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2015/01/31

耳囊 卷之九 鬼火の事

 

 鬼火の事

 

 大御番の在番に箱根宿に泊り、夏のことなれば、同勤の面々旅宿に打寄(うちより)て、酒抔給(た)べて涼み居(ゐ)たりしに、向ふなる山より壹ツの火、丸く中(ちう)にあがりけるを見付(みつけ)、あれは何ならんと人々不審しけるに、二つにわかれ又飛𢌞り、或は集り又は幾つにもわかれぬるを興じけるに、やがて此方(こなた)へ來るやうなれば人々驚きて、何ならんと高聲(たかごゑ)に語り合(あひ)けるに、旅宿の男聞付(ききつけ)て、早々座舖(ざしき)へ出、疾々(とくとく)這入(はひいり)給ふべし、後には害もあるなりと、殊外(ことのほか)恐れ、早々に戶抔たてける故、何れもなむとなく怖しくなりて内に入りけるとぞ。天狗火(てんぐび)などいふものならんと、石川翁かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:本格怪談で連関し、前話の話者「石川某」と、この「石川翁」は、孰れも大御番を勤めており、やはり全く同じその赴任(前話は帰府の途次ともとれる)の途中の直接の実体験の怪談としても連関、そうしてこれはもう、同一人物としか思われないから、話者同一で、トリプル連関である(かなり珍しい連関ケースである)。前話注で述べた通り、先行作品にこの人物、情報屋として多出する。「翁」と呼ぶ以上は、「卷之九」の執筆推定下限の文化六(一八〇九)年で根岸は七十二歳であるから、それより高齢の人物であることは間違いない。なお、この「耳囊」の「鬼火」譚を今の連中が読むと、恐らくUFO――飛行分裂するタイプ――か、大気中にプラズマ状で存在するといわれる非常にユニークな未確認生物クリッターだ、なんどと言いそうだ。

・「鬼火」私のサイトブログの名でもあるので、ここは一つ、ウィキの「鬼火」をほぼ全文引かせて戴くのをお許しあれ(注記号は省略した。なお、ただの引用ではなく、リンク先のリンクも活用してある。また、何箇所かには私の忘れ難い感懐も添えてあるので、この注、お暇な折りにじっくり読んで戴きたいというのが私の本音である)。『日本各地に伝わる怪火(空中を浮遊する正体不明の火の玉)のことで』、『伝承上では一般に、人間や動物の死体から生じた霊、もしくは人間の怨念が火となって現れた姿と言われている。また、ウィルオウィスプ、ジャックランタンといった怪火の日本語訳として「鬼火」の名が用いられることもある』(「ウィルオウィスプ」はリンク先のウィキによれば英語の「will-o'-the-wisp」で、「一掴みの藁のウィリアム(松明持ちのウィリアム)」の意。死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続けるというウィル(ウィリアム)という名の男の魂とするもの。生前は極悪人で、遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きを言い渡されそうになった所を、言葉巧みに彼を説得し、再び人間界に生まれ変わる。しかし、第二の人生も悪行三昧で、またしても死んだ時、死者の門で聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかりならん」と断ぜられて煉獄の中を漂うことになったが、それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィルに明かりとして渡した。この時、ウィルはこの石炭の燃えさしを手に入れ、その光が人々に鬼火として恐れられるようになったという。「ジャックランタン」の方は、同じくリンク先のウィキによれば、英語の「Jack-o'-Lantern」で、お馴染みのハロウィンの南瓜ランタンがそれ。アイルランド及びスコットランドに伝わる鬼火のような存在。名前は「ランタン持ちの男」の意。火の玉の姿の他、光る衣装を身に纏うカボチャ頭の男の姿であらわれることもある。生前に堕落した人生を送ったまま死んだ者の魂が死後の世界への立ち入りを拒否され、悪魔からもらった石炭を火種にし、萎びて転がっていたカブをくりぬき、それを入れたランタンを片手に持って彷徨っている姿だとされている(「ウィルオウィスプ」と同伝承)。また、悪賢い遊び人が悪魔を騙し、死んでも地獄に落ちないという契約を取り付けたものの、死後、生前の行いの悪さから天国へいくことを拒否され、悪魔との契約により地獄に行くことも出来ず、蕪に憑依して、この世を彷徨い続けている姿だともされている。こちらにはしかし、旅人を迷わせずに道案内をするという良き一面を持つ伝承もある)。『江戸時代に記された『和漢三才図会』によれば、松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされる』。また同書の挿絵からは、大きさは直径二~三センチメートルから二〇~三〇センチメートルほどで、地面から一~二メートル離れた空中に浮遊すると推察されてある(ここにまさに「耳嚢」の本話の概説が入る)。その外観は『前述の青が一般的とされるが、青白、赤、黄色のものもある。大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまである』。一個か二個しか現れないこともあれば、一度に二十個から三十個も現れ、『時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともある』。幾つもの例を見るに『春から夏にかけての時期。雨の日に現れることが多い』ようである。『水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れるが、まれに街中に現れることもある』。『触れても火のような熱さを感じないものもあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまうものもある』。『鬼火の一種と考えられている怪火に、以下のようなものがある』として、以下の四つが挙げられてある。それぞれのウィキのリンク内容を以下に附す(表題のリンクがそこ)。

不知:九州に伝わる怪火の一種。旧暦七月の晦日の風の弱い新月の夜などに八代海や有明海に現れる。現在これは蜃気楼の一種として解明されている。

●小右衛門火(提灯火):田の畦道などに出没し、地上から高さ一メートルほどの空中を漂い、人が近づくと消えてしまう。四国の徳島県では、一度に数十個もの提灯火が、まるで電球を並べたかのように現れた様子が目撃されている。化け物が提灯を灯していると言われていたことが名の由来で、狐の仕業ともされる。徳島県三好郡などでは、この提灯火のことを狸火(たぬきび)と称する。大和国葛下郡松塚村(現在の奈良県橿原市)では、こうした怪火を小右衛門火(こえもんび)と呼ぶ。

じゃんじゃん火:奈良県各地に伝わる怪火。鬼火の一種とされる。「じゃんじゃん」と音を立てるとされ、心中者や武将などの死者の霊が火の玉に姿を変えたものとする伝承が多い。私は中二の時に買って読んだ今野圓輔氏の編著になる「日本怪談集〈幽霊篇〉」(五六~五八頁)――この本は小学校三年の時に読んで痺れた小泉八雲の怪談・奇談に次いで、私の怪奇趣味の淵源となった忘れ難い書である――のこの名前が頭にこびりついて離れない。私にはとびっきりの怨念の鬼火・人魂として、この名が刻印されてしまっているのである。ついでに脱線しておくと(実は私は箱根繋がりで脱線だと思っていないのだが)、この本にはやはり恐ろしい話として、乗鞍連峰の朝日岳山頂の千町ヶ原「精霊田(しょうらいだ)」での亡者との遭遇譚(昭和二四(一九四九)年の話として別冊「週刊サンケイ」に載るもの)が載るのだが、この「しょうらいだ」という地名が私には何故か、箱根登山電車の駅名「入生田」(いりうだ)と連動してしまっており、あの箱根の駅の名を聴いたり、そこを通り過ぎると、自動的に「ジャンジャン火」が起動して鬼火の群れ見えてしまうのである! 少年期の擦り込みは凄い。こうしてタイピングしていても、五十七の私は、何だか、体がゾクゾクしてきたのである……

天火:「てんか」「てんび」「てんぴ」などと読む。日本各地に伝わる怪火の一種。かつては天火は怨霊の一種と考えられていたともいい、一例として、熊本県天草諸島の民俗資料「天草島民俗誌」に載る伝説によれば、ある男が鬼池村(現在の天草市)へ漁に出かけたが、村人たちによそ者扱いされて虐待され、それがもとで病死した。以来、鬼池には毎晩のように火の玉が飛来するようになり、ある夜に火が藪に燃え移り、村人たちの消火作業の甲斐もなく火が燃え広がり、村の家々は全焼した。村人たちはこれを、あの男の怨霊の仕業といって恐れ、彼を虐待した場所に地蔵尊を建て、毎年冬に霊を弔ったという、とある。このケースは怨念の火が実際に火災を引き起こすという比較的稀なケースと言えるであろう。

『狐火もまた、鬼火の一種とみなす説があるが、厳密には鬼火とは異なるとする意見もある』。以下、上記以外の各種鬼火(見易くするため。表題に●を附し、アラビア数字を漢数字に代えた)。

   《引用開始》

●遊火(あそびび)

高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという。

●いげぼ

三重県度会郡での鬼火の呼称。

●陰火(いんか)

亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火。

●風玉(かぜだま)

岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ。明治三十年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたという。

●皿数え(さらかぞえ)

鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にある怪火。怪談で知られる『皿屋敷』のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの。

●叢原火、宗源火(そうげんび)

鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にある京都の鬼火。かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている。江戸時代の怪談集『新御伽婢子』にもこの名がある。

●火魂(ひだま)

沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる。

●渡柄杓(わたりびしゃく)

京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる。

●狐火(きつねび)

様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の更科公護は、川原付近で起きる光の屈折現象と説明している。狐火は、鬼火の一種とされる場合もある。

   《引用終了》

『まず、目撃証言の細部が一致していないことから考えて鬼火とはいくつかの種類の怪光現象の総称と考えられる。雨の日によく現れることから、「火」という名前であっても単なる燃焼による炎とは異なる、別種の発光体であると推察されている』。『注目すべきは昔はそんなに珍しいものでもなかったという点である』。『紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていた。当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、後述する元素のリンを指す言葉ではない』(所謂、燐光という感覚的な発光現象の謂いであろう)。『一方の日本では、前述の『和漢三才図会』の解説によれば、戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したものとされていた』。「和漢三才図会」から一世紀後の十九世紀以降の日本に於いては、『新井周吉の著書『不思議弁妄』を始めとして「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と語られるようになった。この解釈は』大正から昭和初期頃まで『支持されており、昭和以降の辞書でもそう記述されているものもある』。『発光生物学者の神田左京はこれを』、一六九六年に『リンが発見され、そのリンが人体に含まれているとわかったことと、日本ではリンに「燐」の字があてられたこと、そして前述の中国での鬼火と燐の関係の示唆が混同された結果と推測している』。『つまり死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象だったと推測される』とある。

 私の亡き母も少女時代に墓の傍で光るものを見て驚いたが、父(私の祖父。歯科医)が「あれは人間の骨に含まれる燐(リン)と呼ばれる成分が発光するに過ぎない」と言われて、母は亡くなるまでまでそう思っていた。

『これで多くの鬼火について一応の説明がつくが、どう考えてもリンの発光説だけでは一致しない証言もかなり残る』。『その後も、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという説、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説などが唱えられており、現代科学においては放電による一種のプラズマ現象によるものと定義づけられることが多い』。『雨の日に多いということでセントエルモの火(プラズマ現象)と説明する学者もいる。物理学者・大槻義彦もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えている』。『さらに真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性も』あろうとある。『いずれの説も一長一短がある上、鬼火の伝承自体も前述のように様々であることから、鬼火のすべてをひとつの説で結論付けることは無理があ』り、『また、人魂や狐火と混同されることも多いが、それぞれ異なるとする説が多い一方、鬼火自体の正体も不明であるため、実のところ区別は明確ではない』とある。こうした超常現象のウィキ記載はなかなか難しいが、私はこの多様な形態と起源ン持つ「鬼火」をかなりよく書いていると思う(言っておくが、これは多量引用のお世辞でない)。

 因みに、申し添えておくと、私のサイトとブログの「鬼火」とは、この鬼火では、実は、ない。これはサイト・トップの写真やブログの画像の「 La fête est finie. 」(祭りは終わった。)見て戴ければ分かる通り、私の偏愛する映画 Drieu La Rochelle/Louis Malle "LE FEU FOLLET" (邦訳題「消えゆく炎」=映画邦題「鬼火」)の「鬼火」である。私個人は主人公 Alain の自死に至るまでのシンボルであり、またアランが寄って無名戦士の墓を自分のベッドと誤って寝ていたという、笑いを誘うエピソードを軽蔑するブランシオンに――『あなたに申し上げよう。酔って墓の上に眠っても、何も面白くない。眠るのなら墓の中に寝るべきだ――』――というシーンの向こうに、墓の蠟燭の朧に揺らめく形象でもあるのである――

・「丸く中」底本には「中」の右に『(宙)』と訂正注を打つ。

・「天狗火」ウィキの「天狗火」を引く(注記号は省略した。下線部やぶちゃん)。『天狗火(てんぐび)は、神奈川県、山梨県、静岡県、愛知県に伝わる怪火』で、『主に水辺に現れる赤みを帯びた怪火。その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされ、神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされる。夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいう』。『人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれている。そのため土地の者はこの火を恐れており、出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるという』。『遠州(静岡県西部)に現れる天狗火は、提灯ほどの大きさの火となって山から現れ、数百個にも分裂して宙を舞うと言われ、天狗の漁撈(てんぐのぎょろう)とも呼ばれている』。『愛知県豊明市には上記のように人に害をなす伝承と異なり、天狗火が人を助けたという民話がある。昔、尾張国(現・同県)東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいた。村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになった。水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったという』。『また同県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていたところ、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたという』。『しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあり、ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったという』。以下、鳥山石燕の「百器徒然袋」にある天狗火、松明丸(たいまつまる)の図と解説を載せ、『火を携えた猛禽類のような鳥として描かれ』、『天狗礫(天狗が降らせる石の雨)が発する光で、深い山の森の中に現れるとされる。暗闇を照らす火ではなく、仏道修行を妨げる妖怪とされる』とある。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鬼火の事 

 

「……大御番の在番に箱根宿に泊まり、夏のことなれば、同勤の面々と一つ旅宿にうち寄よって、嶺に開いた座敷の縁側で酒なんど酌み交わしつつ、涼んでおったところ……

――向うの山の中腹より

――一つの火が

――これ

――丸(まある)き形となって

――フゥワリ

と宙へ上がったを仲間内の者が見つけ、

「……あれは何じゃろう?」

と、皆して不審がっておったところ、これが、突然、

――二つに分かれ

――また

――飛び廻り

――あるいは集まり

――または

――幾つにも分かれては

……これ、あたかも――そうやって火の玉が魂を持って遊び興じておる――ようにしか見えませなんだのぅ。

 やがて、何と!それらが、今度はこちらへ向かって飛び来たるような雰囲気になって御座ったによって、我ら皆、驚きて、

「……あ、あの妖しきものは!」

「……あれぇ! こっちを向いたぞ!」

「……何(なん)なんじゃあッ! ありゃア!」

と高声(たかごえ)に語り合(お)うておったところが、旅宿の男がこれを聴きつけ、足早に我らが座敷へと参るや、

「――さ! さっ! は、早(はよ)うに内へお入りなされませ!――こ、これは後々(あとあと)――これ、恐ろしき害も、あるものに御座いますればッ!」

と、殊の外、恐るるさまにて、早々にその座敷の雨戸なんどをまで皆、閉(た)て切ってしもうたによって……我ら、孰れも皆、何となく、これ、怖しゅうなりましての……皆して、そそくさと、宿内(やどうち)の奥座敷へと移って御座った。……

……これは……何でも

――天狗火(てんぐび)

なんど申すもので御座ったらしい。…………」

と、石川翁の語って御座った。

耳嚢 巻之九 其境に入ては其風をかたく守るべき事

 

 其境に入ては其風をかたく守るべき事

 

 石川某、大御番を勤(つとめ)し頃、いづれの宿にやとまりけるに、風雨烈敷(はげしく)、殊外(ことのほか)あれけるゆゑ、主人よりも夫々申付(まうしつけ)ぬるに、此宿のあるじ、當所はかかる荒(あれ)の節は外へは人を出し不申(まうさざる)事にて、人馬の賃錢さへ受取に不參(まゐらざる)なり、必(かならず)御供の面々も外出をとゞめ給へといふ故、二三人合宿(あひやど)なれど、銘々主人より用達(ようたし)へ申付(まうしつけ)、外出を禁じけるに、同宿の御番衆の家來中間用達へ、先刻建場(たてば)にて草履(ざふり)の錢を貸(かし)たり、取(とり)に行度(ゆきたき)由を申(まうす)に付(つき)、主人よりの申付なれば決(けつし)て難成(なりがたし)と申(まうす)を、承知なして、又候(またぞろ)來り同樣相願へども、難成と再々應(さいさいおう)さし留(とめ)ぬれば、次の間の葛籠(つづらかご)など積(つみ)たる所に臥(ふせ)り居(をり)けるが、用達もの、渠(かれ)が樣子心許(こころもと)なく、立𢌞(たちまは)り搜しけるに最前臥(ふし)たる所に見へざれば、所々搜しけれど不見(みえざる)故、亭主を呼び猶(なほ)火をともし隈々を搜すに見へず。しかれば外へ出(いで)ぬらんと尋(たづね)しに、亭主答へけるは、こよひの如く大荒(おほあれ)の日は異變ある事、此土地のならはしなれ、見給へ、口々には錠締(ぢやうしま)りして決して出給ふ事なりがたしといふ。さるにても不思議なりとて、猶(なほ)火を燃しくまぐま尋(たづぬ)るに、大戶(おほと)締(しま)りあれど右戶に一寸斗(ばかり)もあらん、ふし穴あり。其穴の邊より其あたり血流れたゝへ、節穴も血に染(そみ)けるゆゑ、扨は右の穴より引(ひき)や出しけん、妖怪の所爲(しよゐ)なりと、いづれも舌をふるひ恐れけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本格怪談物。失踪と血だけ。これが怖い。

・「石川某」この人物、先行作に「石川某」以外に「石川翁」というのもあり、次の項に「石川翁」がまた出るから、これは恐らく総て同一人物と思われる。「翁」と呼ぶ以上は、「卷之九」の執筆推定下限の文化六(一八〇九)年で根岸は七十二歳であるから、それより高齢の人物で、宿場町を忘れているというのも納得出来る気がする。
 
・「大御番」大番。何度も注してきたが、ここでは交替の大番衆の一行で、人数も多いことが知れるので、この辺りで、ウィキの「大番を用いて再注しておく。『江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊』。『常備兵力としての大番は、同様の組織である五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)の中で最も古く』、天正一四(一五八六)年頃に『徳川家康が徳川家の軍制を変更した際に編制されたと考えられている』文禄元(一五九二)年に行われた江戸城改築に伴い、当時あった六組の屋敷地を『江戸城北西側に設けている(千代田区には一番町から六番町までが静岡市葵区には一番町から八番町までの町名が現在も残る)。開幕前の大番は松平一族や家康の縁類が番頭に就く事が多く、この当時は後の両番のような親衛隊的側面も有していた』。大番は当初は六組、『その後の増強と幕府制度の整備にともない、本丸老中支配として』十二組となり、『徳川秀忠が将軍に就任し、書院番・小姓組(創設当初は花畑番)が新たに創設されると親衛隊側面はそちらに移行し、大番は幕府の直轄軍事力となってゆく。そのため、将軍・大御所・世子の親衛隊ではない大番が西の丸に置かれる事はない』。一つの組は番頭一名・組頭四名・番士五十名・与力十名・同心二十名で構成され、番頭は役高五千石の菊間席で、『しばしば大名が就任した(開幕初期はその傾向が特に強い)。組頭は』役高六百石躑躅間席、『番士は持ち高勤め(足高の制による補填がない)であるがだいたい』二百石高の旗本が就任した。『役高に規定される番士の軍役から計算した総兵力は』四百人強となり、二万石程度の大名の軍役に匹敵した』。『職務は、戦時においては旗本部隊の一番先手として各種足軽組等を付属した上で備の騎馬隊として働き、平時には江戸城(特に二の丸』『下および要地の警護を担当する。大番の警護する要地には二条城および大坂城があり、それぞれに』二組が一年交代で在番した。この石川某はその二条城或いは大坂城大御番で、役格は番士クラスか。

・「用達」岩波版長谷川氏注に、『用達役。必要なものを調達する役』とある。

・「建場」「立場」が一般的表記。五街道やその脇街道に設けられた宿場と宿場との間に於いて、主に人足や駕籠舁きなどが途中休憩をするために設けられた場所。継立場(つぎたてば)・継場とも称した。ウィキの「立場」によれば、『原則として、道中奉行が管轄した町を言う。五街道等で次の宿場町が遠い場合その途中に、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種である。馬や駕籠の交代を行なうこともあった。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもある。また、立場として特に繁栄したような地域では、宿場と混同して認識されている場合がある』。『この立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)という。間の宿には五街道設置以前からの集落もある。中には小さな宿場町よりも大きな立場や間の宿も存在したが、江戸幕府が宿場町保護のため、厳しい制限を設けていた』。『現在、五街道やその脇街道沿いにある集落で、かつての宿場町ではない所は、この立場や間の宿であった可能性が高い』。

・「大戶」「おおど」とも読める。家の表口にある大きな戸。

・「一寸」三・〇三センチメートル。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 「郷に入ったら郷に従え」という諺は堅く守らねばならぬという事 

 

 石川某が大御番を勤めて御座った頃のこと――何処(いずこ)で御座ったか、昔のことなので失念致いた――同じ大御番衆らと、とある宿場に泊まったことがあった、そこでの出来事と申す……

 

……その日は、風雨激しく、殊の外、大荒れに荒れて御座ったれば、我らは、じきに供の者どもへ、

「――それぞれ、重々、用心なすように。」

と、申しつけておいた。

 すると、すぐ、宿の主人よりも、

「……当所にては、このようなる荒れの折りは、これ、決して外へ人を出さぬこと、これを掟(おきて)としてごぜえやす。……そうさ、宿入りの後に、まま参る駕籠や馬の賃銭の受け取りさえも、これ、参ること、ごぜえやせん。……さればこそ、ご覧の通り、皆、立て切ってごぜえやす。……どうか必ず、お供の方々のご外出も、これ、堅く、お留め下さいますよう、お頼(たの)申します。……」

と申し出のあったによって、二、三人の大御番衆朋輩(ほうばい)も同宿であったによって、それぞれの主人より、雑貨日用の品なんどの用達役(ようたつやく)の使用人を呼びつけ、堅く申し付けて、外出を禁じた。

 ところが、さる御仁の中間(ちゅうげん)が、用達役(ようたつやく)の者に、

「……ついさっき、宿場の手前の立場(たてば)にて、分宿なさっておらるる御番衆の、知れる中間に草履(ぞうり)の銭を貸したんで。そいつをちょいと、返えしてもらいにいきてえんだが。」

と申し出て参った。されど、用達(ようたつ)の男は、

「――ご主人さまよりの、きついお申し付け、これ、御座ったによって、決して、ならぬ!」

と厳しく制したれば、

「……へぇ!……」

と一度はしぶしぶ承知致いたものの、またぞろ、同じことを何度も執拗(しつこ)く繰り返し乞うて参る。

 用達(ようたつ)の男はその都度、突っぱね、

「だめじゃと言うら、だめじゃ!」

と禁足を厳命した。

 そのうち、結局、諦めたものか、控えの間の、道中葛籠(つづら)などを積み上げた所に、ふて腐れて、ごろりと横になったを見た。

 しかし、暫くしてこの用達(ようたつ)の男、どうもその中間の態度が、なんとのぅ心に引っ掛かったおったによって、様子を見にいってみれば、さっきふて寝しておったと思うた所には、これ最早、姿が――ない。

 あちこち泊まれる階を捜し廻ってみても、これ、やはり――おらぬ。

 宿中、厠の内なんどまでも覗いてみたが、これ、やはり――おらぬ。

 されば用達(ようたつ)の男、宿の主人を呼び、燈(ともし)を持って来させ、表の三和土(たたき)や土間の暗がりの隅々まで、捜しみたれども、これ、やっぱり、何処にも――おらぬ。

 されば、用達(ようたつ)の男、

「……さても……これ、外へと出た、か……」

と呟いたところが、宿の主人、これ、大きに驚き、

「……此度(こたび)の如く大荒れの日は、これ……必ずや、何ぞ妖しき怪異のあると……当地にては言い習わしてごぜえやす。……さればこそ、ご覧下せえやし! もう、あなたさま方がお着きになられてすぐに、出入り口という出入り口には、これ、ほれ!――心張り棒を差しおき、押しても引いても動かんようにした上――用心にも用心を重ね――かくも枢(くるる)を落し――こちらには、ちゃあんと、これ、錠をも鎖(さ)してごぜえやす。……さればこれ、この宿から出ていくなんちゅうことは、とっても出来る芸当にてはありゃしません! ここいら内を見ても、どこかを外して、誰か出ていったちゅうような、跡もなんも、これ、ありやしませんでのぅ?!」

と言う。

 確かに主人の言う通りで、中間が外へ出た形跡は、これ全く御座らなんだ。

「……確かに。……そうは申せど……これ……どこにもおらぬのも、また、確かなこと。……まっこと、不思議なことじゃ……」

と呟きつつ、なおも燈火(ともしび)を持って、宿の表正面の内側を見て廻ったところが、確かに大戸(おおど)は堅く閉ざされてはあったものの、厚いその戸板の丁度、真ん中あたり――人の眼の高さの辺り――そこに――これ――一寸ばかりの――小さなる節穴の――これ――あった。

……が……

――その節穴の辺りから……

――ぬうらり

――べったりと……

――血(ちい)が……

――ずうーっと……

――下へと垂れ……

――そこの土間に……これ……

――大きなる盛り上がった血溜りを成しておった。…………

……そうしてまた……

――その節穴を照らしみたところが……

――その小さなる節穴の周囲には……これ……

――凝り固まって……

――何やらん……

――べとべとになったる……

――肉片やら血(ちい)やら分からぬ……

――おぞましきものが……これ……

――こびりついておった。…………

 されば、

「……さ、さては……こ、この、ち、ちいさき穴より……そ、外へ……ひひひ、引きずり、出だいた、ものか?!……こ、これはぁ……もう……よ、妖怪の……仕業(しわざ)としか、思えぬわッ!!……」

と、これ、我らも含め、旅籠(はたご)内の者は皆一人残らず、その怪異に舌を震るわせて、戦(おのの)いて御座いましたじゃ。…………

北條九代記 卷第七 天變地妖御祈禱

      ○天變地妖御祈禱

去年の夏の比より天變打續きければ、武藏守泰時、深く痛思(いたみおもは)はれて、御祈り(おんいのり)の爲、諸寺の驗者(けんじや)に仰せて、五壇の法、一字金輪(いちじこんりん)、烏瑟差摩(うすさま)明王の祕法をぞ行ぜられける。諸國の國分寺にしては、最勝王經を轉讀すべき由、京都より宣下あり。民部大夫入道行然を奉行として、關東の分國に施行(せぎやう)せらる。「承久兵亂の後、諸國郡郷(ぐんがう)、莊園、新補(しんふ)の地頭等所務の事、まづ諸國の守護人(しゆごにん)は、大犯(だいぼん)三條の外は、過分の沙汰を致すべからず。守護地頭に就きて、領家(りやうけ)の訴訟、是あるの時、六波羅の召(めし)に應ぜざるの由、二度は宥恕(いうじよ)すべし。相觸(あひふるゝ)事三度に及ばゞ、仰付(おほせつ)けらるべし、次に竊盜(せつたう)の事、錢百文より以下の小犯(せうぼん)は、一倍(ばい)を以て償ふべし。百文以上は重科(ぢゆうくわ)なり。この身を搦捕(からめと)りて禁(いまし)むべし。妻子、親類、所從(しよじゆう)の輩(ともがら)、同心せざる者は煩(わづらは)すべからず。本(もと)の如く居住せしむべし。洛中諸社の神事祭禮に於いて、非職凡下(ひしよくぼんげ)の輩、武勇(ぶよう)を好む條、尤(もつとも)停止すべし」となり。又この間、炎旱(えんかん)頻(しきり)にして、疫癘(えきれい)諸國に流行す、是に依て、天下泰平國家豐稔(ほうしん)の爲、鶴岡八幡宮にして、三十口(く)の學僧を以て、大般若經を讀誦せしめ、重(かさね)て十日の問答講(もんだふかう)をぞ修せられける。五月中旬より、南風吹いて、日夜に小休(をやみ)なし。是に依て、由比〔の〕浦鳥居の前に於いて、風伯祭(かぜのかみまつり)行はる。法橋圓爾(ゑんに)、其(その)祭文(さいもん)を書き進ず。關東に、この祭の例(れい)なしといへども、京都に行はれしかば將軍家、御使を以て武蔵守に仰付けられ、大膳〔の〕亮泰貞、奉行す。この效驗(かうけん)にや、六月十七日、南風、漸く靜(しづま)りけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年四月十九日・二十一日、五月十三日・十七日、六月十五日・十六日に基づく。

「去年」寛喜二年。

「夏の比より天變打續きければ」前の三章を参照のこと。

「驗者」個人的には「げんざ」と読みたい。加持祈禱を行い、優れた功徳を齎し、また悪魔退散調伏を修すること出来る、そうした加持祈禱を修する資格を持った僧。

「五壇の法」特に密教で行われる修法の一つで、五大明王(不動明王〔中央〕・降三世(ごうざんぜ)明王〔東方〕・大威徳明王〔南方〕・軍荼利(ぐんだり)明王〔西方〕、及び真言宗では金剛夜叉明王を、天台宗では烏枢沙摩(うすさま)明王(後注参照)を北方に配するのが一般的)を個別に五壇に勧請安置なし、それら総てに国家安泰・兵乱鎮定・現世利益などを祈願する修法。天皇や国家の危機に際して行われる非常に特別な秘法である。「五壇の御修法(みずほう)」「五大尊の御修法」などとも称する。

「一字金輪」既注であるが、再注する。「一字金輪」は一字頂輪王・金輪仏頂などとも呼ばれ、諸仏菩薩の功徳を代表する尊像を指す。真言密教では秘仏とされ、息災や長寿のためにこの仏を祈る一字金輪法は、古くは東寺長者以外は修することを禁じられた秘法であったと言われる(国立博物館の「e国寶」の「一字金輪像」の解説に拠る(リンク先に一字金輪像の画像あり)。なお、そこでは「きんりん」と読んでいる)。

「烏瑟差摩明王の祕法」烏枢沙摩(うすさま)明王(Ucchuma)は、密教における明王の一尊で、「烏芻沙摩」「烏瑟娑摩」「烏枢沙摩」などとも表記される。真言・天台・禅・日蓮宗などの諸宗派で信仰され、台密では五大明王の一尊とする。火の神・厠の神として信仰される。参照したウィキの「烏枢沙摩明王」によれば、「大威力烏枢瑟摩明王経」などの『密教経典(金剛乗経典)に説かれ』る神で、『人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる』。『烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた』。『特に有名な功徳としては便所の清めがある。便所は古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があったことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあった便所を、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まり今に伝わっている。現在でも曹洞宗寺院の便所(東司)』(「とうず」と読む)『で祀られている』。『また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ(これが「烏枢沙摩明王変化男児法」という祈願法として今に伝わっている)、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた』。また「伝承」の項には、『ある時、インドラ(帝釈天)は仏が糞の臭気に弱いと知り、仏を糞の山で築いた城に閉じ込めてしまった。そこに烏枢沙摩が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏を助け出してみせた。この功績により烏枢沙摩は厠の守護者とされるようになったという』という強烈な話が載る。『烏枢沙摩明王は彫像や絵巻などに残る姿が一面六臂であったり三面八臂であるなど、他の明王に比べて表現にばらつきがあるが、主に右足を大きく上げて片足で立った姿であることが多い(または蓮華の台に半跏趺坐で座る姿も有名)。髪は火炎の勢いによって大きく逆立ち、憤怒相で全ての不浄を焼き尽くす功徳を表している。また複数ある手には輪宝や弓矢などをそれぞれ把持した姿で表現されることが多い』とある。グーグル画像検索「烏枢沙摩明王」をリンクしておく。

「最勝王經」金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう 梵語: Suvara-prabhāsa Sūtra スヴァルナ・プラバーサ・スートラ)。「金光明経」とも呼ぶ。四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つで、日本に於いては「法華経」「仁王経(にんのうきょう)」とともに鎮護国家を祈る護国三部経の一つに数えられる(参照したウィキの「金光明経」によれば、古代サンスクリットの原題は「スヴァルナ」(suvara)が「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)が「輝き」、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「黄金に輝く教え」の意とある)。『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされ』、『日本へは、古くから金光明経(曇無讖訳)』(どんむしん/どんむせん 三八五年~四三三年:中部インド出身の僧で四一二年に五胡十六国の一つで現在の甘粛省にあった北涼(ほくりょう)を訪れ、王の保護のもと、経典の訳業に従事する一方、政治顧問ともなって「北涼の至宝」と仰がれた。彼の行った「大般涅槃経」の翻訳は涅槃宗〔中国仏教の宗派の一つで同経典に立脚し、この世の生きとし生けるものには本来仏陀となる可能性がそなわっている《一切衆生悉有仏性》とする思想を根本義とする〕の濫觴となり、教学に及ぼした影響が大きい。ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」を参考にした)が伝わっていたと思われるが、その後の八世紀頃になって唐代の僧義浄(ぎじょう 六三五年~七一三年)の訳になる「金光明最勝王経」が『伝わり、聖武天皇は金光明最勝王経を写経して全国に配布し』た。また、天平一三(七四一)年には『全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された』とある。まさに国分寺はこの経典自体のシンボルでもあったことが窺われる。

「民部大夫入道行然」政所執事にして評定衆の二階堂行盛。

「施行」「吾妻鏡」を見ると、以下の「北條九代記」本文に書かれた内容は、同年四月二十一日(諸国新補地頭の所務に関する達し及び五箇条の得分率法/六波羅への非職狼藉停止と強盗殺人罪及び窃盗罪の処断法)と五月十三日(諸国守護地頭の大犯三箇条の厳守と検非違所の職務の厳正/六波羅に対する訴訟の適正迅速な対応の確認/諸国守護地頭への窃盗・謀叛・強盗(夜討)罪の処断法)に別々に分けて載っているものを一緒くたにしてしまっていることが分かる。

「諸國郡郷、莊園」後掲するように「吾妻鏡」寛喜三 (一二三一) 年四月二十一日の条で、「承久の兵乱の後、諸國の郡・郷・庄・保の新補地頭所務の事、五ケ條の率法を定めらる」と出る。この『郡・郷・庄・保』は行政上のそれぞれの地頭が管理した国衙(こくが)領(平安後期以降、荘園化せずに諸国に置かれた国司の支配下に置かれた国庁の領地。国領。)の構造単位名を示す。大きな「郡」から最小単位の「保」である。

「新補の地頭」新補地頭(しんぽじとう:現行の読みでは「しんぽ」が一般的)。特に承久の乱(一二二一年六月)後の論功行賞によって京方の貴族・武士らの所領三千余ヶ所の土地を吸収、新たに新補率法(後注する)に基づいて補任された地頭職を指す。なお、それ以前の地頭は「本補(ほんぽ)地頭」と称して区別した(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「大犯三條」翌貞永元(一二三二)年の八月十日制定された御成敗式目に於いて成文化されることとなる守護の基本的権限。以下、ウィキの「大犯三箇条」に拠る。『その原型は平安時代に追捕の対象とされ、必要に応じて追捕使・押領使が任命・派遣された重犯(重科)の処断に由来する。鎌倉幕府の守護も元は追捕使・押領使の性格を受け継いでおり、「重犯」のことを「大犯」とも称した。通説としては』、「御成敗式目」第三条本文が例示する三つの守護の有する権限、

 大番催促(京の警備)

 謀反人の検断

 殺害人の検断

を「大犯三箇条」と称したとされている。但し、ウィキには近年の異論が示されており、『特に大番催促については、守護の検断権の対象ではあったものの、「大犯」として取り扱われていた実例が確認できないことを指摘されている。更に「大犯三箇条」の用語そのものが鎌倉時代には存在せず、用語の成立時期を南北朝時代とする説も唱えられるようになった』とあり、『そもそも、夜討強盗山賊海賊の検断を大犯に加える考えは』、「御成敗式目」第三条の承久の乱後に特に付け加へられた「付」に、『既に守護の職権として掲げられているものである。また、「謀叛(人)・殺害(人)・刃傷(人)・夜討・強盗」を「重犯五箇条」とする考え方が鎌倉時代の段階で既に存在していたことが知られて』おり、『更に六波羅探題と守護とのやりとりにおいて、大番催促・謀叛・殺害等の三箇条を指して「関東御下知三ヶ条」と称している事例』『があり、鎌倉時代における上記三箇条については「大犯三箇条」に代わってこの呼称を採用すべきであるとする見解もある』とある。参考までに「御成敗式目」第三条」を以下に示しておく。原文は Tomokazu Hanafusa 氏のサイト「世界の古典つまみ食い」の「『御成敗式目(貞永式目)』一覧」を漢字の一部や記号・字空きを変更して使用、訓読と注記も一部参考にさせて戴いた(異なる条々のデータも見掛けるが、これを採用させてもらう。リンク先最下部に引用元が明記されてあり、それを見る限り、信頼度は高いと判断した)。

   *

 

第三條

一、諸國守護人奉行事

右々大將家御時所被定置者、大番催促謀叛殺害人〔付、夜討強盜山賊海賊〕等事也、而至近年分補代官於郡鄕、宛課公事於庄保、非國司而妨國務、非地頭而貪地利、所行之企甚以無道也、抑雖爲重代之御家人、無當時之所帶者、不能驅催、兼又所々下司庄官以下、假其名於御家人、對捍國司領家之下知云々、如然之輩可勤守護所役之由、縱雖望申一切不可加催、早任大將家御時之例、大番役幷謀叛殺害之外、可令停止守護之沙汰、若背此式目相交自餘事者、或依國司領家之訴訟、或就地頭土民之愁鬱、非法之至爲顯然者、被改所帶之職、可補穩便之輩也、又至代官可定一人也。

〇やぶちゃんの書き下し文

第三條

一、諸國守護人奉行の事

右、右大將家の御時、定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人〔付。夜討(ようち)・強盜・賊・海賊。〕等の事なり。而るに、近年に至りて、代官を郡・郷に分補(ぶんぽ)し、公事(くじ)を庄・保に宛(あ)て課(おほ)せ、國司に非ざるに國務を妨げ、地頭に非ざるに地利を貪る所行の企て、甚だ以つて無道なり。そもそも重代の御家人たりと雖も、當時の所帶(しよたい)無き者は、驅け催すこと能はず。兼ねて又、所々の下司(げし)・庄官以下、その名を御家人に假り、國司・領家の下知と對捍(たいかん)すと云々、然るごときの輩は、守護役を勤むべきの由、縱(たと)ひ望み申すと雖も、一切、催(さい)を加ふべからず。早く右大將家御時の例に任せ、大番役幷びに謀叛・殺害の外、守護の沙汰を停止(ちやうじ)せしむべし。若し、此の式目に背き、自餘(じよ)の事に相ひ交(かかは)る者、或ひは國司・領家の訴訟により、或ひは地頭土民の愁鬱(しふうつ)に就き、非法の至り、顯然たる者は、所帶の職を改められ、穩便の輩(ともがら)を補(ほ)すべきものなり。又、代官に至つては一人(いちにん)を定むべきなり。

 

 以下、語注を附す。

・「奉行」政務分掌によって担当した公務を執行する、その権限と範囲。

・「大番催促」「大番」は京都の内裏・諸門等の警固役である京都大番役のこと。鎌倉幕府の警固に当たる者は特に鎌倉大番役といった。「催促」は、その役目を御家人に命ずる権限のこと。

・「代官」この文脈では守護の代理の役人を言う。

・「分補」任命の謂いであろうが、この場合は幕府の正式な命を経ずにという条件であることに注意。このような勝手な任命は認めない、代官は公認で一名のみというのが、この条の主旨であるから、「勝手に遣わして」ぐらいで訳すのが無難かと思われる。

・「公事」ここは中世に於いて年貢以外の雑税や賦役を総称する意。

・「庄・保」前述の通り「庄」(荘園)と「保」、国衙領の最下位の単位である「保」とそれに次ぐ「荘」。

・「課(おほ)せ」「課(おほ)す」(サ行下二段活用他動詞)で「負ほす」「科す」等とも漢字表記した。雑税や賦役を割り当てて命じる、の意。

・「国務」国司の支配権、ひいてはそうした全国衙領の支配権の首座にある幕府の権限。

・「地利を貪る」本来の国司や地頭の権限を冒して、不当に地租やそこから生まれる利益を搾取している。

・「御家人」鎌倉幕府将軍直属の家臣として認定された者。本領安堵・新恩給与・官位推挙などの保護を受けたが、御家人役と呼ばれる多くの義務をも負わされた。

・「当時」現在。

・「所帶」所領。開幕以来の御家人の中には所領を売ってしまい、所領や所職を殆んど持たない「無足の御家人」と称する者が増加していた。幕府は御家人領の保護に努めるとともに非御家人への流出(売買・譲渡・質入)を阻止しようとし、早い段階から開幕以後に幕府から受けた新恩所領の売買を禁じていたが、この後の仁治元(一二四〇)年には本領などの私領に対しても非御家人への売買を禁止じ、永仁五(一二九七)年の永仁の徳政令などもこうした御家人領保護政策の一環として考えられてはいるが、それでも御家人領の流出は収まらず、それによって幕府の基盤が脅かされることともなったのであった(ここは主にウィキの「御家人領」に拠った)。

・「駆け催すこと」警備実務や地頭の管理観察権を指すが、ここは主に前記の大番役を担当することと考えてよいであろう。

・「下司」荘園の現地にあって実務を掌った荘官の一種。古く預所(あずかりどころ:平安末期以後の荘園制に於いて、領主に代わって下司・公文(くもん)などといった下級荘官を指揮して年貢徴集や荘園管理にあたった職。遙任国司同様、現地に赴かない。)以上の在地しない荘官などを上司・中司と称したのに対する実務荘官で、多くは武士であった。

・「庄官」荘官。本来は領家(後注参照)や本所・本家(後注参照)の命を受けて、荘園を管理するという役だが、実質的には実際の持ち主と変わらぬ実権を握っており、面倒なことに、こうした者も自ら「領家」と称した。荘園制の当初は上位の領主(上司)らから派遣されていたが、後には在地の武士の内の豪族が任命されるようになった。されば「御家人に假りて」(御家人を自称・詐称して)、そうした越権行為を行使し得たのである。

・「領家」荘園の実質上の支配を行った荘官の上にある名義上の荘園領所有者。荘園の名目上の持ち主。この上にさらに「本所」「本家」と呼ばれる、その上の名目上の持ち主がおり、名目上の主座の支配者となることによって利益の一部を得ていた貴族(公卿である場合が多かった)・寺社などがそれに当たる。このようにこの当時の国衙領は上司・中司・下司の大別の中に、さらに異様に多層的で複雑怪奇な支配構造が存在していた。

・「對捍す」本来は反対するの意であるが、転じて、逆らい拒む・敵対するの意となり、特に中世以後は、国司や荘園領主の課役・年貢徴収に対し、下位の地頭や名主などが反抗して従わないこと、納付命令に背いて滞納することを言う。

・「守護役」守護ではなく、前述の「駆け催すこと」、大番役を担当することを指す。

・「催」採用。

・「右大將家」頼朝。

・「沙汰」権限。

・「停止」差し止めること。

・「自餘」爾余。このほか。そのほか。

・「交(かかは)る」「かる」「かかる」とも読める。関わる。関係する。

・「愁鬱」愁訴。

   *

 以下、「北條九代記」の本文注に戻る。

「過分の沙汰」余分な取り締まり、過剰な治安処罰といったものを越権行為と戒めているのであるが、実際には以下の訴訟で匂わされているように、暗に、守護職自身やその支配下の地頭らの殆どが行っていた、年貢横領罪を牽制することが目的であったものらしい。

「仰付けらるべし」幕府に直ちに注進せねばならない。

「錢百文」ネット上の情報では、当時の一文は六十円~百五十円相当とある。米一石が約一〇〇〇文(現代の約六万円相当)、一日の職人の労賃が約一〇〇文(現代の約一万円五千円ほど)であった。なお、当時の流通貨幣は宋から輸入した一文銭の渡来銭だけであった。

「一倍」二倍の賠償額。百文以下の窃盗なら被害者に二倍の弁償をさせて処理せよ、流行りの「倍返し」で示談にせよ、というのである。

「妻子親類所從の輩、同心せざる者」窃盗事件の主犯の妻子・親類・配下の者で、共犯として立件出来ない者。

「煩すべからず」処罰対象としてはならない。

「非職」武士以外。武家を「家職」と称した、その対義語。増淵氏の訳は『退官した者』とされるが、採らない。

「凡下」一般の民衆。

「武勇を好む條」祭礼などの際、晴れの場なればと、調子に乗った者らが、乱暴狼藉などの反社会的行動をとったことを指すのであろう。

「豐稔」穀物の豊かな稔り。豊穣。

「三十口」三十人。「口」は人や動物などを数える際の数詞。

「問答講」増淵氏の訳に、『講師と問者とによって経典が説かれるもの』とある。

「由比浦鳥居」かくあるので、現在の一の鳥居に相当するものであるが、位置は同一であったかどうかは不明である。恐らくはもっと八幡宮寄り(下馬四角と現在の一の鳥居の間の中間点辺り)であったと考えられ、しかも拝殿を備えていたことが「吾妻鏡」の他の記述からも分かっている(江戸時代まではこの海に鳥居一番近いそれは「三の鳥居」或いは「大鳥居」と呼称した。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の条の私の詳細な注を参照されたい)。

「風伯祭」風神を祀った神事で、風災を鎮め、同時に豊年満作を祈念した祭祀。

「法橋圓爾」誤り。以下に見る通り、「吾妻鏡」には「法橋圓全」とある。これは現在の山口県の湯梨浜町(旧東郷町)出身の御家人、東郷八郎左衛門尉原田良全なる人物の法号で、彼は実に「御成敗式目」の原案執筆者であった(ネット上ではワード文書で彼について詳細な考証をなさった方の論文を読むことが出来る)。注意しなくてはならないのは、円爾(建仁二(一二〇二)年~弘安三(一二八〇)年)は実在する同時代の僧で、しかも当時、鎌倉におり、以下に引く「吾妻鏡」の寛喜三(一二三一)年五月十七日の条に出るという事実である。ウィキの「円爾」によれば、『駿河国安倍郡栃沢(現・静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学』び、十八歳で得度、『上野長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学』んだ(この間が本話の時間である)。嘉禎元(一二三五)年には『宋に渡航して無準師範の法を嗣い』で、仁治二(一二四一)年に帰国、『上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た』。『晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される』とある。

「大膳亮泰貞」既出の陰陽師。

「六月十七日」誤記。後掲するように六月十六日が正しい。

 

 以下、「吾妻鏡」を引用する。まず、寛喜三(一二三一)年四月十九日。

 

○原文

十九日乙亥。爲祈風雨水旱災難。於諸國々分寺。可轉讀最勝王經之旨。宣旨狀去夜到著。仍今日爲民部大夫入道行然奉行。於政所。關東分國可施行之由有其沙汰。

申刻。相摸四郎朝直室〔武州御女。〕男子平産。

○やぶちゃんの書き下し文

十九日乙亥。風雨水旱の災難を祈らんが爲、諸國の國分寺に於いて、最勝王經を轉讀すべきの旨、宣旨の狀、去ぬる夜、到著す。仍つて今日、民部大夫入道行然を奉行として、政所に於いて、關東分國に施行すべきの由、其の沙汰有り。

申の刻、相摸四郎朝直(ともなを)が室〔武州の御女。〕男子、平産す。

・「關東分國」将軍家(鎌倉殿)が支配した五知行国である武蔵・相摸・越後・伊豆・駿河。

・「申刻」午後四時頃。

・「相摸四郎朝直」北条時房四男であったが、長兄時盛は佐介流北条氏を創し、次兄時村と三兄資時は出家したため、時房の嫡男に位置づけられ、次々と出世した。以下、ウィキの「北条朝直」によれば、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年六月の伊賀氏の変で光宗が流罪となってしまい、二十一歳で無位無官であった朝直は、嘉禄二(一二二六)年二月、執権北条泰時の娘を新たに室に迎えるように父母から再三の慫慂を受けたものの、それでも愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続けたという(「明月記」二月二十二日の条に載る)。翌月になっても、朝直はなおも叔父である執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、出家の支度まで始めるという騒動となっている。その後も抵抗を続けたと見られるが、この記載にから、最終的には泰時の娘をもらっている。なお、都の公家にまで届いたこの北条一族の婚姻騒動は「吾妻鏡」には一切記されていない。なお、『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けた』ものの、寄合衆には遂に任ぜられていないが、これは寧ろ、彼のせめてもの真意を汲まなかった親族らへの反抗の表現であったのかも知れないと私は思う。

・「武州」北条泰時。

・「男子平産」長男北条朝房かと思われる。

 

 次に、同年四月二十一日の条。

 

○原文

廿一日丁丑。承久兵亂之後諸國郡郷庄保新補地頭所務事。被定五ケ條率法。又被仰遣六波羅條々。先洛中諸社祭日非職輩好武勇事可停止。次強盜殺害人事。於張本者被行斷罪。至與黨者。付鎭西御家人在京輩幷守護人。可下遣。兼又盜犯人中假令錢百文若二百文之程罪科事。如此小過者。以一倍可致其弁。於重科輩者。雖召取其身。至于不同心緣者親類者。不可及致煩費云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日丁丑。承久の兵亂の後、諸國の郡・郷・庄・保の新補地頭所務の事、五ケ條の率法(りつぱふ)を定めらる。又、六波羅に仰せ遣はさる條々、先づ洛中の諸社の祭の日、非職(ひしよく)の輩(ともがら)、武勇を好む事を停止(ちやうじ)すべし。次に強盜殺害人の事、張本に於いては斷罪に行はれ、與黨(よたう)に至りては、鎭西の御家人、在京の輩幷びに守護人に付して、下し遣はすべし。兼ねて又、盜犯人の中、假令(けりやう)錢百文若しくは二百文の程の罪科の事、此くのごとき小過(せうくわ)の者は、一倍を以つて其の辨(わきまへ)を致すべし。重科の輩に於いては、其の身を召し取ると雖も、同心せざる緣者・親類に至りては、煩費(はんぴ)を致すに及ぶべからずと云々。

・「五ケ條の率法」新補地頭はこの五箇条から成る「新補率法」と呼ぶ法廷得分率による地頭職を指すと言ってよい。今一つ、「五ケ條」の具体な五条がよく分からないのであるが、ネット上の信頼し得る辞書及び記載を複数並べてみると、概ね以下のような内容であることが分かった(最も参考になったのがこちら)。幕府は承久の乱後に院方の所領凡そ三千箇所を没収、勲功のあった御家人をそこの新たな地頭職に補任したが、この新設の地頭は、任された各地域での得分権(収入権)が一定でなく、荘園領主との間で争いが絶えなかった。そこで幕府は、得分に永く安定した先例がある場合に限っては以前の通りとし、特に先例のない場合は、田畑十一町毎に一町の給田(職務給としての免田。私有田)と一段(反)当たり五升の加徴米(私的に徴収取得することを公的に許可された米〕、所領内に土地の生産性の差の著しい山野(所領内の山手部分)と河海(同川手海手)が併存する場合、それぞれの地域を領家と折半にするという、得分率法をこの新補地頭に適応した。このように幕府から広汎な権益のお墨付きを貰った新補地頭は,旧来の荘園制と荘園自体の様態を大きく変革させ、やがてはこの得分率法をも無視して給田・雑免田・免在家(領民の中の公的に認められた私有分)の収入を増やしていった。後に地頭らは寧ろ逆に荘園領主と好んで紛争を起こしては幕府に訴訟に及ぶようになり、当事者間の取り決めによる和与(解決)を勧めていた幕府は、結果として領主に納入すべき年貢高を地頭に背負わせる地頭請所(じとううけしょ:地頭が年々の豊凶に拘わらず毎年一定額の年貢を請け負って進納する制度。地頭請)を実施させることとなる。これによって荘園領主側では一応、その収入が確保されるようになったものの、現地では地頭の管理経営権の独占化が進み、納入すると取り決めてしまった一定年貢の他の総ての収益を自己の得分とすることが出来るようになり、これによって事実上の支配権を得た地頭の領主化が進み、後代はさらにそれを支配する守護が台頭、室町後期の守護大名へと成長し、それに多くのこうした地頭たちが被官されていくこととなる。

・「断罪」斬首。

・「下し遣はす」鎌倉へ護送する。

・「假令」は通常なら「たとへば~」という仮定条件、特に「たとひ~(ても)」と訓じて逆接の仮定条件を示すことが漢文では圧倒的であるが、その単純仮定「たとへば」から「たとへば~のごとし」を経て、恐らくは「凡そ」の意味に転訛したものと思われ、ここもそれ。

・「煩費」百姓に罪を科すことで、武家や有力者が言いがかりをつけて(この場合は連座処断の脅迫)そうした百姓やその妻子及び下男などを、自身の下人や所従にしたりすることをもいうと、Wallerstein 氏のブログ「我が九条」の「鎌倉幕府「撫民」法を読んでみる1」で判明した。感謝。

 

 次に、同年翌月五月十九日の条。

 

○原文

十三日戊戌。今日。有被定下條々。先諸國守護人者。大犯三ケ條之外。不可致過分沙汰。檢非違所者。廻寛宥之計。可專乃貢勤之由云々。次同守護地頭。有領家訴訟之時。不應六波羅召之由。依有其聞。二ケ度者可相觸。及三ケ度者。可注申關東之由。先度被仰之處。成優恕之儀。不申之歟。自今以後。無隱容可言上之旨。重可被仰遣。次竊盜事。假令於錢百文已下之小犯者。以一倍。令致辨償。可令安堵其身。至百文以上之重科者。搦取一身。不可煩親類妻子所從。如元可令居住。謀叛夜討等者。不及寛宥之由云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日戊戌。今日、定め下さるるの條々、有り。先づ、諸國の守護人は、大犯(だいぼん)三ケ條の外、過分の沙汰を致すべからず。檢非違所(けびゐしよ)は、寛宥(くわんいう)の計ひを廻らし、乃貢(なうぎ)の勤めを專らにすべきの由と云々。

次いで同じく、守護・地頭、領家の訴訟有るの時、六波羅の召しに應ぜざるの由、其の聞え有るに依つて、二ケ度は相ひ觸(さは)るべし、三ケ度に及ばば、關東へ注し申すべきの由、先度、仰せらるるの處、優恕(いうじよ)の儀を成し、之を申さざるか。自今以後は隱容(おんよう)無く言上すべきの旨、重ねて仰せ遣はさるべし。

次に竊盜(せつたう)の事、假令(けりやう)錢百文已下の小犯(しやうぼん)に於いては、一倍を以つて辨償を致さしめ、其の身を安堵せしむべし。百文以上の重科(じゆうか)に至りては、一身を搦(から)め取り、親類・妻子・所從を煩はすべからず。元のごとく居住せしむべし。謀叛(むほん)・夜討(ようち)等は、寛宥(くわんいう)に及ばざるの由と云々。

・「寛宥」寛大な心持ちを以って罪過を許すこと。

・「乃貢」年貢。平安から鎌倉期にかけてはこれを「所当」(しよとう)・「乃貢」(のうぐ)・「土貢」(どこう)などと呼ぶことも多かった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「觸る」軽く注意を促すという意味で私は採った。本「北條九代記」の叙述は、明らかに二度目の呼び出しで出頭したらそちらで言い分を聴いて処置してよいが、それでも出頭しない場合は、という謂いである。実際には私の解釈が実際的な謂いであるように思うのであるが、如何? 「先度、仰せらるるの處、優恕の儀を成し、之を申さざるか」は――以前からそう申し伝えてあるにも拘らず、優恕(同情)して、これを注進してこなかったのか?……万一、後になって組織的な横領が発覚した場合は、それを看過した六波羅も同罪である……よもや、そういう守護地頭への便宜を図るよう、彼らから鼻ぐすりなんどをかがされたりは、しておるまいな?――といった、澄んだ中にきらりと光る執権泰時の眼が私には見えるようだ。

・「隱容」容隠(ようおん)。犯罪者を見逃したり、匿うこと。隠匿。私の前注の謂いが響いてくる。

 

 次ぎに、寛喜三(一二三一)年五月十七日の条。

 

○原文

十七日壬寅。霽。申尅。武州御不例云々。又此間炎旱渉旬。疾疫滿國。仍爲天下泰平國土豊稔。今日。於鶴岳八幡宮。令供僧已下三十口之僧。讀誦大般若經。又十ケ日之程。可修問答講之由被定仰。

 第一日〔講師、三位僧都賴兼。問者、安樂房法眼重慶。〕

 第二日〔講、頓覺房律師良喜。問、座心房律師圓信。〕

 第三日〔講、座心房律師。問、頓覺房律師。〕

 第四日〔講、丹後律師賴曉。問、圓爾房。〕

 第五日〔講、圓爾房。問、丹後律師。〕

 第六日〔講、備後堅者(りつしや)。問、教蓮房。〕

 第七日〔講、教蓮房。問、備後堅者。〕

 第八日〔講、肥前阿闍梨。問、筑後房。〕

 第九日〔講、圓爾房。問、肥前阿闍梨。〕

 第十日〔講、安樂房法眼。問、三位僧都。〕

○やぶちゃんの書き下し文

十七日壬寅。霽る。申の尅、武州、御不例と云々。

又、此の間、炎旱(えんかん)、旬に渉り、疾疫、國に滿つ。仍つて、天下泰平・國土豊稔(ほうじん)の爲に、今日、鶴岳八幡宮に於いて、供僧已下三十口の僧をして「大般若經」を讀誦せしむ。又、十ケ日が程、問答講を修すべしの由、定め仰せらる。

 第一日 〔講師、三位僧都賴兼。 問者(もんしや)、安樂房法眼重慶。〕

 第二日 〔講、頓覺房律師良喜。問、座心房律師圓信。〕

 第三日 〔講、座心房律師。 問、頓覺房律師。〕

 第四日 〔講、丹後律師賴曉。問、圓爾房。〕

 第五日 〔講、圓爾房。   問、丹後律師。〕

 第六日 〔講、備後堅者。  問、教蓮房。〕

 第七日 〔講、教蓮房。   問、備後堅者。〕

 第八日 〔講、肥前阿闍梨。 問、筑後房。〕

 第九日 〔講、圓爾房。   問、肥前阿闍梨。〕

 第十日 〔講、安樂房法眼。 問、三位僧都。〕

・「申尅」午後四時頃。

・「堅者」は、元来はこうした仏法議論の場で質問に答える役目の僧を指すが、それが一種の学僧の高位の地位を指す語としても定式化していた。

 ご覧の通り、前の注で示した本物の「圓爾」が四・五・九日と三回も出座しており、内、二度は講の首座である講師である。当時、未だ満十九歳の彼が如何に当時の鎌倉で若き名僧として評価を得ていたかが、よく分かるではないか。青年! 頑張れ!

