや
龍舌蘭遍路の影の折れ折れる
(三十年)
[やぶちゃん注:昭和三十年の年譜に、『十二月、NHKの有本氏に招かれ、室戸岬の旅へ誓子と行く。健康を回復した誓子にとっての初めての旅。多佳子が誓子に教えを受けはじめてから三十年にもなるが、お伴して旅に出かけるのは初めてであると、しみじみ述懐』とある。]
奈良古梅園工房
[やぶちゃん注:奈良市椿井町にある創業以来四百有余年という奈良墨の老舗。個人ブログ「旅の記憶―travelogue―」のこちらの記事がよい。昭和三一(一九五六)年一月の年譜に、『誓子と奈良古梅園の工房に吟行』とある。]
墨は冬造るとて
寒墨踏む蹠(あうら)足趾(あしゆび)ねんごろなる
すでに汚る墨工が眼に触れしのみに
墨工のわが眼触れざる側(がは)も汚れ
かじかめるまゝ蝮指墨を練る
[やぶちゃん注:「蝮指」「まむしゆび」と読み、先端の関節だけがマムシが鎌首を擡(もた)げたようにくっきりと曲がるようになっている指をいう。]
雪の暮墨工の眼に墨むらさき
煤膚(すゝはだ)に隠れ墨工何思ふや
煤膚の墨工佳(よ)しや妻ありて
寒雀と墨工眼澄む夕餓ゑどき
墨工房せましわが香を畏れはじむ
墨工の黙つひに佳(よ)し工房去る
木枯に墨工房を狭く仕切る
倉造りの一房に数百のかはらけの油火を
並べ、油煙を採る
油煙部屋四方(よも)を壁天窓あるのみ
北風(きた)より入り百の油火(あぶらび)おどろかす
散華
近江八幡に泊り、暁の四時雪中に舟を
出し鴨を待つ
猟銃音殺生界に雪ふれり
[やぶちゃん注:昭和三十一年の年譜に、『二月十九日、、猟好きの尼崎の医師の案内で、近江八幡に鴨打ちに行く。清子同伴。自家用車に猟人の運転手、猟銃二挺。その夜は猟師宿(長命寺)に泊り、翌朝四時、雪しまく中、魚舟の中にコンロを持ち込み、筵を被って雪を避けつつ猟場へ』行ったとある。この「長命寺」とは滋賀県近江八幡市長命寺町の地名を指すのであろう(同所にある天台宗の長命寺では無論、あるまい)。]
雪はらはず鴨殺生(せつしやう)の傍観者
鴨撃つと鴨待つ比良の飛雪圏
[やぶちゃん注:「比良」近江八幡から見て琵琶湖の対岸(西岸)に連なる比良山地。古くから近江八景の一つ「比良の暮雪」で知られる景勝地である。]
猟夫(さつを)立つすでに殺生界の舟
雪中や絶対にして猟夫の意志
眼ばたきて堪ふ猟犬の身の殺気
猟人の毛帽雪つきやすしあはれ
鴨撃たる吾が生身灼き奔りしもの
鷺撃たる羽毛の散華遅れ降る
[やぶちゃん注:私の好きな鮮烈な映像句。]
鷺撃たれし雪天の虚のすぐ埋まり
猟夫の咳殺生界に日ざしたり
(三十一年)
枯崖
師誓子及び三鬼・暮石両氏に訪はれて
会はず 一句
留守を来てわが枯崖を如何に見し
[やぶちゃん注:「枯崖」「かれがけ」と読むか。冬枯れした崖の謂いで、聴き馴れぬ語ながらしっくりとはくる。ネット検索では、
一茎の鶏頭枯崖しりぞけつ 野澤節子
枯崖の下あるときは愛し合ひ 吉田三枝子
の用例を見出せる。]
飛火野荘(志賀直哉旧居)天狼同人会
直哉きゝし冬夜の筧この高さに
[やぶちゃん注:「飛火野荘」旧志賀直哉邸。奈良市高畑町にあり、この前年の昭和二八(一九五三)年より厚生省厚生年金宿泊所「飛火野荘」として使用されていた(昭和五三(一九七八)年まで)。現在は奈良文化女子短期大学セミナーハウス内「旧志賀直哉邸」として復元されている(学校法人奈良学園公式サイト内の「志賀直哉旧居」に詳しい)。]
寒き壁と遊ぶボールをうち反し
相うつは凍(い)つるや解くるや氷と波
綿虫飛ぶ天光の寵暮るるとも
風邪の髪解けざるところ解かず巻く
風邪の身に漢薬麝香しみにけり
黄八丈の冷たさおのがからだ冷ゆ
風花や葱が主(おも)な荷主婦かへる
(二十九年)
東大寺三月堂
同じ寒さ乞食の身より銭鳴り落つ
仏寒しわめける天邪鬼に寄る
天邪鬼木枯しゆうしゆう突く音(ね)立て
凍てゆくなべ壊れやまざる吉祥天女
虎落笛書祥天女離れざる
[やぶちゃん注:「虎落笛」老婆心乍ら、「もがりぶえ」と読む。冬の激しい風が竹垣や柵などに吹きつけて発する笛のような音。]
狐
狐飼はれてたゞに餌を欲る愛しさは
地を掘り掘る狐隠せしもの失ひ
狐舎を守る髪に狐臭が浸みとほり
われに向く狐が細し入日光
狐臭燦狐にはまる鉄格子
[やぶちゃん注:特異な表現句である。「こしう/さん//きつねにはまる//てつがうし」(こしゅう/さん//きつねにはまる//てつごうし)と読むか。「燦」は通常は視覚上の鮮やかに輝くさまをいうが、それをむっとする獣の臭いに響かせるのは面白い。個人的に欲を言うと「狐臭燦狐に嵌(はま)る鉄格子」とガッしと固めて見たい気はする。]
詩をしるす鉛筆狐きゝもらさず
唐招提寺
白羽子に息かけ童女斜視(すがめ)になる
独楽舐るいま地に鞭うちゐしを
独楽舐る鉄輪(かなわ)の匂ひわれも知る
溝乾く伽藍凩絶間あり
凍湖
諏訪湖の凍るを見に再びの来信を約せし
伊東槇雄氏僅か十数日のちがひにて急逝
さる。訪ひて霊前に額づく
漁夫の櫂わが眼の寒湖かきたつる
[やぶちゃん注:「伊東槇雄」年譜の昭和二九(一九五四)年の条に、『一月十一日、諏訪の凍湖を見に信州に行き、伊東総子方に泊る。諏訪湖の凍るのを見に、再び来信を約束した伊東槙雄は、僅か十数日のちがいで既に急逝。多佳子は深く霊前に額ずく』とある。多佳子はこの前年の三月にも諏訪を独り旅で訪れており、その際にもこの伊藤総子の家に泊っている(後掲)。年譜は伊東総子を名を最初に掲げているので、彼女が多佳子の俳句仲間であったか? この夫と思しい人物については不詳。同姓同名で「朝日新聞」のこちらの記事に載る、戦前戦中に製糸会社経営で京城(現在のソウル)で成功し財を成した(但し、敗戦で総てを失って帰国とある)朝鮮古陶磁の収集家とある人物と同一人物か?]
まどゐの燈ときに賭しや湖(うみ)凍つるか
凍潮青し指に纏(ま)きもつ木の葉髪
沖の鴨群それへいそげる鴨の翅
赤彦の氷魚(ひを)かも真鯉生きて凍て
[やぶちゃん注:島木赤彦(明治九(一八七六)年~大正一五(一九二六)年)の第三歌集は「氷魚」であるが、短歌嫌いの私には表題作を知らない。識者の御教授を乞うものである。]
月一輪凍湖一輪光りあふ
[やぶちゃん注:年譜により、この一句は間違いなく昭和二九(一九五四)年一月十三日の夜の景であることが分かる。この日、初めて(多佳子滞在中かこの年初めてかは厳密には分からないが、後者であろう)諏訪湖が凍っている。]
八ツ嶽山麓夜久野に「寒天」造りを見る。雪
野日に眩し
雪原の昼月(ひるづき)乾し寒天軽き
[やぶちゃん注:「夜久野」年譜によれば一月十二日の嘱目吟であるであるが、年譜にも『八ヶ岳の夜久野』とあるのだが、この「夜久野」という地名は私は知らない。ネットにも何故かかからない。識者の御教授を乞うものである。]
寒天煮るとろとろ細火鼠の眼
家鼠を見て野鼠が走るや雪明り
子を呼ぶや寒天の反射雪の反射
雪の上餌あるや雀胸ふくらみ
白き山白き野寒天造りの子
諏訪地酒「舞姫」いま寒醸りにいそがし
雪の酒庫男の手力扉(と)を開くる
[やぶちゃん注:年譜に、一月『十三日、降る雪の中、諏訪地酒の「舞姫」の寒造りを見て、新酒の香に酔う。その夜、初めて待望の諏訪湖凍る』とある。「舞姫酒造」公式サイトはこちら。]
酒湧くこゑ槽に梯子をかけ覗く
糀室(むろ)出し髪すぐに雪がつく
松本に那須風雪居を訪ふ
赤子泣き覚めぬひとの家雪明し
[やぶちゃん注:「那須風雪」不詳。年譜に一月『十四日、雪やむ。塩尻峠をバスで越えて、松本に行く。十五日、那須風雪居に泊る』とある。俳友であろう。]
穂高白し修理の小城被履して
寒念仏追ひくる如く遁げゆく如く
穂高の熊飼れて
熊が口ひらく旅の手に何もなき
小諸へ
[やぶちゃん注:年譜に、一月『十八日、長野市の木口奈良堂宅に着く。長元峰の鷹の巣を見に行く。二泊し、二十日、上田市で「青燕」の人たちと会う。二十一日、朝、小諸の小林朴壬居に着く。雪の懐古園を歩く。夕方、出張中の堀内薫、僕壬居に着く。胴まわり一尺に近い寒鯉の甘煮を食べ、多佳子はこんな脂っこいのが好きだと喜ぶ』とある(因みに私は「長元峰」という山を知らない。もしや、これはハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ(長元坊)Falco tinnunculus の巣のことではあるまいか?)。]
雪原に踏切ありて踏み越ゆる
落葉松(からまつ)を仰げば粉雪かぎりなし
雪原や千曲が背波尖らして
雪原のわれ等や鷹の眼下にて
火の山へつゞく雪野に足埋め立つ
雪野のかぎり行きたし呼びかへされずに
土間は佳(よ)し凍雪道の長かりしよ
天然水採取場吟行
氷上を犬駆ける採氷夫が飼へり
[やぶちゃん注:年譜に、一月『二十二日、軽井沢の天然氷採取所に吟行。夕方東京着』とある。軽井沢の渡辺商会か(長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢旧軽井沢)。菊水酒造公式サイトのこちらの記事がよい。軽井沢ならではの歴史を持っていることがよく分かる。現在、首都圏近縁では日光三軒(吉新氷室・松月氷室・三ツ星氷室)、秩父一軒(阿左美冷蔵)とこの軽井の渡辺商会の五業者のみが天然氷の生産販売を行っていると
minifreaker さんのこちらの記事にある。]
採氷夫焚火に立ちて雫する
なほ信州にあり、上田にて
遠灯つく千曲の枯れを見て立てば
藁塚も屋根も伊吹の側に雪
牧夫
――福山牧場にて
群羊帰る寒き大地を蔽ひかくし
冬野かへる群羊に牧夫ぬきん出て
群羊に押され背見せて寒き牧夫
冬草喰ひ緬羊姙りにも従順
[やぶちゃん注:「緬羊」「めんやう(めんよう)」で家畜の羊(ウシ目ウシ亜目ウシ科ヤギ亜科ヒツジ属ヒツジ Ovis aries)のこと。特に毛用に改良された品種群を指す。「姙り」は「みごもり」と読む。]
寒き落暉群(むれ)を離るる緬羊なく
ポケットに「新潮」寒き緬羊追ひ
寒き緬羊耳たぶのみ血色して
[やぶちゃん注:「福山牧場」広島県福山市にある牧場と思われるが、ネット検索で固有名ではヒットしない。底本の昭和二八(一九五三)年の十月の項に、『福山市の「七曜」支部発表会に出席』とある。この折りであろう。]
霜月夜
使ひ子走る昃ればすぐ風花して
風邪の眼に解きたる帯がわだかまる
除夜浴身しやぼんの泡を流しやまず
ひざ前(さき)に炉火立つ一切暮るる中
霜月夜細く細くせし戸の隙間
ルオー展
寒き肉体道化師は大き掌(て)平たき足
寒き道化瞼伏せればキリストめき
いま降りし寒き螺旋階の裏が見え
春日おん祭後宴の能 二句
月下に舞ふ照りてくもりて姥面(うばおもて)
月に立つ桜間龍馬すでに素(す)おもて
[やぶちゃん注:「春日おん祭後宴の能」春日大社の春日若宮おん祭の最後を飾る、十二月十八日の午後に演じられる後宴能(ごえんののう)。「桜間龍馬」(さくらまたつま 大正五(一九一六)年〜平成三(一九九一)年)」は金春流シテ方の能楽師。本名、桜間金太郎。当時、三十七歳。多佳子は当時、五十四。]
山路暮るる子が失ひし独楽ころがり
(二十八年)
○夏雪 付 勘文 竝 北條修理亮時氏卒去
同十六日、美濃國より飛脚到來してまうしけるは、「去ぬる九日辰刻に、當國蒔田莊(まきたのしやう)に大雪降りて、一尺餘に及ぶ」と云へり。武藏守泰時、甚(はなはだ)畏れしめたまふ。武藏國金子郷(かねこのがう)にても、この日、雪交りに雨降りて、後には雹(あられ)の降りければ、これに打たれて、鳥獸(とりけだもの)多く死せしと注し申す。「凡そ六月中、雨、更に降り止む日なし。水無月の降雨は、豊年の兆(てう)とはいへども、涼氣、その法(はふ)に過(すぎ)たり。夏、熱(あつ)かるべくして、却(かへつ)て寒涼(かんりよう)なるは、秋、疫癘(えきれい)行はるとぞいふなる。この行末愈(いよいよ)覺束(おぼつか)なし。五穀も定(さだめ)て登(みの)らざらんか。風雨、節に違ふときんば、歳、必じ飢荒すと書典(しよてん)にも見えたり。只事にあらず。關東の政務、私(わたくし)ある歟(か)。善を賞し、惡を誡め、身を忘れて世を救ふ志(こゝろざし)、このうち中にも誤(あやまり)あらん。陰陽の氣運、正(たゞし)からず。天道(てんだう)の咎(とがめ)、何事ぞ。泰時一人が身に負うて、萬民を助けさせ給へ」と、涙を流して歎かれけり。夫(それ)、盛夏の節に雪の降りける事、孝元天皇三十九年六月に降雪あり。推古天皇三十四年六月に大雪あり。醍醐天皇延喜八年六月に大雪降りて、皆、不吉なり。又當今(たうぎん)の御宇に當(あたつ)て、今月九日に雪降りたり。何(いづれ)も帝世(ていせい)、皆、各(おのおの)二十六代を隔つ。上古の時すら不吉なり。况(まし)て末世(まつせ)の今、九夏(きうか)の天に雪の降ること、如何樣(いかさま)、宜しかるまじと思はぬ人もなかりけり。泰時の嫡子修理亮時氏は、去ぬる貞應三年六月に、相摸守時房の長男、掃部助時盛と同時に、京都六波羅に上洛せしめ、洛中の成敗(せいばい)を行はれ、両人ながら、父に替りて政務をいたしける所に、病氣に依て、鎌倉に歸られ、泰時の舍弟、駿河守重時、その替に上洛せしむ。時氏、愈(いよいよ)、病惱(びやうなう)重くして、遂に六月十八日に卒去あり。次男時實は、去ぬる嘉祿三年六月に卒(そつ)す。四、五ヶ年の間に、泰時、既に、三人の息を失ひ給ふ。愁歎の色深く、腸(はらわた)を斷ち給ふといへども、力及ばざる事なれば、時氏の尸(かばね)をば大慈寺の傍(かたはら)なる山の麓に葬送し、中陰の佛事作善(さぜん)、最(いと)慇(ねんごろ)に致されけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜二(一二三〇)年六月十一日・十六日及び同巻の寛喜二年六月十八日の記事に拠る。以下暫くの章は所謂、「寛喜(かんき)の飢饉」とよばれたは、寛喜二年から翌寛喜三年にかけて発生した異常気象による大飢饉を主調として描く。これは鎌倉時代を通じて最大規模の大飢饉となった。「吾妻鏡」の引用は特にこれを必要と認めないので省略する。
「同年」寛喜二(一二三〇)年。
「美濃國」「蒔田莊」現在の岐阜県大垣市
「一尺餘」凡そ三十センチメートルあまりも。
「武藏國金子郷にても、この日、雪交りに雨降りて、後には雹(あられ)の降りければ、これに打たれて、鳥獸多く死せし」「武藏國金子郷」は現在の埼玉県入間市。「この日」とあるが蒔田荘と同日ではなく、先立つ五日前の六月十一日のことであった(「吾妻鏡」)。「雹(あられ)」の読みはママ。
「疫癘」疫病。
「關東の政務、私ある歟」私(わたし)が執り行っているこの関東の御政道に、私自身がしかと認識していない私事(わたくしごと:利己的な部分。)があるからなのか?
「陰陽の氣運、正からず」夏の盛りに雪が降るというのは、明らかに世界の万物の根源たる陰陽の気の動き、その消長自体が正常でないことを意味している。
「天道の咎、何事ぞ」天は如何なるものを罪とし、如何なる咎めをこの世に下そうとしているのか?!
「孝元天皇三十九年」西暦で紀元前一七六年とする。
「推古天皇三十四年」西暦六二六年。
「延喜八年」は西暦九〇八年であるが、増淵氏の現代語訳では、これは同じ醍醐帝の御代の「延長八年」(西暦九三〇年)の誤りであるとする。
「當今の御宇」当代の御代。第八十六代後堀河天皇(在位は承久三(一二二一)年七月九日~貞永元(一二三二)年)。
・「九夏」九十日の夏の期間。九暑。
・「時氏」北条時氏(建仁三(一二〇三)年~寛喜二年六月十八日(一二三〇年七月二十九日)は北条泰時の長男。母は三浦義村の娘矢部禅尼。病没で享年二十八、得宗であったが夭折のために執権にはなっていない逝去の日付は奇しくも三年前に弟時実が暗殺されたのと同日であった。。第四代執権には時氏の長男経時(元仁元(一二二四)年~寛元四(一二四六)年)が就任(祖父泰時逝去の翌日である仁治三(一二四二)年六月十六日。数え十九)している。なお、実は泰時にはもう一人男子、三男がいる。北条公義(きみよし 仁治二(一二四一)年~?)であるが、ウィキの「北条公義」によれば、『すでに長兄の時氏や次兄の時実らが死去していたため、泰時は時氏の長男・北条経時を嗣子に迎えて』しまっており、さらに公義自身も泰時が五十九歳という高齢で生まれた息子であったため、出生翌年、父が死去した際には僅か二歳だったため、『後継者候補には挙げられず、僧侶として余生を送ったといわれ』、『没年など詳しい業績は不明である』とある。
・「貞應三年」一二二四年。
・「鎌倉に歸られ」帰鎌はこの寛喜二(一二三〇)年四月。
・「時實」北条時実(建暦二(一二一二)年~嘉禄三年六月十八日(一二二七年八月一日)
は泰時の次男。時氏は異母兄(母は安保実員の娘)。「吾妻鏡」やウィキの「北条時実」などによれば、第四代将軍藤原(九条)頼経の側近として仕えていたが、丈六堂供養(恐らく後掲する十二所の大慈寺にあった仏堂の供養)を翌日に控えて御家人達がごった返す大雨の鎌倉で、自身の家来高橋次郎(京都の高橋(五条大橋付近)の住人とことさらに特筆するところをみると、どうも時実がプライベートに雇い入れたところの、わけありの家人かとも思われる)によって他の仲間の御家人三人とともに殺害されている。原因は不明であるが、高橋次郎は直ちに捕らえられ、即日腰越の浜で斬刑に処せられている。原因としては仕事上のトラブルなどが考えられているが、高橋家自体はこれ以後も断絶しておらず、その家系は後の執権北条重時の家臣となって存続していることから、時実殺害にはそれなりに情状酌量すべき事情があったとも推測されている、とある(これはまた、名君泰時らしい寛大な処置とも言える)。
「大慈寺」現在の明王院の東にあった古刹。この土地は古くは丈六・丈六堂と呼ばれており、江戸時代までは堂だけは残っていたらしい(「新編相模国風土記稿」など)。巨大な丈六の木造仏頭は現在、十二所の光触寺に客仏としてある。]
●熊野社
熊野谷(くまのやつ)にあり村の鎭守とす。寶珠(ほうじゆ)四顆を神體とす。例祭は十一月十五日なり。
[やぶちゃん注:本誌発刊時に既に存在しない。「新編相模国風土記稿」では荏柄天神社と瑞泉寺の間に配してあり、これを無批判に引用した結果と思われる。「熊野谷」は熊野ヶ谷(くまのがやつ)で、瑞泉寺山門から左に入る紅葉ヶ谷よりも、少し手前にある左側の谷戸で小坂郷二階堂村の小字として使われていた地名であり、この谷戸を入った山筋中腹にこの熊野社があったが、明治一〇(一八七七)年に荏柄天神社に合祀されていると、個人サイト「テキトーに鎌倉散歩」の「瑞泉寺」の項にある。テキトーどころか、「鎌倉市史」にも「鎌倉廃寺事典」にも載らぬ、本社についての数少ない具体な希有の記載である。]
●座禪窟
瑞泉寺惣門の内右方にあり。開山夢窓國師の座禪せし所とも云ふ。古傳に葆光窟の號ありて。當寺十境致の一なりと云へり。
[やぶちゃん注:因みにこの前に、古図面と発掘調査の結果に基づいて昭和四五(一九七〇)年に復元されてある夢窓疎石作と伝えられる国指定の石庭は、嘉曆三(一三二八)年頃から南北朝期に作庭されたものと考えられるが(但し、「鎌倉市史 社寺編」は夢窓の作庭であるという確証はないとする。私は個人的には、創建当初の地割に従って復元されたという現在の禅宗様式の庭には、何ら魅力を感じていない)、早い時期に土砂に埋没していた。この座禅窟、別名葆光窟(ほこうくつ。「葆」は「保」に同じい。なお、見学出来る庭園の池の背後にある窟は天女洞と言い、これとは別物である)はその復元された庭園の右手奥、開山塔の背後の錦屏山中腹の岩盤を穿ったもので、現在は非公開である。]
●永安寺舊蹟
永安寺舊蹟は瑞泉の門外右の谷なり。永安寺は源氏滿の菩提所なり。開山は曇芳和尚。永享十一年己未二月十日。持氏此寺にて自害せらると云ふ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之二」に、
○永安寺舊跡 永安寺(えいあんじ)の舊跡は、瑞泉寺の門外右の谷なり。永安寺は、源の氏滿(うぢみつ)の菩提所なり。氏滿を永安寺璧山全公と云。應永五年十一月四日に卒す。開山は曇芳和尚、諱は周應、夢窓國師の法嗣也。建長寺瑞林菴の元祖なり。永享十一年己未二月十日、持氏(もちうぢ)、此寺にて自害せらると云ふ。
とあるのを引き写している。
「源氏滿」第二代鎌倉公方足利氏満(正平一四/延文四(一三五九)年~応永五(一三九八)年)。
「曇芳和尚」曇芳周応(どんぽうしゅうおう ?~応永八(一四〇一)年)は臨済僧。京都天竜寺の夢窓疎石に師事して法を継いだ後、鎌倉に招かれて寿福寺・円覚寺・建長寺住持となった。南宋の牧谿(もつけい)の画風を学び、花鳥竹石の絵をよくした。
「永享十一年」西暦一四三九年。
「持氏」足利持氏。義教は許さず、憲実に持氏の追討を命じた。永享の乱の終局、関東管領上杉憲実は第六代将軍足利義教の絶対命令を受け、仕方なく永安寺に幽閉していた持氏を攻撃、彼はここで自害し果てた。]
●大塔宮石塔
大塔宮土籠の東南なる山上にあり。建武二年。理智光寺住僧宮の屍を埋葬せし所なり。
[やぶちゃん注:以下、底本では全体が一字下げ。]
太平記曰。淵部伊賀守藥師堂谷へ馳歸て。大塔宮を刺殺(さしころ)し奉りけるに。御眼(おんめ)生たる人の如し。淵部是を見て。斯樣の首をは主にはみせぬ事ぞとて。側の藪野の中へぞ投捨てゝ歸りける理智光院の長老かゝる御事と承り及候とて。葬禮の御事取營給へりと。按するに淵部か宮の御首を投捨たりといふ藪は今尚鎌倉宮の後の畠中に殘り居れり。
[やぶちゃん注:「淵部伊賀守」「淵部」は「淵邊」の誤植と思われる。概ね「大塔宮土籠」に既注。参照されたい。以下の「太平記」の記載には省略がある。以下に「太平記卷第十三」の「兵部卿宮薨御事 付 干将莫邪事」の当該部を示す。岡見正雄校注角川文庫版を用いたが、恣意的に正字化し、漢文表記部分は訓読、送り仮名を添えて読点を増やした。読みは私の裁量で独自に(底本のそれは正規の歴史的仮名遣とは異なる)附した。また、漢字の一部を変更した箇所がある。
*
左馬頭、既に山の内を打ち過給ぎける時、淵邊(ふちのべ)伊賀守を近付けて宣ひけるは、「御方(みかた)無勢に依つて、一旦、鎌倉を引き退(そりぞ)くと雖も、美濃、尾張、三河、遠江の勢を催して、頓(やが)て又、鎌倉へ寄せんずれば、相摸次郎時行を滅ぼさん事は、踵(くびす)を囘らすべからず。猶も只、當家の爲に、始終、讎(あた)と成らるべくは、兵部卿親王なり。此の御事、死刑に行ひ奉れ、と云ふ敕許はなけれ共(ども)、此の次でに只だ失ひ奉らばやと思ふ也。御邊(ごへん)は急ぎ藥師堂の谷へ馳せ歸りて、宮を刺し殺し進(まゐ)らせよ。」と下知せられければ、淵邊、畏つて、「承つて候」とて、山の内より主從七騎引き返して、宮の坐(ましま)しける籠(ろう)の御所へ參りたれば、宮はいつとなく闇の夜の如くなる土籠(つちろう)の中に、朝(あした)に成りぬるをも知らせ給はず、猶ほ燈(ともしび)を挑げて御經あそばして御坐(ござ)有りけるが、淵邊が御迎ひに參りて候由を申して、御輿(こし)を庭に舁(あ)き居(す)へたりけるを御覽じて、「汝は我を失はんとの使ひにてぞ有るらん。心得たり」と仰せられて、淵邊が太刀を奪はんと、走り懸らせ給けるを、淵邊、持たる太刀を取り直し、御膝の邊りをしたゝかに打ち奉る。宮は半年許り籠の中に居屈(ゐかが)まらせ給たりければ、御足も快よく立たざりけるにや、御心は八十梟(やたけ)に思し召されけれ共、覆(うつぶ)しに打ち倒され、起き擧らんとし給ひける處を、淵邊、御胸の上に乘り懸り、腰の刀を拔いて、御頸を搔かんとしければ、宮、御頸を縮めて、刀のさきをしかと呀(くわ)えさせ給ふ。淵邊、したゝかなる者なりければ、刀を奪はれ進(まゐ)らせじと、引き合ひける間、刀の鋒(きつさき)一寸餘り折れて失ひにけり。淵邊、其の刀を投げ捨て、脇差の刀を拔いて、先づ御心(おんむな)もとの邊を二刀、刺す。刺されて、宮、少し弱らせ給ふ體(てい)に見へける處を、御髮を摑んで引き擧げ、則ち、御頸を搔き落す。籠の前に走り出でて、明るき所にて御頸を見奉るに、噬(く)ひ切らせ給ひたりつる刀の鋒(きつさき)、未だ御口の中に留まつて、御眼、猶ほ生きたる人の如し。淵邊、是を見て、「さる事あり。加樣の頸をば、主には見せぬ事ぞ。」とて、側なる藪の中へ投げ捨ててぞ歸りける。
去る程に御かいしやくの爲めに、御前に候はれける南(みなみ)の御方、此の有樣を見奉りて、餘りの恐しさと悲しさに、御身もすくみ、手足もたゝで坐(ましま)しけるが、暫く肝(きも)を靜めて、人心付きければ、藪に捨てたる御頸を取り擧げたるに、御膚へも猶ほ冷えやらず、御目も塞(ふさ)がせ給はず、只だ元の氣色(きしよく)に見へさせ給へば、こは若(も)し夢にてや有らん、夢ならばさむるうつゝのあれかしと泣き悲み給ひけり。遙かにりて理致光院の長老、「斯かる御事と承り及び候」とて葬禮の御事、取り營み給へり。南の御方は、軈(やが)て御髮(かみ)落(をろ)されて、泣々、京へ上り給ひけり。
*
少し語注を附しておく(底本の岡野氏の注を参考にした)。
・「八十梟(やたけ)に」は「彌(いや)猛けに」で勇みに勇んでの意。
・「かいしやく」介錯であるが、ここは傍について世話をすることの意。
・「南の方」護良親王の側室雛鶴姫。「鎌倉宮」に既注。]
●鑢塲
理智光寺蹟の西方(さいはう)の山上にあり。古傳に願行大樂寺本尊不動の像を鎔工(ようこう)せし所なりと云ふ。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之二」に、
鑪場(たたらば) 西の方にあり。願行、大山(をほやま)の不動を鑄(い)たる所ろ也と云ふ。按ずるに、此所ろ胡桃山(ごとうざん)大樂寺の舊跡に近し。
とあるが、現行の鎌倉地誌類ではこれを掲載するものは殆んどない。一つの推定のポイントになるのは明治初年に廃寺となった「大樂寺」(だいらくじ)であろう。願行によって胡桃ヶ谷(浄明寺の浄妙寺の背後の尾根を越えたところにある。これを山号にした)に開かれた寺(但し、永享元(一四二九)年の回録による焼失後は覚園寺寺域の薬師堂ヶ谷に移転したと考えられる)で、本尊は願行が鋳造した鉄造不動明王坐像。これは通称を鉄不動・試みの不動と呼称され、本文にあるように願行が大山阿夫利神社の本尊不動を鋳るに際して試作品として鋳造したものと「大山不動霊験記」に伝えられてある(覚園寺愛染堂――これ自体が明治三八(一九〇五)年に大楽寺本堂を移築した建物であると岡戸事務所編の「鎌倉手帳」の「大楽寺跡」にある――に現存)から、その踏鞴(たたら)場がここだったのである。
以上、理智光寺蹟と大楽寺の位置関係、踏鞴の構造などを考えると、浄妙寺裏の西北にある熊野神社の東北にあった尾根(住所は二階堂。現在は完全に宅地化されている)上に登り窯の如くあったのではあるまいか(偶然乍ら面白いことに浄妙寺裏この熊野神社の直近には石窯を持ったレストランがある)? やはり、もはや消失したものと考えた方がよさそうだ。]
●理智光寺蹟
理智光寺蹟は大塔宮土籠の東南にあり。五峰山と號す。開山は願行又大塔宮の牌(はい)ありて沒故兵部卿親王尊靈。裏に建武二年七月二十三日とありしと云ふ。
[やぶちゃん注:現在、大塔宮の墓の南西の谷を理智光寺谷と称し、この大塔宮墳墓を含むこの谷戸全域を寺域としていたと考えられる。明治二(一八六九)年に廃寺となり、現在、寺域の殆んどは宅地化されている。「鎌倉廃寺事典」によれば、南北朝頃までは「理智光院」と称しており、天文年間五(一五四七)年前後以降、「理智光寺」となったものと推定される、とある。「新編鎌倉志卷之二」に、
*
○理智光寺 理智光寺(りちくはうじ)は、五峯山(ごほうざん)理智光寺と號す。土の籠の東南なり。【太平記】には、理致光院とあり。本尊は阿彌陀、作者知れず。腹中に名佛を藏(をさ)むる故に、俗是を鞘(さや)阿彌陀と云ふ。開山は願行。牌に當寺開山勅謚宗燈憲靜宗師とあり。願行の牌なりと云ふ。又大塔宮(をほたふのみや)の牌あり。沒故兵部卿親王尊靈と有。裡(うら)に建武二年七月廿三日とあり。此牌は淨光明寺の慈恩院に有しを、理智光寺にあるべき物也とて、慈恩院より當寺へ移し置く也。
*
とあり、また「鎌倉攬勝考卷之五」には、
*
理智光寺 五峰山と號す。永福寺舊跡より東。古へは此邊も大倉と號しけり。往昔、貞永元年十二月廿七日、後藤大夫判官基綱、故右府〔實朝〕追薦の奉爲(をんため)に、大倉に一寺建立の功をなせり。供養導師は辨僧正定豪〔鶴岡大別當〕と云云。夫より後に至り、理智光寺と稱し、願行を開山とし、禪律にて、京都泉涌寺の末也。開山願行の牌に、開山勅諡宗燈憲靜宗師と有。佛壇に大塔宮の牌あり。寺傳に云、淨光明寺の慈恩院に有しが、是は常寺に有べきものとて、爰へ移せしといえり。本尊阿彌陀〔作知れず。〕腹籠りに靈佛を納しゆへに、土人是を鞘阿彌陀と唱ふ。此寺今は尼寺と成。山内東慶寺の末となれり。
*
江戸の終り頃には少なくとも禅宗で東慶寺末寺の尼寺であったことが分かり、さらに「相模国風土記稿」を見ると、理智光寺の項は『今は此の彌陀堂のみにして東慶寺の持となれり』と終っており、最早、廃寺直前には無住となっていたことが窺われる。なお、「鎌倉廃寺事典」によれば、この阿弥陀堂は理智光寺谷入口にある大塔宮墓所の登り口付近にあったらしい。また、この本尊鞘阿弥陀は廃寺後に覚園寺に移され、現在は同寺の薬師堂に客仏として安置されている(但し、あったという胎内仏は現存しない)。
「願行」上人憲静は真言僧で京都泉涌寺第六世、顕密浄律の諸宗に兼通した高僧。本尊が最後に行き着く覚園寺が真言宗泉涌寺派(元は四宗兼学の道場)であったこと、理智光寺が戦国時代に衰微した際に同じく真言宗泉涌寺派である浄光明寺の慈恩院(院としては廃寺)が兼務或いは管理していたことが史料から分かっており、もともとの宗旨は(同事典では未詳とする)真言宗であったと考えてよいであろう。
「建武二年」西暦一三三五年。]
●獅子巖
獅子巖は永福寺舊蹟の北山の嶺にあり。巖の大さ方六尺許。其形獅子の如くなる故に名く。俚語(りご)に二階堂の獅子舞の峯と云ふなり。
[やぶちゃん注:「新編鎌倉志卷之二」に、
○獅子巖 獅子巖(ししがん)は、永福寺舊跡の北、山の嶺(みね)にあり。巖(いは)の形(かたち)獅子の如くなる故に名く。【護法録】に云、浦江縣の東南三十五里に有山(山有り)。俗其形蹲踞して、獅子の如なるを以て、獅子岩と云ふ。異國・本朝、事相ひ似たり。俚語に、二階堂の獅子舞(ししまひ)の峯(みね)と云なり。昔は永福寺の内なり。永福寺の内に、二階堂有て、繁昌の時は、寺内廣(ひろく)して、此の邊より遙か東南の村までを、今に二階堂村と云なり。此獅子巖より南の方、永福寺の礎石の有所を考へ見るに、【東鑑】に、正嘉元年八月十八日、陰陽師等、未明(びめい)に西御門(にしみかど)の山に登て見れば、時に殘月在西(時に殘月西に在り)。日出東(日は東に出づ)。彼れ是れ方角を糺せば、最明寺(さいみやうじ)永福寺は、卯酉(うとり)[やぶちゃん注:東と西。]に相ひ當り、大慈寺と最明寺とは、辰戌(たついぬ)[やぶちゃん注:東南と西北。]に相ひ當ると有。今我が相公の命(めい)を銜(ふく)んで、此の志(し)編纂のために此地に來り、彼の山上に登り方角を見れば、賓に此獅子巖の山の南の方と、禪興寺(ぜんこうじ)とは、正東西に相ひ當るなり。
とある。
b_neige 氏のブログ「フランス語と、鎌倉と、私と。。。」の「獅子舞の紅葉」の記事がよく同定の助けとなろう。私は昔から獅子舞の谷(昔は人気のないとても好きな場所だったのだが今は相当に人手に荒れている。昨年、何十年振りに教え子の娘を案内して下ったが、少し淋しい気がした)の登り切ったところにある峰から突き出る大きな岩をずっとそれと思っていたが(リンク先の下か二枚目の画像)、以下の「六尺」という記載は寧ろ、『最初のイチョウの大木の横の岩』という最下部の画像のそれが相応しいように思われる。さて? 獅子は何処?
