『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」 理智光寺蹟
●理智光寺蹟
理智光寺蹟は大塔宮土籠の東南にあり。五峰山と號す。開山は願行又大塔宮の牌(はい)ありて沒故兵部卿親王尊靈。裏に建武二年七月二十三日とありしと云ふ。
[やぶちゃん注:現在、大塔宮の墓の南西の谷を理智光寺谷と称し、この大塔宮墳墓を含むこの谷戸全域を寺域としていたと考えられる。明治二(一八六九)年に廃寺となり、現在、寺域の殆んどは宅地化されている。「鎌倉廃寺事典」によれば、南北朝頃までは「理智光院」と称しており、天文年間五(一五四七)年前後以降、「理智光寺」となったものと推定される、とある。「新編鎌倉志卷之二」に、
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○理智光寺 理智光寺(りちくはうじ)は、五峯山(ごほうざん)理智光寺と號す。土の籠の東南なり。【太平記】には、理致光院とあり。本尊は阿彌陀、作者知れず。腹中に名佛を藏(をさ)むる故に、俗是を鞘(さや)阿彌陀と云ふ。開山は願行。牌に當寺開山勅謚宗燈憲靜宗師とあり。願行の牌なりと云ふ。又大塔宮(をほたふのみや)の牌あり。沒故兵部卿親王尊靈と有。裡(うら)に建武二年七月廿三日とあり。此牌は淨光明寺の慈恩院に有しを、理智光寺にあるべき物也とて、慈恩院より當寺へ移し置く也。
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とあり、また「鎌倉攬勝考卷之五」には、
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理智光寺 五峰山と號す。永福寺舊跡より東。古へは此邊も大倉と號しけり。往昔、貞永元年十二月廿七日、後藤大夫判官基綱、故右府〔實朝〕追薦の奉爲(をんため)に、大倉に一寺建立の功をなせり。供養導師は辨僧正定豪〔鶴岡大別當〕と云云。夫より後に至り、理智光寺と稱し、願行を開山とし、禪律にて、京都泉涌寺の末也。開山願行の牌に、開山勅諡宗燈憲靜宗師と有。佛壇に大塔宮の牌あり。寺傳に云、淨光明寺の慈恩院に有しが、是は常寺に有べきものとて、爰へ移せしといえり。本尊阿彌陀〔作知れず。〕腹籠りに靈佛を納しゆへに、土人是を鞘阿彌陀と唱ふ。此寺今は尼寺と成。山内東慶寺の末となれり。
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江戸の終り頃には少なくとも禅宗で東慶寺末寺の尼寺であったことが分かり、さらに「相模国風土記稿」を見ると、理智光寺の項は『今は此の彌陀堂のみにして東慶寺の持となれり』と終っており、最早、廃寺直前には無住となっていたことが窺われる。なお、「鎌倉廃寺事典」によれば、この阿弥陀堂は理智光寺谷入口にある大塔宮墓所の登り口付近にあったらしい。また、この本尊鞘阿弥陀は廃寺後に覚園寺に移され、現在は同寺の薬師堂に客仏として安置されている(但し、あったという胎内仏は現存しない)。
「願行」上人憲静は真言僧で京都泉涌寺第六世、顕密浄律の諸宗に兼通した高僧。本尊が最後に行き着く覚園寺が真言宗泉涌寺派(元は四宗兼学の道場)であったこと、理智光寺が戦国時代に衰微した際に同じく真言宗泉涌寺派である浄光明寺の慈恩院(院としては廃寺)が兼務或いは管理していたことが史料から分かっており、もともとの宗旨は(同事典では未詳とする)真言宗であったと考えてよいであろう。
「建武二年」西暦一三三五年。]
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