 

 次に寛喜三(一二三一)年六月十五日の条。

 

○原文

十五日庚午。晴。戌尅。於由比浦鳥居前。被行風伯祭。前大膳亮泰貞朝臣奉仕之。祭文者法橋圓全奉仰草之。是於關東。雖無其例。自去月中旬比。南風頻吹。日夜不休止。爲彼御祈。武州令申行給之。將軍家御使色部進平内云々。武州御使神山彌三郎義茂也。今年於京都。被行此御祭之由。有其聞。在親朝臣勤行云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日庚午。晴る。戌の尅、由比の浦鳥居前に於いて、風伯祭(ふうはくさい)を行はる。前大膳亮泰貞朝臣、之を奉仕す。祭文(さいもん)は、法橋(ほつきやう)圓全(ゑんぜん)、仰せを奉(うけたまは)り、之を草す。是れ、關東に於いて、其の例無しと雖も、去ぬる月中旬の比(ころ)より、南風、頻りに吹き、日夜、休止(やま)ず。彼の御祈りの爲に、武州、之を申し行はせしめ給ふ。將軍家の御使は色部(いろべの)進平内(しんへいない)と云々。

武州の御使は神山彌三郎義茂なり。今年、京都に於いて、此の御祭を行はるるの由、其の聞え有り。在親朝臣、勤行すと云々。

・「戌尅」午後八時頃。このような時間に荒天の中、祭祀を執行するわけであるから、これ、前に記した通り、とても拝殿がなくては出来ないということが分かる。

・「色部進平内」不詳。姓も名も何だか見かけない。不思議な感じがする名である。

・「在親」賀茂在親(貴志正造「全譯 吾妻鏡」の注に拠る)。姓から見ても陰陽師であろう。

 

 最後に、寛喜三(一二三一)年六月十六日の条。

 

○原文

十六日辛未。霽。今日風靜。去夜風伯祭効驗之由。有其沙汰。泰貞朝臣賜御釼等云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十六日。霽る。今日、風、靜かなり。去ぬる夜、風伯祭の効驗(かうげん)の由、其の沙汰有り。泰貞朝臣、御釼(ぎよけん)等を賜はると云々。]

2015/01/30

今日は

久々に「北條九代記」に嵌った――多分、明日公開――今日の記事はこれのみ――

2015/01/29

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 笠置

 笠置

 

くつわ虫激ち一夜に一生(よ)懸け

 

[やぶちゃん注:「一夜」は「ひとよ」で、「一生」も「ひとよ」。総表題の「笠置」は京都府南部の相楽郡笠置町にある笠置山と思われるが、年譜上の昭和三一(一九五六)年秋のデータからは来訪は窺えない。後に出る「吊り橋」は笠置橋か。現在は違うが、当時は全長一三〇メートルの鉄筋の吊橋であった(ウィキ笠置橋 (木曽川)その他のデータに拠る)。]

 

くつわ虫歴(くき)とわが影燈を負ひて

 

ひとに会ふひとは知らずに虹を負ひ

 

露の吊橋「一橋一車」ならば許す

 

すぐゆくべく揚羽蜜吸ふ翅せはし

 

法師蟬友蟬ゐねばこゑとぎれ

 

   *

 

  眼を病む

 

夕顔の匂ふ眼つむれば即ち盲ひ

 

右眼病めば左眼に青き野分充つ

耳嚢 巻之九 老媼奇談の事

 老媼奇談の事

 

 文化六年春のころ、牛込邊、境内に觀音ある寺院あり。〔寺號は追(おつ)て可申聞(まうしきくべく)、忘れたりと云々。〕老人の老尼、右寺へ來りて日々の樣に觀音堂へ參詣なしけるを、和尚見及びて、與風(ふと)右の老姥(らうぼ)へ、御身日々觀音堂へ參詣なすは何ぞ祈願の事ありやと尋(たづね)しに、老(おい)ぬる身、何か願ひ有(ある)べき、近頃夫(をつと)も身まかりし故、菩提の爲寺々へまかり、別(べつし)て觀音菩薩の埴過にて、夫の未來往生をも資(たすく)なりと申(まうし)ける故、奇特(きどく)の志なり、御身の夫ならば定(さだめ)て高年成(なる)べしと尋けるに、百三十六歳にて身まかりしといへる故、夫(それ)は珍數(めづらしき)壽なり、さるにても御身はいくつになるやと聞けるに、六十四なる由答へければ、和尚大きに笑ひて、夫婦の間かく年の違ふべきやうやある、覺え違ひならんと申けるに、夫(それ)にはおかしき咄の候、相違なき事なれば語り申さん、我身幼年の頃父母ともに身まかり、親類とてもさるべきなれば、五六歳のころなれば誠においたつべきやうなきを、我(わが)夫になりける者、其孤獨をあわれがりて引取(ひきとり)養ひ育てけるに、これも不仕合にて先妻も病死なし、子も有りけるが是も八十六の時、不殘(のこらず)不幸なりければ、わらはを杖柱(つゑはしら)と養育なして我身十五歳になりけるとき、彼(かの)老人申けるは、我身妻子にもわかれ誠の獨身(ひとりみ)なり、御身よくつかへて子の如くなれば、今は御身をのみ樂しみ家業をもなすなり、さるにても我身も心ぼそく、御身も便りなし、一向女房になりてんやと申けるゆゑ驚入(おどろきり)て、實事とも思はず笑ひければ、いやとよ、戲れ事にあらず、よくよく心得て見よとありしに、其後も度々此事申出(まうしいで)し、あながち交(まぢは)り等を押(おし)て求むるにあらず、さるにても不都合なる事ながら、幼年より海山の恩を請(うけ)し身の、むげに其心を破らむも悲しく、かくの給ふ上は我等も了簡なし、親族といふもなけれど、我をあわれむ人々もあれば、是にも心をさぐり相談なして答ふべしと、答へ置(おき)、信實なると思ふ人に物語りければ、いづれも、夫(それ)はとつけもなき事なり、斷(ことわり)て宜(よろし)からんといふ内、一人のいへるは、翁右のごとくいはゞ其望(のぞみ)に任せ給へ、翁此上活(いき)たればとていくばくをかへん、死して後は家財其外誰(たれ)もゆづる者なし、御身其讓りを請れ(うく)ば、生涯を安くおくらんといへるを、尤(もつとも)の事なり、殊に大恩受(うけ)し事なれば、其望みに任せ生涯を養育せんも、是天道の冥慮なりと會得(ゑとく)して、彼翁に向ひ、望(のぞみ)に隨(したがは)ん由を申ければ、翁も大きによろこび、夫より夫婦(めをと)となりてくらしけるが、我身十八の時、不思議にも今の伜を儲け、翁も隱居して此程身まかりし故、我身其跡を吊(とぶら)ふなり、始(はじめ)はにつかはしからぬ事と思ひしが、年をかさぬれば左も思はれず、生涯夫婦のちなみありしと語りぬと、彼(かの)住僧蒔田(まいた)某へ佛參(ほとけまゐり)のせつ、咄しけるとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。素直に話柄に従うなら、七十三歳違いの夫婦で、話者の彼女が満十四歳、男八十八歳の時に夫婦(めおと)となり、満十七(男九十一歳)で子(話柄時間内では四十六歳)をもうけ、娘が相談した相手は「翁此上活たればとていくばくをかへん」なんどと言っているが、実際には五十年近くこの爺さんは生きていたということになる。なんともはや、という奇談ではある。尼の語りで明らかにされる意外な事実、天涯孤独の少女が養父に迎えられ、そうして……というスキャンダル仕立ては、何か前の私の偏愛する一篇「不思議の尼懺解物語の事」を結末でポジティヴにしたインスパイア物という感が強い。同一の話者か、如何にもな都市伝説の様相からも、作者が同一人であるような気が、私にはかなりするのである。ちょっと面白くないのはこの老人の家業が書いてないことである。いや、下手に具体に書くとそれこそ百歳までそんな家業が勤まるかっ! と相手に叱られちゃうかもね。

・「老媼」は「らうあう(ろうおう)」。

・「老姥」「ろうも(ろうも)」とも読める。

・「文化六年春」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。

・「境内に觀音ある寺院」現存する幾つかの寺を調べて見たがよく分からない。識者の御教授を乞う。

・「埴過」底本には右に『(値遇)』と訂正注がある「値遇」は「ちぐ」と読み、縁あってめぐり逢う、特に仏縁あるものにめぐり逢うことを言う。「知遇」も同源。

・「資(たすく)なり」は底本のルビ。

・「とつけもなき」近世口語の形容詞。思いもよらない。途方もない。とんでもない。

・「蒔田某」底本鈴木氏注によれば、当時の江戸に三家ある由。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一人の媼(おうな)の奇談の事

 

 文化六年春の頃、牛込辺りの、境内に観音のある寺院でのことであった――寺号山号は追って訊きおこうと思いながら、つい失念致いたという――老人の、これ、相当に老いたる比丘尼が、この寺へと毎日のように参っては観音堂へ参詣するを、和尚が見、ふと、この老姥(ろうも)へ、

「――御身、日々、観音堂へ参詣なすは、これ、何ぞ、祈願のあってのことで御座るか?」

と訊ねたところ、

「――老いぬるこの身――何んの願いの御座いましょうや。近頃、夫の身罷って御座いましたによって――菩提のため、寺々へと罷り越しまして――別して、こちらの観音菩薩さまの値遇(ちぐ)にて――夫の来世での極楽往生をも助けんものと存じましてのぅ……」

と申したによって、

「――それは奇特(きどく)なる志しじゃ。御身の夫とならば、これ、定めて御高齢の大往生であられたので御座ろうのぅ。」

と訊いてみたところが、

「――はい――百三十六歳にて身罷りまして御座います。」

と答えたによって、

「……それはまた! 珍らしき御長寿であられたものじゃ!……それにしても……御身は、これ、お幾つにならるるのか、のぅ?」

とさらに聴き返せば、

「――はい――妾(わらわ)は――六十四に――なりまする。」

と答えたによって、和尚は、これ、呵々大笑致いて、

「わっ、はっ! はっ! は!……幾らなんでも、夫婦(めおと)の間、かく、年の違(ちご)うべきはず、これ、御座ない!……失礼ながら、それは、何か覚え違いをなさってはおられぬか?」

と申したところが、

「……おほほほ!……それにつきましては、これ、可笑しきお話しの御座いまするのじゃ。――これ、決して間違いのなき、まことのことなれば、では、一つ、お話し申してさし上げましょう……」

    *

……妾(わらわ)は幼年の頃、父母ともに相次いで身罷り、親類とても、これといっておりませなんだによって、未だ頑是ない五、六歳の頃のことで御座いましたれば、これ、正直、独りで生い立つようもなき身で御座いましたを、後に妾(わらわ)の夫となりました赤の他人の男が、(わらわ)が孤弱を哀れがって下さり、引き取って、これ、養い育ててくれたので御座ます。

 この男も、不幸せなめぐり合わせの人生にて御座いまして……先妻も遙か昔に病死致いて、その間に生まれたる子らも御座いましたが、これも男が八十六の折りに、残らず――皆、流行病いのための聴いております――不幸にして死別なして御座いましたによって、妾(わらわ)を杖とも柱ともしつつ、養育なしてくれたので御座います。

 さて、妾(わらわ)が十五歳になりました折りのことで御座います。

 かの老人の申しますに、

「……我が身は……とうに妻子にも死に別れ……誠(まこと)の独り身じゃ。……御身は、このような老いぼれに、実によぅ仕えてくれ、あたかも我が子の如くなればこそ、今は、御身とともにおるをのみ、これ、楽しみとして、ささやかなる家業をも営んでおる。……それにても……かくも老いたれば……これ、我が身も心細く……そうして、御身もまた、血縁の者もこれおらず、生涯を支え得るような便りの者も、これ、おらぬ。……されば、いっそのこと――我らの女房に――なってはくれまいか?!……」

と、申しましたによって、妾(わらわ)も驚き入って、本気のこととも思われず、思わず声を挙げて笑(をろ)うてしまいましたが、

「……いや、とよ!……戯れ事にては、これ、ないのじゃ!……どうか一つ、よくよく考えてみてはもらえぬかのぅ?……」

と真顔にて申しましたので御座います。

 そうして、その後も、これ、たびたび婚姻のこと、申し出でて参りました。……

 

――あ? いいぇ!……御不審の思持ちながら、強(あなが)ち……その……雲雨(うんう)の交わりなんどを……これ……強いて求めんとするなどということは……これ、それまでにも……また、かく懇請し始めてからも……一度として御座いませなんだ。……

 

 それにしても曽祖父と玄孫(やしゃご)ほども離れた七十三違い――如何にも……で御座いますわね……まあ、世間体も悪(わる)きことにては御座いました。それでも、幼き頃より海の如くに深(ふこ)う、山の如くに高き御恩を受けて参りました身なれば、無下にその御心(みこころ)に背くと申しますも、これ、悲しく、妾(わらわ)も、一つ、決心致しまして、既に申し上げました通り、親族と申すべき者は、これ一人も御座いませなんだが、知れる御仁の中には、妾(わらわ)がことを時に気づかって下さる方々も御座いましたによって、

「……かくも仰せらるる上は……一つ、気心の知れたる妾(わらわ)の数少なき信頼のおける知音(ちいん)に……その誠実なるを改めて推し量った上にて――このこと、相談なして、これ、きっとお答え申し上げます。」

と、男へ答えおき、これはと思う、誠実と信じらるるお方に、有体(ありてい)に男の申し出につき、物語りまして意見を問うたので御座います。

 しかし大方、孰れのお人も、

 

――そ、そりゃ! とんでもねえことだぜ!……断って、これ、何の問題も、ありゃせんぜ!

 

と口を揃えて申しました。

 が、しかし、その中の一人の申しまするに、

 

――あの爺さんがそういう風に請い訴えて来たんなら、……こりゃ一つ、その望みに任せるのがよかねえかな?……そもそもがだ、爺さん、何でそんなことを言いだしたってえことだあな。……これはよ、そろそろお迎えが近くなった気のするんで、急に寂しくなったんじゃあねえかい?……とすれば、よ。あの爺さん、儂(あっし)が見ても……あん? 何だ?! もう、八十八かい?! それじゃ、なおのことよ! あの爺さん……この上、生き長らえたとしても……憚りながら、これ、あと、何年も生きられやしねえ。……こらあ、確かなこったぜ!……死んじまったら後は、あの家産家財その外一切合財! これ、誰(だあれ)も譲る者(もん)はいねえんだ。……お前さんが、それを、丸(まある)ごと、全部、譲り受ける、となればよ?!……これ……若い身空のあんたは、その後の永(なげー)え生涯を、まっこと、安穏に送ること、これ、出来ようってもんじゃ、ねえか!……

 

 これを聴きまして、妾(わらわ)は、

「……それはもっともなことにて御座いますね。……いえ、もしかするとあの方の命の短かいかも知れぬと申されたことです。……そうあって欲しゅうは御座いませねど、もし万が一、そうであるとするならば……妾(わらわ)、ことに大恩を受けまして御座いますればこそ、そのお望みに任せ、そのご生涯を養育し申し上ぐること、これもこれ、天道(てんどう)の冥慮(めいりょ)にて御座いましょう!」

と、得心致しまして、直ぐに家に戻りますと、かの老翁(ろうおう)に向い、

「――お望みに随いましょう。」

と申しましたところ、翁も大きに悦び、それより八十九と十四の夫婦(めおと)となって暮らすことと相い成ったので御座いまする。

 三年(みとせ)経った妾(わらわ)十八の折りには、不思議なことに、今の倅(せがれ)をもうくること、ここれ、叶い、それより十数年の後、夫は百歳も過ぎて、やっと倅に稼業も譲り、隠居致しまして御座いました。

 このほど身罷りましたによって、妾(わらわ)、その後生(ごしょう)を弔っておるので御座いまする。

 

――そうそう……始めのうちは七十三も違(ちご)うた夫婦(めおと)……これ、夫婦(めおと)には決して見えませぬ……如何にも似つかわしゅうない夫婦(めおと)連れ――と思うことのしばしば御座いましたが……されど、年を重ぬるうち、これ、さほど気にならずなりまして……

――はい?……ええ……生涯、これ……夫婦(めおと)の契りの、方も……御座いましたよ……

   *

 以上は、蒔田(まいた)某がその牛込の寺へ墓参に参った際、寺の住僧が話しくれたとのことで御座った。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 忘れ貝

海月 本草ニ異名玉珧珧厥甲美如珧玉又曰四

肉柱長寸許トイヘリ海月ヲタヒラキ又ミツクラケナドヽ

訓スルハ非也タイラキハ其甲美ナラス肉柱只一アリ或曰

海月ハ土佐ノ海濵ニ生スルワスレ貝ナルヘシト云萬葉集

七卷ニイトマアラハヒロヒニユカン住ノ江ノ岸ニヨルテフ戀忘貝

トヨメリ住吉ノ濵ニモアルニヤ予カ見ル處ノ忘貝ハ與是

異レリイフカシ

〇やぶちゃんの書き下し文

海月 「本草」に、『異名、玉珧〔(ぎよくえう)〕・珧厥〔(えうけつ)〕。甲、美にして、珧玉のごとし。又、曰く、四つの肉柱、長さ寸許〔(ばか)〕り』と、いへり。海月を「たひらぎ」又「みづくらげ」などと訓ずるは非なり。たいらぎは、其の甲、美ならず、肉柱、只だ一つあり。或いは曰く、『海月は土佐の海濵に生ずる「わすれ貝」なるべし』と云ふ。「萬葉集」七卷に『いとまあらはひろひにゆかん住みの江の岸によるてふ戀忘貝』と、よめり。住吉の濵にもあるにや、予が見る處の「忘れ貝」は是れと異なれり。いぶかし。

[やぶちゃん注:本種の同定は益軒自身が混乱しているようにはなはだ難しい。斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ(ハマグリ)目マルスダレガイ上科マルスダレガイ科カガミガイPhacosoma japonicum は「海月」と呼称するに相応しい形状を成す。また、同じように円形に近く、真珠光沢を持つものとしては、翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイPlacuna placenta も浮かぶ。因みに後者は、特に貝殻の内壁が雲母様で、古くから中国・フィリピン等に於いて家屋や船舶の窓にガラスのように使用され、現在でもガラスとは一風違った風合いを醸し出すものとして、照明用スタンドの笠や装飾モビール等の貝細工に多用されている。

「本草に……」「本草綱目」には以下のように載る(下線やぶちゃん)。

   *

海月

(「拾遺」)

【釋名】

玉珧(音姚)・江珧・馬頰・馬。

藏器曰、「海月、蛤類也。似半月、故名。水沫所化、煮時猶變爲水。」。

時珍曰、「馬甲、玉珧、皆、以形色名。萬震贊云『甲美如珧玉』、是矣。」。

【集解】

時珍曰、「劉恂「嶺表錄異」云、『海月大如鏡、白色正圓、常死海旁。其柱如搔頭尖、其甲美如玉。。段成式「雜俎」云、『玉珧、形似蚌、長二三寸、廣五寸、上大下小。殼中柱炙蚌稍大、肉腥韌不堪。惟四肉柱長寸許、白如珂雪、以雞汁瀹食肥美。過火則味盡也。』。」。

【氣味】

甘、辛・平、無毒。

【主治】

消渴下氣、調中利五臟、止小便。消腹中宿物、令人易飢能食。生薑、醬同食之(藏器)。

【附錄】

海鏡 時珍曰、「一名鏡魚、一名、瑣、一名、膏藥盤。生南海。兩片相合成形、殼圓如鏡、中甚瑩滑、映日光如云母。有少肉如蚌胎。腹有寄居蟲、大如豆、狀如蟹。海鏡飢則出食、入則鏡亦飽矣。郭璞、賦云、『瑣 腹蟹、水母目蝦。、即此。」。

   *

これを見ると、劉恂の「嶺表錄異」の記載及び最後の「附録」の叙述はカガミガイに酷似し(「附録」に記されてあるカクレガニ類の共生(但し、時珍の謂いとは異なる片利共生)は、カガミガイと考える方が一般的であろうと思われる)、段成式の「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」のそれは翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギ Atrina pectinata 或いは有意に小さいところからはウグイスガイ目ハボウキガイ科ハボウキガイ Pinna bicolor の類の記載と読める。即ち、益軒が頼ろうとした「本草綱目」自身から既にして錯綜してしまっていたのである。

「みづくらげ」刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aurelia タイプ種 Aurelia aurita 。現行は言わずもがな、「海月」は概ね「くらげ」と読み、恐らくはそうした際、多くの人が想起するのはミズクラゲであろう。

 

『土佐の海濵に生ずる「わすれ貝」』ここで何故「土佐」かと言えば、これは以下の紀貫之の「土佐日記」の一節を念頭においているからに他ならない(引用は新潮日本古典集成木村正中校注版を恣意的に正字化した)。

   *

 四日。楫取り、「今日、風雲の氣色(けしき)はなはだ惡(あ)し」といひて、船出ださずなりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。この楫取りは、日もえはからぬかたゐなりけり。

 この泊りの濱には、くさぐさのうるはしき貝、石などおほかり。かかれば、ただむかしの人をのみ戀ひつつ、船なる人のよめる、

 

  寄する波うちも寄せなむわが戀ふる

    人忘れ貝おりて拾はむ

 

といへれば、ある人のたへずして、船の心やりによめる、

 

  忘れ貝拾ひしもせじ白玉(しらたま)を

    戀ふるをだにもかたみと思はむ

 

となむいへる。女子(をむなご)のためには親幼くなりぬべし。「玉ならずもありけむを」と人いはむや。されども、「死(しん)じ子、顏よかりき」と言ふやうもあり。

   *

・「かたゐ」は原義は乞食であるが、ここは相手を罵って言う語。

・「忘れ貝」諸本の国文学者の注はこれをマルスダレガイ科の一種とし、それは異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科ワスレガイ Cyclosunetta menstrualis のことを指す。二殻長は約七センチメートル、殻高六センチメートルほどになり、殻幅の二・五センチメートルと大型である。殻は円形で、膨らみが非常に弱く扁平であり、しかも殻質厚く強固である。殻表は弱い放射状の細かい脈を持つものの平滑で鈍い光沢を持つが、黄褐色の薄い皮を被っており、通常は紫褐色の地にやや濃紫色の放射彩や網状の地模様を持つ、正直言って、凡そ現代の感覚からは、大きいいう点以外では、素人があまり拾って蒐集したいタイプの貝殻ではないと私は思う。諸注にはそれ以外にも、これは特定の貝を指すものではなく、二枚貝の死貝の片方の貝殻を指し、これを持っていると恋の憂さを忘れることが出来るとする伝承があったと記すが、私は、「土佐日記」のこれも、次の「万葉集」のそれもこの、漠然とした二枚貝の片貝の謂いである、と一貫して思っている。但し無論、当時の「忘れ貝」が現在のワスレガイ Cyclosunetta menstrualis でなかったという確証があるわけではない。これは私の確信感情であるとだけは申し添えておく。

・「船なる人」及び「ある人」は孰れも筆者が仮託した女性から見た貫之自身であり、アンビバレントな二首は孰れも彼の和歌なのである。

・「船の心やり」表面上はかく船旅の苦しさと言っているが、言うまでもなく、本作で一貫する失った女児への追慕の哀傷が強く裏打ちされている。

・「親幼くなりぬべし」愛する娘を失った親というのは大人げない、こんな寂しさを口にするのであろう、の謂い。

・「玉ならずもありけむを」白玉の如く美しき娘というわけでもなかったろうに。

・「死(しん)じ子」原本は「ししこ」で、これは「死にし子」の撥音便無表記である。底本の木村氏注に、『「死んだ子は縹緻(きりょう)よし」との諺があったか』とある。

 

「萬葉集」七卷に『いとまあらはひろひにゆかん住みの江の岸によるてふ戀忘貝』と、よめり。住吉の濵にもあるにや」「万葉集」巻第七の一一四七番歌、総前書に「攝津作」とある作者不詳の一首、

 

 暇(いとま)あらば拾(ひり)ひに行かむ住吉の岸に寄るとふ戀忘貝(こひわすれがひ)

 

である。初句から作者は官人であると分かる。「ひりふ」は「拾ふ」の古語。「住吉」摂津国住吉(現在の大阪府大阪市住吉区)。

『予が見る處の「忘れ貝」』益軒にとっての「忘れ貝」はどのようなものだったのか? 何故、彼は自分の知っている「忘れ貝」の形状を詳述しないのか?……これって、益軒先生にも、「忘れ貝」に纏わる秘密の恋でもあったのかしら? ちょっと気になる……]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ

 

【同】

タイラギ 殻大ニテ薄シ肉柱一アリ大ナリ食スヘシ腸ハ

不可食和俗※1ノ字ヲ用ユ出處ナシ江瑤及玉珧ハ本

草諸書ニノセタリ肉柱四アリ殻瑩潔ニシテ美ナリタイ

ラキハ殻不美肉柱一アリ是似テ是ナラス然レトモタ

イラキモ江瑤ノ類ナルヘシ※2※3ハ本草ニ載タリタイラキト訓

スルハ非也

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+「夜」。「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。]

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】[やぶちゃん注:原本は「同」。]

たいらぎ 殻、大にて、薄し。肉柱、一つあり、大なり。食すべし。腸〔(はらわた)〕は食ふべからず。和俗、※1の字を用ゆ、出處なし。江瑤〔(かうえう)〕及び玉珧〔(ぎよくえう)〕は本草諸書にのせたり。肉柱、四つあり。殻、瑩潔〔(えいけつ)〕にして美なり。たいらぎは殻、美ならず。肉柱、一つあり。是れ、似て是れならず。然れども、たいらきも江瑤の類いなるべし。「※2※3」は本草に載せたり。「たいらぎ」と訓するは非なり。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+「夜」。「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。]

[やぶちゃん注:斧足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギについては、長くタイラギ Atrina pectinata Linnaeus, 1758 を原種とし、本邦に棲息する殻表面に細かい鱗片状突起のある有鱗型と、鱗片状突起がなく殻表面の平滑な無鱗型を、生息環境の違いによる形態変異としたり、それぞれを Atrina pectinata の亜種として扱ったりしてきたが、一九九六年、アイソザイム分析の結果、有鱗型と無鱗型は全くの別種であることが明らかとなった(現在、前者は一応 Atrina lischkeana Clessin,1891に同定されているが、確定的ではない)。加えて、これら二種間の雑種も自然界には一〇%以上は存在することも明らかとなっている(ウィキタイラギ」を参照)ため、日本産タイラギ数種の学名は早急な修正が迫られている。

「腸は食ふべからず」とあるが、実際にタイラギ漁によっては、早々に海上で内臓を捨て去ることもあると聞く。それでもタイラギのヒモ(外套膜)を食用とすることを知っている人は多いが、私はある寿司職人に勧められて新鮮なキモ(内臓)を焼いて食したことがある。これはなかなか十分美味い。騙されたと思って一度お試しになることをお勧めする。

「※1の字を用ゆ、出處なし」(「※1」=「虫」+「夜」)「※1」の字は不詳。「出處なし」とは由来も出典も不明ということであろう。

「江瑤」「玉珧」「本草綱目」には「海月」の項に『玉珧(音姚)、江珧、馬頰、馬』とある(「江瑤」は載らない)。但し、この「海月」というのは本「大和本草」の次の項に別種として出る(これは記載が混乱しており、同定が難しいが、私は斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ(ハマグリ)目マルスダレガイ上科マルスダレガイ科カガミガイ Phacosoma japonicum を想定している)。また、寺島良安和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部でも「たいらぎ ゑぼしがい 玉珧 ヨツ チヤ゜ウ」として項を出し、「江珧(かうえう) 馬頰 馬甲【俗に太以良木と云ふ。又、烏帽子貝(ゑぼうしがひ)と云ふ。】」と記す。

「肉柱、四つあり。殻、瑩潔にして美なり。たいらきは殻、美ならず。肉柱、一つあり。是れ、似て是れならず。然れども、たいらきも江瑤の類いなるべし」以下、細かく注する。

・「四つ」でこれはタイラギと違うと思われる方もあろうが、実は、タイラギには貝柱(閉殻筋)はちゃんと二つある。但し、前閉殻筋は殻頂近くにあって小さく、我々は殻中央部の大きな後閉殻筋の方をたった一つの大きな貝柱と思って食用としているに過ぎない。こじつければ、左右両殻に切断した大小の貝柱をタイラギに於いても「四」と言えぬことはないのである。

・「瑩潔」「瑩」本文では漢音の「エイ」で読んでおいたが、呉音では「エウ(ヨウ)」で、漢詩などでは後者の読みもしばしば目にする。「潔」は、底本では(へん)が(にすい)でしかもずっと上方に小さくついている。」艶やかな輝きを持って清く美しいという謂いで、これは私の推定するカガミガイの形容として相応しい。

・「似て」とあるが、もしこれが私の推定同定であるカガミガイであるとすれば、殻の形状その他総ての点でこれは似ているなどと思う人はまずいない。思うのだが、ここで益軒が似て非なるものとしてピンとくるのは、タイラギに似るものの殻が細長く、閉殻筋も小さく、外套膜も薄い翼形亜綱ウグイスガイ目ハボウキガイ科ハボウキガイ Pinna bicolor である。

・「たいらきも江瑤の類いなるべし」既にご覧の通り、もし「江瑤」が私の推理通りカガミガイであるとすれば、タイラギは翼形亜綱ウグイスガイ目であるのに対し、カガミガイは異歯亜綱マルスダレガイ目で亜綱レベルで異なる全く縁のない種である。

 

 

『「※2※3」は本草に載せたり。「たいらき」と訓するは非なり』(「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。)寺島良安和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部には、「あこやがひ ※1※2 ヒン ツイン 生※2 ※1蛤【俗に阿古夜加比と云ふ。】」と見出しで出、これはウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ
Pinctada fucata
martensii
 のことである。]

2015/01/28

明恵上人夢記 49

49

一、南都の修學者筑前房等、侍從房に來る。此の破邪見章(はじやけんしやう)を見せしむとて、又、上師、之を御覽ず。心に思はく、よひに御覽ずべき由を申しき。之に依りて御覽あり。其の御前に人ありて、此の書を隨喜して哭すと云々。上師云はく、「えもいはず貴き書也」と云々。

[やぶちゃん注:クレジットなし。問題は「此の破邪見章」という謂いである(「破邪見章」は邪(よこしま)な誤った仏法解釈を論難して破り、それを明確な文章で明らかにすることの謂いであろう)。底本注は、あるいは「摧邪輪」かとし、後掲するように河合隼雄の「明惠 夢に生きる」でも、これを「摧邪輪」とする。その方が理解はし易い。とすると、「明惠 夢に生きる」のように、この「49」夢、ひいてはノン・クレジットで法然繋がりの「48」と、その前の年不詳の宙ぶらりんの「47」夢もひっくるめて、総ては「摧邪輪」執筆後の夢ということになり、これらの三つの夢記述は建暦二(一二一二)年十一月の「摧邪輪」執筆後のこととなる。しかし、そうなると底本で次の「50」が『建暦二年九月十九日の夜』で始まるのと合わなくなる。無論、前に述べた通り、底本自体が十六篇の継ぎ接ぎに過ぎないから、これを以って建暦二年説を退けることは出来ない。しかし、河合氏も述べておられる通り、『この夢が『擢邪輪』執筆の前と後とで、夢に対する見方が変わってくる』という点で非常に大きな問題を孕んでいることは言を俟たない。河合氏は建暦二年説に従って意見を述べておられるから後掲する引用を参照にされたいが、私個人としては、現在の主流とは思われるその解釈や解析に敬意と理解は表するものの、これらを、

「摧邪輪」執筆後の夢

としてしまうと、この三つの夢の内容は総合的に見て、如何にも、

リアルで科学的で論理的な様相を見せてくる/見せることとなってしまう
と思うのである。ところが、私のように、これらを総て

「摧邪輪」執筆前の承元元(一二〇七)年の十一月及びそれ以降、「選択本願念仏集」を読む前、即ち知られた「摧邪輪」の筆を執ろうと決心した前の夢

ととるならば、俄然、この三つの夢は、

夢らしい夢幻性を帯び、しかも孰れもが既に注した通り不可思議なる予知夢としても立ち現われてくる

ように思われるのである。大方の御批判を俟つものではある。

「南都」奈良。

「筑前房」不詳。「26」夢に不詳の「筑前殿」が出るが、同一人物かどうかは不詳。

「侍従房」表現から見て、人名ではなく寺院か公家屋敷か宮中かの部屋の室名のように思われるが、不詳。識者の御教授を乞う。

「此の破邪見章」私は以上の観点から、これは「摧邪輪」そのものではなく、尊崇の念を持ちながらも明恵が法然の宗旨に疑念を抱き、それについて思うところを九年(法然の下で内々で「選択本願念仏集」が書かれた建久九(一一九八)年を起点とした承元元(一二〇七)年まで)に亙って書き溜めて来たところの(一朝一夕一ヶ月ばかりであの「摧邪輪」が総て書き上げられたのだとは私には思われないのである)、後の「選択本願念仏集」に対する批判文書である「摧邪輪」の、原「摧邪輪」とも言うべき草稿に類するものであったと採るものである。建暦二(一二一二)年十一月の執筆までの実に十四年の間(法然の下で内々で「選択本願念仏集」が書かれた建久九(一一九八)年を起点とした)、そういう草稿や原資料が一切なかったと考える方が、遙かに不自然であると私は思うのである。確かに、何度も述べるように、明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは、法然の死後八ヶ月後、この建暦二年九月に平基親の序を附けて版本印行されたものによるものらしいが、しかしどう考えても、それまで明恵が何とも思わずにただ只管、法然を崇敬なしていたが、活字化された「選択本願念仏集」を読んだとたん、その宗旨が仏法を破壊するとんでもないもので、彼はとんでもない破戒僧だったのだだと初めて気づいた――などという愚鈍な明恵を主人公にするシチュエーションの方が、遙かに不自然である。

「上師」ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととっておく。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとある。この頃はまだ生きていたか(不謹慎乍ら出来れば、死んでいてくれた方が夢としては、より面白いんだけどなぁ)。

「上師、之を御覽ず。心に思はく、よひに御覽ずべき由を申しき。之に依りて御覽あり」ここは言葉を発していないにも拘わらず、その心中で思ったことが不思議に上師に通じて、その通りになったという情景を描写しているものと読んだ。また、ここで直ぐに読まずにいて欲しいと明恵が心に念じて、有意な時間経過の後の夜になって徐ろに上師及び別な「人」がそれを読んだという如何にも迂遠な叙述が気になる。ここには実際の「摧邪輪」が、法然死後、「選択本願念仏集」を実見して義憤から書かれることの――私は――予知夢的表現であったのではないかと考えている(これが「摧邪輪」執筆後の夢となると、如何にもつまらない夢となる、という私の謂いが、少しはお分かり戴けることと思う)。

「其の御前に人ありて」もう一人、不詳人物が上師のすぐ前にいて、彼も親しくそれを読んだのである。この「人」、大変気になる。

「書」という表現は、確かに出来上がった「摧邪輪」の雰囲気はないとは言えない。しかしそれでも私は良いのである。私はこれを予知夢と解釈しているからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一、こんな夢を見た。

「南都の修学僧の筑前房らが、侍従房にやって来られた。

 私は、手元にある、この私の――法然らが布教するところの念仏衆の――その破邪見章(はじゃけんしょう)の論難について、是非とも、お見せしたいと思っていた。

 すると、その来訪された人々の中には、また、我が上師たる上覚房さまがおられ、私のその論難を綴ったものを手に取ってお読みになられようとした。

 その時、私は、心の中で、

『……上覚房さま、それは、どうか、今日これから、宵になってより、ご覧下さいまするように……』

と念じた。

 すると、上覚房さまは以心伝心を以ってそれを感受なされた。

 されば、ずっと後の夜になってから、上覚房さまはご覧になられた。

 その上師の御前(おんまえ)にも人――私の知らない人物であった――がおられたが、その方は、この私の念仏衆への論難の書を読まれ、随喜し、その後、感極まって大声を挙げてお泣きになっている。……

 上師上覚房さまは私に、

「――これはまっこと、えも言われぬ貴(とうと)き書であるぞ。」

と、おっしゃられる。……

 

[やぶちゃん補注:河合隼雄の「明惠 夢に生きる」より、本「48」「49」夢に対する解説部を引用しておく。

   *

 これらの夢は『夢記』の建永元年(一二〇六)の一連の夢の続きに、十一月の夢として記載されているものであるが、それ以前に十二月の夢が二十八日まで記されているし、奥田も指摘するように『夢記』の「記事に錯乱や順逆が考えられるから確かなことはいえない」のが実状で、これらの夢はいつのものか断定し難い。ただ、二番目の夢にある「破邪見章」が久保田らの推定するように『摧邪輪』のことであるならば、この二つの夢は『推邪輪』が執筆された建暦二年(一二一二)以後の夢ということになる。

 ここでどうして年代にこだわるのかと言えば、この夢が『摧邪輪』執筆の前と後とで、夢に対する見方が変わってくるからである。すなわち、明恵は『摧邪輪』の冒頭に、自分は年来、法然に深い仰信をいだいてきたし、いままでに一言も誹謗したことがなかったが、この『選択集』を読んで、これが念仏の真実の宗旨をけがしているのを知り恨みにさえ思っている、と記している。この夢がもし建永元年の夢であるとすると、『選択集』を明恵は未だ読んでいないわけであり、法然を尊敬していたわけで、夢のなかで、法然に仏事の導師をして貰うとしてもあまり不思議はないと思われる。

 筆者としては、第二の夢の「破邪見章」は『推邪輪』ではないかと思われ、はじめの夢も『推邪輪』執筆後のものではないかと思う。そうすると、意識的には明恵は法然を烈しく非難しつつ、無意識には法然を評価していたことになってくる。このように考えると、『行状』に記されていた、明恵の顔に「観音」とか「善導」とか書かれ、西方から光がくるという夢も、浄土教に対する明恵の高い評価を示しているものと思われて、ますます興味深く感じられる。もともと明恵は法然の『選択集』に書かれていることを非難しており、浄土教そのものや念仏などを否定しているのではないので、この夢も別に不思議ではないと言えそうであるが、やはり、明恵が根本的には華厳によっていることを考えると、注目すべきイメージであると言わねばならない。

 明恵が法然を評価する夢を見ている事実は、彼の内面の動きを示していて興味深いが、夢を見た年代を明確にできないので、断定的なことが言えず残念である。

 なお、この夢は一般に「我が仏事の導師すべし」と読まれ、明恵の仏事の導師を法然が行なったとされている。しかし、原文を見ると「我、仏事の導師すべし」とも読め、明恵が仏事の導師をするときに、法然がその聴聞に来たと考える方が妥当なようにも思われる。いずれにしても明恵と法然との関係の良さを示すもので、それほど大切な差でもないと思うが、一応意見を述べておく。

   *

「奥田」国文学者奥田勲。聖心女子大学名誉教授。明恵の「夢記」の研究者として著名。私はこの『この夢がもし建永元年の夢であるとすると、『選択集』を明恵は未だ読んでいないわけであり、法然を尊敬していたわけで』の、「選択本願念仏集」を読むまでは目出度くも手放しで『法然を尊敬していた』という明恵の楽天的な姿を、これ、想像することが出来ないのである。]

明恵上人夢記 48

48

一、一つの檜皮屋(ひはだや)有り。一人の長高(たけたか)き僧有り。白衣(びやくえ)なる心地す。笠を著(つけ)たり。心に思はく、法然房也(ほふねんぼう)。我が佛事の導師すべし。其の聽聞の爲に來られ、我が房の中に入りて、饗應して二三日を過す。明日の佛事を、使者を以て白(まう)さく。「日來(ひごろ)、佛事結構之間に、忩々(そうそう)に走り過(よ)ぎ了(をは)んぬ。今夜見參(げんざん)に入らむと欲す。明日は時畢(をは)りなば佛事有るべし。其の以前は又、忩々爲(た)るべき」由をと云々。

[やぶちゃん注:クレジットがない。大まかな推論は「47」夢の注で示しておいたが、この内容から再度、考証を試みたい。まず私はこの「明日の佛事」に着目する。これは恐らく、夢時間の中の法然来訪滞在の後の漠然とした不特定の「明日の佛事」では――ない――と私は読む。即ち、これは夢を見た日の明恵がその覚醒した翌日(或いはその日)に行われる明恵主宰の何らかの公的な「佛事」であったと私は読むのである。既に述べた通り、承元元(一二〇七)年(建永二年から同年十月二十五日に改元)秋に明恵は院宣を受けて東大寺尊勝院学頭に就任しており、まさしく遁世僧でありながら、頗る世俗的な国家宗教の只中にあって公的な「佛事」に忙しい日々を送っていたと考えてよい。これもそうした公的「佛事」だったのではないか? さればこそ、公的に追放配流されていた法然が、その公的「佛事」にやってくると約束することこそがあり得ないことであり、それだからこそまた逆に、明恵が夢として書き残したくなるところの、特異点としての夢の夢たる所以を見出し得るといえるのではあるまいか? 法然は承元元年の二月に讃岐国へ配流された(現地ではかなり自由に行動している)が、同年十二月には早くも赦免され、翌建暦元(一二一一)年には京の吉水に戻っている(その後、建暦二(一二一二)年一月二十五日に京の東山大谷で死去するまで京に居た)。そう考えると、現実に法然が赦免されてしまった後では、明恵がかく夢を見た際の彼自身の中での夢としての印象度は著しく減衰すると言ってよい。とすると、この赦免が十二月というのが俄然、私には特別に見えてくるのである。まさに、

 「48」夢は法然が未だ配流中の承元元(一二〇七)年の十一月中の夢

ではなかろうか? そう考えると、「47」夢が「十一月」(既に私は「47」も承元元(一二〇七)年十一月の夢と推測した)であることとも極めて自然に繋がるのである。そうしてしかもこれが「十一月」であることはさらに明恵にとって大きな意味を持って来るではないか! そう、これは実に後に、翌月に法然が赦免され、翌年には法然が都へと復帰することの予知夢とさえなっているという点である。これは実はまさに書き残されるべき特異点の夢だったということになるのである。

 但し、これについては、全く異なった説が河合隼雄の「明惠 夢に生きる」には記されてある。端的に言えばそこにある説は、少なくともこの「48」と「49」(叙述上のニュアンスからは「47」も含まれる感じはする)夢は、「摧邪輪」が書かれた(建暦二(一二一二)年十一月以後(ということは同年一月二十五日の法然の死後(満七十八歳。明恵より四十歳年上)ということになり、この夢の法然は既に死んでいるということになる説である)というものである。それはそれで非常に説得力がある特に法然死後と考えるとこの「48」の映像の神秘度は逆に著しく光輝を増すからである)もので、私もそれをよく存じてはいるのだが、「47」以降の以上の私の見解は、あくまで私自身が読んだ際の第一印象を大切にして分析した結果であり、それらの学説の影響は受けていない(というか、受けないように意識して独自に考証した)。それが如何なるものであるかは、次の「49」の注で引用して示すことする。

「檜皮屋」檜皮葺(ひわだぶき)。屋根葺の手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を剥いだものを用いた本邦独特の施工方法である。

「法然上人」底本の注には、弟子喜海の「高山寺明恵上人行状」には『紀州より帰洛の途次、独りの老僧の説教によって法然の狭義に触れたとある。明恵は、『摧邪輪』を著わして法然を論難するなど、その教義に対しては厳しい批判を加えている』と「には」とはあるものの、これは頗る不十分な注釈で、以前のべたことを繰り返すなら、明恵は専修念仏を唱導した法然の「選択本願念仏集」(建久九(一一九八)年成立)が出た六年後の建暦二(一二一二)年にそれを痛烈に批判する「摧邪輪」を著し(明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは実は、法然の死後、この建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによる思われる)、発菩提心の欠落を指弾しているものの、四十も年上の法然という禁欲的な修行を積んだ大先輩の僧に対して明恵は、その生前は実は一貫してその修道心と学才に対し、非常に強い尊敬の念を持っていたことを述べなければ、だめである。前にも述べた通り、「摧邪輪」での法然に対する破戒僧としての誹謗は極めて激烈であるが、それと同時に、かねてより法然に対する「直き心」が明恵にはあった。だからこそ、この夢で法然が「我が佛事の導師」ともなり、「其の聽聞の爲に」わざわざ来たって逗留もするのである。次の「49」の補説で掲げるように、実はこの夢は「摧邪輪」が書かれた後の夢とする説の方が強い。しかしどうだろう? 寧ろ、私はこの夢に於ける法然と明恵の疑似的子弟関係や二人の間にある穏かさは、「摧邪輪」で売僧(まいす)レベルまで引きずり落した後に見た夢と、「選択本願念仏集」さえ未だ読んでおらず、聴こえてくる彼の説く戒律のいかがわしさが気になりながらも、「直き心」を以って一方で依然として修行の人法然を尊敬していた明恵の素直な心が現われていると読む方が、如何にも腑に落ちはしまいか?

「我が佛事の導師すべし」次の「49」に全文を示すが、河合隼雄の「明惠 夢に生きる」には、ここについて『この夢は一般に「我が仏事の導師すべし」と読まれ、明恵の仏事の導師を法然が行なったとされている。しかし、原文を見ると「我、仏事の導師すべし」とも読め、明恵が仏事の導師をするときに、法然がその聴聞に来たと考える方が妥当なようにも思われる。いずれにしても明恵と法然との関係の良さを示すもので、それほど大切な差でもないと思うが、一応意見を述べておく』とある。

「明日の佛事を、使者を以て白さく」この直前に一度、法然は帰って、時間的なインターバルが入っているものか。

「結構」構成・善美を尽くして物を作ること・計画/企て・準備/用意/支度などの意があるが、ここは最後の意味で採った。

「忩々に」「忩」は、急ぐさま・俄なさま・慌てるさま。

「過(よ)ぎ」は私の読み。

「長高き僧」法然は特に身長が高いとは聞いていない。これも明恵の法然に対する尊崇の念の形象化ともとれる。

「白衣(びやくえ)なる心地す」読みは私のもの。ここの部分、表現が気になる。これは現実の「白衣」とは何か異なった、異様に薄い透明度の高いそれではなかろうか。所謂、ETの衣服のように、地球上の物質で出来ているとは思われない天の羽衣みたようなもの、である。

「明日の佛事」前で述べた通り、この夢を見た日の翌日か或いはその日の実際の公的な(例えば学頭を勤める東大寺の法会或いは公卿武士などの上流階級の私邸での修法など)があったのではなかろうか。即ち、これから実際に行われる仏事の内容や在り方に対するという意味でも、この部分にも予知夢的ニュアンスを私は感ずるのである。

「見參」「げざん」「げんぞう」「けんざん」とも読む。高貴な人や目上の人に拝謁すること・ 目下の者に会うこと/引見(いんけん)/対面、の意の他にも、節会(せちえ)や宴などに伺候した人の名を記して主君に差し出すことをも指すが、ここは対面・検閲の謂いであろう。

『「明日は時畢りなば佛事有るべし。其の以前は又、忩々爲るべき」由をと云々』この法然の台詞の意味が分からない。「時畢る」の「時」は「斎(とき)」で仏家の正式な一日唯一度の、午前中の正飯の意で採った。以下の、「其の以前は又、忩々爲るべき」の部分は――結局、私(法然)が検分をしても、結局、その準備は、明恵、そなたではまたしても大慌ての杜撰なものとなるに違いない――という意味で採ってみた。強引な力技でしかない。大方の御批判を俟つ。]

 

■やぶちゃん現代語訳

48

一、ある夢。

「一つの檜皮葺(ひわだぶ)きの庵がある。

 そこに一人の背の高い僧がおられる。

 すこぶる清澄なる白衣(びゃくえ)――あたかも天の羽衣ででもあるかのようなもの――を召されておらるるように見受けられた。

 笠も被っておられる。

――私は心の中で、

『……これは……かの法然房さまだ! 私の仏事の導師をなさってくれるためにここにおられるのだ!……』

と思った。

 やはりその通りで、法然上人さまは私の説教を聴聞されんがためにわざわざここへ来られたのであった。

 その後(のち)、親しく私の僧房の中へとお入りになられ、私は出来得る限りの誠意を以って饗応をなし、上人さまには、まことゆっくりと二、三日を過して戴いた。

 その後、上人さまは一度、かの檜皮葺きの庵へとお帰りになられたが、さても明日予定されてあるところの仏事について、御使者を以って私に、何と、

――日来(ひごろ)、そなたの仏事の準備は、いつもこれ、すこぶる慌てふためいて大急ぎにて、謂わば、やっつけ仕事で慌ただしゅう終わっておる。――今宵、我ら、そうした趣きをとくと見させてもらおうと存ずる。――明日は斎(とき)が終わったら直ぐに仏事となるはずじゃ。――さて……その以前の用意は、また、これ、……大急ぎの大慌ての杜撰ものとなるのであろうのぅ……

といった由を、この私に、告げられたのであった。……」

耳嚢 巻之九 蟲毒を去る妙法の事

 蟲毒を去る妙法の事

 

 都(すべ)て何蟲によらず、さゝれし時、澁柿ころ柿をすり附(つく)れば、痛みかゆみを去る事奇妙なり。さゝれたるのみにもあらず、御先手(おさきて)森山源五郎方の中間酒を好み、醉興にや蛇を喰ひけるに、惣身腫れなやみけるに、或人ころ柿を進め喰(くは)せければ、即座に快験(くわいげん)ありしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間療法シリーズと毒虫直連関。蛇は長虫(ながむし)と呼ばれ、立派な毒虫である。柿渋は古くから民間治療薬として知られ、特に山村や僻地に於いては家庭常備薬として重宝された。用法は飲用から塗付まで幅広く、服用薬としては高血圧・脳卒中などに、塗り薬としてはここに出る虫刺され以外にも、火傷や霜焼けの治療に利用された。

・「ころ柿」枯露柿。干し柿。

・「御先手」先手組。若年寄支配。有時には徳川家の先鋒足軽隊を勤め、徳川創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加したが、平時は江戸城に配置されてある各門の警備・将軍外出時の警護・江戸城下の治安維持等を担当した。

・「森山源五郎」底本鈴木氏注に、『孝盛。明和八年(三十四歳)家督。三百石廩米百俵。寛政六年御目付より御先鉄砲頭となる』とある。

・「蛇を喰ひけるに、惣身腫れなやみける」若し、原因が確かに蛇食にあるとすれば、マムシかヤマカガシかの有毒蛇を食べ、口腔内に傷があったか、飲食中に傷つけたかによって、当該有毒成分がそこから侵入して全身性の症状が発症したものと思われる。一番疑われるのは腎不全で、他にも例えばマムシ毒は筋肉融解症という、激しい筋肉の腫脹を伴う炎症を引き起こす。

・「快験」の「験」の字は底本のママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 虫の毒を消し去る妙法の事

 

 総て何虫によらず、刺され際には、渋柿や枯露(ころ)柿を、よくすり込んでおけば、痛みや痒みが消え去ること、これ奇々妙々なる由。

 刺された場合のみではなく、例えば先年、御先手(おさきて)を勤めらるる森山源五郎殿の中間が、酒好きで度を過ごし、羽目を外してでもしもうたものか、こともあろうに生きた蛇を捕まえて参って、これをその場にて生裂きにし、しかもそのまま食うたところが、総身(そうみ)の腫れ上って、痛く苦しんだによって、ある者、それを聴くや、枯露柿を仰山に持ち来り、頻りに勧めて食わせたところ、これ、即座に恢復した、とのことで御座った。

2015/01/27

僕は

この年でまた、遠い昔に実は失恋していたというニュアンスを痛感した気がしたのである――

明恵上人夢記 47

47

一、十一月、夢に云はく、二階の家有り。其の第二階に、種々(くさぐさ)、假(かり)の物有り。九品往生の圖を造ると云々。

[やぶちゃん注:「十一月」底本ではこの後の二条にはクレジットがない。しかも次の「48」の夢には何と、かの法然が登場し、しかもその次の「49」(これは全体を夢ではなく、実際の事実を記録した日記と読むことも出来るものであるが、ここでは敢えて夢として捉える)には、驚くべきことに、建暦二年十一月に明恵が撰述することになる、法然の「選択本願念仏集」(執筆自体は建久九(一一九八)年であるが、後に記す通り、明恵がそれを読んだのは法然死後の建暦二年九月と推定される)の論難書である「摧邪輪」の草稿ではなかろうかと思わせるような、『破邪見章』の文章を訪問僧や『上師』に見せるという、驚天動地の記述がある。なお、明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは実は、法然の死後、この建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによると思われる。即ち、その書き上げの短期性と、その法然に対する激烈な誹謗からも彼の「選択本願念仏集」という活字化されたそれが、明恵の激しい怒りを喚起するものであったことは分かる。しかし、としても、明恵が「選択本願念仏集」を読んでいなくても、また、法然と直接の関係はなくとも、法然の元に集う修行者やそこに出入りした修学僧らから、法然の行状・言動・思想は稀代の学才の人明恵ならばこそ当然、知尽しており、「選択本願念仏集」に現われることになる破戒的なその宗旨をも、それ以前から既にして情報として知っていたと考える方が自然であると私には思われる。

 さて話を戻して何故、これが驚天動地かと言えば、実はその「49夢」の後の「50夢」は別ソース乍ら

 建暦二(一二一二)年九月十九日

の夢記述から始まっているからである。無論、底本自体が編者によってばらばらになった訳の分からない十六篇を恣意的に継ぎ接ぎに過ぎないのだから、これを云々するのは馬鹿げているとも言えよう。しかしアカデミストでない、一介の偏奇な夢の好事家に過ぎない私は敢えてここでは、お目出度くも無批判に、この編者の編集が時系列でなされていると――読み進めたい――のである。そうした馬鹿を許してみると、実にこれは、この「48夢」は前の「47夢」の建永元(一二〇六)年十二月八日以降の「十一月」に見た夢ということになり、そうなると後の「50夢」との連続性から考えるならば、この「48夢」は、

 承元元・建永二(一二〇七)年

 承元二(一二〇八)年

 承元三(一二〇九)年

 承元四(一二一〇)年

 建暦元・承元五(一二一一)年

五年間の孰れかの「十一月」ということになる(無論、時系列に従わない書き方を明恵は実際に行ってはいる。がしかし、この建永元(一二〇六)年の「十一月」というのは、十一月二十七日に栂尾に参って住するようになった特別な月であり、見てきたように、「42」からこの「46」まではかなり小まめに詳述しているのである(但し、時系列を前後するものはある)。しかも、この「47」の「十一月」の頭には「同」がないのである。

 以上から、私は、

●「47」以下「48」「49」の三つの夢は承元元・建永二(一二〇七)年から建暦元・承元五(一二一一)年の間に記述された夢

と採りたいのである。

 而して、ではこの閉区間の中で、それを絞ることは不可能であろうか?

 ポイントは本「47」の「九品往生」である。明恵は明らかに、区別的な往生の様相をここで夢に見ている。とすれば、ここで彼は往生の様相を区別化せざるを得ない何らかの状況的認識を「ことさらに」持ったと考えてよい。それはまさに念仏衆の、彌陀の誓願によって等しく往生することが定まっているという易行門認識故ではなかったか? とすれば、法然を先輩の修行僧として高く評価していた明恵であったが、後に「選択本願念仏集」を読んで発生することになる、聴こえてくる法然の浄土宗の宗旨への深い疑惑の念が既にこの夢に現われていると見るのが自然ではないか? 先に記した通り、明恵が実際に「選択本願念仏集」を目にしたのは建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによると考えられるが、私は「摧邪輪」の成立年代から見て、その批判感情(この「九品九生」の図を明恵自らが「造る」というのを私はそのようなものとして見る。以下の注も参照されたい)が夢を形成するべく具体化していったのは寧ろ、法然と親鸞が配流になった承元元年以降ではなかったかと考えている。それは明恵が体制側の宗教者に厭がおうにも取り入れられるところの背景と、この法然・親鸞の配流とに密接な関係があると踏んでいるからである。畏敬していた法然が、破戒的布教を行い、それが公的に断罪されることはフロイト的な超自我を持ち出すまでもなく、明恵にとっては、そうなってしかるべきだという顕在的意識があったに違いない。しかし一方、彼は同時に、法然を崇敬出来る先師としても強く意識してもいたのである。しかして彼らの配流という現実は、明恵にとって、アンビバレントにして甚大な衝撃であったはずである。

 そうした明恵の意識の時間を測るとすれば、これは、

  承元元(一二〇七)年十一月

であると推定するのである(「48」以降でも再考する)。しかも、その年の秋に明恵は院宣を受けて東大寺尊勝院学頭に就任している。彼はまさに公的にも認められてしまった隠遁とは程遠い、現世的な宗教者に位置づけられてしまったのである。彼がこの「47」で「種々」「假の物」のある場所で、「九品往生」の図を自ら作ろうとするというのは、実はそうした事実と自身の現状に対する、微妙な「留保」的意識が夢に反映したのだとは言えないであろうか? 大方の御批判を俟つものではある。

「第二階」とあるのは意味深長である。階層的区別のシンボルとしての権威としての「二階」か、新しい認識若しくは真の仏法の高みという絶対的上位概念としての「二階」か、一階が何であるかが示されないだけによく分からない。

「九品往生」阿弥陀如来の住む極楽浄土に再生(というよりも真に生まれたいと考える)したい願う者の、九つの往生の著しく細分化差別化された(というのは私の認識である)段階、九品の往生の仕方を称する。浄土三部経の「観無量寿経」に説かれるもので、如何にもな、往生の分類学として、上品上生 (じょうぼんじょうしょう)から上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生までの九品(くぼん)という往生の差(詳しくはウィキの「九品」を参照)が示されてある。聖道門としての華厳僧である明恵は自身には極めてストイックな戒律と厳しい修行を課した人物であるが、例えばウィキの「明恵」に、『かれの打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたもので』、『たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀』(「三時」は六時〔六分した一昼夜〕を昼三時と夜三時に纏めたもの。晨朝(じんじよう)・日中・日没(にちもつ)を昼三時、初夜・中夜・後夜を夜三時という)『により、観無量寿経に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど』(これは一種の文字による曼荼羅であると中央公論社昭和五八(一九八三)年刊の「日本の名著5 法然」の明恵の解説の中にある。なお下線はやぶちゃん)、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった』とあって、明恵がこの易行門に於ける衆生は等しく彌陀の大慈悲心によって救われるというセオリーを、「九品往生」に独自にインスパイアしていることが分かる(因みにウィキの「九品」によれば、本来の上品上生は、誠心・深心・廻向発願心の三種の心を発して往生する者を指し、それにはまた三種の者、『慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者』・『大乗方等経典を読誦する者』・六念処(信心する上で繰り返し心で念じるべき六つの法。詳しくはウィキを参照されたい)を修行する者、とあって、『その功徳により阿弥陀如来の浄土に生じることを願えば』、一日若しくは七日で『往生できるという。この人は勇猛精進をもち、臨終に阿弥陀や諸菩薩の来迎を観じ、金剛台に載り浄土へ往生し、即座に無生法忍を悟るという』とある)。各種の鎌倉新仏教の新興思想は、そうした差別化された国家鎮護と上流階級の救済にのみ特化して腐敗していた平安旧仏教の粗い網目から徹底的に零れ落ちていた被圧的集団としての大衆という「衆生」をターゲットとした、易行プロパガンダを得意とした特異的宗教群であった。されば、ここで出る「九品往生」もまさにそうした明恵の創始した三時三宝礼を積極的に肯定するシンボルとして描写されていると考えるべきであろう。大方の御批判を俟つ。]

 

■やぶちゃん現代語訳

47

一、十一月、こんな夢を見た。

「二階建ての家がある。その二階部分には、凡そ私が見たこともない有象無象の、何とも言えぬ――私に言わせれば、仮りの相、真実の相とは思われないと感ずるところのものをも含む――仮の仏の物象を象ったものさえも多々置かれてあった。

 そこで私は独り、独自の「九品往生の図」を創り出そうとしているのであった。」……

耳嚢 巻之九 蛇犬の腹中へ入る事 / 蛇穴へ入るを取出す良法の事

 蛇犬の腹中へ入る事

 

 文化六巳年五月中旬、本所龜井戸邊、或家の飼犬(かひいぬ)、蛇をなぶり候事も有之哉(これありや)、右犬の尻の穴へ蛇這入(はひいり)候を、其邊のもの取出(とりいだ)さふと、尾をとらへ引(ひき)候へども、曾(かつ)て不出(いでず)。とふとふ右穴中に這入しが、蛇は死せしや、犬は其儘にたち歩行(ありき)しと印牧翁の別莊へ、予が老僕立寄りて、きゝしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「文化六巳年五月中旬」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。

・「印牧翁」「耳嚢 巻之四 俄の亂心一藥即效の事」「耳嚢 巻之六 十千散起立の事」の二箇所に出る、医師印牧玄順であろう。前者の私の注したものを少し書き換えて示す。馬場文耕「当代江都百化物」(宝暦八(一七五八)年序)に玄順の未亡人のゴシップ記事「鳴神比丘尼ノ弁」が載るが(リンク先はサイト「海南人文研究室」内資料。この話自体、大変面白い。剃髪した貞女は実は不倫関係の永続を求めてのことであったというとんでもない話である)、これを読むと「印牧玄順」と言う名跡は代々継がれていることが分かり、時代的にもこの中に載る『玄順病死シテ高根玄竜事、今ハ印牧玄順ト改名シケリ』という人物よりも、一~二代後の「印牧玄順」であると思われる(宝暦八年は本巻執筆推定下限よりも凡そ五十年も前)。「デジタル版 日本人名大辞典」に江戸後期医師で、文政元年に伊予松山藩に招かれて侍医となり、「霊医言」などの医書を残した脇田槐葊(わきたかいあん)という人物の解説中に、彼が印牧玄順に学んだとある。しかし、この槐葊の生年は天明六(一七八六)年で今度は少々若過ぎる感じで、この槐葊の師である「印牧玄順」かその先代という感じである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇が犬の腹の中へと入る事

 

 文化六巳年五月中旬のこと、本所亀井戸辺りのある家の飼い犬、蛇をおもちゃにしてなぶっておってでもいたものか、この犬の尻の穴へ蛇が這い潜らんとしておったを、その辺りの者がたまたま見つけ、取り出してやろうと、尾を摑んで引いて御座ったが、これ、いっかな、出て参らぬ。とうとうこの蛇、犬の尻の穴の中へとすっかり這い入ってしまったと申す。なれど、そのまま蛇は死んでしもうたものか、犬はと申せば、これ、そのまま、何事ものぅ、普通に歩いて御座った由。

 印牧(いんまき)翁の別荘へ、私の老僕が立ち寄った際、聴いた話とのことで御座った。

 

 

 蛇穴へ入るを取出す良法の事

 

 都(すべ)て蛇の穴に入らんとするはさらなり、男女の前後の陰中へ時として入る事もある由。これを出さんと、尾をとりて跡へ引(ひく)に、決(きまつ)て不出(いでざる)ものなり。醫書にも胡椒の粉を聊か蛇の殘りし所へつくれば、出る事妙なりとありしが、夫(それ)よりも多葉粉のやにをつくれば、端的に出るなりと、山崎生の物語りなり。

  蛇はいかに小さくとも、膣(ちつ)より奧へ

  は這入れぬものゝよし、啌咄(そらばなし)

  と云(いふ)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蛇が身体に潜るの直連関。フロイト先生の登場を待つ間でもなく、本邦では「日本書紀」「日本霊異記」「今昔物語集」と古えより女性の陰門に魅入った蛇が侵入する逸話は枚挙に暇がない(かつてはかくいう私もフリーキーにこれに限定した古説話を蒐集したことがあるし、ある時にはさる高校に於いてこれらに別な好色古説話を加えて、男子生徒限定の夏休みの古文の補習を組んだところが、男子限定というのが差別だとして女性教員から槍玉に挙げられてしまったことがあった)。因みに、これがまた変容した、女が蛇になるという怪異譚については、そのタイプの近世の説話に限定して書かれた、私の愛読書でもある高田衛氏の「女と蛇 表象の江戸文学誌」(筑摩書房一九九九年刊)という労作もある。しかし今となっては、何となくそうした手持ちの資料を、ここに打ち並べたい気が、何故か、まるで起らない。前の屍姦といい、これといい、どうも不快である。これは私自身が、そうした猥雑度にうち枯れてきたからなのだろうか?(そういう風には自分では思っていないのであるが)ともかくもこの程度でここは〆たいと存ずる。

・「胡椒の粉」「多葉粉のやに」後者はしばしば蛇の忌避物質として古い説話や伝承、近世の小話などにも頻繁に登場するが、「胡椒の粉」と云うのは聴いたことがない(岩波版長谷川氏も同じように注しておられる)。識者の御教授を乞うものである。

・「山崎生」「耳嚢 巻之九 猛蟲滅却の時ある事」に出る「醫官山崎氏」なる人物か(この人物はまた、本巻の頭に出る「耳嚢 巻之九 潛龍上天の事」にフルネーム山崎宗篤として出る人物かとも私には思われ、またその後の「耳嚢 巻之九 死馬怨魂の事」にも「山崎某」と出るのもこれか。フルネームに「某」に「生」と変化するのは、何となくちょっと気になるが、ここでも明らかに医師として発言しているようではある。しかし、附言でもある通り、この話自体が如何にも胡散臭く、そうするとこの「山崎」もそれとなく胡散臭い医師という気がして来る。その辺りに私がフルネームから「某」「生」と変化して記されるところの、根岸自身の、この話者に対する不信感を嗅ぎ取るのである。ただ、この二字下げの附言というのは根岸の附言ではなく、書写したものの感想附言である可能性も除去は出来ない。しかし、私は敢えて根岸のそれとして訳した。

 ・「啌咄(そらばなし)」は底本の編者によるルビ。但し、「啌」は音「カウ(コウ)」で、叱るったり怒たりする声、口を漱ぐ、及び咽頭の閉塞する病気の意しかなく、字面からの当て字に過ぎず、一種の誤字である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇の人体の穴所へ入り込んだものを取り出す良法の事

 

 すべて蛇が穴に入ろうとする習性があることは言うまでもないことであるが、男性の肛門や女性の陰門へ時として侵入するということも、これ、ある由。

 こうした場合、これを出ださんと、その尻尾を握って後ろへ引っ張ると、これ、決まって一向にひきずり出せずなってしまうものである。

 医書などにもこうした場合、体外に出ておる蛇の尻尾の部分に少しく胡椒の粉をつければ、これ、引き出せること、奇々妙々であると書かれて御座るが、しかし、それよりも煙草の脂(やに)をそこにつければ、これ、確実に引き出すことに成功する。

 ――と、以上は知れる医師山崎殿の話で御座った。

(根岸附記)

 但し、蛇というものはどんなに小さい種や個体であっても、女性の膣(ちつ)より奧へは這い入ることは出来ない、と別な御仁より聴いている。以上はその御仁に言わせれば、とんでもない虚言であるとのことである。

