日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十五章 日本の一と冬 邦楽の奏者たち
図―527
図―528[やぶちゃん注:上図。]
図―529[やぶちゃん注:下図。]
図―530
図―531
先晩我々は、政府のために蝦夷の地質測量をしたドクタア・ベンジャミン・スミス・ライマンに、正餐に呼ばれた。彼は美しい衝立(ついたて)や、青銅細工や、磁器や、その他が充満した、日本家に住んでいる。お客様も数名あり、我々は六人のコト(即ち琴(ハープ)演奏者と、一人のビワ演奏者とによってもてなされた。琵琶は現在では殆ど見られず、優れた演奏者は日本中に二、三人しか残っていない。この晩来たのは、最も優秀な者の一人である。図527はこの演奏者を写生したもので、彼は盲人であった。彼は幅の広い象牙の撥(ばち)で糸を打つ。三味線を引く者も同様な仕掛を使用するが、これ程幅が広くはない。琴を演奏する者は男女六人で、図脚528のようにならんだが、三人は盲目であった。彼等の音楽は極めて興味深く、また気持よかったが、何と説明してよいか判らず、とにかく一種の奇妙な旋律を以て、一同調子を合わせて奏楽するが、途切れることも停止することも無いのである。図529は、三人が合奏している所である。指には拡大した爪みたいな、角製の物をつけていた。ここに描写した各種の楽器は、もともと支那のもので、朝鮮を経て渡来したのである。舞踊をする子供の一群は、数ヶ月前、ある料亭で見たことがある。で、我々が食事を終えて別室へ入ると、彼等は駕き、またよろこんだらしく、我々のところへ駈けつけ、我々もまた彼等に逢って悦しく思った。彼等の年齢は三歳、四歳、五歳、六歳であった。従者が二人いた。図530は彼等である。三味線演奏者は図531で示してある。
[やぶちゃん注:「ドクタア・ベンジャミン・スミス・ライマン」(Benjamin Smith Lyman 一八三五年~一九二〇年)はアメリカ人鉱山学者。お雇い外国人として日本に招かれた一人で日本名「来曼」を持つほど日本を愛した。ウィキの「」によれば、マサチューセッツ州ノーサンプトン生まれで、ハーバード大学を修了後、ドイツのフライベルクにあるフライベルク鉱山学校(現在の“Technische Universität Bergakademie Freiberg”(フライベルク工科大学))で鉱山学を学び、その後、ペンシルベニア州やインドなどの石油調査を終えた後、明治五(一八七二)年に北海道開拓使の招待で来日、明治九(一八七六)年まで北海道の地質調査に従事し、後に工務省の依頼で明治九年から明治十二年の三年間、日本各地の石炭・石油・地質調査に従事した。明治二四(一八九一)年に帰国するまで山内徳三郎を始めとした日本人助手を教育するなど、日本の地質学に貢献した。帰国後はペンシルベニア州地質調査所次長に就任、一八九五(明治二十八)年に同所を退職後、再訪日を望んでいたが、赤痢に罹患、訪日出来ぬままにペンシルベニア州チェルトナムで死去したとある。彼の名は後掲する「第十七章 南方への旅」にも出、そこでモースは、彼から教わっていた熊本県八代に近い現在の松橋(まつばせ)町にある当尾(とうのお)貝塚近傍にあった石室と石棺を調査している。]
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