北條九代記 卷第七 雷神 付 將軍家御退居問答勘例
巻之七に突入――この程度のエエカゲンな陰陽師なら……俺でもなれる気がするぜい!……
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鎌倉北條九代記 卷第七
〇雷神 付 將軍家御退居問答勘例
同六月九日、酉刻計(ばかり)に、黑雲打覆いひ、俄に夕立、降出でつゝ、闇暗(くらやみ)の如く成りて、電光(いなびかり)、擊耀(げきえう)し、霹雷(はたゝかみなり)、空に渡り、間(ま)なく時なく鳴りけるが、人民、胆神(きもたましひ)を失ふ所に、御所の車宿(くるまやどり)、東の母屋(もや)の上に落懸り、柱は碎けて、破風(はふ)は落ちたり。後藤判官が下部(しもべ)一人、是に打たれて死にけるを、莚(むしろ)に包みて土門(つちもん)より出しけり。同十四日、相摸守時房、武藏守泰時、參られたり。隱岐(おきの)入道行西(ぎやうさい)、駿河〔の〕前司義村、民部〔の〕大夫入道行然(ぎやうねん)、加賀守康俊、彈正忠季氏(うぢ)等(ら)候(こう)じて、西の廊に會せられ、去ぬる九日の雷震(らいしん)のことに依(より)て、觸穢(しよくゑ)あるべき歟、將軍家御所を避(きら)しめ給ふべき歟、御占(おんうらなひ)に付けて、吉凶に委(まか)さるべきの由、評議に及びけり。季氏、申されけるは、「先規(せんき)、分明(ぶんみやう)ならず。兆(うらかた)の吉凶に依るべきか。醍醐(だいごの)天皇の御宇、延喜八年六月二十六日、淸凉殿の坤(ひつじさる)の柱の上に、霹靂(へきれき)し、大納言淸貫(きよつらの)卿、右中辨希世(まれよの)朝臣、忽に雷火(らいくわ)に依て、薨ぜらる。天子は常寧殿(じやうねいでん)に入御(じゆぎよ)しましますといへども、觸穢の沙汰は是なし」と。隱岐入道申されしは、「延喜の例は不吉なり。同八月三日、御位を隱居(おりゐ)給ひ、同九月二十九日に御事ましませり。况(いはん)や常寧殿へ入御ありし上は、遷幸(せんかう)と申すべし」と。義村申されけるは、「右大將家、奥州の泰衡を攻(せめ)られし時、御陣中に雷落ちたり。承久の兵亂の時、右京兆(うきやうてう)義時の竈(かまど)の上に、雷落ちたる、皆、是、吉事なり。恠異(くわいい)、觸穢の義にあらず」と。康俊申しけるは、「先例は知らず、御占の上にして、御沙汰あるべきか」と、異議區々(まちまち)にして一決せず。七人の陰陽師等(ら)を召して、占はせらる。泰貞朝臣申しけるは、「雷(らい)の落るは何方も同じ。御所を避(さ)らしめ給はんことは、如何(いかゞ)候はん」と。晴賢(はるかた)申して曰く、「雷の落ちたる所には觸穢あり、居(を)るべからず。金匱經(きんききやう)及び初學記(しよがくき)に見ゆ。不快の所は避らしめ給ふにあり」と、重宗申して曰く、「京邊に雷の落ちたる所々避り給ひし例なし。この御所に限りてその儀あるべからず」と。師員(もろかず)が曰く、「後京極殿は將軍家の御先祖なり。大炊殿(おほひどの)におはしましける時、雷震ありしかども、避らしめ給はず。彼(か)の御子孫當(たう)攝政迄も愈(いよいよ)御繁榮、日々に是、新(あらた)なり。頗る佳例ならずや」と。晴賢、難じ申しけるは、「御子孫の榮貴(えいき)は左右(とかう)に能はず。但し、大炊殿は幾程もなく焼崩(やけくづ)れて、今に荒(あれ)に就き、一宇の御所も是なし。其御身、僅(わづか)に、三十八歳にして、御頓滅(ごとんめつ)あり。最上の吉綱にあらざるか」と。三浦義村、この議を甘心(かんしん)す。「是非に就きて、占申せ」と御出さる。七人の内二人は「別事なし」と申す。五人は御所を去り給ふべき由を占申す。