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2014/12/08

耳嚢 巻之九 痴僧得死榮事

 

 痴僧得死榮事

 

 四谷湯屋横町(ゆうやよこちやう)の生れにて源吉とか源市とかいえる者、生來(しやうらい)愚昧にて中年同所天台宗眞福寺といふ寺の弟子に成(なり)、剃髮なして托鉢等致(いたし)歩行(ありき)しが、愚昧ながらも不思議の性質(たち)にて、予が知れる同所原田翁のもとなどへも齋(とき)などに呼ぶに、佛前にて念佛抔不唱(となへざる)内は歸る事もなく、食事など給(たべ)させるに飢(うゑ)ざれば決して不食(くはず)。ひだるき時は、客對(きやくたい)其外の遠慮もなく來りて、非時(ひじ)を可出(いだすべし)とてうちくらひ、托鉢にあるくに四文錢(しもんせん)をあたふれば並錢(なみせん)を三文かえして壹錢の外はうけず。都(すべ)て何の品調ひ度(たく)、遠方人使(ひとづか)ひなしと云ふ時、源坊に賴(たのむ)に、遠き所にても聊か不厭(いとはず)、注文の通り調へ來(く)。是により武家町の差別なく彼が貞實を不便(ふびん)がり、又用の便ずるをよしとして、呉服物其外野菜ものゝ類夫々に賴むに、至(いたつ)て記憶能(よく)覺え何程の品も間違ひなく用を便じけるゆゑ、内藤宿の旅籠屋女(はたごやをんな)など上下不便(ふびん)がり、四ツ谷中の商人は、源坊が來りし迚(とて)錢など與へ或は衣類抔拵へ遣しけるに、かゝる愚か者なれば、惡る者など錢を貸し呉(くれ)候樣申せば、其身貰ひ溜(ため)を不殘(のこらず)遣し、衣類迚もかくの如し。扨又たばこなど呑盡(のみつく)したるときは、たばこ入を多葉粉屋へ持來(もちきたり)、呑(のみ)よき品詰(つめ)くれ候樣申(まうし)、右多葉粉入れへいれ貰ひ、手拭(てぬぐひ)きせる抔も、商ふ所へ至り、此きせる此手ぬぐひ給(たまは)り候(さふらへ)とて取(とり)かへる、渠(かれ)を知れる商家なればいなむものもなく、代錢を受(うけ)とる事もなし。誠に道德の沙門の如し。然るに命數ありて文化五辰年七月相果(あひはて)ける。是に可笑(をか)しき咄有(あり)、まのあたり見しと、原田翁の語りけるは、いづれに果けるや、町々に世話いたし、廿一二日の頃とや、眞福寺へ葬送のありさまは、まづ先供(さきども)と號(がふし)、角(かく)つなぎの看枚着たる人足の類(たぐひ)、麻上下(あさがみしも)を着し菖蒲太刀(しやうぶがたな)を腰にさし、其外幟(のぼり)抔に念佛などしたゝめ、花を飾りし笠ほこに、大勢かけ念佛にて、大きなる戸板やうのものを張りて、源坊極樂入(いり)と筆太に認(したた)め、其跡より管絃組(くわんげんぐみ)と幟を立(たて)、しやぎり笛太鼓にて葬送(はうふ)りし。眞福寺本堂の脇へ右幟笠鉾を立て、右馴染のものより夥敷(おびただしき)貫錢(かんせん)抔を納め、右貫錢にて蜜柑井籠(せいろう)抔つみて、葬送(はふ)り終りて、ふいご祭りのごとく集りしものへ投(なげ)とらせける。誠に一奇談なりと咄しけるが、其邊の松山某にも聞(きき)しが違(たが)ひもなく、此筋四ツ谷中の口ずさみの由、かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇人譚。