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅲ) 

 

十月十三日、飛火野にて  

 けふは薄曇つてゐるので、何處へも出ずに自分の部屋に引き籠つたまま、きのふお前に送つてもらつた本の中から、希臘悲劇集をとりだして、それを自分の前に据ゑ、別にどれを讀み出すといふこともなしにあちらこちら讀んでゐた。そのうち突然、そのなかの一つの場面が僕の心をひいた。舞臺は、アテネに近い、或る村はづれの森。苦しい流浪の旅をつづけてきた父と娘との二人づれが漸つといまその森まで辿りついたところ。盲ひた老人が自分の手をひいてゐる娘に向つて、「此處はどこだ」と聞く。旅やつれのした娘はそれでも老父を慰めるやうにこたへる。「お父う樣、あちらにはもう都の塔が見えまする。まだかなり遠いやうではございますが。ここでございますか、ここはなんだかかう神さびた森で。……」

 老いたる父はその森が自分の終焉の場所であるのを豫感し、此處にこのまま止まる決心をする。

 その神さびた森を前にして、その不幸な老人の最後の悲劇が起らうとしてゐるらしいのを讀みかけ、僕はおぼえず異樣な身ぶるひをした。僕はしかしそのときその本をとぢて、立ち上がつた。このまま此の悲劇のなかにはひり込んでしまつては、もうこんどの自分の仕事はそれまでだとおもつた。……

 かういふものを讀むのは、とにかくこんどの可哀らしい仕事がすんでからでなくては。――そう自分に言つてきかせながら、僕はホテルを出た。

 もう十一時だ。僕はやつぱりこちらに來てゐるからには、一日のうちに何か一つぐらゐはいいものを見ておきたくなつて、博物館にはひり、一時間ばかり彫刻室のなかで過ごした。こんなときにひとつ何か小品で心愉しいものをじつくり味はひたいと、小型の飛鳥佛(あすかぶつ)などを丹念に見てまはつてゐたが、結局は一番ながいこと、ちようど[やぶちゃん注:ママ。]若い樹木が枝を擴げるやうな自然さで、六本の腕を一ぱいに擴げながら、何處か遙かなところを、何かをこらへてゐるやうな表情で、一心になつて見入つてゐる阿修羅王(あしゆらわう)の前に立ち止まつてゐた。なんといふうひうひしい、しかも切ない目ざしだらう。かういふ目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだらう。

 それが何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ鄕愁のやうなものが生れてくる、――何かさういつたノスタルヂックなものさへ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした。それから中央の虛空藏菩薩(こくうざうぼさつ)を遠くから見上げ、何かこらえへるやうに、默つてその前を素通りした。

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九三一)年十月十三日。この最後の阿修羅王(後注するようにこれは現在の興福寺の国宝館にある阿修羅像である)に対する素晴らしい感懐、「ちようど若い樹木が枝を擴げるやうな自然さで、六本の腕を一ぱいに擴げながら、何處か遙かなところを、何かをこらへてゐるやうな表情で、一心になつて見入つてゐる阿修羅王」のそれは、「なんといふうひうひしい、しかも切ない目ざしだらう。かういふ目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだらう」、「それが何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ鄕愁のやうなものが生れてくる」という絶妙のそれは、凡愚な私が若き日にここを訪れた際(当時の私は、何と未だ、この「十月」を読んでいない迂闊な男であった)、舐めるように、その全身を見た折りの感動と――不遜乍ら――美事に一致するものであった。そうしてまた、「――何かさういつたノスタルヂックなものさへ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした」という箇所は、私の偏愛する堀の「淨瑠璃寺の春」のエンディングの、同じ春日の森の中で主人公夫婦が馬醉木の花に出逢ったシークエンス、

   *

 突然、妻がいつた。

 「なんだか、ここの馬醉木と、淨瑠璃寺にあつたのとは、すこしちがふんぢやない? ここのは、こんなに眞つ白だけれど、あそこのはもつと房が大きくて、うつすらと紅味を帶びてゐたわ。……」

 「さうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くささうに、妻が手ぐりよせてゐるその一枝へ目をやつてゐたが、「さういへば、すこうし……」

 さう言ひかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおつとしてゐる心のうちに、けふの晝つかた、淨瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあつて見てゐた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに、蘇らせ出してゐた。

   *

の、そのコーダをまさに『鮮やかに、蘇らせ出して』くれる名文であると、私は思うのである。

「飛火野」「とぶひの」と読む。奈良市の春日山の麓、春日神社(春日野町)一帯の春日野の一部を指し、春日野の別名としても使われる。名称は元明天皇の頃、ここに烽火(のろし)台が置かれたことに由来する。奈良国立博物館は奈良県奈良市登大路町にあるが、ここは春日神社の直近西北西一キロメートルの直近に位置している。

「そのなかの一つの場面」次の日記で「ソフォクレェス」と名を挙げている通り、これはギリシャ三大悲劇詩人(他はアテナイのアイスキュロス及びエウリピデス)の一人、アテナイのソポクレス(Sophoklēs 紀元前四九六年頃~紀元前四〇五年頃 ソフォクレスとも表記する)の最晩年の悲劇「コロノスのオイディプス」の冒頭の部分である(ソポクレスの作品で完全な形で現存するものは、現代ではギリシャ悲劇の最高峰とされる「オイディプス王」の他、「アイアス」「トラキスの女たち」「アンティゴネ」(オイディプス死後の後日譚)「エレクトラ」「ピロクテテス」の七篇のみである。なお、「コロノスのオイディプス」の初演はソポクレス死後二~五年後のこととされる。ここは新潮文庫福田恆存訳「オイディプス王・アンティゴネ」の福田氏の解説に拠った)。堀は結局次の日記で本作をこの日の「午後」「結局」、「再びとりあげて、ずつと讀んでしまつた」と記し、そこに感懐を記しているので、ここでウィキの「コロノスのオイディプスから梗概その他を引用しておきたい。本作は時系列では「オイディプス王」に続くもので、テーバイのかつての王オイディプスが、放浪の末、『アテナイ近郊のコロノスの森にたどり着いたところから始まり、オイディプスの死に到るまでを描く』。『運命に翻弄されたオイディプスは予言に従って復讐の女神エウメニデスの聖林に導かれ、そこを自らの墓所として望み、アテナイ王テセウスもこれを認めた。そしてこれを阻もうとする息子ポリュネイケスやテーバイの現在の王クレオンにもかかわらず、オイディプスはテセウスのみが見守る中』、『コロノスの地中深く飲み込まれていく』という展開で、先行する「オイディプス王」(初演・紀元前四三〇年~同四三六年)、この「コロノスのオイディプス」、「アンティゴネ」(初演紀元前四四二年~同四四一年。以上の初演推定は前掲の福田解題に拠った)の三作品が『テーバイ王家の悲劇として密接な関連があり、時に三部作として扱われる。が、上記のように成立年代からして話の順序とは一致せず、アイスキュロスが好んだとされる三部作形式とは異なるものである』。物語の『舞台は、盲目で年老いたオイディプスが娘であるアンティゴネーに手を引かれて登場するところから始まる。彼らは乞食をしながら放浪し、コロノスのエウメニデスの神域の近くまでたどり着いたのである。そこにやってきた男に尋ねると、そこが神域であるとわかり、自分はここを動かぬつもりであること、王に使いして欲しいことを告げる』。『そこにコロノスの老人たちに扮したコロスが登場、彼がオイディプスであることを告げられると、すぐに立ち去ることを要求する。これに彼が反論していると、そこに彼のもう一人の娘、イスメネーが現れる。故郷に残った彼女は、彼の息子たちが仲違いし、兄ポリュネイケスが追い出され、国外で味方を得たことを伝え、同時にオイディプスに関する神託が出たことを告げる。それによると、彼が死んだとき、その土地の守護神となるという。そのためオイディプスを追い出した王であるクレオーンは彼を連れ戻し、国の片隅に留め置くことを考えているという。オイディプスは彼を追い出した町、そして彼が追い出されるのを止めなかった息子たちへの怒りを口にする。コロスは王がくるまでとりあえず彼を受け入れる旨を述べる』。『そこへ王テセウスがやってくる。彼はオイディプスの求めるものを問い、それに対してオイディプスは、自分の死後、ここに葬って欲しいこと、それによってこの地を守護することが出来ること、しかしクレオーンと息子たちが自分を求めていることを述べる。王は彼を受け入れることを告げる』。『そこにクレオーンが出現。丁寧な言葉でオイディプスに帰国を促す。しかしオイディプスはこれに反論、両者は次第に激高し、ついにクレオーンは娘を奪ってゆく、すでに一人は捕らえ、次はこの娘だ、とアンティゴネーを引き立てる。オイディプスはコロスに助けを求め、コロスはクレオーンを非難する。そこへテセウスが現れ、クレオーンを非難し、娘たちを取り戻すことを宣言する。クレオーンは捨てぜりふを残して退散、娘たちは取り戻される』。『すると今度は社によそ者が来ているとの通報、オイディプスに会いたがっているという。オイディプスはそれが自分の息子であると判断して、会うのを拒否するが、周囲の説得で会う。するとそれはやはりポリュネイケスであった。彼は自分が祖国を追い出されたこと、ドリスのアルゴスが味方してくれ、祖国に戦を仕掛けること、そのためにオイディプスに自分についてもらい、守護者となって欲しいことを述べる。彼はこれを全く聞き入れず、おまえは兄弟の手にかかって死ぬであろうとの呪いの言葉を述べる。アンティゴネーもポリュネイケスに説いて祖国を攻撃しないように言うが聞き入れず、彼も立ち去る』。『このとき、天は急に荒れ、雹が降り、雷が鳴り響く。オイディプスは自分の終わりが近いことに気がつき、テセウスを呼びにやる。テセウスがくると彼は娘たちの先に立って神域に入る。これに付き従ってテセウスと従者も姿を消す』。『その後、使者が現れ、オイディプスの最後の一部始終を語り、彼が死んだことを告げる。その後は二人の娘による嘆きで劇は終わる』。『この劇の一つの要点は「神との和解」である。オイディプスの伝説では、最初に示された神託がそもそも彼らの悲惨な運命を示すものであった。登場人物たちはそれぞれにそれを避けようと努力したにもかかわらず、すべてが実現してしまった。中でももっとも悲惨な運命を担ったのがオイディプスである』。『ソフォクレスは神の道が人間ではどうにもならぬものであり、また神の采配は時に恐ろしく非情であることを書いてきた。しかし、この劇では神の側からオイディプスに対して和解が示されている。また、「オイディプス王」では自分の悲惨な運命を嘆くばかりであった主人公は、この劇では一貫して自己の正当性を主張する。父親を殺したのも正当防衛であったし、他の場合でもその時その時は最善の選択をした結果であり、そこに恥じるところはないと言い切っている。一般的な伝説ではオイディプスの死にこのような話はないようで、それだけに詩人の思い入れが強く働いているとも考えられる』とある。

「飛鳥佛」奈良国立博物館公式サイトの「収蔵データベース」で二体の飛鳥仏、観音菩薩立像(飛鳥時代(白鳳期)七世紀作)と同時期の観音菩薩立像が見られる。

「阿修羅王」これは当時、奈良国立博物館に寄託・展示されていた知られた興福寺蔵の国宝阿修羅像である。グーグル画像検索「興福寺阿修羅像をリンクしておく。そこで、各人の琴線に触れる視線をお探しになられたい。

「虛空藏菩薩」奈良国立博物館公式サイトの「収蔵データベース」の虚空蔵菩薩像をリンクしておく。この虚空蔵菩薩像は、仏力によって超絶した記憶力を祈念する求聞持法(ぐもんじほう)を表象する夢幻的なイメージを感じさせる図像であるが、それを思うと私は、このシーンは、阿修羅像の切実な感懐に打たれ、この虚空蔵菩薩像の示す無限の功徳をシンボルするその眼差しに違和感を覚えて避けたというのではなくして、まさに阿修羅の視線によって喚起された、「何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ鄕愁のやうなものが生れてくる、――何かさういつたノスタルヂックなもの」を「身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした」堀が、こ「の虛空藏菩薩を遠くから見上げ」た瞬間――我々にとっての記憶、思い出――とは、如何なるものかということに思い至って、切なさがに感極まり、「何かこらえへるように、默つてその前を素通り」せざるおえなくなったのではなかったか? と、秘かに感じているのである。……] 

 

夜、寢床の上で  

 とうとう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]一日中、薄曇つてゐた。午後もまたホテルに閉ぢこもり、仕事にもまだ手のつかないまま、結局、ソフォクレェスの悲劇を再びとり上げて、ずつと讀んでしまつた。

 この悲劇の主人公たちはその最後の日まで何んといふ苦患に充ちた一生を送らなければならないのだらう。しかも、さういふ人間の苦患の上には、なんの變ることもなく、ギリシアの空はほがらかに擴がつてゐる。その神さびた森はすべてのものを吸ひ込んでしまふやうな底知れぬ靜かさだ。あたかもそれが人間の悲痛な呼びかけに對する神々の答へででもあるかのやうに。――

 薄曇つたまま日が暮れる。夜も、食事をすますと、すぐ部屋にひきこもつて、机に向ふ。が、これから自分の小說を考へようとすると、果して午後讀んだ希臘悲劇が邪魔をする。あらゆる艱苦を冒して、不幸な老父を最後まで救はうとする若い娘のりりしい姿が、なんとしても、僕の心に乘つてきてしまふ。自分も古代の物語を描かうといふなら、さういふ氣高い心をもつた娘のすがたをこそ捉まへようと努力しなくては。……

 でも、さういふもの、さういつた悲劇的なものは、こんどの仕事がすんでからのことだ、こんど、こちらに滯在中に、古い寺や佛像などを、勉强かたがた、僕が心愉しく書かうといふのには、やはり「小さき繪」位がいい。

 まあ、最初のプランどほり、その位のものを心がけることにして、僕は萬葉集をひらいたり埴輪の寫眞を竝べたりしながら、十二時近くまで起きてゐて、五つか六つぐらゐ物語の筋を熱心に立ててみたが、どれもこれも、いざ手にとつて仔細に見てゐると、大へんな難物のやうに思へてくるばかりなので、とうとう觀念して、寢床にはいつた。 

 

[やぶちゃん注:「ソフォクレェスの悲劇」前条の私の「そのなかの一つの場面」のソポクレス作「コロノスのオイディプス」についての注を参照されたい。

「小さき繪」先行する十月十二日、朝の食堂で及び、そこの私の「Idyll」(イディル)の注を参照のこと。]

石膏となる少女の夢

今朝方、こんな夢を見た……



僕はパソコンに向って、芥川龍之介の「澄江堂遺珠」の原資料を懸命に打っている。

しかしそれは芥川龍之介の詩篇という意識ではなく、僕自身の詩篇ででもあるかのように、私は私の意志によってそれらの詩篇に何度も手を加えては、消去し、また、打ち直しているのである。

ふと――僕のすぐ脇を見ると、そこには毛布に包まった一人の娘が寝息を立てているのである。

それを見ると、何か僕も無性に眠気を覚えだして、その傍らにやはり横になった。

横になったなり、毛布越しにその娘の顔を覗き見てみると、それは三十三年も昔、僕が初めて担任となった時の、懐かしい生徒の一人――その時の姿形のまま――なのであった。

僕はそっと手を伸ばすと、その眠っている娘の頬に指先を触れた――

すると――

その少女は一瞬にして石膏の生き人形に変貌してしまったのであった……

2015/01/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 島原にて

M589

図―589

 

 高橋から島原湾を越して西方には、温泉岳と呼ばれる秀麗な山塊が見える。これ等の火山の頂上は、たいてい雲にかくれているが、時時姿を見せる。図589に示した輪郭図は、割合に正確である。我々を長崎へはこぶ汽船は、島原の島と町とへ一寸寄った。そこへ着いたのは午後五時であったが、日本に於る最も絵画的な場所の一つである。小さな、ゴツゴツした島嶼の間をぬけて航行すると、やがて水際にある町へ着くのである。町のすぐ後に、温泉岳の岩の多い斜面が聳え立っている。我々は、一マイルを人力車で走って、一軒の有名な旅館へ行き、そこで美事な食事を命じた。それは美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)、煮た烏賊、あげた鰻、御飯という献立で、どれも美味であった。たった二時間しか碇泊しない船へ帰る途中、我々は貝をさがし求めたが、土地の人々は我々を、いやそうな、非友誼的な目つきで凝視するのであった。この地こそ外国人の上陸に最後まで反対した場所なので、人々の目つき、動作、すべて外夷に対する反感を露出していた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の推定日程に従うならば、これは明治一二(一八七九)年五月二十九日の夕刻の景である。

「温泉岳」原文“Onsendake”。長崎県の島原半島中央部にある雲仙岳のことである。広義には普賢岳・国見岳・妙見岳の三峰、野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山の五岳からなる山体の総称で、「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。主峰は普賢岳(標高一三五九メートル)であるが、現在では平成二(一九九〇)年から平成七(一九九五)年にかけての火山活動によって形成された溶岩ドームである平成新山の方が高い(標高一九九六メートル・長崎県最高峰)。但し、実は元の漢字表記は「雲仙」ではなく、「温泉」と表記して「うんぜん」と読んでいた。現在の「雲仙岳」の表記は実はかなり新しく、昭和九(一九三四)年に日本で最初の国立公園に指定された際、「雲仙国立公園」(現在は「雲仙天草国立公園」)として改められており、しかも後の戦後の昭和二七(一九五二)年に、国の特別名勝文化財に指定された際にも「温泉岳」で登録されているから、この「温泉岳」の呼称は我々が思っているよりもずっと長生きなのである。なお、主に参照したウィキの「雲仙岳」によれば、「肥前国風土記」で『「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述が』既にあるとあり、また、雲仙市小浜町雲仙にある大乗院満明寺は行基が大宝元(七〇一)年に開いたと伝えられているが、『この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた』ともある。一九九一年六月三日十六時八分に発生した大火砕流によって報道・消防関係者を中心に死者四十三名という大惨事となったのは記憶に新しい。それでもモースの山体のスケッチは現在の山並みと比して平成新山のドーム形成以外には大きな変化はないように見受けられる。

   *

「我々は、一マイルを人力車で走って、一軒の有名な旅館へ行き、そこで美事な食事を命じた。それは美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)、煮た烏賊、あげた鰻、御飯という献立で、どれも美味であった。」原文は以下の通り。

 

We rode through the town a mile and a half to a famous inn and ordered a fine dinner consisting of a large gasteropod, Rapana bezoar, served in its beautiful shell, boiled cuttlefish, fried eel, and rice, — all delicious.

 

 以下、ここに関しては詳細に注を試みる。

・「一マイル」とあるが、原文は「一マイル半」(二・四キロメートル)である。

・「有名な旅館」寄港地が現在の島原港として、そこから上記の距離だと、明らかに島原の島原城周辺と考えてよいのだが、明治十二年に存在した老舗旅館に行き当ることが出来なかった。最早、現存しないのか? 識者の御教授を乞うものである。

・「美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)」“gasteropod”は腹足類(綱は“Gastropoda”)で所謂、巻貝の類を指す。“Rapana bezoar”はそれを更に説明している学名で原文には訳のような「?」はないから、この「?」は訳者石川氏の疑問と思われる。腹足綱新生腹足上目高腹足(吸腔)目タマキビ下目アクキガイ科 Rapana 属のチリメンボラ Rapana bezoar であるが、私はモースがここで「美しい貝殻」と述べていることから、高い確率で石川氏がやや自身無げに「?」を附してしまった同じ Rapana 属で本邦では食用貝として知られたアカニシ Rapana venosa としてよいのではないかと考えている。チリメンボラ Rapana bezoar はアカニシ Rapana venosa と並んで Rapana 属を代表種であり、形状から同種かその変異種と当時のモースが思ったとしてもおかしくないからである。但し、アカニシはチリメンボラよりも遙かに大きくなり、さらにアカニシ(赤螺)という名の通り、殻口内が肉のように見える独特の赤い色に染まっている。殻の大きさ・色・羅塔のすっきりとした形状(殻の結節や色彩には個体変異が著しく、一見、同種とは思えぬ様態を示す個体もある)等々は、凡そチリメンボラとは比べものにならぬほど「美しい」のである。チリメンボラは殻口縁は白色であり、殻表面は螺状脈に多くの縦脈が鰭のように交叉して立ち上がり、縮緬様の皺だらけの形状を示す。個人的に、この二つの貝殻に、料理(ここでモースが食べたのは恐らくは肉を細かく切って煮たもの、所謂、壺焼き状にしたものと私は推測する。アカニシは刺身も美味いが、壺焼きもなかなか美味しい)を盛られて出されたら、どっちの貝殻を「美しい」と表現するか――これはもう絶対にアカニシ――なのである。

・「あげた鰻」“fried eel”。これは高い確率でアナゴの天ぷらの誤認である。島原のお正月の具雑煮(ぐぞうに)には焼きアナゴが欠かせない具なのである。島原温泉観光協会公式サイトの島原の郷土料理を参照されたい。

   *

「この地こそ外国人の上陸に最後まで反対した場所」近世史に疎い私であるが、ウィキの「松平忠和」で、肥前島原藩最後の第八代藩主であった松平忠和(嘉永四(一八五一)年~大正六(一九一七)年 江戸幕府最後の第十五代将軍徳川慶喜の実弟)の事蹟を見ると、文久三(一八六三)年には『海防強化の必要性から軍制改革を行なうが、佐賀藩や薩摩藩のような洋式軍制ではなく、時代遅れの軍制であった。忠和は慶喜の弟だったことから』、元治元(一八六四)年の『第一次長州征討に幕府方として参加』、慶応二(一八六六)年の第二次長州征伐にも参加している。『ところが、忠和の佐幕的な行動は尊王攘夷派である下級武士の不満を招き、一部の過激な尊攘派藩士が脱藩して天誅組の変』(文久三(一八六三)年八月十七日に吉村寅太郎を始めとする尊皇攘夷派浪士の「天誅組」と名乗った一団が公卿中山忠光を主将として大和国で決起、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件)』や、『天狗党の乱』()に参加したりし、遂には慶応元(一八六五)年八月十三日のこと、『伊東虎之助らの過激派が藩の中老・松坂正綱の私邸を襲って松坂を殺し、「激烈組」という尊王攘夷運動を起こすほどの内紛が起こって島原藩は混乱したが、あまりに過熱化した行動は周囲の支持を得られなくなり、やがて沈静化した』とあり、この最後の辺りのことをどこかで耳にしたモースが、ここでかく言ったのであろうか。それ以外にこうした事実があるようであれば、是非、御教授願いたい(なお、松平忠和は後に、東照宮宮司となり、宮内省にも勤めたとある)。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 信濃の旅(Ⅲ)

  信濃落合

 

雪解犀川(さいかは)千曲(ちくま)の静にたぎち入る

 

[やぶちゃん注:「信濃落合」長野駅の東南五・二キロメートルの千曲川に犀川が合流する地点に架けられた落合橋附近の嘱目吟。底本年譜に昭和三一(一九五六)年五月の条に、『二十日、長野県「七曜」俳句大会に誓子と出席。開会までの数時間、長野市の山崎矢寸居に案内され、落合橋の、犀川(男流)と千曲川(女流)の合流地点に行く。犀川の渦巻く雪解け水が、静かな千曲川に流れ入っている』とある。「男流」「女流」は「おながれ」「めながれ」と読むか? こういう呼称は初めて聴いた。ネット上でも検索にかからない。識者の御教授を乞うものである。因みに、『山崎矢寸居』とあるが、これは小諸の青燕俳句会刊に「山崎矢寸尾句集」があるから、俳人山崎矢寸尾の誤植かと思われる。因みに、ここを頂点として西に延びる三角状の平坦地こそが、かの武田信玄と上杉政虎(謙信)が激しく激突した、川中島の戦いの舞台であった。

「たぎち」「浪(たぎ)つ」「激つ」などと漢字表記する。万葉以来の古語で(上代は「たきつ」とも)、水が激しく湧き流れる、湧き上がる、逆巻くの意。後に転じて、心が激しく動く、揺さぶられるの意ともなった。多佳子は後者の意味も含ませていると私は読む。この十一句の連作はそう読んでこそ、深い味わいがあるのである。しかもそれはこの当時、多佳子の心臓発作が続いていたであろう(同年年譜の最後には、『十一月、心臓発作つづく』とある)なんどということとは、無論、違った意味で、である。]

 

よろこびに合へり雪解の犀千曲

 

雪解犀川砂洲を見せては瀬を頒つ

 

こゑ出さばたちまち寂し雪解砂洲

 

假橋にて雪解水嵩に直(ぢ)かに触れ

 

[やぶちゃん注:「假橋」(「假」は底本の用字である)以下の句群の句柄からは間違いなく落合橋としか思われないのであるが、Zenmai 氏のサイト信濃風・信濃の信濃路の橋のデータを見る限りでは、当時、落合橋は仮橋ではない。しかし、他の橋のデータを見ても昭和三一(一九五六)年当時に仮橋であったものも見出せない。識者の御教授を乞うものである。]

 

假橋にて雪解犀川鳴りとほす

 

ひざついて雪解千曲をひきよせる

 

雪解落合ふ嬉々たり波鬱たる波

 

犀・千曲雪解を合はす底ひまで

 

[やぶちゃん注:「底ひ」古語。現代仮名遣「そこい」。「涯底」などとも書く。物事の至り極まるところ。果て。極み。「退(そ)き方(へ)」(遠く離れた場所・最果て)や「退(そ)く方(へ)」と同語源かとされる。]

 

眼の前の雪解の千曲かちわたらず

 

雪代の光れば天に日ありけり

 

[やぶちゃん注:「雪代」「ゆきしろ」で、雪解け水。ゆきしろみず。「代」は「形代」などと同じく、代わりとなる代用の「代」で、雪の溶けて変じたものの謂いであろう。春の季語。]

 

  木曽溪

 

紫雲英打つ木曽の青天細き下

 

[やぶちゃん注:「木曽溪」は一般的な呼称ではない。木曽川上流の流域を意味する木曽谷のことかと思われる。ウィキ木曽によれば概ね、『長野県木曽郡の全域(上松町、木曽町、南木曽町、王滝村、大桑村、木祖村)、岐阜県中津川市の一部(神坂、馬籠、山口地区)に該当』し、『木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形が』延長約六十キロメートルに亙って続き、その主線は概ね『北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には木曽山脈(中央アルプス)が、西北方面には御嶽山系がある。現在の長野県南西部が主な地域である。地形的には鳥居峠以南の木曽川上流の流域をさすが、歴史的には木曽路をさすことがある』とある。以下、中仙道(中央本線或いは国道十九号)を名古屋に下った際の嘱目吟である。

「紫雲英打つ」「れんげうつ」或いは「げんげうつ」(多佳子がどっちで読んだかは確証がない)。これはマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ Astragalus sinicus を緑肥(りょくひ/「草肥(くさごえ)」ともいう)とする作業を指す。昔は、八~九月頃、稲刈り前の水田の水を抜いてレンゲの種を蒔いておき、翌年の田植えの前にこのレンゲ畑を耕して、レンゲをそのまま鋤き込んで田の肥料とした。]

 

青木曽川堰きて一つ気にまた放つ

 

五月空真白くのぞき木曽の駒嶽(こま)

 

[やぶちゃん注:「木曽の駒嶽」木曽駒ヶ岳。長野県上松町・木曽町・宮田村の境界に聳える木曽山脈(中央アルプス)の最高峰で、標高二千九百五十六メートル。しばしば木曽駒(きそこま)と略称もされる。]

 

雪嶺の赤恵那として夕日中

 

[やぶちゃん注:「赤恵那」恵那山。長野県阿智村と岐阜県中津川市に跨る、木曽山脈最南端の山。標高二千百九十一メートル。「赤富士」同様に夕陽に照らされたその美観を実際に「赤恵那」と呼称する。]

耳嚢 巻之九 淸品の酢作りやうの事

 淸品の酢作りやうの事

 

 世に萬年酢とて、陶に作る事あり。夫(それ)に付(つき)一法あると人の語りぬ。酒壹升〔或は五合〕酢壹升〔或は五合〕に入(いれ)、夏の日向(ひなた)へ出し置(おく)事一日、其後土藏の内へ入置(いれおく)事三十四五日程、しかうして用之(これをもちふれ)ば、酢の淸漿(せいしやう)なるもの也と、云々。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。とど氏の個人サイト「からしら萬朝報」内にある「酢の美味爽風」の酢の基礎的醸造学に、『ことに近年は、伝統的な醸造法による米酢を中心とした醸造酢に人気が高いが、伝統的な酢の造り方の中で江戸時代に知られた面白い酢の造り方があるのでそれを紹介しておこう。「万年酢」という』。『江戸時代の書物によればそれは以下のように造られる。質のよい酒1升、質のよい酢1升、清水1升を混ぜ、甕(かめ)に入れて蓋をし、温かいところに置くと30から40日後に酢として成熟する。使用にあたって甕から1匙(さじ)の酢を取り出した際、甕に1匙の質のよい酒を入れる。常時こうすることによっていくら酢を取り出しても元の酢はなくならない。そこで万年酢と名づけられた』とある。この記載は、各種の辞書の「万年酢」の記載とも一致する。根岸に少し文句を言いたいのであるが、そもそもがこの「萬年酢」の「萬年」は、かく注ぎ足しをするから、全く減らぬことを以っての命名としか思われず、とすればこの本文記載はその注ぎ足しを述べていない点で致命的欠陥があると言わざるを得ないのである。さればこそ、「萬年酢」の名にし負う部分を以下の現代語訳で俄然補填せずんばならずと思うたものとお考え戴きたいのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 澄んだ上質の酢を醸造する法の事

 

 世に「萬年酢」と称し、陶の甕を以って酢を造ることがある。

 それについて、簡便容易にして絶妙の佳品を醸(かも)し、且つ、それが何時まで経っても減らぬという奇々妙々の一法がある、とさる御仁の語って御座った。

 その法とは――

 

○陶器の甕を一つ、用意する。

○そこに、酒一升〔或いは五合〕を入れる。

○次いで、そこに酢一升〔或いは五合〕を入れる。

○そのまま、その甕を夏の青天の日の、暑い日向(ひなた)へと出だいておくこと、一日。

○その後(のち)、土蔵の内へとひき入れおくこと、三十四、五日ほど。

 

 このようにして出来た酢は用いてみれば、まことに、酢の澄み切ったる上質の、また馥郁たる香気を持った佳品となる。

 なお、この酢、その使用に当たっては、

 

○甕より一匙(ひとさじ)の酢を取り出だいたならば、その甕には必ず一匙の清酒を新たに注ぎ入れることを定(じょう)とする。而してかくせば、いくら酢を取り出だいても、甕の中の酢は、これ、尽くること、これ、御座ない。

 

 さればこそ、この酢を「萬年酢」と名づくるので御座る、と……。

2015/01/25

耳囊 卷之九 市谷宗泰院寺内奇說の事 / 執着にて惡名を得し事 (二話)

同一の事件を流言飛語版と真相版で書き分けたもので、「耳嚢」では珍しいものである。実際には真相版の方は十話も後に配されてあるが、本ブログ版では敢えて併置して示した。




 市谷宗泰院寺内奇說の事
 

 

 市谷大日坂上(いちがやだいにちざかうへ)に宗泰院(そうたいゐん)といへる寺あり。右の旦方(だんがた)町人に娘ありて容色もありしが、文化六年の夏、風のこゝちにて身まかりぬ。則(すなはち)宗泰院へ送り、町家なれば地内の湯灌場(ゆくわんば)にて湯くわんをなしけるを、其邊の武家の家來なるや、與風(ふと)覗見(のぞきみ)て、兼て右娘に執心もありしや、夜に入(いり)、墓を掘返(ほりかへ)し彼(かの)死人を取出(とりいだ)し、いか成(なる)心なるや、夜の明(あけ)んとするゆゑ、寺の椽下(えんのした)へ投入(なげい)れ置(おき)しを、住僧墓廽りに見付(みつけ)、大きに驚き、施主へ聞えてはやすからじと、猶(なほ)下男抔に申付(まうしつけ)、葬りし。此頃專ら噺し合(あひ)ける。一說には、施主とやら住持とやら、彼是(かれこれ)六ケ敷(むつかしく)、本寺奉行所へも申立(まうしてつ)るとて、金五拾兩にて取扱(とりあつかひ)、事濟(すみ)しとも評判なしける。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。屍姦譚で、根岸はこの十章後に、このおぞましい流言飛語の真相を意識的に改めて記して猟奇性を否定している。個人的には「耳囊」の中ではこの流言飛語の本話の方は、珍しく私自身が頗る生理的不快感を持つ話である。是非、真相版を合わせて読んで戴きたい話柄ではある。

・「市谷大日坂上に宗泰院」底本鈴木氏注に、『市谷佐内坂町、曹洞宗宗泰院。(三村翁)左内坂町は後に新宿区市ヶ谷佐内町』とある。「大日坂」は文京区小日向にある坂で、ここは市谷とは距離が離れているから、佐内坂(以下を参照)の誤りと考えられる。この寺は現存するが、当地には存在せず、現在は杉並区高円寺南にある。しばしばお世話になっている松長哲聖氏の個人サイト「猫のあしあと」の「宗泰院|杉並区高円寺南にある曹洞宗寺院」によれば、永昌山宗泰院で本尊は釈迦牟尼仏。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正一二(一五八四)年に麹町表四番町(現在の千代田区四番町)に草庵を結んだのが始まりとされ、開山は小田原万松院の格峰泰逸とする。文禄二(一五九三)年に幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整備、その後、元和二(一六一六)年に寺地が旗本の屋敷地と定められたために、『市ヶ谷左内坂に境内地を拝領して移転、寺院の取締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられ』たとある。『当寺の檀家は旗本・御家人・尾張藩士などの武家』三百五十家及びその出入商人などで、『本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれ』るとある、かなり格式の高い寺である。その後、『明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰え』たが、明治二十年代に復興、明治四二(一九〇九)年に『陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転し』たとある。宝暦七(一七五七)年建立の本堂、寛延三(一七五〇)年建造の開山堂は、『そのまま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物で』あるとあり、また、『なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士すずきは無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあ』るとある(以上の記載は杉並区教育委員会掲示に拠ると注記有り)。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏(これはまさに「文化六年の夏」とあるから、超新鮮なホットな噂ということになる)であるから、遺体が投げ捨てられたであろう本堂或いは開山堂が今も見られるということである。事件の猟奇性もさることながら、格式高い寺院であったが故に、表沙汰にされて妙な風聞の立つことをも恐れたという感じがしてくる。

・「町家なれば地内の湯灌場にて湯くわんをなしける」底本鈴木氏注に、『三村翁「昔しは地借では、自分の家で湯灌はつかへなかりし也、されば、葬送に、湯濯盥を持行くことは、居付地主といへる標識なりしなり。此一齣、蠹損あり、心してよみ給ふべし。」』とある。短いが、非常に分かりにくい注である。以下、「●」でこれらの語注を示す。

   *

●まず、本文の「湯灌場」は寺の一画に設けられた湯灌をするための場所をいう。当時地主や居住家屋が自分のものでなかった者は自宅で湯灌をすることが許されなかった。

 注の中の「地借」は「じがり」と読み、賃借した土地を指す。要するに、地面は自分の土地でないということである。

●注の「湯濯盥」は「ゆかんだらい」で、外で湯を沸かしておき、それを井戸の水を汲んでおいた盥に入れ、それを以って湯灌の湯とした。

●同じく注の「居付地主」とは、町内の自分の所有地に住居を構えた町人をいう。居付き家持ちとも称した。江戸の場合、地主が屋敷地内に住むことは少なく、多くは家守(やもり:大家。家主。)が屋敷地内に住居を構えて地代・店賃徴収を代行し、事実上、裏店(うらだな)の住人らを管理支配していた。ここはこうした者が湯灌盥を住人の葬儀に際し、持ち歩くことを、その権利或いは義務としていたことを指す謂いらしい。

●「一齣」は「いっく」で「部分」の意。

●「此一齣、蠹損あり、心してよみ給ふべし」「蠹損」は「トソン」と読み、虫食いのこと。実は岩波版のこの屍姦相当の箇所には長谷川氏が注して、『以下三村翻刻の芸林叢書本には屍姦を思わす語句を削る』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここは(恣意的に正字化し、読みを歴史的仮名遣に直した)、

與風(ふと)覗見(のぞき)みて、兼(かね)て右娘に心も有りしや、與風淫心を生じて、夜に入(いり)墓を掘返し彼(かの)死人を取出し、如何なる心なるや添臥(そひぶし)なして、夜の明(あけ)んとする故寺の椽下(えんのした)へ投入置(なげいおき)しを、

とある。長谷川氏の謂い方からは、これは虫食いではなく、芸林叢書本の書写或いは校訂者である三村竹清氏による意識的削除が行われたことを暗に意味しておられるように思われる。現代語訳ではこの箇所に限って、カリフォルニア大学バークレー校版を採って補った。

   *

・「旦方」旦那。檀家のこと。

・「一說には、施主とやら住持とやら、彼是六ケ敷、本寺奉行所へも申立るとて、金五拾兩にて取扱、事濟し」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが、

一說には、施主とやら住持とやら、其死骸を犯せし人も知れて彼是(かれこれ)六ケ敷(むつかしく)、本寺奉行所へも申立るとて、金五拾兩にて取扱(とりあつかひ)、事濟(すみ)し

となっている。現代語訳はここもバークレー校版を採ったが、この奉行所とか示談とかというのは、当時のシステムでは如何にも怪しげである。寺の境内で発生した事件である以上、これは町奉行の管轄ではなく、寺社奉行の担当事件となろうし、墓暴きは立派な犯罪であり、屍姦は宗教的に看過出来ない大罪として認識されていたと思われ、これだけの格式もあり、禅宗の住持が必死に揉み消しに加担するというのも、私は考え難いと思う。ちょっと考えても、この流言飛語自体、また、それが瞬く間に広まった(記載時と共時的)ということ自体が、それがまさに、おぞましい猟奇的好事家によって捏造されたものだという感じが強くするのである(実際、まさにそうであったということが、後の話で明らかにされるのである)。

・「取扱」中世以降、民事・刑事を問わず、騒擾や事件の仲介人のことを言った(単に「扱(あつかい)とも)。ここはそうした仲介者による、今で言うところの示談を指す。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 市谷宗泰院寺境内にて起ったという猟奇的な一件についての事

 

 市ヶ谷大日坂上(いちがやだいにちざかうえ)に宗泰院(そうたいいん)という寺がある。

 ここの檀家のある町人に娘がおり、なかなかの美人の評判であったが、この文化六年の夏、風邪をこじらせて身罷った。

 その日のうちに宗泰院へと遺骸を送り、町家のことなれば、その境内に設えられてあった湯灌場(ゆかんば)に於いて、湯灌の儀を滞りなくなして、葬った。

 ところがその辺りの武家の家来でもあったか、その葬儀の一部始終――分けても湯灌の折りの処女の抜けるような美しき白き肌の骸(むくろ)――をふと覗き見、兼ねてより、生前のこの娘子に執心などもあったものか――おぞましくも、死せるその娘に対する淫猥の気の昂ぶって――その夜になって――その墓を掘り返して暴くと――かの死人(しびと)を取り出だいて――何ともその心境――これ――理解に苦しむところであるが――添い臥しなど致いておったという――されど、夜(よ)の明けんと致いたによって――同寺の本堂とか開山堂とか申す――その縁の下の辺りへ、この遺骸を投げ入れ、捨ておいたというのである。

 それを、住僧が朝方の墓の見廻りの際に見出し、これ、大きに驚き、

「……娘の施主なんどへ……かくなるおぞましき変事の知られては……これ……当院の沽券に係わる!……」

と、即刻、下男などに申しつけて、元の墓へ葬ったという。

 しかし、この頃、どこから漏れたものか、専ら、その屍姦のあって云々……と申す風聞の、これ、江戸市中に広がっておる由。

 一説によれば、施主であったか、その住持であったか、が――実はそのおぞましき屍姦をなしたる武士も明らかとなり、しかもそれがまた、まずいことに相応の格式の武家の家来であったがため――かれこれ話の縺れ絡んだによって――当寺から奉行所に対し、その微妙な取り計らい方につき、内々に申し立ての御座ったによって――その武家と寺より施主に対し――金五十両と事件詳細の緘黙の約定(やくじょう)が、これ秘密裏に交わされて、以って――事件はなかったもの――として処理された――なんどと、まことしやかに風評しておるという、これ、何とも尋常ならざる事態となっておるのである。……(続く)

 

 

 執着にて惡名を得し事 

 

 市谷邊、名も聞(きこえ)し去る御旗本の厄介の伯父なる男、一體おろかなる性質(たち)にて、長屋に住居(すまひ)、厄介になり居りしが、年も中年に過(すぎ)し由。右屋鋪(やしき)門前町に五六才の娘ありしが、いたつていたいけなる生れなりしを、彼(かの)厄介なる男甚だ寵愛して、我子同前にあわれみける故、町家の兩親も甚(はなはだ)心安くなし、娘も我(わが)宿より彼(かの)人の方而已(のみ)にて遊(あそび)しが、文化六年の夏、彼人も近在に所用ありて、日數五六日も過(すぎ)て立歸(たちかへ)りしに、彼小兒痘瘡にて、四五日煩ひて身まかりしを、彼男歸り聞(きき)て甚だ愁傷し、其慈愛やみがたきや、寺も隣家なりしを、密(ひそか)に墓所に至り、右なきがらを掘出(ほりいだ)し、あくまで歎きけるを、近邊にても其愚痴を笑ひしが、傳説して、此書七十二の所に記しける通り色々作説を附會なして、却(かへつ)て附會の方實事のやう口ずさみける。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。十前の条「市谷宗泰院寺内奇說の事」の真相実記である。この実際の主人公、悪意を以って見れば若干、ペドフィリア(小児性愛)的なニュアンスを感じさせないとは言えないが、しかし状況から見ると、決して異常者とは私には思えない。底本の鈴木氏の注ではこれを『同話異伝』とするが、そもそもが猟奇性満載ながら、奉行所まで出て来て示談落ちという前話は明らかな低次元の流言飛語であり、この話こそが真実であったのだと私は思いたい。屍姦事件は実際にはある。しかし、この事件、これと前話を二つ並べて虚心に読めば、自ずとその虚実は見えてくると私は思うのである。

・「七十二」現在の「耳囊」の各巻の話には遠し番号は附かないが、こうした叙述を見ると、原話にはこうした番号が附されてあったのではと考えられるようにも思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 執着のあまり悪名(あくみょう)を轟かすことになってしまったとんでもない事 

 

 市谷辺りに、名も知られた、さる御旗本に、居候して御座った、その当主の伯父とか申す男が御座った。この男、一体に、何とも愚鈍なる性質(たち)の者にて御座って、屋敷内(うち)の長屋に住まい、かなり永いこと、ここの主人に厄介になっておった者と申す。年の頃も、もう中年を過ぎた如何にもぱっとしない男で御座る由。

 さて、この御旗本の屋敷の門前町の町屋に、五、六才の娘が、これ、御座った。

 この娘子(むすめご)、至って可愛らしき生まれの子であったを、この居候の中年男、これまた、はなはだ寵愛致いて、我が子同前に慈しんで御座ったと申す。

 されば、町屋のこの娘の両親もまた、この男と、はなはだ心安くなし、この娘自身もまた、昼つ方は自分の家におるよりも、かの男の長屋へ入り浸っては遊んで御座ったと申す。

 ところが、この文化六年の夏、かの男、江戸郊外の少し離れたる田舎に所用のあって、日数(ひかず)五、六日ばかりも過ぎて、やっとたち帰って参ったところが、かの可愛がって御座った娘子、この男が留守にしたその日に、急に痘瘡を発し、四、五日も患った末、あっけのぅ、これ、身罷ってしもうておった。

 されば、かの男、帰り来たってそのことを聴くや、その愁嘆致すこと、尋常ではなかった。

 その慈愛の、これ、已みがたかったものか、娘を葬ったる寺もまた、当旗本屋敷のすぐ隣家で御座ったによって、その夜のこと、いたたまれずなった男は、こっそりその寺の墓所へと入り込み――かの娘に、これ今一度、遇いたき一念より――亡骸(なきがら)を掘り出だいては――そのまま――その骸(むくろ)を抱きしめて――夜が明くるのも忘れて、大声を挙げて、嘆き悲しんで御座ったと申す。

 近隣にても、その痴愚と言わんか、この甲斐性なき中年男の、あきれんばかりの娘への愛着を、これ、皆して、嘲笑(あざわろ)うって御座ったと申す。

 ところが、これが誤伝して、この「耳嚢」は本巻之九の七十二番目の話として記した通り――おぞましき猟奇の尾鰭を紙鳶(たこ)の如く――びらありびらびらと――あくまで猥雑に淫猥に附会なした――そうして――その、かえってその附会したる、口にするも忌まわしき話の方が、これ――実事であるかのように――人の口に上るようになってしまったのである。

 これこそが、あの語るに落ちた妖談の、これ、真相であったのである。

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅺ) 頁47~頁61 推定「第二號册子」 了

《頁47》

明るき雨のすぎ行けば

虹もまうへ まうへにかかれかし

 

[やぶちゃん注:ここに特に編者によって、『以上二行は前頁から連続している』という注が記されてある。そこでここも空行を設けずに連続させた。]

 

(夢むはとほき野のはてに

(穗麥刈り干す老ふたり

(明るき雨のすぎゆかば

(虹もまうへにかかれとそらじや

 われらにかかれと       かし

 

[やぶちゃん注:「虹もまうへに」に始まる行と最後の「われらにかかれと」の抹消との間に編者注があって、『以上四行、上方に印あり』とあるので、前例通り「(」を附した。抹消の「われらにかかれと」と「かし」の間の空白部分は何字分かは不詳。

 

(ひとり胡桃を剝き居れば

(雪は幽かにつもるなり

(ともに胡桃は剝かずとも

(ひとりいぬあるべき人ならば

 

[やぶちゃん注:ここには編者によって、いつものように『以上四行、上方に印あり』とあるのであるが、これは実は「澄江堂遺珠」の初版四十五頁のものであることが分かる。そこには佐藤春夫の注が附される。以下に引く。佐藤の注は詩より三字下げポイント落ちである。解説の改行は「澄江堂遺珠」のままである。なお、解説の行末が不揃いになっているのは原本では読点が半角で打たれているためである。

   *

 

 (ひとり胡桃を剝き居れば

 (雪は幽かにつもるなり

 (ともに胡桃を剝かずとも

 (ひとりあるべき人ならば

 

  とあり、この最後の意を言外にのこしたる

  一章には大なる弧線を上部に記して他と

  區別し、些か自ら許せるかの觀あり。かく

  て第二號册子の約三分の二はこれがため

  に空費されたり。徒らに空しき努力の跡

  を示せるに過ぎざるに似たるも、亦以て故

  人が創作上の態度とその生活的機微の一

  端とを併せ窺ふに足るものあるを思ひ敢て

  煩を厭はずここに抄錄する所以なり。

 

   *

 この解説の中に出る『第二號册子』というのは私は『第三號册子』の誤りではないかと考えている。もしかすると、現在の新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』に載る「ノート1」が実は佐藤の言う『第三號册子』、「ノート2」が『第二號册子』であった可能性もあるが、それはまた後の私の考証の課題として、ここでは今までの流れを覆さないようにかく注しておく(言っておくが、これは誤魔化しでは、ない。こうしておかないと、資料としてのこれらが錯雑してコントロール出来なくなってしまうからである。ここはどうか御寛恕願いたい)。

 「澄江堂遺珠」では佐藤が注するように、巨大なスラーのような一つの「(」(弧線)となっている。そうしてこの事実によって、この新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『上方に印あり』という『印』が恐らく総てこの巨大な「(」であると推定されるのである。]

 

《頁48》

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

明るき雨のすぎ行かば

         とぞ

虹もまうへにかかれ

         かし

 

何か寂しきはつ秋の

日かげうつろふ霧の中

ゆ立ちし鵲か

ふと思はるる人の

 

夢むは遠き野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

仄けき雨の過ぎ行かば

虹もまうへにかかるらむ

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老二人

雨も幽かにすぎ行かば

《頁49》

虹こそおぼろと虹やかかるらむ

 

[やぶちゃん注:ここに編者によって『この行は前頁から連続している』とあるので空行を設けずに繋げた。]

 

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

明るき雨すぐ

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

      雨はすぐるとも

われらが

われら老いなば

虹は幽

 

[やぶちゃん注:「雨はすぐるとも」の前の空白は七字分かどうかは不明。]

 

われらが末は野のはてに

穗麥刈干す老ふたり

 

虹は幽かにかかれかし

 

《頁50》

たとへばとほき野のはてに

穗麥刈り干すわれらなり

 

野もせに雨は

 

(われらはとほき今日も野のはてに

(穗麥刈り干するなる老ふたり

(           けれ

(雨は濡るるはすべなくも

(           もなし

(幽かにかかる虹もがな

 

[やぶちゃん注:前例に従い、編者注から「(」を頭に附した。]

 

穗麥刈り干すわれらなり

雨に濡るるはすべもなし

幽かにかかる虹もがな

 

《頁51》

わが戀こそはみちならね

 

雨はけむれる午さがり

實梅の落つる音きけば

ひとを忘れむすべをなみ

老を待たむと思ひしか

 

谷に沈める雲見れば

ひとを忘れむすべもなみ

老を待たむと思ひしが

 

ひとを忘れむすべもがな

ある日は 古き書のなか古き書のなか

匀も消ゆる白薔薇の

老を待たむと思ひしが

 

《頁52》

ひとを忘れむすべもがな

ある日は秋の山峽に

 

夫 scholary man

妻 model woman

敵 male

 

さあみんな支度をおし、お前は刀を持つてゐるかい

 

成程ね。お前のやうな人間が二十人もう十人もゐてくれると、宮中の廓淸が出來るのだが、

 

《頁53》

君 さやうでごさ 恐れ入ります

王 おれ おれの周圍にゐる人間一體宦官なぞと云ふやつは、みんなお前だな噓つきか泥坊ばかりだ

宦官 陛下

お前王 おやまだゐたのか

(宦官 いえ唯今參つたばかりでございます しかし決して噓つきなぞは申上げません

王(      ) た■ そり やいくらお前でもたまにさうか。そりや珍しい。

王 まあ聞けよ

は噓もつき倦るだらうさ

宮官 御言葉ではございますが、

王 兎に角お前の心がけは感心だ。

君 恐れ入ります。

王 しかし おれには難有迷惑だね。

 

[やぶちゃん注:抹消の「王 まあ聞けよ」の後に編者による『以上五行、上方に印あり』という注がある。一応、詩と同じ大きなスラー様のものと考えて、「(」を附した。但し、この『五行』とは底本(二段組)五行分ではなく、台詞の柱で五行分ととった。そうでないとおかしいからである。「噓」は総て底本の用字である。「(      )」は本文そのまま( )が本文サイズであって、そこに編者によって空白である旨の注がある。但し、空白字数は不詳である。

scholary man」は「scholarly man」の誤記か。これなら「学者気質(かたぎ)の男」となる。以下の戯曲断片と連関させるならば、儒者か道士といった感じか。

model woman」は模範的或いは貞節なその妻の意としかとれないのだが、しかし冒頭の台詞がこの人物の台詞とすると、如何にもおかしい。上手い訳が見当たらない。絵のモデルというわけでもなさそう。後の戯曲とは無関係な創作メモの可能性もある。

「廓淸」「くわくせい(かくせい)」と読む。粛清と同じ。これまでに溜まった悪いもの、乱れや不正な者を払い除いて浄化すること、或いはそう称しつつ、厳しく取り締まって反対勢力を駆逐或いは抹殺してしまうこと(因みに、現在では「郭清」とも表記して、癌を切除する際に転移の有無に関わらず、周辺リンパ節を総て切除することもこう言う。これは癌細胞がリンパ節に転移し易いことから、癌の根治・予防のため、普通に行われる術式の一つである)。]

 

《頁54》

忘れ

忘れはてなむすべもがな

ある日は

 

ゆうべとなれば

物の象は

 

物の象(かたち)はまぎれ

 

物の象はしづむのごと

老さりくれは

 

の小川も草花も

夕となれば煙るなり

われらが戀も

 

《頁55》

牧の小川も草花も

夕となれば煙るなり

わが悲しみも

老ひさりくれば消ゆるらむ

 

夕となれば家々も

畑なか路も煙るなり

わが身をせむる今は忘れぬおもかげも

老ひさりくれば消ゆるらむ

 

《頁56》

われらはけふ野べの穗麥刈り

雨に濡るるはすべ

雨に濡

 

夢むわれらはとほき野のはてに

穗麥刈るなる老ふたり

雨は

幽かにかかる虹もあり

 

われらは野べの穗麥刈り

雨に濡るるはすべもなし

穗麥の末に

幽かにかかる虹もがな

 

《頁57》

ゆうべとなれば草むらも

 

ゆうべとなれば

 

われらは野べの穗麥刈り

ひと村雨はすべもなし

鎌に

幽かにかかる虹もがな

 

ゆうべとなれば草むら海ばらも

蒼海原

今は忘れぬおもかげも

老さりくれば消ゆるらむ

濡れし袂と干す時は

 

《頁58》

ゆうべとなれば葱畑家々も

畠の葱も煙るな

 

夕となれば家々も

畑なか路も煙るなり

今は忘れぬ

老ひさり來れば消ゆるらむ

 

今は忘れぬひとの眼も

 

《頁59》

ゆうべとなれば波の穗も

船の帆綱も煙るなり

 

ゆうべとなれば波の穗も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老ひさりくれば消ゆるらむ

 

われらは野べの老ふたり穗麥刈り

一村雨はすべもなし

濡れし穗麥を刈るときは

幽か

 

《頁60》

ゆうべとなれば波の穗も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

何時か やがて 老いて何時かは夢にまがふらむ

 

老いなば夢にまがふらむ

ひとを殺せどなほ飽かぬ

妬み心も今ぞ知る

 

われらは野べの穗麥刈り

 

ひとを

 
 
[やぶちゃん注:ここに空白一頁あり、という編者注がある。]

《頁61》

Mr. G. Dauson

 

[やぶちゃん注:この以上の一行は横書である旨の注と、一行空け別立てで、ここに『カットあり』(描画図不詳)という注で、新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』は終わっている。「G. Dauson」不詳。]




以上を以って、現在、公的(アカデミック)に「澄江堂遺珠」の原資料と呼ばれているもの本カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』に於いて、総ての電子化を終了した。
 
これより未踏の――■5 現在知られる芥川龍之介の詩歌及び手帳並びに未定稿断片の内に於いて「澄江堂遺珠」との親和性が極めて強いと私が判断するもの――にとりかかる。――

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅹ) 頁42~頁46

《頁42》

ひとをころせどなほあかぬ

ねたみごころもいまぞ知る

 

いづことわかぬ靄の中

かそけき月によはよはと

 

啼きづる山羊の聲聞けば

はろけき人ぞ戀ひがてぬ

遠き人こそ忘られね

かそけき月によはよはと

山羊は啼き靄の

はろけき人をおもほへば

山羊の聲

 

(いづことわかぬ靄のなか

(かそけき月によはよはと

(啼きづる山羊の聲すなり

山羊さへ妻を戀ふやらむ

《頁43》

(わが人戀ふる霧のなか

 

[やぶちゃん注:ここには特に編者によって、『この行は前頁から連續しており、これら全五行の上方には印あり』と注されてある。例の大きなスラーのような丸括弧であろうか? 試みに「(」を附して、ここのみ、《頁43》の前に空行を設けなかった。]

 

ひとをころせどなほあかぬ

ねたみごころもいまぞしる

垣にからめる薔薇の實も

いくつむしりてすてにけむ

 

(垣にからめる薔薇の實も

(いくつむしりて捨てにけむ

(ひとを殺せどなほあかぬ

(ねたみ心になやみつつ に燃ゆる日 の燃ゆる日に堪ふる日は

 

[やぶちゃん注:ここにも編者によって『以上四行、上方に印あり』とあるので、試みに「(」を附した。]

 

夜毎にきみと眠るべき

男あらずばなぐさまむ

 

《頁44》

  雪

ひとり山路を越え行けば

雪はかす幽かにつもるなり

ともに山路は越えずとも

ひとり眠(いぬ)べききみ君ならば

 

[やぶちゃん注:「いぬ」は底本ではルビ。このルビは本冊子の中では特異点である。他には先行では《頁3》と《頁10》の「小翠花(シヤウスヰホア)」と後掲する《頁54》の「象(かたち)」にしか認められない。]

 

夜空

 

  劉 園

人なき院にただひとり

古りたる岩を見て立てば

花木犀は見えねども

冷たき香こそ身にはしめ

 

《頁45》

ひとり山路を越え行けば

ひとり川べを見てあれば

雪は幽かにつもるなり

ともに川べは

ひとり眠ぬべき君ならば

ひとり山路を越え行けば

月は幽かに照らすなり

ともに山路は越えずとも

ひとり眠ぬべき君ならば

 

ひとり

雪は幽かにつもるなり

ともに

ひとり眠ぬべき君ならば

 

《頁46》

雨にぬれたる草紅葉

佗しき野路をわが行けば

かた 片山かげにただふたり

住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

 

[やぶちゃん注:「片山」の文字が出現するのには正直、私は激しく驚いている。しかも直前の《頁44》《頁45》の詩篇には「越ゆ」が合計五回出現している。周知の通り、龍之介は片山廣子のことを「越し人(びと)」と呼んでいた。私の電子テクスト「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」及び芥川龍之介「越びと 旋頭歌二十五首」などを是非、参照されたい。]
 

 

 

われら老いなばともどもに

穗黄なる穗麥を刈り干さむ

われら老いなばともどももろともに

穗麥もさわに刈り干さむ

 

われら老いなばともどもに

夢むは

穗麥刈り干す老ふたり

 

夢むは

穗麥刈り干す老ふたり

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅸ) 頁39~頁41

《頁39》

畫舫はゆるる水明り

はるけき人をおもほへば

わがかかぶれるヘルメツト

白きばかりぞうつつなる

 

幽に雪のつ

かに雪のつもる夜は

ひとりいねよと祈りけり

 

疑ひぶかきさがなれば

疑ふものは數おほし

薔薇に刺ある蛇に舌

女ゆゑなる涙さへ

 

幽かに雪のつもる夜は

ひとり葉卷をくはへつつ

幽かに君も小夜床に

[やぶちゃん注:この頁も自筆原稿が「澄江堂遺珠」の表紙見返し(左頁)で視認出来る。そこでは、

 

   畫舫はゆるる水明り

   はるけき人をおもほへば

   わがかかぶれるヘルメツト

   白きばかりぞうつつなる

 

   幽に雪のつ■■

   幽かに雪のつもる夜は

   ひとりいねよと祈りけり

 

   疑ひぶかきさがなれば

   疑ふものは數おほし

   薔薇に刺ある蛇に舌

   女ゆゑなる涙さへ

   幽かに雪のつもる夜は

   ひとり葉卷をくはへつつ

   幽かに君も小夜床に

 
 
 《頁39》には
私の判読不能箇所は存在しないことになっている。]

 

《頁40》

古き都に來て見れば

 

昔めきたる瀟湘の

夜雨

昔めきたる竹むらに

雨はしぶける夕まぐれ

 

夕さびしき大比叡は

比叡もいつしか影たてぬ

雪のゆうべとなりにけり

 

 

《頁41》

上野の圖書館に幽靈が出るのは、毎夜一時と二時との間である。この間は何處の部屋も、悉電燈が消されてゐる。が、幽靈はその暗い中にも、いくらまつ暗でも、決して滅多に躓いたり壁へぶつかつたり、階段の昇降に躓いたりはしない。これは彼自身の體から、朦朧と絶えず放射する燐光が、モウロウと行く手を照らしてくれするからである。幽靈

幽靈は

 

[やぶちゃん注:これは推測するに、芥川龍之介の怪談蒐集癖に基づくメモ書き或いは創作草稿と思われる。龍之介にはご存じのように怪奇談を採録集成した怪作椒圖志異があるが(リンク先は私の電子テクスト)、これは文体に龍之介の小説に特有な言い回しとリズムが認められ、口語表現で一貫している点、後者(創作物の草稿)の匂いが強い。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅷ) 頁37~頁38

《頁37》

竹むら多き瀟湘に

夕の雨ぞ

 

大竹むらの雨の音

思ふ今は

幽かにひと

 

夜半は風なき窓のへに

薔薇は

 

古き都は來て見れば靑々と

穗麥ばかりぞなびきたる

朝燒け

 

古き都に來て見れば

路も

 

幽かにひとり眠てあらむ

 

 

わが急がする驢馬の上

穗麥がくれに朝燒くるけし

ひがしの空ぞわすられね

 

ひがしの空は赤々と

朝燒けし

 

[やぶちゃん注:この頁も自筆原稿が「澄江堂遺珠」の裏表紙見返し(左頁)で視認出来る。そこでは、

 

   竹むら多き瀟湘に

   夕の雨ぞ

   

   

   大竹むらの雨の音

   思ふ今は

   幽かにひと■

 

   夜半は風なき窓のへに

   薔薇は

 

   古き都は來て見れば靑々と

   穗麥ばかりぞなびきたる

   朝燒け

 

[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]

 

      古き都に來て見れば

      路も

      

      

      幽かにひとり眠てあらむ

 

 

      わが急がする驢馬の上

      穗麥がくれに朝燒くるけし

      ひがしの空ぞわすられね

 

 

      ひがしの空は赤々と

      朝燒けし

 

と判読出来、私が判読不能とした抹消字三字は存在しないことになっている。]

 

《頁38》

水の上なる夕明り

畫舫にひとをおもほへば

わかぬぎたがすて行きしマチ箱の薔薇の花

白きばかりぞうつつなる

 

水のうへなる夕明り

畫舫にひとをおもほへば

たがすて行きし

わがかかぶれるヘルメツト

白きばかりぞうつつなる

 

はるけき人を思ひつつ

わが急がする驢馬の上

穗麥がくれに朝燒けし

ひがしの空ぞ忘れられね

 

さかし

 

[やぶちゃん注:ここに編者によって、『以下、欄外・横書き』という注が入る。]

 

Sois belle, sois triste ト云フ

 

[やぶちゃん注:この頁も自筆原稿が「澄江堂遺珠」の表紙見返し(右頁)で視認出来る。そこでは、本文罫欄外上部頭書様パートに、

 

 Sois belle, sois triste ト云フ

 

と記し、本文は、

 

   水の上なる夕明り

   畫舫にひとをおもほへば

   わかぬぎたがすて行きしマチ箱の薔薇の花

   白きばかりぞうつつなる

    水のうへなる夕明り

    畫舫にひとをおもほへば

    たがすて行きし

    わがかかぶれるヘルメツト

    白きばかりぞうつつなる

 

    はるけき人を思ひつつ

    わが急がする驢馬の上

    穗麥がくれに朝燒けし

    ひがしの空ぞ忘れられね

 

     さかし

     

と判読出来る。

白きばかりぞうつつなる」の「ぞ」が吹き出しで右から挿入、「驢」の字は原稿では「盧」を「戸」としたトンデモ字である。

《頁38》では白きばかりぞうつつなる」と「水のうへなる夕明り」の間に空行があるが、実際にはなく、字下げであることが分かる。最後の抹消字は不詳であるが、これは《頁38》稿では存在しないことになっている。以上、私が現認出来る原稿数箇所を見ても、それぞれに微妙に異同があることが分かる。もし、これが佐藤春夫の言う「第四號册子」で、同一物であるとすれば(私は基本的に同一物であると考えている)、残念ながら、新全集のこれら判読は必ずしも全幅の信頼をおくことは出来ないと言わざるを得ない。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅶ) 頁25~頁36

《頁25》

ひとり葉卷をすひ居れば

雪は幽かにつもるなり

かかるゆうべはきみもまた

かなしきひともかかる夜は

ひとり幽かにいねよかし

 

ひとり葉卷をすひをれば

雪は幽かにつもるなり

かかるゆうべはきみも亦

ひとり幽かにいねよかし

 

ひとり葉卷をすひ居れば

雪は幽かにつもるなり

       かかる夜は

かなしきひとも

       夜となれば

幽かにひとりいねよかし

 

《頁26》

綠はくらき楢の葉に

晝の光の沈むとき

わが欲念

わが欲念はひとすぢに

をんなを得むと

ふと眼に見ゆる

君が心

 

光は

何かはふとも口ごもりし

その

 

みどりはくらき楢の葉に

ひるの光のしづむとき

わがきみが心のおとろへを

ふとわが

 

《頁27》

ひとり

雪は幽かにつもるなり

きみも今宵はひややかに

ひとりいねよと祈りつゝ

幽かに雪のつもる夜は

ひとりココアを啜りけり胡桃を剝きにけり

きみも今宵はひややかに

ひとり寐ねよと祈りつつ

 

[やぶちゃん注:「剝」の漢字は底本の用字。以下同じ。]

 

幽かに雪のつもる夜は

ひとり胡桃を剝きにけり

君もこよひは冷やかに

ひとりいねよと祈りつつ

幽かに夜をおほへかし

 

        ひとづまも

 

幽かにひとりひとねいねよし

 

《頁28》

幽かに雪のつもる夜は

ひとり胡桃を剝きゐたり

こよひは君も冷やかに

ひとりいねよと祈りつつ

 

君の

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

きみも

幽かにひとりいねよかし

小夜床に

ひとりいねよと

 

《頁29》

幽かに雪はつもれかし

ひとなみだ

幽かにひとりいねよかし

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

 

幽かにこよひは

 

ひとり

 

こよひは君もひややかに

ひとりいねよと祈りつつ

 

[やぶちゃん注:ここに編者によって、『以下、欄外・横書き』と注がある。以下の「{」「}」は底本では一つに繋がった大きなもの。都合三パートに附くが、最後の二行は下方の閉括弧がない。]

Ibsen     Doll's House,      

Strindberg     Dol1's House 

de L’Isle  Adam    Revolt  }

 

Positive         

Negative      }

Positive but pess.