多分の議に付きて、武州泰時の亭に入御あるべきに定りけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜二(一二三〇)年六月九日及び六月十四日の条に基づくが、以下に引用する「吾妻鏡」の六月十四日の条で陰陽師の親職(ちかもと)と晴幸(はるゆき)が「鷺と雷雨と恠異、重疊」と述べているように、実はこの四日前の五月五日には御所の屋根の上に白鷺が多数舞い降りたため、それを「怪」として、翌六日にこの陰陽師オール・スター・キャストを御所の西の廊に招聘して吉凶を占わせ、さらにやはり、このことによって将軍の居所移すべきか否かの占いを実は一度行っているのである(この前月五月二十二日に将軍頼経(満十二歳)が鼻血を出して、月末に向けて病態が悪くなったという叙述が載り、彼らがナーバスになるのはそうした事実が強く影響しているように見える)。しかも以下に引くように、実はこの評定の間にも、六月十一日には九日のこととして、この夏の時期に、武蔵国で雪混じりの雨と雹が降るなど、異常気象が盛んに発生していたのであった。
「勘例」朝廷から諮問を受けた学者などが由来や先例などの必要な情報を調査し報告した「勘文」(かんもん)という。「勘」は「考える」の意で他に「勘状」「勘注」「注進状」とも称し、その中でも先例について調べ上げて上申したものを特に「勘例」と言った。
「酉刻」午後六時であるが、以下に見るように「吾妻鏡」では「酉の四點(してん)」とあるからそれより後の午後六時半頃が落雷のあった時刻で、同じく「吾妻鏡」には打たれた男は「戌の尅」、午後八時頃に亡くなった旨の記載がある。
「車宿」牛車や輿を入れておく建物。
「破風」屋根の切妻にある合掌形をした装飾板。また、それに囲まれた三角形の箇所。
「後藤判官」後藤基綱。頼経の側近で評定衆の一人。
「隱岐入道行西」二階堂行村。以下、評定衆。
「駿河前司義村」三浦義村。
「民部大夫入道行然」二階堂行盛。行村の兄行光の子。行村よりも遙かに年下。
「加賀守康俊」三善康俊。
「彈正忠季氏」清原季氏。「彈正忠」「だんじょうのじょう/だんじょうのちゅう」と読み、古えには監察・警察を行う役職の一つ。しばしば聴く弾正台はその長官であるが、他の官職と同様、早くから有名無実化していた。但し、これはもやはり朝廷に公認された官職名であることに変わりはない。
「觸穢あるべき歟」穢れに触れたというべきか否か?
「御所を避しめ給ふべき歟」御所から別な場所へ御移徙(おんわたまし:貴人の転居を敬って言う語。)あらせらるべきか否か?
「先規、分明ならず。兆の吉凶に依るべきか」先行するぴったりした事例がなく、どうすべきかははっきりしない。従って、占ったその結果の吉凶によるべきではないか?
「延喜八年六月二十六日」延長八年の誤り。「吾妻鏡」から引き移した際の原稿の誤記か。道真の御霊によると噂された「北野天神縁起絵巻」などで知られる有名な清涼殿落雷事件である。以下、ウィキの「清涼殿落雷事件」から引く。延長八年六月二十六日はユリウス暦では九三〇年七月二十四日に相当する。この年は平安京周辺が干害に見舞われ、まさにこの六月二十六日にその『雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが』、午後一時頃から『愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ』一時間半後(実際には四時前後と推測される)、『清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した』。事実はこの二人だけでなく、『落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を、同じく紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も』二名が死亡している。『清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難した。だが、惨状を目の当たりにして体調を崩し』、そのせいかどうかは不明ながら、三ヶ月後に崩御している。『天皇の居所に落雷したということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷を操ったということとなり、道真が雷神になったという伝説が流布する契機にもなった』とある。