「六尺」約一・八二メートル。]
●永福寺蹟
大塔宮土籠の北方(ほくはう)にあり。今尚柱礎四隅に存す。故に其前の小路を四石小路と呼べり。是は文治五年。賴朝奥州より凱旋の後奥の大長壽院の二階堂を擬(ぎ)して。當所に二階堂を建立し。三堂山永福寺と號す。〔土俗光堂或は山堂と唱へしとぞ〕
當寺古昔は無雙の大伽藍たり。海道記並に東關紀行に其模樣を載せり。當時全く廢せしは卓享德の頃なるベし。
[やぶちゃん注:「永福寺」は「ようふくじ」と読む。まずは「新編鎌倉志卷之二」の以下の記載を引いておく。
《引用開始》
○永福寺舊跡 永福寺(えいふくじ)舊跡は、土籠(つちのろう)の北の方なり。昔二階堂の跡なり。里俗は、山堂(さんだう)とも光堂(ひかりだう)とも云ふ。田の中に礎石今尚を存す。俗に四石(よついし)・姥石(うばいし)など云あり。【東鑑】に、文治五年十二月九日、永福寺の事始也。奧州に於て、泰衡管領の精舍を御覽ぜしめ、當寺の華構を企てらる。彼の梵閣等並宇之中(宇を並ぶる中)、二階堂あり。大長壽院と號す。專らこれを摸モせらるに依て、別して二階堂と號す。建久三年十一月廿日、營作已に其の功を終ふ。御臺所御參(をんまいり)とあり。其の外池(いけ)をほり、阿彌陀堂・藥師堂・三重の塔・御願寺等建立の事あり。元久二年二月、武藏の國土袋の郷を、永福寺の供料に募らるとあり。貞永元年十一月廿九日、賴經將軍、永福寺の林頭の雪覽給(みたまは)ん爲に渡御、倭歌の御會あり。但し雪氣雨脚に變ずるの間だ、餘興未だ盡ずして還御す。路次にて判官基綱申して曰く、
雪爲雨無全(雪雨に爲に全き無し)。武州泰時これをきかしめ給ひ、仰(をほせ)られて云く、「あめの下にふればぞ雪の色も見る」とあれば、又基綱、「三笠の山をたのむかげとて」とあり。【梅松論】に、義詮(よしあき)の御所、四歳の御時、大將として。御輿(みこし)にめされて、義貞と御同道有て、關東御退治以後は、二階堂の別常坊に御座ありし、諸士(さむらひ)悉く四歳の若君に屬し奉りしこそ、目出(めでた)けれとあるは、此寺の別當坊也。
《引用終了》
ここに「四石」は出るが、「四石小路」というのは初耳である。確認してみると「新編相模国風土記稿」が、この記載の元ネタであることが分かった。但し、同書が記す膨大な事蹟資料を殆んどカットして「當時全く廢せしは卓享德の頃なるベし」に繋げてある。ただ、この「四石小路」という名称は一般的な鎌倉地誌ではまず見かけない記述で、まずは良記載と言えるように思われるのである。
永福寺は実に近年になってその全貌が明らかにされた。私がごちゃごちゃ言うよりも『「国指定史跡永福寺跡」のコンピューターグラフィックによる復元』というページが雄弁に物語ってくれている。ここがあれば、最早、私の注など糞みたいなものだろうから、もう、丸投げすることにした。(というよりも、これは「新編相模国風土記稿」を電子化せずんばならずという私の中に生まれたおぞましき欲求の表現と受け取って戴いて……よい!……)
「文治五年」西暦一一八九年。]
炉火いつも
霜柱顔ふるるまで見て佳(よ)しや
田に燈なし冬のオリオン待ちてゆく
炉火いつも燃えをり疲れゐるときも
みつみつと雪積る音わが傘に
十指の癖一と冬過ぎし手袋ぬぐ
28 松平新太郞どの、丸橋久彌謀叛のとき伊豆どの御宅へ馳參る事
松平新太郞少將〔備前國主〕と、今も世に云ほどなれば、其生存のとき人望の歸せしは格別なることなりけん。世に謂ふ、由井正雪が異心沙汰の時、何れの處にか池田家の紋つけたる灯燈を數多つくると聞て、卽單騎にして、松平信綱の〔伊豆守老職〕邸に往しに、折節信綱飯を食して居たるが、箸を投て對面せり。少將曰、吾家の挑灯夥しく造るものありと承る。野心を抱て府を動かすことを謀るものあるべしと存候。速に搜捕あるべしとなり。信綱心得て奸黨を索るに、乃正雪の屬、丸橋久彌が爲る所なりしとなり。又正雪此擧發行の時に、池田家の紋灯燈をさゝげて、新太郞少將ぞ叛したりと唱へば、府下の人々氣おくれして、敵するものあるまじとの隱謀なり。かくまで人の畏服すると云は並々ならぬことなるべし。少將も亦己を知る所の明なると、人を量るの略と、眞に感ずべきことどもならずや。
■やぶちゃんの呟き
これは同じ出来事を提灯屋の目線まで下げたリアルな話が私の電子テクスト「耳嚢 巻之七 備前家へ出入挑燈屋の事」に載る。「松平新太郎少將」池田光政(新太郎は通称。初名は幸隆で元和九(一六二三)年七月に十五で元服、この時に第三代将軍家光の偏諱を拝受して「光政」と名乗った)や慶安四(一六五一)年の慶安の変の首謀者由井正雪などの注はそちらをご覧あれかし。
「今も」「甲子夜話」の執筆開始は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜であるから、光政没年(天和二(一六八二)年)からなら百三十九年、慶安の変なら百七十年前に相当する。
「松平信綱」(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)は松平伊豆守の呼称で知られる老中(武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主)。家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた。
「丸橋丸久彌」は「丸橋忠彌」(まるばしちゅうや ?~慶安四(一六五一)年九月二十四日)の誤り。彼は浪人で「慶安の変」に於いて江戸幕府の転覆を図った人物の一人。参照したウィキの「丸橋忠弥」によれば、『出自に関しては諸説あり、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとする説、上野国出身とする説(『望遠雑録』)、出羽国出身とする説など定かではない。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべもりずみ)と設定されている』。『友人の世話で、江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開く。その後、由井正雪と出会い、その片腕として正雪の幕府転覆計画に加担する。しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門が密告したため幕府に計画が露見。そのため捕縛され、磔にされて処刑された』。『辞世の句は「雲水のゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」。墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、品川区妙蓮寺』とある。ウィキの「池田光政」には、『光政は幕府・武士からは名君として高く評価されていた。慶安の変の首謀者である由井正雪などは謀反を起こす際には光政への手当を巧妙にしておかねば心もとないと語って』おり、『また由井の腹心である丸橋忠弥は光政は文武の名将で味方にすることは無理』であろうから、『竹橋御門で桶の中に扮して射殺すべき策を立てたという』とある。また、実は心学に拘った明主光政のことを、朱子学を推奨していた幕府自体が恐れていたともある。ともかくもその事蹟は静山ならずとも惹かれる名君と言える。
汎き國土
温故的靜物
收穫(とりいれ)すキャベツ白磁に蔬菜籠
枇杷大葉籠の實蔽ふうらおもて
六峯氏が贈れる推古佛を前に
松の葉と春松露もる釉陶器
[やぶちゃん注:「六峯氏」不詳。同年春の「白木瓜に翳料峭と推古佛」に既出で、そこでは前書によって観世音菩薩像が贈られたとあり、これもそれと同一物であろう。
「松露」菌界ディカリア亜界 Dikarya 担子菌門ハラタケ亜門ハラタケ綱ハラタケ亜綱イグチ目ヌメリイグチ亜目ショウロ科ショウロ Rhizopogon roseolus 。以下、ウィキの「ショウロ」によれば(下線やぶちゃん)、『子実体は歪んだ塊状をなし、ひげ根状の菌糸束が表面にまといつく。初めは白色であるが成熟に伴って次第に黄褐色を呈し、地上に掘り出したり傷つけたりすると淡紅色に変わる。外皮は剥げにくく、内部は薄い隔壁に囲まれた微細な空隙を生じてスポンジ状を呈し、幼時は純白色で弾力に富むが、成熟するに従って次第に黄褐色ないし黒褐色に変色するとともに弾力を失い、最後には粘液状に液化する』。『胞子は楕円形で薄壁・平滑、成熟時には暗褐色を呈し、しばしば』一、二個の『さな油滴を含む。担子器はこん棒状をなし、無色かつ薄壁、先端には角状の小柄を欠き』小、六~八個の胞子を生ずる。『子実体の外皮層の菌糸は淡褐色で薄壁ないしいくぶん厚壁、通常はかすがい連結を欠いている。子実体内部の隔壁(Tramal Plate)の実質部の菌糸は無色・薄壁、時にかすがい連結を有することがある』。『子実体は春および秋に、二針葉マツ属の樹林で見出される。通常は地中に浅く埋もれた状態で発生するが、半ば地上に現れることも多い。マツ属の樹木の細根に典型的な外生菌根を形成して生活する。先駆植物に類似した性格を持ち、強度の攪乱を受けた場所に典型的な先駆植物であるクロマツやアカマツが定着するのに伴って出現することが多い。既存のマツ林などにおける新たな林道開設などで撹乱された場所に発生することもある』。『安全かつ美味な食用菌の一つで、古くから珍重されたが、発見が容易でないため希少価値が高い。現代では、マツ林の管理不足による環境悪化に伴い、産出量が激減し、市場には出回ることは非常に少なくなっている。栽培の試みもあるが、まだ商業的成功には至っていない』。食材としての松露は『未熟で内部がまだ純白色を保っているものを最上とし、これを俗にコメショウロ(米松露)と称する。薄い食塩水できれいに洗って砂粒などを除去した後、吸い物の実・塩焼き・茶碗蒸しの具などとして食用に供するのが一般的である。成熟とともに内部が黄褐色を帯びたものはムギショウロ(麦松露)と呼ばれ、食材としての評価はやや劣るとされる。さらに成熟が進んだものは弾力を失い、色調も黒褐色となり、一種の悪臭を発するために食用としては利用されない』とある。
「釉陶器」は「いうとうき(ゆうとうき)」と読んでいよう。「釉」は釉薬(ゆうやく/うわぐうり:陶磁器が液体やガスを吸収しないように器物を覆ったり線を付けたりするために用いる不透性で硝子質の材料。無色・有色、透明・不透明、各種ある。]
北邊の白夜
夏至白夜濤たちしらむ漁港かな
白夜の帆世紀をへだつ魚油炎ゆる
ハープ彈く漁港の船の夏至白衣
この白夜馴鹿(トナカイ)の乳にねる兒かな
[やぶちゃん注:想像句か?]
氷下魚釣獸(けだもの)の香をはなちけり
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「氷下魚」は「こまい」と読み、条鰭綱新鰭亜綱側棘鰭上目タラ目タラ科タラ亜科コマイ
Eleginus gracilis のこと。]
春めく日林相雲を往かしむる
春きたる氷河の樹かげ狐舍に沁む
養狐交(た)け春の氷海鏡なす
[やぶちゃん注:「交(た)け」は、自動詞ラ行四段活用「猛(た)ける」を誤ってカ行下二段(その場合は「長く」「闌く」で、日が高く昇る/盛りを過ぎる/長じるの意)で活用させた連用形ではなかろうか? 「猛ける」には「日本国語大辞典」で一番最後の方言の項に、『鳥獣がつるむ。交尾する』の意があり、採取地の一つに山梨県南河内郡が挙げられてある。]
氷海の朝の燒けきびし狐舍の春
海猫群れ昆布生成の潮温るむ
シヤンツエに冬眩耀の翳經(た)ちぬ
[やぶちゃん注:「シヤンツエ」(Schanze)ドイツ語でスキーのジャンプが行なわれる競技台のこと。「眩耀」は「げんえう(げんよう)」で、眩(まばゆ)いばかりに光り耀(かがや)くこと。眩(まぶしくて)目が眩(くら)むこと。また、目を眩(くら)ますこと。]
処女雪にシヤンツエ小夜の帷垂る
降誕祭シヤンツエ蒼き夜を刷けり
シヤンツエに遲き寒月上りけり
草童のゐる界隈
天をとび樋の水をゆく蒲の絮
[やぶちゃん注:「絮」は「わた」と訓じていよう。]
洎夫藍(サフラン)は咲き山墓地霑へり
[やぶちゃん注:「洎夫藍(サフラン)」は厳密には単子葉植物綱キジカクシアヤメ科クロッカス属
Crocus サフラン Crocus
sativus で、ウィキの「サフラン」によれば、西南アジア原産で、最初に栽培されたのがギリシアとされ、花の名であると同時に、その雌蘂を乾燥させた香辛料をも指す。別に薬用サフランと呼んで、同属植物で観賞用の花サフラン=クロッカスと区別するとあるが、どうもこれも、クロッカス属
Crocus の仲間のように私には思われる。]
春蘭の山ふかき香に葉をゆれり
[やぶちゃん注:「春蘭」単子葉植物綱クサスギカズラ目ラン科セッコク亜科シュンラン連Cymbidiinae 亜連シュンラン Cymbidium
goeringii 。本邦では各地で普通に見られる野生蘭の一種。グーグル画像検索「Cymbidium goeringii」。]
岩瀧の歯朶萌えふれ雉子乳るむ
[やぶちゃん注:「乳るむ」は「つるむ」と訓ずる。「乳繰り合う」を連想すればしっくりくるが、実際には「乳繰り合う」の「乳」は当て字で、本来は「茶々繰り合う」であったらしい。]
孵(かへ)す雉子楤芽つむ童と見かはしぬ
[やぶちゃん注:「楤芽」は「たらめ」或いは「たらのめ」と読み(後者で私は読む)、言わずもがな、セリ目ウコギ科タラノキ
Aralia elata の新芽のこと。「童」は「こ」と読んでいよう。]
蘭さいて貌くれなゐに雉子孵す
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「孵す」は「かへす」と訓ずる。]
雨温く蛇にまかるゝ雉子かな
[やぶちゃん注:「温く」は「ぬくく」か。「雉子」は「きぎす」と訓じていよう。]
伐株にとゞまる蛇の尾をたりぬ
草童に蛇の舌かげろへり
蛇の血の水にしたゝりしずみけり
老雞の蟇ぶらさげて歩くかな
山川に剝ぎたる蟇を手離せり
人寰抄
[やぶちゃん注:「人寰」は「じんくわん(じんかん)」人間世界、世間の意。]
めがみえぬ人の夜を澄むさむさかな
茶碗さむく忿(いきどほ)る齒の觸れにけり
寒明けし童は靑洟に飢ゑしらず
[やぶちゃん注:「靑洟」は「あをばな」。]
彼岸會の翠微亂山そばだちぬ
彼岸婆々阿難(をんな)の嶮を越えゆけり
註――阿難峠は嶽麓精進と古關とをむすぶ
[やぶちゃん注:「阿難峠」は現在の山梨県富士河口湖町の精進湖と甲府市古関町を繋ぐ駿河から甲斐に抜ける古街道にある峠の名。個人サイト「峠のむこうへ」の「女坂峠(阿難坂・精進峠)」が画像も含めて詳細を究める、というか実地踏破されていて、凄い。必見。その記載によれば、普通に「女坂峠」とも書き、「山梨県歴史の道調査報告書」には、『とは、「昔妊娠した婦人が峠越えの途中出産したが、母子共に死亡したところと言い伝えられており村人が供養のために建てた石仏が残る」と』あり、「山梨百科事典」にも、『昔、身重な上臈が坂の途中で産気づき出産した母子ともに息絶えてしまった。村人は供養のために子抱き地蔵を祭って女石と呼んだ』と記されてあるとする。リンク先では頭部を欠損した「女石」の写真も見られる(地蔵の頭は博打打ちの間でそれを持っていると勝負に勝てるというジンクスがあり、江戸時代には盛んに掻き取られた。鎌倉のやぐら内などでも首なし地蔵はよく見かける)。なお、リンク先の注にはまさに『飯田蛇笏には「富士と峠」という文章があり、その中で阿難坂の様子や心象が語られてい』るとして、「飯田蛇笏集成六・随想」(角川書店一九九五年刊)の「富士周辺」にある「富士と峠」からの引用がなされてある。孫引きになるが引用させて戴く(一文毎に改行されてあるが、一部を除いて連続させた。句の間隙も除去させて貰った。総ては原本を確認していない仕儀なので注意されたい)。
《引用開始》
「阿難峠というのはこの地方の人たちには普通オンナザカと云われている。この峻険さに於いて大石峠をしのぎ、みちのりに於いても劣るものではないようである。山麓から中腹へかけてうねりつづいた峠路に特記すべきほどのものもない。併しその特記に値打しないとする尋常普通の山のたたずまい乃至峠路のおもむきに、却って味えば味い得るものが存すると云えば然うも云い得るであろう。次の拙作のごときは即ちその消息をつたえるものかとも思うのである。
弥生照る陽は鶸色に大嶺越え 蛇笏
春嶺遠き奥のけむりを侘びにけり 同
又、
阿難坂囀りの吹きゆられけり 蛇笏
囀りす木原の靄に杣火絶ゆ 同
― 句集『白嶽』 ―
山吹が色褪せてちりかかっているのを見かける麓路から、登るに従って路が急になり、はるかに炭窯の煙がみとめられるあたりに辿りつくと、巨巌が坂路にせまり重畳としているところ、涓滴の音が幽かに聴覚をとらえる。斯様の個所に水音でもあるまいと、ひとたびは誰人も疑うであろう。もちろん筆者も亦それを疑った一人であった。近寄ってみると、清冽たぐい稀なる岩清水がちろちろと碧巌をつたわって落ちている。隻手をさしのべて掬すれば、流汗一時にひき去り冷たさ五臓六腑に透るのである。其処で一と息ついて登るとやがて絶頂である。
さて、阿難峠の頂上でふり仰いだ大富岳であるが、それが又素晴らしい大景である。眼下に湖面の一部分を光らせている精進湖、その庭池のような小さな湖の畔から打ち続いた大樹海。人間が為す業とも思われない真唯中に寝泊りして炭焼きをする人々の炭窯のけむりである。富士のありかは何方ぞと頭をめぐらしてふり仰げば、蜿蜒限りない裾野の輪廓からたどって天空を蔽う富岳全貌の巨大さである。竜雲がその八合目あたりにあらわれ、飄々として天風に乗じ、午後二時過ぎの赫っとした日輪にもろ爪をかけて掴もうとする気配が感じられる。
《引用終了》
なかなかリアリズムを感じさせる名文である。「涓滴」は「けんてき」と読み、水の雫、滴りの意である。「阿難坂」の「阿難」は難所の意であるが、個人サイト「斐武田を探検っ!!」の「阿難坂」を見ると、『この周辺では「ヲナン」とは女性の意味なのだそうで、「阿難坂」→「アナンサカ」→「ヲナンサカ」→「女坂」と変移していったのでは』ないかと考証されてある。前のサイトでも考証引用が数多く示されてあるが、やはり近くの釈迦ヶ岳及びそれに纏わる僧伝承などから、この周辺全体に山岳信仰や仏教的命名がちりばめられてあるのは明白で(近くに迦葉坂もある)、仏弟子多聞第一の阿難が原名であろう。]
チヤルメラに微温遍照草萌ゆる
チヤルメラに雪解の軍鷄は首かしぐ
チヤルメラに鈴掛珠をゆりあへり
[やぶちゃん注:シチュエーションがよく分からないが、これは豆腐か納豆屋のそれであろうか? 「鈴掛珠」もチャルメラにはよく飾りの珠をぶら下げてある。]
整へる爆音
編隊機冬の大八洲を下にせり
編隊機ゆき冬空は忘れがほ
編隊機寒の鋼空なゝめなす
[やぶちゃん注:「鋼空」は「コウクウ」と音読みするつもりか。]
編隊機冬日の國土擧げ移る
寒霽れの編隊機あはれ大嶺越ゆ
寒日和必定編隊機墜ちず
しのゝめに犇く春の編隊機
春空の乳雲にとぶ編隊機
編隊機涌き神苑は花卉の春
編隊機春の靴音をともなはす
「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」に「杉田久女全句集 附やぶちゃん注」(PDF縦書版)を公開した。今年一年かけたものの集大成。
……久女さん、暮れに間に合いました……
可憎愛人情の事
日野豫州物語せしは、同人親族のもとに至り、物見へ出てその親族一同往還を望み居(をり)しに、一人の乞食比丘尼、袋やうの物に貰ひし米を入(いれ)て通りしが、袋や損じけん、右米往還へ溢けるを、折節雨上りにて泥ぬかりなりしに、泥に不染斗(そまらざるばかり)を取納(とりおさ)め過半はこぼれしまゝ捨(すて)しを、日野を初め其座の者ども、乞請(こひうけ)し米をこぼし候は不便(ふびん)なる間、別段にも施し遣度(つかはしたき)處、其身の上も不顧(かへりみず)、過半捨行(すてゆき)し憎さよといゝしに、無程(ほどなく)町人體(てい)の者來り、右米のこぼれしを見て暫く立留(たちどま)りしが、つくばい二三粒ひろひて、いたゞき給(たべ)候由。奇特成(きどくなる)事なりと皆々申(まうし)けるが、さるにても最初の婆々は憎き事なりと、いよいよ噂せしと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。
・「可憎愛人情の事」「憎愛(ぞうあい)すべき人情の事」と読む。
・「日野豫州」高家旗本日野資施(すけもち)。既注。
・「米」これはシチュエーションからも乾飯(かれいい)、所謂、炊いた飯を干した携帯用のそれである。だからこそ後で町人体の者がほとびたそれをその場にて食うのである。
・「給(たべ)」は底本編者のルビ。
■やぶちゃん現代語訳
人情というものは瞬時に憎んだり愛したりと目まぐるしゅう変化するものであるという事
日野伊予守資施(すけもち)殿の物語されしことで御座る。
……我らとある親族の元を訪ね、雨催(もよ)いでは御座ったが、折角の来訪なればとて、領内近在へと物見遊山に出でて御座った。
途中降ったる雨も一息ついた様子なれば、その親族一同とともに、少し小高き丘なんどに登り、四阿(あずまや)の内にて、直下を横切る街道の往還なんどを望み見ては興じて御座った。
すると、そこへちょうど、乞食比丘尼(こじきびくに)が独り、袋のようなる物に貰(もろ)うた米をぶら下げて通って御座った。ところがその袋――どうもどこかに穴が開いておったものらしく、その米が比丘尼の歩みに従って、ぽろぽろ、ぽろぽろ、と往還へ漏れ出ずるがそこからでもはっきりと見えて御座った。折りから雨上がりの街道筋の往還なれば、轍(わだち)に溜まった水がすっかり泥となってぬかって御座った。
見ておると、その乞食比丘尼、米袋のあらかた零れ落ちたに気づき、後戻り致いて御座ったが、かの乞食、泥に浸かってまみれほとびては未だおらぬところの、轍の上辺りの、これ、まだ白々した僅かな米ばかりを、選んでは取り納め、我らが所から見ても、その泥まみれの元の袋内にあったと思わるる過半は、これ、零れしまままに、捨てて顧みざるさまにて御座った。
されば、我らを始め、その場に御座った者ども皆、口々に、
「……乞い請けたる布施米を零したるは、これ、如何にも、不憫なることじゃ。」
「……されば、これより、特に我ら方より、遊山弁当に持参致いた糧食なんどもあれば、それを施し遣わさんか。」
など申しておりましたれど、我ら、ふと、
「……その身の上も顧みず、かく過半を捨て行きしことは、聊か憎きこととも思わるるが。……」
と口に致いて御座った。
と、ほどのぅ、その拾って先へ行ったる比丘尼の直ぐ後(あと)を、独りの町人体(てい)の者が、同じ方角へと歩いて行くのが見えた。
この男、道の轍の中に、かの泥まみれになったそれなりの米が、これ、零れて御座るのを見つけると、そこで歩みを留(とど)めて、暫くの間、立ち止まって御座ったが、徐ろにそこにしゃがみこむと、そのほとびたる二、三粒を拾って、如何にも――勿体なくも有り難きこと――といった謙虚なる様子にて――いや、そもそもが、かの者には我らは見え御座らなんだと存ずる――それを押し頂いては食うて御座った。
我ら一同、そのさまを見、
「何と! 奇特(きどく)なる仕儀を致す町人であろ!」
「まことに! 御意!」
「倹約大事の鑑とも申せましょうぞ!」
なんどと、皆々、口々に誉めそやして御座った。が、されば我らは、
「……いや、さるにても! 初めのあの、乞食婆々(こじきばば)、これ、まっこと、憎き輩(やから)ではないか!……」
と申したところが、
「如何にもッ!」
「比丘尼のくせに!」
「いや! 乞食の風上にも置けぬ者と申せましょうぞッ!」
と皆々いよいよ――我らも含め――最初の同情不憫哀れの情は何処へやら――盛んに好き勝手な評定誹謗を致いて御座った。……
現在、PDF縦書版「杉田久女全句集 附やぶちゃん注」にとりかかっている。これが恐らく、今年最後の大物テクストとなるものと思われる。活字を大きくした関係上、作業中の現段階で総ページ数が500に近づいている。乞御期待――
27 大屋木傳庵、老職衆へ答の事
先年、大屋木傳庵と云し奥御醫師、予も知人なり。丈け矮く肥滿にして豪氣なる男なりしが、其頃或侯の病氣の事につき、老職より、其の病の趣、其方の療治の旨、其の跡目願書に書載す。併いかゞしき風聞もあり、病氣の狀、彌相違なきやと問れしに、傳庵色を厲して曰、奧御醫師を勤候某、固より相違の言は申さず候。御尋方こそ却て奈何に存候と申ければ、老職いづれも默然たりと云。
■やぶちゃんの呟き
「大屋木傳庵」不詳。
「矮く」「ひくく」。
「其方の療治の旨」「奥御医師」奥医師(近習医師・御近習医師・御側医師とも)は江戸幕府の医官で若年寄支配、江戸城奥に住む将軍とその家族の診療に従事した。殆んどが世襲であったが、諸大名の藩医や町医者から登用されることもあった。参照したウィキの「奥医師」の記載から判断すると、狭義の奥医師は典薬頭(てんやくのかみ:他の奥医師たちの上席に位置し、半井氏と今大路氏の両氏が世襲。従五位下に叙し、半井氏は千五百石高、今大路氏は千二百石高)と奥医師(二百俵高で、役料二百俵を給された。西の丸付の奥医師もいた。医業に優れた人が奥医師に選挙され、法印に叙されたともいう。内科は多紀氏、外科は桂川氏が世襲)を指すようであり、広義には彼らより下位の番医師・寄合医師・小普請医師・養生所医師・御広敷見廻り・奥詰医師、目見医師などという医師もその範疇に入った。この大屋木傳庵は老中連から直々に問われているから狭義の第二位に位置する奥医師であろう。奥医師は一日おきに登城し、『江戸城中奥の御座の間近くの「御医師の間」に、不寝番で詰める。将軍が朝食を済ませ、小姓に髪の手入れをさせている際に、将軍の左右か』ら二人ずつ六人が計三回、脈を測った。その後、六人の医師は『別室でそれぞれの診立てを教え合い、異常があるようなら腹診も行った』。『ほかにも、御台所や側室たちも昼食前に』六、七回、『定期健康診断を行い、二の丸や西の丸にいる将軍の子息たちの診察もした』。『病人が出ると、奥医師は全員集められ、それぞれの診立てを告げて、治療法を決定する。治療方針が決まったら、主治医を決めて、昼夜の別なく診療を施す。この際に「典薬頭」の官職を帯びた奥医師の統括者は、自らは治療の手を下さず、ほかの医師たちにさまざまな指示を出すことになる』とある。ここでは明らかに大名の主治医でもあった記載になっているが、「甲子夜話」を先行して現代語訳されておられる、結城滉二氏の「結城滉二(ゆうきこうじ)の千夜一夜」の本話の注に、奥御医師は本来は奥以外は診察しないのが建前ではあったものの実際には、『副業が許されており、自宅診察で患者を診』ることが公認されていたらしい(リンク先にはかく書かれてはいないが、「公認」でなくてはこのシーンの跡目願い書きの医師証明が証明にはならなくなってしまうからである)。流石に奥医師なれば、『大名や裕福な商人を患家に持って』いたとある。
「跡目願書」「あとめねがひがき」。
「書載す」「かきのす」。
「併」「しかし」。
「いかゞしき」副詞「いかが」が形容詞化した形容詞シク活用「如何し」で、承認することが出来ない状態にあることを表わし、「疑わしい」「いかがわしい」の意(後には「見苦しい」の意味にも転訛した)。
「彌」「いよいよ」。
「厲して」「なして」。怒りのため顔色を変える「色を作(な)す」である。「厲」(音・レイ)は訓で「とぐ」で「研ぐ」の意であるが、中に「激しい」の意で「烈」に通ずるとあるのでその辺りの謂いから用いたか? 少なくとも私は疫病や病名以外に見ることは少なく、この漢字をここに当てるのは見かけない用字である。
「奈何に」「いががに」。形容動詞「いかがなり」の連用形で、対象や言動を客観的に見て疑わしいと判断して、「あまりのことにどうかと思う(状態にある)」の意である。前の老中らの「いかがしき」という不遜不用意な切込みの語を逆手に取って、「いかがしき」など申す貴殿らこそが「いかがしき」輩であると暗に指弾して返したのである。
地藏の罰を請しといふ事
