橋本多佳子句集「海彦」 春 落椿 / 阿修羅の掌 / 信濃三月
信濃三月
句が作れず、春雪深き長野に一人旅立つ
雪原に没る三日月を木星追ひ
[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年の年譜に、『三月、句作れず、春雪の深い信州へ一人で行く。長野市の木口奈良堂居に滞在。積雪五尺余の内山紙漉場等へ吟行。湯田中へ泊る。連日雪崩つづく。小諸の小林朴壬居に泊る。バスにて雪崩の中仙道、和田峠を諏訪に行き、諏訪湖畔の伊東総子居に着く』とある。]
三日月を駆りて疾(はや)しや橇の馬
どこも雪解稚子より赤き毯ころがり
長野市木口奈良堂氏の許に滞在
階下に手斧(てうな)の音雪どんどん解くる
内山紙漉場へ行く、なほ積雪五尺余り
紙漉女(め)と語る水音絶間なし
日当ればすぐに嬉しき紙漉女
雪嶺が雪嶺を負ひ紙漉き老ゆ
深雪の下くゞり来し水漉場に入る
雪原の太陽乙女灼きに灼く
枯れ立つは胡桃雪嶺いくつも暮る
[やぶちゃん注:「内山紙」奥信濃の長野県下高井郡木島平村内山で寛文元(一六六一)年に始めたとされる手漉き和紙。詳細は内山紙協同組合公式サイトを参照されたい。]
湯田中に泊る、雪崩つゞく 三句
一夜の床敷きくるる乙女雪崩音
旅の髪よりつめたきピンをいくつもぬく
子守唄そこに狐がうづくまり
雪野暮れすぐ木星より光来る
一族の墓雪嶺(せつれい)根より真白
雪に一歩一歩何の荷ぞ子の負ふは
電線や雪野はるばる来て吾を過ぐ
ぅつむくときおのが息の香雪野にて
切れ切れの雪野の虹をつぎあはす
一粒の星もこぼさず雪の原
信濃雪解(ゆきげ)口をそゝぎて天美し
小諸小林朴壬氏を訪ふ 二句
鱗甘(うま)し雪解千曲の荒鯉なり
母のどこか摑みてどれも雪焼け子
赤き雪下駄見てそのをとめを見上げる
雪解の中仙道、和田峠をバスにて諏訪へ下る
千木(ちぎ)の屋根重しや雪消(け)ざる家
[やぶちゃん注:「和田峠」長野県長和町と下諏訪町の間にある。最大標高一五三一メートル。参照したウィキの「和田峠」によれば、まさに多佳子が越したこの昭和二八(一九五三)年に、和田峠を含む前後の区間が国道一四二号に指定されている。『和田峠トンネルは戦前戦後を通じ、坑口のコンクリート覆いを延伸するなどの対策で積雪等への対処が図られてきたが、幅員は』現在も自動車一台分強の狭いままで、『信号機を設置して交互通行するようにされている』。後の昭和五三(一九七八)年、『低い標高の新和田トンネルで貫通する新和田トンネル有料道路が』『開通したことで、旧道は幹線道路としての役割を終えた。旧道の国道指定は解除されていないものの、現在の幹線自動車交通の大半は新トンネル経由の新道で賄われている』。『また、尾根道のビーナスライン(旧霧ヶ峰有料道路)が旧中山道と交わるかたちで通っており、旧道のトンネルの長和側出口付近で接続されている(ビーナスラインが有料だった頃は料金所が設置されていた)。この連絡もあって、旧道は観光道路としての性格が強くなっている』とある。
「千木(ちぎ)」は現行では神社の大棟の両端に載せたX字状の飾り材で堅魚木(かつおぎ)(神社本殿の棟上に棟と直角に太い丸太上の飾り材を並べたもの)とともに神社建築のシンボルであるが、古くは上流階級の屋敷の棟にも設けられ、私も山家の旧家にこれを見たことがあるから、ここも神社と限定する必要はなかろう。]
山バスも春水も疾(はや)し平地恋ひ
雪解の泉飲まむとすれば天うつる
和田峠茶屋にて暮れる
ランプの焰(ほ)ペロリとゆがむまた雪崩れる
雪崩音暮るれば明きランプの辺(へ)
諏訪湖畔の伊東純子さんの家に着く
吾待たで諏訪の大湖凍解(いてと)けたり
寝ね足りぬ紅梅は蕊朝日に向け
雪解鳩よろこぶこゑを胸ごもらせ
卒業歌弾くこの家(や)のをとめまだ吾見ず
信濃いま蘇枋紅梅氷(ひ)解くる湖(うみ)
[やぶちゃん注:「蘇枋」は「すはう(すおう)」。ジャケツイバラ亜科ハナズオウ Cercis chinensis 。同定の根拠を含め、既注。]
諏訪のうなぎ氷解けて揺られ吾食(た)うぶ
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