「坤」未申で南西。
「霹靂」は単に雷以外に落雷することも意味する。
「大納言淸貫卿」藤原清貫。藤原時平の下、昌泰四(九〇一)年に発生した昌泰の変では菅原道真の失脚と追放に深く関わったとされる。参照したウィキの「藤原清貫」によれば、『宇佐八幡宮への使者に任じられた折には、道真の見舞いを名目に大宰府を訪れ、帰京後に道真の動向を醍醐天皇や藤原時平に報告して』おり、『その後の忠平政権下で』は大納言にまで『順調に昇進し、太政官において、執政の左大臣・藤原忠平、天皇の外戚である右大臣・藤原定方に次ぐ地位を占め』たとある。彼は即死状態だった。享年六十四。
「右中辨希世朝臣」平希世(生年未詳)。ウィキの「平希世」によれば、『仁明天皇の曾孫。平朝臣姓を与えられ、臣籍降下する』。延喜一一(九一一)年に亭子院酒合戦に酒豪として参加しており、『右兵衛佐・内蔵権佐・五位蔵人を経て右中弁に任ぜられ、右馬頭を兼任』の後、内蔵頭、左近衛少将兼任、従四位下に叙された。雷撃は希世の顔を直撃して、『重傷を負い、修明門から外で運び出されるも、ほどなく卒去』とあり、『最終官位は従四位下行右中弁兼内蔵頭』であった。『この落雷事件で、共に落雷の直撃を受け薨じた大納言・藤原清貫は昌泰の変に関与したため、菅原道真の怨霊により報いを受けたと人々は噂したが、希世と道真との関係や、昌泰の変に希世が関与したかは不明』とする。とすれば、御霊天神の復讐劇の、文字通り、いい「面の皮」だったということになろうか。
「常寧殿」後宮七殿五舎の一つで、後宮のほぼ中央に位置する。
「延喜の例」は前記同様「延長」の誤記。
「同八月三日、御位を隱居給ひ」日付も誤り。醍醐天皇の退位(後は朱雀帝)は延長八年の九月二十二日。
「御事ましませり」醍醐天皇崩御を言う忌詞。
「義村申されけるは」話者が「吾妻鏡」の叙述と異なり、そこでは「助教」とあり、これは助(すけ)博士(本来は大学寮の職員。明経科にあって博士を助け、教授や課試を担当した)の中原師員(もろかず)の台詞である(後掲)。師員は中原親能の子で、大江広元の従姉弟に当たる評定衆の一人であり、頼経の側近としても重役を荷ったが、引いた例が奥州合戦のエピソードであり、筆者は確信犯でかく操作したものと思われる。
「右大將家、奥州の泰衡を攻られし時、御陣中に雷落ちたり」「北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート2〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉」の私の注の「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年八月七日の条辺りを指すか。
「承久の兵亂の時、右京兆義時の竈(かまど)の上に、雷落ちたる」「吾妻鏡」に載る記事で、承久の乱の勃発によって政子・義時が追討軍を京へ進発させた承久三(一二二一)年六月三日から五日後、既に官軍敗北の報知が伝えられた後の六月八日の条にある以下の事実を指す(書き下し文に《 》で注を入れた)。ここにも頼朝の陣への落雷の例が、また出る。
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〇原文
