『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 永福寺蹟
●永福寺蹟
大塔宮土籠の北方(ほくはう)にあり。今尚柱礎四隅に存す。故に其前の小路を四石小路と呼べり。是は文治五年。賴朝奥州より凱旋の後奥の大長壽院の二階堂を擬(ぎ)して。當所に二階堂を建立し。三堂山永福寺と號す。〔土俗光堂或は山堂と唱へしとぞ〕
當寺古昔は無雙の大伽藍たり。海道記並に東關紀行に其模樣を載せり。當時全く廢せしは卓享德の頃なるベし。
[やぶちゃん注:「永福寺」は「ようふくじ」と読む。まずは「新編鎌倉志卷之二」の以下の記載を引いておく。
《引用開始》
○永福寺舊跡 永福寺(えいふくじ)舊跡は、土籠(つちのろう)の北の方なり。昔二階堂の跡なり。里俗は、山堂(さんだう)とも光堂(ひかりだう)とも云ふ。田の中に礎石今尚を存す。俗に四石(よついし)・姥石(うばいし)など云あり。【東鑑】に、文治五年十二月九日、永福寺の事始也。奧州に於て、泰衡管領の精舍を御覽ぜしめ、當寺の華構を企てらる。彼の梵閣等並宇之中(宇を並ぶる中)、二階堂あり。大長壽院と號す。專らこれを摸モせらるに依て、別して二階堂と號す。建久三年十一月廿日、營作已に其の功を終ふ。御臺所御參(をんまいり)とあり。其の外池(いけ)をほり、阿彌陀堂・藥師堂・三重の塔・御願寺等建立の事あり。元久二年二月、武藏の國土袋の郷を、永福寺の供料に募らるとあり。貞永元年十一月廿九日、賴經將軍、永福寺の林頭の雪覽給(みたまは)ん爲に渡御、倭歌の御會あり。但し雪氣雨脚に變ずるの間だ、餘興未だ盡ずして還御す。路次にて判官基綱申して曰く、
雪爲雨無全(雪雨に爲に全き無し)。武州泰時これをきかしめ給ひ、仰(をほせ)られて云く、「あめの下にふればぞ雪の色も見る」とあれば、又基綱、「三笠の山をたのむかげとて」とあり。【梅松論】に、義詮(よしあき)の御所、四歳の御時、大將として。御輿(みこし)にめされて、義貞と御同道有て、關東御退治以後は、二階堂の別常坊に御座ありし、諸士(さむらひ)悉く四歳の若君に屬し奉りしこそ、目出(めでた)けれとあるは、此寺の別當坊也。
《引用終了》
ここに「四石」は出るが、「四石小路」というのは初耳である。確認してみると「新編相模国風土記稿」が、この記載の元ネタであることが分かった。但し、同書が記す膨大な事蹟資料を殆んどカットして「當時全く廢せしは卓享德の頃なるベし」に繋げてある。ただ、この「四石小路」という名称は一般的な鎌倉地誌ではまず見かけない記述で、まずは良記載と言えるように思われるのである。
永福寺は実に近年になってその全貌が明らかにされた。私がごちゃごちゃ言うよりも『「国指定史跡永福寺跡」のコンピューターグラフィックによる復元』というページが雄弁に物語ってくれている。ここがあれば、最早、私の注など糞みたいなものだろうから、もう、丸投げすることにした。(というよりも、これは「新編相模国風土記稿」を電子化せずんばならずという私の中に生まれたおぞましき欲求の表現と受け取って戴いて……よい!……)
「文治五年」西暦一一八九年。]
« 橋本多佳子句集「海彦」 冬 炉火いつも | トップページ | 『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 獅子巖 »