甲子夜話卷之一 28 松平新太郞どの、丸橋久彌謀叛のとき伊豆どの御宅へ馳參る事
28 松平新太郞どの、丸橋久彌謀叛のとき伊豆どの御宅へ馳參る事
松平新太郞少將〔備前國主〕と、今も世に云ほどなれば、其生存のとき人望の歸せしは格別なることなりけん。世に謂ふ、由井正雪が異心沙汰の時、何れの處にか池田家の紋つけたる灯燈を數多つくると聞て、卽單騎にして、松平信綱の〔伊豆守老職〕邸に往しに、折節信綱飯を食して居たるが、箸を投て對面せり。少將曰、吾家の挑灯夥しく造るものありと承る。野心を抱て府を動かすことを謀るものあるべしと存候。速に搜捕あるべしとなり。信綱心得て奸黨を索るに、乃正雪の屬、丸橋久彌が爲る所なりしとなり。又正雪此擧發行の時に、池田家の紋灯燈をさゝげて、新太郞少將ぞ叛したりと唱へば、府下の人々氣おくれして、敵するものあるまじとの隱謀なり。かくまで人の畏服すると云は並々ならぬことなるべし。少將も亦己を知る所の明なると、人を量るの略と、眞に感ずべきことどもならずや。
■やぶちゃんの呟き
これは同じ出来事を提灯屋の目線まで下げたリアルな話が私の電子テクスト「耳嚢 巻之七 備前家へ出入挑燈屋の事」に載る。「松平新太郎少將」池田光政(新太郎は通称。初名は幸隆で元和九(一六二三)年七月に十五で元服、この時に第三代将軍家光の偏諱を拝受して「光政」と名乗った)や慶安四(一六五一)年の慶安の変の首謀者由井正雪などの注はそちらをご覧あれかし。
「今も」「甲子夜話」の執筆開始は文政四(一八二一)年十一月の甲子の夜であるから、光政没年(天和二(一六八二)年)からなら百三十九年、慶安の変なら百七十年前に相当する。
「松平信綱」(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)は松平伊豆守の呼称で知られる老中(武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主)。家光・家綱に仕え、幕府創業の基礎を固めた。
「丸橋丸久彌」は「丸橋忠彌」(まるばしちゅうや ?~慶安四(一六五一)年九月二十四日)の誤り。彼は浪人で「慶安の変」に於いて江戸幕府の転覆を図った人物の一人。参照したウィキの「丸橋忠弥」によれば、『出自に関しては諸説あり、長宗我部盛親の側室の子として生まれ、母の姓である丸橋を名乗ったとする説、上野国出身とする説(『望遠雑録』)、出羽国出身とする説など定かではない。なお、河竹黙阿弥の歌舞伎『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)では、本名は「長宗我部盛澄」(ちょうそかべもりずみ)と設定されている』。『友人の世話で、江戸・御茶ノ水に宝蔵院流槍術の道場を開く。その後、由井正雪と出会い、その片腕として正雪の幕府転覆計画に加担する。しかし、一味に加わっていた奥村八左衛門が密告したため幕府に計画が露見。そのため捕縛され、磔にされて処刑された』。『辞世の句は「雲水のゆくへも西の そらなれや 願ふかひある 道しるべせよ」。墓所は、東京都豊島区高田の金乗院、品川区妙蓮寺』とある。ウィキの「池田光政」には、『光政は幕府・武士からは名君として高く評価されていた。慶安の変の首謀者である由井正雪などは謀反を起こす際には光政への手当を巧妙にしておかねば心もとないと語って』おり、『また由井の腹心である丸橋忠弥は光政は文武の名将で味方にすることは無理』であろうから、『竹橋御門で桶の中に扮して射殺すべき策を立てたという』とある。また、実は心学に拘った明主光政のことを、朱子学を推奨していた幕府自体が恐れていたともある。ともかくもその事蹟は静山ならずとも惹かれる名君と言える。
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