同日戌刻。鎌倉雷落于右京兆館之釜殿。疋夫一人爲之被侵畢。亭主頗怖畏。招大官令禪門示合云。武州等上洛者。爲奉傾朝庭也。而今有此怪。若是運命之可縮端歟者。禪門云。君臣運命。皆天地之所掌也。倩案今度次第。其是非宜仰天道之决斷。全非怖畏之限。就中此事。於關東爲佳例歟。文治五年。故幕下將軍征藤泰衡之時。於奥州軍陣雷落訖。先規雖明故可有卜筮者。親職。泰貞。宣賢等。最吉之由同心占之云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
同じ日戌の刻、鎌倉、雷、右京兆の館(たち)の釜殿(かまどの)《湯殿》に落ち、疋夫(ひつぷ)《下男》一人、之れが爲に侵され畢んぬ。亭主《義時》、頗る怖畏(ふい)し、大官令禪門を招きて、示し合いて云はく、
「武州等の上洛は、朝庭《朝廷》を傾け《悪しき動静を非難し》奉らん爲がためなり。而るに今、此の怪有り。若し是れ、運命の縮(しじ)まるべき端(ずい)か。」
てへれば、禪門《大江広元》云はく、
「君臣の運命、皆、天地の掌るなり。倩々(つらつら)今度の次第を案ずるに、其の是非、宜しく天道の决斷を仰ぐべし。全く怖畏(ふい)の限りに非ず。就中(なかんづく)に此の事、關東に於いて佳例なるか。文治五年、故幕下將軍、藤《藤原》泰衡を征するの時、奥州の軍陣に於いて、雷落ち訖んぬ。先規、明かと雖も、故(ことさら)に卜筮(ぼうぜい)有る可べし。」
てへれば、親職・泰貞・宣賢等、最吉の由、同心に之を占ふと云々。
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「金匱經」恐らくは「金匱要略」のことであろうか。「金匱玉函要略方論(きんきぎょくかんようりゃくほうろん)」とも称し、元来は後漢の張仲景が書いた「傷寒雑病論」の一部で、漢方では同じく張仲景の「傷寒論」とともに漢方の薬物療法書として尊崇される書物である。若しくは、それに基づく道教系の偽書かも知れぬ。
「初學記」唐代、玄宗の勅命によって徐堅らが編した辞書の一種。典拠となる古今の詩文を事項別に分類配列した、本来は作詩文の参考として編まれたもの(「初学」という名もそれに由る)。
「重宗」安陪重宗。陰陽師安倍氏の係累と思われるが詳細不詳。
「師員」前注参照。
「後京極殿」将軍頼経の祖父藤原(九条)良経(嘉応元(一一六九)年~建永元(一二〇六)年)。従一位摂政太政大臣。摂政太政大臣藤原忠通の孫で関白兼実の二男。一条能保の女を妻とした。建久七年の政変で反兼実派の丹後局と源通親らによって父とともに一時失脚したが、正治元(一一九九)年には左大臣として復帰、内覧から土御門天皇摂政となり、建仁四(一二〇四)年には太政大臣となった。
・「大炊殿」大炊御門殿。大炊御門北、富小路西にあった里内裏。元は左大臣藤原経宗の邸宅であったが、後白河院の御所とされたことで知られる。
「左右(とかう)に能はず」とやかく口を挟むべきことは出来ぬ事実ではある
「其御身、僅に、三十八歳にして、御頓滅あり」藤原良経は建久七(一一九六)年の政変によって失脚したが、正治元(一一九九)年には左大臣として復帰、その後は内覧から土御門天皇の摂政、建仁四(一二〇四)年には従一位太政大臣となったが、元久三(一二〇六)年の深夜、享年三十八歳の若さで不審な突然死を遂げている。
「最上の吉綱にあらざるか」それを鑑みれば雷撃の経験は必ずしも最上の吉例とは言えぬのであるまいか?
「甘心」感心。
以下、「吾妻鏡」巻二十七の寛喜二(一二三〇)年六月九日から十四日の条を一気に総て掲げる。今見ると一見、滑稽に見えるが、当時の人々が、日々の天変地異とそれが暗示するかも知れない凶兆に対して以下に強い畏怖の念を持っていたかがよく伝わってくるし、当時の陰陽師たちは結構、相互に違った占いを平気で示し、お好きな方をお選び下さいてな、結構、いい加減な状態に近かったという意外な事実を知ることになる(彼らは寧ろ、複数で占い、それらの結果が異なることを確信犯で行っていたものと思われる。