三州高力村百姓與吉といふもの、在番の供して大阪に登り、彼(かの)在勤のつれづれに咄しけるは、我等が在所德次村に正燈山眞龍寺といふ寺あり、右地藏の罰のあたりたる事、怖しきと物語りけるを、いかなる事やと尋(たづね)しに、右村方にありし頃も貧しき百姓故、眞龍寺墓掃除其外地内の事も請負(うけおひ)てなしたりしに、或時取紛(とりまぎ)れて掃除遲くなり、蠟燭をとぼして殘る掃除なしけるが、石牌(せきはい)の間等掃除するに、くれてくらければ、傍にありける地藏尊の廣げ給ふ右の手へ蠟燭をたてゝ掃除を仕廻(しま)ひ戻りけるに、妻子など其顏を見て、おん身は如何し給ひしや、顏黑くなりし由を申(まうす)に付(つき)、鏡に向ひ見るに如何にも黑く、扨右の手も黑く成りければ、是は唯事ならず、墓掃除のせつ、かくかくの事ありしと語り、早速右地藏見しに、片顏眞っ黑にふすぼり、手も蠟燭をたて置候所己が手同樣黑くありしゆゑ、全(まつたく)佛罰なりとて眞龍寺へ至り、此事(このこと)有(あり)の儘に語りければ、和尚早速讀經して石佛を洗ひ淸めければ、與吉が面(おもて)も漸くに本(もと)に復しけるとなり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。地蔵霊験譚で、この手の「地蔵の祟り」譚というのは実はかなり多い。地獄の業火に自ら焼かれることを望んだ菩薩である(例えば私の電子テクスト「新編鎌倉志卷之二」の鎌倉の覚園寺の条に載る黒地蔵(別名を火焼(ひたき)地蔵という。現存)の話などを参照されたい。ここでも勿論、超常現象として与吉の顔や手が黒くなることはそれと関わる)はずなのに、例えばこの与吉のケースのように掃除をする彼に罰(といってもこの場合はすこぶる軽いが)を下すというのは、私にはすこぶる納得がいかないのである。地蔵報恩譚の逆ベクトル変型であろうが、私は正直、嫌いである。何故ならこのタイプの話は地蔵の深い慈悲心を却って傷つけるからである。寧ろ、この地蔵には邪悪な霊や狐狸妖怪の類いが憑依しているとして、地蔵尊自体を和尚が破砕して異変が留まるといった結末の方がなんぼかよいとさえ思うくらいである。事実、私が和尚なら、そうするような気がする。実際、この地蔵像はヘンだと私は睨むのである。にしても……墨塗りにする「罰」というのは何だか罪がない気もしないか?……後は……最後の私の注を参照されたい。……
・「三州高力村」現在、「こうりき」と普通に読む。底本の鈴木氏注は『愛知県額田郡幸田町大字高力』とし、岩波版長谷川氏注はそれに続けて、『当時旗本領。領主の大阪在番の供を与吉がした』と注しておられる。蒲郡の西北約八キロメートル、岡崎の南凡そ三キロメートルに位置する。
・「我等が在所德次村」「正燈山眞龍寺」底本の鈴木氏注には、村も寺も『不詳。真竜寺の寺名も県下に存しない。岡崎市本宿に曹洞宗神立寺がある』とするが、これは調べが浅い。岩波版長谷川氏注には愛知県『西尾市徳次町』とある(「とくつぎちょう」と読む。隣接する寄住町に西尾市役所がある)。ここは先の高力村からは西南西約九キロメートルに位置するから、ここが与吉の生まれ故郷・実家の所在地であってなんら不自然ではない(但し、当時こちらは西尾藩の領地である)。また、長谷川氏は寺についても『信竜寺。浄土宗』と注されておられる。調べてみると、浄土宗西山深草派正東山信龍寺(せいとうざんしんりゅうじ)とあって本話に出る山号も相似する(但し、次のリンク先の記載から文禄三(一五九四)年に天台宗審隆寺から改宗したもののようである)。現在の徳次町交差点の北方に位置する。個人サイト「愛知札所巡り」の同寺の記載によれば、「信竜寺」「護城院」「観音堂」「幡豆観音」の別称を持ち、貞応元(一二二二)年開山で西尾城護城祈願寺という由緒ある寺であること、本尊は阿弥陀如来であることが分かる。しかもリンク先の画像の中にも地蔵の石像(複数)を現認出来る。そして……さらに吃驚したことがもう一つ。現在の同寺の住所は「愛知県西尾市徳次町地蔵五十三」……地蔵だ!
・「石牌」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『石碑』。
・「地藏尊の廣げ給ふ右の手へ蠟燭をたてゝ」通常の地蔵像では合掌するか若しくは、右手は錫杖を持っているか、また何も持たぬ場合は下に垂らしており、それでは「廣げた」「右の手へ蠟燭」を立てるという表現はおかしい(合掌した手を「廣げ給ふ右の手」とはどう考えても表現しない)。「廣げ給ふ右の手」に合致するタイプは左手を前に指して宝珠を載せ、右掌を右胸の下方に垂直立てたものである。とすれば、これはその垂直に立てた中指辺りに蠟を垂らして立てたと解釈せざるを得ない。しかし、どうも後半の描写を読むと――というより初読する者は誰もが、これは右掌を上に広げて前に差し出しているとしか読まないと思うのである。しかし石仏フリークの私は右手を水平に差し出している地蔵といのを見た記憶がないのである(疑われるのであればグーグル画像検索「地蔵」を御自身で検証されるがよい。実際、右手水平というのは殆んど見当たらない)。そもそもが仏像の右手はその有意に多くのそれでは、開いて上げて示されるものなのである。この手を開いて掌を対象に見せるのは施無畏印(せむいいん)と呼ぶもので、これは本来、説法を聴く大衆の持つ畏れを取り去る、心理的緊張を除去するためのスピリッチャルなハンド・パワーを表わす印相(いんそう)なのである。敢えて好意的に読むなら、錫杖を持った右手の何か物欲しげに右手を差し出す地蔵など見たくもない! いや! だからこそ私はこれは似非地蔵、妖怪「黒こげ地蔵」なんだとマジに思うんである。しかし、「信龍寺」で示したリンク先の画像を見ていたら、地蔵の向こう側に一際大きな地蔵一体(別写真で単独の一枚もある)が見え、それは右手に錫杖を持っていたらしいが、その錫杖が失われていることが分かる。好意的に見れば、例えばこの錫杖を握っていた丸く結んだ右手の親指か人差し指の上に蠟燭を置いたと考えることなどは出来そうではある(がやはり苦しい。無論、この地蔵が当時のものであるかどうかは分からぬ)。……いや……しかし、この「罰」、如何にも子どもっぽく、悪意がないとは思わないか? この地蔵に憑依しているのがもしも亡霊であったとしたら……これはきっと……地蔵菩薩が賽の河原で救うておるところの――親より先に死んだ子の亡魂――なのではなかろうか?……などとも思って見たりするんである……
・「ふすぼり」ラ行四段活用の自動詞「燻る」原義は、燃えないで「煙がたつ」「くすぶる」で、そこから煙などのために「煤(すす)ける」「煤けて黒ずむ」の意となる。転じて「やつれる」「生気を失ったようになる」「気持ちが塞ぐ」「顔色が曇る」の意も持つのでそれも掛けられていると読めば一層面白い。
■やぶちゃん現代語訳
地蔵の罰を受けたという事
三河国高力(こうりき)村百姓与吉という者、当地を領されて御座った御旗本の御家来衆の一人が大坂在番と相い成ったが、特にその御仁に命ぜられ、お供として大阪へと登り、かの主人在勤の間、よぅ、主人の暇つぶしに面白おかしい話を披露致いたと申す。その中の一話を人伝てに聴いたのでここに認(したた)めおくことと致す。
「……へぇ……儂(わし)が在所は少しばっかし離れました徳次(とくつぎ)村と申すところでござんして……そこに正燈山真龍寺(せいとうざんしんりゅうじ)と申します寺がごぜえやすが……儂、ここの地蔵の罰(ばち)に当たったこと……これ、ごぜえやす……いや! そりゃあもう!恐ろしいったら、ありゃせんことやったぁ……」
と語り出したによって、主人は、
「それはまた、いかなる恐ろしきことじゃ?」
と訊ねたところ……
……徳次村の方におりましたる頃も……まあ、今と変わらぬ貧しい百姓でごぜえやした……されば、その真龍寺の墓掃除その外、寺内(てらうち)の雑事なんどもなんでも請け負うて、日々なしておりやしたが……ある日のこと、畑仕事なんどが忙しゅうて、それにとりまぎれ、寺の掃除がえろう遅うなってもうて、やりおるうちに、もう、だんだんに暗(くろ)うなってごぜえやしたによって、蠟燭を点しつつ、し残した掃除を致いてごぜえやした。ところが、石牌(せきはい)の間なんど掃除致しまするうちに、これまた、どえりゃー、冥(くろ)うなって、これ、どうにもなりませなんだによって……傍(そば)にあった石の地蔵さまの、その広げておらるる右の掌(てえのひら)の上に……蠟燭を立てて……これ、掃除を仕舞いおおせまして、そうしてそのまま家へと戻りました。
ところが……妻子(つまこ)なんどは、儂の顔を見るや、
「あんさん! どうなさいましたんや?!」
「おっとう! 顔、まっ黒やでぇ!?」
てな、奇体なことを申しましたによって、妻に鏡を持って来させ、それを覗いて見ました……ところが……
――如何にもこれ!
――真っ黒!
――あたかも、これ以上ないと申す濃き墨を顔一面に塗ったる如くにして!
――さても目(めえ)を、ふと、その鏡を持ったる右手に落せば!
――握った右の掌の真ん中が、これまた、真っ黒けの黒々(くろっぐろ)!……
「……こ、こ、これは……ただごとやない!……そういえば……は、墓掃除ん時……地蔵さまの掌の上に……ちびた蠟燭を点し……消えたをそのままにして帰ってもうた!!……」
と妻に咄すも終らぬうち、脱兎の如く家を飛び出やんして、直ぐにかのお地蔵さまを見に参りました。……ところが……
――右の片頰は蠟燭の煤(すす)にて真っ黒にふすぼり!
――顔色が変じてもうて、石仏ながら生気も失(うしの)うたる、あたかも焼け死んだ人の面相の如(ごと)!
――右の手(てえ)はといえば!
――これも!
――蠟燭を立ておいて、そのままに溶け消えてごぜえやした所が!
――己(おのれ)が右手同様に!
――これまた!
だ真っ黒けの黒助(くろすけ)!
さればこそ! 顎から手(てえ)から膝までも、がくがくぶるぶる震え出し、
「……こ、これは……全く以って! 仏罰じゃあああ!!!」
と、我知らず一声叫ぶと、真龍寺が方丈へと走り込んで、
「――お、和尚(おっしょう)さまぁッツ!――かくかくしかじかのこと、これ、ごぜえやしたぁああッツ!!!」
と、ありのままのことを申し上げましたんで。……へえ。……
ほしたら、和尚(おっしょう)さん、早速に読経をなして下さり、儂とともに石仏(いしぼとけ)さまを綺麗に洗い清めて下すったんでごぜえやす。
すると、和尚(おっしょう)さん、汗を拭いつつ、儂の顔を見るなり、
「――よ、与吉!……」
……へえ……儂の面(おもて)も……そん時には……ようやっと……本(もと)へと復してごぜえやしたんや…………。
死を仄めかす奴は私を含めて魂に於いて如何にも胡散臭い「奴」である――
図―565
図―566[やぶちゃん注:上図。]
図―567[やぶちゃん注:下図。]
間もなく夜があけた。如何にも景色がよいので、到底暑いむしむしする船室へ下りて行く気がしない。六時、我々は汽船から小舟に乗りうつって上陸した。鹿児島附近の景色は雄大である。町の真正面の、程遠からぬ所に、頂を雲につつまれた堂々たる山が、湾の水中から聳えている。これは有名なサクラジマ即ち桜の木の島である(図565)。図566は鹿児島の向うの桜島山の輪郭を、鹿児島の南八マイル、湾の西岸にある垂水(たるみ)〔大隅の垂水ならばこの記述は誤である。後から「湾の東にある元垂水」なる文句が出て来る〕湾を越して西に開聞岳(かいもんだけ)と呼ばれる、非常に高い火山がある。これは富士山のような左右均等を持っていて、四周を圧している。ここに描いた斜面は、疑もなく余りに急すぎるであろうが、私にはこんな風に見えた(図567)。市の背後には低い丘がある。
[やぶちゃん注:モースの鹿児島着は明治一二(一八七九)年五月二十二日早朝と推定されている(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)。ここにモースがデッサンを残す桜島であるが、どうも私の知っている桜島の山容とちょっと異なるように思われる。特に麓の部分の溶岩ドーム状の形態は現在の形状と異なる(ように見える)。モースが見た後の三十六年後に起った大正の大噴火(ウィキの「桜島」によれば、大正三(一九一四)年一月十二日に噴火が始まり、その後約一ヶ月間に亙って頻繁に爆発が繰り返されて多量の溶岩が流出、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸びて海峡(距離最大四百・最深部百メートル)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになったとある)によって山容が変化したものか? それともこう見える位置があるのか? 識者の御教授を乞うものである。
「垂水」底本では珍しく石川氏による誤記注記の割注が、『〔大隅の垂水ならばこの記述は誤である。後から「湾の東にある元垂水」なる文句が出て来る〕』と出る。これは翌日行った大隅半島の垂水(元垂水)という地名と鹿児島湾とを混同した記載であろう。それでも『西岸にある』という言い方はやはりおかしい。
「八マイル」一二・八七キロメートル。因みに、鹿児島から鹿児島湾の西岸の約十三キロ地点は五位野の沖合辺りになる。位置的には開聞は十分に見えるはずである。
「市の背後には低い丘がある」この視点は鹿児島港であろうから、背後の丘とは城山と考えてよいであろう。]
只今――僕に向後何かが起こったとしても――あなた方は2015年1月1日午前1時になる前に僕の
――義父長谷川世喜男逝去のため新年の年賀状は欠礼致します――
悌心兄を善導に誘ふ事
越後の產のよし、所も名も聞(きき)しが忘れたり、兄弟の子供ありて、兄は殊の外の惡黨にて、弟幼年の節、親も見かぎりしや勘當して追出(おひだ)しぬ。然るに親父は相果(あひはて)、弟は至(いたつ)て母にも孝なれども困窮して、もとは田地ありしが皆賣拂(うりはら)ひたち行(ゆき)がたきゆゑ、弟十六七年歲のころ母は親類の方へ引取(ひきとり)、奉公稼(かせぎ)をなし、其身は江戶のしるべを求めて町方へ奉公し、さる醫師の方に勤(つとめ)しが、至て實體にて勤なしけるゆゑ、主人はさらなり、近邊にても眼を懸けゝるが、主人より給(たまは)る給金其外一錢も遣ふ事なく、十年程の内に金拾四五兩貯(ため)て、さて主人に向ひ、我等はかくかくの身にていまだ母も存在なり、何卒右の通り金子貯候得(たくはへさふらえ)ば國元へ立歸り、聊(いささか)の田地をもとり戾し母を養育いたし度(たき)間、暇(いとま)給はるべき由申ければ、主人も其孝心を感じ早速許容して、右貯候金子は、在方へ至りて其要になすべしとて、路用は別段にあたへたり。近所の者も夫々(それぞれ)花むけして江戶を立(たち)けるに、古鄕(ふるさと)へやがて行べしと思ふ旅中、人放れの場所にて山だちに行逢(ゆきあひ)、右金子は不及申(まうすにおよばず)、衣類をも剝取(はぎとり)、丸の裸になしてければ、さるにても難儀非運の事と思ひ、盜人(ぬすつと)の内親方らしきに向ひ、右の通り被剝取(はぎとられ)候上は古鄕へも難歸(かへりがたく)、又江戶へも難參(まゐりがたし)、第一丸裸にては寒氣も難凌(しのぎがたく)、しかる上は何卒御身の住家(すみか)へともなひ、從者(ずさ)とも手下とも思ひて身命(しんみやう)を助け給へと歎きければ、流石に不便(ふびん)とや思ひけん、襦袢を一つ與へ、盜取(ぬすみとり)候品を背負(せおは)せ山奧の彼(かの)賊の宿へいざなひぬ。夫(それ)より一兩日ありて彼賊にねがひけるは、我等もいまは可爲(なすべき)やうもなければ何卒江戶表へかへり申度(まうしたく)候、外々の雜物(ざふもつ)はかへし給ふに不及(およばず)、道中犬おどしにも候間、何卒我等がさしたる脇差は柳原にてとゝのへし品ながら右を給(たまは)り候へと歎きければ、成程尤(もつとも)の事ながら、盜人の一旦手に入りしものを歸すといふ事なし、外(ほかの)腰の物を遣すべし迚、繩からげになし置(おき)たる腰物(こしのもの)を出し、此内にて寄りとれと申(まうし)ける故、錆身一腰(さびみひとこし)を申請(まうしうけ)て立別れ右賊(ぞくの)巣を立出(たちいで)、江戶へ歸り元の主人の醫師の許へ至りて、かくかくの仕合(しあはせ)、無據(よんどころなく)立歸りかゝる不仕合(ふしあはせ)に候得ば、元の如く召使(めしつか)ひ給はれとかたりけるゆゑ、律義の者なれば主人も憐みしが、さるにても汝が差(さし)たる脇差はいかゞ哉(や)と尋(たづね)しに、賊に願ひて貰ひたりと、一部始終語りけるに、彼醫者は打物等好み目利(めきき)などせしが彼錆身を見て、此脇差は見所ありとて、主人と賴みたる方へ彼醫者持參して色々評定見改(みあらため)候所、遖(あつぱれ)の上作物(じやうさくもの)故、硏(とぎ)など申付(まうしつけ)て三十兩の買上(かひあげ)になりしかば、彼者へ其譯申(まうし)て代金遣(つかは)しければ大きに悦び、かく金子も出來し上は一日も初願むなしうすべからずと、主人へ厚くねがひければ、得心して其心に任せ、此度は隨分用心して國元へ下りけるが、彼追剝に逢ひし場所は、甚だ用心あしき所、如何せんと思ひしが、得と思案して彼賊の宅へ至り、親方御無事なりやと尋(たづね)れば、彼もの大きに驚き、汝はさる頃衣類貯(たくはへ)等被奪取(うばひとられ)しものならずや、いかなれば又我方へ來りしと尋けるゆゑ、有(あり)し次第いさいに咄し、扨我等が被奪取(うばひとられ)し金は十五兩程なり、その方より貰ひ請し刀を拂ふ所三十兩なり、右の餘分我(わが)かたに殘さんも心憂し、これを返すべしと、右の負數の金子を十五兩遣しければ、彼賊大きに驚き、右の金品身さづかりし金なり、受まじき由を申(まうし)、さてお身はいづ方の人成哉(なるや)と尋ける故、越後かくかくの生れにて母親存生(ぞんしやう)故、田地にても求めて老ゆく末を養はんと來るなり、一旦御身に被奪(うばはれ)し金も右の要なりと咄しければ、彼賊又大きに驚き歎きて申けるは、我は汝が兄、汝は幼かりし故知(しる)まじけれど、惡黨故、親元を出、かゝる惡業をなす、汝は孝心の助(たすけ)にてかく天の惠みもあれば、能(よく)我(わが)惡事を今迄天のゆるし給ふも空恐ろし迚、扨手下の者を呼びあつめ、盗取候品々を爲差出(さしいださせ)、右の内金子五六十兩ありしを三十兩計(ばかり)請取(うけとり)、扨某(それがし)は仔細あつて是迄の渡世をふつふつ思ひとまりたり、然る上は何もいらざる間、路金は少々取候得ども、殘る家財雜具女房共に汝にあたふる間、好き次第わけ取べしとて、弟と俱に在所へ歸り、親の放せし田畑を取戾し扨母をもむかへてありけるが、弟は兄なれば、彼(かの)者に家を立(たて)よといひ、兄は一旦勘當の身なれば、汝家主となつて跡相續せよと言(いひ)しが、弟さらにうけずとありしに、彼賊せし兄、如何思ひけん、もとゞり切拂(きりはらひ)、出家して行衞なくなりしとや。弟の悌心(ていしん)にて兄をも本心に誘ひし事と、人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。岩波の長谷川氏注に、「日本昔話集成」第四巻に『出る山賊の弟型の話。新潟その他に分布』とある。柳田國男の「日本の昔話」に載るので、最後に補説として附記しておいたが、少なくとも、この柳田の記すものは、はもう『型』というよりも、まんまの相同話と言ってよい。幾分変異が見られるように思われるのは児童向けを配慮した柳田の編集が加わっているせいであろう。なお、私はこの柳田の訳には一切影響を受けずにオリジナルの原文訳(一部翻案)を手掛けた。御比較あれかし。
・「悌心」年長者に心から柔順に仕える気持ち、兄弟や長幼の序とその情の厚いこと。
・「山だち」山賊。
・「柳原」底本の鈴木氏注に、『神田川右岸。左岸を向柳原という。土手を背にして小商人が床見世を並べ、安物を売った。古着などその代表。俗に柳原物の名で呼ばれた』とある。「床見世」は「とこみせ」と読み、床店とも書く。商品を並べただけの寝泊まりしない簡単な店又は移動可能な小さな屋台店をいう。
・「遖(あつぱれ)」「研(とぎ)」孰れも底本の編者のルビ。
・「負數」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『員數』で「いんじゆ」とルビを振る。これなら「員数」(いんず/いんずう)と同じで物の数又は一定の数を指し、ここはその「余分な」十五両分を指す。原本の「員數」の誤写と採る。因みに、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるが、文化・文政期の農地が一反(三百坪)で一・五~三両で現代に換算すると一両百万円相当とするデータに則るなら、十五両千五百円で十五反から三十反、三十両三千万円で三十反から六十反は買える計算になる。話柄自体はもっと時代を遡ると考えれば、さらに広大である。
■やぶちゃん現代語訳
弟の悌(てい)の真心が兄を善導へと誘(いざな)った事
越後の生まれのよし――在所も、その名も聞いて御座ったが失念致いた――、兄弟の子供のあって、兄と申す者は、これ、殊の外の悪党にて、親も見限ったものか、まだ弟が頑是ない時分に、勘当して家から追い出してしもうた。然るに、当の親父はほどのぅ病いを得てあい果て、幼いながらもこの弟、残された母に対しても至って孝で御座ったれど、何分にも若年なれば、家を支えることもままならず、どうにも困窮致いて、もとは相応の田地を持っておったれど、これ皆、売り払い、それでも首の回らねば、遂には生計(たつき)のたち行き難くなったによって、弟はその頃、既に十六、七歳となって御座ったによって、取り敢えず、母は親しき親類の方へと身柄を預かってもらい、母へは、その身一人の糊口は何とか凌ぎ得るところの、奉公の稼ぎを、これも無理にも紹介してもろうた上、その弟自身は江戸の知れる方に頼みをかけてはるばる上ると、町方への奉公を探した。すると、さる医師の方で勤め先が見つかったと申す。
さてもこの少年、いたって実体(じってい)にして、家事手伝いに精勤なして御座ったによって、主人は勿論のこと、近隣にても、誰(たれ)もが眼をかけて可愛がって御座った。
主人より給わる給金その他は、まず普段は一銭も遣(つこ)うこともなく、十年ほど医家へ奉公しておるうち、実に金十四、五両も貯めて御座った。
さて、そんなある日のこと、この青年、主人に向って、
「……我らはかくかくしかじかの身の上にて御座いまして……実は未だ母も存命(ぞんめい)……ここはどうか……この通り、いささかの金子を貯うることが出来ましたによって……ここは一つ……国元へと立ち帰り、僅かばかりでも、かつての田地をも取り戻し……ささやかながら……母を養育致しとう存じますれば……どうぞ……お暇ま、これ、給わりとう、平にお願い申し上げ奉りまする……」
と、切々と申したによって、かの主人医師も、その青年の深き孝心に感じ入って、早速に許諾致いた上、
「――かの貯め置いて御座った金子は、在方へと参りて、田畑買い戻しの用に使(つこ)うたがよい。」
と命じ、帰郷の路用をも、これまた別にかの者へ与えたと申す。
近所の者どもも、それぞれに餞別をやって、いざ、江戸を旅立った。
さて、故郷(ふるさと)へも、もう着かんとするかと思う旅の終わり、人気のなき場所にて運悪う山賊に行き遇うてしもうた。
身を粉にして貯めた金子は申すに及ばず、身包(ぐる)み剥れて、丸裸。
『……そ……それしにして……ど……どうして……どうして、我ら……かくも……難儀にて非運の目(めえ)に……遇うので、あろ……』
と思うと、目の前に立ちはだかって嘲り笑って御座った盜人(ぬすっと)のうちの、親方らしき者に向こうて、
「……こ、この通り……身包み剥ぎ取られました上は……あまりの恥ずかしさゆえ……我ら念願の帰郷の願いも果し難く……また……永年(ながねん)奉公致いて我らを送り出して下すった江戸の恩人の元へも、これ、舞い戻るわけにも参りませぬ……第一からし……この丸裸にては……今の季節の寒気を凌ぐこともままなりませず……このままにては……この場にて……凍え死に致すを……待つばかり……しかる上は……何とぞ……御身(おんみ)の住家(すみか)へ我らを伴われ……従者(ずさ)なりとも……手下なりとも……お思い通り……ご命令通りに致しますによって……どうか! お使い下さりませぬか?!……どうか!……この身命(しんみょう)!……これ、お助け下さりませ!!…………」
と歎きつつ、頻りに懇請致いたところ、流石に不憫な奴と思うたものか、
「――これを――着な!……それと――これを皆(みいな)、運びなぃ!」
と、手下の引き剥がした襦袢一枚を取って投げ与えるや、その日、最後の彼自身から盜み取って御座ったものに至る、あまたの盗品を、これ悉く、襦袢一枚引っ掛けた彼に背負わせ、一路、山奧の、かの賊の隠れ家へと引き連れて行ったと申す。
それより一日二日の間、かのお頭の指図に従ごうて、医家と同様、何ごとも器用に家内の仕事をこなして御座ったによって、かの首魁(しゅかい)もすぐに、妙に彼を気に行ったと申す。
されば、彼はすかさず、
「……我らも……流石にお頭(かしら)のなさる主たる生計(たつき)……そればかりはどうにもお手伝い致す才覚、これ、御座いませねば……かくし居(お)るもただの居候のようなものにて御座いますれば……ここは、どうか一つ……やはり、江戸表へと立ち帰るしかないと、我ら思いまする……はい?……よろしゅう御座いまするか?!……命ばかりか!……まっこと、嬉しきことに御座いまする。……されば……何で御座います……その……金子その他の雑物(ぞうもつ)には、これ、未練も何も、御座いませねば、お返し戴こうなどとは思いも致しませぬ……が……これよりまた江戸表への長き道すがら……人離れ致いた場所にては、狼や野犬などの恐ろしきものの襲って参らぬとも限りませぬ……されば、せめてそれらを追い払らわんがために一物(いちもつ)の一つも欲しゅう存じますれば……どうか一つ、我らが腰に差して御座いましたる脇差……あれは安物紛(まが)い物で知られた柳原にて買い調えし怪しき品にては御座いまするれど……せめてもの用心がために……どうか……あれを、お返し下さいませぬか?…………」
と、またしても涙をこぼしつつ、頭目に歎き訴えたところが、
「……何……なるほど尤もなることじゃ。――じゃが、の。我らは盜人(ぬすっと)じゃ。――盗人は一旦、手に入れたものを、これ、また盗んだ当人に返すというということは、盗人の風上にもおけぬ仕儀じゃて。……なに、他の腰の物、これ、お前に遣わして進ぜよう。」
と、答えると、奥から繩からげになしおいた、何本もの太刀や脇差を引きずり出だして、彼の前に投げ出すと、
「――まあ……この内より好きなもんを持って行きいな!」
と笑って言うた。
されど、彼は遠慮しいしい、そのうちより、およそ、価値のなさそうな、すっかり身の錆びた脇差一本を申し請けると、そのまま別れの挨拶をなし、かの賊の隠れ家を立ち出で、江戸へと向かった。
江戸へ帰り着くと、元の主人の医師の元へと至って、
「……途次にてかくかくの数奇なる運命に遇い……よんどころのぅ……恥ずかしながら……立ち帰りまして御座いまする……かかる不幸せに遇いました上は……ご主人さまさえお許し下さいまするとならば……もとの如く……われら召し使(つこ)うては下さいませぬでしょうか?……」
と涙ながらに語ったれば、もともとが実体律義なる使用人であったによって、かの主人も話を聴き、驚きもし、憐れにも思うて、二つ返事で帰参を許して御座った。
それより一日、二日して、彼も落ち着いて、かつての通り、実体に仕事に励んで御座ったを、医家の主人、ふと見かけて声をかけ、
「……それにしても――そのそなたが腰に差しておる脇差じゃが――それは、如何致いたのじゃ? 前の脇差しとは違うて見えるが?」
と訊ねたによって、
「……へえ……これはその賊の頭(かしら)に願ごうて貰い受けたものにて御座いまする……」
と、かのたち別れた直前の一部始終を語ったところが――この医師、以前より打物なんどの蒐集を好み、自らも刀剣の目利(めき)きなんどの真似事も致いて御座ったが――、
「――一つ、見せて貰おう。」
と彼より脇差しを受け取って、抜いてみる……ひどく錆の浮いては御座ったれど……一目見るなり、
「……!……こ、この脇差は!……これは見所、あるものじゃ!」
と小さく驚きの声を上げると、そのまま、その脇差をかの者より借り受けると、その日のうちに、かの医師を特に御用達(ごようたし)として御座った、さるお武家の屋敷方へと持参致いて、目釘を抜いて銘をも確かめ、いろいろと評定(ひょうじょう)致いては二人雁首揃えて品定めなど致いたところ、
「……こ、これは! まっこと! 遖(あっぱれ)の上作物(じょうさくもの)じゃッ!」
と家中大騒ぎとなり、ただちに研ぎ師が呼び込まれ、慎重なる研ぎなど申しつけて、研ぎ上がるや、そのお武家、即金三十両にて買い上げて御座ったと申す。
されば、その日の夕刻に屋敷へ戻った医者は、かの者へその次第を告げ、今受け取ったる代金三十両を、そのままに、彼に与えた。
青年は大きに悦び、
「……か、かく金子も出来ましたる上は――一日とてもやはり初願の――母を迎えて養(やしの)うこと――これ――空しく捨ておくこと――出来ずなりまして御座いまするッ! どうかッ!!……」
と、またしても強い帰郷の意志を主人へ厚うに願い出でて御座ったによって、主人医師も得心致いて、にっこりと笑みを浮かべて、
「おまえの好きなようにするがよいぞ。」
と即座に許した。
されば、このたびは随分道中用心致いて、国元へと下って参ったものの、
『……かの追剥に遇った所は……どう、用心致いても……これ……万全とは申せぬ悪所じゃ……さても……どうしたらよいものか?……』
と迷うたので御座ったが、
「そうじゃッ!」
