生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(6) 三 色と香(Ⅱ) サンショウウオ婚姻色と蝶の発香毛束 識者の同定を乞う!
[「さんせううを」]
[(左)雌 (右)雄]
[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、補正をしたものである。底本の図より細部が観察出来るのでこちらを採用した。]
先づ色によつて相手を誘ふものの例を擧げて見るに、魚類の中には産卵期が近づくと特に體色が美麗になつて、著しく艷の增すものがある。魚學者はこれを「婚禮衣裝」と名づける。雌がこのために誘はれるか否かは聊か疑問であるが、かやうに美しくなつた雄は必ず雌を追ひ廻し、自身の體を雌の體に擦り附けなどして、終に雌をして好んで卵を産むに至らしめるから、やはり一種の誘ひと見做して宜しからう。淡水に産する「たなご」・「おひかは」の如き普通の魚類もこの例である。また「さんせううを」の類にも産卵期が近づくと、雄の背に沿うて鰭の如き褶が生じ、尾の幅も廣くなつて、體色も著しく美しくなるものがあるが、これも色によつて相手を誘ふ一例である。かよやうな例はなほ幾らもあるが、動物中で最も美しい色を以て異性の注意を求めるものは何かと問へば、これはいふまでもなく蝶と鳥とであらう。しかし感覺の力の進んだ動物では、雌雄相誘ふに當つても單に一種の感覺のみに賴ることは稀で、多くは種々の感覺に合せ訴へ、美しい色を示すと同時に、好い聲を聞かせ面白い踊りを見せなどするもので、鳥類の如きもその動作の頗る込み入つた場合もあるから、これはさらに次の節に述べることとしてこゝには略する。
[蝶の香毛]
[やぶちゃん注:本図も国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングした(これに限って同定を乞うために原画像の処理はしていない)。底本の図より細部が観察出来るのでこちらを採用した。]
[やぶちゃん注:丘先生には珍しく、ここで挿入した挿絵(後の図)には本文にはない「蝶の香毛」というキャプションが入っている。これは一部の蝶や蛾が持つ発香毛束と呼ばれる器官で、丘先生の図では尾部の先端に球状に出ている。蝶コレクターならば一瞬にして種の同定をなされると思うのであるが、図が単色であること、私が昆虫類が苦手なため、紋からいい加減な同定をしても、その同定種の発香毛束の有無を知る術がないことから、ここは図を示して識者の御教授を乞うこととしたい(但し、丘先生の示した蝶が本邦産種である保証はない)。
Kojiro Shiraiwa 氏の蝶の百科ホームページ「ぷてろんワールド」の「ルリオビタテハ族(Preponini)のページ」によれば、世界でも最も美しい蝶とされる南米の鱗翅(チョウ)目アゲハチョウ上科タテハチョウ科フタオチョウ亜科ルリオビタテハ族 Preponini の特徴の一つとして、『後翅腹部側にオスだけに見られる黄色または黒色の発香毛束があります。これは香鱗の様なもので、交尾の際に利用されると思われていますが、まだ観察例は報告されていません』とある。
また、一部には、この発香毛束や発香性の鱗粉である香鱗(こうりん。後注参照)を格納しておいて反転して露出させることが可能な嚢状のコレマタ(coremata)と称する器官を持っているものもいる(私が動画で見たものは鱗翅(チョウ)目ヒトリガ科ヒトリガ亜科 Chionarctia 属シロヒトリ Chionarctia nivea 。ここ。死亡個体へ空気を送って拡張させている。非常に長大である。但し! 凡そ、この手のものに耐性無き者は見るべからず!)。
以下、「香鱗」の語注を附したいが私は昆虫に暗いので、Kojiro Shiraiwa 氏の蝶の百科ホームページ「ぷてろんワールド」の「用語解説」の記載を参考にさせて戴いた。なお、以下、参考になると思われる語をも芋蔓式に幾つか引かさせて戴いてある。
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・「香鱗」(Scent Scales):発香鱗・性紋(せいもん Scent Patch)とも呼ぶ。蝶の鱗粉の中で、ある種の臭いを発する鱗粉のこと。通常の鱗粉とは形状も異なり、多くの蝶の♂が♀を刺激するのに使用される。種類によっては発香鱗は通常の鱗粉の中に紛れ込んでいたりしているが、発香鱗が集まり性標(次注参照)を作ることもある。
・「性標」(せいひょう Scent Patch):香鱗により構成される翅にある模様。♂のみに見られる特徴で、♂の「求愛行動」(次注参照)に於いて♀を刺激する物質が含まれていると言われている。