・「痴僧得死榮事」「痴僧(ちそう)死榮(しえい)を得る事」と読む。

・「四谷湯屋横町」岡本綺堂の半七の口調で「ゆうや」と読んでおいた。一般には「ゆや」。四谷塩町(しおちょう)二丁目(現在の新宿区四谷三丁目)を北へ折れる横丁の通称で、承応二(一六五三)年のこと、玉川上水万年石樋の工事の際、同横町西角で酒酢商を営んでいた安井屋三左衛門が、人夫らに湯の用意もなくて難儀する様子を見て、風呂を沢山並べて、人夫らに無料で入浴させたことに因むとする(「文政町方書上」。ここは「ジェイ・クオリス 東京賃貸事情」の四谷塩町二丁目」を参照した。これは不動産業の広報サイトながら、なかなか侮れない優れた江戸の情報サイトで、私はしばしば厄介になっている)。現在の新宿区愛住町(あいずみちょう)。

・「眞福寺」底本鈴木氏注に、『天台宗。寛永寺末。「四谷愛住町、真福寺、光明山之口貘寿量院と号す、朝日の薬師を祀る。」三村翁注』とし、岩波版長谷川氏注にも、『光明山。湯屋横丁にあり』とあるのだが、現代の地図上には見当たらない。江戸切絵図では湯屋横丁を入った最初の角の先にある。既に廃されたものか。識者の御教授を乞う。

・「原田翁」「耳嚢 巻之八 奇子を産する事」に一度出る。実は後掲される「巻之九 棺中出生の子の事」の底本の鈴木注に、『種芳(タネカ)。安永七年(四十八歳)家督、廩米二百俵。天明元年小十人頭より御広敷番頭に転ず。根岸鎮衛にくらべれば役職の点ではずっと低いが、年長であるので、大事にしている様子が見える。年齢のみならずこの人の人柄もよかったのであろう』と記されてある人物である。

・「齋」原義は、本来、仏教の基本戒律に於いては僧や修行者は正午を過ぎての食事を禁じていた。午前に一度だけの正式な食事を「斎食(さいじき)」「斎・時食(とき)」「おとき」と称したが、それでは実際には体が持たないため、時間外の摂餌を「非時食(ひじじき)」「非時(ひじ)」と称して許し、夕食の摂餌が普通になったが、この二つの呼び名が孰れも時刻に関わる呼称であったことから、仏家に於いては食事のことを「とき」と呼ぶようになった。ここは、法会の際に僧に供される精進料理、施食(せじき)のことを指す。

・「ひだるき」饑(ひだる)し。空腹である。飢えてひもじい。現行でも西日本で「ひだるい」として普通に用いられる。

・「客對」来客と応対する状態を指すが、ここは来客の意。

・「非時」前の「齋」注を参照。ここは単に食事を指している。というか、寧ろ、僧である我らに「施食」を、の言いで述べていると考えるのが妥当であろう。

・「四文錢」一枚が四文に通用した銭貨。寛永通宝の真鍮四文銭や精鉄四文銭、銅銭の文久永宝の銅四文銭などで、裏に波の紋がある。四当銭(しとうせん)。当四銭(とうしせん)。但し、交換相場は後に変動している。

・「並錢」一枚一文の銭。一文銭。一般に一文銭と称したさには主に寛永通宝の一文銭を指す。素材は銅・鉄・真鍮で、金・銀貨と並行して使われた。江戸時代の最低額の貨幣として数百種類鋳造され、最も大衆性を持ったが、鋳造の質が悪いために評判は悪く、質の良い「清銭」(精銭)に対する「並銭」(悪銭)の呼称ともなった。

・「人使ひ」外での用事を人を雇って自分の代わりに足して貰うこと。使い走り。

・「内藤宿」内藤新宿。江戸日本橋から数えて甲州街道の最初の宿場。甲州街道及び宿場内の新宿追分から分岐した成木街道(青梅街道)の起点。現在の東京都新宿区新宿一丁目から二丁目・三丁目一帯に相当する。切絵図を見ると、湯屋横丁のすぐ近くに大木戸がありそこから西は内藤新宿下町となっている。