と、はたと手を打つと、何を思うたものか、かの賊の隠れ家へと向こうたのであった。
「……親方さま! 御無事で御座いまするか?」
と門口にて呼ばわれば、かの頭目、奥方より出で来て大きに驚き、
「……お、おめえは?!……こねえだ、衣類・貯えなんど、我らが奪い取った若造じゃねえか?!……い、いったい、何でまた、おらんとこへ参ったんでえ?!」
と訝しげに訊いたによって、江戸へ帰ってからの脇差の一件につき、委細を語った上、
「……さて……我らがあなたさまより奪い取られた金子は十五両ばかりで御座いました。しかし、そのお武家さまより頂戴致しましたる、脇差を売り払った代金は、これ、三十両にて御座いまする。その余分、我らが方に残しおくはこれ、如何にも心苦しゅう御座いますればこそ、ここへお返し申そうと参じました。」
と、その余分の金子たる十五両、これ、耳を揃えて頭(かしら)の前に差し出した。
頭、これ、大きに驚き、
「……そ、その金品は、おまえの身(みい)が、これ、さ、授かった金じゃ! 受けとれん!!」
と言ったが、頭はそのまま暫く、黙ったまま凝っと彼の顔を眺めておった。
が、急に、
「……と、時に……おまえさんは……いったい、どこの、お人じゃ?」
と逆に訊いて参ったによって、
「……我らは、越後はかくかくの何々村の生れにて〇の〇兵衛と申しまする……兄さんが勘当された直後に父は亡くなりました……それでも母親は未だ存生(ぞんしょう)にて御座いますれば……家産の傾きて売り払(はろ)うてしもうた田地の僅かなりとも、この十五両にて買い戻しまして……ただ一人となりましたる母を迎えて、老ゆく末を養わんとて……故郷へと帰らんとする者にて御座いまする。……はい?……ええ……先に一旦、あなたさまに奪われましたる金も……はい……その買い戻しと母の養いの用にと、我らが十年ばかりの間に蓄えたる金子にて御座いました…………」
と答えた。
ところが、目の前の賊の頭目の顔、これ、みるみる蒼ざめてゆくのが分かった。
かの首魁、これまた、眦(まなじり)が裂けんばかり大きく目を見開いておるが、これは、どうみても何かに怒っておるのでは、ない、と見た。あまりの何かに、驚き歎いておる色が潤んだ眼の中に確かに見えたからで御座った。
徐ろに盗賊の語り出(だ)す。
「……我は汝が兄……汝は幼かったがゆえに知るまいが……我ら救い難き悪党で御座ったによって、親元を出奔、かかる悪行を成すに至った。……汝はその孝心の助けによって、かくの如き天の恵みもあればこそ。……よくぞ我らが悪事を、天が、今の今まで、かくも許し下すったということは……これ、如何にもそら恐ろしきことではないか!……ああっ!…………」
と叫ぶや、直ちに手下の者どもを総て呼び集め、過去に盗み取って参った品々を奥の倉より悉く庭に牽き出ださせ、その中に金子が五、六十両もあったが、そこより、三十両ばかりを命じて取らせ、己が懷ろに突っ込むと、皆に向い、
「……さても――我ら、仔細のあって――これまでの渡世――これ――ふっつりと思い止めて――やめることに――した。こうなった以上――何にもいらねえ――ただ――これからここを発って行かねばならねえ所がある――されば――路銀(ろぎん)の足しに――少しばかりは取らせて貰(もろ)うた――が――後――残る家財雜具一切合財――女房も一緒に――おまえらに――やる! だから――好き次第に分け取るがよいぞッ!!」
と告ぐるや、脇に御座った弟の手をむんずと摑んで、韋駄天走りに二人して隠れ家から走り去った。
そのまま峠を越え、在所へと至ると、その翌日には手放したる田畑を、弟に、自身が「路銀」と称した三十両をのみ使わせ、すっかり取り戻すと、さて、久々の母をも迎えて涙の母子三人の再会を果たいた。
弟は、兄なればとて、
「兄さんこそがこの家を継ぐべきお方に御座います。」
と言うてきかぬ。したが、兄の方はと言えば、
「儂(わし)は一旦、勘当となった身なれば、死んだも同然。お前がこの家(や)の主人となって跡を相続するが必定。それが正しき理(ことわり)というものじゃ。」
と言ってきかぬ。
それでも悌心厚き弟なれば、一歩も譲らず、さらに兄の命を受けずに御座ったが、
――かの賊であった兄は
――一体、何を思うたものか
――突如
――髻(もとどり)を自ら切り払(はろ)うて
――出家し
――そのまま里を出でて、行方知れずとなったと申す。…………
「……弟の心、まっことの悌(てい)にして……兄をも、その貴き本心へと誘(いざの)うたことで御座いました。……」
と、とある御仁の語って御座った。
[やぶちゃん補注:柳田國男「日本の昔話」の「山賊の弟」を以下に示す。底本はちくま文庫版全集 25」(一二九~一三二頁)を用いたので新字現代仮名遣である(初版は昭和五(一九三〇)年アルス刊「日本児童文庫」)。
*
山賊の弟
昔越後(えちご)国のある農家に、兄弟の子供がありましたが、兄は小さい時から性質がよくないので、親も見限って勘当をしましたら、どこかへ往ってしまいました。そのうちに父は病んで死に、弟の方は母に孝行なよい息(むすこ)でありましたけれども、家がどうしても立ち行かなくなって、わずかの田地は売ってしまい、母は親類に預かってもらって、十六七歳の頃に江戸へ出て来て、ある医者の家に奉公に入りました。いたって実直で給金は一文(いちもん)もむだに使わず、十年ほどの間に、いろいろの貰い物や何かを合せて、もう十四五両の貯蓄ができました。そこで主人に向って事情をくわしく話し、どうか母親のまだ丈夫でおりますうち、この金を持って生れ故郷に帰り、なくした田地をこの金で請(う)け返して、家が持ちとうございますというと、それほよい心掛けと主人も感心して、別に路用(ろよう)の金を餞別(せんべつ)にやりました。それから江戸を立ってはるばると越後の国へ帰って来ようとしましたが、途中上州の山路で山賊に出逢って、 財布の金はもちろんのこと、衣類身のまわりも残らず剝(は)ぎ取られて、まる裸になってしまいました。せっかく十年余りも真黒になって働いて貯えていたものを、一日に取られてしまうことはなんたる情ないことかと思いましたが、とにかくこれでは国へ帰ってもなんにもならぬ。この上は行き所もないから手下にでも家来にでもしてお前さんの所に置いておくんなさいと、山賊に向って頼んでみますと、さすがに不便(ふびん)と思ったものか、山賊は今奪い取った品物を荷造りしてこの男に背負わせ、襦袢(じゅばん)一枚だけを着せて、自分たちの隠れ家へつれて行きました。二三日も山賊の所で厄介(やっかい)になっているうちに、いろいろと考えてみましたが、盗人はとても自分の商売にもなりそうもない。まだ若いのだからもう二度江戸へ出て働いた方がよいと思って、その事を話してみると山賊も同意しました。ついては着物は襦袢一つでもよいが、脇差しは道中の犬おどしに、ぜひ返して下さい。あれは私が小遣いで、わざわざ柳原(やなぎはら)で求めて来た刀だからと言いますと、なるほどもっともの事ではあるが、いったん奪った物を返すということは、山賊の作法にはないことだ。腰の物ならばこの通りたくさんある。一本やるからこの中からどれなりと持って行けと、奥から縄からげにした脇差しを一抱えも持って来て見せました。それでは頂戴(ちょうだい)しますと言って、かなり錆びたのを一本貰って、山賊の宿を出て来ました。江戸では元の主人より他に、頼るべき家とてはありません。それでまた戻って今度の災難の始め終りを述べて、もう一度その医者の家で奉公することになりました。ところがこの主人はかねて刀剣が好きな人で、山賊に刀を貰ったという話を聴いて面白がり、よく目利きなどを楽しみにしていましたが、一度見たいというので持って来て見せますと、果してあっぱれな名作であって、早速三十両に買い取ってくれた人がありました。これはなんともはや意外の仕合せでありますが、この金ができました以上は、やはり一日も早く帰りとうございますと、再び主人の許しを得て、また故郷の空に族立ちました。上州から山を越えて行く路は、一度ひどい目に逢っているので、やめて他の方を廻って行こうかとも思いましたが、いろいろ考えた末にまたこの路を帰り、おまけにわざわざその山賊の家へ訪ねて行きました。親方その後はお変りもありませんか。私は先日御厄介になった旅の者でござります。江戸であの脇差しが三十両に売れました。私の取られた金は十五両、これを皆貰っては私の方が義理が悪くなりますから、半分だけ返しに来ましたと言うと、山賊どもは驚いて、しばらくは無言で顔を見合せておりました。その内に親方の山賊はこの男をじっと見て、お前は越後の人だというが、越後はいったい何村だと尋ねますから、くわしく在所(ざいしょ)や親の名などを申しますと、賊は大きな溜(た)め息をつきました。どうも虫が知らせるというのか、もしやそうではないかという気がしてならなんだ。悪いことはできぬものだ。おれは十何年前に勘当せられたお前の兄だ。お前は小さかったから顔を覚えておるまいが、おれはとうとうこんな商売になっている。同じ血を分けた兄弟でも、こうも心持がちがうものかと、別れた親のことを思い出して二人で泣きました。そこで仲間の者一同を呼んで、永らくいっしょに暮したが、おれはもうやめて帰らねばならぬ。ここにある貯えの中から、ただ少しばかり路銀(ろぎん)に持って行く。後はみんなでどうなりとしてくれと言って、兄は弟と連れ立って生れた村に帰って来ました。そうして親の売った田畠を買い戻して、自分はいったん勘当を受けた者だから、弟に家の跡目を継ぐようにと言いましたが、弟はなんと言っても承知しません。そうして兄弟で譲り合っているうちに、なんと思ったか兄は髪を切って、出家(しゅっけ)になってまた行く方が知れなくなったそうです。昔の越後伝吉を始めとして、以前はこういう篤実(とくじつ)な若い者が、村に多かったことは実際でありましょうが、ただその話がこのようにくわしく、江戸の方まで伝わっていたことだけは、少しばかり不思議であります。
*
「越後伝吉」はウィキの「越後伝吉」によれば、『講談、歌舞伎などに登場する人物。大岡政談に付会される』とし、『津村淙庵の「譚海」にしるされた物語が神田伯龍が述作した講談、実録においておこなわれた』。『あらすじは、越後国の伝吉は父の遺言によって、不身持ちで家出したおば、お早の面倒を見、その娘お梅と結婚したが、家産が傾いたので江戸に出て吉原の三浦屋に奉公し、苦労したあげく』、百両もの『たくわえをもって故郷に帰る途中、護摩の灰(ごまのはい。旅人をよそおった盗賊)につけられたので、野尻の近江屋の女中おせんの好意でかねをあずかってもらい、証拠の櫛をふところに家に帰ると、お早母子は庄次父子と密通し、伝吉の帰郷を邪魔がって猿島河原の飛脚ごろしの罪をなすりつけ、野尻の宿にあずけた』かの百両を『だましとったので、おせんが苦労して大岡忠相に訴えてことの理非が明白となり、伝吉は青天白日の身となり、あらためておせんと結婚した』とあるのだが、私の探し方が悪いのか、所持する「譚海」に原話を見出せない。識者の御教授を乞う。見つかり次第、電子化する。]
暗くなって、私は寝台へ入ったが、然し北緯三十一度の地点にある鹿児島湾へ船が入るのを見る為に、目を覚ましたままでいた。真夜中、私は再び甲板(デッキ)に出たが、湾に入ることよりも遙かに興味があったのは、海の燐光である。その光輝は驚くばかりであった。そして極めて著しいことに、大小の魚のぼんやりした、幽霊みたいな輪郭が、それ等がかき立てる燐光性の体質に依って、明瞭に知られた。私はこの驚くべき顕示を、更によく見る可く、船首から身体を乗り出した。幽霊の如く鮫(さめ)が船の下を過ぎた。すペくとるに照された進路を持つ骸骨魚で、いずれの旋転も躱身(かわしみ)も、朧に輪郭づけられる。真直な、光の筋を残して、火箭(ひや)の如く舷から逃れ去る魚もあり、また混乱して戻って来るものもある。魚類学者ならば、それぞれの魚を識別し得るであろう程度に、魚は明かに描き出され、照明されていた。私は遠方の海中に、光の際立った一線があるのを認め、それを海岸であろうと考えたが、海岸線は遙か遠くであった。近づいて見るとそれは、海にある何等かの潮流と界を接する燐光体の濃厚な集群で、海生虫の幼虫や、水母(くらげ)やその他から成立していることが判った。船がそれを乗り切る時の美しさは、言語に絶していた。舷ごしに見ている我々の顔を照しさえした。光は、まったく、目をくらます程であったが、而もその色は、淡い海の緑色である。それは人をしてガイスラー管の光輝を思わしめ、そしてそこを通り過ぎると、船痕の継続的波浪が到達するにつれて、暗い水から光の燦然たる閃光が起った。私が熱帯性の燐光を見たのは、これが最初である。この美しさは、いくら誇張しても、充分書きあらわすことは出来まいと思う。
[やぶちゃん注:ここは私の趣味から原文を総て示す。私はここに登場するのは、モースが言うようなバクテリアなどを共生した発光性魚類や発光性水母などではなく、原生生物界渦鞭毛植物門ヤコウチュウ綱ヤコウチュウ目ヤコウチュウ科
Noctiluca 属ヤコウチュウ
Noctiluca scintillans の発光ではないかと考えている。識者の御教授を乞うものである。彼らは物理刺激によって発行するから、多量に棲息する中を夜行性魚類が進行すれば、それによって光り、潮目の部分に集まって、水母や他のプランクトンと接触することによってここで彼らは発光しているのではないかと私は考えのであるが。
At dark I went to bed, but lay awake to see
our entrance into the Bay of Kagoshima, lat. 31°. At midnight, I was on deck
again, but a far more interesting sight than the entrance to the Bay was the
phosphorescence of the sea. It was startling in its brilliancy, and what was
very remarkable, the dim and ghostly outline of every fish, big and little, was
clearly defined by the phosphorescent material they stirred up. I hung over the
bow to see better this wonderful exhibition. A shark, like a ghost, went
beneath the vessel, a skeleton fish with a spectre-lit path, every turn and
dodge dimly outlined. Some fish darted away from the vessel's side like a
rocket, leaving a straight shaft of light; other fish would get confused and return.
So clearly were the fish depicted and illuminated that an ichthyologist would
have been able to identify every one. At a distance I noticed a sharp line of
light in the water which I supposed was the shore, but the shore-line was far
beyond. As we neared the line I saw that it was a dense mass of the phosphorescent
material bordering some current in the sea and consisting of the embryos of
marine worms, jelly fish, and the like. As the boat surged through it the
effect was indescribably beautiful. It illuminated our faces as we looked over the
side of the vessel. The light was literally dazzling, and yet the color was a
light sea green. It reminded one of the brilliancy of a Geissler's tube, and
after we passed it, as the successive waves of the steamer's track reached it,
brilliant flashes of light came out from the dark waters. This is the first
time I have seen the tropical phosphorescence, and it seems impossible that it
has ever been described with exaggeration.
訳で「すペくとるに照された進路」(太字は底本では傍点「ヽ」)とある原文では“with a spectre-lit path”であるが、特にフォント変更されていない(正直、石川氏がわざわざ「スペクトル」を平仮名書きにした意味も私にはよく分からない)。
「骸骨魚」不詳。何となくある種の魚類は頭に浮かぶが、内湾の海面近くという条件からはどうもピンとこない。これは私には蒼白く光る魚影の不気味な印象を述べたのであって、固有の英名とは思われない。
「躱身(かわしみ)」「躱」は音「タ」で、音符である「朶」は木の枝がたれた様を意味し、身を横に垂らしすことから、転じて身をかわす・避けるの意となった。
「ガイスラー管」底本では直下に石川氏の『〔ハインリッヒ・ガイスラー発明の真空放電管〕』という割注がある。ハインリッヒ・ガイスラー(Johann Heinrich Wilhelm Geißler 一八一四年~一八七九年)はドイツの物理学者で、ガイスラー管(減圧したガラス管に電極を設けて放電実験に用いるもので、陰極線研究に用いられて後のネオン管や蛍光灯の先駆けとなった)の他にもガラス製温度計や水銀を用いた真空ポンプなどの発明で知られる。]
図―561
図―562[やぶちゃん注:上図。]
図―563[やぶちゃん注:下図。]
昨日、我々の汽船が米を積み込んでいる間、日本の戎克が一艘横づけになっていたので、私はそれを写生する好い機会を得た。その内で大きな舵が動く、深い凹所を持つ奇妙な船尾、後にある四角な手摺、その他の細部がこの舟を一種独特なものにしている。図561は船尾の図、図562は船尾を内側から見た所で、如何に其の場所が利用されているかを示す。舵柄は取り除いてある。こまごました物の中には料理用の小さな木炭ストーヴ、即ちヒバチがあり、また辷る戸のついた小さな食器戸棚は、料理番の厨室(ギャラリー)を代表している。
[やぶちゃん注:既注の弁財船(べざいせん)である。]
戎克のあるものは微細な彫刻で装飾してある。図563は舳(へさき)にある意匠で、木材に刻み込まれ、線は広くて深く、緑色に塗ってあるが、これを除いては船体のどこにも、ペンキもよごれも見当らぬ。木部はこの上もなく清浄で、いつでも乗組の誰かが水洗いしている。乗客戎克の多くには、幾何学模様の各種の寄木(よせぎ)で美しく装飾したものがある。古い戎克のある物は、その一風変った外観に慣れると、全く堂々として見える。それ等は非常に耐航性が無いといわれるが、竜骨が無いので風に向って航行することが出来ず、その結果常に海岸近く航海し、暴風雨が近づくと急いで避難港へ逃げ込む。
図―564
薩摩の漁船は非常に早く帆走するという話だが、高さの異る帆を舳から艫(とも)に並べた、変な格好の舟である。図564は極くざっと、それを描いたもの。舷には櫓や網や竿やその他がゴチャゴチャになっているので、我々の横を疾走して行く時、私は極めて朧気な印象を得た丈である。檣(マスト)は三本。真中のは何か神秘的な方法で、他の二本によって支持されている。原始的な、そして覚束なくさえある帆の張りようは、誠に珍しいものであるが、而も引下さねば決して下りて来ぬらしい。
[やぶちゃん注:この船は打瀬舟(うたせぶね)と呼ばれるものではなかろうか? これは大きく張り出した複数の帆(グーグル画像検索「うたせ船」を見ると、少なくとも現在のものは三~四枚の主帆以外に補助の帆もあるようである。モースの謂いから見ると、彼が見たものも実際にそうした補助の帆が張られていたのかも知れない)にかかる風圧を利用して、船を横流れさせて(これを「打たせる」と呼ぶ)ながら、海底の網を引き回して魚を獲る漁法を打瀬網漁と呼び、古く江戸中期には瀬戸内海に出現したとされている。検索をかけると現在でも有明海に現役や観光船としてあることが分かる。マストは二本が普通であるが、三本のものもあったらしい。モースが「真中のは何か神秘的な方法で、他の二本によって支持されている」とあるから、これは実際にはマストは二本で、そこから索繩と固定器具を用いて中央の一帆を上げ下げしていたものかも知れない。識者の御教授を願えると嬉しい。]
汽船は終日米を積み込んだ。米は如何にも日本らしい、筵の奇妙な袋に入り、艀(はしけ)で運ばれて来る。出帆が遅れるのを利用して、私は遠方の山々を写生した。肥後の全沿岸は、ここに出した若干の写生によっても知られる如く、極めて山が多い。それは火山性で、暗礁や、鋭い海角があるので、航海は非常に危険であるとされる。山の高さは四、五千フィートを出ず、沿海線に近いものは、恐らく千五百フィート乃至二千フィートであろう。私は汽船から見える山々の、かなり正確な輪郭図を描くことが出来た。
[やぶちゃん注:「四、五千フィート」約一二二〇~一五二四メートル。
「千五百フィート乃至二千フィート」約四五七~六〇九・六メートル]
図―557
[やぶちゃん注:図557のabcは横に一枚に続くことを意味する記号(aの右端がbの左端に、bの右端がcの左端に接続)。上記三図の連続合成図を注の後で示した。]
図―558[やぶちゃん注:上部の図。]
図―559[やぶちゃん注:中央の図。]
図―560[やぶちゃん注:下部の図。]
海岸に沿うて航行するにつれて、山の景色の雄大なパノラマが展開した。南方へ下ると、多くの山は水際から直に聳えるらしく、その殆ど全部が火山性で、それ等の多くは煙を噴く火孔や、湯気を出す硫黄泉を持っている。図557を見る人は、山脈の大体の概念を得るであろう。薩摩の海岸に近づくと、山の景色は依然として継続するが、山は一層嶮しくなり、岸に近い岩は北方のものよりも更にギザギザしている。図558は薩摩の海岸にあるこれ等の山や岩の特性を示している。図559は南へ航行しながら近づいた野間崎で、鋸の歯のような尖端の、顕著な連続である。鹿児島湾の入口へ近づくのに、我々はこの岬を廻った。図560は薩摩の南端の海面から出ている、孤立した岩角を示す。
[やぶちゃん注:「野間崎」現在の鹿児島県南西部の薩摩半島から突出した野間半島の北西端の岬(南さつま市笠沙町(かささちょう)片浦)。笠沙岬
ともいう。野間半島の陸繋島で東シナ海に面する。九州の情報サイト「あじこじ九州」の「野間岬」で画像が見られる。
「図560は薩摩の南端の海面から出ている、孤立した岩角を示す」の表現からは、開聞岳を指すとしか読めないのであるが、山の形がおかしい。左手に突き出ている島もよく分からない。私の母の故郷は鹿児島で、開聞にも妻と登っているが、あの周辺の海側からの景観には暗いので、同定出来ない。図557の山々の同定も含め、識者の御教授を切に願うものである。
以下に図557をトリミングして主に稜線部分で一致させるように合成したものを示しておく。]
やぶちゃん合成557図
枯山中
笹枯るる明さ山中猫さまよひ
冬夜の霧馴れし道ゆく馴れし水音
冬日の髪茶色母われが伝へし
冬の石乗れば動きぬ乗りて遊ぶ
めざむよりおのが白息纏ひつゝ
対丈(つゐたけ)の着馴れし冬着に手足出し
[やぶちゃん注:「対丈」長着や長襦袢・男物などの仕立てで、身丈と同じ寸法に仕立てた丈。身の丈と同じに布を裁って仕立てた着物。対丈の着物はお端折り(おはしょり:着物を着た際に帯の下に出て折り返してある部分のことを指し、通常はこれによって着物の長さを調節する。一般にその長さは指の長さ程度が程よいとされる。江戸後期には女性の着物は対丈でお端折りがなかったが、次第に丈が長くなり、屋内では裾を引き、外出するときに腰でたくし上げて短くして着用していた。明治中頃になると、屋内でもお端折りをして着るようになったが、男性の着物はお端折りをしないのが普通で、腰の部分で余分な長さを内側に縫い込む「内揚げ」(うちあげ:着物の内側で帯の下になる位置に予め施しておく縫い込み。これを設けておくと裾が擦り切れた時などにも裾を切っても本来の身丈を確保出来、また仕立て直しの際に丈の調節が可能という融通性が出る。)が施される。裾が汚れたりすり切れたりした場合は、洗い張りの後、裾を切ってここを用いて仕立て直す。)を作らないで着付け、これを「対丈で着る」と称する。お端折りがない分、上半身の微調節が利かず、着づらいと感ずる人もいるが、逆に襟元の固定が簡単なために着崩れがなくすっきりと着られるともいう。但し、腰紐を結ぶ位置や後ろ裾が下がらないようにするなどの工夫が必要(以上は「きもの用語大全」を参照した)。]
はしばしより凍て髪を解きほぐしゆく
四方枯野たるを燈ともして忘る
天の青さ広さ凍蝶おのれ忘れ
月明し凍蝶翅を立て直す
厚き氷の下にて泥の尾鰭もつ
心臓に突然変調を覚ゆ 五句
絶対安静雪片の軽々しさ
絶対安静降りくる雪に息あはず
生(いく)るはよし静かなる雪いそぐ雪
枕上み枯れし崖立つ枯れはてし
雪まぶしひとと記憶のかさならず
[やぶちゃん注:既に注したが、年譜によれば、この昭和二七(一九五二)年(満五十三歳)の四月に多佳子は心臓の変調を訴え、俳友で医師の平畑静塔に来診を乞い、心臓ノイローゼの診断を下されている。『心臓発作の起こった当日は、NHKの「番茶クラブ」』(当時のNHKテレビの第二放送でこの年から開始された番組で、火曜日の二十時三十分から二十一時の間に放映されていた座談会形式の番組)『開催の日で、多佳子は毎回出席を楽しみにしていただけ落胆する。メンバーは、上司海雲(東大寺)』(第二〇六世東大寺別当)、『須田剋太』(洋画家)、『竹中郁、入江泰吉、川村与志栄』(染物家か? 京都市日向市公式サイト内の「寄贈美術品の紹介」の「渡邊武コレクション」の中に、同姓同名の方の「つなぎ椿文手拭」なるものを見出せる)『等の大阪周辺の有名文化人』であったとある。]
暮れてゆくひとつの独楽を打ちにうつ
きしきしと帯を纏(ま)きをり枯るる中
かじかむや頭(づ)の血脈(けちみやく)の音とくとく
オリオンの盾新しき年に入る
撃ちもたらす鴛鴦(おし)どこよりか泥こぼす
鼓ケ浦誓子居に「俳句」座談会ありて
三鬼・静塔氏らと集る 一句
踵深き静塔のあと千鳥の跡
[やぶちゃん注:「鼓ヶ浦」既注。現在の三重県鈴鹿市寺家町鼓ヶ浦。]
雪嶺が遠き雪嶺よびつゞけ
鴨隠るときあり波に抗はず
(二十七年)
「澄江堂遺珠」を元日に公開した後、引き続き、年初から『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成』――をブログでやらかすことにした。
「澄江堂遺珠」には現在、岩波新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』という労作があり、それは同「後記」で『「澄江堂遺珠」の源泉資料の全貌を示す』と述べてあるのであるが……実は……既に述べた通り、「澄江堂遺珠」の電子化を行い、検証をする中で、この完璧かと思われている岩波新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の中にも、見出すことが出来ない文字列が、「澄江堂遺珠」の最後の最後の佐藤春夫の引用の中に出できてしまっているからである。
これを検証するには、総ての「澄江堂遺珠」に関わると思われる資料の検証が不可欠だ。
ところが致命的に絶望的なことに三冊あった関連ノートの内の清書されてあったという「第一號册子」(佐藤春夫の呼称)は最早、行方不明となっているのである。
しかし何かまだ出来ることがあるはずだ。総ての文字列を電子化して、それらの断片を継ぎ接ぎすることによって、不審な詩篇は復元出来ぬものか?
