甲子夜話卷之一 27 大屋木傳庵、老職衆へ答の事
27 大屋木傳庵、老職衆へ答の事
先年、大屋木傳庵と云し奥御醫師、予も知人なり。丈け矮く肥滿にして豪氣なる男なりしが、其頃或侯の病氣の事につき、老職より、其の病の趣、其方の療治の旨、其の跡目願書に書載す。併いかゞしき風聞もあり、病氣の狀、彌相違なきやと問れしに、傳庵色を厲して曰、奧御醫師を勤候某、固より相違の言は申さず候。御尋方こそ却て奈何に存候と申ければ、老職いづれも默然たりと云。
■やぶちゃんの呟き
「大屋木傳庵」不詳。
「矮く」「ひくく」。
「其方の療治の旨」「奥御医師」奥医師(近習医師・御近習医師・御側医師とも)は江戸幕府の医官で若年寄支配、江戸城奥に住む将軍とその家族の診療に従事した。殆んどが世襲であったが、諸大名の藩医や町医者から登用されることもあった。参照したウィキの「奥医師」の記載から判断すると、狭義の奥医師は典薬頭(てんやくのかみ:他の奥医師たちの上席に位置し、半井氏と今大路氏の両氏が世襲。従五位下に叙し、半井氏は千五百石高、今大路氏は千二百石高)と奥医師(二百俵高で、役料二百俵を給された。西の丸付の奥医師もいた。医業に優れた人が奥医師に選挙され、法印に叙されたともいう。内科は多紀氏、外科は桂川氏が世襲)を指すようであり、広義には彼らより下位の番医師・寄合医師・小普請医師・養生所医師・御広敷見廻り・奥詰医師、目見医師などという医師もその範疇に入った。この大屋木傳庵は老中連から直々に問われているから狭義の第二位に位置する奥医師であろう。奥医師は一日おきに登城し、『江戸城中奥の御座の間近くの「御医師の間」に、不寝番で詰める。将軍が朝食を済ませ、小姓に髪の手入れをさせている際に、将軍の左右か』ら二人ずつ六人が計三回、脈を測った。その後、六人の医師は『別室でそれぞれの診立てを教え合い、異常があるようなら腹診も行った』。『ほかにも、御台所や側室たちも昼食前に』六、七回、『定期健康診断を行い、二の丸や西の丸にいる将軍の子息たちの診察もした』。『病人が出ると、奥医師は全員集められ、それぞれの診立てを告げて、治療法を決定する。治療方針が決まったら、主治医を決めて、昼夜の別なく診療を施す。この際に「典薬頭」の官職を帯びた奥医師の統括者は、自らは治療の手を下さず、ほかの医師たちにさまざまな指示を出すことになる』とある。ここでは明らかに大名の主治医でもあった記載になっているが、「甲子夜話」を先行して現代語訳されておられる、結城滉二氏の「結城滉二(ゆうきこうじ)の千夜一夜」の本話の注に、奥御医師は本来は奥以外は診察しないのが建前ではあったものの実際には、『副業が許されており、自宅診察で患者を診』ることが公認されていたらしい(リンク先にはかく書かれてはいないが、「公認」でなくてはこのシーンの跡目願い書きの医師証明が証明にはならなくなってしまうからである)。流石に奥医師なれば、『大名や裕福な商人を患家に持って』いたとある。
「跡目願書」「あとめねがひがき」。
「書載す」「かきのす」。
「併」「しかし」。
「いかゞしき」副詞「いかが」が形容詞化した形容詞シク活用「如何し」で、承認することが出来ない状態にあることを表わし、「疑わしい」「いかがわしい」の意(後には「見苦しい」の意味にも転訛した)。
「彌」「いよいよ」。
「厲して」「なして」。怒りのため顔色を変える「色を作(な)す」である。「厲」(音・レイ)は訓で「とぐ」で「研ぐ」の意であるが、中に「激しい」の意で「烈」に通ずるとあるのでその辺りの謂いから用いたか? 少なくとも私は疫病や病名以外に見ることは少なく、この漢字をここに当てるのは見かけない用字である。
「奈何に」「いががに」。形容動詞「いかがなり」の連用形で、対象や言動を客観的に見て疑わしいと判断して、「あまりのことにどうかと思う(状態にある)」の意である。前の老中らの「いかがしき」という不遜不用意な切込みの語を逆手に取って、「いかがしき」など申す貴殿らこそが「いかがしき」輩であると暗に指弾して返したのである。
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