不公平

economical independence

suffragists

 

[やぶちゃん注:「Strindberg」何故ここでヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(sv-August Strindberg.ogg Johan August Strindberg)の後に、またイプセンの「人形の家」が再度メモされているのかは不明。

de L’Isle Adam    Revolt」の「de LIsle Adam」はフランスの象徴主義の作家ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste, comte de Villiers de l'Isle-Adam)の名で、「Revolt」は彼の一幕物の戯曲「La Révolte」(「反逆」一八七〇年作)の題名の英語表記。イプセンの「人形の家」(一八七九年作)と同系列の作品であるが、こちらの方が早い。

pess.」この単語のみ、最後にピリオドがあるから、pessimisticの省略形かと思われる。

economical independence」メモの流れから言うと「経済的自立」か。

suffragistssuffragist(婦人参政権論者)の複数形。]

 

《頁30》

幽かに雪のつもる夜は

君も幽かに眠れかいねよかし

ひとり

 

しら雪に夕ぐれ竹のしなひかな

君もかなしき小夜床に

ひとり

 

しら雪も

幽かに今はつもれかし

きみもこ

幽かにひとり 今はひとりいねよかし

 

《頁31》

幽かに

かかる 雪のかかるゆうべはきみもまた

幽かにひとりいねよかし

 

幽かに君はいね

 

幽かに雪もつもれかし

君もかかるゆうべはきみもまた

 

《頁32》

雪のゆうべとなりぬれば

幽かに今はのぼれかし

 

ひと

ゆうべとなればしら雪も

幽かに窓をおほへかし

さては

ゆうべかなしき

 

ゆきのゆうべとなりぬれば

幽かに君もいねよかし

 

幽かにひとりいねよかし

 

《頁33》

ひとり

雪はかそかにつもるなり

きみもこよひはひややかに

ひとりいねよと祈るなり

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

「思ふはとほきひとの上」

幽かにひとりいねてがな

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

きみもこよひは

幽かにひとりいねよかし

かなしきひとをおもほへば

雪も幽か

 

《頁34》

ゆきの夕は

 

こよひはとほきば人◆◆◆◆◆◆◆も

幽かにひとりいねよかし

 

[やぶちゃん注:「◆◆◆◆◆◆◆」の箇所には編者によって『この部分破損』とある。(七字分であるかどうかは不詳)。]

 

かなしき

 

かなしきひともかかる夜は

かそかにひとりいねよかし

 

《頁35》

ゆうべとなれば草花は

しつかに

 

みどりは暗き芭蕉葉に

水にのぞめる家あまた

杏竹桃

 

[やぶちゃん注:「杏竹桃」はママ。この誤字については「澄江堂遺珠」の「巻尾に」で神代種亮が言及している。]

 

ひとも幽かにねてあらむ

 

みづから才をたのめども

心弱きぞ

ひとを戀

君があたりの萩さけば

心しどろとなりにけり

 

《頁36》

妬し妬しと

嵐は襲ふ松山に

松の叫ぶも興ありや

山はなだるる嵐雲

松をゆするもおもしろし興ありや

人を殺せどなほ飽かぬ

妬み心をもつ身には

妬み心になやみつつ

嵐の谷を行く身に

 

雲はなだるる峯々に

■■

昔めきたる竹むら多き瀟湘に

昔めきたる雨きけど

 

嵐は襲ふ松山に

松のさけぶも興ありや

妬し妬しと

峽をひとり行く身には

 

人を殺せどなほ飽かぬ

妬み心も今ぞ知る も知るときは

山にふとなだるる嵐雲

松をゆするも興ありや

 

[やぶちゃん注:「■■」は編者によって『二字不明』とある。

「瀟湘」湖南省長沙一帯の地域の景勝地の呼称で、特に洞庭湖とそこに流れ入る瀟水と湘江の合流する附近を指す。中国では古くから風光明媚な水郷地帯として知られ、「瀟湘八景」と称して中国山水画の伝統的な画題となった。因みに、この画題の流行が本邦にも及び、金沢八景や「湘南」の語を生んだ。

実はこの頁は自筆原稿が「澄江堂遺珠」の裏表紙見返し(右頁)で視認出来る。そこでは、

 

 

   妬し妬しと

   嵐は襲ふ松山に

   松の叫ぶも興ありや

   山はなだるる嵐雲

   松をゆするもおもしろし興ありや

   人を殺せどなほ飽かぬ

   妬み心をもつ身には

   妬み心になやみつつ

   嵐の谷を行く身に

 

   雲はなだるる峯々に

   生贄

   昔めきたる竹むら多き瀟湘に

   昔めきたる雨きけど

 

[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]

 

      嵐は襲ふ松山に

      松のさけぶも興ありや

      妬し妬しと

      峽をひとり行く身には

 

      人を殺せどなほ飽かぬ

      妬み心も今ぞ知る も知るときは

      山にふとなだるる嵐雲

      松をゆするも興ありや

 

《頁36》では「■■」抹消部分は『二字不明』とあるが、私には「生贄」と書いて抹消したかのように見える。また、下段の最初の「嵐は襲ふ松山に/松のさけぶも興ありや/妬し妬しと/峽をひとり行く身には」は《頁36》稿では生きているが、明らかに一気に斜線を三本も引いて全体抹消していることが明らかである。特に後者は不審である。]

芥川龍之介 或阿呆の一生 三十七 越 し 人

       三十七 越 し 人

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。
 
 

 

2015/01/24

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 モースが発掘したのは「当尾貝塚」ではなく「大野貝塚」であった!

M587_2

図―587

M588_2

図―588

 

 昨日大野村からの帰りに、我々は美事な老樹の前を通ったが、その後には神社があった。日本中いたる所、景色のいい場所や、何か興味の深い天然物のある場所に、神社が建ててあるのは面白いことである。図587はこの習慣を示している。樹木の形が変っていて面白いので、その後に神社を建てたのである。ここでは、人々の宗教的義務に注意を引く可く天然を利用し、我国では美しい景色が、肝臓病の薬の大きな看板でかくされるか、或はその他の野蛮な広告によって、無茶苦茶にされる。高橋には、人々が非常に大切にしている、形も大きさも実に堂々たる一本の樟樹(くすのき)があり、地上十フィートの所に於る幹は、直径八フィートもある(図588)。

[やぶちゃん注:「大野村からの帰りに、我々は美事な老樹の前を通ったが、その後には神社があった」八代郡氷川町野津に現存する法道寺薬師堂のクスノキと呼ばれるものであるが、しかし! これはとんでもない情報なのである!

   *

 まず、熊本県公式サイト内の「地域発 ふるさとの自然と文化」から引用する。

   《引用開始》

 国道3号線を下り竜北町に入ると左側にこんもりとした丘に晩白柚(ばんぺいゆ)の畑が広がり低木が林立しています。この一帯は氷川流域に根拠を持つ有力な豪族の墳墓(野津古墳群)があり、火の国発祥の地と呼ばれています。

 法道寺跡は旧竜北町大字野津字東法道に位置し、法道寺跡のすぐ東を薩摩街道が南北に走っており、氷川左岸の宮原町と併せて江戸時代には交通の要所でした。法道寺は今から約1,300年前、白鳳時代に建てられた寺院といわれています。調査がなされていないのではっきりしたことはわかりませんが、これまでに泥塔・布目瓦が表採されています。『肥後国史』によると、法道寺は天台宗系の寺であり薬師仏を本尊としています。それを裏付けるように薩摩街道沿いの公民館には薬師堂があり、近くには「山王」「市場」の地名が残っています。

○樹齢約600年見事な老樹

 このように栄えた法道寺ですが、約600年前に廃寺になった後、寺にあった薬師如来を祭るために薬師堂が建てられました。この薬師堂を建てた際にクスノキを植えたと言われています。現在薬師堂を訪れると2本の大きなクスノキが枝を広げ、セミの鳴き声でいっぱいです。幹の周り8.2m、高さ30mのクスノキの大木が2本薬師堂を守るように並んで立っています。エドワード=モースは、日本に招かれて2年間生物学を教え、ダーウィンの進化論を紹介したり、大森貝塚をはじめ古墳を発掘したりするなど、日本の考古学の基礎を作りました。そのモースが大野貝塚の調査のため訪れた際、この法道寺の薬師堂に立ち寄り「見事な老樹」と絶賛し、そのスケッチを残しています。

   《引用終了》

この引用文より何より、リンク先の写真をご覧あれ。間違いなく、モースが「大野村からの帰りに」通ったのは、この八代郡氷川町野津に現存する法道寺薬師堂の前だったことが、モースのスケッチとの完全な一致から判明するのである!

 ところがである! この八代郡氷川町野津とはどこか?!

 リンク先にあるグーグル・マップを大きくして表示して戴きたい。

 そこは八代郡氷川町大野の私が「大野貝塚」があった場所と推定した竜北東小学校付近か南南西一・五キロメートルの直近地点なのである!

もう一つの候補地である同名の大野貝塚=「当尾貝塚」は、実にこの遙か北方九・六キロメートル熊本市寄りにあるのである!
即ち、

モースが発掘したのが松橋(まつばせ)町の旧「大野村」だったとするなら、この十キロメートルも南の八代郡氷川町野津法道寺薬師堂の前を通過しようがないのである!

これは俄然、「日本大百科全書」の「大野貝塚」の項の江坂輝彌氏の記載通り、

モースが発掘したのは、多くのデータがそうだとする現在の松橋町大野の「当尾貝塚」(別名大野貝塚」だったのではなく、直線でも八キロメートル以上南南問東に位置した全く別の八代郡氷川町大野の「大野貝塚」であった可能性が非常に高まったと言わざるを得ないのである!

そうなると、総てがゼロに逆戻りである!

かのモースが発掘した古墳も――

その近くにあった百足だらけの秘密めいた地下の人工洞窟も――
総てを検証し直さねばならない
ということになる……頭がくらくらしてきた……暫く今の錯綜状態をそのままにしておき、ゆっくらと再検討してみたいとは思う。しかし、八代郡氷川町大野の大野貝塚は江坂氏の記載よっても既に宅地化によって原形が失われているという。これらの情報収集と検証には、郷土史研究家の方の助力なしには私は到底、不可能と思われる。どうかよろしく御教授方、再度、切に、お願い申し上げるものである。

   *

 なお、今一つ、ブログ「熊本アイルランド協会」の、二〇〇六年十月二十二日附のまるぶん書店顧問樋口欣一氏の「ハーンとのかかわり」の記事の中に、

   《引用開始》

 その後、丹沢先生が「モース」の調査で再び来熊されました。モースが熊本に立ち寄ったのは明治12年6月のことでした。ハーンはスペンサーの進化論に関心を寄せていましたが、「龍南会雑誌」にモースに触れています。恰もハーン自らが大野貝塚古墳を見たようにもとれますが、この時はハーンは手取本町から坪井へ移転中であり、之は五高の鹿児島への行軍旅行の学生か、引率の秋月胤永の話を聞いて書いたのではないかと私見を申し上げて、龍北町から法道寺に来ますと、境内の大樹はモースの「その日その日」にあるスケッチ画そのものでした。

   《引用終了》

とある。私の愛するハーンと愛するモースの接点を記した文章に遂に出逢えたことに私は激しく感動している。しかもここには「大野貝塚古墳」「法道寺」の楠の「大樹」まで出ている! 何と、素晴らしいことだろう! 私をモースとハーンが導いてくれている気が、今、ふつふつと湧いてきたのである!

「一本の樟樹」これは恐らく、現在、天然記念物に指定されている熊本県熊本市西区上高橋にある「天社宮の大クスノキ」ではなかろうかと思われる。個人サイト「日本巨樹探訪記」の天社宮の大クスノキにある写真を見ると、モースのデッサンとの近似性が高く、叙述に於いて「人々が非常に大切にしている、形も大きさも実に堂々たる」という表現とも一致する巨木である。リンク先データによれば、樹高十八メートルで目通り幹囲が十一・二メートルとある。モースの直径から計算すると円周は七・六六メートルとかなり小ぶりに出るが、モースの目測はかなり甘いと考えてよく、この齟齬は私にはあまり気にならない。推定樹齢千三百年以上で、『西神社にもクスノキ巨木が立つが、大きさは、こちらの方が断然勝る。その代わり(?)神社としては、こちらの方がずいぶん小さい。現在は高橋西神社の飛地境内社とされているようだ』。『東神社の祭神は、道君首名(みちのきみおびとな)。奈良時代に実在した人物で、和銅6年(713)、筑後守に任ぜられた。のち肥後守を兼任。当地では溜池を築いて灌漑事業を行う一方、人々に生業を勧め、農耕や果樹栽培、畜産等の技術を基礎から教えて奨励した。それには条例を定め、任地を巡回して、教えに従わない者は罰することまでしたため、はじめ人々は快く思わなかったようだが、生活が豊かになるにつれ、信頼を得るようになった。そして、没後は彼を慕う人々によって、神として祀られた』。『それが、天社宮(地元の人は「天社さん」と呼ぶらしい)という神社名とどう関係するのか知らないが、そのような来歴により、五穀豊穣、商売繁盛の神様とされてきた。(明治6年(1873)に高橋東神社と改称)』。『伝承樹齢からみると、大クスノキは天社宮創建時に植えられたと考えられたようだ』が、『多くの大枝を失い、幹の太さに比べ、樹冠は小さい。しかし、残された枝は青々と葉をつけ、樹勢は悪くないように見える』。『熊本市公式WEBサイトにあった説明によれば、このクスノキそのものが御神体であった可能性があるという』とあって、『人々から慕われた国司の記憶とともに、いつまでも元気でいてもらいたいものだ』と語られてある。すこぶる同感!

「十フィート」約三メートル。

「直径八フィート」直径約二・四四メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本城の謎の洞窟 / ムツゴロウ実見 / ミドリシャミセンガイを試食す / 高橋の大凧

 

 翌朝私は熊本の知事を訪問し、世話になったことを感謝すると共に、我々が発見した物や、大野村にある奇妙な洞窟のことに就て話した。彼はそこで、城の岩石にいくつかの洞窟があるといった。私が即座にそれ等を見たいといった性急さに、彼は微笑したが、気持よく立上って、私を洞窟へ導いた。時間に制限があったので、ごくざっとそれ等を調べることしか出来なかった。入口は崖の面にあり、それ等の多くは、木の枝葉が上からかぶさって、かくしており、中には容易に到達出来ぬものもあった。私は洞窟の二、三に入って見た。形は四角である。一つの洞窟にはそれを横切る仕切が、また他の口はそのつき当りに、床から四フィートばかりの高さの凹所があり、それが棚をなしているのは、恐らく食物を供えた場所なのであろう。日本に於る洞窟を研究したら、興味が深いだろうと思われる。それ等は国中いたる所に散在し、私の知る範囲内では、埋葬用洞窟である。

[やぶちゃん注:よく分からないが、この熊本城の洞窟というは城郭構造の一部の様にも見受けられるが、それとも、熊本城の基底部には、そこにもともとあった古墳遺跡の一部が、当時、まだ保存されてあったものか? 但し、ネット上ではそのような記載は見当たらない。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。

「四フィート」約一・二メートル。]

 午後高橋へ戻って見ると、残して行った者達は驚く程立派な採集をしていた。私は、大きな緑色のサミセンガイの入った樽をいくつか見て目をたのしませ、土地の人のするように、それをいくつか食って見た。食うのは脚部だけであるが、私はあまり美味だと思わなかった。

[やぶちゃん注:以前にも述べたが、私は永らく食べたいと思いながらも、未だにミドリシャミセンガイを食したことはない。ネット上を管見すると、煮付けが一般的な調理法で、好印象記事では、アサリとシジミを混ぜたような味でなかなか美味しいとあり、一方では、触手は硬い管状組織で覆われているため、歯で扱(しご)くようにして身を取り出して食べるが、可食部分は楊枝のような僅かな身のみで、コリコリとした触感は悪くないものの、食べ方が面倒で嫌になるともある。実食の折りには、私の印象を必ず追記する。]

 高橋川の川口にある小さな漁村に着いて見ると、暴風雨が来そうなので、汽船は翌日まで出帆をのばしたとのことである。これにはいやになったが、私はその日を、サミセンガイを研究して送った。泥濘(ぬかろみ)の干潟をピョンピョン飛び廻っている生物がいた。最初私はそれを小さな蟾蜍(ひきがえる)か蛙だろうと思ったが、やっとのことで一匹つかまえて見ると、胸鰭が著しく発達した小魚である。これ等の小動物は、まるで仲間同志遊びたわむれているかの如く、跳ね廻っていた。ラマークが、如何にして、努力の結果が身体の各部分を変化させる云々という考を思いついたか、容易に判る。

[やぶちゃん注:勿論、これはかのスズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科ムツゴロウ属ムツゴロウ Boleophthalmus pectinirostris である。以下、ウィキの「ムツゴロウ」より引く。有明海・八代海(本邦ではこの二箇所に限定棲息)を含む東アジアに分布し、有明海沿岸ではムツ・ホンムツなどと呼ばれている。英語では同じ様に干潮時の干潟で活動するトビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus などのハゼの仲間や同じく干潟表面の珪藻類を摂餌するタビラクチ属タビラクチ Apocryptodon punctatus などの同亜科(オキスデルシス亜科)に属する魚類を総称して「Mudskipper」(マッドスキッパー)と呼ぶ。成魚は全長十五センチメートルで、最大二十センチメートルまで達する。『同様に干潟上で見られるトビハゼの倍くらいの大きさになる。体色は褐色から暗緑色で、全身に白か青の斑点がある。両目は頭の一番高いところに突き出ていて、周囲を広く見渡せる。また、威嚇や求愛のときには二つの背鰭を大きく広げ、よく目立つ』。軟泥干潟に一メートルほどの巣穴を掘って生活し、『満潮時・夜間・敵に追われたときなどは巣穴に隠れるが、昼間の干潮時には巣穴から這い出て活動する。干潟では胸びれで這ったり、全身で飛び跳ねて移動する。干潟の上で生活できるのは、皮膚と口の中に溜めた水で呼吸するためといわれる。陸上生活ができるとはいえ皮膚が乾くと生きることができず、ときにゴロリと転がって体を濡らす行動がみられる』。『植物食性で、干潟の泥の表面に付着している珪藻などの底生藻類を食べる。口は大きく、上顎にはとがった歯が生えているが、下顎の歯はシャベル状で前方を向いている。口を地面に押し付け、頭を左右に振りながら下顎の歯で泥の表面に繁殖した藻類を泥と一緒に薄く削り取って食べる』。直径二メートルほどの『縄張りを持ち、同種だけでなく同じ餌を食べるヤマトオサガニなども激しく攻撃して追い払う。反対に、肉食性のトビハゼとは餌が競合しないので攻撃しない』。。一年のうちで『最も活発に活動するのは初夏で、ムツゴロウ漁もこの時期に行われる。この時期にはオスがピョンピョンと跳ねて求愛したり、なわばり内に侵入した他のオスと背びれを立てて威嚇しあったり、猛獣のように激しく戦ったりする姿が見られる。メスは巣穴の横穴部分の天井に産卵し、オスが孵化するまで卵を守る。孵化した稚魚は巣穴から泳ぎだし、しばらく水中で遊泳生活を送るが』、全長二センチメートルほどになると、海岸に定着して干潟生活を開始する。『日本・朝鮮半島・中国・台湾に分布するが、日本での分布域は有明海と八代海に限られる。氷河期の対馬海峡が陸続きだったころに東シナ海沿岸に大きな干潟ができ、その際にムツゴロウが大陸から移ってきたと考えられている(大陸系遺存種)。有明海・八代海の干潟は多良山系・阿蘇山などの火山灰に由来する細かい泥質干潟で、干潟の泥粒が粗いと体が傷つき弱ってしまう』とある。『旬は晩春から初夏で、漁は引き潮の間に行われる。逃げるときはカエルのように素早く連続ジャンプするので、捕えるのは意外と難しい。巣穴に竹筒などで作った罠を仕掛けて巣穴から出てきたところを捕獲する「タカッポ」や、巧みにムツゴロウをひっかける「むつかけ」などの伝統漁法で漁獲される』。『肉は柔らかくて脂肪が多い。新鮮なうちに蒲焼にするのが一般的で、死ぬと味も落ちる。ムツゴロウの蒲焼は佐賀県の郷土料理の一つである』私は蒲焼きと煮付けを食したが、個人的には圧倒的に前者の方が美味しかった。

「ラマークが、如何にして、努力の結果が身体の各部分を変化させる云々という考を思いついたか」「ラマーク」はフランスの博物学者シュヴァリエ・ド・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck 一七四四年~一八二九年)。「biology」(生物学)という語を現代の意味で初めて使った人物の一人とされるが、ここは彼が提唱した、ダーウィンの進化論に先行する知られた進化学説の一つである「用不用説」(Lamarckism ラマルキズム)を指している。これは獲得形質(個体が後天的に身につけた形質)が子孫に遺伝し、進化の推進力になるするもので、後の遺伝子の研究発展により、後天的獲得形質の遺伝という部分の非科学性から退けられた。但し、生物の個体や種に主体的な生物進化の意識を胚胎させる考え方は、ある意味で分かり易く、人気があり、その後もそれを再主張するようなネオ・ラマルキズム或いはそれに近い学説を唱える生物学者はいる。]

 高橋の紙鳶(たこ)は、恐しく大きなものであった。八フィートあるいは十フィートの四角で、糸には太い繩を使用する。紙鳶の一つには、前にも述べた、ピカピカ輝く眼がついていた。

[やぶちゃん注:「八フィートあるいは十フィート」二・四四~三・〇四メートル。但し、熊本の凧揚げの風俗は継承されているものの、現在の熊本県熊本市西区高橋町にはこうした伝承凧は残っていないようである。郷土史研究家の御教授を乞う。

「ピカピカ輝く眼」「第十五章 日本の一と冬 凧上げ」を参照。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 信濃の旅(Ⅱ)

 

八ヶ嶽聳てり斑雪(はだれ)近膚(ちかはだ)吾に見せ

 

[やぶちゃん注:「斑雪」「はだら雪」とも称し、「はだれ野」などとも詠まれる。俳句では点々と残っている斑(まだ)らをなす雪として詠まれることが多く、ここも次の「近膚」(斑らに残る雪の間から顔を出した地面がくっきりと見える擬人的表現であろう)から推してそれである。但し、「はだら」にはこれ以外にも、日陰に残る雪で斑になっている景や、はらはらと虚空や地に斑らを成しながら降る薄雪の謂いにも用いる、万葉以来の古語である。]

 

みづから霧湧き阿彌陀嶺天(あま)がくる

 

[やぶちゃん注:「阿彌陀嶺」「あみだがたけ」と訓じていよう。八ヶ岳の南方、赤岳の約一キロメートル西に位置する。標高二八〇五メートル。八ヶ岳では赤岳・横岳に次いで三番目に高い。私は山岳部の生徒を連れて三度登ったが、西側からの通常ルートの登頂途中では、実はまさに、この霧があった方が登りやすいことを申し添えておく。ルートの最上部近く(梯子のある辺り)は北側にかなり切り立った断崖があって、これがピーカンだとかなり恐怖感を感じる。これは当時の部長でさえ共感してくれたことである。……ああ、懐かしいなぁ。……]

 

そのいのち短しとせず高野の虹

 

[やぶちゃん注:以下、私はこの「高野」を「たかの」と訓じたい。言わずもがなであるが、固有名詞ではなく、高原の謂いである。]

 

轍曲る五月高野の木の根つこ

 

天ちかき高野の轍黍芽立つ

 

雪嶺と童女五月高野のかがやけり

 

白穂高待ちし茜を見せざりき

 

眼を凝らす宙のつめたさ昼半月

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]

 

五月の凍み童女髪の根の密に

 

[やぶちゃん注:これも個人的に好きな句である。]

 

母の鵙翔ちて地上の巣を知らるな

 

行々子高野いづこか葭ありて

 

紅鱗かさねて何の玉芽なる

 

眼おとせば大地に髪切り虫の斑

 

花しどみ倚れば花より花こぼれ

 

[やぶちゃん注:「花しどみ」花樝子。バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜) Chaenomeles japonica)のことと思われる。実や枝もボケ Chaenomeles speciosa よりも小振りで、地梨(じなし)とも呼ばれる。花は朱赤色だが、白いものもある。果実はボケやカリン同様に良い香りを放ち、果実酒の材料として人気があるが、実自体ははなはだ酸っぱく食用には適さない。語源を検索すると、この実を食べるとはなはだすっぱいことに由ると書いてあるのであるから、これは「しど実」なのであろうが、しかしいくら調べても「しど」には酸っぱいという意味はない。識者の御教授を乞うものである。因みに、ボケの属名 Chaenomeles は、ギリシア語「chino」(開ける)と「melon」(リンゴ)の合成語で、「裂けたリンゴ」の意。熟すとリンゴやナシに似た実が裂けることに由来する。秋の季語。]

 

  尖石遺趾

 

残雪光岩石斧を研ぎたりき

 

[やぶちゃん注:長野県茅野市豊平南大塩の、八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にある標高一〇五〇から一〇七〇メートルの東西に広がる長い台地上にある縄文中期の集落遺跡尖石(とがりいし)・与助尾根(よすけおね)遺跡。ここの南側に位置する尖石遺跡は戦前から発掘されてきた縄文時代を代表する遺跡の一つとして知られている。現在は同遺跡と浅い沢を隔てた北側台地上にある与助尾根遺跡と一括して扱われる。「尖石」の名称は遺跡の南側にあった三角錐状の巨石の通称に由来する(ウィキの「尖石・与助尾根遺跡」に拠る)。]

 

赤土(はに)籠めの埴輪おもへばしどみ朱に

 

花しどみ火を獲し民の代の炉焦げ

 

八つ嶽に雪牡丹に雨のふりそそぐ

 

[やぶちゃん注:「雪牡丹」とは季節的にも花菖蒲の改良品種の一種のそれではあるまいか? 児玉洋子氏の「ハーブと花の畑から」のこちらのページの最後の肥後系「雪牡丹」を参照されたい。]

 

五月高原よれば焚火の焰がわかれ

 

[やぶちゃん注:「ごぐわつ/かうげん//よれば/たきびの//ほが/わかれ」(ごがつ/こうげん//よれば/たきびの//ほが/わかれ」と読みたい。]

耳嚢 巻之九 血道祕法の事

 血道祕法の事

 

 麻苧(まを)を黑燒にして拾匁、産の節飮めば、血を治め血の道なき事、奇々妙々の由、祕法とて傳へぬ

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法シリーズ。

・「血道」ウィキの「血の道症より引く。『月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状のことで』『医学用語としては、これら女性特有の病態を表現する日本独自の病名として江戸時代から用いられてきた漢方医学の用語である「血の道」について』は、九嶋勝司氏の研究「所謂『血の道症』に就いて」(『日本医師会雑誌』一九五四年三十二巻十号)によって、『西洋医学的な検討が加えられ「血の道症」と定義された』。『同義語に「血病」(ちやまい)、「血カタ」、「血が荒れる」などがある』。『血の道症の症状の多くは』一種の『神経症様症状あるいは不定愁訴的な自覚症状』を主とし、のぼせ・冷え・心悸亢進・頻脈・遅脈、腰痛・背痛・胸痛・肩こり、皮膚表面の蟻走感症状、倦怠・脱力等の疲労感及び器質的病変を認めない不定愁訴(頭痛・頭重・眩暈・立ちくらみ・耳鳴・閃光視)で、精神症状としての不眠と不安を特異的主訴として、興奮・抑鬱等を伴い、月経異常の他、種々の身体症状も出現する。現代医学では、『上記症状を示す疾患として』、

 神経症――不安神経症・神経性心気症・ヒステリー

 精神疾患――統合失調症・周産性精神病・月経前緊張症・更年期精神病(更年期鬱病・更年期障害)

が挙げられ、自律神経失調症の一部を含んだ更年期障害を包括する病状概念と把握出来るとある。「歴史」の項を見ると、本話の記載前後の箇所に、元文五(一七四〇)年の香月牛山著「牛山活套』に、『「婦人産後は気血を補うべし、産後血の道持ちとて生涯病者なる者あり」と、産後に起る病と』あって、「血の道」という『病名が江戸時代中期には使用されている』ことが分かり、本話記載(「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏)の六年後の文化一二(一八一五)年刊になる原南陽著「医事小言」の「巻五婦人門」には、『独立した疾患として「血の道」なる表現を用いているのが見られ、「婦人産後血熱退ぎかね、或は漏血の後よりし、或は蓐に在るときの心労驚動などよりし、上衝、頭痛、大いに欠坤し、耳鳴、眩量、心気乏少、寒熱発作、五心煩熱、心中驚悸、明を悪みて暗室に入り、或は人と対することを忌む等の症を一面に血の道と称す。翠鳳散之を主る」と病因と神経症状を詳述している』とある。また、文政四(一八二一)年の加藤謙斎著「医療手引草別録下」の『産後の部には、多くの箇所に「血の道と」の記載があり、この頃には一般化されたものと考えられる』とあり、幕末の天保一二(一八四一)年の段階で既に、水野沢斎が「養生弁」の中で、『「血の道とは日本の詞にして漢土になき病名なり。方書にいえる産前、産後、経閉、崩漏など総べてをいう名にして、経行の血の道筋の煩いという意味にして男子になき病なり。経水の変より三十六疾の病となり、千変万化に悩ますなり」と述べ、器質的疾患を除外し』ない、現在の定義に近いものを「血の道」としていることも分かる。現在は、厚生労働省が内規として運用してきた「一般用漢方処方に関する承認における基準」の二〇〇八年の改定の際、『一般用漢方処方のうち「血の道症」の効能・効果を有する処方については、「効能・効果に関連する注意」として』――『血の道症とは、月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状のことである。』――という表記を行うよう、定められているとある(下線やぶちゃん)。

・「麻苧」「あさを(あさお)」とも読める。麻や苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシBoehmeria nivea var. nipononivea 。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古来から植物繊維を採取するために栽培された。苧麻(ちょま)。)の繊維で作った糸。漢方の記載を見ると、これは実際的な効果があることが分かる。このカラムシの根にはエモジン型アントラキノンと呼ばれる止血作用をもった薬効成分が含まれており、漢方では清熱・通淋(小便が出難い症状)・止血・安胎・解毒の効能が挙げられてあり、膀胱炎などの治療、妊娠時の性器出血及び胎動不安、小児の丹毒などに用いるとある。因みに、このカラムシの繊維で織った布に晒し加工をした奈良晒(さらし)は、武家の裃(かみしも)を始め、帷子などに用いられ、古くは鎌倉時代に南都寺院の僧尼の衣や袈裟用に法華寺の尼衆や西大寺周辺の女性たちが織りだしたと伝えられていることから、当初、私はそうした婦人の古い伝承に基づく共感呪術かと思っていた。

・「拾匁」三十七・五グラム。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 血の道を直す秘法の事

 

 麻苧(まお)を黒焼きにして十匁(もんめ)、出産の際に飲用すれば、血を治め、その後に血の道を起こさぬこと、これ奇々妙々なる由、秘法として伝えている。

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅵ) 頁24

《頁24》

ひとり葉卷を吸ひ居れば

雪は幽かにつもるなり

こよひはきみも

ひとり小床に眠れかし

きみもこよひはほのぼのと

きみもこよひはしらじらと

きみもこよひは冷え冷えと

 

みどりはくらき楢の葉に

ひるの光のしづむとき

つととびたてる大鴉

 

ひとり葉卷きをすひ居れば

雪は幽かにつもるなり

こよひはきみもしらじらと

ひとり小床にいねよかし

ひよりいねよと祈るかな

 

[やぶちゃん注:最終行の「ひより」はママ。

 ここに編者によって『以下、欄外』とある。]

 

黄龍寺の晦堂老師

吾爾に隱すことなし(論語)

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介直筆原稿の一部を「澄江堂遺珠」の箱の装幀で実見することが出来る。

「黄龍寺の晦堂老師」「晦堂」は「まいだう(まいどう)」と読む。宋代の黄龍祖心禅師(一〇二五年~一一〇〇年)で晦堂祖心とも称した。参照させて戴いたのは霊芝山光雲寺住職田中寛洲老師のサイト「道楽庵」の「禅修行の法悦」で、そこには以下のようにある。祖心禅師は『建仁寺開山栄西禅師がその法脈に連なる名僧であり、その嗣法の弟子には死心悟新禅師や霊源惟清禅師などの卓越した禅僧がいる。有名な黄庭堅(山谷)も在俗の身で祖心禅師の法を嗣いでいる』。『十歳にして出家得度され、長じてのちに雲峰文悦禅師に参じること三年、何らの所得もなく辞去せんとしたところ、文悦禅師は「必ず黄檗山に住する慧南禅師の道場に行ってご指導を受けよ」とさとした。そこに弟子の大成を願う、法に対する古人の大悲心が感じられる』。『祖心禅師は黄檗に至って慧南禅師のもとで刻苦すること四年、しかもなお開悟することはできなかった。この道場は自分には機縁がないと思われたのか、また辞して文悦禅師のところへ戻られた。文悦禅師が遷化されたのち、石霜山にとどまって修行に専心した』。『或るとき、中国の禅宗史である『景徳伝燈録』を読んでいて、「僧が多福(無字の公案で有名な趙州の法嗣)に、『多福の竹林とはどのようなものか』と問うと、多福は『一本、二本は斜めの茎だ』と答えた。僧が『分かりません』というと、多福は『三本、四本は曲がっている』と応じた」という箇所に出くわした。竹に託して多福の家風をたずねた僧に対して、実際の竹の光景をもって答えたのに妙味がある。この一段に至って祖心禅師は開悟して、自分がいままでついた二人の老師の作略(さりゃく、修行者を導く手法)の何たるかを徹見した』。『ただちに黄檗に戻り、慧南禅師に対して礼拝の坐具をのべようとしたところ、慧南禅師がすぐさま見抜いて、「お前はすでにわしの宗旨を会得したわい(わが室に入れり)」というと、祖心禅師は跳(と)んで踊らんばかりに歓喜して、「仏法の一大事は本来このようなものなのに、どうして老師は公案などを使ってあれこれと探索させられたのですか」と問いただすと、慧南禅師は、「もしわしがお前をそのように究め尋ねることをさせて無心の境地に到らしめ、みずから見て、みずから納得するような体験をさせなかったならば、わしはお前を台無しにしたことであろう」といった(『五燈会元』巻第十七、黄龍祖心禅師章)』とある。以下もリンク先で是非、お読み戴きたいが、そこで田中寛洲老師も述べておられるように、この話は見性開悟の機縁と公案の在り方について素晴らしく印象的である。

「吾爾に隱すことなし(論語)」これは「論語」の「述而第七」の二十三章、

 

 子曰、二三子以我爲隱乎。吾無隱乎爾。吾無行而不與二三子者。是丘也。

 

 子曰く、「二三子(にさんし)、我を以つて隱(かく)せりと爲すか。吾、爾(なんぢ)に隱すこと無し。吾は行ふとして、二三子と與(とも)にせざる者、無し。是れ、丘(きう)なり。

 

の「吾無隠乎爾」の部分を引いた。人口に膾炙する訓読では、「乎爾」を句末の強勢辞ととって「のみ」と読んで、「吾、隱すこと、無なきのみ。」と読むのが一般的でそれが意味上は正しいように思われるが、しかし、日本語の訓読では上記の芥川が採った訓読の方が、私のような凡愚でも平易に理解し得ると感じられる。なお、「者」は人称代名詞ではなく、「吾」の「行ふ」こと、自身の行動/行為/行状を指している。「WEB漢文大系」のの注に下村湖人の「現代訳論語」(昭和二九(一九五四)年池田書店刊)の訳が引かれてあるので、孫引きする。「先師がいわれた。おまえたちは、私の教えに何か秘伝でもあって、それをおまえたちにかくしていると思っているのか。私には何もかくすものはない。私は四六時中、おまえたちに私の行動を見てもらっているのだ。それが私の教えの全部だ。丘(きゅう)という人間はがんらいそういう人間なのだ」。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅴ) 頁20~頁23

《頁20》

君が妻まげは楊子の河に河豚浮

 

[やぶちゃん注:「楊子」は「揚子」の、「河豚」は「海豚」の誤字。「まく」は前に示した「枕く」で妻とするの意の上代の動詞。次行も同じ。]

 

はしけやし吉井勇が妻まけはぐを楊子の河に河豚來にけり上るらむ

 

はしけやし楊子の河に海豚來る啼く吉井勇が妻まぐと啼く

 

海豚ばら楊子の河に啼く呼ぶ聞けば君が新妻まぐとなき呼びけり

 

[やぶちゃん注:これらの四首は先に注で示した大正一〇(一九二一)年五月三十日附の吉井勇宛の長沙からの芥川龍之介書簡(絵葉書・岩波版旧書簡番号九〇六)に載る「湖南長沙 我鬼」と署名のある、

 

河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり

 

という一首(「河豚」は「海豚」の龍之介の誤字)の推敲形と考えてよい。先行注を必ず参照されたい。]

 

《頁21》

みどりは

おもふは牧の水明り

花もつ草のゆらぎにも

霞ながるる西空に

 

風にふかるる曼珠沙華

      砂路をわが行けば

ひとなき國にただふたり

住むべき家ぞめに見ゆる

 

[やぶちゃん注:底本の注の記載法から見るに、二行目の空白は果たして表記の様に六字分であるかどうかは定かではない。]

 

おもふは

風に吹かるゝ

 

ひとり葉卷をすひをれば

雪は幽かにつもるなり

こよひはひともしらじらと

      眠れかし

ひとり小床に

      いねよかし

 

《頁22》

人を殺せどなほあかぬ

妬み心も今ぞ知る

 

みどりは暗き楢の葉に

晝の光は沈むとき

ひとを殺せどなほあかぬ

妬み心も覺しか

 

風に吹かるる曼珠沙華

散れる

 

夕まく夕べは

いや遠白む波見れば□に來れば

人なき

 

[やぶちゃん注:二行目の「□」は底本編者が『一字不明』と記す。]

 

《頁23》

何かはふとも口ごもりし

大路にこの この のこる夕明り

 

戸のもの櫻見やりつつ

何かはふとも口ごもりし

 

戸のもの

 

きみ

 

何かはふとも口ごもりし

せんすべなげに□まひつつ

えやは忘れむ入日空

せんすべなげに仰ぎつつ

何かはふともほほえみし口ごもりし

その日のその

 

[やぶちゃん注:抹消の二行目「せんすべなげに□まひつつ」の「□」は編者注に『一字不明』とある。]

 

2015/01/23

耳囊 卷之九 小はた小平次事實の事

 

 小はた小平次事實の事

 

 こはた小平次といふ事、讀本(よもほん)にもつゞり淨瑠璃に取組(とりくみ)、又は徘諧の附合(つけあひ)などにもなして人口に鱠(くわい)しやすれど、歌舞妓役者なりとはきゝしが其實を知らず。或人其事跡をかたりけるは、右小平次は山城國小幡(こはた)村出生にて、幼年にて父母におくれ、たよるべきものなければ其村長(むらをさ)抔世話をなし養ひけるが、一向兩親の追福(ついふく)のため出家せよと言ひしに隨ひ、小幡村淨土宗光明寺の弟子になり、出家して名は眞州と申けるが、怜悧(れいり)發明いふばかりなく、和尙も是を愛し暫く隨身(ずいじん)しけるが、學問もよろしく、何卒此上諸國を遍歷して出家の行ひもなしたきとねがひければ、金五兩をあたへ其願ひにまかせけるに、江戶表へ出、深川邊に在所者ありければ、是へたよりて暫くありけるに、與風(ふと)呪(まじなひ)祈禱など甚(はなはだ)奇瑞ありてこゝかしこより招きて、後には別段に店(たな)もちて、信仰の者多く金子抔も貯ふる程になりしが、深川茶屋の女子(をなご)に花野(はなの)といへる妓女、眞州が美僧なるを、病(わづら)ふの時加持(かぢ)致(いたし)貰ひ深く執心して、或時口說(くど)けれど、眞州は出家の身、かゝる事思ひよらずといなみけるが、或夜眞州が庵(いほり)へ花野來りて、此願ひ叶へ給はずば死するより外なし、殺し給ふやいかにと、切(せち)になげきし上、一つの香合(かうがふ)を出し、志(こころざし)を見給へと渡しける故、右香合をひらき見すれば、指をおしげなく切りて入置(いれおき)たり。眞州大きに驚き、出家の身いかにいゝ[やぶちゃん注:ママ。]給ふとも、飽(あく)まで落入(おちい)る心なし、さりながら左程(さほど)にの給ふ事なれば、翌夜(あくるよ)來り給へ、得(とく)と考へていづれとか答ふべしとて立別(たちわか)れけるが、かくては不叶(かなはじ)と、其夜手元の調度など取集(とりあつ)め路用の支度して、深川を立退(たちの)き神奈川迄至りしが、或る家に寄(より)て一宿なしけるに、亭主は見覺へたるやうにて、御身いかなればこゝへ來り給ふやと尋(たづね)けるゆゑ、しかじかの事なりとあらましを語りければ、先(まづ)逗留なし給へとて、止置(とめおき)て世話なしけるが、右香合はけがらはしとて、途中にてとり捨(すて)しが不思議に獵師の網にかゝりて、神奈川宿にて子細ありて眞州が手へ戾りしを、亭主聞(きき)て、かく執心の殘りし香合なれば、燒捨(やきす)て厚く吊(とむら)ひ給へといふに隨ひ、讚經供養して一塚(いちづか)の内に埋(うづ)め、心がゝりなしと思ひけるに、或日大山へ參詣の者、彼(かの)家に泊(とまり)、眞州を見て、御身はいかにして爰に居給ふや、彼(かの)花野は亂心して親方の元を立出(たちいで)て、今はいづくへ行けん、行方(ゆくゑ)しらず、最早江戶表へ立歸り給へとて、口々すゝめてともなひ歸り、境町邊の半六といふ者世話をなし、浪人にて渡世なくても濟(すむ)まじとて、茶屋の手傳(てつだひ)、又樂屋の働らきなどなしける。出家にても如何(いかが)とて、げんぞくなさしめけるに、役者抔、御身も役者になり給へとて終に役者になり、初代海老藏といゝし市川柏莚(はくえん)の弟子になり、小幡(こはた)を名乘るもいかゞとて小和田(こわた)小平次といゝしが、男振(おとこぶり)は能(よ)し、藝も相應にして、中よりは上の役者になりしが、樂屋にて博奕(ばくち)致(いたし)候儀有之(これあり)、柏莚破門なしける間、詮方なく田舍芝居へ、半六同道にて下りしに、雨天續きて渡世を休みし日、右半六幷(ならびに)見世物師を渡世とせし穴熊三平連立(つれだち)て獵に出しに、不計(はからず)小平次は海へ落(おち)て水死なせしよし、〔實は花野、境町に、小平次有(ある)事を聞(きき)て尋來(たづねきた)り、夫婦(めをと)となりて有(あり)しが、三平儀(ぎ)、深川の時より執心して、半六、申合(まうしあひ)て、小平次を海へつきこみ殺しけるが、此事は追(おつ)て顯(あらは)れ、吟味有(あり)て、三平半六ともに、御仕置(おしおき)になりしとなり。〕かくて三平半六は江戶へ歸り、小平次留守へ來りしに、花野、出て、なぜ遲く歸り給ふ、小平次は夜前(やぜん)歸りしといふ故、兩人、甚だ不審して、實は小平次は海へ落(おち)、相果(あひはて)しゆゑ、申譯(まうしわけ)もなき仕合(しあはせ)ゆゑ申出(まうしいだ)しかねしと語りければ、妻は誠(まこと)ともせず、兩人も驚き一間(ひとま)を覗きしに、落物抔はありて形なし。其後も小平次に付ては怪敷(あやしき)事度々有(あり)しと也。其餘は聞(きか)ざるゆゑ、こゝにしるさず。享保初(はじめ)よりなかば迄の事に候由。


□やぶちゃん注

○前項連関:なし。著名な幽霊でヴァリアントの多いものの真相実録物と名打ったもの。「こはだ小平次」譚については、類型話柄である「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」の私の注で相当、詳しく書いたつもりであるが、ここでは総合的に纏めてみよう。まず底本の鈴木氏の注がよい(長いが、三村氏に孫引きなので問題はあるまい。同じというのも癪であるから、引用部は文語文なので引用を恣意的に正字化して示す。最後の鈴木氏の附言は「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」への参照見出しなので省略した)。

   《引用開始》

これにつき三村翁の長文の注あり。曰く「山崎美成海錄、閏六月二日囘向院にて、歌舞伎役者尾上松之助施主にて、直幽指玄居士、俗名こはだ小平次のために施餓鬼をなす、役者ども參詣すときゝて人々群集す、こはだ小平次が傳、未詳、旅芝居をありきし役者也と云。吉田雨岡云、こはだ小平次といへる旅役者、伊豆國に行て芝居せしが、はかばかしきあたりもなく、江戶にかへりて面目なしとて自滅す、友なるものにいふは、わが妻古里にあり、われかく死すと聞かばかなしみにたへざるべし、必我死せし事かたり給ふなと言置て死せり、その友ふるさとにかへりしに、その妻小平次が事をとひしかば、程なく歸るべしとすかし置しが、月日へてかへらねば、その妻いぶかしく思ひて、その事をせめとひし時、まことは死したりといはんとせし時、屋のむねに聲ありて、それをいひきかしてはあしゝといひしとなん、夫より小平次の話をすれば必怪事ありとて、芝居もののことわざに、はなしにもいひ出す事なしといへり。耕書堂說、小平次旅芝居にて、金をたくはへしを、友達知りて、窃に殺して金を奪ひしが、その人もしれざれば、江戶にかへりて、泣々其妻にその事かたりしに、小平次はまさしく昨夜家に歸りて、蚊屋のうちにふせり居れりと云ふ、あやしみて蚊屋の中を見れば、その形をみずといふ。又一說、小平次は、下總國印旛沼にて、市川家三郞といふ者に殺され、沼の中に埋みしといふ、もと密婦の故なりとぞ。」

   《引用終了》

「海錄」は江戸後期の考証家山崎美成が文政三(一八二〇) 年六月から天保八(一八三七)年二月まで書き続けた考証随筆。次にそこもカバーしたウィキの「小幡小平次」を見ておこう。これらと「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」の私の注をカップリングさせれば、ちょっと見ない「こはだ小平次」の小事典が完遂するとも思うので、やはり例外的にほぼ総てを引かせて戴く(注記号と改行を省略した)。

    *

 小幡小平次(こはだこへいじ)は本文のように「こはた小平次」、「小はだ小平次」とも表記し、『江戸時代の伝奇小説や歌舞伎の怪談物に登場する歌舞伎役者。幽霊の役で名をあげた後に殺害され、自分を殺した者のもとへ幽霊となって舞い戻ったという。創作上の人物だが、モデルとなった役者が実在したことが知られている』。

 「伝承」の項。『小平次は二代目市川團十郎の時代の江戸の役者だったが、芸が未熟なためになかなか役がつかなかった。小平次の師匠は彼を哀れんで金を握らせ、賄賂を使ってどうにか役を得るようにと言った。ようやく小平次が得たのは、顔が幽霊に似ているとの理由で幽霊役だった。彼はこれを役者人生最後の機会と思い、死人の顔を研究して役作りに努めた。苦労の甲斐あって小平次のつとめる幽霊は評判を呼び、ほかの役はともかくも幽霊だけはうまいということで、「幽霊小平次」と渾名され人気も出始めた。小平次にはお塚という妻がいたが、お塚は愚鈍な小平次に愛想を尽かし、鼓打ちの安達左九郎という男と密通していた。奥州安積郡(現・福島県)への旅興行に出た小平次は、左九郎から釣りに誘われるがままに一緒に安積沼へ行くと、そこで沼に突き落とされて命を落としてしまう。左九郎は、これで邪魔者が消えたとばかり喜んで江戸のお塚のもとへ行くと、そこにはなんと自分が殺したはずの小平次がおり、床に臥せっていた。小平次は死んだ後に幽霊となって江戸へ舞い戻ったのだが、生前あまりにも幽霊を演じることに長けていたために、そこにいる小平次の幽霊は生きていたときの小平次と変わらないものだった。驚きおののく左九郎のもとに、その後も次々に怪異が起きる。左九郎はこれらすべては小平次の亡霊の仕業だと恐れつつ、ついには発狂して死んでしまう。お塚もまた非業の死を遂げた』。

 「考証」の項。山崎美成の「海録」『によると、この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名もこはだ小平次だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという』。『またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている』。

 最後に「小平次の祟り」という項目。『歌舞伎の舞台では、怪談物をやる役者、それも残虐に殺されたり恨みを抱いて死んでいった者の亡霊をつとめる役者は、その亡霊が気を損ねて舞台で悪さをしないように、特に気を遣ってその霊を慰めることで知られている。『東海道四谷怪談』のお岩をつとめる役者は、初日の前と千秋楽の後に必ずお岩の墓に参ったり、また興行中も幕が引くとすぐに帰宅して夜遊びなどはしないといった慣習は、江戸時代の昔から今日にいたるまで少しも変わらない』。『大南北が書いた『彩入御伽艸』や、それを下敷きにした後代の小幡小平次物の芝居の上演にあたっても、それをつとめる役者たちの間では、小平次の話をすると彼が祟って必ず怪事が起こると長く信じられていた。幽霊役はつとめる方も命がけだったのである』。『なお威勢のいい江戸っ子の夏場の決まり文句に「幽霊が怖くってコハダが食えるけぇ!」というものがあったが、これは寿司の小鰭にこの小幡小平次をひっかけたものである』とあって――目からコハダの鱗が落ちる――というオチもつく。

   *

 ここで本話を中心に「こはだ小平次」譚の型を考証してみたい。

 まず感じるのは、本話が前半と後半で論理上の連続した型を最早失っている点である。投げ捨てた花野の小指が漁師の網に掛かったまではよかろう。それがどうしてまた真州(小平次)の手元に戻ってしまうのか、これ、「実録」を称しながら、ちっとも論理的に記していない(私は訳で何とか辻褄を合わせようと敷衍翻案を試みて見たものの、途中で馬鹿らしくなって投げた)。何より特にひどいのは小平次の溺死のシーンで、割注によって、「実は」花野とめおとだった――「実は」三平なる突然出て来たばっかりの男が昔からずっと花野に執心していた――「実は」半六はグルだった――「実は」小平次の死は事故死ではなく殺人だった――「実は」後日露顕してお裁きを受けて仕置きされた――とくるところである。これはもう、本話が既にして浄瑠璃の全般に感染しているトンデモ展開に対する免疫のキャリア(だから割注のようにトンデモ内容を記しても少しも致命的病状を発して物語が死ぬことがなく、寧ろ、勧善懲悪大団円となるのである)化していることを意味している。

 また、この前後の違和感は、実は前半の小平次と後半の彼が、別人のように見えるからでもある。花野の恋慕を頑なに拒絶する清廉な美僧小平次が、美形の役者になった途端に博奕に入れ込み、あっという間に実在した名人市川柏莚から破門され、溺れ死ぬという展開には私には現実味が全く感じられない(早回しの映像を見るように私には寧ろ滑稽でさえある。そこがまた浄瑠璃である訳でもある――尤も、破戒僧の堕落――というコンセプトは、これには、あり得ないが出来たらあって欲しいと我々がどこかで望むところの――背徳的且つ隠微で淫猥な豹変の魅力――が隠れており、それこそがこの話柄の小平次の面白さであるとも言えるかも知れない)。

 そうして誰もが一読、この前半部は道成寺や清玄桜姫物の焼き直しであることに気づく。そうした、前半の古浄瑠璃の型と、後半の犯罪仕立ての当代実録風世話物の型が、軋みを起こして正直、変、なのである(これはしかしやはり浄瑠璃一般の自然態でもある)。

 怪異が最後の最後まで現われないことも特異である。幽霊画では小平次は美形の役者なればこそ、如何にも迫力も糞もない文弱顔で蚊帳や屏風の向こうから覗き込むのであるが、多くのヴァリアントは、妻に姿を見せるだけ(それも妻一人の伝聞型)、最後のポルターガイストや声の出演(これらがまた如何にも浄瑠璃的歌舞伎的演出)だけという、怪談物としては、これ、すこぶるしょぼいと言わざるを得ない。これ、怪談というよりも――美形ではあるが、根性なしのみじめな男の悲惨小説、いやさ、転落の詩集――であり、最後には何か、妙にべたっとした哀れが残るばかりである(いや、それがこの「こはだ小平次」独特の被虐的怪談の魅力かもしれない)。

 今一つの特徴は、その死や殺害がヴァリアントの殆んど総てを通じて常に水(海・沼)に関係している点であろう。そうして、ここには恐らく比較神話学的民俗学的な無意識の深層が隠れていると考えてよい。但し、今それを考察し始めると、この注がエンドレスになりそうなので、まずはここで打ち切りとしたいと思う。最後に一言。根岸自身はこの「実録」を信じてはいなかったのではないかと思われる。もし、相応の真実と考えていたとしれば、割注部の『此事は追て顯れ吟味有て、三平半六ともに、御仕置になりしとなり』という箇所に根岸が反応しないはずはないからである。彼は南町奉行である。そうした事実があるなら、その記録を容易に精査することが出来る立場にあるからである。しかし、彼はそうしたことをした雰囲気は全くない。これはとりもなおさず、彼がこれも結局、作話の類いであると判断した証拠である。

・「讀本」江戸後期の小説の一種。絵を主体とした草双紙に対し、「読むことを主とした本」の意に由来する。寛延・宝暦(一七四八年~一七六四年)頃、上方に興って寛政の改革以後は江戸でも流行を見せ、天保(一八三〇年~一八四四年)頃までブームが続いた。中国の白話小説の影響を受けており、本邦の史実を素材とした伝奇的傾向が強く、勧善懲悪・因果応報などを軸とし、雅俗折衷文体で記されたものが多い。半紙本五、六冊を一編と成し、口絵・挿絵を伴う。作者としては都賀庭鐘・上田秋成・山東京伝・曲亭馬琴などが著名(三省堂「大辞林」に拠った)。

・「淨瑠璃に取組」浄瑠璃の素材としても取り入れられ。ウィキの「小幡小平次」によれば、巷間に伝わる小幡小平次の奇譚が、一つの物語として形を成す最初は、享和三(一八〇三) 年に江戸で出版された山東庵京伝作・北尾重政画の伝奇小説「復讐奇談安積沼」(ふくしゅうきだんあさかのぬま)をその嚆矢とし、次いで文化五(一八〇八)年閏六月に江戸市村座で四代目鶴屋南北作の「彩入御伽艸」(いろえいりおとぎぞうし)が初演されて、『今日に伝わる小幡小平次のあらましはこの』二作品によって決定的なものとなった、とある。根岸がこれを書こうとした、若しくはその元となった風聞の元はまさに、この記載時一年前に演じられた「彩入御伽艸」によるものであったであろうことが推測される。

・「徘諧」底本では「徘」の右に『(俳)』と訂正注する。

・「附合」連歌俳諧に於いて長句(五七五)・短句(七七)を付け合わせること。交互に付け連ねてゆくこと。先に出された句を前句、それに付ける句を付句と呼ぶが、そこでは見立てを変えることが要求され、そうした素材として、この「こはだ小平次」の素材やシーンが使われたことを示す。これはまさにちょっとしたシーンのショットを暗示するだけで、誰もが「こはだ小平次」の話を想起出来た、恐ろしいほどに人口に膾炙していたことを如実に示す好例なのである。

・「鱠しや」底本では「しや」の右に『(炙)』と注する。「膾炙」に同じい。

・「山城國小幡村」現在の京都府宇治市木幡(こわた)。

・「光明寺」底本鈴木氏注には、京都府『綴喜郡宇治田原町岩山』とし、岩波版長谷川氏注も『宇治市隣の宇治田原市岩山。浄土宗』とする(長谷川氏の『宇治田原市』。は宇治田原町の誤りであろう)のであるが、現在、京都府綴喜郡宇治田原町岩山にはそのような寺はない。サイト「納骨堂」の「京都府のお寺一覧」の「綴喜郡」の一覧を見てもそれらしい浄土宗の寺はないのである。一つだけ、気がついたことはある。この宇治田原町岩山から東北東直線五・九キロメートルの地点、山越えをした滋賀県甲賀市信楽町宮尻に、実は浄土宗の光明寺という寺が現存するのである。しかし甲賀郡は古くも近江国であって山城国の現在の宇治田原町岩山に所属していたことはないと思われる。この寺の誤りか? 識者の御教授を乞うものである。

・「怜悧發明」頭の働きが優れており、すこぶる賢いさま。聡明利発。

・「香合」香盒とも書く。香を入れる蓋のついた容器。木地・漆器・陶磁器などがある。香箱。

・「境町」現在の中央区日本橋人形町三丁目。江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋江戸三座の一つ、中村座があった。江戸三座はここと市村座・森田座(後に守田座と改称)。

・「半六」偶然か、後に出る市川柏莚の父初代市川団十郎を舞台上で刺殺したのは役者の生島半六という。

・「浪人」岩波の長谷川氏注に『一般に失業の者をいう』とある。

・「げんぞく」底本では右に『(還俗)』と注する。

・「初代海老藏といゝし市川柏莚」「初代海老藏」は誤り。「柏莚」は初代九蔵、二代目海老蔵同二代目市川團十郎(元禄元年(一六八八)年~宝暦八(一七五八)年)。父(柏莚は長男)であった初代が元禄一七(一七〇四)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺(動機は一説に生島の息子が団十郎から虐待を受けており、生島はそれを恨んでいたとも言われるも真相は不明。ここはウィキの「市川團十郎(初代)」に拠る)されて横死(享年四十五歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。

・「落物」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『荷物』。それで採る。

・「享保初よりなかば迄の事に候由」本話中で、柏莚の登場とともに、実在した小平次の年代が推測出来る数少ない情報源である。享保は,正徳六・享保元(一七一六)年から享保二十一・元文元(一七三六)年までであるから、一七一六年から享保十三(一七二八)年位が半ばとはなる。柏莚の団十郎襲名は元禄一七(一七〇四)年であるが、未だ十七歳であったから、最下限まで引っ張って享保十三(一七二八)年とすると、柏莚満四十歳となる。因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年(根岸満七十二歳)であるから、小平次が生きていたのは八十年以前で、残念ながら、根岸の生まれるちょっと前ということになるようである。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 実在した小幡小平次(こはたこへいじ)の事 

 

 「小幡小平次」と申す話柄は、これ、読本(よもほん)にも綴られ、浄瑠璃や歌舞伎でも取り上げられ、はたまた、俳諧の附け合いなどにまでも、もて囃されて、これ、すこぶる人口に膾炙しておる話であるが、この主人公小幡小平次なる者、これ、歌舞伎役者であった、とは聞いておるものの、それが事実であるかどうかは寡聞にして確認したことがなかった。

 ある時、さる御仁が、実在した小幡小平次なる人物につき、その事跡を、細かく語り聴かせてくれたので、以下に記載しておく。

   *

 この小平次は山城国小幡(こはた)村の出生(しゅうしょう)にして、幼年に於いて相い次いで父母に先立たれ、天涯孤独となって頼るべき者もなかったため、その小幡村の村長(むらおさ)などが世話致いて養育していたが、その村長より、

「……坊(ぼん)……かくも数奇なる半生……ひたすらに両親が追福(ついふく)をせんがため……出家致すが、これ、身のためじゃて、のぅ。……」

と諭されたに従い、小幡村に御座った浄土宗の光明寺という寺の御弟子となり、出家して名を真州(しんしゅう)と改めた。

 彼の怜悧発明(れいりはつめい)なるは、これ、謂いようもなきほどであって、和尚もこの真州を殊の外愛し、暫く親しく己れの随身(ずいじん)として遣っていたが、

「……見聞を広めての学問は申すまでもなく、この上、さらに諸国を遍歴致しまして一人前の出家としての行脚をも成しとう存じますれば! 何卒!……」

と切(せち)に乞い願(ねご)うたによって、師は金五両を与え、その願いに任せた。 

 

 江戸表へと出て、深川辺りに在所小幡村出身の知れる者があったので、これを頼りとしてしばらくの間、ここへ腰を落ち着けた。

 すると、僧なれば、ちょっとした人より、呪(まじな)いやら、祈禱などを頼まれてこなしいるうち、これがまた、病いは全快、憑き物退散、悪霊調伏――と――はなはだ奇瑞のある美僧――と、ここかしこより、引きも切らず招きのあって、後には、これ、彼のための別なお店(たな)をも借り、そこへまた、信仰する者がひっきりになしに参って、その御礼賽銭などの金子をも得、相応に小金を貯えるほどにまではなった。

 

 さてここに、深川茶屋の女子(をなご)で花野(はなの)と申す妓女があって、たまたま、ちょっとした病いを患(わづろ)うた折り、人の紹介を以って、この真州に加持祈禱を致いてもらったところが、この真州の美僧なるを見初め、深く執心して、果ては僧たるにも拘わらず、色仕掛けで口説(くど)いたりし始めたという。

 ところが真州は、

「……我ら、出家の身なれば。……かかることは、これ、思いもよらぬこと!……」

と、きっぱり拒んでいたという。

 ところが、ある夜(よ)のこと、

 独り真州が勤行して御座った庵(いおり)へ、花野の来って、

「……妾(わらわ)のこの願い……叶えて下さらぬとならば……妾――死するより外――これ、ございませぬ!……妾を!……殺して下さりませ!……さあ!……どう、なさいますッ?!」

と、切(せち)に歎いて、真州が元へと、にじり寄って参った。

 そうして、徐ろに、懐より一つの香合(こうごう)をとり出だすと、

「……妾(わらわ)の覚悟! ――これ――ご覧なされませ!……」

と真州の手へ渡した。

 されば真州が、これを開いて見る……と……

……そこには……

……花野の手の……

……小指の一本が……

……これ……惜しげもなく切られて……

……入れおいてあった。…………

 真州、これを見るや、大いに驚き、

「……し、出家の身なれば……い、いかに、おっしゃられても……こ、これ……あくまで邪淫へ陥るの心は、これ、御座ない!……さりながら……あなたが……さほどにまで、これ、仰せにならるるとなれば――明日の夜(よ)――また、いらっしゃらるるがよい。……我らとくと、このこと、考え、きっと、悪いようには致さぬ、はっきりとした、お答えを――これ――差し上げましょう!……」

と、諭し、その日は花野、これに従って素直に帰って行った。

 それを見送った真州は、

『……かくなっては、最早、万事休す……』

と、その夜(よ)のうちに、手元の調度類などをとり纏め、路金の支度なども急ぎ整えた上、深川を秘かに立ち退いた。

 よっぴいて走りに走り、夜(よる)も深更となってより、ようよう、神奈川の宿まで何とか辿り着いた。

 とある旅籠に寄って、夜分ながらと一宿を乞うたところが、そこの亭主、これ、真州がことを見覚えておる人であったによって、

「……お前さんは……あの、深川の坊(ぼう)さんじゃ、ござんせんか?! 御坊……これ、何がどうして……こんな夜更けに、そんな格好で、こんなところまで、息急き切って参られた?」

と訊ねたによって、

「……実は……しかじかのことの、これ、あって……」

と、あらましを正直に語ったところ、

「――相い分かりやした!……先(せん)の病いの折りは、よう祈禱して下すったによって、今もこうして元気にしておりやすで!……さ、さっ! まずは、ゆるりと逗留なさいますがよろしい!」

と歓待してくれ、しばらくの間、ここへ匿わるることと相い成り、奇特なことに、この亭主が、これ、いろいろと日々の世話まで致いてくるることとなった。 

 

 さて、かの香合であるが、これ、如何ともしようのなければ、深川を夜逃げ致いた折りには、まだ懐に入れおいたままにあったれど、夜道をひた走るうち、懐で転がる香合の動きにつれ、その中身――花野の小指一つ――を、はたと思い出し、

『……こ、これぞ!……い、如何にも穢らわしき、もの!……』

と気づいたによって、途中の川っ端にて、ぶうんと、流れへ投げ捨てて御座った。

 ところが、これ、その朝方、下流の河口にて漁師の引いておった網に掛かる。

 漁師の開き見、人の指の入って御座ったれば、吃驚仰天、川中へ投げんとしたものの、ふっと見上げたその香合の底に、これ、

――シンシフさま花の――

と記しあるを見、思い止まって御座ったと申す。

 委細は略せど、この記された「シンシフ」がきっかけとなり、この香合、廻り回って、かの旅籠におったる真州が手元へと、これまた、まっこと、不思議な因縁の如(ごと)、舞い戻って参ったと申す。

 されば、亭主、この小指の戻れる一部始終を聴き、

「……かく執心の残れる香合なれば……これ、焼き捨てて手厚く指を弔(とむろ)うてやりなさるが、よろしかろう。」

と申したのに従い、読経供養の上、旅籠の傍の堤の脇にあった、塚の中にこれを埋(う)めた。

 真州は、

「……これにて、最早、心配、御座るまい。」

と思うて御座った由。 

 

 さて、ある日のこと、大山へ参詣する者が、この真州のおる旅籠に泊った。

 その中の一人が、真州を見、

「……お前さん! どうして?! こんなところにおらるるんじゃ?!……何?……花野?……ああ! あの! あんたにぞっこんだったコレか?……あの花野のはのぅ……あんたがおらずなってから、これ、直きに気鬱となって、そのまま乱心、親方の元から足抜けしよって……今は、どこへ行ったもんやら……もう永いこと、行方知れずの、まんまじゃ。……何?……小指をもろうた?!……げぇえっ!……へっ! そうか!……そんなこと、あったんかい!……さればよ! 最早、江戸表へ立ち帰っても、これ、平気の平左じゃ! おう! 思いついたが吉日じゃ! ほれ! あんたの知っとる熊公も八も一緒じゃ! 皆と一緒に、帰(けえ)ろうじゃねえか!」

と、他の連中も寄ってたかって、頻りに慫慂したによって、真州、彼らとともに江戸へと戻った。 

 

 深川の庵は既になく、在所の知り合いにも顔向けのし難かったによって、かの一緒に戻った連中の中のある者が、境町辺りの半六と申す者を紹介してくれたによって、取り敢えずは、そこに転がり込んだ。

 数日の経った頃、

「――かくなる浪人暮し――生計(たつき)を立つるもののないと申すも、これ、そのままにては済むまいぞ。……」

と決して、芝居の中村座なんどの直近かの住まいで御座ったによって、半六なる男も、そうした仕事に携わって御座ったれば、その紹介もあって、芝居茶屋の手伝い、また、中村座楽屋の下働きなどんを成すようになって御座った。

 ある日のこと、半六が、

「……おめえさん。……どうも、そのつるんつるんの出家っちゅうんも、ここではのぅ。……如何(いかが)なもんかのぅ?……」

と申したによって、真州も、何やらん、宙ぶらりんの数ヶ月のことを思うと、半六の言(げん)に肯んじたと申す。

 かくして半六の添え人となって還俗させ、半六同道の上、中村座楽屋へと顔見世興行と洒落たところ、何人もの役者連が、

「……つるっ禿げの金柑頭の時、……まあ、美しい坊さんじゃぐらいにしか思わなんだけど……」

「……これ……なかなかに! ええ顔じゃが!」

「……お前さん! お前さんも、役者におなりぃな!」

「……ほんまに! それがええで!」

と、しきりに煽ったによって、何だか、彼もそう言われてみると、これ、気分のほんわかと致いて参ったによって、遂には役者として立つこととなった。

 それも、彼を一目見るなり、

「――よっしゃ! 弟子にしたろう!」

と、二つ返事で引き受けてくれたのが、これ、何と!

