杉田久女句集 308 杉田久女句集未収録作品 ⅩⅣ 大正八年(2)
菜飯ふくやいたく曇りし豆ランプ
春の夜や帶卷きをへて枕上ミ
病蝶や石に翅をまつ平ら
靑蔦や露臺支へて丸柱
蛙田に灯流し去れる電車かな
行く春や玉いつぬけし手の指輪
實櫻や羽織かさねてつかね髮
[やぶちゃん注:「つかね髮」束ね髪。]
こでまりや油しまざる櫛笄
[やぶちゃん注:「し」は強意の副助詞。]
紫陽花や剪るや袂くはえて起しつゝ
大枝を引きづり去りて茂りかな
衣更て來し花賣や手覆白し
[やぶちゃん注:「手覆」は通常は「ておほひ(ておおい)」で、布帛製の手の甲の覆いをいうが、ここは上五の字余りもあるから、これで「こて」と読んでいるのかも知れない。]
木の花の我れに薰るや更衣
衣更て上陸(あが)らぬ港ながめけり
笊干すや茄子の添木にあちらむき
熱高き子に水汲むや五月闇
花桐やかりかりこする鍋の尻
[やぶちゃん注:「かりかり」の後半は底本では踊り字「〱」。]
若楓の色みなぎれる硝子かな
曇天に漲りたてる新樹かな
鳥の餌の夏菜すりたる小鉢哉
夏山をめがけてはやき燕かな
蠅帳に蟻道つけし敷居かな
夫留守の夕餉早さよ蚊喰鳥
[やぶちゃん注:「蚊喰鳥」蝙蝠の異称。夏の季語。 哺乳綱ローラシア獣上目翼手(コウモリ)目 Chiroptera に属するコウモリ類は多くが昆虫食で、実際に蚊を多く捕食する。「かはほり」が転訛したとされる「こうもり」の古い呼称は「蚊欲(かほ)る」が元ともされ、そうすると我々が認識していないところで「こうもり」自体が「蚊を食う」という意を既に含んでいることになる。]
殘り火に煮返す鍋の小鰺かな
木下闇肩當白き竿のもの
[やぶちゃん注:「肩當」かたあて。単(ひとえ)の長着や夜着の肩から背に補強と汚れを防ぐために当てる布のこと。]
梅干の鹽噴く笊や夾竹桃
蟬涼し盥にねぢし水道栓
麥煎るや炮烙まぜつゝホ句見る目
[やぶちゃん注:この句は、厨房で麦茶のための麦を焙烙で手交ぜして煎りつつ、自身の作った句を書き出したものを推敲しているという所謂、当時の『ホトトギス』の『台所俳句』好みのそれなのであろうが、私は一読した時、実はこれは久女が「麥を煎る」ために「炮烙まぜ」の仕事をしながら、その自分の「麥煎る」ための「炮烙まぜ」の手元の景に「ホ句」を「見」ていると錯覚した。無論、これは私の勝手な解釈かも知れない。しかし、久女はにっこりと笑って肯んじてくれるような気がしている。]
船港にみちて灯りし葭戸かな
梁暗し尚蟹生くる魚籠の音
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「魚籠」は「びく」と読む。]
濡れし土に影濃き蟹の歩みかな
蟹這ふや濤赤く照る松の脚
熱の子の夜明ひた待つ蚊帳哉
月の瀨の音高まり蚊帳かな
涼しさや厨事をへて畠逍遙
露涼しいまだ眠れるおじぎ草
露落ちて枝長く泳ぐ廣葉かな
崖の船に垂れゐて明かし草の花
草の花に陽のかげやせぬ纜(つな)の石
ポプラ並木
月うけし皆しろがねの葉搖りけり