日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 桜島と開聞岳
図―565
図―566[やぶちゃん注:上図。]
図―567[やぶちゃん注:下図。]
間もなく夜があけた。如何にも景色がよいので、到底暑いむしむしする船室へ下りて行く気がしない。六時、我々は汽船から小舟に乗りうつって上陸した。鹿児島附近の景色は雄大である。町の真正面の、程遠からぬ所に、頂を雲につつまれた堂々たる山が、湾の水中から聳えている。これは有名なサクラジマ即ち桜の木の島である(図565)。図566は鹿児島の向うの桜島山の輪郭を、鹿児島の南八マイル、湾の西岸にある垂水(たるみ)〔大隅の垂水ならばこの記述は誤である。後から「湾の東にある元垂水」なる文句が出て来る〕湾を越して西に開聞岳(かいもんだけ)と呼ばれる、非常に高い火山がある。これは富士山のような左右均等を持っていて、四周を圧している。ここに描いた斜面は、疑もなく余りに急すぎるであろうが、私にはこんな風に見えた(図567)。市の背後には低い丘がある。
[やぶちゃん注:モースの鹿児島着は明治一二(一八七九)年五月二十二日早朝と推定されている(磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」に拠る)。ここにモースがデッサンを残す桜島であるが、どうも私の知っている桜島の山容とちょっと異なるように思われる。特に麓の部分の溶岩ドーム状の形態は現在の形状と異なる(ように見える)。モースが見た後の三十六年後に起った大正の大噴火(ウィキの「桜島」によれば、大正三(一九一四)年一月十二日に噴火が始まり、その後約一ヶ月間に亙って頻繁に爆発が繰り返されて多量の溶岩が流出、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸びて海峡(距離最大四百・最深部百メートル)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになったとある)によって山容が変化したものか? それともこう見える位置があるのか? 識者の御教授を乞うものである。
「垂水」底本では珍しく石川氏による誤記注記の割注が、『〔大隅の垂水ならばこの記述は誤である。後から「湾の東にある元垂水」なる文句が出て来る〕』と出る。これは翌日行った大隅半島の垂水(元垂水)という地名と鹿児島湾とを混同した記載であろう。それでも『西岸にある』という言い方はやはりおかしい。
「八マイル」一二・八七キロメートル。因みに、鹿児島から鹿児島湾の西岸の約十三キロ地点は五位野の沖合辺りになる。位置的には開聞は十分に見えるはずである。
「市の背後には低い丘がある」この視点は鹿児島港であろうから、背後の丘とは城山と考えてよいであろう。]