――現時点で実は僕は既に新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の電子化を終了している……
――しかし幾ら検索をかけて近似値を探しても今のところ、復元出来ないのが事実である……
……ともかくも……ライフ・ワークとしよう……まさに「澄江堂遺珠」という夢魔(ナイト・メア)との一騎打ちである…………
「澄江堂遺珠」の横書HTML版も完成させた。
元旦にはこれとPDF縦書版及びそれに加えて、ブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』でのブログ公開の豪華三本立てでゆく予定(三つとも編集コンセプトを変えてある)。乞うご期待!
箱や表紙・見返し及びカットや図版を配して、芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」の縦書PDF版を試作してみた。……何か……ちょっと……いい感じやないか!……はよぅ、お正月にならんかのぅ……
昭和十四(一九三九)年
あせやすきにせむらさきの薺うち
英彦にて覺えし蝶にこと問はむ
[やぶちゃん注:絶唱、
蝶追うて春山深く迷ひけり
と遠く響き合う句である。]
寶塚聖天に詣づれば
聖天の鐘が鳴るなりわらびつむ
[やぶちゃん注:「寶塚聖天」兵庫県宝塚市宝梅にある七宝山了徳密院。大阪浦江福島聖天了徳院別院として大正八(一九一九)年に元真言宗東寺派管長日下義禅によって建立された新しい寺である。通称「宝塚の聖天さん」。因みにこの句の後のこととなるが、この寺には神風特攻隊敷島隊に二名を出した第十期海軍甲種飛行予科練習生の慰霊碑を含む全国陸海空戦没者二百五十万の英霊を祀る光明殿(昭和五三(一九七八)年建立)があり、その殿上に配された零戦のレプリカでも知られる。同寺の公式サイトをリンクしておく。]
實を搖りて鈴かけわれにめぐむなり
鈴かけの大樹と成りて芽ぐむなり
春雷のうてば松魚節(かつぶし)折れちまふ
新樹かげ鈴成の實を仰ぎたつ
土濡れて鈴かけめぐむそよ風に
一月振にて歸宅
トマト早や靑き實をつけ目當てよく
群れ通る工女盜むな紅苺
なりはひの苺積みのせトラックに
夕月まろし滿地の苺熟れみちて
大阪へ積み出す苺摘み急ぎ
鐘涼し松間を一人降りくれば
靑梅ちぎる小梯子移し次々に
手とどけど梢のみ梅ぬすむまじ
實梅もぐ徑もありて塚涼し
鐘涼し寶の塚に詣づれば
武庫川にて
晝河鹿きゝつゝわたる橋の上
[やぶちゃん注:「武庫川」「むこがは(むこがわ)」は兵庫県南東部を流れる河川。兵庫県篠山市真南条地区付近を源とし、蛇行を繰り返しながら次第に南行、三田盆地を潤したのちに再び山峡に入り、武庫川渓谷を形成、宝塚市街西方で大阪平野の北西端へ出て南流、下流域では尼崎市と西宮市の境界を成しつつ、瀬戸内海に注ぐ。因みに先に出た「寶塚聖天」は、この河畔に建つ宝塚劇場の対岸から南西に約一・四キロメートルの位置にある(ウィキの「武庫川」に拠った)。]
ゆく水をせきとめべしや鮎躍る
[やぶちゃん注:「せきとめべしや」はママ。]
ゆるやかにせせらぐ水よ夕河鹿
月見草手にあり散歩月をめで
むしあつき戀も忍ばずひとへ帶
高柳部隊を見送る
夏草を積むトラックは兵たん部
[やぶちゃん注:「高柳部隊」不詳。戦史の専門家の御教授を乞うものである。]
喜べど木の實もおちず鐘涼し
石角に林檎はつしとわがいかり
[やぶちゃん注:久女句集本文の最後を飾るに相応しい、久女らしい印象的一句である。……久女さん、誰が何と言おうと、私はあなたが好きです――――]
*
これを以って私のブログ・カテゴリ「杉田久女」に於いての立風書房版「杉田久女全集」句集本文の全句の電子化を終了した。
昭和十二(一九三七)年
筆とればしづかにたのし塗火鉢
圓山應擧墨繪
金屛の蛟竜雲に乘ずべく
[やぶちゃん注:重文の丸山応挙の「雲龍図屏風」(安永二(一七七三)年作・東寺観智院伝来)か?]
山樂源氏物語屛風
爭へる牛車も宮も春がすみ
[やぶちゃん注:重文の狩野山楽の「車争図屏風」(四曲一隻・紙本着色・江戸時代十七世紀作・東京国立博物館蔵)であろう。九条家の「源氏の間」の襖絵を屏風に仕立てたもので、「源氏物語」「葵」の帖の知られた「車争い」のシーンを材としたもの(リンク先は国立博物館公式サイトの同屏風図)。]
淸朝ひすい香爐
春怨の王妃がゆめをまのあたり
信貴山緣起繪卷
百獸の戲畫おもしろしことに秋
[やぶちゃん注:国宝で奈良県生駒郡平群町の朝護孫子寺蔵で現在、奈良博物館寄託の「信貴山縁起絵巻」(リンク先は平群町公式サイト内)。]
今たのし雉子の玉子草にあり
雉子の雌(め)のぬくめゐたりしこの玉子
愛しけれきぎすの玉子手にとりて
押しとほす俳句嫌ひの靑田風
虛子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帶
[やぶちゃん注:同年十月の『俳句研究』に載った「靑田風」十句の内の二句。徹底した「虛子嫌ひ」の私の偏愛する二句である。]
一人寢の水色蚊帳に夢淸き
昭和十一(一九三一)年
冬凪げる湖上の富士を見出けり
横濱税關
屋上の冬晴にあり富士かすむ
[やぶちゃん注:既注したが、昭和七(一九三二)年八月に長女昌子さんは横浜税関長官房文書係雇として就職していた。]
街路樹の黄葉あたたかし電車まつ
夜の街に去年のなじみの菊うり女
まちあほす冬日の町の時計臺
ユダともならず
春やむかしむらさきあせぬ袷見よ
[やぶちゃん注:久女満四十六歳のこの年の十月、彼女は突如、虚子によって『ホトトギス』から除名される。同月発行の『ホトトギス』上での除名社告『同人變更/從來の同人のうち、日野草城、吉岡禪寺洞、杉田久女三君を削除し、淺井啼魚、瀧本水/鳴兩君を加ふ。/ホトトギス發行所』(底本年譜引用の者を恣意的に正字化した)による一方的なものであった。既に『ホトトギス』には前年九月から全く入選しない状態が続いていたが(坂本宮尾氏の「杉田久女」に拠る)、除名理由は現在に至るまで明らかとなっていない。久女自身にも解らなかったのである。その辺りの真相は坂本宮尾「杉田久女」に詳しいので、一読をお勧めするが、この句については同書中に坂本氏の非常に素晴らしい解説と評釈がある。少し長いが、引用させて戴く(「Ⅵ 同人削除以後」の「一 失意の日々」の冒頭「ユダともならず」という見出しを持つ冒頭部である)。
《引用開始》
昭和十一年に同人除名の公告が出された後も、久女はいつの日にか虚子の勘気が解けて、同人に返り咲くことがあると思っていたのであろう。別の結社に移るということはしなかった。
除名後に「俳句研究」に発表された作品をみよう。昭和十一年十二月号の自選十句のうち、
ユダともならず
春やむかしむらさきあせぬ袷見よ
前書には、除名されてもホトトギスを裏切る者ではないという思いがこめられている。この句は言うまでもなく在原業平の、「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして」の本歌取りである。業平は月が美しい春の夜に、自分ひとりは元のままであるのに、自身をとりまく状況はすっかり変わってしまったと嘆いている。久女の句からにじむ思いは、業平と同じく「我身ひとつはもとの身にして」という深い詠嘆である。
紫という色は万葉の時代から情感をこめて詠まれてきた。大海人皇子(おおあまのおうじ)は額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に応えて、「紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あれ)恋ひめやも」(1―二一)(紫の色が美しく匂うように美しいあなたを、もし憎く思っていたなら、人妻と知りながら、どうして恋い慕うことなどあろうか)。また、麻田陽春(あさだのやす)は大伴旅人を送る別れの宴で、「韓人(からひと)の衣染(ころもそ)むとふ紫の心に染みて思ほゆるかも」(4―五六九)(韓国の人が衣を染めるという紫のように、心にしみてあなたのことは忘れがたいことだ)と詠んだ。
久女は紫色を純情のメタファーとして用いている。「むらさきあせぬ」の中七で万葉ゆかりの紫色に託して、俳句に、また虚子に対する彼女の変わらぬ思いを訴えている。
同人除名が久女に与えた打撃は計り知れないものであった。蘇峰の孫、名和長昌氏はつぎのような少年時代の夏の出来事を伝えている。昭和十一年の七月に、久女は蘇峰の山中湖畔の別荘、双宜荘で家族のように温かくもてなされた。翌年、除名された傷心を抱えて彼女は蘇峰を慕って、ふたたび双宜荘を訪れた。その年は暑い夏で別荘は千客万来でどの部屋もいっぱいであったため、別の旅館に案内された。蘇峰にも冷たく扱われたと思いこんだ久女は旅館に上がらず、次第に激昂して、大声で叫び出し、駅員や駐在の巡査も出てくる騒ぎになった。結局久女は駅のベンチで一夜を明かして帰って行ったという(「双宜荘の杉田久女」)。突然の除名以来、久女は周囲から好奇の視線をあび、冷たい扱いをされ、もう誰も信じることができなくなっていたのであろう。なんとも痛ましい話である。
《引用終了》
「蘇峰」は徳富蘇峰。虚子の序文が得られなかった久女は、虚子の渡欧中に両者に親しかった蘇峰(虚子はかつて、蘇峰の創刊した『国民新聞』の俳句欄の選者であり社員の一人であった)に句集出版を持ちかけていた(宮本氏の同書によれば実はこれが虚子の久女除籍の最後の動機でもあったらしい)。この名和長昌氏の話は――久女伝説とは切り離して――事実であったと私は思う。私は――駅のベンチに一夜を明かす――その久女の姿を――見たことがあるようにさえ感じるからである……]
歸朝翁横顏日やけ笑み給ふ
[やぶちゃん注:年譜に同年『二月、門司にて虚子の渡欧を送る』とある。例の虚子の没後の「墓に詣り度いと思つてゐる」(『ホトトギス』昭和二一(一九四六)年十一月)で捏造形成されることになる、おぞましき久女伝説の一つ、所謂「箱根丸事件」(の一部)があったとされる折りの送別吟であろう。この一句には『氣違ひじみ』(「墓に詣り度いと思つてゐる」の一節。但し、坂本宮尾氏の「杉田久女」より孫引き)た彼女の姿は全く見えてこない。]
粟の花そよげば峰は天霧らひ
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「天霧らひ」は「あまきらひ」と読む。「霧らひ」は「きらふ(きらう)」で、霧や霞が一面に立ちこめるの意の上代語である。これは「霧が立つ」の意(他に「目が曇る」「涙で霞んではっきり見えない」の意がある)のラ行四段の自動詞「霧(き)る」の未然形に反復・継続の上代の助動詞「ふ」(ハ行四段と全く同じ活用をする)がついた連語であるが、平安以後には「語らふ」「住まふ」「慣らふ」「願ふ」「交じらふ」「守らふ」「呼ばふ」などの特定の動詞の活用語尾に残るだけで接尾語化してしまう。「霧らふ」もハ行四段活用の自動詞のように振る舞う語といえる。]
栗の花そよげば晴れぬ窓の富士
こぎいでて倒富士見えずほととぎす
[やぶちゃん注:「倒富士」は流石に「さかさふじ」と訓じていよう。]
灯さぬ水邊のキャンプ早も寢し?
[やぶちゃん注:「キャンプ」の拗音表記や「?」はママ。但し、底本の「?」活字は明らかに標記通りの半角である。初五は「ともさぬ」であろうが、索引は「ひ」の項にある。「?」は底本本文句表示の行の高さの中に納まっており、確信犯で句の一部、下五の末尾であって、例えば疑いを示す編者による附帯記号などではない(但し、表記が半角であるのはやや気にはなる)。無論、久女の句表現としては他に例を見ない異様異形なものである。しかし、この昭和十一年なればこそあったとしておかしくないのである。]
鳥の巣もぬれて赤富士見に出よと
嶺靑し妹と相みる登山驛
[やぶちゃん注:「妹」久女に妹がいたかどうかは不詳。「妹」は久女の句ではこの句にのみ出る特異点の漢字である。「登山驛」不詳。可能性としては箱根湯本か。]
信州
杏熟れ桑照り四方は靑嶺晴
賑はしや市場はつゆの疏菜競(せ)る
わがたちゐピアノにうつり菊の前
雲海の夕富士紅し稻架の上
菊携げて笑みかほす目に情あり
花園に糞する犬をとがめまじ
旅に出てやむ事もなし柿と粟
昭和一〇(一九三五)年
山頭の赫土さす日や小松曳
雪嶺の襞濃く晴れぬ小松曳
[やぶちゃん注:「小松曳」「こまつひき」と読み、平安時代の昔から正月初めの子(ね)の日に、野に出でて小松を引き抜いて遊んだ行事をいう。子の日の遊びで新年の季語。]
電車待つ未明(まだき)の北斗冴え返り
風呂焚くや石炭喜々と焰鳴りつつ
[やぶちゃん注:「焰」は底本の用字。]
節分のくらき神樂に詣でけり
御廟所へ向ふ徑も笹鳴けり
陽炎へる老の歩みにそむくまじ
久方に笑み交す瞳も雛さび
古雛や花のみ衣(けし)の靑丹さび
[やぶちゃん注:「衣」の「けし」の読みは、動詞「着(け)す」の連用形から生じた古語。一般には「御衣(みけし)」の形で使われる。]
雛愛しわが黑髮を植ゑ奉る
とほくより櫻の蔭の師を拜す
わが袖にまつはる鹿のあしび雨
[やぶちゃん注:「あしび」ツツジ目ツツジ科スノキ亜科ネジキ連アセビ(馬酔木)
Pieris japonicaは晩春の季語であるが、「あしび雨」という季語が存在するとは思われない。「あしび/雨」も無理がある。これは季語を出すための大胆な造語と思われる。]
叱られてねむれぬ夜半の春時雨
花過ぎし斑鳩(いかるが)みちの草刈女
名草の芽もゆるところに日は濃く
[やぶちゃん注:「名草」は辞書によれば、「めいさう(めいそう)」と読み、花が美しいとか薬効があるなどの理由で、よく知られている草の意とする。]
岩惣の傘ほしならべ若楓
[やぶちゃん注:「岩惣」広島県廿日市市宮島町南町にある旅宿「岩惣」か? 同旅館の公式サイトによれば、安政元(一八五四)年に初代岩国屋惣兵衛が厳島神社の管絃祭(旧六月十七日)の前後一ヶ月間に立つ市(いち)の賑わいに着目、奉行所より紅葉谷(現在のもみじ谷公園)の開拓の許可を受け、もみじ川に架橋して渓流に茶屋を設け、道行く人々の憩いの場としたのを始まりとする実に百五十年の歴史を持つ旅館である。「岩惣」という名も、この岩国屋惣兵衛の名前に因んだもので、旅館形式となったのは明治になって間もなくの頃のこととある。違っていたら、御教授方、よろしくお願い申し上げる。]
秋來ぬとサフイヤ色なす小鯵買ふ
舞下りて山田の鶴やなき交す
菊うりの少女まてどもこぬ日がち
緣の日のふたたびうれし黄豆菊
芝にあれば木の實もふらずよき日和
今日、僕は「澄江堂遺珠」の総ての詩篇について現在ある関連資料と校合し、その異同を示そうと試みた。――ところが――最初の一篇から完全に躓いてしまった。こんな完成された詩篇は――どこにもないのだ!…………
「澄江堂遺珠」……こやつ! やっぱりとんでもない夢魔だったのだ!…………しかし……俺の残りの人生――面白くなってきたぜ! ♪ふふふ♪――
なんだぁ? 研究者の間では知られた常識だったのかも知れんが、しかし同一物が「ない」とは市販されている誰もが読める数多の関連書には、どこにも一箇所も書いてないゼよ?!
世の中にはな!
プリセス細胞や「芥川龍之介遺珠」なんぞというおためごかしの名には騙されない(「今更気がついた」という方が正しい文法ではあるな。 ♪ふふふ♪)龍之介好きの「凡人」がゴマンといるんだ、ちうことを――学者どもよ! よおく、覚えとけや!
*
何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
[やぶちゃん注:「何かはふともくごもりし」という一行と完全一致するものは、実は現存する資料の中にはたった一篇しかない。それは、新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』のパートの『頁11』に現われる、それである。以下に同頁を総て示す。取り消し線は抹消を、下線はそれに先立つプレ抹消を指す(但し、これは私独自の仕儀)。
《引用開始》
ゆかそかにゆきのつもるよは
こよひばかりはひややかに
ひとりいぬ
入日の空を仰ぎつつ
何かはふともくごもりし
せんすべ
消えし言葉は如何なりし
運河夜はむるる上る鯉魚の群あまた
波もさざらに上るとき
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
《引用終了》
次に、この抹消箇所を消去してみる。
《提示開始》
かそかにゆきのつもるよは
こよひばかりはひややかに
ひとりいぬ
何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし
鯉魚あまた
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
《提示終了》
では、この一篇に関係する部分のみを次に抽出してみる。
《提示開始》
何かはふともくごもりし
消えし言葉は如何なりし
鯉魚あまた
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
《提示終了》
こうしてみても(太字化はやぶちゃん)、本来、別フレーズであることを示す空行と、抹消していない「鯉魚あまた」が間に挟まって、実は「澄江堂遺珠」のこの一篇は全く再現されないと言ってよいのである。
では、一歩下がって酷似したものはどうか?