――かの二代目海老蔵を称した市川柏莚(はくえん)

かの御弟子となって――さても故郷の――小幡(こはた)――を名乗らんとも思うたが、そのままと申すも、これ、土地神さまに畏れ多きことと、――小和田(こわた)小平次――と称することと相い成って御座ったと申す。

 これがまた!

――男振りは抜群――

――芸もこれ上々――

で御座ったれば、瞬く間に、番付にても、

――中よりは上の役者――

と評判となって御座った。

 ところが、永き禁欲と修行から解放された彼は、これ、異様なまでに賭博に入れ込むようになった。

 ある時、こともあろうに、中村座楽屋内(うち)にて、こっそり禁制の大博奕(ばくち)を興行致いて、これがまたばれてしまい、師柏莚からは破門を申し渡されてしまう。 

 

 最早、江戸にては役者として立つこともならずなったによって、詮方なく、田舎廻りの芝居小屋へ、半六を連れとしてあちこち、まあ、所謂、ドサ回りをして暮らす、という仕儀と相い成った。 

 

 さて、そんなある折りのことで御座った。

 雨天の続いて、永いこと――既にその頃には、小屋掛けと申しても半ば露天の乞食芝居ぐらいしか役の依頼の回ってこなんだと申す――役者の仕事ものぅ、休んでおったある日のこと、かの半六と、以前より知れる、見世物師を渡世として御座った穴熊三平(あなぐまさんぺい)と申す男と連れ立って、海釣りに出でた。

 ところが――

――そこで

――不慮の事故のあって

――小平次

――これ

――海へ落ちて

――水死致いた

……というのである。

   ――――――

 *話者割注

 実はこれには、ここまででは語っていない別な事実と事情がある。

 実は、小平次がまだ境町で役者として評判をとっていた頃のこと、かの花野が、境町に小平次と申す、かの思い人真州と瓜二つの人物がいるということを噂に聴き知って、訪ねて参り、既に還俗もなし、指の戻って参ったという奇瑞もあったればこそ、晴れて小平次と花野は、これ、夫婦(めおと)となっていた、のである。

 ところが、その頃から丁度、知り合いとなっておった、この怪しげな三平なる人物――これが実は、花野が深川芸者であった頃より、花野に執心していた男であった。

 そうして、金で籠絡した半六と申し合わせ、事故に見せかけて――小平次を海へ突き落として殺した――というのが実に真相であったのである。

 この謀略については、おって犯行が露顕致し、奉行所にて吟味のあって、三平・半六ともに御仕置きを受けたと伝えている。

   ――――――

 かくて三平と半六は、そのまま江戸へと戻って、翌日、陽の高くなってから、小平次の留守宅をやおら訪ねた。

 すると、妻の花野が出て参り、

「……なじょうして、かくも遅うにお帰りになられましたんや?……小平(こへ)さまは、昨日の夜前(よるまえ)、早々に帰って参りましたえ?」

と申したによって、両人は吃驚仰天、はなはだ不審気(げ)なる顔つきのまま、

「……え、えッツ?……小平次は……その……昨日……海へ落ちての……命を落としてしもうたんでぇ……我ら、一緒にいながら……申し訳なきことと相い成ってしもうたによっての……かくも……申し出に参ること……これ、し難(がと)ぅ御座ったれば……のぅ……」

と告げたところが、花野、それを一向に信じようとせず、

「あんたら! 何を言うとるんです?! 小平次(こへ)さまは、そこに、おりますよ!……」

と家内(いえうち)を指差した。

 両人、またしても驚き、恐る恐る、奥の一間(ひとま)を覗いて見た……ところが……

――いつもの小平次の

――旅装束と荷物なんどが

――これ

――確かにおいてある。……

……ところが……

……そこに小平次の姿は

……なかった。…………

   *

*根岸附記

 その後(のち)も、この小平次に就いては、彼のその家や、彼の役者として出たことのある芝居小屋などに於いて、いろいろと怪しきことの、これ、たびたび起ったという流言飛語の類いが、これ無数にあると聴いたが、それを含め、以上の事実――と申すところの内容――以外には、私は直接に聴取しておらず、また、検証もしておらぬによって、ここには記さずにおくこととする。

 何でも、享保初めより半ばまでの間の出来事で御座った、とは聞いておる。

   以上。

 

尾形龜之助 「美しい街」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    美しい街

 

         尾形龜之助

 

街よ

私はお前が好きなのだ

お前と口ひとつきかなかつたやうなもの足りなさを感じて歸るのは實にいやなのだ

妙に街に居にくくなつていそいで電車に飛び乘るやうなことは堪へられなくさびしい

街よ

私はお前の電燈の花が一つ欲しい

 

Utukusimati

 

 美丽城市


         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

城市,你呀!……

我喜欢你!

我不愿意拥有像和你完全没说话似的寂寞感而回家

如果我总觉得不舒服而急忙跳上电车那会十分凄凉

城市,你呀!……

我想要你的名为电灯的一朵花

 



              
矢口七十七/

尾形龜之助 「旅に出たい」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    旅に出たい

 

         尾形龜之助

 

夜る

 

靑いりんごが一つ

テーブルの上にのつてゐる

 

はつきりとしたかげとならんで

利口な啞のやうに默りこんでゐる

 

そして

この靑いりんごは私の大きい足の前に

二十五位のやせた未婚の女のやうにやさしい

 

 

Tabinidetai

 
 
    
想去旅行


         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

夜里

 

桌子上

放着一个绿苹果

 

和它的明显影子并排

像聪明的哑巴一样沉默无言

 

于是

这个绿苹果在我大脚前边

像一个二十五岁瘦瘦的未婚女一样温顺

 

 


         
矢口七十七/

2015/01/22

40年前の僕の恋人の送ってくれた雨晴の海岸

40年前の僕の恋人が今日送ってくれた雨晴海岸の写真に、僕は何か異様にしみじみとしたのであった……


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やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅳ) 頁4~頁19

ここ以降では、他のヴァリアントとの詳細比較は今は行わないこととする。そうしないと「第三號册子」の全電子化がずるずると延びるばかりとなるからである。なるべく早く、そこまでは辿り着きたいのである。そこに初めて、本当の「澄江堂遺珠」の夢魔のスタート・ラインが引けると僕は考えているからである――

《頁4》

紅蓮と見れば炎なり

炎と見れば紅蓮なり

安養淨土は何處ならむ

救はせ給へ技藝天

 

せんなき

 

羽織の胸を抱きつつ

 

町はほのけ

かそ

 

窓にな

障子さ

 

《頁5》

鳳陽丸 18 7A.M.

兵陽丸 19 8A.M.

南陽丸 200

 

[やぶちゃん注:「鳳陽」「長江游記」の「一 蕪湖」(Wúhú 芥川は「ウウフウ」と振る。長江中流に位置する港湾都市。現在の安徽省南東部の蕪湖市蕪湖県)に『西村は私を招く爲に、何度も上海へ手紙を出してゐる。殊に蕪湖へ着いた夜なぞはわざわざ迎への小蒸氣(こじようき)を出したり、歡迎の宴(えん)を催したり、いろいろ深切を盡してくれた。(しかもわたしの乘つた鳳陽丸は浦口(プウカオ)を發するのが遲かつた爲に、かう云ふ彼の心盡しも悉(ことごとく)水泡に歸したのである。)』とあり(「西村」は西村貞吉で芥川の府立三中時代の同級生。東京外国語学校(現在の東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川が中国から帰還した直後の大正一〇(一九二一)年九月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている)、同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期―大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号十五)。その資料によれば、大正四(一九一五)年に貨物船「鳳陽丸」( FENG YANG MARU)として進水、船客 は特一等十六名・一等十八名・特二等十名・二等六十名・三等二百名。昭一四(一九三九)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍したが、昭一九(一九四四)年八月三十一日に揚子江の石灰密に於いて空爆を受けて沈没したとある。この時間は出船時刻らしいが、実際と合わせて見るても、よく分からない。現在の最新の年譜(岩波版新全集の宮坂覺氏の年譜)上では大正一〇(一九二一)年五月十七日の夜に鳳陽丸で浦口(pŭkŏu 現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、一九六八年に竣工した南京長江大橋が出来るまでは、南京への渡し場・長江の港町として栄えた)を出発、蕪湖(ウーフー)には十九日夜に到着している。もしかすると、この時刻は蕪湖への到着時刻かも知れない。(なお、「長江游記」の「一 蕪湖」の上記の謂いから、実際には芥川はこの前日(五月十八日)の夕刻に蕪湖に到着する予定であったのではないかと私は思っている)。

「兵陽丸」不詳。

「南陽丸」「長江游記」の「二 溯江」の冒頭には、『私は溯江の汽船へ三艘乘つた。上海(シヤンハイ)から蕪湖(ウウフウ)までは鳳陽丸、蕪湖から九江(キウキヤン)までは南陽丸、九江から漢口(ハンカオ)までは大安丸である』とある。同名の船がやはり長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号百五十五)。その資料によれば、明治四〇(一九〇七)年に「南陽丸」(NANYO MARU)として進水、船客は特一等が十六室・一等二十室・二等四十六室・三等二百五十二室、明治四〇(一九〇七)年に日清汽船(東京)に移籍後に南陽丸「NAN YANG MARU」と改名している。昭和一二(一九三七)年、『上海の浦東水道(Putong Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とある。「長江游記」にはこの船で同船となった日本画家竹内栖鳳や同南陽丸船長らとも親しく交流してさまが描かれてある。蕪湖の出船は二十二日で、この日のうちに九江に到着している。]

 

紅蓮と見れば炎なり

炎と見れば紅蓮なり

常寂光安養淨土は何處やらむ

救はせ給へ技藝天

 

[やぶちゃん注:《4頁》冒頭で芥川龍之介が詩篇全体を抹消したものが、ここで改めて芥川龍之介自身によって復元されて蘇生している。

「常寂光」常寂光土と書こうとして抹消したものである。「じやうじやくくわうどじょう(じゃっこうど)」は、主に天台宗で説く四土(しど)の一つで、法身(ほっしん)の住んでいる浄土。真理そのものを世界としてとらえた一切の浄土の根源的な絶対世界。寂光土・寂光浄土。因みに、「法身」は仏の三身(さんじん)の一つで永遠不滅の真理そのもの。理法としての仏。法性身(ほっしょうしん)。をいう。「三身」は他に報身(ほうじん:仏性のもつ属性や働きの様態、或いは修行して成仏する姿を指す。)と応身(おうじん:現世に於いて悟って人々の前に顕現した具体な釈迦の姿を指す。)。

「安養淨土」「あんやうじやうど」(連声で「あんにょうじょうど」と発音するのが一般的)阿弥陀仏の極楽浄土のこと。心を安んじて身を養うことが出来るという謂い。]

 

《頁6》

ひるの曇りにしんしんと

石菖の葉はむらだてり

ひるの曇りにしんしんと

痛む心は堪へがたし

 

かそかに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

こよひはきみも冷やかに

ひとりねよとぞ祈るなる

 

梨花を盛る一村の風景暗し

 

[やぶちゃん注:ここに編者により、以上の『一行は天地逆』に書かれてある旨の記載がある。]

 

《頁7》

人を殺せどなほ飽かぬ

妬み心も今ぞ知る

 

幽かに雪のつもる夜は

 

 

こよひはきみもひややかに

ひとり寐よとぞいのるなる

 

かそかに雪のつもる夜は

ココアココアの碗もさめやすし

こよひはきみもひややかに

ひとりねよとぞいのるなる

 

[やぶちゃん注:ここに編者により、以下の八連分が、同頁の欄外に天地逆で記されてある旨の記載がある。]

 

薊まばらし

 

薊花まばら

アカシアの花踏みしつとりと黄な

 

薊花すぎしつとり

 

アカシアの落ち花しつとりと黄な瓦踏む

 

薊花なき

 

薊しつとりと黄な

 

穗麥うなだれ

 

アカシアの花ともるゝしつとり

 

《頁8》

かそかに雪のつもる夜は

ココアの湯氣もさめやすし

きみもこよひは冷やかに

ひとりねよとぞ祈るなる

 

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

きみ 君もこよひ

こよひは君も冷やかに

獨りねよとぞ祈るなる

 

 

[やぶちゃん注:現在知られる関連詩篇に「呉」の字を含む詩篇はない。この「呉」は詩篇の一部ではないメモの可能性もある。

 次の行の前後に編者により、以下の一行とカット(描画図不詳)が欄外にある旨の記載がある。]

 

竹 竹 水黑 請 戞玉音

 

[やぶちゃん注:「戞」は音「カツ」で、「戛」の俗字。動詞としては打つ・軽く叩く。また、しばし見かける熟語には「戛戛」があって、これは固い物ものが触れ合う際のオノマトペイアである。下の抹消字の「竹」のそれとしては相応しい。]

 

《頁9》

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

今宵は きみひとも冷やかに

ひとり寐よとぞ祈るなる

雲は谷間に沈みつつ

森も音

 

 

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

こよひはひとも冷やかに

ひとり寐よとぞ祈るなる

 

[やぶちゃん注:ここに編者により『カットあり』(描画図不詳)と注する。]

 

識東披狂醉處

至今泉聲

 

[やぶちゃん注:「欲識東坡狂醉處」は「識らんと欲す 東坡狂醉の處」、「至今泉聲」は「至今(しこん) 泉の聲」(今なお、往時より湧き出ずる泉の音が聴こえる)か。龍之介が訪ねた蘇東坡の旧跡としては西湖があり、「江南游記 六 西湖(一)」「江南游記 九 西湖(四)」などに蘇東坡の名が出る。特に前者の叙述には、この「■4 推定「第三號册子」の詩篇に登場する「玫瑰(メイクイ)」の茶を飲むシーンや「畫舫」なども登場する。

 ここに編者により『以下、欄外』と注した後、次の行の後に『欄外にカットあり』(描画図不詳)と注する。]

 

窮巷賣

 

[やぶちゃん注:このたった三文字であるが、これは実は芥川龍之介自作の漢詩の冒頭である。以下、私の芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈(通し番号(二十四)の七絶)から引く。

   *

 

窮巷賣文偏寂寞

寒厨缺酒自淸修

拈毫窓外西風晩

欲寫胸中落木秋

〇やぶちゃん訓読

 窮巷 文を賣りて 偏へに寂寞(せきばく)

 寒厨(かんちゆう) 酒を缺きて 自(おのづ)から淸修(せいしう)

 毫(がう)を拈(と)る 窓外 西風の晩

 寫(うつ)さんと欲す 胸中落木の秋

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。丁度この頃、龍之介は上野の小料理屋清凌亭で仲居をしていた田島稲子(後の作家佐田稲子)と出逢って親交を結んでいる(自死の直前には自殺未遂経験のあった彼女に自殺決行当時の心境を問うている)。

大正九(一九二〇)年五月十一日附與謝野晶子宛(岩波版旧全集書簡番号七一五)

に所載する。詩の前に、鉄幹が「詩を作られる事を知」ったのは「愉快です」とあって(この「詩」とは漢詩のことと思われる)、

この頃人の書畫帖に下手な畫を描いた上同じく下手な詩を題しました景物に御らんに入れます

と書いて本詩を掲げている。「景物」とは、場に興を添えるもの、珍しい芸の意。本詩を画賛と記しているが、当該の画と思われるものは、一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したことがある。産經新聞社の同展解説書に載る「1-33」の「落木図」がそれである(但し、写真でモノクロームであるから、実物は現存しない可能性がある)。その解説には、

一九二〇(大正九)年晩秋、小穴隆一の実家にて游心帖に描いたもの。冬枯れの木も、龍之介が好んで描いたものの一つ。しかし、この画を描いた際の龍之介は、落木図を見せたかったのではなく、実はできたての七言絶句を示したかったのであろうといわれる。この七絶を、小穴は『黄雀風』の裏表紙に入れようとしたが、龍之介に断られている。

とある(晩秋とあるのが引っ掛かる。芥川はこれ以前に同様な画賛を誰かに贈っているのかも知れない。その礼節から大正一三(一九二四)年七月刊行の作品集「黄雀風」への装幀を拒絶したともとれる)。当該図版で確認すると、詩は冒頭に二行書き、

「缺」は「欠」

で、中央にくねった枯木の絵を配した後に(枯葉を数枚各所の枝先にぶら下げ、三葉が地面に散ったものであるが、御世辞にも上手い絵とは私は思わない)、

       庚申晩秋

         我鬼山人墨戲

と記す。

 書簡の文面は如何にも卑小な謙遜をしているが、未だ知り合って間もない天下の名歌人晶子(当時満四十二歳。鷺年譜によれば、龍之介が晶子の歌会に出て親しく接するようになったのは大正八(一九一九)年末頃と思われる)へ示すというのは、本詩への龍之介の自信の在りようが見て取れる。

「窮巷」「陋巷」と同じい。狭い路地。貧家の比喩。

「寒厨」寒々とした貧乏人の厨(くりや)。同じく貧家の比喩。

「淸修」仏教や道教で、人と交わらずにたった独りで瞑想修行することを指す。

「毫を拈る」筆を執る。]

[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:承句「修xiu1」と結句「秋qiu1」が脚韻を踏む。起承句では、実生活のことをあれこれ述べ立てているが、転結句では急速に描写の対象が深化、抽象化、純化していく。そして、生活臭を完全に去った結句で、風景に心を語らせる。よくある手法だなどと侮ってはいけない。転句と結句の作り方には、特筆すべきものがあると思う。この詩人、やはり只者ではない。転句、読者の目は作者によって窓外に導かれる。西風が吹く肌寒い晩秋の淋しい夜だ。もう真っ暗で、戸外は物の形も分からない。ところが結句、外の暗闇にあった読者の意識は、一気に心の中に引き戻される。その視線の振らせ方が絶妙だ。ほら見なさい、と遠くを指差しておきながら、実は私が見せたいのは私の(あなたの)心の中なのですよ、と告白される。不意を衝かれた読者は、ただ口を噤むしかない。そして振られた反動で、心のより深いところに一気に下りていき、闇をじっと見つめさせられる。その暗黒の風の中に、全ての葉を吹き落とされた木が一本、孤独に佇立しているのが見える。そういう意味で、「落木秋luo4mu4qiu1」が、この作品の核心とも言うべき存在だろう。この三字がなければ、全二十八字の詩世界は瓦解する。読者の心は最後にここに辿り着き、そこではじめて詩人の(いや、自分自身の)魂を凝視させられる。ところで、なぜ“落葉秋”と言わないのか。葉が落ちるのだから、その方が矛盾がないではないか。これは愚問を失礼。もう落ち葉のイメージさえ許されないくらいの淋しさなのだ。そして木という象形文字。画数の少ないこの字にしてはじめて、葉を全部落した晩秋の樹木の姿が、そして孤独な心の佇まいが、立ち現れてくる。いや、そして何よりも、“落葉秋”では、この詩で最も大切な、恐ろしいほどの寂寥感、“凄さ”が消えてしまうのだ。

 

――売文に勤しんでも金にならず、こうやってさびしい生活を続けるばかり。酒を買うにも事欠き、厨房には蓄えもない。西風が物寂しく窓を鳴らす夜、戸外の暗闇には何も見えない。しかし、目を閉じて見つめる……そこには見える……。やはり、描かずにはいられない。心の暗闇に佇立する、ぞっとするほど淋しい、この晩秋の木立を……この私というものを――

 

この、「ぞっとするほど」の「淋しさ」とは、西行の和歌『ふるはたのそばの立木にゐる鳩の友呼ぶこゑのすごき夕暮』にいう、「凄」さなのである。]

   *

 この漢詩は中国行の凡そ一年前の作であるが、芥川龍之介の当時の心境を知り、ひいては本詩篇群の字背を読む上でも、極めて貴重な一首であると私は思う。]

 

 

《頁10》

(しらべかなしき蛇皮線に

(小翠花(シヤウスヰホア)はうたひけり

(耳環は耳にゆらげども

(きみに似たるを如何にせむ

(何かは君にかうも似し

 

[やぶちゃん注:ここに編者により、『以上五行、上方に印あり』とある。「澄江堂遺珠」に準ずるならば先に示したような、巨大なスラーのようなものか? 一応、「(」を附しておいた。]

 

しらべかなしき蛇皮線に

小翠花はうたひけり

異國をめける すがたは

きみに似たるを如何にせむ

 

忘れがたしやこの心

晝はいきるる草中に

大石象はそびへけり

 

[やぶちゃん注:「大石象」中国の墳墓や廟のエントランスの両側にしばしば見られる石像の象である。]

 

《頁11》

かそかにゆきのつもるよは

 

こよひばかりはひややかに

ひとりいぬ

 

入日の空を仰ぎつつ

何かはふともくごもりし

せんすべ

消えし言葉は如何なりし

 

運河むるる上る鯉魚の群あまた

波もさざらに上るとき

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは

 

《頁12》

「思ふはとほき人の上」

船のサロンにこのゆうべただひとり

玫瑰の茶を啜りつつ

       寂しさは

ふとつぶやきし

       人の上

 

[やぶちゃん注:「玫瑰」音は「まいくわい(まいかい)」訓じて「はまなす」と読むが、ここでの並びから見ても歌柄は間違いなく、芥川の中国行の際のものであり、その場合、寧ろ、音「マイクワイ(マイカイ)」或いは中国音を音写した「メイクイ」で読むべきである(先に注した通り、江南游記 六 西湖(一)を参照されたい)。中国原産のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa は、あちらでは普通に花を乾燥させて茶や酒の香料とする。中国音「méigui」。]

 

たどきも知らずわが來れば

ひがしは暗き町ぞらに

怪しき虹ぞそびえたる

 

かすかに

幽かに雪の

「思ふはとほきひとの上」

畫舫昔めきたる竹むらに

 

《頁13》

Art

 

心ふたつにまどひつつ

夕立すぎし須田町に

たどきもしらずわが來れ

怪しき

 

[やぶちゃん注:「須田町」東京府神田区須田町(現在の東京都千代田区神田須田町)。当時は市電の一大ターミナルで、「須田町」駅と「万世橋」駅との乗換え地点として繁華街を形成していた。万世橋近くにあった西洋料理店「ミカド」は多くの文士が好んで使ったことで知られる。大正八(一九一九)年六月十日、芥川龍之介は、このミカドで開かれた岩野泡鳴を囲む文学サロン「十日会」の席上――龍之介のファム・ファータル――歌人秀しげ子に初めて逢った。この一篇と次の一篇は初行の「心ふたつにまどひつつ」から見ると、その時の龍之介の不倫へと傾斜する/した意識の表出とも読める。少なくともしげ子との関係を原風景とするものであることは間違いない。私のマニアックな評釈附の芥川龍之介我鬼窟日錄の同日以降を参照されたい。]

 

心ふたつにまどひつつ

わが

夕立すぎし須田町に

怪しき虹ぞかかりたる

 

《頁14》

幽かに雪のつもる夜は

 

かかるゆうべはひややかに

ひとり寐ぬべきひとならばねよとぞ思ふなる

 

この河に河豚はのぼる日のまひるきみがつままぐたより讀みけり

 

[やぶちゃん注:「河豚」は「海豚」の誤字であろう。クジラ目ハクジラ亜目ヨウスコウカワイルカ科ヨウスコウカワイルカ Lipotes vexillifer である。現在、国際自然保護連合 (IUCN)のレッドリストでは、絶滅危惧IA類であるが、私は残念ながら最早、絶滅してしまっていると思う。

「まぐ」は正しくは「まく」、「枕く」で「枕を共にする・共寝する・妻となる」の謂い。但し、龍之介はこれに、性交渉の意を強く含んだ「まぐはふ」のニュアンスを附加していると考えてよい。それはこれが詠まれた相手によるものである。この「きみ」というのは間違いなく、この中国旅行中に結婚した歌人吉井勇のことと思われる。大正一〇(一九二一)年五月三十日附の吉井勇宛の長沙からの芥川龍之介書簡(絵葉書)が残るが(岩波版旧書簡番号九〇六)、そこに、「湖南長沙 我鬼」と署名した、

河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり

という一首が載るからである(この「河豚」も「海豚」の龍之介の誤字)。吉井勇は情痴歌集として騒がれた明治四三(一九一〇)年刊の吉井勇の名歌集「酒ほがひ」や、花街の放蕩を詠んだ大正五(一九一六)年の「東京紅燈集」など、きわどい艶麗風で知られ、芥川龍之介も一高時代に傾倒した一時期があったのである。なお、「芥川龍之介新辞典」(翰林書房)などを見ると、吉井と芥川の直接の接触はなかったとあるが、かくも親しげに、かくもきわどい一首を添えた絵葉書を、全く面識のない五歳先輩の文壇の有名歌人に出すほど龍之介が厚顔であったとは、私には思われない(但し、書簡類で吉井勇宛はこの一枚のみで、しかも原本ではなく昭和四(一九二九)年二月十七日発行の『週刊朝日』からの転載である)。記録や資料として残っていないだけで、龍之介と勇は直接の面識が何度かあったに違いなく、少なくとも作品集の贈答などは頻繁にあったものと考えた方が自然である。因みに、この時吉井勇が結婚した相手は、後の昭和八(一九三三)年に発生した上流婦人界の性的スキャンダルである不良華族事件の中心人物柳原徳子(歌人柳原白蓮の兄伯爵柳原義光の次女)であった(但し、結婚後も勇の放蕩が止まなかったこともこのスキャンダルの大きな要因であった。勇は事件後に離婚し、料亭の看板美人と謳われていた水商売の女性と再婚している)。

 

雲は幽かにきえゆけり

みれん

 

《頁15》

夕づく牧の水明り

花もつ草はゆらぎつつ

幽かに雲も消ゆるこそ

みれんの

 

水は明るき牧のへも

花もつ草のさゆらぎも

わすれがたきをいかにせむ

みれんはう

みれんは牧の水明り

花もつ草の

 

《頁16》

別るゝや

そらをよこぎる玉蟲の

かなしきものは夕明り

空にながるる玉蟲

 

ひんがしの空は朝

ひんがしゆ風吹きぬ

 



 

みれんは牧の水明り

消あるは花もつ草の

 

晝は音なきつばな原

まどかに春の月

 

[やぶちゃん注:「つばな」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ(茅萱)Imperata cylindrica のこと。日当たりのよい空き地に一面に生え、細い葉を立てた群落を作って初夏に細長い円柱形の白い綿状の穂を出す。グーグル画像検索「チガヤ。]

 

《頁17》

渚はしろながき水明り

春の雜木の枝かげに

ほのめき

 

かかるゆうべはひややかに

ひとりねよいねよと祈るなりりつつ

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

かかるゆうべはただひとり

幽かにいねむきみならば

いくたびきみもひややかに

ひとりいねよと祈りけむ

 

《頁18》

みれんは牧の水明り

さゆらぎやすき草の花

あるは

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

おもふは

幽かにいねむきみならば

 

ひとりいぬべききみならば

幽かにきみもいねよかし

 

《頁19》[やぶちゃん注:ここに編者により、本頁が総て横書きである旨の記載がある。)

Kunst

1)  Kunst Wesen Ausdruck ナリ單ナル Liebe ニ非ズ。

2)  Ausdruck ハ即 Eindruck ナリ、

3)  Ausdruck Wesen トスル Kunst Technique ナカルベカラズ( Cézanne ノ例、

4)  Technique ハ手段ナリ Ausdruck ハ目的ナリ本末顚倒ノ弊アルベカラズ

 

[やぶちゃん注:本頁は冒頭の「1」の「Wesen ハ」が抜けている他は、ほぼ完全に「澄江堂遺珠」に転載され、佐藤春夫の丁寧な邦訳が下に附されてある。使用されている語は概ねドイツ語であるが、「Technique」の綴りはフランス語である。ドイツ語は「Technik」。フランス語経由で入った外来語だからであろうか。但し、フランス語「Technique」自体もフランス語にとって外来語で、もとはギリシャ語の「techne」(テクネー)で「technique」は「techne」の形容詞形「technikos」(テクニコス)が直接の語源である。参照した独協医科大学ドイツ語教室のサイト内のこちらのエッセイによれば、ギリシャ語の「technikos」は一旦、「technicus」(テクニクス)というラテン語形に変化し、それがフランス語への橋渡しとなったらしい。則ち、「technikos」(ギ)→「technicus」(ラ)→「technique」(仏)→「Technik」(独)や「technique」(英)となった旨の記載がある。英語学が専門の芥川にとってはフランス語として知られた違和感のない綴りだったのであろう。]

さっきツイッターで呟いたこと――

最近、どうも時差が逆転した地域の人々のツイートする絵画や写真の方が、日本人のそれらよりも遙かに僕の琴線に触れるということを知った。
昼間はピンときてリツイートしたくなるアートが格段に減少する。

但し、思うにこれは、日本の殆んどのサイトが、著作権の切れた絵画を撮った平面画像に性懲りもなく©を主張していることと無縁ではないと思う。
言わずもがなだが、文化庁はそんなものに著作権は発生しないとちゃんと言っているのにである!

今時、世界で、写真撮影の出来ない美術館と博物館だらけなのは日本ぐらいなもんだろう。
手で触れるべき彫刻作品に触って係員が飛んでこない美術館は、極めて稀である。
こんな国だから、大衆の芸術的レベルが貧困なのだと私は真面目に思っているんである。

人の心を震わせる一枚の写真や絵を軽んじ、また、神棚へ上げて「お宝」として国家的に独占する――そういう輩はやっぱり、人殺しの道具作りを最高学府で許可するのがお似合いだ――

耳囊 卷之九 賤尼氣性ある事

 

 賤尼氣性ある事

 

 大久保に住居(すまひ)ける橫田物語りせしは、彼(かの)近邊に子供もなく親族もなくて托鉢(たくはつ)をなし、其間には近隣の武家町へ至りて何かの用を辨じ、分(わけ)て產婦の乳はりてくるしむをもみ、其外介抱なす事甚だ妙を得し故、こゝかしこにてももてはやし通途(つうと)の尼よりは、獨(ひとり)ぐらしの店持(たなもち)にても貧しからずくらしぬるが、或人尼も年老(おい)て煩ふの事もあるべし、其そなえありたきといゝしが、尤(もつとも)とや思ひし、又兼て心得やありけん、夫婦養子をなしてしかじかの事を賴、我等地面をかりて家は手前ものなり、家財ある限り幷(ならびに)聊(いささか)貯へし金錢も、不殘(のこらず)夫婦へあたふるなりとて、是を讓り其身は別に聊かの住居をしつらい、是迄の通り托鉢をなし、心安き家々へはこれまでの通り被雇(やとはれ)、または通ひて、世話抔なせしが、天その惇眞(じゆんしん)を守るにや、養子夫婦も至極(しごく)の生質(きしつ)にて、彼(かの)老尼を實母のごとく孝養なしけるが、文化六年の春、彼養子なる者相果(はて)ぬ。其取片付(とりかたづけ)なども尼が一(ひと)まき取計(とりはから)ひしが、兼て生質をしれる近隣の者も厚く世話なしける。右養子の果しは歎きを求めぬるやうなれど、かゝる生質の尼故、又此上の天助もあらんと、橫田かたりぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「一まき」「一卷き」。名詞で一切・一式の意。

・「橫田」横田袋翁。頻出の根岸昵懇の情報屋。既注

・「惇眞」「惇」は厚いの他に真心の意もある。純真の意でよかろう。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 賤しき尼にも気骨のある事 

 

 大久保に住もうておる知音(ちいん)、横田殿の物語れること。

 かの大久保近辺に、子供もなく親族もなく、托鉢(たくはつ)をなして、その合間には近隣の武家町(まち)などを経巡っては、何かと雑用なんどをこなし、わけても、産婦の乳が張って苦しむを、乳を揉むなどしていろいろと介抱をなすこと、これ、はなはだ上手との評判を得たゆえ、ここかしこにても、これ、もて囃し、されば、小金も貯まり、普通の尼よりは、独り暮らしにして、しかも住める庵(いおり)は自分の持ち分と、まあ、貧しゅうはなき暮らしぶりであった。

 が、ある時、ある人の、

「……さても……比丘尼(びくに)もこれ、年老いたらば……煩うということもあろうほどに。……何か、それ相応の備えは……そろそろ、これ……なされた方が、よろしいかと存ずるがのぅ……」

と申したによって、尼は――それをまた尤もなることとでも思ったものか、或いはまた、以前よりそうした心づもりがもともとあったものか――夫婦(めおと)養子をなして、老後に万一のことのあった折りのことを頼んだ上、

「……そのかわり……妾(わらわ)、この地面は借りては御座れど、建っておるこの家は、手前のもの。――それから、家財はこれ、ある限り総て――それに加えて――いささか貯えおいた金銭も――これ、残らず――そなたら夫婦へお渡しますによっての。」

と申し、その通りに、これら総てを譲った上、その身は別に、また同じ敷地の僅かな場所に、小さき新たな庵(いおり)を別に設(しつら)え、また、これまでの通り、托鉢をなし、馴染みになって御座る家々へは、これまでの通り、雑用や乳張りほぐしなんどに雇われ、或いは通い仕事なんど致いて、巷にては――まあ、小金稼ぎとは申せ――方々にて、なかなかの誠意のある世話やら、働きなんど、なして暮らして御座った。

 されば、天も――その純真なる真心に感じてこれを守ったものか――尼の迎えた養子夫婦も、これ、至極(しごく)孝心厚き気質の二人にして、かの老尼をあたかも実母の如く、孝養して御座った。

 ところが、この文化六年の春、かの養子となった息子は、これ、残念なことに、相い果ててしもうた。

 その折りの葬儀なんども、この尼一人が、歎き打ち萎れた嫁ごを慰めつつ、その一切を取り計ろうて、成し終えて御座ったと申す。

 その後も、残った嫁は勿論、かねてこの尼の気質の直(なお)きを知れる近隣の者らは皆、……厚く、この尼の世話を、今も、なして御座る。 

 

「……老少不定(ろうしょうふじょう)とは申せ、かの養子の果てたること、これ、なかなか……しきりに歎き続けては御座るようなれど……かかる直き気性の尼ごぜで御座るによって、またこの後も、かの――天の助け――これ、御座ろうものと、我ら、思うておりまする。……」

と、横田殿の語って御座った。

耳嚢 巻之九 白河定信公狂歌尤の事

 白河定信公狂歌尤の事

 

 文化六年、奧州白川の二三丸(に・さんのまる)、其外城下とも燒亡の事あり。彼(かの)地より右の趣取急ぎあわたゞ敷(しく)、江戸表へ注進ありしを、定信聞(きき)給ひて、甚だ無機嫌にて、火災は天變、せん方なし、何ぞやあわたゞしく申越(まうしこし)ける。其取計(とりはからひ)にては、甚だ跡の事心もとなきとて、狂歌よみて答へられしと、

  でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな

右其家士の語りしとて、人の物語りなり。いかにも此人、かゝる事有(ある)べしと感じぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。しばしば出る松平定信逸話譚。底本の鈴木氏注には、「卷三 大坂殿守回錄の節番頭格言の事」と、『同軌の逸話。定信は恐らく大坂城のときの故人の心構について前々から知っていたであろう』と記しておられる。

・「白河定信」老中松平定信は陸奥白河藩第三代藩主であった。

・「文化六年」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。尊号一件を背景にして寛政五(一七九三)年七月に将軍輔佐と老中を辞任した定信は、藩政に専念した(地位上は溜詰(たまりづめ)となっている。溜間(たまりのま)とは黒書院溜之間ともいい、通称を松溜(まつだまり)、またここに詰める者を溜詰と称した。代々、溜間に詰める大名家を定溜(じょうだまり)・常溜・代々溜(だいだいたまり)などといい、会津藩松平家・彦根藩井伊家・高松藩松平家の三家があった。また一代に限って溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家・姫路藩酒井家・忍藩松平家・川越藩松平家などがあった。さらに老中を永年勤めて退任した大名が前官礼遇の形で一代に限って溜間の末席に詰めることもあり、これを溜間詰格といった。定信はこれである。初期の段階では定員は四~五名で、重要事については幕閣の諮問を受けることとなっていた。また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっており、その格式は非常に高いものだった。江戸中期以降は飛溜の大名も代々詰めるようになった。また、桑名藩松平家・岡崎藩本多家・庄内藩酒井家・越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになったと参照したィキ伺候席 の「溜間」にある)が、これは文化九(一八一二)年三月六日に長男の定永に譲って隠居するまでの間の出来事であり、それ故に、彼は江戸にいたのである。。なお、隠居後も藩政の実権は彼が掌握していた。

・「奧州白川の二三丸、其外城下とも燒亡の事」岩波版長谷川氏注に、白河藩藩庁であった福島県白河市の白河城の火災は文化六年二月二十五日のことであったとある。

・「でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな」「串」「焼け」「味噌」が「田楽」の縁語。「くしくし」(串々)は副詞の「ぐぢぐぢ(ぐじぐじ)」(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では二句目が「ぐじぐじものを」と濁点を伴って表記されてある)、言葉がはっきりしないさま・ぶつぶつ言うさま、及び、ぐずぐずしているさまの意を掛けてある。「味噌をつくるな」は、田楽はしっかり焼いた後、火から取り上げた上で徐ろに生味噌をつけて喰うのが王道である(個人的に私は焼きながらつけて味噌を焦がした方が好きだが)が、それと「味噌をつける」、失敗して評判を落とす・面目を失うの意を掛けてある。これは私でもご「尤」も! と感心したくなる、まことに当意即妙の上手い狂歌である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 白河藩藩主松平定信公の狂歌の尤もなる事

 

 文化六年、奧州白河の二の丸・三の丸その外、御城下など、これ、焼亡致いたことが御座った。

 この時、かの地より回禄(かいろく)の報知、とり急ぎ慌ただしく江戸表へと御注進、これ、御座ったが、それを、かの定信公、お聴き届けにならるるや、特に慌てらるるさまもなけれど、いたって不機嫌な御様子になられ、

「――火災は天変――仕方なきことじゃ。……しかし、そなたら。そは、何ぞや!――何を慌ただしゅう――ばたばたおろおろと、まあ、申し越して参ったものか?! そのような慌てふためいたる取り計らいにては――これ――大事なる、この後の処置なんど、これ、如何にも、心もとなく、命じ任すことなど出来そうにも御座らぬ!」

と痛く叱責なされた後、しばし黙られた。

 そうして徐ろに狂歌をお詠みになられ、かの家臣の者らへとそれを与えた。

 

  でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな

 

 これは、その折りの家臣の御方が直かに見聞きし語っておられたことと、さる御仁の物語っておられた話で御座る。

 いや! まっこと、これ、いかにも! かの名君松平定信公にしてこそ、かかる御対処と御名言のあらるる、と、私も深く感じ入って御座ったものじゃ。

耳嚢 巻之九 棺中出生の子の事

 棺中出生の子の事

 

 享保の中ごろ、御廣舖御小人(おひろしきおこびと)を勤めし星野又四郎といへるものゝ妻、懷胎して産に臨(のぞみ)てうまずして死しぬ。せんかたなければひつぎに納め、菩提寺の僧をむかへ火葬して、母子の死骸を分(わけ)んなど評しけるを、妻の兄なる者、我等聞(きき)し事あれば火葬は無用なり、我等菩提寺へ至りて談判すべしとて、彼(かの)寺に至り和尚に問ひ、火葬の事心にくし、哀れ其儘に葬送せんといひければ、和尚のいえるは、母子ともに死すとも※娩(ぶんべん)すべしとて、彼(かの)宅に來り棺の前に坐して觀念をなし、此事夜の九ツ時過(すぐ)べからずとて、夜の五ツ過るころにもありける、一喝を下すに應じて棺中に小兒の泣聲きこゆ。やがて開(あけ)て出すに男子出生す。和尚の曰(いはく)、此子六歳迄在命せば、必(かならず)我(わが)弟子となすべしと約し、六歳の時彼寺へ送りて弟子となす。右寺は牛込原町淸久寺といふ禪寺にて、彼和尚は大枝(だいし)と云(いへ)り。彼小兒出家して大方(だいはう)と號し、後に武州世田ケ谷勝光院に住職す。七十三歳にて隱居せり。又四郎は後妻をむかへ、男子を又もふけ、則(すなはち)又四郎と名乘(なのり)、御廣鋪下男の頭(かしら)を勤(つとめ)たり。親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時、御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ。其頃大方は七拾六歳の由聞しと也。

[やぶちゃん字注:「※」=「女」+「分」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。話の内容自体はかなり古い都市伝説であるが、詳細な事実記載が附されてあり、特に実際に死後に男児を出産したという亡妻の夫の直話で、しかもその男児が成長し、出産に立ち逢った僧(実名表記)を師匠として同じく禅僧となり、その法名と事蹟が記されていること、各人の年齢やクレジットの明記等々、実話譚としての体裁を何とかして整えてようと意識的に努力している都市伝説(アーバン・レジェンド)である。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるが、ここで話者原田翁は、この話を「親又四郎」本人が「寛政九巳年」(西暦一七九七年)に、当時「御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語」ったとあるから、棺桶から子が生まれたのは八十年ほども前ではあるものの(この亡き母から生まれて禅僧となった「大方」の年齢から逆算すれば、この不思議な事件は享保七(一七二二)年に特定出来るのである)、この話を亡夫から直接に聴いたのは書かれた十二年前となる点にも注意したい(ここでは最後の「親又四郎」以下の文の「七拾三歳の時」の箇所を意識的に外した。後注参照)。但し、話者の先行作から見ると、捏造可能性の疑義(後注参照)はある。

・「享保の中ころ」享保年間は元年(一七一六年)から享保二十一年(一七三六年)であるから、享保七(一七二二)年~享保一三(一七二八)年前後となり、直前で述べた通り、享保七(一七二二)年に限定出来る。

・「御廣舖御小人」底本の鈴木注によれば、大奥広敷(おおおくひろしき)に詰めて、普請その他の雑務に従事する下級役人の称とする。この「広敷」は江戸城の本丸と西丸(にしのまる)との大奥へ出入り際の関門の称で、ここに詰めて、大奥の事務を受け持つ者には、広敷番頭以下番衆、その他に御広敷伊賀者などがあったとある。

・「心にくし」訝(いぶか)しい。気になる。懐妊したまま、出産を見ずに死去した場合のタブーがあって火葬としようとしたものか。古くは特殊な病気による死者や変死者などは火葬にふしていたが、魂を二つ宿した状態での妊婦の死というのは、民俗学的に見ても異常な遺体であり、これを火葬のしようとした意図は分かるような気がする。但し、禅宗について調べてみると某大学名誉教授で理学博士の個人サイト「禅と悟り:その合理的アプローチ」の「第5章 日本の禅とその歴史: その1」に、通説で日本に最初に禅を紹介した人物とされる飛鳥時代の僧道昭(舒明天皇元(六二九)年~文武天皇四(七〇〇)年)についての記載の中に、道昭は七十二歳で縄床(じょうしょう:縄を張ってつくった粗末な腰掛け。主に禅僧が座禅の際に用いた。)『に端座したまま坐亡したと伝えられ』、『道昭は死に臨み火葬を遺言した。弟子達は粟原寺』(おうばらでら:飛鳥(奈良県桜井市粟原)にあった寺。現在は廃寺。)『で遺体を荼毘に付し粉にして散骨したことが記されている(「続日本紀」卷第一、文武天皇紀に道昭の記事がある)。これは日本初の火葬である。道昭は禅受容の初伝者であるとともに日本で最初に火葬によって葬られた人である。道昭の火葬後火葬は天皇はじめ貴紳の間で急速に普及した』とある(ウィキの「道昭には、「続日本紀」の記述として、熱心に座禅を行っており、時によっては三日に一度、七日に一度しか座禅を解いて立つことをしなかったとし、『ある日、道昭の居間から香気が流れ出て、弟子達が驚いて、居間へ行くと、縄床』『に端座したまま息絶えていた。遺言に従って、本朝初の火葬が行なわれたが、親族と弟子達が争って骨をかき集めようとした。すると不思議なことに、つむじ風が起こって、灰と骨をいずこかへ飛ばしてしまったとされる。従って、骨は残されていない』と逸話を載せる。――この遷化の逸話、禅僧らしくて、とても、いいね――私もそれでいい――)。なお、江戸時代にはまた、浄土真宗が火葬を常式とする一種の死生観改革をしているようで、相当浸透していたらしい。しかし、本話での措置が普通であったか、そうでなかったかは、文脈からは微妙に計り難いが、兄が異議を唱えるところからは一応、禅宗の常式としての火の方を採って訳しておいた。

・「聞し事」不詳。一応、火葬にするという菩提寺(禅宗)の常式に対して、兄なる人物(彼は宗旨が異なるのであろう)が自分の信心する宗派(不詳)の死生観から、肉体が焼かれることへの疑義を持った、と採る。前注参照。

・「※娩」(「※」=「女」+「分」)分娩。

・「觀念」仏教の瞑想法の一つ。精神を集中して仏や浄土の姿・仏教の真理などを心に思い描いて思念すること。

・「此事夜の九ツ時過べからず」誤読していたが、岩波の長谷川氏注の、『午前零時前後以前にこの事は解決する』という注で、目から鱗。

・「夜の五ツ」初更。午後八時前ぐらい(冬至)から午後九時(夏至)頃までの間に相当。

・「淸久寺」底本鈴木氏注では、『三村翁「清久寺、牛込原町一丁目、曹洞宗なり、小夜中山妊婦塚の伝へと相似たり、かゝる話諸国に多し、これもその一なるべし。」いわゆる赤子塚説話』とあり、岩波版も新宿区原町と注するのであるが、調べてみると、もうこの寺はないようである(廃寺か移転かは不詳)。だの氏のブログ「だnow」の「写真供養」の中に撮影日二〇一四年二月二十七日附で『新宿区原町二丁目』『旧清久寺境内』の写真があり、そこには既に寺と思しいものはない。なお、鈴木氏は本話を赤子塚伝承の類型的一話(異界との通路である周縁たる村境にある行路死病人などを葬った塚から赤子の泣き声が聞こえてくると伝えられる塚。死んでも幼児の霊は遠くへは行くことが出来ず、こうした場所にある道祖神の近くにその霊を留めたと信じられ、それが姑獲鳥(うぶめ)などの妖怪譚や亡母が飴を買って墓内で生まれた子を育てるといった怪談などと集合変化して、行倒れの妊婦を葬った塚中で子が出生するという形になったものと考えるのであろう)として、実話としては全く見ていないことが分かる。こういう、細部の検証もしない、けんもほろろの一蹴式の、日本の民俗学のその考え方や処理法が――実は私は――すこぶるつきで嫌いである――と述べておきたい。これだから、日本の民俗学は学問たり得ないのである。

・「勝光院」底本の鈴木注に、『世田谷区世田谷四丁目。曹洞宗』とする。

・「七十三歳にて隱居せり」母の死後に出生したこの男子、方(だいほう)和尚の隠居は、寛政六(一七九四)年(「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年の十五年前)となる。

・「原田翁」底本の鈴木注に、『種芳(タネカ)。安永七年(四十八歳)家督、廩米二百俵。天明元年小十人頭より御広敷番頭に転ず。根岸鎮衛にくらべれば役職の点ではずっと低いが、年長であるので、大事にしている様子が見える。年齢のみならずこの人の人柄もよかったのであろう』と記されてある。この人物、「耳嚢 巻之八 奇子を産する事」之九 痴僧得死榮事」に既に登場している。しかしその前者「奇子を産する事」の内容がちょっと気になるのだ。この爺さん、よっぽどこの手の異常出産譚が好きだったということである。その辺には少し、本話の作話可能性が臭うという気はするのである。但し、後者の「痴僧得死榮事」は私のすこぶる愛する一篇でもあり、これは十全に事実として信じられる話ではある。

・「親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時、御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ。其頃大方は七拾六歳の由聞しと也。」この読点(編者によるものと思われる)は問題があるように思われる。これでは「親又四郎」が寛政九年で73歳なのに、その息子が「其頃」76歳ということになって、トンデモない話になってしまう。これを以って本話の詐欺性が実証されているなどと鬼の首を獲るのは、阿呆である。そんな馬鹿にも分かる見え透いた馬鹿を、こんなに細部まで緻密なリアリズムを配することを好んだ人間がやるはずがないからである。そこで私はこれを、一度、句読点のない状態に戻し、

 

親又四郎寛政九巳年七拾三歳の時御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ其頃大方は七拾六歳の由聞しと也

 

とし、改めて、

 

親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ、物語りぬ。其頃、大方は七拾六歳の由、聞しと也。

 

と、句読点を打ち直して、現代語訳した。意味はお分かり戴けるものと思う。なお、これから推測すると、原田翁がこの話を聴いた時、親の又四郎は、既に九十三を越えていたことにはなるが、これはあり得ぬことではない。それでもトンデモ話として一笑に附したい方は、初めから、「耳嚢」など読まぬがよろしい。――やせ細っておぞましい退屈で下劣な今のこの世の現実に満足されれば、それで、結構――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 棺桶の中にて出生(しゅっしょう)した子の事

 

 享保の中頃のことである。

 御広敷御小人(おひろしきおこびと)を勤めていた星野又四郎という者の妻が、懐妊して出産に臨んだものの、産むことなく亡くなった。

 仕方なく柩(ひつぎ)に納め、菩提寺の役僧などを迎えて、禅宗なれば、火葬にして、その後(のち)、母子の遺骨を分けて葬ることとせんと、打ち合わせを成したところが、この妻の兄なる者が、

「……我ら……別に信心しておる宗旨の御座るが……これ、葬りに就き――聞き及んでおること、これ、あり! 火葬は、これ! 無用のことで御座る! 我ら、こちらの菩提寺へと参り、どうあっても火葬にせんとせば、これ、談判致さんと存ずる!――」

と譲らず、すぐ、星野を連れて菩提寺へと至って、和尚へと直談判に及び、

「……火葬に致すとのこと、これ、いっかな、承服出来申さぬ。……哀れなる我が妹なれば……どうか一つ!……そのままに、葬送、これ、成さんことを御願い申し上ぐる!……」

と切(せち)に請うた。

 されば、和尚の曰く、

「――分かり申した。――但し、母子ともに一体のままに死しておるということは、これ、二つの魂(こん)の一体となっておって、これをそのままに土に葬ると申すは――引導の障りともなり申す。……されば……我らが――分娩をして――これ――葬ることと――致そうず。――」

と、告げた。

 そうして、和尚は、すぐ二人とともに水野の屋敷へ同道した上、柩の前に座すと、しばらく瞑想した後(のち)、

「――この事――夜(よ)の九ツ時を過ぐる前に――成就致す!――」

と、きっぱりと会葬の者らへ告げた。

 それより、和尚は低声(ひきごえ)にて経を唱え続けた。

 夜(よる)の五ツも過ぎた頃であった。

 和尚が突如、

「喝ッツ!――」

と――

――一喝を下した

――それに

――応ずる如(ごと)

――柩に中(うち)より

「……ふぅん……きゃァ……おぎゃァ……おぎゃア! おんぎゃあ!……」

と力強い小児の泣き声が聴こえた。

 すぐに柩の蓋を開けてみると、

――元気な男子(おのこ)が出生(しゅっしょう)して盛んに泣き叫んでいた。

 ここに和尚の曰く、

「――この子――六歳まで恙のぅ在命(ぞんめい)にてあったれば――必ず――我が弟子と、成すがよい!」

と告げ、父又四郎もその場にて、これを誓った。

 

 その後、この子はすくすくと元気に育ち、盟約に随い、六歳となった折り、かの寺へと送り出し、かの和尚の弟子と相い成った。

 

 この寺と申すは、牛込原町清久寺(せいきゅうじ)という禅寺にて、この時の和尚は大枝(だいし)和尚と称された。

 かの童子は、出家して大方(だいほう)と号し、後に武蔵国世田ヶ谷勝光院(しょうこういん)の住持と相い成り、その後、七十三歳にて隠居した。

 また、大方(だいほう)の父で亡妻の夫であった又四郎は、その後(のち)、後妻を迎え、男子をまた一人もうけた上、その子に家督を継がせ、同じく又四郎と名乗らせたが、この子又四郎もまた、同じく御広敷下男の頭(かしら)を勤めた。

 

 以上は、この親の方(ほう)の又四郎――大方(だいほう)の父――が、寛政九年の巳年(みどし)の年――その時、御広敷の頭(かしら)を勤めておられたのが、私の知音(ちん)原田翁(当時、七十三歳)で――その原田翁へ、昔語りに参った老又四郎が、直かに物語った話で御座ったと申す。

 なお、その折り、

「……その頃、この不思議な出生(しゅっしょう)をなされた息子の大方和尚も、これ、七十六で御健在の由、聞き及んで御座いまする。……」

と、原田翁が付け加えられた。

2015/01/21

僕は

僕は如何なる神も信じない――僕は僕自身さえ信じていない――しかし――ある神を信ずる人々の神をせせら笑い、その神の「ケツ」の穴を描いて人々の笑いをさそう「クソ」野郎を――心底――憎悪する部類の人間である――

「シャルリー・エブドでは銃弾を防げない」 SNSに風刺画掲載で少年逮捕……なんじゃあ、こりゃア!?

「なんじゃあ、こりゃア!?」(ジーパン刑事の台詞で)
   
あのえげつない風刺画を「面白おかしく」載せた「シャルリー・エブド」について――描いた画家自身が、あれを描くことで殺されるかもしれないという「覚悟なしに」あの風刺画を書いたとすれば、それは「クソ」以外の何ものでもない――と私は心底ずっと思っている人間である。
 
「クソ」のような元首を「クソ」のようにおちゃらかした「クソ」のような映画を公開することが、民主主義の自由の象徴だと謳歌するような連中も「クソ」だとずっと真面目に私は思っている。
 
しかし、こう書くと、私がフランス在住の人間なら――テロリストを擁護したことになる――これは恐るべきことではないか?――そいういう世界こそが「クソ」以外の何者でもないことは最早、言を俟たないと私は声を大にして言いたい。
 
――「何かが」恐ろしくおぞましく最下劣に間違って「クソ」である――ことは最早――明明白白である――
 
どうぞ――幾らでも私を逮捕して戴きたい――

耳嚢 巻之九 猫忠死の事 ――真正現代語大阪弁訳版!――

既に僕は「耳嚢 巻之九 猫忠死の事」を疑似的な大阪弁で公開しているのだが、僕自身がネイティヴな大阪弁を知る人間でないことが気になっていた。
本日只今、僕の教え子で、僕の山(山岳部)の女房役であった「むすぶん」君が、僕の貧相な現代語訳を、非常に緻密な検証の下、素晴らしい真正大阪弁訳にインスパイアしてくれた。

以下に、一切の修正を加えず、彼の附記もそのままに、原文を添えて示したい。

これが大阪弁やで!

むすぶん――ありがとう!