・「求愛行動」:♂が♀と交尾するために行う行動。通常♀の前で翅を見せたり、震わせたりする。種類によってはヘアペンシル(次注参照)や発香鱗より放たれるフェロモンなどを利用するものもいる。
・「ヘア・ペンシル」(Hair Pencil):マダラチョウ亜科やドクチョウ亜科の蝶の仲間に見られる、腹部先端にある黄色のブラシ状の毛束器官。主に♂が♀に対して交尾を促す際に使われ、捕獲されたときも天敵等に対しての威嚇として使われる。通常は腹部に納められていて見えない(上記のコレマタに似ている)。
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「婚禮衣裝」婚姻色。
『「さんせううを」の類にも産卵期が近づくと、雄の背に沿うて鰭の如き褶が生じ、尾の幅も廣くなつて、體色も著しく美しくなるものがある』これも非常に難航した。本邦産両生類の婚姻色はアカハライモリやカエル類では多くの記載が見出せるのであるが、両生綱有尾目サンショウウオ上科 Cryptobranchoidea に属するサンショウウオ類は世界で約五百種、本邦でもオオサンショウウオ科 Cryptobranchidae オオサンショウウオ属 Andrias を含め、凡そ二十種が棲息しているが、個体数が激減し採取飼育が禁じられている者も多く、そのために個人での飼育例情報の記載が少ない。辛うじて、婚姻色を示すことが確認出来たのは、ブチサンショウウオだけであった。但し、その画像を見る限りでは丘先生の掲げる絵のような派手なものではない。サンショウウオ科 Hynobiidae サンショウウオ属 Hynobius ブチサンショウウオ Hynobius naevius は鈴鹿山脈以西の本州・四国・九州の主に標高三百~七百メートルの丘陵地に多い(但し、紀伊半島沿岸地方では百メートル未満の低地に生息)。繁殖期は二月下旬から五月頃、陽光の差さない薄暗い渓流の細流や伏流水中に産卵する。全長は八〇~一三〇ミリメートル(以上のデータは個人サイト「両生類(AMPHIBIANS)びっきぃ と やまどじょう」のこちらに拠る(同種の画像有り)。但し、婚姻色云々はこの方のページの情報ではない)。そもそもが丘先生が示した図のサンショウウオが本邦産である確証はない(寧ろ、低いかも知れない)。かなり激しい婚姻色(というより交尾時の雌性異形変態とでも呼ぶべき異形(いぎょう)である)この同定も識者の御教授を切に乞うものである。
【追記】以上をネット上に公開したところ、即座にフェイスブック上で昔の教え子が美事に解明してくれた。以下、同記事に対し、まず『サンショウウオの方なんですが、ダーウィンの「人間の進化と性淘汰(The Descent of Man, and Relation to Sex)」に例として出てくる、Triturus 属のどれかだと思います。良い写真が見つからなかったのですが』とした上で“National
Geographic”の“Warty Newt Triturus
cristatus”のページがリンクされた。その後、再コメントがあって、そこでは『このあたりでしょうか...?』として英語版ウィキの“Danube crested newt”のリンクを附してくれた。これは同じTriturus 属(クシイモリ属/旧ヨーロッパイモリ属)の Triturus dobrogicus (Kiritzescu, 1903) のページである。そこでグーグル画像検索で「Triturus
cristatus」と「Triturus
dobrogicus」とを見比べてみた。孰れも、この挿絵の同定候補として引けを取らぬ。この画像比較では「Triturus
dobrogicus」の方がやや派手目に見えるのであるが、ともかくもこれらの種を検索してみる。すると、いらした! いらした! Dr. GRUMMAN氏(生物学博士号取得者)! 彼のサイト内の「Dr.
GRUMMAN's HERPETARIUM 両生類(有尾類) SALAMANDARIUM (Tailed
Amphibians)」の中に、
ダニューブクシイモリ Triturus dobrogicus
と和名が示され、それぞれのページで生態写真及び解説が附されてある。この記載を読むと、少なくとも背鰭の変異部分はダニューブクシイモリ
Triturus dobrogicus が最大であると記されてある(大きいことと派手であることは必ずしも一致しないが、少なくとも大きいのは先の画像の印象と異なりホクオウクシイモリではなくてダニューブクシイモリの方だということ)。挿絵は単色であり、これ以上同定するのは無理かと思われる。ともかくもこの挿絵のそれはクシイモリ属Triturus と同定してよいかと思われる。教え子及びDr. GRUMMAN氏に感謝申し上げる。]