橋本多佳子句集「海彦」 冬 凍湖
凍湖
諏訪湖の凍るを見に再びの来信を約せし
伊東槇雄氏僅か十数日のちがひにて急逝
さる。訪ひて霊前に額づく
漁夫の櫂わが眼の寒湖かきたつる
[やぶちゃん注:「伊東槇雄」年譜の昭和二九(一九五四)年の条に、『一月十一日、諏訪の凍湖を見に信州に行き、伊東総子方に泊る。諏訪湖の凍るのを見に、再び来信を約束した伊東槙雄は、僅か十数日のちがいで既に急逝。多佳子は深く霊前に額ずく』とある。多佳子はこの前年の三月にも諏訪を独り旅で訪れており、その際にもこの伊藤総子の家に泊っている(後掲)。年譜は伊東総子を名を最初に掲げているので、彼女が多佳子の俳句仲間であったか? この夫と思しい人物については不詳。同姓同名で「朝日新聞」のこちらの記事に載る、戦前戦中に製糸会社経営で京城(現在のソウル)で成功し財を成した(但し、敗戦で総てを失って帰国とある)朝鮮古陶磁の収集家とある人物と同一人物か?]
まどゐの燈ときに賭しや湖(うみ)凍つるか
凍潮青し指に纏(ま)きもつ木の葉髪
沖の鴨群それへいそげる鴨の翅
赤彦の氷魚(ひを)かも真鯉生きて凍て
[やぶちゃん注:島木赤彦(明治九(一八七六)年~大正一五(一九二六)年)の第三歌集は「氷魚」であるが、短歌嫌いの私には表題作を知らない。識者の御教授を乞うものである。]
月一輪凍湖一輪光りあふ
[やぶちゃん注:年譜により、この一句は間違いなく昭和二九(一九五四)年一月十三日の夜の景であることが分かる。この日、初めて(多佳子滞在中かこの年初めてかは厳密には分からないが、後者であろう)諏訪湖が凍っている。]
八ツ嶽山麓夜久野に「寒天」造りを見る。雪
野日に眩し
雪原の昼月(ひるづき)乾し寒天軽き
[やぶちゃん注:「夜久野」年譜によれば一月十二日の嘱目吟であるであるが、年譜にも『八ヶ岳の夜久野』とあるのだが、この「夜久野」という地名は私は知らない。ネットにも何故かかからない。識者の御教授を乞うものである。]
寒天煮るとろとろ細火鼠の眼
家鼠を見て野鼠が走るや雪明り
子を呼ぶや寒天の反射雪の反射
雪の上餌あるや雀胸ふくらみ
白き山白き野寒天造りの子
諏訪地酒「舞姫」いま寒醸りにいそがし
雪の酒庫男の手力扉(と)を開くる
[やぶちゃん注:年譜に、一月『十三日、降る雪の中、諏訪地酒の「舞姫」の寒造りを見て、新酒の香に酔う。その夜、初めて待望の諏訪湖凍る』とある。「舞姫酒造」公式サイトはこちら。]
酒湧くこゑ槽に梯子をかけ覗く
糀室(むろ)出し髪すぐに雪がつく
松本に那須風雪居を訪ふ
赤子泣き覚めぬひとの家雪明し
[やぶちゃん注:「那須風雪」不詳。年譜に一月『十四日、雪やむ。塩尻峠をバスで越えて、松本に行く。十五日、那須風雪居に泊る』とある。俳友であろう。]
穂高白し修理の小城被履して
寒念仏追ひくる如く遁げゆく如く
穂高の熊飼れて
熊が口ひらく旅の手に何もなき
小諸へ
[やぶちゃん注:年譜に、一月『十八日、長野市の木口奈良堂宅に着く。長元峰の鷹の巣を見に行く。二泊し、二十日、上田市で「青燕」の人たちと会う。二十一日、朝、小諸の小林朴壬居に着く。雪の懐古園を歩く。夕方、出張中の堀内薫、僕壬居に着く。胴まわり一尺に近い寒鯉の甘煮を食べ、多佳子はこんな脂っこいのが好きだと喜ぶ』とある(因みに私は「長元峰」という山を知らない。もしや、これはハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ属チョウゲンボウ(長元坊)Falco tinnunculus の巣のことではあるまいか?)。]
雪原に踏切ありて踏み越ゆる
落葉松(からまつ)を仰げば粉雪かぎりなし
雪原や千曲が背波尖らして
雪原のわれ等や鷹の眼下にて
火の山へつゞく雪野に足埋め立つ
雪野のかぎり行きたし呼びかへされずに
土間は佳(よ)し凍雪道の長かりしよ
天然水採取場吟行
氷上を犬駆ける採氷夫が飼へり
[やぶちゃん注:年譜に、一月『二十二日、軽井沢の天然氷採取所に吟行。夕方東京着』とある。軽井沢の渡辺商会か(長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢旧軽井沢)。菊水酒造公式サイトのこちらの記事がよい。軽井沢ならではの歴史を持っていることがよく分かる。現在、首都圏近縁では日光三軒(吉新氷室・松月氷室・三ツ星氷室)、秩父一軒(阿左美冷蔵)とこの軽井の渡辺商会の五業者のみが天然氷の生産販売を行っていると
minifreaker さんのこちらの記事にある。]
採氷夫焚火に立ちて雫する
なほ信州にあり、上田にて
遠灯つく千曲の枯れを見て立てば
藁塚も屋根も伊吹の側に雪
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