さすれば結局は大事の選択は占術を依頼した主人が百%責任を負うことになる、陰陽師には万が一不測の事態が生じてもその咎は向かないということになるからである)。謂わば、この頃の陰陽師は安倍晴明の頃に比して遙かに堕落し、乏しい限られた知識によって好き勝手な憶測をするような衒学者集団になり下がっていたという印象が強烈で、個人的にはこの迂遠な占いとその結末に至るまでがとっても面白いんである。これついては、鎌倉初期の幕府に於ける陰陽師の成功者であった安倍国道が登場する「北條九代記 卷第六 大魚死して浦に寄する 付 旱魃雨請」で引いた、ウィキの「安倍国道」の解説の中に、彼が擡頭した一因として、『寛喜の飢饉に付随して発生した疫病で、国道に対抗できる熟練の陰陽師の多くが死亡したこと、先に死去した安倍泰忠の後継者争いで安倍氏嫡流が衰退したこと』や彼と対立した一派である『賀茂在俊らの過激な反対運動が却って人々の反感を買』ったという記載などから、当時の陰陽師が専ら自身の勢力争いに汲々としていたことも大きな一因であったことが窺える。書き下し文に《 》で注を入れた。
〇原文
五日乙丑。晴。巳尅。幕府小御所之上。白鷺集云々。
六日丙寅。晴。未以後雨下。今日。爲助教師員。彈正忠季氏等奉行。被召陰陽師於御所。七人應恩喚。所謂親職。泰貞。晴賢。晴幸。重宗。宣賢。晴職。國繼等也。各著西廊。相州。武州。隱岐入道行西。出羽前司家長等被候評定所。昨日鷺事。爲助教奉行有御占。親職。晴賢。申云。口舌鬪諍之上。可被愼之由事御云々。泰貞以下申云。就御所幷御親昵御病事。御家人中依文書及口舌可聞食鬪諍者。皆獻別紙占形。次就此怪。可令去御所給否。以一二被問吉凶。一吉之由令一同。今度以詞申之。一者不可令去給由也。仍有沙汰。不及令移他所給云々。
七日丁夘。今夜。被行鷺祭。晴賢奉仕之。
九日己巳。雷雨。酉四點。雷落于御所御車宿東母屋上。柱破風等破損訖。後藤判官下部一人悶絶。則纏筵出自北土門畢。及戌尅死云々。
十日庚午。雷雨。戌刻属晴。於御所。被行七座鬼氣御祭。隱岐三郎左衞門尉爲奉行。
十一日辛未。微雨灑。午刻。武藏國在廳等注申云。去九日辰尅。當國金子郷雷交雨降。又同時降雹云々。
十四日甲戌。風雨甚。相州。武州被參御所。著西廊給。助教師員。隱岐入道行西。駿河前司義村。民部大夫入道行然。加賀守康俊。彈正忠季氏等候其砌。依去九日雷事。可令避御所給否。將又被行御占。就吉凶宜有御進退否事。及評議。意見區分。季氏申云。於先規者不分明。如此事可依御占吉凶歟。雖有于人口。醍醐御宇延長八年六月廿六日。淸凉殿坤方柱上霹靂。大納言〔淸貫卿〕右中弁希世朝臣忽爲雷火薨卒。是雖非常途之篇。猶無遷幸之儀。只入御常寧殿云々。行西申云。延長例不吉也。同八月廿三日御脱屣。同九月廿九日有御事。又入御常寧殿之上者。猶可准遷幸歟云々。助教申云。故右大將家被攻奥州之時。軍陣雷落。承久兵乱之時。右京兆釜殿雷落。皆是吉事也。然者不可爲恠異。可定吉事云々。義村。行然。康俊等申云。先規者不覺悟之。以現量所思。只可令去御事歟。但付是非。可被行御占云々。仍一揆之間。助教召陰陽師等七人〔去六日占申鷺事同人數〕各參候同廊。將軍家御坐簾中。相州。武州。義村。行西等祗候御前。師員傳仰云。去十九日雷落事。若雖有可忌之事。於關東先例者。還可謂吉事歟。然而可令去御所給之由。有申人々。可爲何樣哉。各可計申者。泰貞朝臣申云。大内以下所處雷落常事也。御占者雖被行之。無左右被去御所之先例不親悟。然者可被決御占云々。晴賢申云。雷落所不可居住之由。先祖晴道會釋之上。金匱經幷初學記文等不快。可令去給云々。彼經等。師員披見之。親職。晴幸申云。鷺與雷雨恠異重疊訖。尤可令避之給云々。國繼同泰貞之儀。重宗申云。京邊雷落所々不被去之上。限此御所。不可有其儀云々。師員云。後京極殿〔九條良經〕者將軍御先祖也。御坐大炊殿之時。雖雷落不令避之給。定有御存知旨歟。爲被御子孫當攝録。御繁榮日新。非佳例哉云々。晴賢答云。御子孫榮貴者。不能左右。但大炊殿無程爲灰燼。於今者。