杉田久女句集 325 杉田久女句集未収録作品 ⅩⅩⅩⅠ 昭和十一年(全)
昭和十一(一九三一)年
冬凪げる湖上の富士を見出けり
横濱税關
屋上の冬晴にあり富士かすむ
[やぶちゃん注:既注したが、昭和七(一九三二)年八月に長女昌子さんは横浜税関長官房文書係雇として就職していた。]
街路樹の黄葉あたたかし電車まつ
夜の街に去年のなじみの菊うり女
まちあほす冬日の町の時計臺
ユダともならず
春やむかしむらさきあせぬ袷見よ
[やぶちゃん注:久女満四十六歳のこの年の十月、彼女は突如、虚子によって『ホトトギス』から除名される。同月発行の『ホトトギス』上での除名社告『同人變更/從來の同人のうち、日野草城、吉岡禪寺洞、杉田久女三君を削除し、淺井啼魚、瀧本水/鳴兩君を加ふ。/ホトトギス發行所』(底本年譜引用の者を恣意的に正字化した)による一方的なものであった。既に『ホトトギス』には前年九月から全く入選しない状態が続いていたが(坂本宮尾氏の「杉田久女」に拠る)、除名理由は現在に至るまで明らかとなっていない。久女自身にも解らなかったのである。その辺りの真相は坂本宮尾「杉田久女」に詳しいので、一読をお勧めするが、この句については同書中に坂本氏の非常に素晴らしい解説と評釈がある。少し長いが、引用させて戴く(「Ⅵ 同人削除以後」の「一 失意の日々」の冒頭「ユダともならず」という見出しを持つ冒頭部である)。
《引用開始》
昭和十一年に同人除名の公告が出された後も、久女はいつの日にか虚子の勘気が解けて、同人に返り咲くことがあると思っていたのであろう。別の結社に移るということはしなかった。
除名後に「俳句研究」に発表された作品をみよう。昭和十一年十二月号の自選十句のうち、
ユダともならず
春やむかしむらさきあせぬ袷見よ
前書には、除名されてもホトトギスを裏切る者ではないという思いがこめられている。この句は言うまでもなく在原業平の、「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ我身ひとつはもとの身にして」の本歌取りである。業平は月が美しい春の夜に、自分ひとりは元のままであるのに、自身をとりまく状況はすっかり変わってしまったと嘆いている。久女の句からにじむ思いは、業平と同じく「我身ひとつはもとの身にして」という深い詠嘆である。
紫という色は万葉の時代から情感をこめて詠まれてきた。大海人皇子(おおあまのおうじ)は額田王(ぬかたのおおきみ)の歌に応えて、「紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あれ)恋ひめやも」(1―二一)(紫の色が美しく匂うように美しいあなたを、もし憎く思っていたなら、人妻と知りながら、どうして恋い慕うことなどあろうか)。また、麻田陽春(あさだのやす)は大伴旅人を送る別れの宴で、「韓人(からひと)の衣染(ころもそ)むとふ紫の心に染みて思ほゆるかも」(4―五六九)(韓国の人が衣を染めるという紫のように、心にしみてあなたのことは忘れがたいことだ)と詠んだ。
久女は紫色を純情のメタファーとして用いている。「むらさきあせぬ」の中七で万葉ゆかりの紫色に託して、俳句に、また虚子に対する彼女の変わらぬ思いを訴えている。