・「旅籠屋女」飯盛り女。宿泊客への給仕もしたが、実際には非公認の遊女であった。

・「たばこなど呑盡したるときは、たばこ入を多葉粉屋へ持來、呑よき品詰くれ候樣申、右多葉粉入れへいれ貰ひ、手拭きせる抔も、商ふ所へ至り、此きせる此手ぬぐひ給り候とて取かへる」使い物にはならぬものの後者は古いものと取り換えているが、前者は無償で煙草を得ている。恐らくは刻んだ煙草の葉の滓を恵んだものであろうが、飯盛り女の例などを見ても、この奇体な男を当時の庶民が一種の商売神、千客万来のえびす神に擬えていたということが分かる。僧で念仏を唱えるという点では脱俗的ながら、寧ろ彼が「生來愚昧」であったこと、金銭欲が全くないこと、腹が減るとふらりとどこへなりと現われること等々から私は一読即座に、福の神たる「仙台四郎」のことを想起した。御存じない方のために、ウィキの「仙台四郎から引いておく(一部のアラビア数字を漢数字に代え、注記記号を省略させてもらった)。仙台四郎は本名を芳賀四郎といい、安政元(一八五五)年頃に陸奥国仙台藩の城下町に生まれ、明治三五(一九〇二)年頃に推定四十七歳ぐらいで亡くなった実在の人物である。『知的障害でほとんど話すことができなかったが、四郎が訪れる店は繁盛するとして存命中から各地でもてなされた。没後、商売繁盛のご利益がある福の神としてその写真が飾られるようにな』り、仙台の商家では必ずと言ってよいほど彼の写真を見出せる(私もそうして彼に出逢った)。『仙台藩の城下町仙台に、鉄砲鍛冶職人の家の四男として生まれたとされる。火の見櫓のそばに生家があったため、「櫓下四郎」とも呼ばれた。彼の知的障がいには二つの説があって、生まれつきだという説と、そうではなく、七歳の時花火見物中に誤って広瀬川に転落して溺れて意識不明となり、それが元で知的障がいとなったという説がある。 言葉は「バアヤン」などとしか話せなかったそうである』。『その後、四郎は気ままに市中を歩き回るようになった。行く先々で食べ物や金品をもらったりしていたが、人に危害を及ぼすことはなく愛嬌のある風貌をしていたので、おおむね誰からも好かれた。子供が好きで、いつも機嫌よく笑っていたという。「四郎馬鹿(シロバカ)」などと陰口を叩かれることもあったが、不思議と彼が立ち寄る店は繁盛し人が集まるようになったため、「福の神だ」などと呼ばれてどこでも無料でもてなされたとされるが、実際には家人が後に支払いに回っていたこともあった。店にしてみれば、どんなに高額な飲食でも、必ず後で代金を支払ってもらえる上客と解釈できる存在であったという側面もある。四郎は素直な性質であったが、気に入らない店には誘われても決して行かなかったという』。『やはり無料で鉄道を利用し、宮城県内の白石や、福島県の福島、白河、さらには山形県の山形まで足を伸ばしていたらしい』。四郎の逝去については諸説あって『はっきりしたことはわかっていない。徘徊中にそのまま姿を消したという説もある。釜山港漫遊中との新聞記事が掲載されたことがあるが、これも事実かどうかはわからない』とある。『明治時代には、千葉一が三十歳頃の四郎を撮影した写真が焼き増しされて販売されていた。大正に入る頃に、仙台市内の千葉写真館が「明治福の神(仙臺四郎君)」と銘打ってこの写真を絵葉書に印刷し売り出した。このときから「仙台四郎」と呼ばれるようになった』。『現在残っている写真は上記の一種類だけである。この写真に写る四郎は、縞模様の和服に懐手をして笑って居る姿をしており、言い伝え通りに膝を丸出しにしているところが写っているなど、四郎の人と為りをよく捉えたものと言える』。『この写真をオリジナルとして、肖像画家による作品が二つと、鉛筆画が四つあり、それぞれらの複製の段階で細部の違いもできたりしたため、さらに幾つかの版の存在を確認できる。着物がはだけていないように見える物から、中には膝の奥に男根がそのまま写っているものまで有り、幅広い職種の如何を問わず、彼が福の神として厚く慕われて来た何よりの証拠ともなっている』(因みに私はこの男根をのぞかせている写真を最初に見たことから、彼に非常に興味を持つに至った)。『江戸時代より仙台では、商売繁盛を願う縁起物として松川だるま(仙台だるま)があり、「七転八起」に因んで八体を並べて飾り、毎年一体を買い求めた替わりに一体をどんと祭等においてご神火で燃やすという風習があった。松川だるまは中心部などで開催されていた「歳の市(仲見世)」で買い求めるのが一般的であったが、高度経済成長期にあたる昭和四十年頃に歳の市(仲見世)は行われなくなり、主要な販路が寺社の祭事での出店に変化した。また、支店経済都市である仙台では、中心部商店街の小売店がテナントビル化し、松川だるまを知らない東京や海外に本拠を置く店子が主に路面店として入るようになり、松川だるまの風習が衰退していった。ここに、写真や人形など様々なグッズ展開をした仙台四郎のブームが発生し、仙台における商売繁盛の縁起物の地位が、神棚に並べ場所をとる松川だるまから、店内での置き場所に自由度が高く場所をとらない仙台四郎へと取って代わられることにな』ったと面白い経緯を語っている。『四郎の人気には盛衰がある(数回のブームがある)』。『バブル景気期には、地元で流行した。この時期の仙台・宮城は、政宗ブームによる空前の観光客流入期、および、仙台市の政令指定都市移行期にあたる。大小の人形と写真が売り出され、仙台の名物みやげになってきた』。『一九九三年(平成五年)からは全国に名の知れた流行となった』。『仙台市内の飲食店では、神棚、レジ脇などに、仙台四郎の写真や置物を見ることができる。土産屋などでは、様々な四郎人形がおいてある』とある。グーグル画像検索「仙台四郎。私は実は仙台四郎フリークなのである。