 

 猫忠死の事

 

 安永天明の頃なる由、大阪農人(のうにん)橋に河内屋(かはちや)惣兵衞と云へる町人ありしが、壹人の娘容儀も宜(よろしく)、父母の寵愛大方ならず。然るに惣兵衞方に年久敷(ひさしく)飼置(かひおけ)る猫あり、ぶち猫の由、彼(かの)娘も寵愛はなしぬれど、右の娘につきまとひ片時も不立離(たちはなれず)、定住座臥、厠(かはや)の行來(ゆきき)等も附(つき)まとふ故、後々は彼娘は猫見入(みいり)けるなりと近邊にも申成(まうしな)し、緣組等世話いたし候ても、猫の見入し娘なりとて斷るも多かりければ、兩親も物憂(ものうき)事に思ひ、暫く放れ候場所へ追放(おひはな)しても間もなく立歸(たちかへ)りけるゆゑ、猫はおそろしきものなり、殊に親代より數年飼置けるものなれど、打殺(うちころ)し捨(すつ)るにしかじと内談極(ないだんきはめ)ければ、彼猫行衞なくなりしゆゑ、さればこそと、皆家祈禱其外魔よけ札(ふだ)等を貰ひいと愼みけるに、或夜惣兵衞の夢に彼猫枕元に來りてうづくまり居(をり)けるゆゑ、爾(なんぢ)はなにゆゑ身を退(しりぞき)、又來りけるやと尋(たづね)ければ、猫のいわく、我等娘子を見入たるとて殺(ころさ)れんと有事(あること)故、身を隱し候、よく考へても見給へ、我等此家先代より養はれて凡(およそ)四拾年程厚恩を蒙りたるに、何ぞ主人の爲(ため)あしき事をなすべきや、我(われ)娘子の側を放れざるは、此家に年を經し妖鼠(ようそ)あり、彼娘子を見入(みいり)て近付(ちかづ)んとする故、我等防(ふせぎ)のために聊(いささか)も不放(はなれず)、附守(つきまも)るなり、勿論鼠を可制(せいすべき)は猫の當前(たうぜん)ながら、中々右鼠、我(われ)壹人の制(せい)に及びがたし、通途(つうと)の猫は二三疋にても制する事なりがたし、爰に一つの法あり、島(しま)の内口(うちぐち)河内屋市兵衞方に虎猫壹疋有(あり)、是を借りて我と倶に制せば事なるべしと申(まうし)て、行方不知(ゆくえしれず)なりぬ。妻なる者も同じ夢見しと夫婦かたり合(あひ)て驚きけれども、夢を强(しい)て可用(もちふべき)にもあらず迚、其日はくれぬるに、其夜又々彼猫來りて、疑ひ給ふ事なかれ、彼猫さへかり給はゞ災(わざはひ)のぞくべしと語ると見しゆゑ、彼(かの)島の内へ至り、料理茶屋躰(てい)の市兵衞方へ立寄(たちより)見しに、庭の邊(へん)椽頰(えんばな)に拔群の虎猫ありけるゆゑ、亭主に逢(あつ)て密(ひそか)に口留(くちどめ)して右の事物語りければ、右猫は年久敷(ひさしく)飼(かひ)しが、一物(いちもつ)なるや其事は不知(しらず)、せちに需(もと)めければ承知にて貸しけるゆゑ、あけの日右猫をとりに遣しけるが、彼れもぶち猫より通じありしや、いなまずして來りければ、色々馳走(ちそう)などなしけるに、かのぶちねこもいづちより歸りて虎猫と寄合(よりあひ)たる樣子、人間の友達咄合(はなしあふ)がごとし。扨その夜、又々亭主夫婦が夢に彼ぶち猫來り申(まうし)けるは、明後日彼鼠を可制(せいすべし)、日暮(くる)れば我等と虎ねこを二階へ上げ給へと約しけるゆゑ、其意に任せ翌々日は兩猫に馳走の食を與へ、扨夜に入(いり)二階へ上置(あげおき)しに、夜四ツ頃にも有之(これある)べくや、二階の騷動すさまじく暫しが間は震動などする如くなりしが、九ツにも至るころ少し靜(しづま)りけるゆゑ、誰彼(たれか)れと論じて、亭主先に立ちあがりしに、猫にもまさる大鼠ののどぶへへ、ぶち猫喰ひ付たりしが、鼠に腦をかき破られ、鼠と俱に死しぬ。彼(かの)島の内のとら猫も鼠の脊にまさりけるが、氣力つかれたるや應(まさ)に死に至らんとせしを、色々療治して虎猫は助りけるゆゑ、厚く禮を述(のべ)て市兵衞方に歸しぬ。ぶち猫は其忠心を感じて厚く葬(とむらひ)て、一基(いつき)の主となしぬと、在番中聞しと、大御番勤(おほごばんづとめ)し某(なにがし)物語りぬ。 

 

■やぶちゃんの不十分現代語訳を補正せる「むすぶん」現代大阪弁訳


 猫忠死の事

 

 安永天明の頃やった、とか。
 大坂農人橋に、河内屋惣兵衛ちゅう町人がいはったんやけど、ここの一人娘がえろぅ器量よしやったさかい、お父うおっ母あの可愛がりようは、もう一方ならんかったそうや。
 けど、惣兵衛の家には、こらまた年しゅう飼うてはった猫がおって――ぶち猫やったっちゅうこっちゃ――その娘さんもこの猫をよう可愛がったはってん。
 けど、この猫、度が過ぎとったんや。その娘子につきまとうて、つきまとうて、これがまあ、かた時も離れへんっちゅうこっちゃ。常住座臥……なんやな……そのぉ……へへっ……厠の行き来なんかにも、つきっぱなしのまといっぱなし、ちゅうわけや。
 そんなこんなやったから、のちのちには、
「……河内屋はんとこの、あのごりょうはん、なんや猫に魅入られとるっちゅう、もっぱらの噂やでぇ……」
と、近隣どころか、大坂中、もうえらい知れ渡ってしもた。そうなったら、こらもう、美人やいうて、これ縁談の世話なんか焼いても、
「……そやかて……あのごりょうはん、これ、猫に魅入られたっちゅう、評判の――猫娘――だっしゃろぅ?!」
と、どこもかしこも、けんもほろろに断って参ったによって、流石に、そのふた親も、えろぅ、もの憂いことになったっちゅう訳や。
 時に、しばらくの間、お店から遠く離れた所へ、追っ放してみても、これ、ふふっと気ぃついたら、立ち返って、娘のお膝へ、ちんまり座っとる。
「……猫っちゅうもんは恐ろしいもんや。……とりわけ、親の代より可愛がって、数年この方飼うてる猫やけど。……しゃあないわ。……打ち殺して捨てるしかおまへんやろなぁ……」
と内々に相談しはって、これ、極まったはってんて。
 けど、そう話し合うた翌朝のこと――その猫――どっか行方知れずになってもうて、
「……やっぱそうやったんかい!」
と、家を挙げて、祈禱師を呼んで猫調伏を祈るやら、その他もろもろ、化け猫魔よけのお札なんかぎょうさん貰うてからに、そこらじゅうに、これ、べたべた、べたべた、貼りに貼っては、家内の者、皆して精進潔斎、慎んだはったっちゅうことや。
 ところが、それからほどない、ある夜のことやった。
……惣兵衛の夢に…何と…あの猫が出たんや!……
……枕元に来おって、これがまた、じぃーっとうずくまってな……恨めしそうな眼ぇで……惣兵衛のことを……これまた……じぃーっと……見つめとったそうや……

 

 それで惣兵衛は、
「……あ、あんたは!……な、なんで、身ぃ隠しとったくせに、……こ、こないにまた……も、戻ってきたんや?……」
って質いたら、…猫が…人の声で…答えたんやて!……
その言うことには、
「……わては……ごりょうはんを魅入ったからいうて……殺されるっちゅうこと……聞き及びましたよって……身ぃ隠しとりましたんや……よう考えてもみなはれ……わては……
この家のご先祖様より養われて……まず……凡そ四十年ほども厚い恩を蒙ってきましたからに……どうして……どうしてご主人様のために……そないな恐ろしいことしますのん?わてがごりょうはんのそばを離れへんかったんは……実に……この家に年取ってる妖鼠がおって……そいつこそが……かのごりょうはんに魅入って……これ……近づこうとしとったからなんですわ。せやからこそ……わては……その防ぎのために……いささかも……ごりょうはんのそばを離れんと……ついて守ろうとしとったんですわ。……勿論……鼠を制するんは……これ……猫にとっては当たり前のことやとはいえ……なかなか……あのけったいな鼠……これ……わて一人の身では……制することはできませんで……そんじょそこらの猫やったら……とてものこと……二匹三匹でも……これ……制すんのは……難しい物の怪……
 せやけど……ここに一つ方法が……ございます。……島の内口に……ご主人さまと同じ屋号の河内屋市兵衛ていう人がいはるんです……そのお方のとこに……虎猫が一匹……おるんです。一つ……これを借り受けて……わてとともに、あのけったいな鼠を制したってなったら……ことは……これ……確かに……成就間違い……ございません……」
と、申したかと思うたら……ふっと……影も形も見えんようになった――と――眼ぇが醒めた。
 せやけど、眼ぇ醒めてたら、隣の嫁はんも、こらまた、蒼い顔して、起きとった。
 惣兵衛、
「……実は……今……こないなけったいな夢を……見たんや……」
って言うたら、その嫁はんも唇震わせながら、
「……わ、わても、そ、それとおんなじ夢を、見ました!……」
と身体をわななかせて言いよったから、夫婦揃うて、ひしと抱きおうたそうや。
 せやけど、
「……たかが、夢を……これ、強いてやるっちゅうことも……何やしのぅ……」
と、何もせんと、その日は暮れたんや。
 ところがや……
その日の夜……またまた……あの猫が……二人の夢に現れたんや!ほんで、
「……疑わんといて下さい……あの猫さえ借りてくれはったら…お主さまの……この災い……きっと……除いて……見せますから!」
って言うたそうや。
 せやから、翌朝になんのを待って、惣兵衛は、あの申し状の通り、島の内へ行って、料理茶屋風の河内屋市兵衛っていう人がやってるお店の方へ立ち寄って、それとなぁ、店内を見てみたら、その内庭のあたり、縁端のとこにこれ、一目見て――これや!――って思う、まあ、実にまるまるとした剛毅な虎猫が、陽だまりにうずくまっとったから、惣兵衛が亭主に声掛けして、直々に逢うて、密かに口止めを申し述べた上、この顛末の仔細、これ物語ったところ、
「……いや……この猫は年久しゅう飼うてはおります。……せやけど、そのように傑物なんかどうか……まんず、よう分かりまへんなぁ。……せやけど、まあ、切にお求めやっちゅうんやったら……」
とて、承知の由、言質を受けたことによって、その場で貸しもろうことを約束して、別れはった。
 明けの日、下男に、その虎猫を借り受けに遣わしたら、その虎猫も――信じられへんことやけど、あのぶち猫より通じ取ったかのごとく――嫌がる様子ものうて、素直に下男の懐にちんまりと収まって、惣兵衛の家へ参上したんやて。
 そんで、その虎猫にいろいろご馳走とか遣わしとったところ……あの……行方知れずやったぶち猫が……これ……どっからともなく、ひょいと惣兵衛の店へ戻ってきて……この虎猫と寄り添うて、
「……ゴロコロ……ニャア! ゴロ……ゴロ! ニャアニャア……」
って、互いに、しきりに喉を鳴らし合うとる。その様子は、これ、あたかも人間の友だち同士が話し合うてるような塩梅やった。
 そんで、その夜のこと、またまた惣兵衛夫婦の夢に、あのぶち猫がやってきて言うには、
「……明後日……あの鼠を成敗致そうと存じます……日が暮れたら……わてと虎猫殿を……これ……二階へ上げ置いて下さいませ……」
と、きっと約束しはったそうや。
 せやったら、その意に任せ、翌々日、二匹の猫に、これ、相応のご馳走の膳を供した上で、そのうち夜になって、お店の二階へ上げといた。
 夜も既に四ツ時かと思う頃のこと、
ドンガラ! ガッシャン! ド! ドッツ! ドッスン!
フンギャア! ヒイイーッツ!
――と!――二階の騒動!――これ、まあ!――すさまじく!――しばらくの間は、お店全体が地震のごとく、ビリビリ顫えとった……
 九ツにも至らんとする頃愛、少し静まってきたから、
「……た、誰か!……」
「……い、いや!……お前が!……」
なんどと家内の皆々が、言い合いになったから、
「……わ……わてが、参りまひょ!……」
と、亭主惣兵衛自ら、先に立って二階へと上がってみた。
……と……
……猫にも勝る大鼠の……
……その喉笛へ……
……あのぶち猫……
……食らいついとったけど……
……鼠にその脳みそを掻き破られて……
……大鼠ともに……
……既に事切れとった……
 ほんで、あの島の内の虎猫も、これ、鼠の背ぇにはるかに勝る大猫やったけど、気力も何も、使い尽くしたんか、まさに瀕死の身体になっとったけど、この虎猫の方は、いろいろと治療を尽くして、命を救うことができたそうや。
 せやから、惣兵衛は、虎猫が十分元気になったところで、あの島の内の市兵衛方へ、厚く例を述べて、虎猫殿を返さはったそうや。
 ――ぶち猫は――これ――その河内屋への忠心に感じ――厚く葬いをも成して――一基の墓も建立しはったそうや。
 以上、「在番中に聞いたことでっせ」って、大御番を勤めたはった某殿が、私に直接、物語ってくれはった話や。

 

<むすぶん注> 
①.大阪弁だと、「捨てる」の意で「ほかす」という言葉も使いますが、「ほかす」は主に物やごみに対して使うため、ここではあえて「捨てる」という表現のままにしています。
②.「けったい」は、「不思議なさま、奇妙なさま」を示す関西の方言です。ただし、「よう分からん、得体が知れない」というニュアンスを含んでいるため、ネガティブな意味で使われることがほとんどです。
<解釈>
1.いろいろ迷いながらも、原作の雰囲気を極力壊さない程度に口語訳にしました。
2.語り手から聞き手への敬意に関しては、「ございます」といった敬意表現を抜いて、語り手から聞き手に読み聞かせるようなものにしてあります。
3.語り手から猫に対しては、動物に対して言及しているので敬語表現を抜いてあります。
4.今回のお話は町人が主人公のお話なので、町人である惣兵衛や市兵衛に対する敬語表現は、「はる」言葉を多用しています。
(例:「行かはる」「見たはる」「したはる」「言うたはる」など)
 私自身、「はる」言葉は、「標準語の敬語を使うほどではないが、全く敬語がないのもどこか落ち着かない」という場合に使うことが多いです。そうした絶妙な敬意を表現するのに便利なので、主に気心が知れた先輩や同級生・近所の人・著名人や後輩など、あらゆる人に対して「はる」言葉を使っています。先生や上司といった目上の人のときも、当人がいない場で話題に出す場合は「はる」言葉を使っています。
 今回の例でいうと、惣兵衛の娘さんに対しては、別に敬語を使わなくてもいいところですが、「はる」言葉を使うことで、娘さんに対しても少しばかりの敬意を込めることができ、また表現も柔らかくなる効果があります。
 ただし、関西人どうしの会話ですと、お偉いさんに対しても「はる」言葉を使うこともあるようです。
<参考文献>
旺文社編 国語辞典 第八版
<参考URL>
大阪弁完全マスター講座



これで、僕の「耳嚢」は素晴らしくブラッシュ・アップされたのであった――

だいじなことは……なんやな……わてのひねこびてもうた、この、ひこばえを……わての若い教え子が……ただしてくれることやったんやなぁ……

耳嚢 巻之九 奇頭の事

 奇頭の事

 

 文化六巳年、山本某語りけるは、五年以前丑年四月中、松本領中房川、大雨にて崩れけるにひとつのしやれかふべ出けるを、信州山家組荒井村安左衞門所持せるよしにて、東都へ持來(もちきた)りけるを山本見たりとて、其形をも妻にかき見せける。

 

Toukotu_2

 

  按ズルニ蛇頭ナラン、又曰(いはく)

  狒猅(ひひ)の類(たぐ)ヒナランカ、

  何レモ其説不詳(つまびらかならず)。

 

 同年同役、北廰へ市中より右に類(るい)し候大頭(だいとう)もち參り候由。然る處、右は下腮(したあご)もありて齒は魚(うを)のはのごとし。うたがふらくは、拵(こしら)へしものならんかと、土州(どしふ)物語なりし故、同物ならんかと考へしが、一方は下腮なし、其外同物とも不相聞(あひきこえず)候。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:よきライバル北町奉行小田切直年の共通ソースで連関。二つ前の山本某でもソース連関。奇物遺骸譚、未確認生物シリーズの一つである。

なお、図のキャプションを右から順活字化し、以下に数値を換算しったものを《 》で示しておく。

   髙七寸六分

《上顎歯列下端から残存する頭部上端までの高さ:二十三センチメートル》

           歯九枚

           眼穴一寸一分
《眼窩の平均的直径:三十三センチメートル》

     此ワタリ二尺二寸五分
《左右顴骨間の長さ:六十八・二センチメートル》
 

 なお、底本の鈴木氏注には、『三村翁注に曰く「予が姻戚大野氏、もと高砂町にて美濃利といふ質屋なりしか、九鬼家より質にとりしと伝ふる、鬼の干物あり。打見たる所、十歳位の童子程にて蹲踞せり、頭に短き角二ツあり其色猪牙の如し、髪は薄く銀色したる白髪にて、前は几たり、指は手足とも五指あり、眼円にして鼻低く、牙は獣の様なりしと覚えし、大学へも見せたれど、拵物なるべしとの事なりし由、これ癸亥の震災にて亡びし。」』と記す。「几たり」は「きたり」と読むか。肘を机についているような感じに折り曲げているということか。「癸亥の震災」の「癸亥」(みずのとい)は大正一二(一九二三)年で関東大震災のこと。

・「文化六巳年」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年己巳(つちのとみ)の夏。

・「山本某」本巻での特異点の情報屋。「予が親友山本某」(「吐血を留る奇法の事」)と記すほどの親密な仲でもある。

・「五年以前丑年」文化二(一八〇五)年乙丑(きのとうし)。年齢の数えと同じくその年も含めて数えるから、五年前でおかしくない。

・「松本領中房川」底本の鈴木氏注に、『中房は長野県南安曇郡穂高町有明。有明温泉の所在地』とある。信濃松本藩六万石。当時は第七代藩主・戸田松平家第十二代の松平光年(みつつら)。中房川は長野県安曇野市穂高有明を流れる川で長野県安曇野市北西の異形の峰、燕岳に源を発し、中房温泉を通って安曇野市穂高有明で乳川と合流、ここから穂高川と名を変えて南流、その後、犀川(梓川の下流)に合流、それがまた千曲川と合う。これらの場所は皆、私が山に登っていた頃の、如何にも懐かしい地名ばかりである。

・「信州山家組荒井村」底本の鈴木氏注に、長野県『松本市荒井。山家(ヤマンべ)郷は和名抄に筑摩郡山家郷とある』と記すが、岩波版長谷川氏注では、長野県『茅野市宮川新井か。山家は山鹿で山鹿郷即ち茅野市辺をいうか』と異なる。私は地理的には鈴木氏の説の方が自然な気がする。有明から、鈴木氏の荒井なら十五キロメートルほどしか離れていないが、長谷川氏の示す茅野の新井では四十六キロメートル以上離れてしまうからである。

・「蛇頭」大型個体の蛇、蟒蛇(うわばみ)の損壊した頭部という謂いであろうが、上顎の歯列の形状が蛇のものではない。

・「狒猅」狒狒。これは現在の実在するサル目オナガザル科ヒヒ属 Papio に属する哺乳類の総称名ではないことに注意。無論、実在する異国に住む猿の一種という耳学問のニュアンスも既に多少は混入している可能性もあるが、これは寧ろ、本邦固有種のオナガザル科オナガザル亜科マカク属ニホンザル Macaca fuscata の大型の老成個体及びそこから夢想された妖怪・幻獣としての「狒々(ひひ)」である。以下、ウィキの「狒々」より引いておく。『山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる』。『柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるとい』い、『狒々の名はこの笑い声が由来といわれる』。また同書では、天和三(一六八三)年に越後国(現在の新潟県)、正徳四(一七一四)年には伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長四尺八寸(一・四五メートル)、後者は七尺八寸(二・三六メートル)あったという。『北アルプスの黒部谷に伝わる話では、伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の樵が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺したという。源助も血まみれになり、狒狒は夜明け近くになりやっと立ち去ったという。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる』。『もとは中国の妖怪であり、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈(約3メートル)あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある』。『知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう』。『山童と混同されることもあるが、これは「山で笑うもの」であることから「山ワラハ」が「山童」(やまわろ)に転じたとの説がある』。『岩見重太郎が退治した怪物としても知られ』、『人身御供を要求して人間の女性を食べる』邪悪な『妖怪・猿神と同一視されることもある』。また、『エドワード・S・モースが、東京の大森貝塚を発見した際に大きなサルのような骨を見つけ、日本の古い記録に大型のサルを記したものがあるか調査したところ、狒々の伝承に行き当たり、この骨を狒々の骨かもしれないと結論づけている』とある。モース先生! 遂に私の「耳嚢」の注にも登場しましたよん!

・「北廰」北町奉行所。根岸は南町奉行。

・「土州」北町奉行小田切土佐守直年。前条の私の注を参照のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇(く)しき頭骨の事

 

 まず。

文化六年巳年のこと、山本某(ぼう)の語って御座ったこと。

 

――五年以前の文化二年丑年の四月中、松本藩御領内の中房川が、大雨によって川岸が大きく崩れ、そこから、一個の奇体なしゃれこうべれが出土した。

 これは現在、信州山家組荒井村在の安左衛門なる人物が所持しているとのことで、それが借り受けられ、東都へと持参されたものを、山本自身が実見検分したとのことで、その形について、それを描いたものを作成し、妻にも概略を描いて見せた、とのことであった。

 以下、山本が持参した絵と、そこに附された文章を写しおくこととする。

   ――――――

Toukotu_3

(附記)

 按ずるに、これは所謂、妖しき蛇の変じた「蟒蛇(うわばみ)」の、その「蛇頭(じゃとう)」ででもあろうか? いや、はたまた、別な、山の妖怪として知られる「狒々(ひひ)」の類(たぐ)いでも、これ、あろうか? 何れの説も、よく、この頭骨を説明しているとは言えず、この謎のしゃれこうべについては詳細は不分明である。(山本文責)

   ――――――

 さて同じ年のこと、私と同職の北町奉行所へ、市中より――この山本が私に見せ呉れたものに非常によくにておるところの――大きな生物の頭骨が持ち込まれたという。

 但し、こちらは下顎(したあご)もあって、その歯の形状は魚(うお)の歯のようにギザギザとしている、という。

「……如何にも胡散臭い代物なれば、拙者は誰かが人為的に拵えたものではないかと疑っている。」

と、同役たる北町奉行小田切土佐守直年(なおとし)殿の物語で御座ったによって、この山本が私に報告したものと、これは、同一の物体ではないか? とも考えたのであるが、ただ……

――一方は下顎がなく……

――あるとする、こちらの方の歯の形状というのも、山本のそれとは、微妙に異なるように感じられ……

その他の情報では、その後に

――同一物であるとも……

――全く異なる物であるとも……

さらには……

――それが如何なる生物の頭骨であるかということも……

一向、耳に入っては来ない。

 さればやはり、このしゃれこうべ――捏造品――ででもあったものか?

耳嚢 巻之九 痘瘡咽に多く生し時呪の事

 痘瘡咽に多く生し時呪の事

 

 痘瘡咽(のど)に多く生じぬれば、小兒乳を飮(のみ)、又は食事等に難儀をなすとき、字津(うつ)の屋の十團子に を黑燒にして用(もちふ)れば、奇妙に食乳(しよくにゆう)を通ずと、小田切かたりけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間伝承記録で連関。民間療法・呪(まじな)いシリーズ。

・「疱瘡」天然痘。既注

・「字津の屋の十團子」「駿河の字津谷峠の茶店で売っていた名物団子。一串に小粒の団子十箇をさしてあった』とあり、岩波版の長谷川氏注には、『静岡県宇津ノ谷。東海道の岡部宿と丸子宿の間に位置し、豆粒ほどの団子を麻糸で十づつ貫いた十団子が名物』とある。宇津ノ谷(うつのや)峠は静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠で、中世以来の東海道の要衝として和歌にも詠まれ、現在も国道一号線が通る。標高は百七十メートル。しかし大事なのは、これは食べるものではなく、お守りであるという点である。その辺を二人の注釈は落している。分かり切ったことだったからなのか? しかしその結果として、全く「十団子」を知らない人間がこれを読んで注を見ても、「これって? 根岸のタイアップ広告?」などと勘違いをしてしまうことにもなるのである(事実、かつて初読時、私はまさにそう思って、いやな印象をずっと持っていた)。グラフィック・デザイナー溝口政子氏のサイト「le studio」の「宇津ノ谷の十団子」が画像も豊富で、独特の団子の形状――これが食べるものではなくお守りであること――もよく分かる。しかし今度は、何故、この団子にこの小児の天然痘のこの咽喉に特化した箇所に呪いとしての治療効果があるのかが気になってくる。そこでこの「十団子」のお守りの由来を調べて見たところ、非常に興味深い事実が分かってきたのである。それは実は、頑是ない童子が食人鬼と化したという、如何にも私好みの哀しい怪異譚が元だからである。その伝承は「藤枝市郷土博物館・文学館」公式サイト内の食人鬼供養の十団子に詳しくその文章も相応に長いであるが、それ自体が『岡部のむかし話」(平成10年・旧岡部町教育委員会発行)より転載』とあり、私としてはどうしても引く必要性を感じさせるものでもあり、以下に例外的に全文を引用させて戴く。

   《引用開始》

いつ頃のことだったのか宇津ノ谷峠の北側に深い谷があり、その下に梅林院というお寺があった。そこの住職は原因不明の難病にかかり、その痛みがとてもがまんできず、仕方なしに時々小僧にその血膿(ちうみ)を吸い出してもらっていた。血膿を吸ってもらうとしばらくは痛みも止まったのである。

ところがこの小僧、血膿を吸うことが重なって自然に人肉の味を覚えてしまい、ついに人を食べる鬼となってしまった。そうしてこの峠を住居として住み、峠を行き来する旅人を捕えてたべたりして困らせた。そのためにこの峠はおそれられて人が通らなくなり、宿場もさびれてしまった。どのくらい年代が過ぎた時のことだろうか、京都の在原業平(ありはらのなりひら)が時の天皇の命令で東国(とうごく)へ出かけ、この峠(蔦の細道)へさしかかるにあたって地蔵菩薩に祈願をした。

「今駿河の宇津ノ谷に峠に鬼神がいて村人たちを悩まし、通路も絶えてしまった。どうか、菩薩の神通力(じんつうりき)で村人の苦難を救って欲しい。」すると菩薩は旅の僧となってたちまち消えた。

それからしばらくたって一人の旅の僧が宇津ノ谷峠にさしかかった。その僧の前にかわいらしい子供があらわれたので、僧はこのただならぬ子供をじっと見つめた。そうして子供に話しかけたら、子供は

「私は祥白童子(しょうはくどうじ)というものです。あなたこそこの夕方どこにお出かけですか」

と。僧はすかさず、

「お前は、祥白童子などとはまっかなうそ、この村人や通行の旅人を食(く)い殺す鬼だろう。わしはお前を迷いから救うためにやってきたのだ。早く正体をあらわせ」

と大声でさけんだ。

怒りをふくんだ僧の一声は静かな山々にこだました。この一声に子供の姿は消えて、見るもおそろしい六メートルあまりの大鬼が目を光らし、今にもとびかからんばかりだった。僧は少しもあわてずに言った。

「なる程お前は神通力(じんつうりき)が自由自在だな。わしはもうお前にたべられてもしかたがない。しかし、死出(しで)の土産(みやげ)にお前のその力をもっと見せてくれないか」

鬼は得意になっていろいろな形に身をかえてみせた。僧はまた話しかけた。

「思い切り小さくなってわしの手の平の上に乗ることができるか」

得意になって鬼は一粒の小さい玉となって僧の手のひらに乗った。この時僧は持っていた杖で、手の平の玉を打った。すると不思議なことに空が急にくもり百雷が一時に落ちるような音がしたかと思うと、玉はくだけて十個の粒となった。

僧は、

「お前が将来里人を困らせることがないように迷いから救ってやろう」

と、一口にのみこんでしまった。

その後、この峠には鬼の姿があらわれなくなった。村人はもちろん旅人も大助かりをしたのである。

旅の僧が誰であったかは村人は知らない。ここのお地蔵様だろうと、お地蔵様の参けいはより盛んになった。

また、十の団子にわれた鬼のたたりを心配した村人は、玉を型どった十個の小さい団子を作って供養した。この供養は先の地蔵菩薩が夢の中のお告げで

「十団子を作ってわしに供え、固く信心してこれを食べれば旅も安全。願いごともうまくはかどる」

といったということからだという。

梅林院はいま桂島の谷川(やかわ)に移されて、院号も谷川山梅林院と言われ、十団子の伝えを残して居り、十団子は宇津ノ谷の慶竜寺のほうでつくっている。

   《引用終了》

ここで大事なことは二つ。一つは、この痘瘡神にダブる悪鬼がカニバリズムに陥って変じた童子であること。今一つは、地蔵菩薩の変じた僧が、その元童子の悪鬼を小さな粒のような団子(これは痘瘡の膿疱にすこぶる形状が似る対象物である点で類感的呪物であると考えてよかろう)に変えた上、呑み込む(咽喉と直連関)ことによって、迷妄が解けて悪鬼は消え去ってやすらかに往生する(治癒のイメージ)というシンボライズの重層性である。少なくとも私はここまで調べて初めて、「十団子」がここで呪物(まじもの)として登場し、相応の効果を持つということに、心底、納得出来たのである。だからこそ、私としても先の異例の全文引用が必要だったのだと御理解戴きたいのである。

・「 を黑燒にして」底本は二字分の空白で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも空白(長谷川氏は三、四字分と注されておられる)である。総ての伝本がここを空白とすることはかなり不審である。不審の背後に特に何かを感じているという訳ではないが、やっぱり不審である。これは単に後で書こうとして忘れたといった感じではない。そもそもが、この黒焼きにした添加物だけを忘れるというのもおかしな話だと私は思うのである。実は確信犯で根岸は書かなかったのではないか? それは実は文字にはし難い、破廉恥なものだったのではないか? しかも当時、読む人の多くは「あれか!」と大方、分かったのではないか? だから空欄でも十分に意が伝わる記載だったのではないか?……などと関係妄想的に考えが広がってしまう……つまらないことが気になる……僕の、悪い癖――である。何か、お気づきの方は是非、御教授戴きたいものである。

・「小田切」「耳嚢 巻之四 怪刀の事 その二」及び「耳嚢 巻之五 蘇生の人の事」に登場する北町奉行小田切直年。リンク先の私の注を参照されたいが、この根岸の呼び捨てが、寧ろ逆に、根岸にとって彼がよきライバルにして知音でもあったことを伝えるように私には思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 痘瘡(とうそう)にて膿疱(のうほう)の咽喉(のど)に多く発症したる際の呪(まじな)いの事

 

 痘瘡に罹患し、咽喉(のんど)の内側に膿疱(のうほう)が、これ、多く生ずると、小児は乳を飲んだり、食を摂ったりすること、これ、はなはだ困難となって、そのために滋養を摂ることの出来ずなって、衰弱し、死に至る虞れの増すこと、これ、ままある。

 このような折りには、知られた駿河は字津(うづ)の屋の例の「十(とを)団子」御守りに、×××を黒焼きにして、併せて服用さすれば、これ驚くばかりに食事や授乳、これ、進むように、なる――

とは、これ、盟友小田切の語っておったことで御座る。

耳嚢 巻之九 毒氣物にふれて增長の事

 毒氣物にふれて增長の事
 夏秋は諸蟲多く、ゲジゲジといへる毒らしき物ながら、人家道に徘徊し強て是にふれて毒ありといふ程の事もなし。しかるに右蟲眞鍮にふれぬれば、毒氣を增す事甚だし。或人眞鍮のきせるを側に置(おき)しが、其上を右の蟲はい渡りける故追退(おひのけ)しが、彼(かの)人自若として多葉粉を右きせるを以(もつ)て飮(のみ)けるに、血を吐(はき)しを見しと、横田翁かたりし。心得置くべき事なり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。民間伝承毒物篇。ゲジゲジの迷信として知られたものとしては、「ゲジゲジに頭を舐められ(這われる)と禿げる」というのがある。あの簡単に自切脱落(しかも動いている気味悪さ!)する歩脚の類感呪術であろうが、それにしても、この場合は何故、真鍮なのであろう? 私は、これはムカデが金などの鉱石を採集する技術者集団及びそうした地価の鉱物の鉱脈と関連付けられて語られる伝承をスライドさせたものではなかろうかと疑っている。蜈蚣(むかで)の本物の「金」に対する、蚰蜒(げじ)のまがい物の金色の「真鍮」である。なお、調べてみると、韓国ではゲジゲジのことを「トンポルレ(돈벌레)」と呼び(「トン(돈)」は「金」、「ポルレ(벌레)」は虫)、これ(以下に示す小型種のゲジ属ゲジ Thereuonema tuberculate 若しくはその近縁種であろう)が家にいると「ブジャ(부자)」(漢語「豊者」から。「金持ち」の意)になれるとして、喜ばれるという記載がネット上にはある。この招福「益虫」説の方が、蜘蛛とかダニを食うからなんどという、まことしやかな科学的「益虫」説より、私は何か腑に落ちるタイプの人間である。大方のご批判を俟つ。
・「ゲジゲジ」節足動物門多足亜門唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha の属する多足類。ウィキの「ゲジ」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『伝統的にはゲジゲジと呼ばれるが、「ゲジ」が現在の標準和名である。天狗星にちなむ下食時がゲジゲジと訛ったとか、動きが素早いことから「験者(げんじゃ)」が訛って「ゲジ」となったという語源説がある』。『構造的にはムカデと共通する部分が多いが、足や触角が長く、体は比較的短いので、見かけは随分異なっている。移動する際もムカデのように体をくねらせず、滑るように移動する。胴体は外見上は八節に見えるが、解剖学的には十六節あり、歩肢の数は十五対である。触角も歩脚も細長く、体長を優に超える。特に歩脚の先端の節が笞のように伸びる。この長い歩肢と複眼や背面の大きな気門などにより徘徊生活に特化している。オオムカデ』類(Scolopendridae オオムカデ科)よりはイシムカデ類(Lithobiids イシムカデ科)に近いとある(ウィキの「イシムカデ」にも、ムカデ類の仲間であるが、多くの種が大きくても成体は三センチメートルを越える程度であり、その形態は小さなムカデに酷似するものの、体は有意に扁平で歩脚数は十五対(オオムカデ目では概ね二十一か二十三対)で、『最後の二対が特に長い。体が小さいのに比べ、触角が長い。ムカデとゲジの中間に属する種という見方もされており、形態はムカデ然としているが、触角と最後尾の脚が長いことに、体節の上限が』十五という点では『ゲジ類と共通している』。また、『イシムカデ目トゲイシムカデ科のゲジムカデ(Esastigmatobius)という属は、形態がイシムカデ属と類似しているものの、脚がイシムカデに比べて長く、イシムカデとゲジの中間といった姿をしている。また、どの種も繁殖方法や、脱皮して成長するところも、どちらかといえば、ムカデよりはゲジ類に近い』とある。以下、ゲジの解説に戻る)。『幼体は節や足の数が少なく、脱皮によって節や足を増やしながら成長し、二年で成熟する。寿命は五~六年』。『食性は肉食で、昆虫などを捕食する。ゴキブリなどの天敵である。走るのが速く、樹上での待ち伏せや、低空飛行してきた飛行中のガをジャンプして捕らえるほどの高い運動性を持つ。また他のムカデと異なり、昆虫と同じような一対の複眼に似た偽複眼を有し』、高い視覚性能を持つ。『鳥等の天敵に襲われると足を自切する。切れた足は暫く動くので、天敵が気を取られている間に本体は逃げる。切れた足は次の脱皮で再生する』。『夜行性で、落ち葉・石の下・土中など虫の多い屋外の物陰に生息する。屋内でも侵入生物の多い倉庫内などに住み着くことがある』。本邦には以下の二種が棲息する。
●ゲジ属ゲジ Thereuonema tuberculata
 成虫でも体長三センチメートル程度の小型種で、体は比較的柔軟で本体体節表面に灰色の斑を持つ。
●オオゲジ属オオゲジ Thereuopoda clunifera
 本体体節部の長さが七センチメートルにも達する大型種。足を広げていると大人の掌に収まりきらないほど大きい。本州南岸部以南に棲息。体は頑強で褐色や緑色を帯びて光沢を持つ。夜行性・暗所性で昼間は通常、洞穴の天井や物陰などに隠れている。なお、図鑑や危険動物を扱う諸本にはこれを益虫としつつ、〈無毒であるが大型個体に噛まれると痛い〉と記されてあるのをしばしば見かける。実は小さな頃から、山野・屋内を問わず、いろいろな機会にこの者にしばしば遭遇してきた私は(実見したものの中には体節長が十センチメートルになんなんとするものもいた)咬まれたことはなく、また咬まれたという人も知らない(臆病であり、凡そ元来が摑みたくない/摑めないタイプの虫であり、人がこれに咬まれる可能性というのは極めて低いと私は考えている。この謂い方は私は一種の都市伝説レベルではないかとさえ考えている。因みに私はムカデともよく遭遇し、その最大個体は鎌倉市岩瀬の自然保護地域で保存樹林の谷間に住んでいた折りに室内に侵入してきた唇脚綱オオムカデ目オオムカデ科オオムカデ属 Scolopendra subspinipes mutilans の個体で、全長が有に十五センチメートルを越えていた。かなり長い菜箸で摑んだが、巻き上がってきて、指を嚙まれそうになった。沸かした湯に入れて退治したが、この湯を捨てた際、それが少し掌に――触れた――ひっかかったのであるが、その――湯に触れた――部分は翌朝――かかった湯水の形のままに赤い炎症を発して、激しい掻痒感を覚えた――のであった。本文ではゲジゲジが触れることで毒性が強化されるとある訳だが、私はこの三十五年も前の戦慄の出来事を、今回、読みながら鮮やかに思い出していた。
・「横田翁」横田袋翁。頻出の根岸昵懇の情報屋。既注。
■やぶちゃん現代語訳
 微弱なはずの毒性が特定の対象物に接触すると恐るべき強毒化を示すという事
 夏・秋は諸々の虫の類いが、これ、すこぶる多く出ずる。
 中でも、ゲジゲジと申すは、奇体なるあの体つきからして、如何にも不気味で、さも毒の、これ、ありそうにも見える虫であるが、家内(いえうち)や道端に、こ奴の徘徊しおるに遭遇し、これに咬まれたり、或いは、触れたり致いたからというて、その毒に当たった、と申すようなことは、まずこれ、聴いたこともない。
 ところが――このゲジゲジと申す虫――ひとたび真鍮に触るると、これ、その微弱なはずの毒性が恐るべき強毒へと変ずることは、これ、想像を絶するものなのである。
 ある人、真鍮製の煙管(きせる)を自分の傍らに置いておいた。
 その上を――かのゲジゲジ虫が――吸い口から這い上って――煙管の上をすうっと渡って這っておるを見つけによって、それをぱっと払いのけた。
 ところが、その御仁、それからやおら、その煙管で煙草を吸い出したところが、
――グエーッツ!
と! 血を吐くを、これ、実際に見たことが御座るのじゃ。……
……と、横田翁の語って御座った。
 これが事実としてある現象かどうかは別として、まず、気をつけるにこしたことはないと申すべきことではあろうとは存ずる。

尾形龜之助 「原の端の路」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    原の端の路

 

         尾形龜之助

 

夕陽がさして

空が低く降りてゐた

 

枯草の原つぱに子供の群がゐた

 

見てゐると――

その中に一人鬼がゐる

 

 Haranohasinomiti


    
草原边缘的一条路


         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

夕阳照着

天空低了

 

长满枯草的平原上孩子们聚在一起

 

仔细看看——

其中有一个老瞎——小鬼……

 


         
矢口七十七/

尾形龜之助 「春は窓いつぱい」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    春は窓いつぱい

 

        尾形龜之助

 

春は窓いつぱいにあふれてゐる

私は昨日から寢てゐる

 

頭から蒲團をかぶつて

 

こんど床をでるまでに彼女との愛をすてなければならない と

私は床の中で自分の不幸を考へてゐる

(何時の間にか私は蒲團から頭を出してゐる)

かなしい春である

 

 

Haruhamadoippai

    阳春满腾腾的窗框


         
作 尾形龟之助

         译 心朽窝主人,矢口七十七

 

外头阳春满腾腾,要从窗框里溢出来

从昨天起我一直躺在被窝里

 

把被子一直蒙到头上……

 

从被窝里出来之前,不得不放弃与她的爱……

我在被窝里掂量着自己这个不幸……

(不知什么时候我探出头来了)

悲哀的 这个 春天……

 

 


         矢口七十七/

2015/01/20

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 不思議な洞窟にてモース先生インディー・ジョーンズとなるの巻

 我々が食事をしている最中、数名の村民が、驚いたり、崇めたりする為にのぞき込んだ。その中で一人、丘の片側に洞窟があり、そこには陶器が僅か入っているということを話した。北方の洞窟で見出される陶器の特異な形式を知り、且つ洞窟は埋葬場で、そして器物が米や酒やその他の供物の為に洞窟内に置かれてあることを知っている私は、筆と紙とをかりて、洞窟内の器物の輪郭を画いて見た。知事はその絵を男達に見せ、この通りかとたずねた。すると彼等は奇妙に当惑しながら、実は自分達はその陶器を見たことが無く、彼等の又もまた見ていないが、彼等の祖父が、かつて丘のその側に細い路がつくられた時、土工たちが洞窟の屋根をつきやぶり、そして器物を見たことがあるという話を、語り伝えたのだといった。

[やぶちゃん注:「陶器」原文は確かに“pottery”であるが、ここまで読んでこられた方々はお分かりの通り、モースの使うこれは広範な土製の器を指す語であって、彼は縄文や弥生の「土器」及び「須恵器」(古墳時代中期から平安時代にかけて作られた轆轤(ろくろ)成形されて登り窯で高温焼成した、先行する「土器」に比して比較的硬質な灰黒色の土器。主に朝鮮からの渡来人が製作した祝部(いわいべ)土器)のことを指していることは明白である。

「洞窟」問題はこれが何処の如何なる時代のもので(但し、初期建造からそのまま維持されたのではなく、時代を経て、別な用途に転用改造されたことは後に出る特異な地下通路形態の図からも明らかであると思われる)、どこにあったものか、である。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」にも載らない(私の感触では磯野先生はこれらは総て「当尾貝塚」及びその周辺に集中してあった遺跡と考えておられるように思う)。「丘の片側」という表現からは、この直前に彼が発掘した損壊した古墳の近くであるとしか読めない。それは何度も言うが、同時にこの時、モースが発掘した「貝塚」が「当尾貝塚」であったか「大野貝塚」であったかをも決定し得る重要なヒントともなるのである。私にはこれは元は所謂、古墳であったとしか思われない(くどいが、その後に人が入って一部が別なものに転用された可能性が大きい。後の箇所で、モースはこれを「地下墓所」と呼称しながら――これは明らかに古墳時代の真正の古墳の謂いとしか読めない――、そこについてまた富岡が「そこにはかつて鉱坑が掘られた」と言っていることに注意されたい)。熊本の考古学や郷土史・地誌にお詳しい方なら、以下に出る不思議なこの洞窟を同定することは容易なはずである(にも拘らず、ネット上では私の捜し方が悪いせいか、見出せないのである)。どうか、御教授をお願いしたいのである。]

 

 昼食後、我々は彼等に案内させてその場所へ行った。どしや降りの雨の中を、殆ど半マイルの間、急な坂の泥を.バシャバシャやって登ると、彼等は立止り、道路の崖の側を指さした。のぞき込むと十フィートばかり下に穴があいていて、そこから泥水が、まるで堰口みたいに流れ出ている。これが洞窟の入口なのである。こんな激流は、麝香鼠(じゃこうねずみ)か海狸(ビーバー)に非んば、堰き止めることは出来ぬ。どこから一体水が流れ込むのだろうと思ってあたりを見廻すと、我々が立っている所で、あふれた溝が、その水の多くを失いつつある。知事はここで溝を掘る許可を得た。掘ると、洞窟の屋根にある穴を蓋(おお)う何本かの丸太が現れた。路のはるか上方で溝を堰き、水を急な土手越しに流すようにした。穴は直径二フィート位しか無い。

[やぶちゃん注:「半マイル」約八百メートル。「貝塚」からほど近い、海岸線に近い昼食を摂った漁師の家からである。――貝塚――古墳――海岸直近――そしてこの不思議な洞窟――海賊の宝探しではないのだ。これが分からぬはずがないと思うのだが……。

「十フィート」約三メートル。

「麝香鼠」原文は“muskrat”。まず、真正の「麝香鼠」について記す。哺乳綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ Suncus murinus Linnaeus, 1766(本邦産を亜種リュウキュウジャコウネズミSuncus murinus temmincki Abe, 1997 とする説がある)ウィキの「ジャコウネズミ」より引用する。主棲息地はサバンナや森林・農耕地であるが、人里にも生息する。『東南アジア原産だが、アフリカ東部やミクロネシア等にも人為的に移入している。日本では長崎県、鹿児島県及び南西諸島に分布するが、長崎県及び鹿児島県の個体群は帰化種、南西諸島の個体群は自然分布とされているがはっきりとしていない』。体長十二~十六、尾長六~八センチメートル。体重♂四五~八〇、♀三〇~五〇グラムで、『メスよりもオスの方が大型になる。腹側や体側に匂いを出す分泌腺(ジャコウ腺)を持つことからこう呼ばれる。吻端は尖る。尾は太短く、まだらに毛が生え、可動域は狭い』。『食性は肉食性の強い雑食性で昆虫類、節足動物、ミミズ等を食べるが植物質を摂取することもある。よく動くが、その動作は機敏とは言い難い。繁殖形態は胎生』、一回に三~六匹の幼体を出産する。『子育ての時には幼体は別の幼体や親の尾の基部を咥え、数珠繋ぎになって移動する』(これを「キャラバン行動」と称する。リンク先に剥製画像)。『人間の貨物等に紛れて分布を拡大しており、アフリカ東部やミクロネシアなどにも分布する』。但し、『日本に分布する亜種リュウキュウジャコウネズミの起源は古く、史前帰化動物と考えられている』。『吐く実験動物として利用される。実験動物としてイヌ、ネコなどは嘔吐するが大型であり、ウサギ、ラット、マウスは小型で飼育しやすいが嘔吐しない。ジャコウネズミは小型で、薬物や揺らすことで吐くため嘔吐反射の研究に用いられるようになった。ネズミ類ではないことを強調するためスンクスと呼ばれる。肝硬変の実験のためエタノールを与えて飼育している際、吐いているスンクスを発見し応用されることとなった』。また、『英文学の翻訳で齧歯目のマスクラットをジャコウネズミと翻訳していることが間々あるため、注意を要する』とある。問題はこの最後の部分で、モースはまさに“muskrat”と記しているのである。まさにこれは、哺乳綱トガリネズミ目トガリネズミ科ジャコウネズミ Suncus murinus ではなく、齧歯(ネズミ)目ネズミ科ハタネズミ亜科マスクラット Ondatra zibethicus の語訳であると私は思うのである。何故なら、モースはここで水場に大きな巣を作る齧歯(ネズミ)目ビーバー科ビーバー属 Castor を並列させているからである。ウィキマスクラットによれば、マスクラットはアメリカ合衆国・カナダに自然分布し(モースが若き日にフィールド・ワークで親しんだ地域にぴったり一致する)、体長三十・二~三十・三センチメートル、尾長二十一・八~二十三・三センチメートル。柔らかく短い体毛で密に被われ、毛衣は褐色や黒褐色或いは黒色を呈する。尾は側偏し、泳ぐ時には舵の役割を果たしていると考えられ、腹部に臭腺を持ち(ここから発せられる匂いはディスプレイやマーキングに役立つと考えられている)、ここから分泌される匂いが麝香(Musk)に似ていることが名前の由来とある。かつて英名を直訳して「ジャコウネズミ」と呼んだこともあるが、『トガリネズミ目のジャコウネズミと紛らわしいことから、今日ではこの呼称は文学作品の翻訳で見かけるぐらいである』とある。生物学者のモースがこの全くの別種をいっしょくたにすることは全く考えられないことなのである。但し、マスクラットは、『沼などに生息』し、『河川に生息することは少ない』。但し、『陸に上がることは少な』く、『入口が水中にある巣を作り沼地では水中に植物を積みあげた塚を作りその中に、河川では水辺に横穴を掘って巣穴にする』(下線やぶちゃん)。雑食性で、草・水生植物・魚類・甲殻類・貝類などを摂餌とある。

「二フィート」約六十一センチメートル。]

 

 十数名集って来た村の人達に、穴の中へ入れば莫大な褒美をやるといったが、地下墓所へ入ることに関する迷信的の恐怖心が非常に強いので、誰も入ろうといわない。八代から連れて来た車夫達も頭を振り、私の助手もそれを志願しない。こうなれば私が入るばかりだ。知事は、そこにはかつて鉱坑が掘られたのだからといって、私を引き止めようとしたが、若しそうなら、私には、洞窟内の水は外側の流れと同じ水準であることが分っている。私は車夫二人に両手をつかませ、穴の中へ身体を下降させた。まるでポケットの中に入ったように暗く、そして雨空から来る僅かな光線は、穴の入口を暗くする、好奇心に富み、且つ恐怖に襲われた群によって遮られた。私は何かに触ろうとして脚をのばしたが何にもならず、最後に車夫達がつかむ手を無理に振りはなして、お腹のあたり迄、水の中に落ちた。

[やぶちゃん注:「私の助手」既注の教場助手補である種田織三。]

 

 瞬間的の沈黙に引きつづいて、穴の口から恐愕の叫声がひびき入った。私は助手に向って、私が無事であることを叫んだ。すると彼は興奮しきった声で、穴の口から大きな有毒の百足(むかで)がはい出して来たというではないか! 私はつばの広い帽子をかぶり、すべすべした護謨外套(ゴムマント)を着ていたが、粗麁な穴の内側から崩れ落ちる土塊や小石だと思っていた物は、実ほ巨大な百足が私に降りかかるのであった。私は文字通り、有毒虫の流れの中に立っていた。彼等は吃驚(びっくり)した蜘蛛(くも)がするように、洞窟の壁を匐(は)い上り、そして天井からパラパラ落ちた。薄暗い光線に日が馴れると共に、私は数百匹の百足が水面を漂うのを見た。そして水流が彼等を漸竭するのを待って、私は陶器を求めて砂中をさぐつた。土砂がそれ迄に沢山集っていて、探さ二フィート以上の堆積が底部全体を蓋っていた。それはまことに気味の悪い経験であったが、私のすべっこい外套とつばの広い帽子とが私を救った。というのは、百足は足がかりが無いので、私を襲うや否や水中に落ちたのであった。私は陶器のことで興奮していたればこそ、恐れ気もなく、こんな暗い、騒々しい洞窟中に、百足の雨をあびてしゃがんでいることが出来たのである。私は博物館のために、標本用の百足を三匹つかまえ、入口に向って洞窟の壁を写生し、そこで繩を下させ、引き上げて貰った。出て見ると、穴の附近には、匐い出すに従って躇みつぶされた百足の死骸が、沢山散らばっていた。

[やぶちゃん注:この妖しい「地下洞窟」シークエンスのハイライトである! これはもう、モース先生! インディー・ジョーンズやないか!! しかも百足を最後にちゃんと標本用に採取してる!!! 好きやねん! モースせんせ!!!

「漸竭」は「ゼンケツ」と読み、だんだんに減衰減少し、最後にはなくなること。「竭」は次第に減ってゆき、遂にはなくなる・続いていたものが終わる。途絶えるの謂いである。]

M586

図―586

 

 水は上流で堰き止め、洞窟からも流し去った。私はついに人力車夫二人に入らせることが出来た。彼等は耨(くわ)を使用して注意深く砂を搔き去り、一時間一生懸命に掘ったあげく、陶器を四個発見した。その一つは完全で、一つは僅かに破損し、他の二つは器の大きな破片である。知事は写生図を取り出した。私は彼が村の人々に向って、海外一万「リ」の所から来た外国人である私が、彼等さえも見たことがない、これから発見されようとした器物の形を、これ程正確に描いたことを、驚いて話すのを聞いた。村民達は、外国の悪魔として私を眺め、私が陶器を持ち去る時、大いに不満を示した。知事は、これ等が大学の博物館に置かれるのであることを説明した。図586は、入口に向って見た洞窟の有様である。中央の拱門(アーチ)は洞窟への入口で、外側にある入口は小さく、そこから洞窟へ向って拡がるのであるが、通廊と同様に曲線をなしている。両側にある鉄門は、どこにも通じていない。

[やぶちゃん注:「知事は写生図を取り出した。私は彼が村の人々に向って、海外一万「リ」の所から来た外国人である私が、彼等さえも見たことがない、これから発見されようとした器物の形を、これ程正確に描いたことを、驚いて話すのを聞いた。」原文は“The Governor drew out the sketch, and I heard him speak to the natives in wonder that I, a foreigner, who had come ten thousand li across the seas, should describe precisely the shape of the vessels to be found, which they had never seen.”。『一万「リ」』は馬鹿正直に換算すると約三万九千キロメートルになるが、これは円を「ドル」、銭を「セント」と表記しているのと同様のモース流単位で、「里」として異文化認識を添えた「マイル」であろう。一万マイルなら約一万六千キロメートルに当たり、現在の東京からニューヨークまでの直線距離一万千キロメートルのややどんぶりな表現となる。]

 

 午後五時、我々は熊本まで二十四マイルの路を、人力車で行く可く出発した。雨は降りずめに降り、通路は極めて悪い――これ程惨憺たる、そして人を疲労させる人力車の旅は、私にとっては初めてであった。私は疲れ切っていた。そして身震いをした程寒く、また起きているのが困難であった程ねむたかったのであるが、一寸でもウトウ卜すると人力車が揺れて、頭がちぎれる程ガクンとなる。貝塚で発見した陶器その他の標本を荷ごしらえするために、種田氏は後に残ったので、私の唯一の伴侶は、英語を一言も解さぬ知事であり、また私の東京日本語――方言に近い――は、彼にとっては、殆ど判らぬものなのであった。八時、我々は車夫の数を増したが、彼等は全距離にわたって歌を歌い、交代に一人ずつ、一足ごとに唸ったり、調子を取ったりした。車夫が歌を歌うとは如何にも珍しいので、しばらくの間私は起きていたが、その珍しさもやがて失せ、熊本へ着いた時の私は、生きているよりも死んでいる方に近かった。熊本の知事は、我々の宿舎として私人の邸宅をあてがってくれたが、私はそのもてなしを充分味う可く余りに寒く、気持悪くさえあったので、靴をぬぐと共に、家の中へ這い込み、濡れた衣類を身につけたまま床にごろりと横たわり、丸太のように眠て了った。

[やぶちゃん注:「午後五時」明治一二(一八七九)年五月二十六日の午後五時と推定される。

「二十四マイル」前出の距離に同じい。三十八・六キロメートル。これがやはり宿泊地であった八代市街から熊本市街への距離であったことが判明する。]

耳嚢 巻之九 鬼岩寺山中異人の事

 

 鬼岩寺山中異人の事

 

 在番の仁、文化六の春の頃往來せしに、川留又は風雨にて駿州藤枝の驛に永く逗留なし、徒然(つれづれ)退屈のあまり宿内近邊をあちこち逍遙なしけるに、茶屋やうの老人、何方の御方やと尋(たづね)しゆゑ、東都の者にて川留等の退屈の儘、此邊珍らしき事もありや、見所も有るべしと徘徊する旨を答へければ、當所に何も珍ら敷(しき)事もなし、鬼岩寺(きがんじ)の山ちうに異人あり、是を尋ね給へ、しかれども其道難所なれば其姿にては難成(なりがたし)と言(いひ)しゆゑ、股引わらじに身輕の出立(いでたち)して、山際までの案内を賴みけるに、右鬼岩寺の山は甚ださかしく、かろうじて漸(やうやく)絕頂まで至りしに、絕頂は餘程の廣場にて小松など參差(しんし)とありて、ひとつの庵室(あんじつ)體(てい)の處あり。床には武器など並べありて一人の老翁ありし故立寄(たちより)ければ、能(よく)こそ尋給ひし、旅人にやと尋しゆゑ、有(あり)し次第幷(ならびに)里人の咄ゆゑ對顏(たいがん)を得たく來りしなり、教へし人は、此山中の僊(せん)なりといひし由かたりければ、全(まつたく)我(われ)仙術を得たるにあらず、年も九十歲餘にて、かく人はなれに住(すむ)故、仙などゝいひもせん、元田中の城主本多(ほんだ)家の臣にて、先年本多家に一亂ありし時、我身も退身(たいしん)申付(まうしつけ)られしが、年立(としたち)て我あやまりなき事わかりて再勤もゆるされしかど、世にへつらひあらんも面白からず、跡は忰(せがれ)成(なる)ものに讓りて、かく山居して世塵を遁れをるなり、主人よりも少々の手當も給(たまは)り、忰よりも見繼(みつぐ)間、今日の食事に愁ひなし、しかれども絕壁の地故、時として薪水(しんすい)の便(べん)を失ふ事あれば、生米(なまごめ)を嚙(かみ)て飢(うゑ)を凌ぐ、元より一人なれば何も不足と思ふ事なし、何ぞふるまひ申度(まうした)けれど、かゝる事故其貯(たくはへ)なし、酒少々有(あり)とて、酒をあたゝめ、聊(いささか)の口とりを出しける故、是を飮(のみ)て暫く物語りせしに、古しへより馬を好みて乘(のる)由にて、一疋の馬を引出(ひきいだ)し二三遍も乘、御身も乘給へといふ故少し計(ばかり)乘りしが、彼(かの)馬甚だかんつよく中々手に及兼(およびかね)しが、老翁は岩壁の嫌ひなく丸木橋等を渡り、又は絕壁等飛越(とびこ)しける有樣、仙と云(いふ)もむべならず思われて、其事を尋訪(たづねとひ)しに、馴候得(なれさふらえ)ば、馬の乘方(のりかた)もかゝる絕域(ぜつゐき)に住むも、安き事なりと答へし上、御身も早く戾り給へ、噺(はなし)もつきてければ我等も面倒に思ふ也といふ故、暇乞(いとまごひ)して戾りける由。其名も聞しが忘れたり。書留(かきと)め置きしを求め出し與ふべしと、親友山本某、知れる人の物語りなりと云し。

□やぶちゃん注

○前項連関:六つ前の「吐血を留る奇法の事」の「予が親友山本某」と同一人(それ以後でもニュース・ソースに同人らしい人物がいる)と考えてよく、同一の情報屋由来で連関する。実在する変人畸人譚シリーズ。

・「文化六の春」「卷之九」の執筆推定下限は同文化六(一八〇九)年夏。

・「在番の仁」大番組(おおばんぐみ)・大番の勤士。老中に属し、戦時は先陣を切る役で、平時には江戸城・大坂城・京都二条城及び江戸市中の警備を交代で行った。ここはその大坂城及び二条城の交替の在番方を指す。

・「鬼岩寺」底本鈴木氏注に、『静岡県藤枝市大字鬼岩寺』(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真。御覧の通り、深山では、ない)真言宗。岩田山(岩田は藤枝の古名)一名鬼岩山に在る。寺中に、鬼岩または真言岩と称する巨石がある』と記す。楞巌山(りょうごんざん)鬼岩寺。現存。有限会社「佐野石材」が運営するサイト「藤枝宿」内の同寺の記載(かなり詳しい。まさにこの文化年間にここにいた東海道の黒犬と呼ばれた強犬「クロ」の話など必読。藩主本多侯も登場する)によれば、寛保二(一七四一)年に同寺三十一世照秀の記した「鬼岩寺縁起」によれば、神亀三(七二六)年に行基菩薩によって開創されたとする。行基が東国への布教の途次、此の地に立ち寄ったところ、『寺も無く仏教を信じる者が少ないのを憐れんだ行基は、衆生を救済し、仏教弘通の根拠地とするため、自らの手で聖観世音菩薩を彫りあげて祀ったのが、鬼岩寺の始まりであったという。現在この観世音菩薩は秘仏で』、三十三年に一度の開扉法要以外には拝顔出来ないとある。開創から百年ほどが過ぎた弘仁年間(八一〇年~八二三年)のこと、『弘法大師空海が東国行脚の折、この地に寄った。ちょうどこの頃悪い鬼が出て人々を苦しめ、困りはてていた。そこへ弘法大師が訪れたので、村の人々はこれ幸いと大師に鬼退治をお願いした。そこで大師は五大尊の像を』描き、七日間に亙って『秘咒を加持すると、一天にわかにかき曇り、雷鳴とともに鬼が姿をあらわした。そこで大師はこの鬼を裏山の岩穴に封じこめると、荒れていた空はたちまち晴れわたり、翌日から鬼岩寺村に鬼は出なくなった。これを機に寺の名を「鬼岩寺」と称するようになり、真言宗に改宗され、村の名も鬼岩寺村と称するようになった。今でも寺の裏山には岩穴があり「鬼岩」とか「魔魅の岩」と呼んでいる。また鬼が鋭い爪を研いだと言われる傷あとの残った「鬼かき岩」(学者の説では玉を研いだ石であると言う)が境内に安置されている』とある。それ以降、本寺は名を知られるようになり、建久三(一一九二)年には『鳥羽天皇が先帝後白河法皇の追善供養のために、法皇所持の仏舎利二粒を宝塔に入れて鬼岩寺に奉納したという』とある。

・「參差」長短の等しくないさま、揃わぬさまで、ここは細いひょろひょろした松が長短混ぜて、つんつんと不揃いに生えているさまを指している。

・「僊」底本では右に『(仙)』と訂正注するが、この「僊」自体が山人・仙人の謂いである。

・「九十歳餘」この数値が正しいとして文化六年から遡ると、この老人の生年は享保四(一七一九)年前後となる。

・「田中の城主」底本鈴木氏注に、『享保十五年本多伯耆守正矩が上州沼田から転封し明治維新まで在城した。四万石。田中城は藤枝市田中。もと今川氏の部将が守ったが元亀元年甲州勢に乗取られ、修築を加えて田中城と称するようになった』とある。田中城は現在の静岡県藤枝市西益津にあった平城で、江戸時代は田中藩の藩庁が置かれた。以下、ウィキの「田中城」より引く。天文六(一五三七)年に駿河今川氏によって築かれ、永禄一三(一五七〇)年の『武田氏による駿河侵攻以降、三河の徳川氏に対抗する駿河西部の城砦網の要として重要視された』が、天正一〇(一五八二年)年に『徳川勢により攻められ落城』、天正一八(一五九〇)年の『徳川家関東移封後は駿府城主中村一忠の管轄となった』。慶長六(一六〇一)年、『酒井忠利が田中藩主となり城域の拡張や藤枝宿の城下町への取り込みなどを行った』。その後、酒井は慶長一四(一六〇九)年に川越に転出、『以後は駿府に居を構える徳川頼宣・徳川家康によって支配された』。なお、元和二(一六一六)年一月、家康はこの『田中城に立ち寄り、茶屋四郎次郎に供されて鯛の天ぷらを食し』ているが、『これが家康の死因とする説がある』(現在の研究では死因は胃癌説が主流)。寛永一〇(一六三三)年以後は松平・水野・北条氏らが封じられた後、享保一五(一七三〇)年に本多正矩が四万石で封ぜられ、以降、明治維新まで同藩主となった。

