橋本多佳子句集「海彦」 寒夜 / 室戸崎 / 奈良古梅園工房 / 散華
寒夜
――春日神社節分
何あるといふや万燈(まんとう)のつゞきをり
行く方の未知万燈の火が混みあふ
万燈の一つが消えて闇あそぶ
万燈の万のまたゝき五十路(いそぢ)よき
[やぶちゃん注:この時(昭和三〇(一九五五)年か)、多佳子五十六。]
恍惚と万燈照りあひ瞬きあひ
一燈に執し万燈の万忘る
呼ばれしにあらず万燈の火のまどはし
万燈の闇にぬめぬめけものの膚
稔、渡米
冬芒幡(はた)なす加勢子を発たす
[やぶちゃん注:「稔」この昭和三〇(一九五五)年の六月に三女美代子さんが柴山稔と結婚して奈良あやめ池の家に同居したとあるが、年譜にはそこに渡米の記事はない。]
叔母渋谷多美子八十二の高齢にて逝く
遺身の香女帯の長さ冬日に巻く
[やぶちゃん注:「いしんのか/めおびのながさ/ふゆびにまく」と読むか。]
室戸崎
大病後初めて旅に出らるる誓子先生に従ひて
冬の巌この身を寄せしあともなし
巌の黙石蕗の一花を欠きて去る
[やぶちゃん注:いわのもく/つはのいつくわを/かきてさる」(いわのもくつわのいっかをかきてさる」と読むか。この辺りより、多佳子の句には漢語の熟語(音読み)が有意に増えるように私は感ずる。]
断崖の穂絮きらきら宙にあり
[やぶちゃん注:「穂絮」「ほわた」(チガヤやアシなどの穂の綿毛)と訓じていよう。]
椿咲く冬や耳朶透く嫗の血
枕かへし冬藩の音ひきよせる
冬濤の壁にぶつかる陸(くが)の涯
遍路の歩岬(さき)の長路をたぐりよせ
崎に立ちおのれはためき冬遍路
崎に立つ遍路や何の海彦待つ
遍路歩むきぞの長路をけふに継ぎ
[やぶちゃん注:「きぞ」老婆心乍ら、昨・昨夜と書き、万葉以来の昨日・昨夜の意の古語。]
遍路笠裏(うら)に冬日の砂の照り
遍路笠かぶりし目路にまた風花
[やぶちゃん注:「目路」は「めぢ(めじ)」で目で見通した範囲・視界の意。]
冬の泉冥し遍路の身をさかしま
遍路笠かぶれば冬涛ばかり充つ
女(め)遍路や日没る方位をいぶかしみ
[やぶちゃん注:「没る」は「いる」と訓じていよう。]
女(め)遍路や背負へるものに身をひかれ
孤(ひと)りは常(つね)会へば二人の遍路にて
眼前に浮く鴨旅に何責むや
龍舌蘭遍路の影の折れ折れる
(三十年)
[やぶちゃん注:昭和三十年の年譜に、『十二月、NHKの有本氏に招かれ、室戸岬の旅へ誓子と行く。健康を回復した誓子にとっての初めての旅。多佳子が誓子に教えを受けはじめてから三十年にもなるが、お伴して旅に出かけるのは初めてであると、しみじみ述懐』とある。]
奈良古梅園工房
[やぶちゃん注:奈良市椿井町にある創業以来四百有余年という奈良墨の老舗。個人ブログ「旅の記憶―travelogue―」のこちらの記事がよい。昭和三一(一九五六)年一月の年譜に、『誓子と奈良古梅園の工房に吟行』とある。]
墨は冬造るとて
寒墨踏む蹠(あうら)足趾(あしゆび)ねんごろなる
すでに汚る墨工が眼に触れしのみに
墨工のわが眼触れざる側(がは)も汚れ
かじかめるまゝ蝮指墨を練る
[やぶちゃん注:「蝮指」「まむしゆび」と読み、先端の関節だけがマムシが鎌首を擡(もた)げたようにくっきりと曲がるようになっている指をいう。]
雪の暮墨工の眼に墨むらさき
煤膚(すゝはだ)に隠れ墨工何思ふや
煤膚の墨工佳(よ)しや妻ありて
寒雀と墨工眼澄む夕餓ゑどき
墨工房せましわが香を畏れはじむ
墨工の黙つひに佳(よ)し工房去る
木枯に墨工房を狭く仕切る
倉造りの一房に数百のかはらけの油火を
並べ、油煙を採る
油煙部屋四方(よも)を壁天窓あるのみ
北風(きた)より入り百の油火(あぶらび)おどろかす
散華
近江八幡に泊り、暁の四時雪中に舟を
出し鴨を待つ
猟銃音殺生界に雪ふれり
[やぶちゃん注:昭和三十一年の年譜に、『二月十九日、、猟好きの尼崎の医師の案内で、近江八幡に鴨打ちに行く。清子同伴。自家用車に猟人の運転手、猟銃二挺。その夜は猟師宿(長命寺)に泊り、翌朝四時、雪しまく中、魚舟の中にコンロを持ち込み、筵を被って雪を避けつつ猟場へ』行ったとある。この「長命寺」とは滋賀県近江八幡市長命寺町の地名を指すのであろう(同所にある天台宗の長命寺では無論、あるまい)。]
雪はらはず鴨殺生(せつしやう)の傍観者
鴨撃つと鴨待つ比良の飛雪圏
[やぶちゃん注:「比良」近江八幡から見て琵琶湖の対岸(西岸)に連なる比良山地。古くから近江八景の一つ「比良の暮雪」で知られる景勝地である。]
猟夫(さつを)立つすでに殺生界の舟
雪中や絶対にして猟夫の意志
眼ばたきて堪ふ猟犬の身の殺気
猟人の毛帽雪つきやすしあはれ
鴨撃たる吾が生身灼き奔りしもの
鷺撃たる羽毛の散華遅れ降る
[やぶちゃん注:私の好きな鮮烈な映像句。]
鷺撃たれし雪天の虚のすぐ埋まり
猟夫の咳殺生界に日ざしたり
(三十一年)
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