彼跡荒癈無一宇御所。凡非無七八十壽算之人。僅三十八而御頓滅。非最上之例歟。義村聞晴賢返答。頗有甘心之氣云々。泰貞又云。被處于吉事者。不能去御所。又不可有御參云々。付是非。可被行御占之旨。被仰之間。泰貞。重宗。如去九日酉尅者。一切無別御事。粗宜之由占申。親職。晴賢。晴職。不快之由申之。晴親。國繼。半吉之由申。其後陰陽師等退座。爰有評議。不可去御之由議定訖。相州。武州。助教被參御前。令披露事次第給。仰云。依先度鷺事。可去御哉云々。武州又被出廊。召陰陽師等。於本座被行御占。令去御之條。尤可然之由。一同占申之。仍可有入御武州御亭之由。各定申。被退出云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日乙丑。晴れ。巳の尅《午前十時頃》、幕府の小御所(こごしよ)《御所に同じ》の上に、白鷺集まると云々。
六日丙寅。晴。未(ひつじ)《午後二時頃》以後、雨、下(ふ)る。今日、助教師員・彈正忠季氏等を奉行として、陰陽師を御所へ召さる。七人、恩喚に應ず。所謂、親職・泰貞・晴賢(はるかた)・晴幸・重宗・宣賢・晴職・國繼等なり。各々西廊に著く。相州・武州・隱岐入道行西・出羽前司家長《中條家長》等、評定所に候ぜらる。昨日の鷺の事、助教奉行として御占有り。親職・晴賢、申して云はく、
「口舌鬪諍(くぜつとうじやう)の上、愼まるべきの由の事御(おは)す。」
と云々。
泰貞以下、申して云はく、
「御所幷びに御親昵(ごしんぢつ)の御病の事に就きて、御家人中に文書に依つて口舌に及び鬪諍を聞こし食(め)すべし。」
てへれば、皆、別紙の占形(うらかた)を獻(たてまつ)る。次いで此の怪に就き、御所を去らしめ給ふべきや否や、一二を以つて吉凶を問はる。一(いつ)は吉の由、一同せしむ。今度(このたび)は詞(ことば)を以つて之を申す。
「一は去らしめ給ふべからず。」
の由なり。仍つて沙汰有りて、他所に移らしめ給ふに及ばずと云々。
七日丁夘。今夜。鷺祭を行はる。晴賢、之れを奉仕す。
九日己巳。雷雨。酉の四點、雷、御所の御車宿の東の母屋の上に落つ。柱・破風等、破損し訖んぬ。後藤判官の下部(しもべ)一人、悶絶す。則ち筵を纏(まと)ひて、北の土門(つちもん)より出し畢んぬ。
戌の尅に及びて死すと云々。
十日庚午。雷雨。戌の刻《午後八時頃》、晴に属す。御所に於て、七座の鬼氣御祭(ききおんさい)を行はる。隱岐三郎左衞門尉《二階堂行義》、奉行たり。
十一日辛未。微雨、灑(そそ)ぐ。午の刻《正午頃》、武藏國在廳(ざいちやう)等、注し申して云はく、
「去ぬる九日、辰の尅《午前八時頃》、當國金子郷《入間郡金子郷。現在の入間市で青梅市に隣接する西地域》、雷交りに雨降る。又、同時に雹(ひよう)降る。」
と云々。
十四日甲戌。風雨甚し。相州・武州、御所へ參られ、西廊に著き給ふ。助教師員・隱岐入道行西・駿河前司義村・民部大夫入道行然・加賀守康俊・彈正忠季氏(だんじやうのちうすえうぢ)等、其の砌りに候ず。去ねる九日の雷の事に依つて、御所を避けしめ給ふべきや否や、將又(はたまた)、御占を
行はれ、吉凶に就き、宜しく御進退(ごしんだい)有りや否やの事、評議に及び、意見、區分す。季氏申して云はく、
「先規(せんぎ)に於ては分明ならず。此の如き事は御占の吉凶に依るべきか。人口に有りと雖も、醍醐の御宇、延長八年六月廿六日、淸凉殿の坤(ひつじさる)方の柱上に霹靂す。大納言〔淸貫卿。〕・右中弁希世朝臣、忽ち、雷火の爲に薨卒(こうしゆつ)す。是れ、常途(じやうと)の篇(へん)《日常的な出来事》に非ずと雖も、猶ほ遷幸の儀、無し。只だ常寧殿に入御す。」
と云々。
行西申して云はく、
「延長の例は不吉なり。同じき八月廿三日御脱屣(だつし)《御渡徙(わたまし)》。同じき九月廿九日御事有り。又、常寧殿に入御の上は、猶ほ遷幸に准ずべきか。」
と云々。
助教申して云はく、
