日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 下関海峡を通過する
図―540
図―541
翌朝は豪雨で、あらゆる物がぼやけて見えた。午後二時、我々は下関海峡を通過したが、四大国が要塞と町とを砲撃し、続いて三百万ドルを賠償金という名目で盗み、この国民を大いに酷い目にあわせたことを考えた私は、所謂文明民族なるものを耻しく思った【*】。図510は下関の町を急いで写生したものである。我々が海峡にとどまった短い間、雨がひどく降り、周囲は甚だ朦朧としていたので、私は内海の方を見て、いそいで輪郭図を書くことしか出来なかった(図541)。
* 数年後合衆国だけ、この賠償金の自分の分をかえした。日本はこれを正義の行為として、十分にうれしく思っている。
[やぶちゃん注:ここで語られるのは、所謂、下関戦争(馬関戦争)のこと。文久三(一八六三)年と同四年の前後二回に亙って行われた攘夷思想に基づく長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国との間に起きた武力衝突事件。参照したウィキの「下関戦争」によれば、現在は最初の武力衝突を「下関事件」、翌年のそれを「四国艦隊下関砲撃事件」と呼んで区別するとある。また、戦後処理に於ける「下関賠償金」の項によれば、長州藩との講和談判によって三百万ドルもの『巨額の賠償金は幕府に請求されることになった。イギリスはこれを交渉材料に仏・蘭と共に将軍徳川家茂の滞在する大坂に艦隊を派遣し、幕府に安政五カ国条約の勅許と賠償金の減額と引換に兵庫の早期開港を迫ったが(兵庫開港要求事件)、兵庫は京都の至近であり、朝廷を刺激することを嫌った幕府首脳部は』この巨額の賠償金を受け入れ、幕府は半分の百五十万ドルを支払い、明治維新後は新政府が残額を明治七(一八七四)年までに分割で支払っている。モースが注で述べているのは、記載時間の五年後の明治一六(一八八三)年二月二十三日に、チェスター・アーサー米国大統領が不当に受領したとする下関賠償金(約七十八万五千ドル)について日本への返還を決裁したことを指す(三百万ドルの賠償金の分配はアメリカ・フランス・オランダの三ヶ国の船艦が四十二万ドルを分け、残額二百五十八万ドルは連合艦隊の四ヶ国に分けた)。ウィキによれば、当時の実際の米国の損失は、米国船ペングローブ号の日時を要した費用五日分千五百ドル・長崎に寄港出来なかったことによるの損害六千五百ドル及び水夫への危険手当二千ドルのみで、米国の損害額は計一万ドルに過ぎなかった。しかも『この賠償金は米国政府の公認を得たものでなく、弱小日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであった。アメリカ合衆国国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していた』。その実情を明治五(一八七二)年に『フィッシュ国務長官が森有礼公使に伝えた事から』、実際には『日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものである』と記す。後の明治二二(一八八九)年、返還金の元利金約百四十万円を横浜港の築港整備費用(総額二百三十四万円)に充当、明治二九(一八九六)年五月に新港の完成をみた、とある。]
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