実は「何かはふとも口ごもりし」ならば全部で七つの資料にヒットする。一つは堀辰雄の編集したと思しい現在「詩歌未定稿」と称するもので、そこではまさに同一のパートに三ヶ所連続で登場する(太字化はやぶちゃん)。
《引用開始》
*
何かはふとも口ごもりし
えやは忘れむ入日空
せんすべなげに仰ぎつつ
何かはふとも口ごもりし
その
入日の空を仰ぎつつ
何かはふとも口ごもりし
消えし言葉は如何なりし
*
「思ふはとほきひとの上」
波に音なきたそがれは
「思ふはとほき人の上」
船のサロンにただひとり
玫瑰の茶を畷りつつ
ふとつぶやきし寂しさは
*
《引用終了》
一見すると、文字列だけならば、一致して見えるが、ここでも詩句は「*」で分断されており、一篇のソリッドなものではないのである(しかも「口ごもりし」と表記が異なる)。
他には『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁23』に、
《引用開始》
何かはふとも口ごもりし
黄
大路ににこの この のこる夕明り
戸のもの櫻見やりつつ
何かはふとも口ごもりし
戸のもの
きみ
何かはふとも口ごもりし
せんすべなげに□まひつつ
えやは忘れむ入日空
せんすべなげに仰ぎつつ
何かはふともほほえみし口ごもりし
その日のその
《引用終了》
と出るが、本篇の後の二行とは一致部がない。後は同『頁26』の一部、
《引用開始》
光は
何かはふとも口ごもりし
その
《引用終了》
本編の後に続く詩句と相同相似の文字列はないのである。
さすれば、佐藤は先に掲げた二つ、即ち、
・新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』のパートの『頁11』
若しくは(これは考え難いことであり、その可能性は極めて低いと考えたいのだが)、
・推定堀辰雄編の「未定稿」
の、孰れも分断された詩篇を、恣意的に接続して一篇に捏造したとしか思われないのである。以下、冒頭注で述べた通り、本「澄江堂遺珠」の各詩篇の考証はこれを後の作業に譲ることとするが、少なくとも私は、我々はこの「澄江堂遺珠」の数多の絶唱を――芥川龍之介の生の肉声の吟詠として聴いてはいけない――と断言するものである。]
昭和九(一九三四)年
鴛鴦のゐてひろごる波や月明り
二月十日稚内より巨蟹を送られて打興ず
オホツクの海鳴かたれ巨き蟹
ゆであげて蟹美しや湯氣赤く
釜の湯のたぎるもたのし蟹うでん
紀元節ひとり香春(カハル)神宮院にあそびて
岩ばしる水の響きや梅探る
[やぶちゃん注:「香春神社」は福岡県田川郡香春町(かわらまち)大字香春にある香春(かわら)神社。但し、こちらの個人ブログ「頑固親爺の独り言」の同神社の記事には「カハル」の訓読例が示されてあり、しかも『香春は「かはる」と読むが、もとは「カル」である。カルとは金属、特に銅のことである。香春の三ノ岳には古い採銅所があり、ここの銅から八幡宮の神鏡が作られていた』とある。]
背山よりたつ焰(ほ)煙や梅の茶屋
裏山の笹の焰鳴りや梅の茶屋
[やぶちゃん注:「焰鳴り」「日本国語大辞典」に「ほなる」の項があり、そこでは方言として火が起こる(山梨県南巨摩郡奈良田)、熱を・ほてる(伊豆三宅島)とある。先行するこちらの「風さそふ遠賀の萱むら焰(ほ)鳴りつゝ」の私の注やその前後の句も参照されたい。]
探梅や暮れて嶮しき香春嶽
[やぶちゃん注:「香春嶽」福岡県田川郡香春町にある三連峰(地図上のピークは四ヶ所)の香春岳(かわらだけ)。参照したウィキの「香春岳」によれば、『地元では香春岳と呼ばず、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳と各々を呼ぶことが多い』とあり、最高峰は三ノ岳で標高五〇八・七メートルである。香春神社(古くはこれらの山岳上にあった)は現在、一ノ岳の真北の山麓にあり、山はこの一ノ岳から北北東に二ノ岳・香春岳(地図上に確認出来る四つ目のピーク)・三ノ岳と続いている。]
谷深く探ぐる一宇や梅花節
[やぶちゃん注:「梅花節」は「ばいくわせつ(ばいかせつ)」と読み、紀元節の別名。梅佳節とも。]
芹つむで淋しき歩をぞ返しける
春寒く籠りてやせぬもの食まず
いぢけゐる我魂あはれ芹つまん
東風寒や孤り來なれし遠賀堤
雛淋しけれども孤りかざりゐる
潮疾しさよりを抄ふ礁ほとり
[やぶちゃん注:「抄ふ」は「とらふ」と訓じているか。]
見渡して帝都は親し花の雲
英彦より
降(くだ)り來て石楠折るや谷深く
石楠花やここより仰ぐ彦の宮
郭公や太敷たてし朱の宮
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「太敷」は「ふとしく」と読む。]
南國の五月はたのし朱欒咲く
朱欒咲くわが誕生(あれ)月の空眞珠(またま)
[やぶちゃん注:久女は五月生まれ(明治二三(一八九〇)年五月三十日)。]
ほり出して全き古瓦や草の花
へや深く漂ふ日あり菊花干す
炎上をのがれて尊と御頰疵
[やぶちゃん注:各所の寺院でこうした話を聴くが、年譜には旅行などの記載がなく(行かなかったのではなく記載がなされていないという意味である)、同定出来ない。]
疾く起きて掃くたのしみや露の花園
澁ぬけて旭に透く色やつるし柿
秋晴の嚴にこしかけ釣の幸
雪颪す帆柱山(ホバシラ)冥し官舍訪ふ
[やぶちゃん補注:「帆柱山」の三字に「ホバシラ」とルビする。この句、実は底本全集本文には載らない。底本年譜の同年の条に、この年の五月発行の『ホトトギス』雜詠巻頭(三回目。坂本宮尾「杉田久女」に拠る)に次の五句が載ったとして、
雪颪す帆柱山(ホバシラ)冥し官舍訪ふ
生ひそめし水草の波梳き來たり
逆潮をのりきる船や瀨戸の春
磯菜つむ行手いそがんいざ子ども
くぐり見る松が根高し春の雪
と記載されてある(本文同様、恣意的に正字化してある)。ところが、今まで久女の句を打ち込んできた私には、この冒頭の句には見覚えがなかった。検索しても出てこない。打ち落としたのかと不安になったが、坂本宮尾氏の「杉田久女」に発見、そこに『この句は句集には未収録』とあってまずは安心した。以下、宮尾氏がこの句について述べている。やや長いが、山口青邨の評引用など、非常に興味深いので引用させて戴く。
《引用開始》
雪颪す帆柱山(ほばしら)冥し官舎訪ふ
この句は句集には未収録である。帆柱山は北九州市八幡東区にある五百メートルほどの山で久女の家からも見えた。帆柱山という名前は、神功皇后の船の帆柱にする杉を伐り出したという伝説に由来するとされる。
「ホトトギス」(昭9・6)でこの句の評を担当した山口青邨は、「官舎訪ふ」という下五のもつ斬新さと力強さに注目して、「此句で変つてゐる点は突然に篭といふ事を拉し来つたことであつて、かう置かれて見ると官舎でない他の家といふやうな生ぬるい事では斯(こ)うした強い感じは出ない、何故官舎を訪ねるのかなどといふやうな詮索は無用のことである。久女さんの句は何時もかうした力強い句であるが、此句の場合も洵(まこと)に力強い男性的な感じを出してゐる」とある。
青邨の指摘通り、官舎というまだ俳句には珍しかった語が、句に斬新さとある種の硬質な響きを与えている。山口誓子は八幡製鉄を見学して〈七月の青嶺まぢかく熔鉱炉〉と鮮烈な印象の句を残したが、「青嶺」とは、この帆柱山である。
久女も現代的な風景を詠むことに挑戦した。帆柱山という地名の響きも、文字も句に情趣を添えている。「帆柱山(ほばしら)冥し」で小休止があって、下五につづく。町に迫るように立つ帆柱山からの雪嵐の情景を描写しながら、官舎を訪問する作者の小さな決意を要するような心持ちが伝わってくるのである。
橋本多佳子は、この句の官舎とは八幡製鉄所長官用の官舎で、久女は「『ダイヤを捨てた』と云ひながら、『中学教師の妻』と云はれるのをとても嫌」がって、「『有閑夫人のお相手は出来ない』と絶交して了つた」と記している(「久女のこと」)。意欲の乏しい有閑夫人の句会に出ていくことは、久女には苦痛だったのであろう。
《引用終了》
橋本多佳子の「久女のこと」(因みに私はこの『俳句研究』(昭和二五(一九五〇)年九月発行)に載った多佳子の久女論については、一部を省略したものでしか読んでいないものの、どうも多佳子にして――少なくともこの文章のある一部は――かつての師の――悪しき「久女伝説」の形成の片棒を――結果として――担いでしまった非常に問題のある作品ではないかと疑っており、いつか親しく解析してみたいと感じているものである)は以下(底本と同じ立風書房版全集のものを用いた)。
*
雪颪す帆柱山冥し官舎訪ふ 久女
かきしぐれ鎔炉は聳(た)てり厳近し 久女
久女は常に自己の社会地位が気にかゝつた。「ダイヤを捨てた」と云ひながら、「中学教師の妻」と云はれるのをとても嫌つた。この官舎――八幡製鉄所長官官舎――に於ても「有閑婦人のお相手は出来ない」と絶交して了つた。この句からも久女の何か息苦しい魂を感じる。
*
因みに、この翌六月に久女は『ホトトギス』同人となっている。しかし同時にこの年は句集上梓の希望を以って虚子に序文を懇請するも希望が容れられず、久女の俳句人生――いや、彼女にそれ以外の人生があったか?――に翳りが差し始めるのでもあった――]
[やぶちゃん注:恣意的に多くの漢字を正字化してある。]
影墜ちて雲雀はあがる詩人の死
マスクしてひとの別離を見つゝあり
法醫學・櫻・暗黑・父・自瀆
舟蟲や亡びゆくもの縱横なし
西日さす墓標ななめに蟻のぼる
雲切れし靑空白痴いつも笑あり
ジャズさむく捨てし吸殼地で濕る
ライオンの檻で西日の煙草消す
雪はげし一墓のために笹拓く
凍蝶とぶ祖國悲しき海のそと
故郷遠し線路の上の靑カエル
*
私が私の手遊び「アンソロジーの誘惑/奇形学の紋章」をノートに記したのは、実際には30年以上も前、二十代の頃のことであった。これもその頃の僕の感性を美事に反映している、如何にも「当時の僕」好みの句だ(若い俳句好きの方に是非お勧めすしたいのだが、10年位のスパンを置きながら偏愛する作家の句を多めに撰してどこか普段見ないところにストックしておくと面白い。これが後々見ると全然違った選句になっていて、自身の感性の変質を自ずと知るからである)今これらの句を眺めると、しばしば「剽窃」や「酷似」を非難される寺山の真骨頂の連射であることが分かる。但し、私は芸術は所詮須らく剽窃/インスパイアであると考える人間である。だから今や、ますます寺山が近しく感じられるようになってきている。因みに、
「影墜ちて」は原民喜の生涯の恐るべき希有の圧縮であり、
「マスクして」は丸尾末広の漫画の一齣であってよく(これは寧ろ丸尾のインスパイア)、
「法醫學」は鈴木しづ子の「好きなものは玻璃薔薇雨驛指春雷」に唱和して見え、
「雪はげし」「凍蝶とぶ」など確信犯でインスパイアされた師匠橋本多佳子がどう感じるかに興味を覚え、
芥川龍之介でさえ「故郷遠し」の句には微笑して首を縦に振るであろう……
昭和八(一九三三)年
温室(むろ)の戸を流るゝ露や萵苣(ちさ)そだつ
[やぶちゃん注:キク目キク科アキノノゲシ属チシャ
Lactuca sativa はレタスのこと。]
かやむらを飛出す鳥や堤やく
春の風邪臥すにもあらずいつまでも
三方にもえ咲く筒やアマリリス
きよらかにすみて子の無し雛の前
甘酒をわかし我まつ母やさし
つれづれの雛つくりす母手まめ
[やぶちゃん注:「つれづれ」の後半は底本では踊り字「〲」。]
ふところに入れし文あり春の徑
雛かざる娘の遊學はなほ許りず
[やぶちゃん注:次女光子さんである。東京の女子美術専門学校(現在の女子美術大学)に合格しても、それでも夫宇内はなかなかそれを許さなかったのである。「ゆりず」は「許りず」で下二段活用「許る」は、許される・許可が下りるの意味の古語である。]
鳳蝶の陽を照りかへす瑠璃翅かな
[やぶちゃん注:「鳳蝶」は「あげは(でふ/ちょう)」のことであるが、ここは下五の「瑠璃翅(るりし)」からも「ほうてふ」と音読みしているであろう。]
高みより水に降り來る藤しづか
春の帶むすびかへゐる芝生かな
紅つつじ椽に坐れば照るおもひ
花散らす椽端の風雨猛り來れ
寶塚にて
並び聽く母耳うとし遠河鹿
月涼し四方の水田の歌蛙
於遠賀堤
水上の英彦は白し若葉つむ
沙羅の花降り來る鐘をつきにけり
[やぶちゃん注:「沙羅の花」ツバキ目ツバキ科ナツツバキ
Stewartia pseudocamellia 。グーグル画像検索「夏椿の花」。仏教の聖樹娑羅樹に擬せられて多くの寺院に植えられているが、あれは熱帯性のアオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta で全くの別物である。]
鳴りひびく鐘も供養や沙羅の花
鐘つくや四方にわきたつ雲の峰
昭和七(一九三二)年
草の戸に住むうれしさよ若菜つみ
雲影をかき消す波や蓴摘む
[やぶちゃん注:「蓴」は「ぬなは(ぬなわ)」で、双子葉植物綱スイレン目ハゴロモモ科ジュンサイ
Brasenia schreberi のこと。]
木の芽垣日にかがやいて雫暗
露けしや掌にもぎのせし濃無花果
世の煩ひを忘れて龍胆をつみつゝさまよふこと七日ばかり
龍胆や孤り來なれし仙の背戸
龍胆の夕むらさきは昃りけり
昭和六年
娘にゆづる櫛笄や花の春
塀ぎはに萌えし蕨をそだてけり
むすびやる娘の春帶は板の如
[やぶちゃん注:二句前のものと併せ、長女昌子さんであろう。この年、二十歳成人式であった。]
木蓮や人來り去る井のほとり
木蓮の花影あびて去りがたく
竹たてて百合根の上をふまじとぞ
はねつるべ菖蒲の水の上り下り
たもとほる女誰々ぞ濃紫陽花
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「たもとほる」はラ行四段活用の自動詞で、同じところを行ったり来たりする、歩き回る。徘徊る。「た」は接頭語で「もとほる」は巡る、回るの意の上代の動詞。]
星の竹病む娘のホ句も吊り添ゆれ
囮籠かけゐる人を木影より
秋耕の古鍬の柄をすげにけり
干鰯見てゐる欄も夕づけり
すでにして簀子の鰯夕づけり
昭和五年
蘆嫩芽むら立つ中にかゞみけり
[やぶちゃん注:「蘆」は底本では「芦」。老婆心乍ら、「嫩芽」は「わかめ」で若か芽。]
春蘭や雨をふくみて薄みどり
[やぶちゃん注:「春蘭」単子葉植物綱クサスギカズラ目ラン科セッコク亜科シュンラン連Cymbidiinae 亜連シュンラン Cymbidium goeringii 。本邦では各地で普通に見られる野生蘭の一種。グーグル画像検索「Cymbidium goeringii」。]
杜若さげ來し君と業平忌
[やぶちゃん注:元慶四年五月二十八日(八八〇年七月九日)に享年五十六で亡くなったとされ、晩年を過ごしたと伝える京大原野の十輪寺ではこの五月二十八日を業平の忌日としてが法要が営まれる。]
露凝れば垣夕顏の閉ぢあへず
伐りはらふ軒のひろ菓や居待月
英彦山にて
雲海にさ丹づらふ日や秋の蕃
[やぶちゃん注:底本では「さ丹づらふ」の「丹」の右に編者による『(ママ)』注記があるが、何故か意味が分からない。これで問題ないからである。「さ丹づらふ」は「さ丹頰ふ(さにつらふ)」で、赤みを帯びて美しく映えている、ほの赤いの意の万葉以来の上代語。接頭語「さ」+名詞「丹(に)」+名詞「頰(つら)」+動詞を作る接尾語「ふ」で、原義は「赤い頰をしている」の意。そこから「色」「君」「妹(いも)」「紐(ひも)」「もみぢ」などを形容する言葉として多彩に用いられ、枕詞とする辞書も多い。]
山腹の町に下りきぬ秋の暮
枯蔦を誘てこぼるるむかごかな
[やぶちゃん注:「誘て」は何と読んでいるか? 私は「をびきて(おびきて)」と一応訓じたいと思う。]
昭和四(一九二九)年
庭隅におちし柑子や冬籠り
一むらの寒菊の芽も根分かな
童顏の合屋校長紀元節
[やぶちゃん注:「合屋校長」合屋武城(ごうやぶじょう)は、宇内の上司である当時の小倉中学校(現在の県立小倉高等学校)の校長(専門は博物学)。坂本宮尾氏の「杉田久女」によれば、彼とは『家族ぐるみ親しかった。久女が没したときに宇内とともに病院で通夜をしたのはこの合屋校長であった』とある。]
薄氷や橋の袂の緋鮒賣
[やぶちゃん注:条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科コイ亜科フナ属ヒブナ Carassius auratus auratus 。ウィキの「ヒブナ」によれば、約一七〇〇年前、『中国で発見されたフナの突然変異で誕生した。その後、突然変異などでキンギョとなった。ただし、フナ属のどの種がキンギョの野生種であるかは特定されていなかったが』、二〇〇八年になってDNA分析の結果、フナ属ギベリオブナ
Carassius gibelio が『直接の先祖にあたる事が判明した』とある。]
探梅やお石茶屋にて行逢へり
[やぶちゃん注:「お石茶屋」福岡県太宰府市宰府太宰府天満宮本殿裏側の北神苑にある茶屋。福岡県観光連盟公社の観光情報サイト内の解説によれば、明治三二(一八九九)年生まれの先代女将江崎イシさんが始めた茶店で、『イシさんは美しい女性でおイシしゃんと親しみを込めて呼ばれ、当時の帝国大学の学生の人気の的であったという。やがて学生から社会人となり、政界、財界、文学界で活躍した彼らが全国におイシしゃんの噂を広めた。炭鉱王、麻生太吉は自宅から通いやすいようにとおイシしゃんのためにトンネルを掘ったと言われ、そのトンネルは今でも店の先にあり、現役で使われている』。おイシしゃんは昭和五一(一九七六)年に『亡くなるまで独身を貫き、現在はおイシしゃんの姪が跡を継いでいる。梅ヶ枝餅が食べられるほか、食事もできる。松花堂弁当のお石弁当は女性に人気。梅の香うどんは自家製の梅肉とうどんのだしがからまり、ファンが多い。山かけうどんは粘りが強い丹波の丸いもを使用。北神苑の奥にあるため静かで五月の新緑のころはことさら美しい』とある。昭和四年当時は久女三十九、「おイシしゃん」は三十。『亡くなるまで独身を貫』いたというおイシしゃんは久女をどう見ていたであろう。久女が固有名詞をかくも詠み込むのは極めて珍しいことである。久女はきっとこの茶屋と「おイシしゃん」が好きだったに違いない。]
まきかへす遲日の院の繪卷かな
[やぶちゃん注:前後の句からは「院」は太宰府天満宮内の宝物殿で、「繪卷」は福岡藩初代藩主黒田長政が元和五(一六一九)年に「北野天神縁起」を書写させて奉納した九州最古の天神縁起で「天神縁起絵巻元和本」(現在県指定文化財。以上は太宰府天満宮公式サイトのデータに拠る)か? 識者の御教授を乞う。]
探梅や手にぶらさげし削鷽
[やぶちゃん注:「削鷽」は「けずりうそ」と読み、大宰府天満宮の鷽替(うそが)え神事で知られる「木うそ」である。太宰府天満宮公式サイトの神事の解説によれば、神事自体は一月七日の午後六時から楼門横の天神広場の斎場で行われるとあり、『「替えましょ、替えましょ」の掛け声のもと、暗闇の中で手にした「木うそ」をお互いに交換し取り替え』る。『これは、知らず知らずのうちについたすべての嘘を天神さまの誠心に替え、また、これまでの悪いことを嘘うそにして今年の吉に取り替えるという意味があり』、『神事の後に手にした「木うそ」はご自宅の神棚にお祀りし、一年間の幸福をお祈りします』とある。]
ふるさとの野に遊ぶ娘やすみれ草
秀枝なる一重山吹咲き初めし
[やぶちゃん注:「秀枝」は「ほつえ」と読む。秀つ枝・上つ枝(孰れも「ほつえ」と読む)とも書く。上代語で「つ」は位置を示す格助詞で、上の方の枝の意。反対語は「下枝」(ししづえ(しずえ)。]
一二辨そりかへりたる姫辛夷
[やぶちゃん注:「姫辛夷」は「ひめこぶし」と読むが、これは狭義にはモクレン目モクレン科モクレン属シデコブシ(幣辛夷・四手拳)Magnolia stellata の別名である。但し、本種は日本固有種で、愛知・岐阜・三重県の一部に分布する周伊勢湾要素(東海丘陵要素植物群)」の一種であるからどうもこれではなく(ここまではウィキの「シデコブシ」に拠る)、ここでは単にモクレン属コブシ Magnolia Kobus の樹体も花も小さなものを指しているようである。]
芽杉もてふけるところや花御堂
大蛇のすがりしまゝに風の藤
[やぶちゃん注:久女らしいいい句である。]
靑芝や樋割れにのせし石一つ
[やぶちゃん注:個人的に好きな視線である。]
老鶯やこもり馴れたる槐宿
草むしる芝生の所化も紺單衣
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「所化」は「しよけ(しょけ)」で修行僧。ここは若い必要があるように私は思う。]
梅雨雲のかくさうべしや霧が嶽
[やぶちゃん注:「霧が嶽」福岡県北九州市小倉北区にある標高五九七・八メートルの足立山の別名。]
釣蘭や深彫りしたる十字架(くるす)の名
一椀の味なき飯や梅雨ごもり
靑桐やいよいよしげき簷の雨
わかるゝや夾竹桃の影ふみて
斑猫の翅をひろげて舞ひ去れり
川上へのぼりつれけり星の笹
青瓢驟雨過ぎたる草むらに
育瓢曉雨凝りたる草むらに
新涼や莟尖りし白桔梗
夫をまつ料理も冷えぬちゝろ蟲
芋畑に沈める納屋の細灯
月光を遮る簷の廣葉かな
そこばくの稿料えたりホ句の秋
草の實をいつしかつけて憩ひけり
昭和三(一九二八)年
松の内こもりくらして雪とけず
足袋白き婢のたちゐかな松の内
寒菊や身をいたはりて厨事
水仙や小家ながらも靑疊
如月の海をわたりし句會かな
[やぶちゃん注:同年二月の句会は年譜では『二月五日、若松俳句会(若松市本町ひさや旅館)。嫩葉会第九回句会。一方亭惜春会』とある孰れかか。小倉からなら若松へは洞海湾を渡る。]
二ン月や芝生のざぼん落ちしまゝ
[やぶちゃん注:「二ン月」は「にんがつ」と読み、俳句でしか見られない用法である。「日本国語大辞典」には「にんがち」として二月の転訛した語というのが古語として載るが、これ辺りをもとに音数律に合わせるため、恣意的に転訛して拵えた語のように思われる。]
春寒やうすみどりもえ廣野みち
莖立に曇り日ながら散歩かな
[やぶちゃん注:「莖立」は「くきたち(だち)/くくたち(だち)」と読み、春三、四月頃に大根や蕪などの菜が茎を伸ばすことをいう語で、その伸びた茎が、「とうが立つ」の薹(とう)に当たる。]
春もはや牡丹櫻の落花かな
大いなる古蚊帳吊りて槐宿
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「槐」は「ゑんじゆ」と読み、マメ目マメ科マメ亜科エンジュ Styphnolobium japonicum である。巨木の槐の木蔭にある老舗の宿の景か。いや、これは自宅をかく称しているようにも見える。]
靑蘆や萬葉遠賀の古江道
[やぶちゃん注:底本の表記は「青芦」「万葉」。]
歸省子に師を招びまつる夕べかな
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「招びまつる」は「よびまつる」。この「歸省子」は長女昌子さんか。]
唐黍や子らすこやかに夫の留守
新涼の草しきふせり靑瓢
葉ごもりの靑いちぢくや秋涼し
壺ながら緣の日あてる野菊かな
熊本水前寺にて
絵簾のかたはずれして泉殿
[やぶちゃん注:同年年譜によればこの夏に熊本へ旅している。]
草堤鯊釣る母に從へり
晩涼や月今のぼる庭木立
小萩原下りくる杣を見上げけり
りんどうや莊園にしてすその原
俳信のくる日こぬ日やむかご垣
とざしある花見の亭やかへり花
むかご蔓こぼれつくしてきばみけり
松風や病養ふ桐火桶
芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」の奥付に至るまでの全データの手打ちを完了した。……そうして……最後の最後の部分で……現在知られている岩波新全集の「澄江堂遺珠」の『源泉資料の全貌を示す』と名打っている『「澄江堂遺珠」関連資料』が……実は……どうも完全なものではないらしいという事実が――図らずも分かってしまったのであった――。
やっぱり――「澄江堂遺珠」は――夢魔だ!…………
……
……
……
……どうも
……芥川龍之介の霊に憑依されたかの感さえ
……実は――ある……
僕がどの程度に本気かということを、ちょっとだけお見せしよう。「澄江堂遺珠」の初版画像は佐藤春夫の著作権満了の来年元旦までは公開出来ないので「★」としてある。この注だけで実働ほぼ24時間を費やした。
*
澄江堂遺珠
[やぶちゃん注:本作は佐藤春夫(明治二五(一八九二)年~昭和三九(一九六四)年)が、「澄江堂遺珠」として昭和六(一九三一)年九月から翌年一月までに発行された雑誌『古東多万』(「ことたま」と読む。やぽんな書房・佐藤春夫編)第一年第一号から第三号(号数は本文末尾に記された本書の校正者神代種亮(こうじろたねすけ)の「卷尾に」による。本誌は国立国会図書館の書誌データによれば月刊らしいが、実際には各月に発刊されてはいないことになる)に掲載したものを佐藤自身がさらに整理し、二年後の昭和八年三月二十日に岩波書店より芥川龍之介 遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」として刊行したものである。内容的には序にある佐藤の「はしがき」にも記されてあるように昭和四(一九二九)年二月二十八日発行の岩波書店「芥川龍之介全集」(岩波書店版第一次「芥川龍之介全集」全八巻。昭和二年十一月に刊行を開始、昭和四年二月に完結した。「元版全集」と通称する)の「別冊」に載る堀辰雄編の芥川龍之介の「詩歌」から漏れた詩稿を「纂輯」したものではある。纂輯とは「さんしふ(さんしゅう)」と読み、「文書や材料を集めて書物にまとめること」の言いで編纂・編集と同義で用いられるのであるが、私はまさしく本書の場合――暗号めいてばらばらになっている友芥川龍之介の「歌草」の謎の断片を「搔き集め」、そこから「戰の庭に倒れた」芥川龍之介という「もののふ」たる友の「傷手をしらべ」、遂に恐るべき一箇の書物として纏め上げた稀奇書――と言えると思っている(鍵括弧内の語は本文最後の佐藤自身の献詩の一節である)。
佐藤春夫が江口渙を通じて芥川龍之介と初めて面会したのは、大正六(一九一七)年三月中旬、互いに二十五の時であった(二人は同年生まれである)。これは芥川が作品集「羅生門」を刊行したり「偸盗」を発表する前月であり、佐藤はと言えば、まさにこの年に神奈川県都筑郡中里村(現在の横浜市)に移住して田園生活を開始、画作に精を出しつつ、かの名作「病める薔薇」の執筆を始める時期と一致する。三ヶ月も経たない同年六月一日に日本橋のレストラン「鴻の巣」で開催された芥川龍之介「羅生門」出版記念会「羅生門の会」では佐藤が開会の辞を述べる名誉を得ており、龍之介とは急速に親密度が増したことが窺われる。
本ページは、そうした著者佐藤春夫の亡き友への限りない愛惜というコンセプトで、装幀や紙質に至るまで徹底的に考え尽くされた、奇妙ながら龍之介遺愛と言ってもよい本書の面影を、種々の著作侵害に抵触せぬよう配慮しながら、なるべく伝え得るように作ったつもりである。ただ、私でない誰もが可能なただの平板鈍愚な電子テクストに終わらせぬために恥ずかしながら不肖私藪野直史のオリジナルな注を各所に配してあり、それが折角の原本の美しさを穢していることについては内心忸怩たる思いがあることは言い添えておく。
底本は日本近代文学館発行「名著復刻 芥川龍之介文学館」(昭和五二(一九七七)年発行)の岩波書店発行の初版復刻本を用いた。
底本では佐藤春夫の三字下げの評注は本文よりもポイントが落ちるが、敢えて同ポイントとしつつ(佐藤の役割を考えれば、私は寧ろこれが正しいとさえ考えている。但し、正当本文中のものは明確に区別するために有意にポイントを落した)、改行箇所は底本に準じて一行字数を一致させた。但し、鍵括弧や読点の半角(総て)は見た目が悪く(私にとって)、読点半角はPDF化した際に不具合を生じるため、総て全角にしてある)。また、佐藤春夫による注意強調の傍点であるが、これは拡大して戴くと分かるが、通常の黒の傍点「ヽ」ではなく、白抜き傍点「﹆」である。
なお、本書の副題のような「Sois belle, sois triste.」は詩稿の欄外に記されたメモに基づく(後掲する装幀貼り交ぜに出る)。これ自体はフランス語で「より美しかれ、より悲しかれ」の意であり、またこれはボードレール( Charles Baudelaire )が一八六一年五月に発表した「悲しいマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste )――現在は「 悪の華」( Fleurs du mal )の続編・補遺に含まれる一篇――の一節である。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の旧全集「未定詩稿」の最後に附した私の注で原詩総てを示してあるので参照されたい。]
★★★★★
[やぶちゃん注:箱(約縦二十三/横十七・八/厚さ一・九センチメートル)。順に表・裏・背・両天地(天、地の順)。芥川龍之介の直筆詩稿の一部が切り張りされた独特の装幀である(末尾の神代種亮の「卷尾に」に『見返し及び箱貼りは原本の部分を複寫して應用したものである』とある)。表の書名その他は佐藤春夫の直筆かと思われる。装幀者も彼と思われるが装幀挿画者の表示はない。小穴隆一(著作権継続中)の可能性も排除は出来ないが、取り敢えず、本書の一つの特異な装幀であり、しかも本書の芥川龍之介直筆稿である。これなくしては「澄江堂遺珠」の香りを再現出来ないと私は考えるので、敢えて前に掲げておいた。作者若しくはその著作権継承者からの要請があれば以上の画像は取り下げる。以下、直筆原稿を可能な限り、独自に判読し、活字化してみることとする(切り貼りであることから一篇の連続性を優先し、開始位置のパートに全篇を示すこととした。従って他の箇所に送ったものやダブって判読したものがある。判読の際には岩波版新全集第二十三巻(一九九八年刊)の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』パートを参考にしたが、その過程で不思議なことに同一であるはずのそれとの齟齬を発見した。ここでは活字に起こすだけで注は附さない。近い将来行う同『「澄江堂遺珠」関連資料』を元にした電子化注釈でそれは行う。取り消し線は抹消を示す。以下の原稿判読電子化にはこの注は略す)。
●表部分
*標題紙(中央やや上部にピンクの現在の付箋紙様のものに右から左へ、佐藤春夫に拠るかと思われる手書きで記す。以下、逆に綴って示す)
芥川龍之介遺著
佐藤春夫纂輯
詩 集
澄江堂遺珠
sois belle, sois triste
昭和癸酉
岩 波 書 店 刊
「癸酉」は「みずのととり」で昭和八(一九三三)年の干支。
*最も使用面積の多いこの標題紙の張られた稿(*最上部にある抹消一行「人を殺せどなほあかぬ」は次の裏での判読に回す)。本文罫欄外上部頭書様パートに、
黄龍寺の晦
堂老師
吾 爾に隱す
ことなし(論語)
としるし、以下、本文部分に次の詩稿が載るが、先の標題紙によって九行分が完全に見えなくなっている。標題紙はかなり厚手のもので透過せず、下にあるであろう稿は全く読み取れない(強い光源を当てて見たりしたが見えない)。これは新全集『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁24』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七六頁)と等しいと思われる(マスキングされている部分の行数も完全に一致するからである。なお、これは『頁24』の総てである)。そこで判読可能な前三行と後五行の間に『「澄江堂遺珠」関連資料』に示されたものを再現させて以下に示す。『「澄江堂遺珠」関連資料』による再現部分は下部に【再現】と入れた(同新全集は新字体コンセプトであるが、幸い、このマスキングされた部分には正字と異なる新字が散在存在しない)。
ひとり葉卷を吸ひ居れば
雪は幽かにつもるなり
こよひはきみも
ひとり小床に眠れかし 【再現】
きみもこよひはほのぼのと 【再現】
きみもこよひはしらじらと 【再現】
きみもこよひは冷え冷えと 【再現】
【再現】
みどりはくらき楢の葉に 【再現】
ひるの光のしづむとき 【再現】
つととびたてる大鴉 【再現】
【再現】
ひとり葉卷きをすひ居れば
雪は幽かにつもるなり
こよひはきみもしらじらと
ひとり小床にいねよかし
ひよりいねよと祈るかな
*(下部の九行分の稿は次の裏での判読に回す)
●裏部分
*最上部にある稿(表から天の部分を経てここに至る)は、『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七五頁)と等しい(最後の一部が欠であるが、実は別な貼り交ぜでそこは出る。後掲)と思われる(但し、三箇所に不審な点がある)。
人を殺せどなほあかぬ
■
妬み心も今ぞ知る
みどりは暗き楢の葉に
晝の光は沈むとき
ひとを殺せどなほあかぬ
妬み心も覺しか
■
風に吹かるる曼珠沙華
散れる
何の
①二行目頭の「■」は何かの字を一字書いてそれを十文字マークで抹消したように見える。「石」か?