・「文化五辰年」戊辰(つちのえたつ)。西暦一八〇八年。「卷之九」の執筆推定下限は文化六年夏であるから、直近の噂話である。

・「先供」主人の先に立って露払いをすることをいうが、ここは葬列の先頭に立つこと。

・「角つなぎの看枚」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『角繫ぎの看板』(正字化した)。これで採る(「枚」でも意味は通る)。岩波版長谷川氏注には、『同形の四角をつないだ模様を染めた半てん』とある。「看板」は武家の中間などが仕着せとして着た法被のような衣服で、背中に主家の紋所などが染めてあった。

・「菖蒲太刀」「あやめがたな」とも。一般には端午の節句に飾った太刀をいう。古くは子供がショウブを太刀のようにして帯びたことに由来する呼称であるが、江戸時代には柄をショウブの葉で巻いた木太刀や、飾りものとして金銀で彩色した木太刀を称した。当初は本物の菖蒲の葉っぱを佩いているイメージが面白いと思ったけれど、ここはどうも粗製の木太刀のようである。

・「笠ほこ」傘鉾。祭礼の飾り物の一つで、大きな唐傘の上に鉾・造花・鷺などを飾りつけたもの。京の祇園祭りや東京の山王祭り・神田祭りのそれが有名。

・「かけ念佛」多人数の講中が大声で掛け声をし合って、鉦や木魚を叩いて唱える念仏。

・「管絃組」祭りで、鳴り物を用いて囃子方を担当する行列のパート部分を指す。

・「しやぎり」摺鉦(すりがね)のこと。他に「当たり鉦(あたりがね)」(「すり」を嫌った忌み詞)・「四助(よすけ)」(祭囃子で他の四人(締太鼓二・大太鼓一・笛一)を助けることからという)・「チャンギリ/チャンチキ/コンチキ」(鉦の中央部分を叩く場合を口伝に於いては「チャン」或は「コン」、ふちを叩く場合を「チキ」と表現するためという)とも呼ばれる。皿形を成し、大きさは十五センチメートル前後のものが多く、撞木と呼ぶ先端に鹿の角のついた棒で皿の内側を叩いて鳴らす。芝居の下座音楽や郷土芸能・祭囃子・阿波踊りなどの舞踊に用いられる。奏法は紐で吊るしたり、枠や柄をつけてそのまま打つ場合と、左手に直接持って指で音色や余韻を変えながら打つ奏法があり、音としては皿の縁を叩く場合と中央部分を叩く場合の二種の違いを組み合わせる(以上はウィキの「摺鉦」に拠った)。

