萩原朔太郎 短歌 全集補巻 「書簡より」 (Ⅶ)――萩原朔太郎全短歌電子化終了――
[やぶちゃん注:以下の三首の短歌を含む書簡は明治四五(一九一二)年六月二十二日消印萩原栄次宛の葉書である。投函地は大磯。発信署名の部分は、編者注によればはっきりとは読み取り難い(ローマ字部分)としながらも、
大磯ノ海ニテ Kana-iwa Ni-te
とあるとデータに載る。また編者注には、この書簡には付箋がついているとし、そこには、『石川縣加賀江郡山中温泉大嶋屋別莊ニテ 萩原榮次 當時右之地ニ居住候ニ付御轉送願候』とある由。
朔太郎、満二十五歳。この翌年(大正二(一九一三)年四月のクレジットを持つ私製歌集「ソライロノハナ」の、あの大磯である。
「Kana-iwa」というのはピンとこないが、因みに、現在の大磯海水浴場のシンボルとして、浜から十メートルほど沖合いに浮かぶ岩礁(周回凡そ二十メートル)があり、これを「かぶと岩」と呼称しているが、これか?
「ソライロノハナ」へと続く雰囲気を先行させる貴重な書簡であるので、全文を電子化する。踊り字は正字化した。「紳經」はママ。二ヶ所の「ように」及び「ような」もママ。]
罪人のように、私は都を逃れてこゝの海に漂泊して來ました、怪しきまでに痛々しい紳經の刺激は私に海へ行けと命じました、
はてしもない靑海原と、夢みるような海潮の響は、どんなに、此の頃の暗愁に閉された心をはればれした愉樂の世界へ導いて呉れる事かと、胸を轟かしながら初夏の大磯をたづねました、
あゝ然しそこには只深い沈默と苦痛の憂色が漂ふて居るばかりでした、
去年の冬、失張同じ思で此處へ逃れて來たときに、不幸にも私が見出した絶望の海は、今日もまた私の前に横つて居るばかりでした、
△浮ね鳥、かなしむ我はこゝに來て海をし見れば涙ながるゝ
數年まへ、私は何事をも知らない幸福の日を無邪氣の少女たちと一所に、こゝの二階に送つた事がありました
△きのふまで少女の群と出窓(バルコン)に歌をうたひし我ならなくに
思ひ出の日は何時も發しげに笑み輝き、現實は黑き死の苦痛の影に私をおびやかします、
△わだの原、沖つ潮あひに鳴く鳥のうら淋しげに物をこそ思へ
きのふの夕べ、人氣なき濱邊に出て、心ゆくぼかり泣きあかしました、さめざめと稚子のように……
こゝに來て三日、歌も日記もたゞ涙のそればかり、
さらば、
二十二日、
[やぶちゃん注:この三首の内、
きのふまで少女の群と出窓(バルコン)に歌をうたひし我ならなくに
は「ソライロノハナ」のまさに「二月の海」(クレジット『一九一一、二』)の冒頭の「大磯ノ海」の中で、中間部で以下の文に続いて示される四首の冒頭の一首と、表記違いの相同歌である。
五年まへの夏、希望に輝やく瞳を以て此處の松林の中から太洋の壯嚴を祝した紅顏の少年は頽唐の骸骨となつて長い漂泊の旅から歸つて來た。今見る海の色にもまして靑ざめたるその顏色よ。
きのふまで少女の群とバルコンに
歌をうたひし我ならなくに
* * *
――以上を以って――私のこのブログ・カテゴリ「萩原朔太郎」に於いては――現在知られる限りの萩原朔太郎の短歌――その総ての電子化が終わったはずである。]