・「本多家の臣の臣にて、先年本多家に一亂ありし時、我身も退身申付られし」先の生年推定から家臣であったのを二十代後半から三十代(既に家を継ぎ得る息子がいた以上、そんなに極端に若くはない)から、この時点で九十歳となれば、四十代か五十代の頃まで範囲が広げられるから、「先年本多家に一亂ありし時」というのは、若くて寛延二(一七四九)年前後から宝暦九(一七五九)年、壮年時であったとすれば明和六(一七六九)年頃から安永八(一七七九)年、さらに「先年」という謂いからは十年以内の可能性も否定出来ぬから、実はそれ以降の天明元(一七八一)年から寛政・享和を経て文化元・享和四(一八〇四)年頃まで延ばすことも可能となる(但し、そうすると見た目が九十歳というのが逆に問題となってはくる)。そこでこの「一亂」がヒントになる。経済状態の苦しかった駿河田中藩の歴代藩主の経歴を見てゆくと、第四代藩主本多正温(まさはる 明和三(一七六七)年~天保九(一八三八)年)のところで目がとまった。彼は安永六(一七七七)年に父で第三代藩主であった本多正供(まさとも)の死去に伴い、十歳で家督を継いでいる。『成長してからは親政を行な』って、寛政六(一七九四)年には『紀伊から紀州みかんを取り入れて藩内に流通させ』、寛政九年に『松江藩士だった武術家の仙田政芳を登用して武芸を奨励』するなど、藩政改革にも努力した。寛政一一(一七九九)年には幕命により、『湯島聖堂の再建工事を監督し』ているが、この翌寛政十二(一八〇〇)年の七月に『田中騒動が起こったため、家督を長男の正意に譲って隠居した。この騒動の細部には不明な点が多いが、正温が武芸を奨励するために登用した金田忠勝ら新参と譜代の家臣が主導権をめぐって対立して新参が追放されたためとも、後継者の正意』(まさおき)『の生まれに問題があって騒動が起こったともいわれる』とあるのである(傍線太字はやぶちゃん)。この怪しい藩中の変事(お家騒動っぽい説も記されてある)は、これ以上のことが記されていないのでよく分からない。しかし、時代的には私の下限設定にぎりぎり入る。この寛政十二(一八〇〇)年が、本話の主人公が本意にあらず半強制的に地位を追われた年とすれば、文化六(一八〇九)年までは、九年で「先年」が如何にもしっくりくるではないか。但し、そうすると八十歳頃まで藩の重職を勤めていたことになるが、七十以上で現役というのは当時は必ずしもあり得ぬことではなかった。この「一亂」は私はこの妖しい「田中騒動」とみて間違いないと思うのである。

・「見繼」貢ぐ。生活必需品をここへもたらす。

・「尋訪しに」底本では「訪」の右に『(問)』と訂正注がある。しかし普通に問題なく「たづねとひしに」とこれで読める。] 

 

■やぶちゃん現代語訳

 鬼岩寺(きがんじ)山中の異人の事

 在番の御仁で、文化六年の春の頃、交替となって江戸へと帰る途中――川止めであったか、激しき暴風雨にても御座ったか――かの駿河の藤枝(ふじえだ)の宿駅にて、永く逗留せずんばならずなったによって、徒然(つれづれ)の退屈のあまり、宿の内や、その近辺あちこちを、これ、漫(すず)ろに逍遙なんど致いて御座ったと申す。

 茶屋のようなところにて一服致いておったところが、そこにやはり憩うて御座った一人の老人が、

「……お武家さまは、どちらの御家中の御方で御座いまするか?」

と訊ねて参ったによって、

「――拙者は、東都の者にて、川止めなどの退屈しのぎに、この辺りに珍らしきことなどもあるか、名所旧跡なんどでもあろうかと、かく、ぶらついておるので御座る。」

と答えたところ、

「……いんやぁ……当地には、これ、何んも、珍らしきことも御座いませぬ。……おっ!そうじゃ……この近場に、鬼岩寺(きがんじ)と申す山のあって、その山中に、これ、一人の何とも変わった異人の御座いまする。……一つ、笑い話に、この者をお訪ねにならるると宜しゅう御座いましょう。……なれど……その山道はこれ、なかなかの難所で御座いますれば……そのご立派なるご装束にては……ちと……難しゅう御座いまするなぁ……」

と申したによって、

「――相い分かった。しばし待たれい。」

と老人に告ぐると、直ぐに宿へと帰り、股引に草鞋(わらじ)という、至って身軽な出で立ちに着替え、茶屋へととって返すと、老人に案内(あない)を乞うた。

 さても、その山裾までは、この老人に案内して貰い、そこよりは教えられた通りに、登り始めてはみたものの、これがまあ、なかなか、その鬼岩寺の山、はなはだ峻嶮にして、辛うじて、漸やっと絶頂まで達したと申す。

 すると、その絶巓は、これかなりの広き場所で御座って、小さき松などが、しょぼしょぼと不揃いに生えておって、その脇に小さなる庵室(あんじつ)ようのものが一軒、建っておった。

 声を掛けて中を覗いてみれば、床(ゆか)には、太刀や弓・槍なんどが並べて御座って、一人の老翁が、そこに座って御座った。

 側へと近寄って参ると、

「――よくぞお越し下された。――旅のお人で御座るか?」

と、静かに訊ねたによって、かく参った次第を述べた上、

「……貴殿がことにつき、里人の話に、面白き御仁なりとのことで御座ったによって、拝顔仕りとう存じ、かくも参った。……お教下されたお方によれば、何でも、この山中の仙人であられる、とのことで御座いましたれば……」

と述べたところ、

「……いやいや……全く以って我ら、仙術を得たるような、大層な者にては、これ、あらず……齢(ようわい)も、はや、九十歳あまりの……ただの老いぼれにて……かく、人離れたる土地に住もうて御座るによって……まあ、人の、仙人なんどと、噂を致いて御座るだけのこと。……我らは……元田中の城主……本多(ほんだ)家が家臣にして……先年、本多家に一騒動、これ、御座った折り……我が身、城主より退身(たいしん)を申しつけられて御座ったが……年の経って、我らに過ちの、これなきこと、ご主(しゅ)もお分かり下され、再勤も許されては御座ったれど……まず……世に諛(へつろ)うて生くるも、これ、面白からざれば、の。……跡は倅(せがれ)なる者に譲り、かく山居して世塵を遁れておる次第。……主人より少々のお手当てなども給わり、倅よりも日々の生活を送るには足るだけの物を送ってよこして御座れば……まず、今日の食事の愁いは御座らぬ。……しかれども、絶壁の辺地ゆえ、時として薪や水の便(べん)に不自由致すことも御座るが、その時は……これ、生米(なまごめ)を嚙みて飢えを凌いでおりまする。……もとより一人身なれば、何の不足と思うことも、これ、御座ない。……何ぞ、貴殿に振る舞いとうは存ずれど……かかる次第なれば、そうした貯えも御座らぬ。……なれど、まあ、酒の少々、これ、御座れば……」

と、酒を温め、僅かばかりの山菜の肴なんどを出だしくれたによって、これを酌み交わしつつ、しばらく物語りなど致いた。

「……拙者、古えより馬を好んで御座る。」

と語り、一疋の馬を庵(いおり)の横手より引き出だいて、二、三遍も巧みに乗り回したかと思うと、

「――御身もお乗りにならるるがよい。」

と申したによって、その馬を借りて、少しばかり乗ってみて御座ったものの、この馬がまた、いたく疳の強き馬にて御座って、なかなか扱いかぬるもので御座った。

 ところが、そんな荒馬を、この老翁は、美事に乗りこなしておられた。

――垂直に聳ゆる岩壁をも、ものともせず、これ、あたかも鵯越(ひよどりごえ)の逆落しよろしく、ぴょんぴょんと身軽に飛ぶように走らせ……

――一本きりの丸木橋なんどをも、これ、五条の大橋の欄干よろしく、怖気づくことものう、すすいっと渡り……

――または、切り立って奈落も朧(おぼろ)な断崖絶壁なんどにても、これ、八艘跳びよろしく、ゆうゆうと飛び越してゆく……

……その、ありさまたるや、まっこと、仙人と申すも、これ、むべならず、と思われて、その絶妙の手綱捌きに、度肝を抜かれ、そのことを訊ねてみて御座ったところが、

「――なに――馴れさえ致さば――これ――馬の乗り方も――かかる――絶界の辺境に住まうことも――安きことにて――御座る。」

と、平然と答えた。

 そうして、

「……さても……御身も早(はよ)う、山をお下りなさるるがよろしかろう。……我ら、既にして、貴殿とお話しすることも、これ、尽きて御座れば。……我らも、もう……話をすることの……少しばかり……面倒に感じて参ったれば、の……」

と呟いたによって、暇ま乞いして、山を下ったと申す。 

 

「……その名も訊いて御座ったが……最早、忘れてしもうた。……この出来事につき、書き留め置きしもののあったを、最近見つけたによって、何やらんこうした話をかき集めておる貴殿に、これ、差し上げんと存ずる。……」

と、私の親友山本某(なにがし)が呉れたを、ここにそのまま書き移して御座る。

 山本曰く、

「……これは、私の知れる、さる御仁の体験致いた、確かな話で御座るぞ。……」

とのことで御座った。

耳嚢 巻之九 勿來の關の事 但櫻石に成る事

 勿來の關の事 但櫻石に成る事

 

 奧州なこその關は、むかしは山を越えて往來せしや、今は右關ありし山は通路なく、中むかしより右山の麓海岸を通ふ事の由。潮みちぬれば通路なりがたく、飛鳥井(あすかい)殿の歌に、

  こゝつらや潮みちくれば道もなし爰をなこその關といふらん

右當時、通路を九々面と書(かき)てこゝづらと云(いふ)由。いにしへ、名こそに櫻を詠(よみ)し古歌もあれど、いまはさくらなし。しかれども、大木の櫻伐採ありて今は石になり、今に櫻の木目(きめ)も顯然とある由。萩原某見分御用にて見候て、右のいわれも聞しと語りぬ。然(しから)ば楠(くす)などにかぎらず、何れの木も消化(しやうげ)して石になりもせしや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「勿來の關」歌枕。江戸の終わり頃からは「奥州三関」の一つに数えられているが、所在地が諸説ある上、その存在自体を疑う説もある。以下、ウィキの「勿来関」より引く。『「なこそ」とは、古語における「禁止」の意味の両面接辞『な~そ』に、『来(く)』(カ行変格活用)の未然形「来(こ)」が挟まれた「な来そこ」に由来』し、「来るな」の意で、『「なこそ」の漢字表記では、万葉仮名あるいは平仮名の真名を用いて「名古曾」「名古曽」「奈古曽」と書かれる例と、訓であてて「名社」と書かれる例がある。また、漢文において「禁止」の意味で用いられる返読文字「勿」(~なかレ)を用いて「勿来」と書き、語釈から「なこそ」と読み下す例がある。関の名称であることから「来」に「越」の字を当てて「勿越」「莫越」と書く例も見られる』。『「なこその関」は関とよぶも関所とはよばない。また、目下のところ、和歌など文学作品以外の古代の史料に「なこその関」を見出すことすらできて』おらず、『一般に「なこその関」は、白河関、念種関(『吾妻鏡』の表記。江戸時代以降は鼠ヶ関、ほかに念珠ヶ関とも)とともに「奥州三関」に数えられ、『「奥州三関」は、「奥州三古関」「奥羽三古関」「奥羽三関」とも呼ばれる』ものの、そもそもが『「奥州三関」がなこそ・白河・念種の三関を指していたのかの確証はな』く、『奈良時代に蝦夷の南下を防ぐ目的で設置されたとする説については、「なこそ」が来るなという意味であると考えられることからの付会、あるいは、他の関が軍事的に活用された事例の援用あるいは敷衍だと察せられるが、今のところそれを積極的、直截的に示す根拠』もない。十一世紀、能因が「平中物語」の一節を引いて、『遠江国(静岡県西部)に所在すると考えた『能因歌枕』の説のほか、十七世紀に西山宗因が紀行文『宗因奥州紀行巻』のなかで「なこその関を越て」磐城平藩領に入っていると記していることなどから、現在の福島県いわき市に長らく比定されている。吉田松陰の『東北遊日記抄』にも現いわき市勿来町関田字関山付近を「勿来故関」と記録されて』はいるものの、「なこそ」の地名がこの周辺に存在した証は、やはりなく、『福島県いわき市勿来町に所在したと考えられている菊多関の別名とする説もあるが、最近では区別されている』。歌枕として、「なこその関」は多くの歌人に詠まれ(平安から近代以前まで百二十五首に及ぶ短歌形式の和歌に詠みこまれている)、『それらの歌からは陸奥国(東北地方の太平洋沿岸部)の海に程近い山の上が情景がイメージされる。しかし、一般に近代写実主義に拘束されていない近代以前の和歌においては、歌枕を詠むにあたってその地に臨む必要はな』く、『なこその関を詠んだ歌についてもその多くは現地で詠んだ歌とは考えられていない』。『陸奥国府・多賀城(地図)や松島丘陵の軍事的な意味合い』や、十九世紀頃の江戸の絵図「陸奥名所図会」などを根拠として、『奥大道と名古曽川(なこそがわ。現在は「勿来川」と書く。砂押川水系)が交わる宮城県宮城郡利府町森郷字名古曽に比定する説もあ』るものの、『周囲は惣の関ダムが建設されたため地形が大きく変わり、現在は「なこその関」の説明看板と江戸時代に建立された「勿来神社」の碑』及び『利府街道沿いに「勿来の関跡」の誘導看板が設置されている』に過ぎない。『なお、「勿来神社」の碑から』南約四キロメートルの位置に多賀城政庁跡があり、約七百メートル北東には北宮神社があって、『これは陸奥府中の北端を示す「北宮」だったと』もされる。江戸初期には『現在の福島県いわき市勿来町関田字関山に「なこその関」を見立てるようになったため、観光地化』が始まり、『江戸時代に関田村を領していた磐城平藩は』、十七世紀、『桜の植樹をするなど、関跡に見立てた整備事業をたびたび行っている』。明治三〇(一八九七)年に『日本鉄道海岸線(現・JR常磐線)に「勿来駅」が開設され、その駅名にならって、大正一四(一九二五)年、『石城郡窪田村が町制を施行する際に改称して』勿来町(なこそまち)と『なり、「勿来」という地名が初めて生まれ』ている。昭和二(一九二七)年には『福島民友新聞社が「勿来関趾」の碑を建立し』てもいるが、『考古学的な発掘調査を根拠とした所在地の推定は』全くなされていないのが現状である、とある。

・「飛鳥井殿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版には、最後に補説示す重出記事が載る(但し、同版では本話とそれは「巻十」に所収。本文と同記事の九つ後に配されてある。殆んど酷似した記事でここに参考再掲する価値を私は認めない)が、そこでは「飛鳥井亞相」(「亞相」は「あしやう(あしょう)」で大納言の唐名)とあり、この人物について同書の当該項にある長谷川氏の注では、

飛鳥井雅親(応永二三(一四一六)年~延徳二(一四九〇)年)

《室町中・後期の歌人で公卿。法名は栄雅。権大納言。勅命により近古以来の和歌を撰進した。蹴鞠や書も能くした。和歌の飛鳥井流祖》

か、

飛鳥井雅章(慶長一六(一六一一)年~延宝七(一六七九)年)

《江戸前期の歌人で公卿。雅親の五代後の直系飛鳥井雅庸(まさつね)の四男権大納言・武家伝奏。後、兄飛鳥井雅宣の養子となって飛鳥井家を継承した。後水尾天皇朝の歌壇で活躍、明暦三(一六五七)年には後水尾院から古今伝授を受けている。門弟に松尾芭蕉の師格であった北村季吟がいる。》

の二人の名を掲げておられる。

 しかし、国立国会図書館レファレンス事例を見ると、この後に出る和歌は、

江戸前期の歌人で公卿の飛鳥井雅宣(まさつら)の和歌

であることが分かる。

飛鳥井雅宣(=難波宗勝)(なんばむねかつ 天正一四(一五八七)年~慶安四(一六五一)年)

《安土桃山から江戸初期の公卿。飛鳥井雅庸の次男権大納言。兄に飛鳥井雅賢(まさかた)が、弟に前記の雅章(後に彼を養子として飛鳥井家を継がせたことは前注通り)がいる。この家系の旧当主であった難波宗富の死後中絶していた難波家を再興した。後に名を飛鳥井雅胤、雅宣と続けて改め、飛鳥井家を継いでいる。慶長五(一六〇〇)年に「難波宗勝」として叙爵し、侍従に任ぜられ、慶長十二年には左近衛少将へと昇ったが、翌慶長一三(一六〇八)年に美男の傾奇(かぶき)者として知られた左近衛少将猪熊教利(いのくまのりとし)や兄で飛鳥井家嫡男の雅賢らとともに、御所の官女と密会して乱交に及ぶ「猪熊事件」(複数の朝廷の高官が絡んだスキャンダルで公家の乱脈ぶりが白日の下に晒され、江戸幕府による宮廷制御の強化、後陽成天皇退位の動機ともなった。詳細は参照したリンク先のウィキや、そのまたリンク先に詳しい)、後陽成天皇の勅勘を被って、慶長一四(一六〇九)年に磐城平藩鳥居氏預かりとなった(配所は菊多郡上遠野で、これは現在の福島県浜通り(陸奥国・石城国・磐城国)の南端にあった郡である)(兄雅賢は隠岐に配流されたまま、寛永三(一六二六)年に流刑地で享年四十三で死去した。主犯格の猪熊教利は西国に逃亡するも、直きに潜伏先の日向国で捕縛され、京都にて斬首に処せれている。享年二十七)。しかし、慶長一七(一六一二)年に勅免され帰京、翌慶長一八(一六一三)年には名を雅胤と改め、生家飛鳥井家の相続を赦された(難波家の方は彼の子の宗種が継承)。寛永一六(一六三九)年に権大納言となったが、翌年にはこれを辞している。寛永二一(一六四四)年、武家伝奏、慶安四(一六五一)年)三月十六日に従一位に叙されたが、その五日後に六十六歳で没した(以上は概ねウィキ難波宗勝に拠ったが、配流先は国立国会図書館レファレンス事例を採った。因みにウィキには「伊豆」とある)。》

まさに、この配流の砌り、その孤愁茫漠たる思いを、実際に越えて行った勿来の関で、この一首に託したと読むと、私はすこぶるしっくり来るし、この歌の味わいもいや増しに増すように思うのである。

・「こゝつらや潮みちくれば道もなし爰をなこその關といふらん」「こゝつら」(九面)は、現在の福島県いわき市勿来町九面(ここづら)の地名として残る。「ここつら」は地名に「ここ面」(この辺り)、「満ち来」と「道来」(同時に「道」に「満ち」も響く)が掛けられ、「道無し」が「勿来」で「な来そ」(来る勿れ)に係っている。五回繰り返される「こ」音が悲愁の風音の如く響く。なお、現在の非実証的な「勿来の関」跡とされる場所は、海岸線から内陸に五百メートルほどの海岸端に位置し、本文の叙述はそれにマッチするとは言える。

・「名こそに櫻を詠し古歌」「千載和歌集」の「巻第二 春歌下」の源義家朝臣の和歌に、

    陸奥國(みちのくに)にまかりける時、

    勿來の關にて花のちりければよめる

  吹く風をなこその關と思へども道もせにちる山ざくらかな

などとある。「道も狹(せ)にちる」で、桜の花の落花によって路も狭くなってしまうほど、一面に散るの謂い。参考にした岩波新古典文学大系の注によれば、本和歌は唐詩の辺塞詩の翻案で、軍旅で辺地に入る境に於ける惜春を詠んだ、とある。義家は前九年・後三年の役で陸奥に出撃しているが、それぞれ秋と冬の頃で、本歌は嘱目の吟ではない。

・「櫻石」ここははっきり「木目」とあるので、桜の花弁のような紋を持った(菫青石(きんせいせき Cordierite)と呼ばれるものの成分が白雲母(Muscovite)などに変質したもので、断面が桜の花に似ることから「桜石」と呼ばれる。各地のホルンフェルス(Hornfels(ドイツ語):接触変成作用によって生じた変成岩で再結晶が完全に行われ、細粒で等粒状鉱物からなり、片理を示さないものをいう)の中に比較的よく見られるもので、渡良瀬川産や京都桜天神産のものが有名)ではない。なお、ネット上では宮内庁書陵部所蔵資料として小山田(高田)与清なる作者の「勿来関桜石記」なる書を画像が、残念ながら私には全く判読出来ない。

・「楠」「和漢三才図会」の「香木 巻八十二」(十八・十九折)の「楠」の末尾に、

  其根株經歳者變爲石

  (其の根株、歳を經(ふ)る者、變じて石と爲る)

とある。

・「萩原某」不詳。先行話に「萩原」姓の者はいないことはないが、このような根岸の情報屋と思しい人物としては、それらしい人物は以前に認められないように私は思う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 勿来(なこそ)の関の事 附けたり 桜の石に成る事

 

 奧州勿来の関は、昔は山を越えて往来致いたものか、今は、かの関所の御座った山は通路もあらずなって、ひと昔以前より、かの山の麓の、海岸縁(ぶち)を通うようになっておる由。

 潮の満ち来れば、これ、通行成し難き由にて、かのあちらへ配流となられたことのあらるる飛鳥井雅宣(あすかいまさつら)殿の御歌(ぎょか)にも、

 

  ここつらや潮みちくれば道もなし爰をなこその関といふらん

 

とも御座る。

 さても当時は、この関所周辺の通路を、これ、「九々面」と書きて、「ここづら」と称したる由。

 古くは、この歌枕で御座る勿来の関に、桜を添えて詠みたる、例えば八幡太郎義家公の古歌などもあれど、今は桜は、ない。

 しかれども、大木の桜の御座ったを、伐採して、今はそれが石と変じ、今もその岩肌に、桜の木目(きめ)の、これ、歴然としてある由。

 萩原某(なにがし)、地方検分の御用にて、かの地へと参り、たまたま、その桜石なるものを見、また、こうした謂われも聴いて参ったとして、語って御座った。

 ……さてもしからば、楠(くす)などに限らず、孰れの木にても、その命を長らえて遂には木として死するという折りには、これ、変じて、石なんどへも変化(へんげ)致すものにて、これ、御座ろうか?

2015/01/19

耳囊 卷之九 蘇生せし老人の事

 

 蘇生せし老人の事

 

 文化六年の春なりしが、赤坂裏傳馬町一丁目に靑物商ひ致(いたし)候、吉兵衞といへるもの、當巳年七十一歲なり。右の者富士淺間を信仰して年々富士山へ參詣なし、去(さる)辰六月迄に四十三度參詣せしが、當巳二月廿六日には死去いたし候由。兼々(かねがね)申(まうす)、知音(ちん)へ暇乞いたし、當正月十八日より絕食にて水と酒斗(ばかり)を給居(たべゐ)、二月朔日菩提所赤坂三分坂(さんぶんざか)淨土宗常敎寺へ罷越(まかりこし)、廿六日に死去致候旨相屆候得(あひとどけさふらえ)ども、當人の屆にては承知なりがたく抔笑ひ答えける故、同所政左衞門と申(まうす)ものを以(もつて)屆置(とどけおき)、二月三日よりは水斗(ばかり)給(たべ)罷在(まかりあり)、廿七日明(あけ)六ツ時死去致候處、晝九ツ時ころ息吹返し候故、附添候もの共(ども)水など爲飮(のませ)、おも湯など給(たべ)させ候得ば、言舌(げんぜつ)も少(すこし)く分(わか)り候故、息吹返し候樣子尋(たづね)候得ば、心願有之(これあり)蘇生いたし候旨申(まうし)候由。尤(もつとも)死去の節、知人共(ども)方より香奠(かうでん)などおくり金壹兩三歩貮朱程集り候得ども、右の始末ゆゑ夫々(それぞれ)へ差戾し候由。其最寄專らの風聞の旨、其筋の者より書出(かきいだ)し候。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:これも「其最寄專らの風聞の旨、其筋の者より書出し候」という末文の表現一致から、前話に登場した町奉行根岸の子飼いの部下の情報担当からの報告書に載るものであることが分かる。されば、直近の都市伝説公式文書からの摘録の直連関となる。

・「赤坂裏傳馬町一丁目」底本鈴木氏注に『港区赤坂伝馬町一-三丁目。赤坂見付の外、今の青山御所との間の地域に、北に裏伝馬町、その南に表伝馬町(赤坂表町丁二丁目)があり、各東から一丁目、二丁目となる』とあるが、正確には明治五(一八七二)年に元赤坂町・赤坂伝馬町・赤坂裏伝馬町などが合併して「赤坂裏」となり、その後に赤坂区に所属、後に赤坂表・赤坂裏・四谷仲町などの一部を編入して、昭和二二(一九四七)年に港区に所属、さらに昭和四一(一九六六)年に「住居表示に関する法律」によって赤坂表町・赤坂伝馬町・元赤坂町・赤坂青山権田原町・赤坂表町・赤坂青山六軒町などを合わせた地域が「元赤坂」となって現在に至っているから、岩波の長谷川氏注の通り、港区元赤坂とするのが正しい。

・「當巳」「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年己巳(つちのとみ)。

・「去辰」前年文化五年戊辰(つちのえたつ)。

・「富士淺間」富士山を神格化した富士浅間権現。「耳嚢 巻之九 駒込富士境内昇龍の事」の私の注の、「駒込富士」の注の中の富士講及び「淺間の社」の注を参照されたい。

・「二月朔日」この年の一月は大の月で三十日までであるから、絶食を始めて十四日目に楚相当する。但し、相応にカロリーのある酒を飲んでいるので絶食とは言えない。

・「三分坂」現在の東京都港区赤坂五丁目五番と七丁目六番の間にある坂の名。昔、この坂があまりに急であったことから、駕籠舁(か)きが駕籠賃の追加として三分(さんぶ)を取ったことを名の由来とすると伝える急坂。

・「常敎寺」未詳。この近隣には切絵図を見ても近似した名の浄土真宗の寺はない。但し、三分坂下右側には知られた浄土真宗の報土寺があり、また坂を登った西北二百メートルの位置に、やはり浄土真宗の道教寺というのがある。後者は音からすると近似すると言えるし、浄土宗と無縁ではない。

・「明け六ツ」旧暦二月で春分の直前であるから、不定時法の明六ツは午前五時半頃に相当する。

・「晝九ツ」年間を通じて正午。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蘇生した老人の事 

 

 文化六年の春の頃の話で御座る。

 赤坂裏伝馬町一丁目に青物商いを致いておる、吉兵衛と申す者がおり、この男、当巳年を以って七十一歳になると申す。

 この者、富士浅間(せんげん)権現を信仰致いて、毎年のように富士山へ参詣登山致し、去年辰年までに、実に四十三(しじゅうさん)度も、これ、参詣を成しておる由。

 さて、その吉兵衛、

「――今年二月二十六日には往生致しまする――」

と、かねがね吹聴、知音(ちいん)の者などへも確かに告げては、これ、真面目に暇ま乞いなんどまで致し、今年正月十八日よりは絶食致いて、水と酒しか口に致さず、二月朔日(ついたち)と相い成るや、自身の菩提所のあった赤坂三分坂(さんぶんざか)に御座る浄土宗の常教寺へと罷り越し、

「――当月二十六日――我ら――往生仕りまする。」

と、これ、真面目に自ずから届け出でて御座った。

 ところが、

「……はぁ?……これ、しかしのぅ……生きて御座る当人、しかも、これより後日(ごにち)の往生と申す、これ――届け――と申さるるは……承ること……何とも、し難きことにて御座れば、のぅ………」

と、寺の者、語りつつも、笑いをこらえ切れず、答えたによって、如何にもむっと致いた吉兵衛は、

「――さればッツ!」

と、とって返すと、同じ伝馬町に住もうておった政右衛門とか申す者に、

「たっての願いじゃ!」

と頼み込んむや、これ、またその日のうちに、常教寺へ己が逝去の通知、これ、届け出で、受け取らせおいたと申す。

 さても、その二日後の二月三日よりは、水のみを飲むように相い成り、二月二十七日明け六ツ、はたして逝去致いた。

 ところが、その日、近隣の者どもの総出で、通夜の支度など致いておる最中、亡くなってより二時(ふたとき)半も経ったる、昼九ツ時頃、

――これ!

息を吹き返して御座ったによって、伽(とぎ)につき添うておった者ら、水を含ませるやら、おいおい重湯なんど与えてみるやら致いて御座ったところ、

――言葉も

――これ

――少しくはっきり申すような気配も、これ、致いて参ったによって、息を吹き返したることにつき、これ、心づくところなんど、訊ねて御座ったところが、

「……し、心願の……これ……御座ったによって……蘇生……致いた……」

などと、申したとのことで御座った。……

 もっとも、これ、その死に際し、多くもなけれど、知れる人々なんどより、相応の香奠、これ、贈られ、その貰ったところの金子が――これ――計一両三分二朱――ほども集まって御座った。

 されど、まあ、かく生き返ってしもうたによって、それぞれに、これ、さし戻いた、とのことで御座った。

 この吉兵衛に関わったる当事者ら、これ、確かな話と申して御座ったによって、私の命じ、このようなる奇体な事例事件を調べさせておるところの、これ、確かなる筋の者より、列記とした報告の御座ったればこそ、ここに特に摘録致いて、書き残しておくことと致いた。

 

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本県令富岡敬明とともに漁師の小屋で昼飯をいただくモース

 雨は終日降り続き、我々は濡れて泥にまみれた。正午、我々は急いで食事するために、仕事をやめた。車夫達は弁当を持って来ていた。つめたい飯と梅干と、それから恐くは例の醬油をつけた僅かな生魚とであろう。我々はどっちかというと貧しい漁師の家を見つけ、謙譲に飯を乞うた。すると漁師と彼の妻は丁寧に、そして取乱したような所はすこしも無く、我々の為に何か食う物――それは色の黒い飯と骨のような固い小さな乾魚何匹かとであった――を仕度し始めた。彼等は知事という高貴な人の存在を意識し、また彼等の屋根の下に「外夷」を入れたことは一度も無いのだが、食事の貧しいことに就て奴隷的な申訳をいったりせず、単純な品位を以て、款待ということが必要とする所を行った。知事の態度は精麗そのものであった。彼はこの貧しい食物を如何にもうまそうに食い、お辞儀されれば必ずお辞儀しかえした。私は彼がこの簡単な食事を明瞭に楽しむことによって、これ等の貧しい人々を欣喜させたやり方を、如何に描写してよいか、その言葉を見出すことが出来ぬ。彼は皇帝から、山海の珍味を以てもてなされたとしても、この時よりも力強く、鑑賞と感謝とを表すことは出来なかったであろう。

[やぶちゃん注:私はこのシークエンスが殊の外、好きだ。……篠突く雨の音――炊ける飯の湯気――香ばしい干魚の焼ける匂い……そして――この富岡敬明の誠実な日本人の姿と――それに心を動かされて、筆舌に尽くし難い感動を以って凝っとその人々を見つめている異邦人モースと……こんな古き良き美しき日本の時間は……一体……何処へ……消え去ってしまったのだろう……

「外夷」原文“outside barbarian”。

「精麗」見馴れない熟語である。原文は“simply exquisite”であるから、混じりっ気のない優雅さ、若しくは、すこぶる絶妙、の謂い。この熟語は、澄みきった素朴な美しい誠意に満ちていることを謂うか。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 モースの描ける古墳石棺の蓋の図

M585

図―585

 

 最初に私に大野村の貝塚の話をしてくれた地質学者ライマン教授は、貝塚附近に奇妙な石の棺のあることも話した。我々は容易にそれを発見したが、巨大な石槨であった。蓋の末端はこわれ、また下向きになっていたが、埋葬に関する迷信が原因して、村民達に我々がそれをひっくり返すことを助力させるのは、困難であった。然し我々の人力車夫は一向おかまい無しで、石の周囲を掘り、桿(さお)を槓杆(てこ)にして、我々はそれをひっくり返した。図585はその外見をざっと写生したもので、内側は小間(パネル)に刻んである。この古さは千年、あるいは千二百年であると信じられる。八代の知事はこれに就て何も知らなかったので、最大の興味を以て見るのであった。

[やぶちゃん注:図はその石棺の蓋の部分のデッサンである。素晴らしい子細な描出であるが、これは最早、原物は残っていないのではあるまいか?

 さて、この「見塚附近に」ある「奇妙な石の棺」――《モースが発掘した貝塚のすぐ近くにある古墳》――こそが、実は逆にこの貝塚が「当尾貝塚」であったか、「大野貝塚」であったかという私の疑問に答えてくれる大きなヒントでもあるはずなのである。ところが、この熊本の宇城(うき)市(当尾貝塚在)及び八代郡内(大野貝塚在)には多くの古墳があることが分かって、これまた途方に暮れてしまった。しかしそれでも気をとり直して一つ一つ調べてみた。すると――当尾貝塚のあった松橋(まつばせ)町大野の直近、西南方向(現在の大野地区の境から二百メートル圏内)、 宇城市松橋町松橋の松橋西養護学校の北、医師会館脇の大塚公園に前方後円墳があるのを見出した。「日本古墳見学協会本部」公式サイトの「松橋大塚古墳」で現在の外観(現在は古墳の丘上部が平削されて公園となり、後円部の一部のみが残っている由)が視認出来る。そこにある説明版(画像)によれば、松橋台地古墳群の一つで古墳時代中期のものと推定されており、古墳の長軸の長さは七十メートル、前方部の短径が約二十五メートル、後円部の直径が四十二メートル、後円部の高さが約六メートルの典型的前方後円墳とある。この古墳――若しくはこの古墳群の別の一つで、より「当尾貝塚」近くに当時存在した古墳――であったとするならば、距離的にも「貝塚附近」でしっくりくる円墳だからこそ、モースはちょっと見ただけで「容易にそれを発見」出来たと考えれば、すこぶる自然ではないか?……やっぱり、モースの発掘したのは当尾貝塚だったのか?……いやいや、やっぱり、ともかくも識者の御教授をじっくり待つこととしよう

「ライマン教授」四つ前の段落『第十七章 南方の旅 貝塚発掘 ――切に考古学者の見解を乞う! モースが発掘したのは「当尾貝塚」だったのか? それとも「大野貝塚」だったのか?――』の私の注を参照のこと。

「石槨」は「セッカク」と読み、石で造られた棺を入れる外廓構造物をいう。本邦では古墳時代にみられる。

「この古さは千年、あるいは千二百年である」明治一二(一八七九)年から一二〇〇年前となると、西暦六七九年(天武天皇八年)となる。現在、考古学では古墳時代を、古墳特に前方後円墳の築造が卓越した時代と規定し、広義には三世紀半ば過ぎから七世紀末頃までの約四〇〇年間を指すことが多い。中でも三世紀半ば過ぎから六世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代で、「前方後円墳の時代」と呼ばれることもあり、また、前方後円墳が造られなくなった七世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を「古墳時代終末期」と呼ぶこともある、とウィキの「古墳時代」には記載されている。ここに書かれた推定年代は、現在の古墳時代中期(凡そ五世紀初めから終わりまでの期間)の建造という推定からは、二百年ばかり新し過ぎるが、本邦の歴史学や考古学の曙の時期の推定であるからこれは仕方がない。

「八代の知事」これは熊本県令富岡敬明に従っていたのかも知れない当時の八代地方の地方長官とも読めるが、私はこの日、発掘に同行した富岡のことを、かく書き誤ったものだと思う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 不思議な縄文土器

M584

図―584

 

 我々は篠つく雨の中を大野村へ向って出発したが、間もなくずぶ濡れになり、終日この状態のままでいた。我々は、かぎられた時間で出来るだけ完全に貝塚の調査をした。我々は沢山の骨を手に入れたが、その中には大森の貝墟に於ると同じく、食人の証を示す人骨の破片もあった。一本の人間の脛骨は並外れに平たく、指数五〇・二という、記録された物の最低の一つである。また異常な形の陶器も発見された。一つの浅い鉢には、矢の模様がついていた(図584)。

[やぶちゃん注:「食人の証を示す人骨の破片」及び「脛骨は並外れに平たく、指数五〇・二」の箇所に就いては、第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の成人の扁平脛骨についての注の、骨の食人痕跡(発掘した人骨に人為的に筋肉を引き剥がそうとする場合に相応の傷が生ずると推定される筋肉の附着箇所に著しい削痕や切創痕があること、割れ方の中には明確に人為的と観察されるものがあること等)及び扁平脛骨のブローカ指数についての私の注を参照されたい。

「異常な形の陶器」不詳。識者の御教授を乞う。

「矢の模様」このような模様は見かけない。識者の御教授を乞う。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 富岡敬明より高田焼を贈られる

M582

図―583

 

 翌朝知事は贈物として、高田の茶呑を四個持って来てくれた。彼の話によると、これは三十五年前、彼の父の命令に依てつくられたのだそうである。図583はその一つの写生である。日本の新古陶器に対して熱愛を持つに至った私は、これ等を所有することをうれしく思った。彼は茶入を沢山持っていて、それを私に見せる為、熊本へ持って来ようといった。彼は、私と一緒に大野村の貝塚を調べたいという希望を述べた。

[やぶちゃん注:「高田」これは「こうだ」と読む。これは熊本県八代市で焼かれる陶器、高田焼で、八代焼(やつしろやき)ともいい、焼き物には珍しい象嵌を施すところが特徴である。以下、参照したウィキ高田から引く。『文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の1人で茶道に造詣の深い豊前小倉藩主・細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた』。寛永一〇(一六三三)年に『忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。これが高田焼の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された』(なお、この後の明治二五(一八九二)年)には、『窯を陶土の産地八代郡日奈久へ移し』ている)。初期は上野焼(福岡県田川郡香春町・福智町・大任町で焼かれる陶器で、江戸前期に高名な茶人でもあった大名細川忠興が小倉藩主となった際、朝鮮人陶工であった尊楷(上野喜蔵)を招いて、豊前国上野に登り窯を築かせたのが始まり。江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられるほど、茶人に好まれた。明治期には衰退の様相を見せたが、明治三五(一九〇二)年に復興した。他の陶器と比べると生地が薄く、軽量であり、また使用する釉薬も非常に種類が多く、青緑釉・鉄釉・白褐釉・黄褐釉など様々な釉薬を用いて窯変を生み出すのが特徴。絵付けは普通用いない。ここはウィキに拠った)の手法を用いていたが、『後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている』。高田焼は、『一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる』とある。グーグル画像検索「八代焼(高田焼)をリンクさせておく。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 欄間

 我々は夕闇が近づく迄、調査したり発掘したりしたが、そこで八代へ向い、九時同地着、県知事へ報告した。知事は最も礼儀深い紳士で、如何なる動作も、如何なる行為も、優雅と洗練そのものであった。将軍時代、彼は非常に高い位にいたが、かく魅力のある態度のいずこにも、矯飾らしい点はすこしも見えなかった。彼は一人の商人に向って、我々のために宿泊所をさがすように命令した。助手の話によると、日本人はお客様を特に厚遇しようとする時、このように、彼を公開の家へ送らず、個人の住宅を開放してそこへ迎えることを習慣とするそうである。助手先生、知事に向って、私に関するどんな底知れぬ嘘をついたのかは、聞きもらしたが、多少つかれていた私は、事実ありがたくこの款待を受け入れた。我々が一夜を過した家は大きくて広く、部屋部屋は普通の家に於るより装飾が多く、広くもあった。襖と天井との間の場所には、多分濯漑を目的とするのであろう長い木の水樋を表した、美事な彫刻があった。草、樋の支柱、その他の細部は、美しく出来ていた【*】。

 

 

* このランマの写生図は『日本の家庭』に第一四九図として出ている。

 

 

[やぶちゃん注:以上の叙述、次の段の冒頭の「翌朝知事は贈物として、高田の茶番を四個持って来てくれた。彼の話によると、これは三十五年前、彼の父の命令に依てつくられたのだそうである」から、何と、熊本県令富岡敬明はここ八代に一緒に来ていることが分かる(発掘には立ち会わず、八代の宿所で合流したものであろう。なお、次の段で富岡は翌日の発掘への同行を希望、以降の叙述を見るに、翌日の発掘は篠突く雨の中で泥まみれになったことが分かるが、何と、そこには富岡も実際に同行していたのである!)。

 なお、以下にモースが注した “Japanese homes and their surroundings”1885)の斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」から当該149図と148図(同キャプションを含む)及び当該図に関わる本文の解説箇所を引用しておく(図148を引くのは解説の同一段落内に言及があるためである。この段落全体を引かないとモースの謂わんとするところは伝わらないと判断した)。これはまさに本段落をよりよく理解するためには欠くべからざる、学術的にも翻訳著作権の侵害に当たらぬ正当なる引用であると信ずる。

 

H_ranma

 

148図 彫刻を施した欄間。大和の五条村。[やぶちゃん注:上図。]

149図 彫刻を施した欄間。肥後の八代にある。[やぶちゃん注:下図。]

 

   《本文訳引用開始》

 大和の五条にある旧家の欄間は、部屋の間幅と同じ長さがある。一四八図はこの欄間の意匠を示したものである。この意匠は菊花を竹格子で支えた作りになっている。菊花と葉の挟間飾りとが、欄間をなす一枚板に、そのいずれの面から見ても同じ丹精をもって彫り刻まれていた。実際に欄間の意匠は、すべてその欄間を挟んだ両側の部屋から眺められるようにできているのである。旧家の場合、欄間が、このような図柄を特徴としていることにしばしば気づいたのであった。肥後八代(やつしろ)のさる旧家で、わたくしはこの種の欄間の非常に優美なものを見た(一四九図)。その欄間は左右二面になっていて、図柄は、一方の面から他方の面へ連続したものであった。それは、股になった木枝や二本の棒を括り合わせたものを支柱にして支えた木樋によって水を引く造作を図柄にした、いかにも素朴なものであった。何かの水生植物の長い葉の葉端が枯れ気味にところどころ傷んでいる様子までも、見事に表現されていた。この図形が彫り刻まれてある板の厚さは一インチ以下であったに違いないが、浮彫のでき栄えは驚嘆に値するものであった。白墨に似た白色の物質を彫刻の隙間に充填(じゅうてん)してあるので、当初は、この図形全体が白色仕上げであったものが、のちに塗りつけ面がすり減ったというような効果を出していた。この家はかなりの旧家で、欄間は名もなき地方の職人の手になるものであった。

   《本文訳引用開始》

「矯飾」「きょうしょく」で、うわべを取り繕い飾ること。

「款待」意味も読みも「歓待」に同じい。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 貝塚発掘 ――切に考古学者の見解を乞う! モースが発掘したのは「当尾貝塚」だったのか? それとも「大野貝塚」だったのか?――

 翌朝我々は五時に出発した。そして人力車で、凸凹の極めて甚しい道路を二十四マイルという長い、身のつかれる旅をして、大野村へ着くと、ここには私がさがしていた貝塚がいくつかあった。道はそれ等の間を通っている。ここから海岸までは、すくなくとも五マイルある。この堆積はフロリダの貝塚の深さに等しく、即ちすくなくとも三十フィートはあるかも知れない。貝殻の凝固した塊は Arca granosa から成っているが、他の貝の「種」もいろいろ発見された。

[やぶちゃん注:「翌朝」明治一二(一八七九)年五月二十五日の朝。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば(二五二頁)、『八代に近い大野村(現松橋(まつばせ)町)に到着、終日この地の当尾貝塚を発掘して土器や獣骨、人骨を採集。その夜は八代に泊り、翌日当尾貝塚を再訪、また貝塚の近傍にある石棺と石室も調査した。当尾貝塚と石棺のことは、地質学者のベンジャミン・スミス・ライマン教授から教わっていたのである』とある(アメリカ人鉱山学者でお雇い外国人であったライマン教授については第十五章 日本の一と冬 邦楽の奏者たちで既注)。……しかし……ここで私の中で……大きな問題が発生した……

「二十四マイル」三十八・六キロメートル。この数値は八代までならば納得出来る数値で、実際にモース一行はこの日は八代に泊まっているから、これから考えると、前で書かれた「三十四マイル」というのは単なる誤記ではなかろうかと疑われてくるのである。

「大野村へ着くと、ここには私がさがしていた貝塚がいくつかあった」当尾(とうのお)貝塚。大野貝塚とも呼ぶ旧大野村、現在の熊本県宇城(うき)市松橋(まつばせ)町大野にある。国道三号線沿いの、縄文後期末の御領式土器の時期の貝塚で、人骨を出土している。当尾は旧地名を当尾村と呼んだことによる。ところがである。参照した「日本大百科全書」を見ると、熊本県八代郡氷川町大野の同じ国道三号沿いの同地区の小学校付近一帯にある遺跡として同じ名の違う「大野貝塚」が記されてあり、こちらは、縄文後期の土器片・人骨などが出土したとある(但し、近年殆んどの地域が宅地化して壊滅寸前にあるとある)のである。しかも、そこには本貝塚は1879年(明治12)モースが九州旅行中同貝塚を訪れており、モースの滞日日記『日本その日その日』にも掲載され、九州地方では学界にもっとも古く知られた縄文文化の貝塚遺跡の一つであるとあり、両者は直線距離にして8キロメートル余の地にあり、誤りやすい』と記すのである(江坂輝彌氏執筆)。この江坂氏の記載によるならば、モースが訪れたのは宇城市松橋町大野の「当尾貝塚」ではなく、この八代郡氷川町大野の「大野貝塚」であったとしか読めない。地図上で確認すると、後者の「大野貝塚」は竜北東小学校付近かと思われ、江坂氏の記載通り、氷川町大野とは直線で有意に八キロメートルも離れており、この遺跡は連続したものではないしかし磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」も『当尾貝塚』とし、その引用元である「大森貝塚」でも、『なお最近、帝国の南部にある貝塚を調査して、食人風習の明白な証拠をひじょうに多く発見した』(『大森貝塚』近藤義郎・佐原真編訳岩波文庫一九八三年刊)とし、その注でも一貫して『当尾貝塚』と記すのである。この江坂氏の記載との齟齬はどう解釈したらよいのであろう? 孰れの説をも好意的に考えるならば、この当尾と大野の二つの貝塚を両方とも発掘したという解釈である。実際、「大森貝塚」では別な箇所で、《この発掘した「貝塚」》のことを『九州肥後国では最大級のひろがりと厚さをもつ貝塚』(序文冒頭)とか、『肥後の広大な一貝塚』(「扁平な脛骨」)と書いてはいる。しかし、正直、八キロメートルも離れた場所を連続した『広大な貝塚』とは普通言わない。これ以上、私には同定不能である(以上の通り、諸記載では圧倒的に「当尾貝塚」が優勢ではある。一つのヒントは、前に示した通り、磯野先生がモースはこの時、《その貝塚の近くにある石棺と石室も調査しているという事実》である(だか、これが「当尾貝塚」と「大野貝塚」の中間点にあったとしたらヒントにさえならなくなってしまう)。さらに言わせてもらえば、江坂氏の筆圧は確信犯的で、モースが発掘したのは「大野貝塚」であって断じて「当尾貝塚」ではない、九州の貝塚を知る考古学者ならばそれは誰もが理解しているといった強い主張を感じるのである)。考古学者の方の御意見を切に伺いたく思うのである。

「五マイル」約八キロメートル。この距離は実は気になるのである。何故なら、「当尾貝塚」から海までは長く採ってみても四キロメートルもないのに対して、「大野貝塚」からは、最短でも六キロメートルを越えるからである。この数位は実に、モースの発掘したのは実は「当尾貝塚」ではなく「大野貝塚」であった可能性を強く示唆する、数少ない証左と言えるのではあるまいか?

「三十フィート」九・一四メートル。これはモースも指摘する通り、人為的な貝塚層としては異例の深さであると思われ、この異様な深さを「当尾貝塚」と「大野貝塚」の孰れもが持っていたとは私には考え難い。されば両方の発掘データを見れば、モースの発掘したのが「当尾」であったか、「大野」であったかは一目瞭然であると思うのであるが?……

Arca granosa 」底本では直下に石川氏の『〔アカガイの種〕という割注が入る。第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較で既注であるが再掲しておく。斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科リュウキュウサルボウ亜科ハイガイであるが、現在の学名は Tegillarca granosa である。当時はフネガイ科 Arcidae より下位の属が細分化されていなかったためであろう(以下も同様に現在の学名と異なる)。因みにフネガイ科のタイプ属名Arca はラテン語で「箱」の意で、タイプ種である一見忘れ難い学名を持つノアノハコブネガイ Arca noae の殻の形に由来している。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本にて

 ここで、忘れぬ内に、私は我国で私が逢った智力ある人々の、百人中九十九人までは、月の盈虧(みちかけ)と月蝕とを混同しているという事実を記録せねばならぬ。我々の汽船の船長(英国人)は、私が説明する迄は、この事実に関する何等の概念を持っていず、そしてその話をしている間に気がついたことだが、彼は引力の法則をまるで知らず、我々が大気の圧力に依て地球に押えつけられているものと思っていた。ここに我々の議論を再びくりかえして書く時間はないが、汽船を操縦し、隠れた岩や砂洲のある海岸を承知しつくしていながら、天文学の最も簡単な事実さえも知らぬ英国人の船長がいるのだから驚く。彼は私に向って、恥しそうな様子ではあったが、ダーウィンはアリストートル(彼はこの名と、それからこの名の持主が何世紀か前に生きていたことは、知ってたらしい)の時代の人か、それとも現代の人かと聞いた!

 

 知事のことに話を戻すと、私は彼に我々の仕事の目的を話し、彼は私が三十四マイル南の八代(やつしろ)へ行こうとしているので、役人を一人つけてくれるといった。この時は、もう午後遅かったが、而も我々は熊本市のまわりを廻って、長いこと歩いた。ここでも、鹿児島その他に於ると同様、人々が私を一生懸命見詰る有様によって、外国人が如何に珍しいかが知られた。

[やぶちゃん注:「三十四マイル」五十四・七キロメートル。但し、これはいい加減な距離である。地図上の直線距離で熊本から八代までは三十五キロメートルほど、実測しても四十キロメートルほどしかなく、しかも実際にモースが訪れた熊本県大野村の当尾(とうのお)貝塚(現在の宇城(うき)市松橋(まつばせ)町。後述)は八代より十九キロメートルも手前(南方)であって、熊本や高橋から計測しても二十キロメートルもない。この数値はどう計測してみても不審である。]

 

 その晩知事が派遣した官吏が、我々の旅館へやって来た。非常に愉快な男である。彼はこの上もなく丁寧にお辞儀をした。私は床に膝をつき、私の頭が続け様に畳にさわる迄、何度も何度もお辞儀をすることが、如何にも自然に思われる私自身を、笑わずにはいられなかった。その上私は、息を口中に吸い込んで立てる、奇妙な啜るような音さえも、出すことが出来るようになった。

[やぶちゃん注:「息を口中に吸い込んで立てる、奇妙な啜るような音さえも、出すことが出来るようになった」欧米人というのは、これが出来ない、或は、しない(蕎麦を食べる際のそれに似た、マナーに外れた、いやらしい音であり、挙動であるからか?)のであろうか? ご意見を伺いたいものである。]

2015/01/18

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本県令富岡敬明と逢う

 我々は知事を熊本城に訪問した。彼は立派な老紳士で、我々の為に佳美な日本式の正餐を用意していてくれ、我々は大いにそれをたのしんだ。知事は城内を案内し、二年前の籠城の話をして聞かせた。この時、城は敵に包囲されること六週間に及び、建物の多くは焼け落ち、市民や兵士の殺された者も多く、そして熊本市は灰燼に帰した。知事は城にいたが、反逆兵達は、彼が住んでいるとされる建物を壊滅することに、特に努力した。建物はいずれも、あちらこちら打ちこわされ、銃弾の穴をとどめた箇所も多い。自分の経験を話しながら、この老人が興奮して行く有様は興味があった。

[やぶちゃん注:「知事」当時の熊本県令富岡敬明(けいめい/よしあき 文政五(一八二二)年~明治四二(一九〇九)年)。山梨県権参事、熊本県知事、貴族院議員などを歴任する。漢詩人としても知られた。以下、ウィキの「富岡敬明」によれば、佐賀藩支藩の小城藩士神代次兵衛利温の次男として生まれたが、天保三(一八三二)年に小城藩士富岡惣八の養子となった。天保一三年、小城藩世嗣鍋島三平(後の小城藩第十代藩主鍋島直亮)の側役(そばやく)となり、江戸藩邸御留守居介役・御留守居添役・西丸聞番差次・神田橋御門番頭・総目附兼文武方指南役を歴任したが、三十七歳の時、大酒を呑んだ上で失態を犯して処分され、小城藩北端にあった大野村へ山内目代(代官)として左遷された(彼は幕末に於ける佐賀の最後の代官と呼ばれる)。『この時、脱藩の罪により永蟄居の処分を受け困窮していた江藤新平を迎え入れ、役所の近くで寺子屋を開かせた。その後、藩主直亮没後に藩内で専横を振るったという御蔵方太田蔵人に対し、敬明ら有志による刃傷事件(小城藩騒動)が起こる。事件は未遂に終わり、敬明は自首し死罪を言い渡されるが、佐賀藩主鍋島斉正の助命により終身禁錮、家名断絶、家屋敷田地一切没収となる』。明治二(一八六九)年、『赦免となり、佐賀本藩弁務となる。諫早郡令、神崎西山内郡令を歴任し、軍事局係も兼任 。その後も物産局係、上佐賀郡令などを短期の間に慌ただしく歴任』、明治三(一八七〇)年には小城富岡家の再興を許されて『長男の重明を士族として』二十五石を給せられている。『また佐賀本藩の永代藩士となり大属となり少参事試補となり名を「耿介」と改める』。明治四(一八七一)年には佐賀藩権大参事となるが同年に廃藩置県が行われ、その後は伊万里県権参事から明治五年には山梨県権参事に任じられた。山梨では県令藤村紫朗の片腕とし藤村の主導した道路改修事業や県北西部の日野原開拓事業などに尽力、後、名東県(徳島県)権令兼五等判事を経て、明治九年十一月に熊本県権令となったが、その権令在任中にここで語られる『西南戦争に遭遇し、熊本城で』熊本城攻防戦を指揮した官軍熊本鎮台司令長官谷干城(たにたてき)少将、『参謀長樺山資紀中佐・同副長児玉源太郎中佐等と』五十四日間に及ぶ『籠城戦を耐え抜いた(西南戦争の経緯については敬明自身が「篭城日誌」として記録している)。その後、熊本県令、同知事とな』なった(県令就任は明治九(一八七六)年十一月二十日で、退任は明治二四(一八九一)年、途中で知事に名称が変更されている)。退任後は、『山梨県西山梨郡里垣村(現:甲府市善光寺町)へ一家で移住し』、同年四月九日附で貴族院勅選議員に任じられた(明治二十五年三月まで在任)。『晩年は山梨における漢詩壇でも活躍し』たとある。検索で画像を見ると、なかなかに不敵な面構えをされておられる。

「二年前の籠城」明治一〇(一八七七)年の西南戦争に於ける最初の実戦がこの熊本城で二月二十日に開始され(薩摩軍による総攻撃は二十二日)、熊本城長囲戦は四月十四日までの実に五十二日間七週間余に及び、熊本城は不落の名城を名実ともに実証したのであった(諸資料の数字)。厳密には熊本鎮台司令長官谷干城は前日の二月十四日の段階で籠城を決意しており、ここから薩摩軍の実際の撤退日までを個人的に計算してみると、六十日弱約二ヶ月八週間となる。この戦闘による死者だけで七百七十三名に及んだ。詳細はウィキ西南戦争などを参照されたい。]

耳囊 卷之九 靈氣狐を賴過酒を止めし事

 

 靈氣狐を賴過酒を止めし事

 

 神田佐久間町〔一ツに淺草元鳥越町萬吉と云ふ者の由。〕に住(すめ)るもの、酒を好みて朝夕是を用ひけるに、或時娵(よめ)を呼(よび)て、酒五合半調えて吞(のま)せよと申(まうし)けるゆゑ、娵心得てちろりを下げて、となれる酒屋に五合の酒をつがせ、あたゝめて彼(かの)親仁(おやぢ)にあたへければ、悅びて茶碗にうつせしに、一滴もなし。是はいかなる事にやと、娵を呼びて叱りければ、娶(よめ)も大きに驚き、隨分見候てつがせ候(さふらふ)酒、かゝるいわれなしと、又ちろりを持(もち)て、此度は壹升の約(やく)にて調へかへり直(ぢき)にあたゝめ出しけるを、親仁茶碗にうつせし又一滴もなければ大(おほき)に不機嫌にてありしかど、娵がはからするを見留(みとど)ければ不審なしけるに、彼(かの)娵驚きて、此程夢に母人(ははびと)顯れて、兎角御身の大酒(おほざけ)、身の爲にも家の爲にもあしき間、よくよく異見なして酒を留(と)め候樣申されけるゆゑ、一通りは申候得ども御用(おんもち)ひもなき事故、强(しい)ても申さざりしが、かゝる事にもありけるやといゝしゆゑ、親仁も我もかゝる夢見しが、埒なき事と捨置(すておき)しが、しからばやめ可申(まうすべし)と、其後暫くやめければ、近頃紛失せし酒、德利ちろり樣(やう)のものも出候處、近所寄合にて又候(またぞろ)禁酒を破り酒飮(のみ)ければ、又々酒の道具紛失いたし、娵儀亂心同樣にて口走りて、先妻の死靈、過酒(くわしゆ)を愁ひて狐を賴み異見をなしけるを、其誓ひを破りし故、又々來りて御身に附添(つきそ)ふといゝし故、親仁も大(おほい)に恐れ其後は嚴敷(きびしく)酒を斷可申(たちまうすべし)と誓ひければ、娵の狂氣も頓(とみ)に愈(いえ)けるとなり。

[やぶちゃん注:以下の根岸の附文は底本では全体が二字下げ。]

此咄し山崎何某かたりけるが、予が組の内、市中の風說爲承(うけたまはらせ)候者よりも、同樣の事書出(かきいだ)しぬ。右は淺草元鳥越町平三郞店(だな)萬吉、五十三歲に相成(あひなり)、當妻すぎは四十歲、忰(せがれ)市太郞廿五歲、娵ぎんは十八歲にて、先妻えいは十六年以前相果(あいひはて)、常々萬吉が大酒を愁ひ度々異見なしける由。ぎん儀當正月下旬より亂心致(いたし)、色々口ばしり候内、えい儀死靈にては難立寄(たちよりがたき)間、狐を賴(たのみ)、通力を以(もつて)、異見いたし候由。奇怪の事ながら、專ら風聞有之故(これあるゆゑ)、書出し候由に候。先妻の親切は左も有(ある)べし、賴まれし狐も深切なるものと一笑なしぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:馬の憑依から狐(但し、先妻の霊に依頼を受けたという特異なケース)の憑依で直連関。しかも同じ「山崎某」の情報によるから、強い連関性を持った怪異譚群であることが分かる。なお、これは根岸も「一笑」しているように、どうも家族ぐるみで謀った芝居のように思われる。嫁の「ぎん」の確信犯の単独犯という可能性もないとは言えないが、家族が皆で共謀しないと、こう上手くは運ばないし、そうであってこそ、鮮やかに「死霊の懇請を受けた狐の怪異」として萬吉の禁酒に成功するとも言えるように思う。なお、霊現象を引き起こす役割としては既婚ながら満十七なら、ぎりぎり資格があると言える。岩波版長谷川氏注には、登場人物の関係図が示されてあり、とてもよい。以下に真似をしておく。

ゑ い(先妻/十六年前に死亡)

  ‖―――――――市太郎(二十五歳)

萬 吉(五十三歳) ‖

  ‖       ぎ ん(「娵」・十八歳)

 す ぎ(後妻・四十歳)

・「靈氣狐を賴過酒を止めし事」は「靈氣(れいき)狐(きつね)を賴(たのみ)過酒(くわしゆ)を止(とど)めし事(こと)」と読む。

・「神田佐久間町」現在の千代田区神田佐久間町。JR秋葉原駅に接する東側一帯。ウィキの「神田佐久間町」によれば、『材木商佐久間平八の姓に由来するとされる。この町は出火の多い町で「悪魔町」と陰口を叩かれた。江戸時代初期に材木商の町となり材木置き場があったが、火事の火種となるとの判断で、この材木置き場が、深川猟師町に移り、更に猿江、木場に移り、更に現在は新木場に移っている』とある。

・「娶(よめ)」は底本の編者ルビ。ここだけ、「娵」でない。

・「淺草元鳥越町」現在の東区鳥越。ウィキの「鳥越 (台東区)によれば、徳川家康江戸入府以前からあった地名で、『後北条期の鳥越村は現在の台東区浅草橋・柳橋・蔵前・鳥越・三筋・小島の一帯と比定される』とある。

・「ちろり」銚釐。酒の燗をする道具で銅・錫・真鍮製で、下の方がややすぼんだ筒形をしており、取っ手と注ぎ口が附いている。これを湯にそのままさし入れる。湯婆(たんぽ)。「ちろり」は短かい時間のことで、瞬時に暖まるところからの呼称とされる。

・「又候」副詞で、またまた。またしても。好ましくない物事に対してのみ用いる。この文字通り「またさふらふ(またそうろう)」の転訛した語である。

・「山崎何某」前話の私の注を参照されたい。

・「予が組の内、市中の風說爲承候者」犯罪や事件を未然に防ぐという観点からも、こうした担当者が常時奉行所内いたとしても不思議ではない。ただ、これは如何にも「耳嚢」の情報担当者の観がするのも事実。……ちゃっかり根岸ちゃん、公務をタテマエとしつつ、その実、「耳嚢」情報収集用に、部下を私物化していたのかも!――いえいえ! 私だったとしたら、これ、喜んでその役、仰せ仕りまる!―― 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 死者の霊、狐を頼んで、かつての夫の飲酒癖を止(と)めたる事

 

 神田佐久間町〔一説に浅草元鳥越町萬吉と申す者の由。〕に住まう男、これ、無類の酒好きにして、朝となく夕となく、一日中、浴びるように酒を吞んで御座ったと申す。

 ある時、嫁を呼びつけ、

「――酒五合半(ごんごうはん)――買(こ)うて――吞ませ!」

と命じたによって、嫁ご、心得て、銚釐(ちろり)を下げ、隣りにある酒屋へと参り、五合(ごごう)の酒をそれに注(つ)がせ、持ち帰ると、暖め、親爺萬吉へ手渡した。

 萬吉、悦んで茶碗にそれを注(そそ)ぎ移さんとしたところが、これ、

――一滴も――ない。

「……こ、これは……ど、どういうこっちゃ!」

と、嫁ごを呼びつけ、叱りつけた。

 かの女も大きに驚き、

「……随分、よう目を張りまして酒屋に注がせました! 確かにちゃんと入って、一滴なりと零さぬよう、気(きい)つけて運んで参りました酒なれば! そんなこと! あろうはず、これ、御座いませぬッ!」

と、きつうに応え、また、銚釐(ちろり)の桶のようなる大きなるを厨より出だすと、隣りへと、また走り入り、

「――このたびは!――正一升のきっちりにて! お願い、申します!」

と確かに頼み、なみなみと注(つ)がせて、買い調え、すぐ、立ち帰っては、大きなる鍋に沸かしたる湯に、その丸太のような銚釐(ちろり)をさし入れ、燗のついたを、そのまま

――ドン!