・「貫錢」銭差(ぜにさし:銭の穴に通して束ねるのに用いた紐。主に麻繩・藁繩製。さし・銭貫(ぜにつら)とも呼ぶ。)に差した一貫文の銭をいう。正式には一貫は一〇〇〇文であるが、実際には「一貫文」は九六〇文であった。

・「井籠」蒸籠(せいろ/せいろう)。饅頭か蒸かし餅のようなものが入っていよう。次のシーンで蒔かれるのである。

・「ふいご祭り」鞴祭。鞴(吹子とも)は鍛冶屋などで火をおこすために使う長方形箱の送風器であるが、旧暦十一月八日に、こうした鞴を扱う鍛冶屋・鋳物師・踏鞴(たたら)師・白銀屋(しろがねや:彫金師。)などの業者や火に関わる商家(湯屋など)が行う祭り。祭神は金屋子神(かなやごがみ:鋳造師などが信奉する鉄の神・火の神。東北から九州まで広く分布するが特に中国地方で盛んである。)や稲荷神(農耕神・穀物神であったものがその作物を調理するために用いる火の神に転じたものと考えられている)である。鞴を清めて注連繩を張り、お神酒や餅を供えた。また、この鞴祭りの蜜柑を食べると風邪や麻疹(はしか)に罹らないと信じられ、当日の夕方になると祭祀した家の門前では餅や蜜柑を蒔いて近隣の子らに振る舞う。

・「松山某」不詳。私の持つ切絵図の湯屋横丁近辺には松山姓は見当たらない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 痴愚の僧の死して光栄を得し事

 

 四谷湯屋横町(よつやゆうやよこちょう)の生まれにして、「源吉」とか「源市」とか申す者――これ、生来(しょうらい)、愚昧(ぐまい)なる者にして、中年となってより、同湯屋横丁の天台宗真福寺という寺の弟子と相いなって剃髪、托鉢など致いて、近隣を徘徊して御座ったが、愚鈍ながらも、不思議なる性質(たち)の持ち主で御座ったと申す。

 私の知れる同じ四谷に住まう原田翁の元にても、法事の折りなんどに、この源坊(げんぼう)を呼ぶと、仏前にて一人前に念仏などを誦(ず)さぬうちは帰ることもなく、また、斎(とき)など供しても、腹がへっておらざれば決して口にすることがない。ところが、どうしても腹がへってならぬ折りには、来客があろうが何があろうが、遠慮ものぅぶらりとやって参っては、

「非時(ひじ)を出して呉れろ。」

と平然と食を乞うて、出ださば、敢然とうち喰ろうては、また、ふいと出てゆく。

 托鉢に歩いている折りに、四文銭(しもんせん)を施すと、鉢より並銭(なみせん)三文を取って返し、ただ一銭の外(ほか)は一切、受け取らぬ。

 また、この湯屋横丁にては、何かの品を調達せんとするも、その受け取りの遠方にして、適当な使い走りの者が見つからぬ折りには、この源坊に頼む。すると、どんなにそこが遠い所で御座っても、これ、いささかも厭うことのぅ、注文通りの品を、ちゃんと受け取って帰って参る。

 されば、辺りにては武家・町方の区別なく、この源坊の無心にして貞実なるを――中年親爺ながら――可愛いくも思い、また、いろいろなる用事の折りの使い勝手もよしとして、呉服物からその外、日々の食事の野菜の買い出しなんどに至るまで、誰(たれ)もこれもが、それぞれにいっぺんに、それら用足しを頼むのであったが、この源坊、至って記憶よく、どんなに複雑なる、またどんなに多くの依頼の、これあっても、しっかりと覚え込んで、如何なる品にても、一切一品の間違いなく、用をこなして帰って参るゆえ、上(かみ)は大家のお武家より、下(しも)は内藤新宿の飯盛り女に至るまで、しきりに重宝し、目をかけて御座ったと申す。