「故右大將家、奥州を攻めらるの時、軍陣に、雷、落つ。承久兵乱の時、右京兆の釜殿に、雷、落つ。皆、是れ、吉事なり。然らば、恠異たるべからず。吉事と定むべし。」
と云々。
義村・行然・康俊等、申して云はく、
「先規は之れを覺悟せず《先例はこれに見合う納得の行くものがない》。現量、思ふ所を以つて、只だ去らしむべき御事か《しかし現況を思うに、これはもう直ぐに処置せねばならぬ御一大事で》。但し、是非に付き、御占を行はるべし。」
と云々。
仍つて一揆《一致》するの間、助教陰陽師等、七〔去ぬる六日、鷺の事を占ひ申すと同じ人數。〕を召す。各々同廊に參じ候ず。將軍家
簾中に御坐す。相州、武州、義村、行西等御前に祗候す。師員 傳へ仰せて云はく。
去ぬる九日《原文の「十九日」は衍字と見て訂した》に雷落つるの事、若し忌むべきの事有りと雖も、關東の先例に於いては、還へて吉事と謂ひつべきか。然而れども、御所を去らしめ給ふべきの由、申す人々有り。何樣(いかやう)たるべきや、各々計らひ申すべし。」
てへれば、泰貞朝臣、申して云はく、
「大内(おほうち)《大内裏》以下の所處、雷落つるは常なる事なり。御占は、之を行はるべしと雖も、左右(さう)無く御所を去らるるの先例、親悟せず《凡そ聴いたことがない》。然らば、御占に決せらるべし。」
と云々。
晴賢申して云はく、
「雷落つるの所居住するべからざるの由、先祖晴道《安倍晴道(あべのはるみち)平安時代後期の陰陽師で安倍晴明の孫とされる(異説有り)》、會釋(ゑしやく)《解釈》の上、「金匱經」幷びに「初學記」の文等に『不快なり』と。去らしめ給ふべし。」
と云々。
彼の經等、師員、之れを見披らく。親職、晴幸申して云はく、
「鷺と雷雨の恠異(けい)、重疊(ちようでふ)し訖んぬ。尤も之を避けしめ給ふべし。」
と云々。
國繼、泰貞の儀に同じ。重宗、申して云はく、
「京邊、雷落つるの所々、去られざるの上は、此の御所に限り、其の儀有るべからず。」
と云々。
師員云はく、
「後京極殿〔九條良經。〕は將軍の御先祖なり。大炊殿(おほひどの)に御坐(おはし)すの時、雷落ると雖も、之を避けしめ給はず。定めし御存知の旨、有らんか。御子孫としてたらるる攝錄(せつろく)《「攝」は総・兼・代の意、「錄」は統(す)べるの意で、摂政のように天皇に代わって政治を統括するの意でここは将軍職を指す》に當り、御繁榮、日に新たなり。佳例に非ずや。」
と云々。
晴賢答へて云はく、
「御子孫の榮貴は、左右(さう)に能はず《この場合は問題にはならない》。但し、大炊殿、程無く灰燼と爲(な)る。今に於いては、彼の跡、荒癈して一宇の御所も無し。凡そ七、八十壽算(じゆさん)の人無きに非ざるに、僅に三十八にして御頓滅。最上の例に非ざrるか。」
と。義村、晴賢の返答を聞き、頗る甘心の氣有りと云々。
泰貞、又、云はく、
「吉事に處せられば《これがよいことが起る前兆であるのならば》、御所を去るに能はず。又、御參有るべからず。」
と云々。
是非に付きて、御占を行はるべきの旨、仰せらるるの間、泰貞・重宗、去ぬる九日の酉の尅《午後六時。その落雷の後には》のごときは、一切別なる御事無く、粗(ほ)ぼ宜しきの由、占い申す。親職・晴賢・晴職は不快の由、之を申す。晴親・國繼、半吉の由を申す。其の後、陰陽師等、退座す。爰に評議有りて、去(さ)り御(たま)ふべからざる由、議定し訖んぬ。相州・武州・助教、御前に參られ、事の次第を披露せしめ給ふ。仰せて云はく、
「先度の鷺の事に依つて、去り御(たま)ふべきや。」
と云々。
武州、又、廊に出られ、陰陽師等を召し、本座に於いて御占を行はる。去り御(たま)はしむるの條、尤も然るべしの由、一同、之を占ひ申す。仍つて武州の御亭へ入御有るべきの由、各々定め申して、退出せらると云々。]
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