同人除名が久女に与えた打撃は計り知れないものであった。蘇峰の孫、名和長昌氏はつぎのような少年時代の夏の出来事を伝えている。昭和十一年の七月に、久女は蘇峰の山中湖畔の別荘、双宜荘で家族のように温かくもてなされた。翌年、除名された傷心を抱えて彼女は蘇峰を慕って、ふたたび双宜荘を訪れた。その年は暑い夏で別荘は千客万来でどの部屋もいっぱいであったため、別の旅館に案内された。蘇峰にも冷たく扱われたと思いこんだ久女は旅館に上がらず、次第に激昂して、大声で叫び出し、駅員や駐在の巡査も出てくる騒ぎになった。結局久女は駅のベンチで一夜を明かして帰って行ったという(「双宜荘の杉田久女」)。突然の除名以来、久女は周囲から好奇の視線をあび、冷たい扱いをされ、もう誰も信じることができなくなっていたのであろう。なんとも痛ましい話である。
《引用終了》
「蘇峰」は徳富蘇峰。虚子の序文が得られなかった久女は、虚子の渡欧中に両者に親しかった蘇峰(虚子はかつて、蘇峰の創刊した『国民新聞』の俳句欄の選者であり社員の一人であった)に句集出版を持ちかけていた(宮本氏の同書によれば実はこれが虚子の久女除籍の最後の動機でもあったらしい)。この名和長昌氏の話は――久女伝説とは切り離して――事実であったと私は思う。私は――駅のベンチに一夜を明かす――その久女の姿を――見たことがあるようにさえ感じるからである……]
歸朝翁横顏日やけ笑み給ふ
[やぶちゃん注:年譜に同年『二月、門司にて虚子の渡欧を送る』とある。例の虚子の没後の「墓に詣り度いと思つてゐる」(『ホトトギス』昭和二一(一九四六)年十一月)で捏造形成されることになる、おぞましき久女伝説の一つ、所謂「箱根丸事件」(の一部)があったとされる折りの送別吟であろう。この一句には『氣違ひじみ』(「墓に詣り度いと思つてゐる」の一節。但し、坂本宮尾氏の「杉田久女」より孫引き)た彼女の姿は全く見えてこない。]
粟の花そよげば峰は天霧らひ
[やぶちゃん注:老婆心乍ら、「天霧らひ」は「あまきらひ」と読む。「霧らひ」は「きらふ(きらう)」で、霧や霞が一面に立ちこめるの意の上代語である。これは「霧が立つ」の意(他に「目が曇る」「涙で霞んではっきり見えない」の意がある)のラ行四段の自動詞「霧(き)る」の未然形に反復・継続の上代の助動詞「ふ」(ハ行四段と全く同じ活用をする)がついた連語であるが、平安以後には「語らふ」「住まふ」「慣らふ」「願ふ」「交じらふ」「守らふ」「呼ばふ」などの特定の動詞の活用語尾に残るだけで接尾語化してしまう。「霧らふ」もハ行四段活用の自動詞のように振る舞う語といえる。]
栗の花そよげば晴れぬ窓の富士
こぎいでて倒富士見えずほととぎす
[やぶちゃん注:「倒富士」は流石に「さかさふじ」と訓じていよう。]
灯さぬ水邊のキャンプ早も寢し?
[やぶちゃん注:「キャンプ」の拗音表記や「?」はママ。但し、底本の「?」活字は明らかに標記通りの半角である。初五は「ともさぬ」であろうが、索引は「ひ」の項にある。「?」は底本本文句表示の行の高さの中に納まっており、確信犯で句の一部、下五の末尾であって、例えば疑いを示す編者による附帯記号などではない(但し、表記が半角であるのはやや気にはなる)。無論、久女の句表現としては他に例を見ない異様異形なものである。しかし、この昭和十一年なればこそあったとしておかしくないのである。]
鳥の巣もぬれて赤富士見に出よと
嶺靑し妹と相みる登山驛
[やぶちゃん注:「妹」久女に妹がいたかどうかは不詳。「妹」は久女の句ではこの句にのみ出る特異点の漢字である。「登山驛」不詳。可能性としては箱根湯本か。]
信州
杏熟れ桑照り四方は靑嶺晴
賑はしや市場はつゆの疏菜競(せ)る
わがたちゐピアノにうつり菊の前
雲海の夕富士紅し稻架の上
菊携げて笑みかほす目に情あり
花園に糞する犬をとがめまじ
旅に出てやむ事もなし柿と粟
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