 四ッ谷中の商人(あきんど)に至っては、

「源坊が来やした!」

と丁稚(でっち)が告ぐるや、必ず銭を与えたり、あるいは季節の衣類なんどをわざわざ拵えさせて恵んだり致いて御座った。

 かくなる暗愚の者なればこそ、性質(たち)の悪い連中が、

「源坊さま! 一つ、銭をば、お貸し下せえ!」

などと申すこともあったが、すると源坊、今まで貰いためた銭一切を、これ、残らず、その連中にやってしまい、せっかく商家が誂えてくれた衣類なども、同じように指し出だいてしまう。

 さてまた、煙草などを呑み尽くしてしまった折りには、空(から)になった煙草入れを煙草屋へと持ち行き、

「――のみやすい、お品、これに詰めとくれぃ。」

と申す。すると、その煙草入れには、ぎっしりと煙草が詰められて、源坊はそれをぶら下げて飄々と去ってゆく。

 手拭いや煙管(きせる)の類いにても、それらを商うお店(たな)へとぷらりと至り、それとのぅ品定めなど致いては、

「――この煙管と――この手拭い、これ、いただきとう存ずる。」

と申しては、汚れた手拭いと折れた煙管と引き換えに、またしても、飄然と帰ってゆくので御座った。

 煙草屋も手拭屋も羅宇(らう)屋も、これ皆、彼のことをよう知って御座る商家なれば、嫌がりもせず、また、一銭の代銭(だいせん)を受け取ることもこれ、ない。

 まことに高徳の僧の扱いと申そうず。

 しかるに、この源坊、遂に命数の尽きて、つい先年、文化五年辰年の七月のこと、相い果てて御座ったと申す。……

「……ところがの、根岸殿……この葬送につき、これまた、面白き話の御座ってのぅ。……我ら、目の当たりに見申したことなれば……」

と、原田翁が次のように語られた。

「……この源坊、何処で果てたものかはよう存じませぬが、ともかくも湯屋横丁やその周りの町々にて世話致いて――たしか、その七月の二十一か、これ、二日か、その頃で御座いましたか――真福寺へ葬送致いたので御座る。その葬列のありさま、これ、まず……

――「先供(さきども)」と号して、角(かく)繋ぎの看板を着(ちゃく)したる人足の類いが、これ

――麻上下(あさがみしも)を身につけ

――柄に金銀の巻きを施したる菖蒲太刀(しょうぶがたな)を腰に佩き

――念仏なんどを認(したた)めたる大きなる幟(のぼり)をおっ立て

――大輪の生け花を豪勢に飾り立てたる笠鉾(かさほこ)に

――どこから湧いて出たものかと思うほどの、仰山なる講中のかけ念仏の声々響き

――大きなる戸板のようなるものが張り立てられて御座って、そこには

「源坊極楽入(げんぼうごくらくいり)」

――と筆太に認めて御座った。……

――その後よりは、またしても

「管絃組(かんげんぐみ)」

――と書いたる幟をおっ立てて

――しゃぎりに笛に太鼓!

♪チャンチキ♪ ♪ピーヒャラ♪ ドンツク! ドドン!

――と、葬送致いて御座った。

――真福寺の本堂の脇へ

――これら幟や笠鉾を立てかけ

――既に、かの生前の馴染みの者どもより、夥しき数の貫錢(かんせん)が何本も納められて御座ったによって

――その貫銭を以って購(あがな)ったる蜜柑やら、饅頭や餅菓子を蒸しおいたる蒸籠(せいろ)やらが、これ

――山のように積まれて御座って

――さても、葬送の終わらばこそ

――かの、鞴(ふいご)祭りよろしく

――源坊が弔いに訪れたる会衆の者らへ

――その蜜柑や饅頭、餅菓子を投げ取らせて御座った……。

……いや! まっこと、何とも不思議なる弔い……一つの奇談では、御座いましたのぅ。……」

とのことで御座った。

 その近くに住む私の知人の、松山某にもこのことを訊ねてみたところ、

「……いや!……そのご老人のお話……これ、寸毫も違(たが)わぬこと。……この四ツ谷界隈にては専らの噂話として、知らぬ者は御座いませぬ。」

とのことで御座ったよ。

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