②「妬み心も覺しか」の次行の「覺」の左にあるのは記号のような不思議なもので判読出来ない。
③「散れる」の抹消の後にある「何」の抹消字は自信はないが、初見では「何の」と判読し得た。これは「何」をぐるぐると抹消し、「の」を消し忘れている。なお、以上の三点の私の判読(不能を含む)部は『「澄江堂遺珠」関連資料』には存在しないことになっている。
*中央部にある稿は『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁26』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七七頁)と等しいと思われる。
綠はくらき楢の葉に
晝の光の沈むとき
わが欲念
わが欲念はひとすぢに
をんなを得むと
ふと眼に見ゆる
君が心のお
光は
何かはふとも口■ごもりし
その日
みどりはくらき楢の葉に
ひるの光のしづむとき
わがきみが心のおとろへを
ふとわが
『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁26』では「わが欲念はひとすぢに」は全抹消、抹消の「君が心のお」は「君が心の」とする。さらにこの次の抹消の「光は」との間に一行空けがある。よくみるとこの直筆原稿では行空けはないものの、「光は」以下の三行が半角分前の詩篇の位置よりも有意に下がっているのが分かるので、新全集編者はここで詩篇を改稿したと判断したのであろう。また、この三行目の抹消「その日」は『頁26』では「その」で「日」はない。
*最下部から地を経由して表下部へ続く稿は、前の最上部(表から天の部分を経てここに至る)にある『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』稿とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七五頁)と等しい。先の最後の一部の欠部分がここでは見えている。煩を厭わず活字化する。
人を殺せどなほあかぬ
■
妬み心も今ぞ知る
みどりは暗き楢の葉に
晝の光は沈むとき
ひとを殺せどなほあかぬ
妬み心も覺しか
■
風に吹かるる曼珠沙華
散れる
何の
夕まく夕べは
いや遠白む波見れば□に來れば
人なき
最後の四行分(最初の空行を含む)が前の貼り交ぜではなかった。『頁22』稿では「いや遠白む波見れば」と「ば」する。「□に來れば」の「□」は判読不能。『頁22』稿でも『〔一字不明〕』とする。因みにこれが『頁22』稿との総てである。
●背部分
佐藤春夫に拠るかと思われる手書き。ここだけが「編」となっていて「纂輯」でないのが特異。
澄江堂遺珠 芥川龍之介遺著佐藤春夫編
●天部分
前掲『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』稿の「■ 妬み心も今ぞ知る」と空行一行分。
●地部分
同前稿の「みどりは暗き楢の葉に」と「晝の光は沈むとき」の二行分。]
★
[やぶちゃん注:本体(約縦二十二・四/横十七・五/厚さ一・五センチメートル)。順に表紙・背・裏表紙。多色の美しい墨絵流し。背の書名、
澄 江 堂 遺 珠 佐 藤 春 夫 編
は金箔押。装幀及び画家不詳。作者若しくはその著作権継承者からの要請があれば以上の画像は取り下げる。権利主張としてあり得ないと私は考えているが、完全な画像を示した場合に復刻版出版者から疑義が出ぬよう、左右の一部をわざと切っているので注意されたい。実横全長(約三十五・五センチメートル。耳の部分で収縮が生じる)で合わせて凡そ五センチメートル分をカットしてある。]
★
[やぶちゃん注:表紙見開き。順に右(効き紙側)と左(遊び側)。芥川龍之介の直筆詩稿である。これは詩原稿そのものであって、装幀として著作権を要求することは出来ないと判断出来るが、やはり用心のために一部を恣意的に問題のない端部分をカットしてある(次も同じ。この注は略す)。以下、直筆原稿を可能な限り、活字化してみる。
●右(効き紙側)部分
『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁38』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八三頁)。本文罫欄外上部頭書様パートに、
Sois belle, sois triste ト云フ
と記す。
水の上なる夕明り
畫舫にひとをおほもほへば
わかぬぎたがすて行きしマチ箱の薔薇の花
赤白きばかりぞうつつなる
水のうへなる夕明り
畫舫にひとをおもほへば
たがすて行きし
わがかかぶれるヘルメット
白きばかりぞうつつなる
はるけき人を思ひつつ
わが急がする驢馬の上
穗麥がくれに朝燒けし
ひがしの空ぞ忘れられね
さかし
■
「赤白きばかりぞうつつなる」の「ぞ」が吹き出しで右から挿入。「驢」の字は原稿では「盧」を「戸」としたトンデモ字。『頁38』稿では「赤白きばかりぞうつつなる」と「水のうへなる夕明り」の間に空行がある。最後の抹消字は不詳であるが、これは『頁38』稿では存在しないことになっている。
●左(遊び側)部分
前の稿の続き。『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁39』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八四頁)。
畫舫はゆるる水明り
はるけき人をおもほへば
わがかかぶれるヘルメット
白きばかりぞうつつなる
幽に雪のつ■■
幽にかに雪のつもる夜は
ひとりいねよと祈りけり
疑ひぶかきさがなれば
疑ふものは數おほし
薔薇に刺ある蛇蛇に舌
女ゆゑなる涙■さへ
幽かに雪のつもる夜は
ひとり葉卷をくはへつつ
幽かに君も小夜床に
最後の三行は原稿では一気に斜線で以って総て削除している点に注意。『頁39』稿には私は判読不能箇所は存在しないことになっている。]
★★
[やぶちゃん注:裏表紙見開き。順に右(遊び側)と左(効き紙側)。芥川龍之介の直筆詩稿である。裏表紙見開きであるが、表紙側と同じく芥川龍之介の直筆詩稿でありながら、しかもその表側のそれとは違う箇所であるから、敢えてここに配した。以下、直筆原稿を可能な限り、活字化してみる。
●右(遊び側) 部分
『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁36』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八一~五八二頁)。
妬し妬しと
嵐は襲ふ松山に
松の叫ぶも興ありや
山はなだるる嵐雲
松をゆするもおもしろし興ありや
人を殺せどなほ飽かぬ
妬み心をもつ身にはに
妬み心になやみつつ
嵐の谷を行く身に
雲はなだるる峯々に
■■
昔めきたる竹むら多き瀟湘に
昔めきたる雨きけど
[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]
嵐は襲ふ松山に
松のさけぶも興ありや
妬し妬しと
峽をひとり行く身には
人を殺せどなほ飽かぬ
妬み心も今ぞ知る
をも知るときは
山にふとなだるる嵐雲
松をゆするも興ありや
『頁36』稿では「■■」抹消部分は『二字不明』とあるが、私には「生贄」と書いて抹消したかのように見える。また、下段の最初の「嵐は襲ふ松山に/松のさけぶも興ありや/妬し妬しと/峽をひとり行く身には」は『頁36』稿では生きているが、明らかに一気に斜線を三本も引いて抹消していることが分かる。
●左(効き紙側)部分
前の稿の続き。『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁37』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八二~五八三頁)。
竹むら多き淸湘に
夕の雨ぞ
■
大竹むらの雨の音
思ふ今は
幽かにひと■
夜半は風なき窓のへに
薔薇は
■古き都は來て見れば靑々と
穗麥ばかりぞなびきたる
朝燒け
[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]
古き都に來て見れば
路も
幽かにひとり眠てあらむ
わが急がする驢馬の上
穗麥のがくれに朝燒くるけし
ひがしの空ぞわすられね
ひがしの空は赤々と
朝燒けし
『頁37』稿では、私が判読不能とした抹消字三字は存在しないことになっている。]
詩集
[やぶちゃん注:扉の後にさらに遊び白紙一枚が入って左頁に「詩集」。改頁。]
★
[やぶちゃん注:左頁に「澄江堂遺珠」。ここにのみ雲竜紙(うんりゅうし:三椏或いは楮の地紙に手ちぎりした楮の長い繊維を散らせて雲形文様を出した和紙。)様の特殊和紙が使用されてある。この扉の「澄江堂遺珠」の独特の味わい深い文字は、末尾の神代種亮の「卷尾に」に『扉の「澄江堂遺珠」の五文字は朝鮮古銅活字より採取したもの』とあり、上記画像の文字自体は著作権を侵害しないことが分かっている。改頁。]
★
[やぶちゃん注:左頁に。底本では「澄江堂」と「遺珠」の下に「Sois belle, sois triste.」の文字が続く。改頁。]
[やぶちゃん注:ここ(ハトロン紙を挟んで左頁)に親友小穴隆一の描いた芥川龍之介の知られた肖像画「白衣」(「びゃくえ」と読む。大正一一(一九二二)年二科展出品作)が入るが、著作権継続中のため省略する。]
★
はしがき
[やぶちゃん注:上部三分の一に以下に示す、岩(?)とひねこびた枯木のデッサンが入る。これは以下、本作の佐藤春夫の序文も含めて本文頁(「卷尾に」と奥附を除く)の挿入画(及びハトロン紙)の上部を常に占めている。装幀挿画者の表示はないが、五十四頁の佐藤の解説によってこれは稿に描かれた芥川龍之介自身の手遊びであったことが分かる。これなくしては「澄江堂遺珠」の香りを再現出来ないと私は考えるので敢えて前に掲げておいた。ここで改頁となり、左頁から佐藤春夫の序が始まる。以下、「卷尾に」の前まで、これが常に頁の上部三分の一を占めているのだというイメージでお読み戴きたい。]
内容が誤記という重大な問題を孕んでいるだけに、この部分だけは先に公開しておく。以下は芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」の中の「麥秀」の一篇である。後にある字下げの注は佐藤春夫の手になる注である。
*
麥秀
げんげ野に羊雨空を仰ぎ
粉江の塔が見ゆる麥の穗のび
菜たね莢になる水中の鼻さき
石橋に草生ゆる農人の行かんともせず
そらまめ花さく中の墓なり
籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨
右「麥秀」六句はその詩體と詩情とを異にす
るとは云へ亦當然支那游記詩章中のもの
なるべし。
[やぶちゃん注:当初、「澄江堂遺珠」のみで虚心坦懐に芥川龍之介の詩想を読み解こうとしたが、この詩の「粉江の塔」「水中」という語に忽ち行き詰ってしまった。「水中の鼻さき」?……まず、「粉江」で検索したが、龍之介の中国旅行の行程の中にこのような地名(或いは川の名前)は見出せなかった。そこで中国滞留の長い教え子に聴いたところ、「聴いたことがありません。これは本当に中国の地名ですか? 他に情報はありませんか?」との返事を得た。そこで、『「澄江堂遺珠」関連資料』の当該資料を探ってみると、驚くべきことが分かった。これは同資料の『ノート1』の『頁1』に載る以下の詩に該当するのだが(取り消し線は芥川龍之介による抹消を示す)、
麥 秀
げんげ野に羊雨空を仰ぎ
松江の塔が見ゆる麥の穗のび
菜たね莢になりる水牛の鼻さき
石橋に草生ゆる雨空の
農人農人行かんともせず
そらまめ花さく中の墓なり
籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨
「粉江」ではなく「松江」であり、「水中」ではなく「水牛」なのである!
「水牛」は納得した。では「松江の塔」とは?……「松江」と言えば、芥川龍之介所縁とすればかの出雲の松江(私の芥川龍之介「松江印象記」初出形テクストを参照)があるが、「塔」は不審であり、この他に出るロケーションは、佐藤春夫が敢えてここにこの詩を配したように、佐藤が誤読したか誤植かは不明だが「水牛」を引くまでもなく、中国大陸での嘱目と考えなくてはおかしい。そもそも「春雨」が出るが、龍之介の松江訪問は真夏である。とすると……「松江」(しょうこう)「の塔」……と称すべきものは中国にないか?……検索をかけると!……あった!――「松江方塔」である! 上海市観光局公式サイトの記載などよれば、現在の上海市郊外の西区にある古城で、「方塔」は正式名称を「興聖教寺塔」といい、土木構造製の九段階方形の塔で高さは四二・五メートル、造形と構造は唐代の煉瓦作りの塔を真似たもので、中国国内では極めて少ない唐代の北宋塔とある。但し、龍之介はここを訪れた形跡は現存する資料の中にはない。この情報を先の教え子に提示してみた。すると、
《引用開始》(本人の承諾済)
はい! 松江というのは非常に知れ渡った地名であり、上海市に松江区という行政区もあります。塔も有名です。ただ、かなり距離があります。龍之介はせいぜい上海郊外と言っても同文書院あたりまでしか行っていないという印象でしたので、不思議です。もしかしたら、実際に行っていなくても、写真などで見たのかしらん……龍之介は、そんなことしないよな……
先生、龍之介が上海から杭州へ向かう際に、汽車から見えたのではないかしら? 現在の鉄路(新幹線でなく在来線:昔の線路もおそらく同じ場所を通っていたと仮定すれば)から、距離にして一キロメートル足らずです。これなら、絶対に見えたはずです。僕もその在来軌道を何度も利用しました。しかし残念なことに、方塔が見えた記憶は一度もないのですけれども。
《引用終了》
という返事を貰った。そこではたと思い当った。この詩は「げんげ野に羊雨空を仰」いでいて、「松江の塔」が「麥の穗のび」た先に「見」えるのであり、「菜たね莢になる水牛の鼻さき」が過ぎ行き、「石橋に草生ゆる雨空の」の中を「農人」は「行かんともせず」に立ち尽くすのが見え、今度は「そらまめ花さく中の墓」があって、「籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨」の降っている景なのだ! これらを嘱目する龍之介は、その「松江の塔」に登ったり、その塔の直下に立ったりなどはしていないのだ! しかも景色は目まぐるしく変わっているではないか?! こんな風に景色がつぎつぎと移り変わるのは――これは車窓から見た景色なのではないか?!……こんなことを考えて、私はまさに教え子の言うように、その杭州に向かう汽車から「麦の穂の伸びた先に松江方塔が見えたのではないか?」と返事をものした。
《引用開始》
はい! 大正十(一九二一)年五月二日。汽車が上海を出て間もなくのことになるはずです。上海市内を出発して約三十キロほど走ったところですから、当時の汽車の速度などを考えれば約一時間ほどといったところでしょうか。
《引用終了》
と返事が返ってきた。私はもう、誰が何と言おうとこれは興聖教寺塔、松江(しょうこう)の塔の遠望であると信じて疑わないのである!――]
*
元旦の全文公開に向けて鋭意努力中ではある。
しかし、この「澄江堂遺珠」はまさに芥川龍之介の残した最大の暗号文である。
僕はこれと死ぬまで取っ組み合う覚悟をした。
さすれば、それを行うためのブログ・カテゴリを『「澄江堂遺珠」という夢魔』とした。
末永く、お付き合いの程を――
今月向後、ブログ更新がない日は――芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂述「澄江堂遺珠」に没頭していると――それほど困難でしかも素敵な世界に没頭している――と判断されたい――
あそこの角まであなたと一緒に歩いたのに……何故……あなたはそっちへ……行ったしまったの?……
見つけた! 今日聴いた Massimo Turrini の libertango!
アナドレンゾッツイ!
妻の誕生日に「強羅花壇」に一泊。
料理は朝夕ともに恐らく今までの最上クラス五指には確実に入る。食前用に選んだケンゾー・エステートの白「asatsuyu」もやや甘口ながら悪くない。お薦めのワインだ。
しかし――しかし昨日の強羅は無茶寒かった! 内湯に入っていても湯船から出ると「寒い」! あそこの構造はちょっと冬向きに出来てない。老体にはちょっと通路その他が身に沁みた。
今日は妻がタダ券があるので行きたいとセコいことをいうので「箱根ガラスの森美術館」へ。
正直、殆んど全く期待しないで行ったので、結構、意外によかったりした。
青天だったので戸外のガラスのツリーの光輝の目くるめく絢爛は、これ、馬鹿に出来んかったが、他にもたとえばこのコンサート。アコーィオンが風や波の音を美事に奏でるのには驚嘆、「リベルタンゴ」も必聴!
リヴィオ・セグーゾの現代ガラス作品の展示はちょっとソソられた。特に木と組み合わせた木目とガラスの組み合わせが素晴らしい(実は買いたいぐらい気に入ったものもあった)。
こういうところの中のレストランは必ず「まずい」と相場が決まっているのだが、どうしてどうして! 「カフェテラッツァ」の生ハムはサンダニエーレだ!(ランチなら単品追加を絶対お薦めする) 「クリスマスランチ」もあの安さであの味なら、若いカップルでも確実に満足出来ると私は予想外の高評価をする。但し、ワインの種類は絶望的に貧しいので覚悟されたい。
それにしても千石原のあそこにマイカーじゃなく行って、一方は見た目、兩杖の障碍者、平日の昼日中、リタイアするには若過ぎる男女が、ランチで二人で一本ボトルを飲んじゃってるというのは、まあそう滅多にある絵じゃあ、なかろうなあ。
「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、「やぶちゃん版萩原朔太郎全歌集 附やぶちゃん注」(PDF縦書版)を公開した。僕のオリジナル編集であるが、現在、恐らく一冊で萩原朔太郎の全短歌を一挙に読める唯一のものである。あなたの書架にお贈りする。
本日二2014年12月18日(当年の陰暦では10月27日)
元禄4年10月29日
はグレゴリオ暦では
1691年12月18日
である。
この日、芭蕉は「奥の細道」の旅に出て以来(元禄2(1689)年3月20日旅立)、実に凡そ三年振りに江戸に戻った。湖南よりの帰東ため義仲寺を発ったのは元禄4年9月28日で東海道を三十二日かけている。
芭蕉庵は人に譲っていたため、日本橋橘町にある借家へ入って仮寓とした。翌元禄5(1692)年4月初旬より杉風と枳風(きふう)の出資で曾良と岱水(たいすい)の設計になる芭蕉庵再建工事が開始され、翌5月中旬、(第三次)芭蕉庵が完成して移り、二年後の元禄7(1694)年5月11日に帰郷の旅に出るまでの丸二年をここで過ごしている。
則ち、この日が芭蕉最後の江戸帰還となったのであった。芭蕉満四十七歳であった。
よの中定(さだめ)がたくて、此(この)
むとせ七とせがほどは旅寢がちに侍れ共、
多病くるしむにたえ、年比(ごろ)ちな
み置ける旧友門人の情忘れがたきまゝに、
重(かさね)てむさし野にかへりし
比(ころ)、ひとびと日々草扉(さうひ)
を音づれ侍るにこたへたる一句
ともかくもならでや雪のかれお花
[やぶちゃん注:「雪の尾花」(遊五編・延享元(1744)年刊)。表記は総てママ。]
明日、妻の誕生日なれば、本日はこれにて閉店――
昭和二(一九二七)年
松籟やこもりなれたる冬座敷
灯ともして雛守る子や宵の尼
厨事すみし婢も居ぬ雛の前
燭とれば雛の影皆移りけり
蜆籠舳におかれ人あらず
大地うつ雨久しけれ瓢苗
海峽の潮こく榮えし幟かな
若あしやうたかた堰を逆流れ
朝涼や芝刈見守る老守衞
苫かけて舳高さよ若葉雨
三日月や槐若葉の雨露しきり
葦葺の簷の厚さよ若楓
昃り去る雲の靜かや牡丹園
[やぶちゃん注:「昃り」は「かげり」と読む。]
花茄子や名もなき妻とこもりすむ
夏の夜や月に干衣の玉雫
夏の夜やいでゆ泊りのただ一人
葉鷄頭や紅まえそめて露しとゞ
[やぶちゃん注:底本、「まえ」の右に『(ママ)』注記を施す。]
夏祭渡御の舳をつらねたり
高原の干草いきれ星あかく
銀漢や芝生の映画人だかり
大阪の母滯在
夕顏や灯とほく母とねころびて
温泉の宿や夜明の靑嶺蚊帳ごし
[やぶちゃん注:上五は「でゆのやどや」と読んでいるものと推測する。]
吹きとほす月の蚊帳や濱館
[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]
蚊帳をすくさ靑き灯かな戲曲よむ
[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]
小萩野や峰を下りる雲の影
海廊や紅葉しそめし蔦柱
りんどうの濃るり輝く岩根かな
雨冷の俄か障子や葉鷄頭
稻妻のはためきうつる芙蓉かな
冬籠る有髮の僧や子澤山
今、元旦の佐藤春夫著作権満了に向け、芥川龍之介遺著佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」をタイピングしているのだが……来れて二十年程前に復刻本を手に入れ、さらりと読んだ時とは全く違う!……これはとんでもない、凄いものだということが打ちながら指から伝わってくる! 本当に恐ろしいとんでもないものなのだ!…………
大キナ戰 (1 蠅と角笛)
尾形龜之助
五月に入つて雨やあらしの寒むい日が續き、日曜日は一日寢床の中で過した。顏も洗らはず、古新聞を讀みかへし昨日のお茶を土瓶の口から飮み、やがて日がかげつて電燈のつく頃となれば、襟も膝もうそ寒く何か影のうすいものを感じ、又小便をもよふすのであつたが、立ちあがることのものぐさか何時までも床の上に座つてゐた。便所の蠅(大きな戰争がぼつ發してゐることは便所の蠅のやうなものでも知つてゐる)にとがめられるわけもないが、一日寢てゐたことの面はゆく、私は庭に出て用を達した。
靑葉の庭は西空が明るく透き、蜂のやうなものは未だそこらに飛んでゐるらしく、たんぽぽの花はくさむらに浮かんでゐた。「角笛を吹け」いまこそ角笛は明るく透いた西空のかなたから響いて來なければならぬのだ。が、胸を張つて佇む私のために角笛は鳴らず、帶もしめないでゐる私には羽の生えた馬の迎ひは來ぬのであった。
[心朽窩主人注:「寒むい」「洗らはず」「もよふす」「迎ひ」はママ。昭和一七(一九四二)年九月発行の詩誌『歴程』第十九号に発表された。尾形龜之助生前最後の発表詩である。同年十二月二日、『喘息と長年の無頼な生活からくる全身衰弱のため、誰にもみとられず永眠』した(引用は思潮社一九七五年刊現代詩文庫「尾形亀之助」年譜より)。]
大战 (1 苍蝇和牛角号)
作 尾形龟之助
译 心朽窝主人,矢口七十七
到了五月以后,连续下雨或暴风雨等寒冷天气,星期日我整天在被窝里度过。不洗脸,反复看旧报纸,从茶壶嘴儿直接喝昨天泡的茶,然后夕阳西斜需要点灯的时候,脖颈儿也好、膝盖也好、略有寒意,总觉得有点儿虚无,同时觉出尿意,不过也许是因为懒惰而不愿意站起来的我,一直在被窝上盘腿坐。厕所里的苍蝇(连厕所里的苍蝇什么的都知道大战已经爆发),它虽然不会责难,我却羞愧整天躺卧不起的自己,只好到院子里解手儿。
满眼嫩叶的院子、又明亮又透明的西方天空,附近好像蜂之类还在飞来飞去,蒲公英花浮出于草丛上。“吹牛角号吧!”正是这时刻,牛角号声音应该从又明亮又透明的西方天空的彼岸传过来。可是它不为我——挺着胸伫立的我传来,而且带翅膀的马不为我——连和服腰带也不系的我,迎接而来。
*
矢口七十七/摄
冬
雪乾く
繩とびをするところだけ雪乾く
[やぶちゃん注:私は「縄」という漢字だけは許せない。この「縄」では直ぐに解けてぼろぼろになる。旧字とした。]
日照るとき霜の善意のかゞやけり
大きな冬がジヤケツ毛ばだつ童女の前
(二十六年)
大正十五(一九二六)年
はし近く金魚見に出し恙かな
雁なくや釣らねどすなる母の供
大正十四(一九二五)年
誘はれて草つむとなく出でにけり
摘み草の兒等佇ち見るや描く心
松山に來て師にまみえ夏羽織
[やぶちゃん注:底本年譜にこの年の『五月二十四日、高浜虚子歓迎松山俳句大会出席』とある。]
競ひかちて尾ふる大紙鳶峰の上
大正十三(一九二四)年
芒穗に荒れ居る海やどろにごり
[やぶちゃん注:「芒穗」は「すすきほ」。]
大正十一(一九二二)年
重ね着の頰皺よせて笑み貧し
枯れ柳に來し鳥吹かれ飛びにけり
冬服や辭令を祀る良教師
あたゝかや芝生にまはす客の下駄
灯の町深く春潮わかれのぼりけり
病める子に太鼓うるさき祭かな
芋畠に住みて灯もるゝ小窓かな
大正十(一九二一)年
水鳥の波紋靜かや樓の脚
水玉ふつて水鳥首を立てにけり
雨の菊起し折る足袋ぬれにけり
鶯やうたゝねさめし長まつげ
山吹の枝吹き上げぬ地這ふ風
別るゝ日迫ると思ふ新茶かな
黑蝶に親しむ端居夏殘し
傘にさゝやく粉雪うれしや二の替
[やぶちゃん注:「二の替」は「にのかはり(にのかわり)」で、主に京阪での歌舞伎で言う正月興行のこと。また、その上演狂言。顔見世の次の興行なのでかくいう。新年の季語。]
心朽窩新館に「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」(PDF縦書版)を公開した。注のオスカー・ワイルド及びボードレールの詩以外はこちらの方がHTML版よりも遙かに読み易いと思う。ダウンロードされ、蔵書の端にお納め下さるならば、恩幸これに過ぎたるはない。
【2014年12月16日追記】
「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の改稿及びPDF化作業中――
大正九(一九二〇)年
門松につぎつぎ下車りて褄とりぬ
松立てゝ灯りし町の繁華かな
彩旗のかげ飛ぶ船板や松飾
霜とけてかわきからびし草を焚けり
霜消えて草にみじかき木影かな
焚火あとに焦げて霜おく蔓太し
落葉して雲透き動くポプラかな
落葉ふんで木深く入れば落椿
落葉掃くやいつしかとけゐし羽織紐
踏み去るや出代る坂の枯木影
春の人さと染めし頰へ袂かな
芹すゝぐや水堰き覺ゆる足の甲
芹摘むや灯の街に來て裾下ろす
芹洗ふや雨輪見え來し船の横
漂ふ芹に水輪ひろごる濯ぎかな
波紋ひまなき船の障子や水温む
揚羽蝶花首曲げてすがりけり
切れ蔓に吹きあふらるゝ蝶々哉
桃折るや髮の地に落つ雨雫
塵の中にくさりうづもる椿かな
出代や塀摺りてさる傘のふち
[やぶちゃん注:「出代」は「でがはり/でかはり(でがわり/でかはり)」と読む。出替(わ)り。奉公人が一年又は半年の年季を終えて交替すること、又は、その日。一年年季が春(半年年季は春と秋)が交代期であったことから春の季語。]
しめかへて捲く常帶や出代女
つき來る犬に戻りつないで出代りぬ
菊の芽に曉雨おやまで出代りぬ
[やぶちゃん注:「曉雨」「げうう(ぎょうう)」は夜明けに降る雨。]
夏近し梧桐の苞浮く潦
[やぶちゃん注:「梧桐」アオイ目アオイ科 Sterculioideae 亜科アオギリFirmiana simplex 。「苞」は「はう(ほう)」と読み、花や花序の基部にあって芽や蕾を包んで保護する小形の葉状体。通常の葉と同様の緑色のもの、鱗片状で褐色を呈するもの、花弁と見紛う(実際に花と誤認されているものではドクダミの白い「花」(事実は花序全体の基部を包む総苞)や、肉穂花序を大きな苞が包むサトイモ科ミズバショウの白い「花」(特に仏炎苞と呼称する)など)ものなど多種多様であるが、アオギリFirmiana simplex のそれは独特のヘラのような葉状体を成す。アオギリは六〜七月に枝先に雄花と雌花を交えた大形の円錐花序を出し、黄白色五辨の小花を群生させるが萼片が五つあるものの実は花弁はない。グーグル画像検索「アオギリの苞」を参照されたい。老婆心乍ら、「潦」は「にはたづみ(にわたずみ)」と読み、雨が降って地上に流れ溜まる水若しくはその流れをいう。]
新茶すゝめて帶高く去る廊下かな
臼肌に染みし葉色や新茶碾く
腹かけや頭勝ち過ぎし足弱子
四葩切るや前髮わるゝ洗ひ髮
[やぶちゃん注:「四葩」は「よひら」と読み、アジサイの異名。「葩」は花弁の意。夏の季語。]
玉蟲や瑠璃翅亂れて疊這ふ
月の齒朶影濃く搖るる淸水哉
蝸牛に枝岐れんとして木瘤哉
芥子に佇つや胸に手くみて腰細く
夏帶や浮葉のひまに映し過ぐ
風をいとひて鬢にかしげし日傘哉
月光涼しく肩に碎くる湯槽哉
坂人や日の斑すり行く白日傘
黄ばら萎びて香高く散りし机哉
芥子散るや拾ひ集めてま白き掌
涼しさや水つけてかくほつれ髮
梧桐や地を亂れ打つ月雫
肩をすぼめて咳く力なし秋袷
百舌鳴くや苔深くさす枝の影
つるし柿の色透けて來し軒夜寒
こまごまと枯枝折れ散る木立かな
[やぶちゃん注:「こまごま」の後半は底本では踊り字「〲」。]
枯草に裾かへす時足袋白し
鍋に遠く足袋かわきある爐ぶち哉
地に近く搖れ時雨ゐて菊眞白
葱畑に雨に灯流す障子かな
土に出て濡れゐる小石葱畠
色でも香でも決して單に異性と居處を知らせ合ふためばかりではない。前の例によつても知れる通り、大抵の場合にはこれによつて相手の本能を呼び起し、その滿足を欲せしめることが出來る。生殖細胞を出遇はせたいといふ本能は、如何なる動物にも具はつてあるが、この本能はいつでも働いて居るわけではなく、生殖細胞の成熟する頃だけ著しく現れる。そしてその際特殊の感覺器を通じて刺戟を與へると、本能が急に猛烈に働いて、これを滿足せずには居られぬといふ程度までに上る。獸類や蛾類などの發する香は、主としてこの意味のものである。人間でも香と性慾の興奮との間には密接な關係があるが、人間は獸類でありながら特に鼻の粘膜の面積が狹く、隨つて嗅感が頗る鈍いから、到底他の動物に於ける嗅感の働を正當に察し知ることは出來ぬ。
香によつて雌雄相誘ふ例は獸類には頗る多い。牡犬が以下に牝犬の香に引き寄せられて夢中になるかは、常に人の知る通りであるが、大概の獸は犬と同じく、牝の香に誘はれる。「いたち」の類を罠(わな)で捕へるに當つて、牝の香をつけておくと、幾疋も續いて掛る。また雄のほうが強い香を發して牝に情を起させるもので、最も有名なのは「麝香鹿」であるが、その香ふ物質は香料として人間にも用ゐられる。「あざらし」[やぶちゃん注:この「あざらし」は「海狸(ビーバー)」の誤り。]もこれに似た香を發するので知られて居るが、なほその外に「麝香猫」「麝香鼠」など皆香から名前が附けられたのである。昆蟲類で香をもつて異性を誘ふものは蝶蛾の類に多い。蝶は晝間飛び廻るから、花の邊で雄と雌とが出遇ふ機會が多いが、蛾は夜暗い時に飛ぶから、香によつて互にその所在を知ることが必要である。蠶なども雌の生殖門の處に小さな香を出す腺があり、雄はこの香を慕うて集まつて來る。或る人が試にこの部だけを切り離して置いた所が、側へ寄つて來た雄は、雌の體の方には少しも構わず、切り離されたこの體部と交尾しようと試みた。昆蟲學者は蛾のこの性を利用し、雌を囮(おとり)として、往々珍しい種類の雄を一夜に數尾も捕へることがある。たゞ探して歩いては滅多に見附からぬ雄が、室内に飼うてある雌の周圍に百疋以上も集まつて來ることがあるが、隨分遠方から嗅ぎ附けて來るものに違ない。甲蟲類でも、黄金蟲などは觸角に嗅感器がよく發達して居るから、香によつて雌の居處を知る力が極めて鋭い。かゝる香は餘程長く殘るものと見えて、一年も前に雌の蛾を入れたことのある空箱へ、雄が寄つて來ることさえ往々ある。
[やぶちゃん注:「麝香鹿」哺乳綱鯨偶蹄目反芻亜目真反芻亜目ジャコウジカ科ジャコウジカ亜科ジャコウジカ属 Moschusの総称。ウィキの「ジャコウジカ」によれば、『ジャコウジカ科には十数属が含まれるが、現世するのはジャコウジカ属のみで』、『シカよりも原始的と考えられたが、実際にはそのような系統位置にはない』とある。『主に南アジア山岳の森または潅木地帯に生息』し、『小さくてがっしりとした体格のシカに似ており、後肢は前肢よりも長い』。全長八〇~一〇〇、肩高五〇~七〇センチメートル。体重七~一七キログラム。『荒地を登るのに適した脚を有す。シカ科のキバノロの様に角を持たないが、雄は上の犬歯が大きく発達して、サーベル状の牙となる』。『麝香腺は成獣の雄にしかみられない。麝香腺は陰部と臍の間にある嚢で、雌を引き付けるために麝香を分泌する』。『草食性で、(通常人里離れた)丘の多い森林環境に生息する。シカと同様に主に葉、花および草を食べ、更に苔や地衣類も食べる。単独性の動物であり、縄張りがはっきりとしており、尾腺で匂い付けを行う。臆病な性格が多く、夜行性または薄明活動性』。『発情期になると雄は縄張りを出て、牙を武器にして雌争いをする』。『現在、ワシントン条約によって国際取引が禁止されているが、麝香採取のための密猟は絶えない』。中国では一九五八年より『飼育研究が開始され、四川省都江堰市のほか数か所で飼育されている』とある。続けて、ウィキの「麝香」も引く。麝香『は雄のジャコウジカの腹部にある香嚢(ジャコウ腺)から得られる分泌物を乾燥した香料、生薬の一種で』『ムスク(musk)とも呼ばれる』。『主な用途は香料と薬の原料としてであった。 麝香の産地であるインドや中国では有史以前から薫香や香油、薬などに用いられていたと考えられて』おり、『アラビアでもクルアーンにすでに記載があることからそれ以前に伝来していたと考えられる。
ヨーロッパにも』六世紀には知として知られ、十二世紀にはアラビアから実物が伝来したという記録が残る。『甘く粉っぽい香りを持ち、香水の香りを長く持続させる効果があるため、香水の素材として極めて重要であった。
また、興奮作用や強心作用、男性ホルモン様作用といった薬理作用を持つとされ、六神丸、奇応丸、宇津救命丸、救心などの日本の伝統薬・家庭薬にも使用されているが、日本においても中国においても漢方の煎じ薬の原料として用いられることはない』。『中医学では生薬として、専ら天然の麝香が使用されるが、輸出用、または安価な生薬として合成品が使われることもある』。『麝香はかつては雄のジャコウジカを殺してその腹部の香嚢を切り取って乾燥して得ていた。香嚢の内部にはアンモニア様の強い不快臭を持つ赤いゼリー状の麝香が入っており、一つの香嚢からは』凡そ三十グラム程得られる。『これを乾燥するとアンモニア様の臭いが薄れて暗褐色の顆粒状となり、薬としてはこれをそのまま、香水などにはこれをエタノールに溶解させて不溶物を濾過で除いたチンキとして使用していた。
ロシア、チベット、ネパール、インド、中国などが主要な産地であるが、特にチベット、ネパール、モンゴル産のものが品質が良いとされていた。 これらの最高級品はトンキンから輸出されていたため、トンキン・ムスクがムスクの最上級品を指す語として残っている』。麝香の採取のために『ジャコウジカは絶滅の危機に瀕し、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)によりジャコウの商業目的の国際取引は原則として禁止された』。『現在では中国においてジャコウジカの飼育と飼育したジャコウジカを殺すことなく継続的に麝香を採取すること』『が行なわれるようになっているが、商業的な需要を満たすには遠く及ばない。六神丸、奇応丸、宇津救命丸などは条約発効前のストックを用いているという』。『そのため、香料用途としては合成香料である合成ムスクが用いられるのが普通であり、麝香の使用は現在ではほとんどない』。『麝香の甘く粉っぽい香気成分の主成分』はムスコンと呼ばれる物質でこれを〇・三~二・五%程度含有し、ほかに微量成分としてムスコピリジン・男性ホルモン関連物質であるアンドロステロンやエピアンドロステロンなどの化合物を含むが、『麝香の大部分はタンパク質等である。麝香のうちの』約十%程度が『有機溶媒に可溶な成分で、その大部分はコレステロールなどの脂肪酸エステル、すなわち動物性油脂である』。「語源」の項。『麝香の麝の字は鹿と射を組み合わせたものであり、中国明代の『本草綱目』によると、射は麝香の香りが極めて遠方まで広がる拡散性を持つことを表しているとされる』。『ジャコウジカは一頭ごとに別々の縄張りを作って生活しており、繁殖の時期だけつがいを作る。そのため麝香は雄が遠くにいる雌に自分の位置を知らせるために産生しているのではないかと考えられており、性フェロモンの一種ではないかとの説がある一方』、『分泌量は季節に関係ないとの説もある』。『一方、英語のムスクはサンスクリット語の睾丸を意味する語に由来するとされる。
これは麝香の香嚢の外観が睾丸を思わせたためと思われるが、実際には香嚢は包皮腺の変化したものであり睾丸ではない』。因みに、『ジャコウジカから得られる麝香以外にも、麝香様の香りを持つもの、それを産生する生物に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。
霊猫香(シベット)を産生するジャコウネコやジャコウネズミ、ムスクローズやムスクシード(アンブレットシード)、ジャコウアゲハなどが挙げられ』、『また、単に良い強い香りを持つものにも同様に麝香あるいはムスクの名を冠することがある。マスクメロンやタチジャコウソウ(立麝香草、タイムのこと)などがこの例に当たる』とある。
「麝香猫」哺乳綱食肉(ネコ)目ジャコウネコ科 Viverridae に属するネコ類。狭義には、ジャコウネコ亜科に属するところの、オビリンサン属オビリンサン Prionodon linsang・ジェネット属
Genetta のジェネット類・ジャワジャコウネコ Malayan civet などのを指す。ウィキの「ジャコウネコ科」(「科」であることに注意)によれば、アフリカ大陸・ユーラシア大陸・インドネシア・スリランカ・フィリピン・マダガスカル・日本(ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン
Paguma larvata 一種。但し、外来種と推定されている)に分布し、多くの種が肛門周辺に臭腺(肛門腺)を持つとある。参考までに、検索で知ったジャコウネコ(ジャワジャコウネコ Malayan civet )の糞から採取されて飲用に供されるという未消化のコーヒー豆「コピ・ルアク」(インドネシア語 Kopi Luwak)のことを記しておく(ウィキの「コピ・ルアク」に拠る)。『「コピ」はコーヒーを指すインドネシア語、「ルアク」はマレージャコウネコ』(上記ジャワジャコウネコと同一)『の現地での呼び名で、『独特の香りを持つが、産出量が少なく、高価』(販売店によって差があるが、あるネット記事には生豆が二百グラム七千円とあり、「ザ・リッツカールトン東京」のラウンジで供されるものは一杯五千円とある)。『コピ・ルアクはインドネシアの島々(スマトラ島やジャワ島、スラウェシ島)で作られている。このほか、フィリピンや南インドでも採取され、フィリピン産のものは、「アラミド・コーヒー」(Alamid coffee、現地の言葉で「カペ・アラミド」Kape Alamid)と呼ばれ、ルアック・コーヒーよりも更に高値で取り引きされている』(インド産はインドジャコウネコ
Viverra zibetha か)。『アメリカ合衆国では、「ジャコウネココーヒー」(英語:Civet coffee)や「イタチコーヒー」(英語:Weasel coffee)との俗称があり、日本で「イタチコーヒー」と呼ぶのも後者に倣ったものと思われる。しかし、ジャコウネコ科のジャコウネコとイタチ科のイタチは異なる動物なので、イタチコーヒーという俗称は誤解を招きやすい』。『かつて、ベトナムでは同種のジャコウネコによるものが「タヌキコーヒー」(英語ではやはり Weasel coffee)と呼ばれて市場に出ていたが、現在は流通経路に乗る機会が乏しくなり、人為的に豆を発酵させたものが「タヌキコーヒー」と称して販売されている』。『インドネシアのコーヒー農園ではロブスタ種のコーヒーノキが栽培されており、その熟した果実は、しばしば野生のマレージャコウネコに餌として狙われている。しかし、果肉は栄養源となるが、種子にあたるコーヒー豆は消化されずにそのまま排泄されるので、現地の農民はその糞を探して、中からコーヒー豆を取り出し、きれいに洗浄し、よく乾燥させた後、高温で焙煎する。ちなみにフィリピンではさまざまな種類のコーヒーノキが栽培されており、カペ・アラミドの場合は結果的に数種類のコーヒー豆が自然にブレンドされると伝えられる』。『コピ・ルアクやカペ・アラミドは、独特の複雑な香味を持つと言われており、煎り過ぎて香りが飛ばないように、浅煎りで飲むのがよいとされる。一説によると、ジャコウネコ腸内の消化酵素の働きや腸内細菌による発酵によって、コーヒーに独特の香味が加わるという』。『世界最大の消費地は日本や台湾、韓国などのアジア諸国で』、本邦では数社が『高級コーヒー豆として頒布を取り扱っている。コピ・ルアクやカペ・アラミドの高価格は、稀少価値がきわめて高いことが最大の理由であり、必ずしもコーヒー豆としての品質や味が最も優れているからというわけではない。実際のところコピ・ルアクやカペ・アラミドの味の評価は、好き嫌いがはっきりと分かれやすい。豊かな香りと味のこくを高く評価する向きもある反面、「ウンチコーヒー」("poo coffee")と茶化す向きもある』とある。コーヒーにさしたる志向性を持たない私は未だ飲んだことがないが、今度、試してみよう。なお、同ウィキによれば、他にアフリカでモンキー・コーヒーなるものがあるとされ、『また、排泄物ではないが、サルが関与したコーヒーが台湾にある。台湾の高地で栽培されるコーヒーの木の豆を野生のタイワンザルが食べ、種子のみを吐き出したものを集めて、コーヒーとしたものである。希少価値があるため、極めて高額で取引される』とあり、さらに『タイではゾウにコーヒー豆を食べさせた糞より集めたコーヒー豆で作るブラック・アイボリー(黒い象牙)というものがあり、コピ・ルアクより高額に取引される』とある。私としては象さんコーヒーの方がいいな!
「麝香鼠」哺乳綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ Suncus murinus Linnaeus, 1766(本邦産を亜種リュウキュウジャコウネズミ Suncus murinus temmincki Abe,
1997 とする説がある)ウィキの「ジャコウネズミ」より引用する。主棲息地はサバンナや森林・農耕地であるが、人里にも生息する。『東南アジア原産だが、アフリカ東部やミクロネシア等にも人為的に移入している。日本では長崎県、鹿児島県及び南西諸島に分布するが、長崎県及び鹿児島県の個体群は帰化種、南西諸島の個体群は自然分布とされているがはっきりとしていない』。体長十二~十六、尾長六~八センチメートル。体重♂四五~八〇、♀三〇~五〇グラムで、『メスよりもオスの方が大型になる。腹側や体側に匂いを出す分泌腺(ジャコウ腺)を持つことからこう呼ばれる。吻端は尖る。尾は太短く、まだらに毛が生え、可動域は狭い』。『食性は肉食性の強い雑食性で昆虫類、節足動物、ミミズ等を食べるが植物質を摂取することもある。よく動くが、その動作は機敏とは言い難い。繁殖形態は胎生』、一回に三~六匹の幼体を出産する。『子育ての時には幼体は別の幼体や親の尾の基部を咥え、数珠繋ぎになって移動する』(これを「キャラバン行動」と称する。リンク先に剥製画像)。『人間の貨物等に紛れて分布を拡大しており、アフリカ東部やミクロネシアなどにも分布する』。但し、『日本に分布する亜種リュウキュウジャコウネズミの起源は古く、史前帰化動物と考えられている』。『吐く実験動物として利用される。実験動物としてイヌ、ネコなどは嘔吐するが大型であり、ウサギ、ラット、マウスは小型で飼育しやすいが嘔吐しない。ジャコウネズミは小型で、薬物や揺らすことで吐くため嘔吐反射の研究に用いられるようになった。ネズミ類ではないことを強調するためスンクスと呼ばれる。肝硬変の実験のためエタノールを与えて飼育している際、吐いているスンクスを発見し応用されることとなった』。また、『英文学の翻訳で齧歯目のマスクラットをジャコウネズミと翻訳していることが間々あるため、注意を要する』とある。
『「あざらし」[やぶちゃん注:これは「海狸(ビーバー)」の誤り。]』例外的に本文内で注した。実は私の所持する講談社学術文庫版(改題して「生物学的人生観」)ではここが「海狸(かいり)(ビーバー)」となっており(「かいり」はルビ)、これが正しく、以下に記すように、これは哺乳綱齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属
Castor(アメリカビーバーCastor Canadensis・ヨーロッパビーバー Castor fiber の二種)が持つ臭腺から採られた海狸香(かいりこう)を指していると考えられるからである。少なくともアザラシに肛門腺があり、そこから香料が採れるという話は私は聴いたことがない。但し、これは丘先生の誤りではない。何故なら、本底本に先行する開成館版(大正五(一九一六)年刊行本。国立図書館蔵本(近代デジタルライブラリー版の252コマ目を参照されたい)には正しく「海狸」と記されてあるからである。アザラシは「海豹」で、思うにこの底本(東京開成館大正一五(一九二六)年刊行本。同書の先行作と同じ部分の画像)に於いては丘先生ではない助手か誰かが主に表記・表現の一部の改稿をしたのではなかったか? その際、読み難い漢字の「海狸」(ビーバー)を書き改めるというコンセプトがあり、これを「海豹」と誤って「あざらし」と読んでしまったのではないか? しかし、とすると、このトンデモ誤記が例えば生物学教室の助手の手になるとは考え難い(考えたくもない)。もしかすると、この底本の改稿は全く生物の知識のない校正者に丸投げされていたものかとも思われてくるのである。しかしとすると逆に、責めがないと思われた作者の丘先生が校了原稿をちゃんと読んでいなかったのじゃないかとも疑われるのである。孰れにせよ、本邦生物学啓蒙書の嚆矢としては、ちょっと看過出来ぬ誤りではある(私は丘先生の揚げ足を取っているのでは決してない。科学書しかも啓蒙書というものはこうした箇所は箇所として正しく批判されねばならないものと心底真面目に心得ているのである)。とはウィキの「海狸香」から引く。『海狸香は、ビーバーの持つ香嚢から得られる香料である。カストリウム
(Castoreum)とも呼ばれる』。『ビーバーはオス、メスともに肛門の近くに一対の香嚢を持っており、香嚢の内部には黄褐色の強い臭気を持つクリーム状の分泌物が含まれている。この分泌物を乾燥させて粉末状にしたものが海狸香である。これをアルコールに溶解させてチンクチャーとしたり、有機溶剤で抽出してレジノイド、さらにアルコールで抽出してアブソリュートとして使用する。
ビーバーにはヨーロッパビーバーとアメリカビーバーがいるが、どちらも同じように海狸香が得られる』。『海狸香の使用の歴史は、麝香、霊猫香、龍涎香といった他の動物性香料に比べるとずっと新しい』。十九世紀までは『ビーバーを毛皮を獲るために捕獲する際に、捕獲罠に塗る誘引剤として使用されていた。その後、香水用素材としての有用性が認められ、商業取引されるようになった。レザーノートと呼ばれる皮革様の香りを出すために香水に主に使用されていた。ビーバーが乱獲により著しく生息数が減少したため、一時期絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(ワシントン条約)により取引が禁止された。そのため合成香料による代替が進められ、高価であることもあって使用量は少なくなっている』。『ヨーロッパビーバー由来の海狸香とアメリカビーバー由来の海狸香では若干香りの質が異なっているとされる。ヨーロッパビーバー由来のものの方が皮革様の香りが強く品質的には高いとされている。アメリカビーバー由来のものは樹脂様の香りがする。この香りの違いは、ビーバーの食性の違いによるものという説がある。毛皮を獲るために捕獲されたビーバーは主にアメリカビーバーのものであったため、市場での流通量はアメリカビーバー由来のものの方が多かった』。『成分はクレオソール、グアイアコールなどのフェノール系化合物が特徴である。また、カストラミンをはじめとするキノリジジン骨格を持つ一群のアルカロイドが含まれている。その他、トリメチルピラジンやテトラヒドロキノキサリンなどのヘテロ芳香族化合物が含まれている』とある。残念なことに私は、この香りを味わったことは未だない。
「昆蟲類で香をもつて異性を誘ふものは蝶蛾の類に多い」蛾での研究によって性フェロモンの研究が飛躍的に進んだと私は認識している。こちらのPDFファイルの「蛾類性フェロモン」が初歩から最新の科学解説までコンパクトにフリップ化してある。必見!
「蠶なども雌の生殖門の處に小さな香を出す腺があり、雄はこの香を慕うて集まつて來る」個人サイト(筆者は繊維部門の技術士)「Yagiken Web Site」の「カイコ蛾の性フェロモン」が非常に分かり易くて必読である! 少し引用させて戴くと、
《引用開始》
今でも記憶しているが、カイコ蛾のメスが発する物質は、10のマイナス12乗ガンマあれば、2km離れたオスのカイコ蛾を誘い寄せると聞いて、ヘーと思ったものである。40年前の記憶なので数字が正確かどうかは自信がない。このようなメスがオスを誘引する物質を性フェロモンという。
<性フェロモンの正体>
カイコ蛾のメスが持つ性フェロモンの正体はとっくの昔(1959年)に解明され、「ボンビコール」と名付けられたアルコールであることが分かっている。解明したドイツの化学者は、当時はまだ絹の国であった日本からカイコの蛹を輸入してメス蛾を羽化させ、そのお腹から性フェロモンを抽出して正体をつきとめた。抽出に使ったメス蛾の数は50万頭と、途方もない数だったらしい。
絹の国日本の当時の科学者達は、同じ敗戦国であるドイツの化学者のカイコを材料としたこのような大発見に、賞賛とともに残念な気持も持ったということである。
それはさておき、カイコ蛾のオスはそのような性フェロモンを感じる超鋭敏なセンサーを持っている。ところがこのセンサーがどういうものかは、分かっていなかったのである。そのセンサーをずっと追求していた研究者が日本にいた。
<センサーの正体の発見>
2004年11月16日の朝のNHKテレビや新聞は、性フェロモンを感じるオス蛾のセンサー遺伝子が見つかったと報道した。発見者は今度は日本の化学者で、京都大学農学研究科の西岡孝明教授のグループである。ボンビコールの発見から45年間経って、やっとセンサーの正体が解明されたわけである。[やぶちゃん注:ここに2004年11月16日附「日本経済新聞」の「性フェロモン 感じる遺伝子」という見出しの記事画像有り。]
[やぶちゃん注:中略。]
<カイコ蛾が超鋭敏なセンサーをもつ理由>
ここで一つの疑問があった。超微量の性フェロモンと超鋭敏なセンサーの関係が解明されたことは分かったが、カイコ蛾はなぜこんな超鋭敏なセンサーを持つのかという疑問である。何もそこまで鋭敏でなくても種の保存は可能なのではないか。しかしそこには超鋭敏でなければならないちゃんとした理由があった。
西岡教授から頂いた資料には、カイコのメスは蛹から羽化して蛾になった後、約1週間でその一生を終えるとある。その短い期間にオスと出会って交尾をし産卵しなければならない。しかし野生の蛾の存在密度は極めて低い。蛾にとっては世間は広く、同じ種類のオスとメスが出会うことは奇跡に近い。
そこで神様が、メスに性フェロモンという武器を与え、オスに超鋭敏なセンサーを与えて、1週間の生存期間の間にオスとメスの出会いを実現させる仕組みを作ったというわけである。つまりカイコ蛾オスのセンサーは極めて鋭敏でないと種の絶滅につながるので、鋭敏でなくてはいけない理由が立派に存在するのである。
[やぶちゃん注:以下、略。必ず、リンク先の全文をお読み戴きたい。]
《引用終了》
なお、「Nature Japan K.K.」のこちらの二〇〇八年九月二十五日の記事「蛾のオスが近くのメスにだけ聞こえる超音波を出して求愛することを発見」によれば、『アワノメイガの仲間では、複数の種が同じような成分を持つ性フェロモンを使っており、交尾時における種の識別には性フェロモンによる情報に加えて音(超音波)を使っている可能性があることが中野亮研究員(日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院農学生命科学研究科応用昆虫学研究室)らによる先行研究から示唆されていた』が、『中野研究員は、最近、(独)森林総合研究所、南デンマーク大学、電気通信大学、NHK放送技術研究所との共同研究で、アワノメイガのオスが翅と胸部の特殊な鱗粉を使って、微弱な超音波による求愛歌を奏でることを発見した』。『鱗粉はもともと翅と体表面の保護のために発達したと考えられているが、メスへのアピールや天敵に対しての威嚇のための模様の形成にも使われており、一部の蝶では鱗粉が性フェロモンを発していることが知られている。しかし、交尾のときに鱗粉をこすって超音波を出すことが証明されたのは初めてのこと』であるとある。引用の堆積となったが、この辺りで本段の注を終わりとする。]
佐藤春夫は来年で著作権満了――一年後に梅崎春生――俺の生きてるうちにやりたいことを――奪うなや!!!
よし! やろうか? 龍之介! 誰も到達しないお前に!
[「さんせううを」]
[(左)雌 (右)雄]
[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をしたものである。底本の図より細部が観察出来るのでこちらを採用した。]
先づ色によつて相手を誘ふものの例を擧げて見るに、魚類の中には産卵期が近づくと特に體色が美麗になつて、著しく艷の增すものがある。魚學者はこれを「婚禮衣裝」と名づける。雌がこのために誘はれるか否かは聊か疑問であるが、かやうに美しくなつた雄は必ず雌を追ひ廻し、自身の體を雌の體に擦り附けなどして、終に雌をして好んで卵を産むに至らしめるから、やはり一種の誘ひと見做して宜しからう。淡水に産する「たなご」・「おひかは」の如き普通の魚類もこの例である。また「さんせううを」の類にも産卵期が近づくと、雄の背に沿うて鰭の如き褶が生じ、尾の幅も廣くなつて、體色も著しく美しくなるものがあるが、これも色によつて相手を誘ふ一例である。かよやうな例はなほ幾らもあるが、動物中で最も美しい色を以て異性の注意を求めるものは何かと問へば、これはいふまでもなく蝶と鳥とであらう。しかし感覺の力の進んだ動物では、雌雄相誘ふに當つても單に一種の感覺のみに賴ることは稀で、多くは種々の感覺に合せ訴へ、美しい色を示すと同時に、好い聲を聞かせ面白い踊りを見せなどするもので、鳥類の如きもその動作の頗る込み入つた場合もあるから、これはさらに次の節に述べることとしてこゝには略する。
[蝶の香毛]
[やぶちゃん注:本図も国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングした(これに限って同定を乞うために原画像の処理はしていない)。底本の図より細部が観察出来るのでこちらを採用した。]
[やぶちゃん注:丘先生には珍しく、ここで挿入した挿絵(後の図)には本文にはない「蝶の香毛」というキャプションが入っている。これは一部の蝶や蛾が持つ発香毛束と呼ばれる器官で、丘先生の図では尾部の先端に球状に出ている。蝶コレクターならば一瞬にして種の同定をなされると思うのであるが、図が単色であること、私が昆虫類が苦手なため、紋からいい加減な同定をしても、その同定種の発香毛束の有無を知る術がないことから、ここは図を示して識者の御教授を乞うこととしたい(但し、丘先生の示した蝶が本邦産種である保証はない)。
Kojiro Shiraiwa 氏の蝶の百科ホームページ「ぷてろんワールド」の「ルリオビタテハ族(Preponini)のページ」によれば、世界でも最も美しい蝶とされる南米の鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科フタオチョウ亜科ルリオビタテハ族 Preponini の特徴の一つとして、『後翅腹部側にオスだけに見られる黄色または黒色の発香毛束があります。これは香鱗の様なもので、交尾の際に利用されると思われていますが、まだ観察例は報告されていません』とある。
また、一部には、この発香毛束や発香性の鱗粉である香鱗(こうりん。後注参照)を格納しておいて反転して露出させることが可能な嚢状のコレマタ(coremata)と称する器官を持っているものもいる(私が動画で見たものは鱗翅(チョウ)目ヒトリガ科ヒトリガ亜科 Chionarctia 属シロヒトリ Chionarctia nivea 。ここ。死亡個体へ空気を送って拡張させている。非常に長大である。但し! 凡そ、この手のものに耐性無き者は見るべからず!)。
以下、「香鱗」の語注を附したいが私は昆虫に暗いので、Kojiro Shiraiwa 氏の蝶の百科ホームページ「ぷてろんワールド」の「用語解説」の記載を参考にさせて戴いた。なお、以下、参考になると思われる語をも芋蔓式に幾つか引かさせて戴いてある。
*
・「香鱗」(Scent Scales):発香鱗・性紋(せいもん Scent Patch)とも呼ぶ。蝶の鱗粉の中で、ある種の臭いを発する鱗粉のこと。通常の鱗粉とは形状も異なり、多くの蝶の♂が♀を刺激するのに使用される。種類によっては発香鱗は通常の鱗粉の中に紛れ込んでいたりしているが、発香鱗が集まり性標(次注参照)を作ることもある。
・「性標」(せいひょう Scent Patch):香鱗により構成される翅にある模様。♂のみに見られる特徴で、♂の「求愛行動」(次注参照)に於いて♀を刺激する物質が含まれていると言われている。
・「求愛行動」:♂が♀と交尾するために行う行動。通常♀の前で翅を見せたり、震わせたりする。種類によってはヘアペンシル(次注参照)や発香鱗より放たれるフェロモンなどを利用するものもいる。
・「ヘア・ペンシル」(Hair Pencil):マダラチョウ亜科やドクチョウ亜科の蝶の仲間に見られる、腹部先端にある黄色のブラシ状の毛束器官。主に♂が♀に対して交尾を促す際に使われ、捕獲されたときも天敵等に対しての威嚇として使われる。通常は腹部に納められていて見えない(上記のコレマタに似ている)。
*
「婚禮衣裝」婚姻色。
『「さんせううを」の類にも産卵期が近づくと、雄の背に沿うて鰭の如き褶が生じ、尾の幅も廣くなつて、體色も著しく美しくなるものがある』これも非常に難航した。本邦産両生類の婚姻色はアカハライモリやカエル類では多くの記載が見出せるのであるが、両生綱有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ類は世界で約五百種、本邦でもオオサンショウウオ科 Cryptobranchidae オオサンショウウオ属 Andrias を含め、凡そ二十種が棲息しているが、個体数が激減し採取飼育が禁じられている者も多く、そのために個人での飼育例情報の記載が少ない。辛うじて、婚姻色を示すことが確認出来たのは、ブチサンショウウオだけであった。但し、その画像を見る限りでは丘先生の掲げる絵のような派手なものではない。サンショウウオ科 Hynobiidae サンショウウオ属 Hynobius ブチサンショウウオ Hynobius naevius は鈴鹿山脈以西の本州・四国・九州の主に標高三百~七百メートルの丘陵地に多い(但し、紀伊半島沿岸地方では百メートル未満の低地に生息)。繁殖期は二月下旬から五月頃、陽光の差さない薄暗い渓流の細流や伏流水中に産卵する。全長は八〇~一三〇ミリメートル(以上のデータは個人サイト「両生類(AMPHIBIANS)びっきぃ と やまどじょう」のこちらに拠る(同種の画像有り)。但し、婚姻色云々はこの方のページの情報ではない)。そもそもが丘先生が示した図のサンショウウオが本邦産である確証はない(寧ろ、低いかも知れない)。かなり激しい婚姻色(というより交尾時の雌性異形変態とでも呼ぶべき異形(いぎょう)である)この同定も識者の御教授を切に乞うものである。
【追記】以上をネット上に公開したところ、即座にフェイスブック上で昔の教え子が美事に解明してくれた。以下、同記事に対し、まず『サンショウウオの方なんですが、ダーウィンの「人間の進化と性淘汰(The Descent of Man, and Relation to Sex)」に例として出てくる、Triturus 属のどれかだと思います。良い写真が見つからなかったのですが』とした上で“National
Geographic”の“Warty Newt Triturus
cristatus”のページがリンクされた。その後、再コメントがあって、そこでは『このあたりでしょうか...?』として英語版ウィキの“Danube crested newt”のリンクを附してくれた。これは同じTriturus 属(クシイモリ属/旧ヨーロッパイモリ属)の Triturus dobrogicus (Kiritzescu, 1903) のページである。そこでグーグル画像検索で「Triturus
cristatus」と「Triturus
dobrogicus」とを見比べてみた。孰れも、この挿絵の同定候補として引けを取らぬ。この画像比較では「Triturus
dobrogicus」の方がやや派手目に見えるのであるが、ともかくもこれらの種を検索してみる。すると、いらした! いらした! Dr. GRUMMAN氏(生物学博士号取得者)! 彼のサイト内の「Dr.
GRUMMAN's HERPETARIUM 両生類(有尾類) SALAMANDARIUM (Tailed
Amphibians)」の中に、
ダニューブクシイモリ Triturus dobrogicus
と和名が示され、それぞれのページで生態写真及び解説が附されてある。この記載を読むと、少なくとも背鰭の変異部分はダニューブクシイモリ
Triturus dobrogicus が最大であると記されてある(大きいことと派手であることは必ずしも一致しないが、少なくとも大きいのは先の画像の印象と異なりホクオウクシイモリではなくてダニューブクシイモリの方だということ)。挿絵は単色であり、これ以上同定するのは無理かと思われる。ともかくもこの挿絵のそれはクシイモリ属Triturus と同定してよいかと思われる。教え子及びDr. GRUMMAN氏に感謝申し上げる。]
三 色と香
雌雄の動物が互に相近づくために、自己を示して相手の注意を引くには、感覺の力に訴へるの外に途はないが、その際如何なる感覺が主として用ゐられるかは、素より動物の種類によつて違ふ。眼のよく發達した種類ならば、色の模樣により、耳のよく發達した種類ならば、音聲により、鼻のよく發達した種類ならば、香によるのが常で、雄が美しい色を示せば、雌はこれを見て慕ひ來り、雌が好い香を發すれば、雄はこれに引かれて集まる。鳥類は眼と耳とがよく發達して、中でも視力は動物中の一番に位するが、鼻の感覺は餘り鋭くない。それ故美しい色と好い聲とで相手を誘ふものはあるが、香を發するものは殆どない。これに反して、獸類は鼻が非常によく發達して、隨分遠くからでも香を嗅ぎ附ける。犬が探偵に用ゐられ、鹿が風上の獵師を知るのはこのためである。普通の獸類の鼻の切り口を見ると、嗅ぐ神經の擴がつて居る粘膜は恰も唐草の如くに複雜な褶をなして、その空氣に觸れる面積は實に驚くべく廣いが、これによつてもその嗅ぐ力の非凡なことが推察せられる。されば獸類には香を發して異性を引き寄せるものの頗る多いのも不思議でない。人間ももし鼻の内面の粘膜が犬などの如くに複雜な褶をなして、嗅感が犬の如くに鋭かつたならば、必ず繪畫・彫刻・詩歌・音曲よりも更に一層高尚な香の美術が出來たに相違ないが、人間の嗅感は極めて鈍いから、美術といへば殆ど目と耳とに訴へるものに限り、終に鼻で味ふ美術が發達するには至らなかつた。昆蟲類などには、音や香によつて雌雄相近づく種類が頗る多くあるが、遙に下等の動物には神經系の構造も簡單で、感覺器の發達も不完全であるから、兩性の相誘ふために特殊の手段は餘り行はれぬやうである。
[やぶちゃん注:「鳥類は眼と耳とがよく發達して、中でも視力は動物中の一番に位するが、鼻の感覺は餘り鋭くない。それ故美しい色と好い聲とで相手を誘ふものはあるが、香を發するものは殆どない」この「殆ど」という部分が気になり、ちょっとネットを調べてみてもなかなか見当たらない。専ら、鳥類は性フェロモンは分泌しないようである、という記載が目立つのであるが、どうも気になる。そのような中、立教大学動物生態学研究室公式サイト内の同理学部生命理学科教授上田恵介氏が御自身の書評ページ内で、William C. Agosta 著・木村武二訳「フェロモンの謎」(東京化学同人社刊。実はこの本、私も読んでいるはずなのであるが、書庫の山の底に沈んでドレッジ出来ない。恐らく私がこの部分が妙に気になったのは愚鈍ながらも私の脳がどうもこの本を読んだ記憶を残していたかららしい)を取り上げられており、その中で