と萬吉の目の前へ突き出だいた。

 萬吉は、

「……ふふふ……さても……」

と、これをまた、徐ろに、その大銚釐(ちろり)傾けて茶碗に酒を移さんとした。と、

――またしても

――一滴も――ない。

 萬吉、大きに不機嫌と相い成り、

「……ま! またしてもっ! ありゃせんぞうっ!!」

と、再び、嫁ごをどなりつけた。

 ところが、かの女もまた、

「――何より、この妾(わらわ)が! 確かに酒を注(つ)がするを見ましたし! そこで正一升計らせたを! これ、見届けまして御座いますッ!」

と、抗(あら)ごうた。

 しかし、嫁ごも、この大きなる銚釐(ちろり)の内を覗いて見たところが――確かに、これ、

――一滴も――ない。

「……おかしなこと!……」

と、嫁ごも不審を口に致いた――その時――その嫁ご、何かを思い出し、

「あッツ!」

と驚きの声を挙げ、

「……ここのところ……妾(わらわ)が夢に、亡くなられた先(せん)の母者人(ははじゃびと)と思しいお方の、これ、現われられ、

『……兎角……我らが夫の大酒(おおざけ)……身のためにも……家のためにも……これ……悪しきことなれば……そなたよりも……よくよく異見なして……酒をやめさするように……』

と仰せられたと見申しましたによって……先(せん)も、一通りの節酒のこと、これ、申し上げましては御座いましたが……少しも、これ、お耳を貸しては下さいませなんだでしょう?……されば、妾(わらわ)も、しいては繰り返し申し上げませなんだ。……でも……これ……もしや?!……そのことと……この酒の怪異……これ……このようなる不思議も……あるのでは御座いますまいかッ?!」

と告げた。

 すると、それを聴いた、親爺萬吉も、

「……そ、そうか!……じ、実はの!……我らも、それと同じようなる夢を見たが……これ、埒(らち)もないことと、捨ておいた。……じゃが……そうか……あいつがのぅ……しからば……金輪際――酒はしまいと致そうぞ!」

と殊勝にも述べた。

 その言葉通り、萬吉はその後(のち)、しばらくの間は本当に酒をやめて御座った。

 すると、不思議なことに――近頃、頻繁に行方の分からなくなって、どこにあるやら、一向分からずなって御座った徳利(とっくり)や銚釐(ちろり)が、これ、家(いえうち)の、誰もが一目見て分かるような場所から次々と見つかり――また、かの――雲か霧の如く消えて御座った酒も、空のはずの鍋や壺の中に、なみなみと入って見つかった――と申す。

 ところが、とある日のこと、近所の寄り合いの御座って、萬吉、これに顔を出したところが、酒好きの仲間衆に唆され、またぞろ、禁酒を破って、大酒を呑んでしもうたと申す。

 すると……またまた……酒の道具なんどが皆、行方知れずと相い成って御座ったと申す。

 が……このたびは、それにはは済まなんだ……かの嫁ご……これ……

――乱心同様と相い成り

――何やらん

――獣の如(ごと)

――喚(おめ)いた上

――先妻が死霊(しりょう)の憑依致いて

……次のようなることを、これ、口走り始めたと申す。

「……酒の過ぐるを愁えて……お狐さまをも頼み……異見をなしたにもかかわらず……その誓ひを破ったによって……またマタッ!……カクモ来タッテ!……オマエサマニ――コレ――イツイツマデモ!――附キ添ウテヤロウゾッツ!」

 この嫁ごの、目を狐のように引き攣らせ、恨み言めいて物言うを聴くや、萬吉も、これ、大きに恐懼なし、

「……向後(きょうこう)!……き、厳しく……さ、酒はぁ、これ、断ちますればっつ!!……」

と体を震わせて誓(ちこ)うた。

 すると――嫁ごは、

――パタリ!

と、その場に気を失って倒れ、直きに目覚むれば、

「……わ、妾(わらわ)……何ぞ?……御座いましたか?……」

と、たちまち、正気を取り戻して御座ったと申す。 

 

●根岸鎭衞附記

 この話は山崎何某(なにがし)なる人物の伝聞情報ではある。

 しかし実は、南町奉行である私の組の内にあって、特に命じ、市中の噂や流言飛語等を聴取させ、時には探索させておる者からも、全く同様の出来事につき、報告書が提出されてある。

 それによれば、

   *

 右の大酒吞みの親爺と申す主人は、

 一、浅草元鳥越町平三郎店(だな)
           萬吉  当年五十三歳

のことであり、以下、

 一、同人の現在の妻 すぎ   当年四十歳

 一、倅       市太郎 当年二十五歳

 一、嫁       ぎん   当年十八歳

とあって、

 一、先妻      えい  死亡年齢不詳

は、十六年以前に既に死亡している。

 この亡き妻「えい」について、報告書は、特にその生前、常々より夫萬吉の大酒を喰らう悪癖につき、心を悩ませ、事実、たびたび本人に対しても節酒禁酒を求める異見を成していた由、添えられてある。

 また、この若い嫁の「ぎん」なる者については、以下の記載がある。

 一、当年正月下旬より乱心。

 一、乱心当初より、種々の奇言を口走り始める。

 一、その中でも、次のような、奇怪乍ら、一見、理の通って見える異言をも述べている。以下、そのままに筆録して写しおく。

   記

――妾(ワラワ)「えい」儀(ギ)、カク死霊ノ分際ニテハ、最早、カノ酒乱ナル夫ノ近キニハ立チ寄リ難キニヨッテ、霊界ニアッテ知レル狐ニ対シ、助力ヲ依頼致シ、ソノ不可思議ナル神通力ヲ以ッテ、異見スルコトト致イタ――

   *

 実に奇怪なる出来事乍ら、相当、急速に市中に流布し、しかも、頻りに評判となって、盛んに事実として語られておる風聞であることから、特にここに摘録するに相応しい事例と判断するに至ったによって、かく記載しおくことと決した。 

 

――先妻「えい」なる者の親切、これ、まっこと、尤もなることと存じもし、また、

――その「えい」に頼まれたと申す狐も、これ、畜生の分際乍ら、やはり、まっこと、親切なる物の怪にて御座る――

……と、この話を聴きたる者どもと、一笑致いて御座った。

 

耳囊 卷之九 死馬怨魂の事

 

 死馬怨魂の事

 

 小石川寂蓮寺は、我許へ常に來る山崎某の菩提寺にて、右寂蓮寺來て咄しけるは、姬路の藩中に村田彌左衞門といふ者あり。彼娘十六七にもなりて、容色も宜(よろしく)、人の求め少なからず。しかるに暫く煩ひて兩親の心中愁いふばかりなし。しかるに亂心のごとく品々口ばしり、何か恨(うらみ)有(ある)さまなれば、加持祈禱すれど其しるしなし。彌左衞門大(おほき)に愁ひ、是全狐狸のなす所ならんと憤り娘を責尋(せめたづね)ければ、我は全く狐狸にあらず、此者の祖母は同家中大河内帶刀(たてはき)娘にて、我を情なく殺せし恨有(あれ)ば、此家に祟りをなし、此娘を殺し血筋を斷つべしと口ばしりけるゆゑ、夫(それ)はいかなる者の恨みなるやと申ければ、此家に飼(かは)れし馬なるが、年老(としおい)て乘馬にもならず、草踏(くさふむ)わざもならざるを、彼(かの)祖母なるものへ咄しければ、馬の老(おい)たるはしかたなし、野へ放ち捨可然(すてしかるべし)と云ひけるにまかせ、厩橋(うまやばし)天狗谷(てんぐだに)といふ所へ捨(すて)られ遂に餓死せし也(なり)、用立(やうだつ)時は是を愛し、不用の時かゝる不仁(ふじん)をなしける恨あれば、其恨みを報(むくい)るなりと、口ばしりける故、品々利害を說き、追福(ついふく)などなして快氣しけると也。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:本格怪談二連発。馬の怨念の憑依というのは一見、奇異に見えるが、東北地方の蚕神にして馬の神であるオシラサマなどを考えれば、処女の娘に馬霊が憑くというコンセプトはすこぶる腑に落ちるものである。正体を現わすには、尋常な仕儀にては覚束ぬ。少しだけ、サディスティクに粉飾しているので、お許しあれ。

・「小石川寂蓮寺」底本の鈴木氏注には、『未詳。三村翁は寂円寺かとする。寂円寺は小石川原町にあり、浄土真宗、東本願寺末』。現在の東京都文京区白山にある寂圓寺。

・「山崎某」「耳嚢 巻之九 猛蟲滅却の時ある事」に出る「醫官山崎氏」なる人物か(この人物はまた、本巻の頭に出る「耳嚢 巻之九 潛龍上天の事にフルネーム山崎宗篤として出る人物かとも私には思われる)。

・「姬路」播磨姫路藩十五万石。「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年当時ならば、第三代藩主酒井忠道(ただひろ/ただみち)。

・「大河内帶刀」不詳。

・「厩橋天狗谷」岩波版長谷川氏の注が詳しい。姫路藩藩主である『酒井氏は寛延二年(一七四九)前橋(厩橋)から姫路に移った。天狗谷は前橋辺利根川右岸の灌漑用水の天狗岩用水であろう』とある。前橋藩は上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩であるは、当初は厩橋藩(うまやばしはん/まやばしはん)と称し、藩庁は厩橋城(後の前橋城)に置かれていた。ウィキの、老中首座上野前橋藩第九代藩主・播磨姫路藩初代藩主であった「酒井忠恭」(ただずみ)から引く。『酒井家は前橋にいた頃から既に財政が悪化していた。酒井家という格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用、加えて前橋藩領内は利根川の氾濫が相次ぎ、あまり豊かでなかった、つまり財政基盤の脆弱さなどが大きかった。そのため家老の本多光彬や江戸の用人犬塚又内らは、同じ』十五万石ながら『畿内の先進地に位置し、内実はより豊かと言われていた姫路に目をつけ、ここに移封する計画を企図し、忠恭もそれに乗った』。『ところが、本多と同じく家老の川合定恒は「前橋城は神君より『永代この城を守護すべし』との朱印状まで付された城地である」として姫路転封工作に強硬に反対したため、本多、犬塚らの国替え工作は以後、川合を頭越しに秘密裏に行われた』(移封後の寛延四(一七五一)年、川合は本多・犬塚の両名を殺害、代々の藩主への謝罪状を認(したた)めた上、自害した)。ところが、『酒井家の期待とは裏腹にその頃姫路では、寛延元年』(一七四八年)『夏には大旱魃が起き、しかし姫路藩松平家は年貢徴収の手を緩めなかったため、領民の不満が嵩じていた。そこへ、藩主・松平明矩が同年』十一月十六日に死去、『松平家が他国に転封するという噂がのぼると、借金踏み倒しを恐れた領民たちは』十二月二十一日に一揆を起こし(寛延の百姓一揆)、翌寛延二年になっても騒ぎは収まらず、そのさなかの一月十五日に『前橋の忠恭と姫路の松平喜八郎(朝矩)』
『の領地替の命令が出された』。一揆は二月には収拾したものの、『この混乱が尾を引き、酒井家の転封は』五月二十二日までずれ込み、『藩士の移住はさらに遅れた』。しかも七月三日には『姫路領内を台風が襲い、死者・行方不明者』は四百人以上にも及び、続いて八月にも『再び台風が襲い、田畑だけではなく領民』三千人余りが災害死するという未曽有の『大被害を受け、酒井家はますます財政が悪化した』とある。この長谷川氏注にある「天狗岩用水」については、地域活性化センターの公式サイト「伝えたいふるさとの100話」の「天狗岩用水をつくり農民から敬慕された総社領主(そうじゃりょうしゅ)秋元長朝(あきもとながとも)」によれば、関ヶ原の戦いの翌慶長六(一六〇一)年、現在の前橋市総社町(そうじゃまち)附近の総社領主となった秋元長朝は灌漑用の水が得られたなら水不足と長い戦国の世によって荒廃したこの領地を豊饒の地と変えられると考え、用水の掘削に着手、総社領東端を流れる利根川からの取水を考えたが、土地が川の水位より高かったため、上流の白井領に取水口を作らない限り、引水は不可能であった。そこで白井領主本多氏の許諾を得んがために、まず高崎領主井伊家に協力を求めたが、「雲に梯子を架けるに等しい」と否定的であった。しかし、長朝は井伊氏に仲立ちを頼んで本多氏と何度も交渉、その結果、取水口を白井領に作ることが許され、用水工事の測量が開始された。知行高六千石の長朝にとっては用水掘削は経済的にも大きな負担であり、領民の協力なしにはとても完成し得ない大事業であったが、長朝は領民の協力の見返りとして、以後三年間、年貢を取り立てないという約定を交わした上、慶長七(一六〇二)年の春に用水工事に実際に着手した。当初は順調に進んだものの、取水口付近では大小の岩が多くあって、遂には巨大な岩が予定路の先に立ちはだかって、工事が行き詰まってしまった。思いあまった長朝は、領内の総社神社に籠って願掛けをしたところ、その願明けの日に掘削現場に一人の山伏が現われ、「薪になる木と大量の水を用意せよ。用意が出来たなら、岩の周りに薪を積み重ねて火をつけよ。火が消えたならば、用意しておいた水を岩が熱いうちに急いでかけよ。さすれば岩は割るる」と告げた。人々は半信半疑乍ら、その通りにしたところ、美事に岩は割れた。その時、既に山伏の姿は消えており、誰とはなしに、先の山伏はきっと天狗の生まれ変わりじゃと噂するようになったという。これが、天狗が現れ、大きな岩を取り除いたとする「天狗来助(てんぐらいすけ)」と呼ばれる当地に伝わる伝説で、その後、人々は取り除かれた岩を「天狗岩」、用水を「天狗岩用水」と呼ぶようになった、とある。総社の人々はこの天狗に感謝して、取り除かれた大きな岩の上に小祠を建てて祀ったが、これが「羽階権現(はがいごんげん)」で、現在は総社町にある元景寺(げんけいじ)境内に祭祀されてある。長朝が計画し、領民らの協力によって進められた天狗岩用水は、こうして三年の年月をかけ、慶長九(一六〇四)年に漸く完成、これによって領内には水田が広がり、総社領は六千石から一万石の豊かな土地と変貌した、とある(出典及び参考文献は「天狗岩堰用水史」天狗岩堰土地改良区、「前橋の文化財」前橋市教育委員会とある)。「天狗」という名は、隠して以外にもポジティヴな由来であったことが分かった。……しかし……それにしても……転封された酒井家は意想外の踏んだり蹴ったりである……これもまた……この馬の祟りの踏んだり蹴ったりであったということか?……
 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 死せし馬の怨みの亡魂の、若き娘に憑依したる事 

 

 小石川寂蓮寺は、私の許へ常に参る山崎某(なにがし)殿の菩提寺にて御座る。

 山崎殿の許へ、この寂蓮寺の住持の参った折り、聴いたという話。 

 

 姫路の藩中に村田弥左衛門と申す者がおるが、かの者の娘、これ、十六、七にもなり、容色もよろしく、是非とも嫁にと申す求めも、これ、少なからず御座ったと申す。

 ところが、ある折りより、かなり長いこと、これ、患(わずろ)うて、両親の心中の愁い、言いようもなきありさまで御座ったと申す。

 そんな親の心痛のあるに、この娘、病状、これ、ますます悪うなって、殆んど乱心致いたかと思わるる如(ごと)、品々、おぞましき言葉なんどを口走るようになった。

 その罵詈雑言を聴きとるに、これ、何か、恨みのある様子の見てとれたによって、知れる人を頼んで、加持祈禱などをも修してみたれど、一向にその験(しる)し、これ、御座ない。

 されば弥左衛門、大きに愁え、

「……これは――最早、全く狐狸のなすところに他ならぬ!――」

と、憤りを発し、手ずから娘を庭へ引っ立て、身ぐるみ剝ぎて、水なんどをかけ、竹刀にて責めたてて、厳しく糺いたところが、流石に責め苦に耐え兼ねたものか、正体を現わした。

「……我レラハ全ク狐狸ガ類(タグ)イニテハアラズ……コノ者ノ祖母ナルハ同酒井家家中大河内帯刀(タテワキ)ガ娘ニテ……嘗ツテ我レラヲ……非情ニモ……殺セシ恨ミノ……コレ有レバコソ……コノ家(イエ)ニ祟リヲナシ……コノ娘ヲモ殺シ……ソノ血筋ヲ永遠ニ斷タントゾ思フモノナリ!……」

と口走ったによって、

「……そ、それは……一体、如何なる者の! 如何なる恨みと申すカッ!?」

となおも責めたてて糾いたところが、

「……我ラハ……ソノ祖母ナル者ノ家ニテ飼ワレテオッタ……馬ジャ……ナレド……ソノ頃……最早……年老イ……乗馬ニモナレズ……農耕ノ技ヲモ成シ難クナッテオッタニヨッテ……カノ祖母ナルモノ……家来ノ者ニ……カク話シシタトコロガ……『馬の老いたるは最早役立たずじゃ。飼(こ)うておっても無益なこと。野へ放って捨つるがよい。』……ト命ジタニ任セ……カノ先ノ領地ノ……厩橋(ウマヤバシ)ハ天狗谷(テングダニ)トイウ所ヘ……我ラ……捨テラレ……而シテ……遂ニ……餓死シタノジャ!……用立(ヨウダ)ツル間ハコレヲ愛(イト)オシミ乍ラ……一転不用ト相イ成ッタレバ……カカル理不尽ヲ……成ス!……ソレゾ恨ミ! ……ソノ恨ミノアレバコソ!……ソノ恨ミヲ報イントスルモノナリ!……」

と、なおも口角泡を飛ばし、嘶(いなな)くが如(ごと)、喚(おめ)いたによって、ともかくもと、責めをも緩め、家内(いえうち)へと連れ戻し、穏やかに理を説き、その場にて直ぐ菩提寺の僧らを呼び迎え、かの馬のための、これ、追福(ついふく)など成したところが、その夜半には、この娘、快気致いたとのことで御座った。

 

耳囊 卷之九 惡氣人を追ふ事

 

 惡氣人を追ふ事

 

 下谷立花の屋鋪(やしき)の最寄りに少しの町有(あり)。其所の者なる由、目黑の不動を信じ度々參詣なし、或時七ツ時に出宅をすべきに、刻限早く八ツに起出(おきだし)、參詣せんと、日本橋通りをまかりしに漸く七ツなれば、夫(それ)より段々步行(ありき)參り、芝口に定式(ぢやうしき)に休みなどなせる信樂(しがらき)といへる水茶屋有(あり)。しかるに、日本橋よりに候哉(や)、跡よりざわざわと音してつき來る者あり。ふり歸り見れば、繩やうのもの附來り候故、是に步行(あるけ)ば早く追ひ、立どまれば彼(かの)繩樣(やう)のものも止りし故、我足又裾に絲(いと)などありて右へからまり來(きた)るやと改見(あらためみ)れど、さらになし。何とやら心持あしき故、急ぎて右のしがらきの茶屋に立寄(たちより)、いまだ夜更(よふけ)故、町家もいまだ戶もあけざれど、水茶屋は朝立(あさだち)の客を心がけ燈(ともしび)など見ゆる故、歡びて立寄りければ、今日は扨々早く出(いで)給ふと家内にても挨拶して、茶抔煮て給(たべ)させけるゆゑ、刻限をとり違(たがへ)し事など咄して暫(しばらく)休み、いまだ夜もあけざれど、門口の戶を見けるに、やはり附來(つききた)りし繩やうのもの門口にありける故、内へ入(いり)、門口を〆(しめ)て、いまだ夜もあけず氣分あしき由、暫く鄽(みせ)に休み度(たき)由斷(ことわり)、枕など借請(かりうけ)て橫になり居(をり)しが、程なく夜もあけ往來もあるゆゑ起出(おきいで)て、歸りにこそよるべきとて目黑へ參詣し、身の上をも祈(いのり)、夫(それ)より彼(かの)所にも尋(たづぬ)る所ありて立寄、支度などして、夕方になつて歸り懸け彼(かの)しがらきが方を見しに、表を立(たて)忌中の札ある故、けさ迄もかゝる事なかりしと其邊にて聞合(ききあひ)ければ、いかなる事にや、右茶屋の亭主首縊り相果(はて)けると云(いひ)しに、我身の災難を明王(みやうわう)の加護にてのがれけるや、右繩の追來(おひきた)るを始(はじめ)は蛇と思ひしが、繩に惡氣の籠りてしたひ來りしやと、我友のもとへ來りて語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。ただ、前で根岸が珍しく話者の「山本某」を「親友」と述べているとこからみれば、この最後の「我友」というのも極めて高い確率で「山本某」であるように私には思われる。とすれば、ニュース・ソース連関となる。首縊りを誘う繩の妖怪ではあるが、一読、私は、この如何にも変わった繩の怪異というのが、妙に不動明王が左手に持つ羂索(けんじゃく:悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せぬ衆生を縛り吊り上げてでも救い出すとする投げ繩みたような仏具。)とダブってしまって、穏やかでないんである。本話は「耳嚢」でもかなり知られた一篇で、柴田宵曲を始めとして、多くの後人によって怪談アンソロジーに採録されるものである。私も、「耳嚢」中、本格怪談三本指に数えたいものである。されば先行する現代語訳群とは差をつけたく感じたので、重要な水茶屋「信楽」の亭主の登場辺りから最後の怪異の頂点の辺りをかなり翻案してある。ご注意あれ。

・「立花の屋鋪」底本鈴木氏注に、『立花侯の邸今の西町なり。(三村翁)立花は柳河城主、十一万九千石』とある。岩波版長谷川氏注にも同石高で、『下谷は上屋敷、台東区東上野』とあるう。筑後国柳河藩(柳川藩)。藩庁は柳川城(現在の福岡県柳川市)。ウィキの「柳河藩」によれば、当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となったとある。「ブリタニカ国際大百科事典」によると、江戸時代、筑後国山門郡柳川地方を領有した藩で、関ヶ原の戦いの後、立花宗茂が除封されて一時は同国久留米藩領となったが、慶長八(一六〇三)年より、陸奥棚倉(福島県)に封を受けていた立花氏が大坂の陣の功によって、元和六(一六二〇)年に
十万九千六百石で再び入封、そのまま廃藩置県にいたったとあって、上記二注とは石高が異なる。ウィキの記載を見る限り、この十万九千六百石(ウィキは十万九千石)の方が正しいようで、『江戸武鑑では江戸藩邸は上屋敷が下谷御徒町にあり、中屋敷と下屋敷は浅草鳥越にあった』と記す。「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年当時は第八代藩主立花鑑寿(あきひさ)。「少しの町」とある通り、切絵図を見ると確かにこの辺りは錚々たる格式の武家屋敷が立ち並んでいる。

・「目黑不動」江戸三大不動の一つとして知られる、東京都目黒区下目黒にある天台宗泰叡山瀧泉寺の通称。本尊不動明王。ウィキの「瀧泉寺」によれば、寺伝では、大同三(八〇八)年、『円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したという』。但し、『東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、本寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明』とする。寛永七(一六三〇)年に『寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受け』、寛永一一(一六三四)年には五十棟余に及ぶ大『伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗を極めた』。「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年より少し後の文化九年には、「江戸の三富」(他は湯島天満宮と谷中感応寺)と呼ばれた「富くじ」が行われた(但し、この興行は天保一三(一八四二)年に天保の改革の一環として中止)。『寺名の由来となった、境内の独鈷の滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰があった。江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ』、知られる落語の「目黒の秋刀魚」は『この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされる』。『江戸時代には大いに栄え、門前町が発達したが門前町の名物として当時目黒の名産品であった竹の子を使った竹の子飯と棒状に伸ばした練飴(白玉飴)を包丁でトントン切っていく目黒飴が人気であった。また、餅花という細い竹にしんこ餅を付けた物や粟餅などもあったという』。

・「七ツ時」暁(あけ)七ツ。五更。不定時法では、午前三時頃(夏至)から午前四時過ぎ(冬至)の間。

・「七ツ時」暁八ツ。四更。同前で、午前一時半頃(夏至)から午前二時(冬至)の間。

・「芝口」現在の港区新橋一丁目が芝口一丁目、以下、同じく新橋二、三丁目が芝口二、三丁目(旧芝口四丁目は新橋五丁目か)。ここから目黒不動までは、試算では実測八キロメートル弱はあるから、徒歩だと一時間半ほどかかる。彼は朝一で参ることを志しとしていたようであるから、当時の寺院の開門時間(午前五時から六時頃か)がなんとなく分かるのも嬉しい。

・「定式に」いつも決まって。

・「信樂(しがらき)」のルビは底本編者のもの。水茶屋(路端や神社仏閣の境内などで湯茶などを供して休息させた茶屋。掛茶屋。茶店)の固有名詞が「耳嚢」で記されるというのは極めて珍しいことであるが、特にこの店は検索では掛かってこない。

・「支度」岩波版の長谷川氏注は、『食事』と注しておられる。これで採った。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 悪気の、人を追い駆くる事

 

 下谷(したや)柳河(やながわ)藩立花侯の御屋敷の最寄りに、少しばかり町屋が御座るが、その近くに住もう者の話の由。

 この男、目黑の不動を信じ、たびたび朝駆けの参詣を致いて御座ったが、ある時、七ツ時に家を出立(しゅったつ)すべきところ、刻限を勘違い致いて、早ぅに八ツに起き出だし、刻限を間違(まちご)うたことに気づかぬまま、そのまま参詣せんと、日本橋通りを急いで御座ったところ、その辺りまでやって参って、これ、初めて、余りの暗きに加え、遠くに聴こえたる時の鐘の音(ね)に、ようやっと、未だ七ツ時になったばかりと知ったれば、それより歩みを緩めることと致いて、芝口(しばぐち)に、いつも朝駆け参拝の折りには、一休み致いて茶なんど飲みに寄って御座った、「信楽(しがらき)」と申す水茶屋にて時を潰さんと考えた。

 ところが、日本橋を渡った辺りからで御座ったか……何やらん……後ろの方(かた)より……

――ザワザワ……ザワ……ザザッ……ザワ……

と、絶え間のぅ幽かなる音のして……これが、どうも、誰か、後をつけて参る者のある、そんな気配に感じて御座ったによって、立ち止まると、さっと振り返って見た……ところが……そこには人影などなく……ただ……

――繩のようなるもの

……これ、すぐ後ろの地面に横たわっておった。

 そこで、少しく試みてみると……その繩のようなるもの……男の歩みに従い……

――早(はよ)うに歩けば……

――早うに追うて来(き)……

――立ち止まってみれば……

――そこにて止まる……

 されば、男は、

『……儂(わし)の足にでも、あるいはまた、着物の裾にでも、目に見えぬ糸のほつけたようなもののあって、それがまた、その繩に纏わりついておるによって、まるで儂の後をついてくるように、これ、見えおるんじゃろか?……』

なんどと思うたによって、よぅく、自分の足や服の裾を検(あらた)め見てみたけれども、そのようなもの、これ、足首や裳裾には、さらに、ない。

 何ともはや、気味(きび)悪うなったればこそ、かの「信楽」の茶屋に立ち寄らんと急いだ。

 未だに夜更けのことゆえ、他の町屋は未だ戸も開けてはおらなんだが、水茶屋と申すは、これ、朝立ちの客をも一つの上客と心得ておるよって、既に燈(ひ)なんどを点し、店を開いておるのが、近(ちこ)うに見え始めた。

 さればほっと致いて、やれやれと立ち寄って御座ったところ、「信楽」の亭主の、いつもの笑顔にて出迎え、

「――今日は、また! さてもさても! 早うにお出でなさいましたのう!」

と、家内(いえうち)の者ともども、いつも通り、元気に明るぅ、挨拶など致いて、茶なんどもすぐに煮て出し呉れたによって、

「……いや! 全く恥ずかしきことに、の。 刻限を、とり違(ちが)えた。……」

なんどと申しては互いに笑い合い、二言三言、軽口をたたき合った上、男は暫く、一服致いた。

 ところが――未だ夜も明けぬまっ暗闇にて御座ったれど――その時……ふと……気になって……店の門口の戸の方(かた)を……垣間見た――と――そこには……

……やはり……

……あの……

……後をついて参るように感じた……

……あの……

――繩

……これ……

――門口の直ぐ外に

――あった!

 と見るや、ゾゾーッ! と悪寒の走った。

 男は、下女に、

「……す、すまんけど……少し悪寒のするによって、門口、ちょいと閉めておくんない。」

と、願(ねご)うて、閉めて貰(もろ)うた上、店の奥へと入って、

「……いまだ夜も明けざればのぅ……儂(わし)……これ、ちいとばかり……気分の悪しく御座れば……ちっとの間……悪(わり)いけんども、一つ、店の奥方を借りて、休まさしてもらえんか?……」

と、願(ねご)うたところ、亭主は、

「……それはよぅ御座いませんのう!――さ、どうぞ! ごゆるりと!」

と気前よう、部屋を貸しくれたによって、枕なんども借り受け、横になって御座ったと申す。

 ほどのぅ、夜も明けたる光の射し、往来にも人の行き来のしきりになったる音の致いて御座ったによって、男は、やおら起き出し、かの亭主へ、

「……忝(かたじけ)のぅ御座った。……いつものように、また、帰りには寄らさしてもらいます。」

と礼を述べて、笑顔の亭主の見送りを受け、水茶屋を出でた。

 さても――門口を出でて見てみても――これ――何も、ない。

 何度も――これ――暫く歩んで後にぱっと振り返って見てみても――あの繩は――これ――どこにも見当たらなんだと申す。

 されば胸を撫で下ろした男は、いつも通り、目黒のお不動さまへと参詣なし、妖しきことのあったればこそ、特に、身の上の安穏(あんのん)など、これ、念入りに祈ったと申す。

 かく致いた上、かの目黒の近場にて、訪ぬべき方もあったによって、そこにたち寄ってすべきことも成し終え、それよりゆるゆると少し遅うなった昼をとって、腹ごしらえも上々、辺りをひやかし、ぐだぐだ致いておるうち、やっと黄昏(たそがれ)時近(ちこ)う頃合いとなってより、ようやっと帰路へと就いた。

 帰りがけ、約束の通り、かの芝口の「信楽」が方へと向かい、そのお店(たな)の前に立った。……ところが……これ……

――表の戸

――皆

――しもうてあって

……しかも……そこには……

  忌中 

――の二文字の張り紙…………

 されば、男、

「……け、今朝までは……こ、このようなる、よ、様子……ま、全く……御座らなんだに……」

と、驚きもし、不審にも思うたによって、「信楽」の向かいに、やはり馴染みのお店(たな)あったれば、そこに入って訊ねてみたところが、

「……信楽屋の亭主か!……いや! それがのぅ……つい昼つかたのことじゃ……にて……自ずと……首を……縊(くく)ってしもうたんじゃ!……」

「……いや……しかし……我ら、今朝方、逢(お)うた折りには……いつもとまったく変わらず……冗談など交わし合(お)うて別れたが?……」

「……おう! そうよ! 儂(わし)も朝方、挨拶致いた折りはの、そうじゃったんじゃ。亭主、何時(いつ)ものように、お店(たな)の前を掃除しておったんでの、いつもの通り、儂はにっこり笑(わろ)うて挨拶致いた。亭主もにっこり笑うて返したんじゃ。……ところがの……そん時のこと……かの亭主……何やらん――小汚い繩の切れっつぱし――のようなるものを……これ、お店(たな)門口の前に落ちておったを……拾うた――と――亭主……それを手にぶら下げたまんま……なんぞ……呆(ほう)けたような蒼白き顔になっての!……長(ながー)い間……そこへぼーっと……突っ立ったまま……動かなんだ。――と――すーうっと……お店(たな)の奥へと消えたかと思うたら……吊りよったんじゃ!!……」

「……!!……」…………

「……我が身の災難……これ……不動明王の御加護にて逃れ得たものででも御座ったものでしょうかのぅ?……かの妖しき繩の追い来ったるを……我らは初め……そうさ、邪悪なる――例えば蛇の、その化身の――物の怪と、これ、思うて御座いましたれど……いや……実は……その心なき繩っ切れに――邪(よこしま)にしておぞましき陰の気(き)の宿り籠り……我らを縊(くび)り殺さんものと……我らが後を追うて参り……謂わば――「死を慕(しと)うて」――来ったる――奇体な物の怪――ででも……これ……御座いましたか…………」

と、その男本人が、私の友が許へ参った折り、しみじみと語ったという話で御座る。

 

2015/01/17

私は思うのです

私は思うのだ――

アンドレイ・タルコフスキイの「アンドレイ・ルブリョフ」の本編最後に於いて、11年の沈黙の行を破って青年ボリースカに「お前は鐘を造り、私はイコンを描く。」とルブリョフが声を発した瞬間――

ルブリョフ自身が――

自分のその「声」を――

どんなにか――

優しく貴いものとして聴いたか――

ということを……

耳嚢 巻之九 吐血を留る奇法の事

 

 吐血を留る奇法の事

 吐血とまらざるに、童便(どうべん)を飮(のん)でよし。しかれども、宿(しゆく)に小兒(しやうに)なければ、他よりもろう時はさめてぬるく、心持を損ず。其時は其身の小便を飮(のん)でよし。右は予が親友山本某、文化の六の年春、吐血して色々藥を施しけれど其しるしなし。或醫師、右の法を傳へける故飮(のみ)けるに、早速留(とま)りける由。其の身の小便も、始めに通ずるは、しほはやさ強く、中半(なかば)を飮(のめ)ば少し飮(のみ)よき由。朝など溜りたるは彌(やや)飮(のみ)にくきと、山本かたりし故、ある官醫に其事かたりけるが、隨分醫家に其法有(ある)由語りぬ。不淨を己(おのれ)が口に入(いる)る事、死せばとていかにせんと難ぜし者あれど、其天命を繫(つなぐ)の一術、藥なれば又何か苦しからんと云(いひ)し人有(あり)。尤(もつとも)なる事にや。

□やぶちゃん注

○前項連関:頭痛から吐血の病状で連関するが、実は以下の「本草綱目」を見ると、この小児の小便は頭痛にも効果があるとあるから、本来なら、そこでも実は強く連関することになるということを述べおきたい。民間療法シリーズ。

「童便」小児の小便。底本の鈴木氏注に、『三村翁注「童便、一に輪回酒とも、還魂酒とも、還元湯とも十二歳より以下の男児の小便なり、一に一二歳の稚童未だ食せず乳を飲むともいへり、或は酒を加へ、或は水と等分にし、或は又蜜にまぜ温めて服せしむ、産後に一盞を温服して敗血悪物を下し、血暈を防ぐなどいへり。」』と引く。「本草綱目」の「人部」に「人尿」の項があるので引いておく(原文は中文ウィキ本草綱目」を基礎底本として使用したが、正字化を施し、一部の脱字と思われる漢字は後掲する茨城大学公式サイト内「真柳研究室」の「李時珍『本草綱目』人部・人屎項」の「受講生発表レポート」で補ってある。本文と関係のある箇所を私が太字下線で示した)。

   *

人尿

(奴弔切。亦作溺。「別錄」。)

【釋名】

溲(「素問」)、小便(「素問」)。輪回酒(「綱目」)。還元湯。時珍曰、『尿、從尸从水。會意也。方家謂之輪回酒、還元湯、隱語也。飲入於胃、游溢精氣、上輪於脾。脾氣散精、上歸於肺、通調水道、下輸膀胱。水道者、闌門也。主分泌水穀。糟粕入於大腸、水汁滲入膀胱。膀胱者、州都之官、津液之府、氣化則能出矣。「陰陽応象論」云、淸陽爲天、濁陰爲地、地氣上爲雲、天氣下爲雨。故淸陽出上竅、濁陰出下竅。』。

【氣味】

鹹、寒、無毒

【主治】

寒熱、頭痛、温氣。童男者尤良(「別錄」)。主久嗽上氣失聲、及症積滿腹(蘇恭)。明目益聲、潤肌膚、利大腸、推陳致新、去欬嗽肺痿、鬼氣、病、停久者、服之佳。恐冷、則和熱湯服(蔵器)。止勞渇、潤心肺。療血悶熱狂、撲損、瘀血在内運絶、止吐血鼻衂、皮膚皴裂、難産、胎衣不下、蛇犬咬(大明)。滋陰降火甚速(震亨)。殺蟲解毒、療瘧中(時珍)。

【發明】

弘景曰、「若人初得頭痛、直飮人尿數升、亦多愈。合蔥、豉作湯服、彌佳。」。

宗奭曰、「人溺、須童子者佳。産後温飮一杯、壓下敗血惡物。有飮過七日者。過多恐久遠血臟寒、令人発帶病、人亦不覺。若氣血虛無熱者、尤不宜多服。此物性寒、故熱勞方中用之。」。

震亨曰、「小便降火甚速。常見一老婦、年逾八十、貌似四十。詢其故。常有惡病。人教服人尿、四十余年矣、且老徤無他病、而何謂之性寒不宜多服耶。凡陰虛火動、熱蒸如燎、服藥無益者、非小便不能除。」。

時珍曰、「小便性温不寒、飮之入胃、随脾之氣上歸於肺、下通水道而入膀胱、乃其舊路也。故能治肺病、引火下行。凡人精氣、淸者爲血、濁者爲氣、濁之淸者爲津液、淸之濁者爲小便。小便與血同類也、故其味鹹而走血、治諸血病也。」。按「褚澄遺書」云、「人喉有竅、則欬血、殺人。喉不停物、毫髮必欬血。既滲入、愈滲愈欬、愈欬愈滲。惟飮溲溺、則百不一死。若服寒涼、則百不一生。」。又、呉球「諸證辨疑」云、「諸虛、吐衂、咯血須用童子小便、其效甚速。盖溲溺滋陰降火、消瘀血、止吐衂諸血。伹取十二歳以下童子、絶其烹炮鹹酸、多与米飮、以助水道。毎用一盞、入薑汁或韭汁二三點、徐徐服之。日進二三服、寒天則重湯温服。久自有效也。」。又、成無己云、「傷寒少陰證、下利不止、厥逆無脈、乾嘔欲飮水者。加人尿、豬胆汁鹹苦物於白通湯薑、附藥中、其氣相從、可去格拒之患也。」。

【附方】

舊七、新三十八。

頭痛至極 童便一盞、豉心半合、同煎至五分、温服(「聖濟總錄」)。

熱病咽痛 童便三合含之、即止(「聖惠方」)。

骨蒸発熱 三歳童便五升、煎取一升、以蜜三匙和之。毎服二碗、半日更服。此後常取自己小便服之、輕者二十日、重者五十日瘥。

二十日後、當有蟲如蚰蜒、在身常出。十歩内聞病人小便臭者、瘥也。台州丹仙觀道士張病此、自服神驗(孟詵「必効」)。

男婦怯証 男用童女便、女用童男便、斬頭去尾、日進二次、乾燒餠壓之。月餘全愈(「聖恵」)。

久嗽涕唾 肺痿時時寒熱、頰赤氣急。用童便(去頭尾少許)五合、取大粉甘草一寸、灸令四破浸之、露一夜、去甘草、平旦頓服、或入甘草末一錢同服亦可、一日一劑。童子忌食五辛熱物(姚僧垣「集驗」)。

肺痿欬嗽 鬼氣主病。停久臭溺、日日温服之(「集驗方」)。

吐血鼻洪 人溺薑汁和匀、服一升(日華子「惠方」)。

消渇重者 衆人溺坑中水、取一盞服之。勿令病患知、三度瘥(「聖惠方」)。

症積滿腹 諸薬不瘥者、人溺一服一升、下血片塊、二十日即出也(蘇恭「本草」)。

絞腸沙痛 童子小便服之、即止(「聖惠方」)。

猝然腹痛 令人騎其腹、溺臍中(「肘後方」)。

下痢休息 杏仁(去皮、炒、研)二兩、以猪肝一具、切片、水洗血淨、置淨鍋中、一重肝、一重杏仁、鋪盡、以童便二升同煎乾、放冷、任意食之(「聖惠方」)。

瘧疾渇甚 童便和蜜、煎沸、頓服(「簡便方」)。

瘴癘諸瘧 無問新久、童便一升、入白蜜二匙、撹去白沫、頓服、取吐碧綠痰出爲妙。若不然、終不除也(「聖惠」)。

中暍昏悶 夏月人在途中熱死、急移陰處、就掬道上熱土擁臍上作窩、令人溺滿、暖氣透臍即蘇、乃服地漿蒜水等藥。林億云、「此法出中張仲景、其意殊絶。非常情所能及、本草所能關、實救急之大術也。蓋臍乃命蒂、暑暍傷氣、温臍所以接其元氣之意。」。

中惡不醒 金瘡血出不止、飮人尿五升(「千金方」)。三十年癇、一切氣塊、宿冷惡病苦參二斤、童子小便一斗二升、煎取六升、和糯米及曲、如常法作酒服。但腹中諸疾皆治。酒放二三年不壞、多作救人神效(「聖惠」)。

金瘡中風 自己小便、日洗二三次、不妨入水(「聖惠」)。金瘡血出不止、飲人尿五升(「千金方」)。金瘡血出不止飲人尿五升(「「千金方」)。打傷瘀血攻心者、人尿煎服一升。日一服(「蘇恭本草」)。

折傷跌撲 童便入少酒飮之。推陳致新、其功甚大。薛己云、「予在居庸、見覆車被傷七人、仆地呻吟、倶令嚾此、皆得無事。凡一切傷損、不問壮弱、及有無瘀血、倶宜服此。若脅脹、或作痛、或發熱、煩躁口渇、惟服此一甌、勝似他藥。他藥雖效、恐無瘀血、反致誤人。童便不動臟腑、不傷氣血、萬無一失。軍中多用此、杖瘡腫毒、服童便良(「千金方」)。

火焼悶絶 不省人事者、新尿頓服二三升服良(「千金方」)。

刺在肉中 温小便漬之(「千金」)。

人咬手指 瓶盛熱尿、浸一夜、即愈(「通變要法」)。

蛇犬咬傷 「日華子」云、「以熱尿淋患處(「千金方」)、治蝮蛇傷人、令婦人尿于瘡上、良。

蛇纏人足 就令尿之便解(「肘後方」)。

蜂蠆螫傷 人尿洗之(「肘後方」)。

蜘蛛咬毒 久臭人溺、於大甕中坐浸。仍取烏雞屎炒、浸酒服之。不爾、恐毒殺人(陳臓器「本草」)。

百虫入耳 小便少少滴入(「聖濟總錄」)。

労聾已久 童子小便、乗熱少少頻滴之(「聖惠方」)。

腋下狐臭 自己小便、乗熱洗兩腋下、日洗數次、久則自愈(「集簡方」)。

傷胎血結心腹痛 取童子小便、日服二升、良(「楊氏乳」)。

子死腹中 以夫尿二升、煮沸飲之(「千金方」)。

中土菌毒 合口椒毒、人尿飮之(「肘後方」)。

解諸菜毒 小児尿和乳汁、服二升(「海上方」)。

催生下胞 人溺一升、入蔥薑各一分、煎二三沸、熱飲便下(「日華子本草」)。

痔瘡腫痛 用熱童尿、入礬三分服之、一日二、三次、效(「救急方」)。

   *

実に幸いなことに、茨城大学公式サイト内「真柳研究室」の「李時珍『本草綱目』人部・人屎項」の「受講生発表レポート」でこれらの語中と全現代語訳が読める(但し、底本版本が異なるものと思われ、一部に異同がある。それでも概ね意味を知ることが出来る)。それを見ると、何故、小便が薬となるかについて、時珍は「小便與血同類也、故其味鹹而走血、治諸血病也」(小便と血は同類なり。故に、その味、鹹(かん)にして血に走り、諸々の血病を治(ち)するなり)『小便は血と同類であり、塩辛いため、血液に入りこむ。そして色々な血の病を治すのである』(下道弥生氏訳)と述べている。これらを見ると小児の尿は万能薬で、しかも長寿の秘法でさえことが記されている。私は試みたことがないが、現在でも自分の尿を飲む健康法を主張している方は多い(実際にそのような本を立ち読みした記憶がある)。なお、「本草綱目」ではこの前に「人屎」(ジンシ)、即ち人糞の項もあって、そこでもやはり特に中でも小児の大便の効能が記されてある。ここはあくまで小便であり、これ以上は脱線にもなり、不快感を持たれる方もあろうかと思われるのでリンクを張るのみにしたいが、朝鮮民族の間で古くから「トンスル」(똥술、糞酒、Ttongsul)と呼ばれる人糞を用いた人糞酒が存在することは知っておいていいだろう。そもそもが我々自身の体から出たものである。それが薬となるは、これ、至極自然なことだと、根岸と同様に納得する人間が私である。寧ろ――放射性物質を垂れ流しにして平然と「安全」「管理されている」などと称している今の日本こそ、おぞましくも穢れた致命的な国家規模の大迷信の中に生きているのだ――と声を大にして言いたいのである。

・「山本某」不詳。耳嚢 巻之三 鬼神を信じ藥劑を捨る迷の事に『予が知れる富家に山本某といへる者』という名が出るが、これはその話柄内で死んでいるのでこれではない。また、耳嚢 巻之七 老僕奇談の事に『予親族山本某』なる人物が出るが、ここでは親友と称しており、同一人かどうかは不明。

・「文化の六の年春」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、これもまたしてもアップ・トゥ・デイトな記載である。ここに至って、根岸がなるべく新しい話柄を採録しようと努力しているさまが如実に窺われる(前に注したように根岸はこの巻九九百を以って「耳嚢」を擱筆するつもりでいた)。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 吐血を止(と)むる奇法の事

 吐血が止まらぬ際には、小児(しょうに)の小便を飲用すれば、これ、効果がある。

 但し、自分の家内(かない)に小児がおらず、他家(たけ)より貰(もろ)うて参るという場合は、これ、時間が経ってしまって冷めてぬるうなり、これを、飲むと気持ちが悪くなることが、ままある。

 そうした場合には、無理に外から貰うてくることをせず、自分自身の小便を飲んでも、これ、効果がある由。

 以上は、私の親友である山本某(なにがし)が、文化の六の年の春、吐血致いて、色々と薬を試してみたものの、一向に効果のなきに困り果てて御座ったところ、知れるある医師が、

「……実は……小児の小水(しょうすい)を飲むと申す、いささか変わった処方が、これ、本草書にては伝えて御座る。」

と教えてくれたによって、藁をも摑む思いで、早速、試みに飲んでみたところが、飲んだ途端に爽やかに相い成り、吐血も、これ、ぴたり! と止まった由、聴いたままに記したもので御座る。

 なお、自分自身の小便を用いる場合も、その採取に注意すべき点があると申す。

 まず、放尿し初めに通ずるところの小便は、これ、塩辛さがはなはだ強いので避け、中半(なかば)の頃のものを採って、これを飲用に供すれば、幾分か、飲み易き、とのことであった。

「……そうさのぅ……そうしてみても……まず、朝の寝起きの、夜に溜まった小水は、これ、ちょいと、飲みにくいものじゃ。……」

なんどと、山本の語って御座ったゆえ、小便が薬になるなどと申すは、これ、凡そ聴いたことが御座らなんだによって、一応、気になり、このことを、とある官医に語って意見を訊いてみたところが、

「――はい。――実はですな、小水を処方とするは、これ、随分、医家にその法の御座いますものでしての。」

との答えであった。

 考えて見れば、一見、「不浄なるもの」なれば、

「……小便を?!……そ、そんなえげつない!……あんな臭い汚いものを!……自分の口ん中に入るるなんどととは!……ああっつ! 考えただけで虫唾の走る!……これ、その毒気の回って死に至ったとせば、これ、如何(いかん)せんか!……」

なんどと、この話をした相手の中(うち)には、あからさまに嫌悪の表情を見せて、批難致いた者も御座った。

 が、しかし、これを聴いても、平然と、

「――人の天命を繋ぐところの一術として――我が身の採ったるものの変じて――また我が身より出でたるところの小水――これ、薬となるとせば――いや、これはもう、当たり前に、自然に、あり得ることじゃ――何か、飲むに苦しからん――我らもそうした折りには、進んで飲もうとぞ思う。――」

と肯んじた御仁もあられた。

 この後者の御仁の謂いこそ、尤もなることでは御座るまいか?

 

耳囊 卷之九 頭痛の神の事

 

 頭痛の神の事

 

 淺草田甫(たんぼ)幸龍寺といふ寺に、柏原明神といふ神社あり。頭痛を憂(うれへ)る者是をいのるに、其祈願不叶(かなはざる)事なし。御徒(おかち)を勤(つとむ)る某(なにがし)、頭痛を憂ふる事多年なり。或日强く起りて惱みける折節、知音(ちいん)の者來りて、頭痛には右の神社へ祈願すべし、御身かくなやみぬれば、參詣はなるまじ、我等代參して願ひをかくべき間、信心あれと、さとして立出(たちいで)けるが、頭痛を憂ふるおの子、絶(たえ)がたさに枕をとりて轉寐(まろね)なしけるが、思わず眠りしに、小猿二疋來りて頭痛を打(うち)もみなどせし、其心もちよき事いふ斗(ばかり)なしと、夢に思ひしが、頭痛全快して目覺(めざめ)ける頃、彼(かの)代參を賴みし男來りけるゆゑ、起出(おきいで)て其禮を述(のべ)ければ、厚く願かけぬれば快(こころよ)かるべしと云(いひ)し故、夢中の譯をかたりみるに、彼男大きに驚き、不思議なるかな、是までは我等も心付(こころづか)ざりしが、社頭に夥數(おびただしき)猿の額有(あれ)ば、全(まつたく)神使(しんし)の來りて御身の病(やまひ)をいやせしならんと、俱に驚嘆なしけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「幸龍寺」底本鈴木氏注に、『もと湯島にあったが、寛永年間浅草へ移った。日蓮宗』とあり、岩波版長谷川氏注も、『妙祐山。日蓮宗。浅草寺の西』とする。ところが調べて見ても、現在、浅草寺の西方にはこんな寺はない。プラニクス株式会社製作になる東京都の寺社案内サイト「猫のあしあと」のこちらに、世田谷区北烏山にある日蓮宗寺院として幸龍寺があり、『妙祐山と号し、玄龍院日春上人によって、徳川家康の祖母正心院殿日幸の帰依により、浜松城外に開山』したが、後、『徳川家康の江戸入府に従い』、天正一九(一五九一)年、『湯島へ移転、後浅草へ再転』したとあり、『江戸時代には百五十石の寺領を拝領した御朱印寺』(御朱印の発行を幕府から公認されていた寺をいうか)『で、谷中宗林寺、本所法恩寺とともに京本国寺末触頭を勤めたほか』、八つの『塔頭を擁し、江戸十祖師』(江戸にある十ヶ寺の日蓮宗寺院を参拝することにより祖師日蓮の御利益にあずかろうとする民間信仰及び当該の寺を指す。江戸時代は盛んであったが、現在は大掛かりには行われていない、とウィキの江戸十大祖師にある)『の一つ』でもあったが、『関東大震災で焼失』した後、昭和二(一九二七)年に当地へ移転したとある。ここに出るように、通称を「たんぼの幸龍寺」と称する。これは昔、浅草寺裏の一帯には水田が広がっており、これを「浅草田甫」と称していたことに由来する(最後の部分は個人サイト「古今宗教研究所」の同寺の記載に拠った)。

・「柏原明神」上記の「古今宗教研究所」の同寺の記載に、『山門をくぐると、右手に柏原大明神と清正公大神祇(加藤清正)を祀るお堂がある。柏原大明神は、江戸時代、頭痛に霊験があるとして信仰を集めたという』とまさに本話柄の事実を裏打ちする記述があって、世田谷区北烏山の当寺内に今も現存していることが分かる。これは清正が頭痛持ちであったというのではあるまい。所謂、虎退治をした剛勇なれば、その御霊信仰から、頭痛を齎す疫病神を退治するというコンセプトであろうと思われる。

・「御徒」幕府・諸藩ともに御目見得以下で騎馬を許されぬ軽輩の武士を指す。

・「猿」知られた日蓮の松葉ケ谷法難の際、日蓮を助けたという白猿伝説は有名。しかもここに祀られてある加藤清正の墓所は現在の熊本市花園にある発星山(ほっしょうざん)本妙寺にあり、清正が日蓮宗を信仰していたことも分かる。また、ウィキの「加藤清正」の「逸話」によれば、清正は猿を飼っていたという記載も見出せる。以下に引く。『晩年は豊臣家への恩義と自家の徳川政権での存続に心を悩ませた。そのためか、論語に朱で書き込みをして読み込むほどであった。徳川と豊臣の雲行きが怪しいなか、大坂からの船旅の中、清正の飼っていた猿が真似をして彼の論語の本に朱筆で落書きをしたのを見て「お前も聖人の教えが知りたいか」と嘆じたという』。猿は神の使いであると同時に、清正の家来でもあったわけで、目から鱗である。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

  頭痛の神の事

 

 浅草田圃(あさくさたんぼ)の幸龍寺と申す寺に、加藤清正公を祀る柏原明神(かしはらみょうじん)と申す神社の御座る。

 頭痛に憂えておる者は、ここに祈らば、その祈願、これ、叶わざることはない。

 さる御徒(おかち)を勤むるところの男が、これ、常日頃より頭痛に悩まされて御座った。

 ある日のこと、普段に増して激しき頭痛の起って、苦しんで御座ったところに、たまたま、知音(ちいん)の者が訪ねて参った。そうして、かの男の苦しみようを見かね、

「――頭痛には、かの神社へ祈願致すに若くはないぞ!……されど……貴殿、今日の様子にては……これ、参詣出来そうにも、ないのぅ。……されば一つ、我らが、代参致いて、これ、願(がん)をかけて参ろうぞ! なればこそ、ここにて、かの明神さまを心にて信心なされよ。」

と諭したによって、頭痛持ちの男は、この知音に頼み、柏原明神へと向かって貰(もろ)うたと申す。

 それから暫く致いて、頭痛に苦しんだるその男は、これ、あまりに痛さに耐えかねて、枕をとって横になって御座ったところ、痛さもあったれど、あまりの心痛に心気も疲れたものか、そのまま、うとうとと、眠りに落ちた。

……と……

……その夢に……

……小猿の二疋参って……

……男の頭の痛むところを……

……これ……しきりに……うち揉む……

……『……いやぁ……なんとも……まぁ……よき心持ちじゃ!……』……

と夢心地にも思うて御座ったところが……

――ぱっと

――眼(めえ)が醒めた。醒めたと思うたところが――あれだけしつこき頭痛の――これ――すっかりすっきり――消えて御座ったと申す。……

 ちょうど、そこへ、かの代参を頼んだる男が帰って参ったによって、やおら起き出だいて、

「いや! すっかりようなって御座る!」

と、礼を述べた。知音は、

「厚うに祈願致いて参ったによって、さぞ、快うなったことで御座ろう!」

と悦んだ。

 さてもそこで、先ほどの猿の夢に就きて、この知音に話しを致いたところが、それを聴くや、知音、これ、大きに驚き、

「……そ、それは!……不思議なることじゃ!……実は、の! 我らもこれまで気がつかなんだが……今日、祈願致しつつ、ふと、お社(やしろ)を見上げてみたところが……社頭には夥しき猿を描いた額絵が、これ、飾って御座ったじゃ!……これは、全く……神の御使(みつか)いが、ここへと参り、貴殿が病いを癒いたに相違あるまい!!……」

と申したによって、二人ともに驚嘆致すこと頻りで御座った、という。

 

耳嚢 巻之九 蛇物を追ふて身を損ずる事 但強勇の者諸邪害をなさゞる事

 蛇物を追ふて身を損ずる事 但強勇の者諸邪害をなさゞる事

 

 同寮水野物語りけるは、同人が知行に強氣の農民ありしが、或時道の邊(べ)にて、蛇の蛙を呑みけるを見て無理に敲放(たたきはな)し、彼(かの)蛙は傍(かた)へなりける水草(みづくさ)の内へ放しけるに、蛇怒りけるや、首を擧(あげ)て彼(かの)ものに迎ひけるゆゑ、木切(きぎれ)を以(もつて)追ひけれど不退(しりぞかず)、彌(いよいよ)頭をもたげ追ひ來るゆゑ、捕へて口を引裂(ひきさ)き捨(すて)けるに、右の蛇、石原(いしはら)を暫(しばらく)追ひ來りし故や、腹はことごとく裂けけるを、傍(そば)なる人怖しき執心といゝしを、彼男何ぞ小蟲の執心有(ある)べきとて、其肉を煮てくらひしに、胸の脇ことごとく痛みはれければ、何でうの事有べしとて、灸を夥敷(おびただしく)すへて膏藥など打(うち)しが、日あらずして快氣なしけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。私には道成寺の清姫伝説が髣髴とした。なお、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では標題が、

 怪物を逐(お)ふて身を損ずる事 但(ただし)強勇(がうき)の者諸邪も害をなさゞる事

となっている(読みは歴史的仮名遣に変えた)。実はこの方が、話柄としては自然で「但」の意もしっくりくる。

・「水野」底本の鈴木氏注に、『同寮は同僚の当字。水野若狭守忠道であろう。文化三年十二同七年十二月まで勘定奉行を勤めた。この時期には根岸は町奉行で、勘定奉行としては先輩。(水野は町奉行には就任せず)』とある。岩波版長谷川氏注もこれを踏襲して『水野忠道(ただゆき)』と注するが、しかし寛政八(一七九六)年から二年間日光奉行を勤めた人物に水野忠道なる名を見出せるものの(事蹟未詳)、勘定奉行には「水野忠道」はいない。そうして鈴木氏のいう就任期間に相当する勘定奉行に、まさに水野若狭守忠通(ただゆき)がいることが分かる(ブログ「水野氏史研究会」の「江戸幕府幕閣・幕臣水野氏在職表」中に、彼は旗本で水野勝成四男勝忠の嫡男勝岑(かつみね)の曾孫に当たるとある)。この鈴木・長谷川注の「水野忠道」は「水野忠通」である(かく名乗った時期があったのかも知れないが、孰れにせよ、多くのデータでは「忠道」ではなく「忠通」である以上、これは訂するべきと私は考える)。また、これより前の直近話柄を調べると「水野」姓では「耳嚢 巻之八 すあまの事」にまさに水野若狭守忠通がいる。彼は根岸の情報源と考えてよく、本巻の先行作「蚫和らか煮の事」の「水野氏」も同人と私は考えている

・「迎ひ」底本では「迎」の右に『(向)』と訂正注がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇の執拗(しゅうね)く相手を追って逆に身を損じたる事

   附けたり

  強勇の者には諸々の邪気も徹底した害を成すこと能わざると申す事

 

 同僚の水野忠通(ただゆき)殿の物語って御座った。

 同人の知行地に剛毅(ごうき)の農民のあったが、ある時、道端をふと見れば、小川の中にて、蛇(ながむし)が、これ、大きなる蛙を丸呑みせんとするところであったと申す。

 されば、ふと、情けの起って、この蛇を棒きれで叩いて、蛙を放させ、その蛙はこれ、傍(かた)えにあった水草(みずくさ)の内へと放ってやったと申す。……

 すると、この蛇(ながむし)、これ、餌食を奪われてはなはだ怒ったものか、鎌首を擡(もた)げ、かの農夫に向って参った。

 されば、今度は太き木端(こっぱ)を以ってこれを追い払わんと致いたが、この蛇(ながむし)、

――目を皓々と耀かせ!

――執拗(しゅうね)くねめつけ!

――一向退かんともせず!

――逆に!

――いよいよ! その三角の頭(かしら)を擡(もた)げ、農夫を狙って追いかけて参ったと。

 それを見た農夫は、これも……畜生の分際にて、たかが蛙一匹に、かくも執着致すとは、如何にもおぞましき奴じゃ!……と思ったか思わなかったか……はなはだ腹の立って参ったによって、今度は素手にて、そ奴を摑み捕え、その顎の上下を左右の手で摑むと、思いっきり引き裂いて、河原へ、ぶん投げた。

 頸根っこ辺りまで二、三寸は裂いたれば、最早、息も絶えんと思うてその場を立ち去って御座ったが……

――豈図らんや!

――しかもなお且つ!

――この蛇(ながむし)

――河原辺(べ)を

――さらに暫くの間

――未だ以って!

――農夫が後を
――追いかけて御座った!……

 この時、この河原に、その農夫の馴染みの漁夫のあって、この一部始終を見て御座ったれど、その蛇(ながむし)は、

……口のすっかり裂けたるに……

……鋭(と)き石の散らばったる河原を……

……長い間、男を追いかけて参ったによって……

……その口の裂け目の……

……これ、さらに広ごり……

――腹の方まで

――ことごとく

――裂けおった――と申す。

 さればその漁夫、

「……さても……恐ろしき!……あっ、執念じゃのぅ!…………」

と、これまた、歌舞伎みたようなる一声を、これ発して御座った。

 ところが、それを聴いた、かの男、

「――何(なん)の! 小虫如きに! 執心なんどの、これ、あるもんけッツ!」

と、血と泥でダンダラの肉塊となり、既にして息絶えて御座った、その蛇(ながむし)をひょいと尻尾で取り上げ、そのままぶら下げて家へと戻ると、すぐ、その肉を鍋にて煮、ぺろりと一匹総て、食ってしもうたと申す。

 ……ところが、その夜(よ)のこと、この農夫、

――両の胸の脇の部分……

――これ……

――まるで何かに引き裂かれたかのように……

――ことごとく痛みだし……

――赤黒(ぐろお)う……

――あたかも……

――蛇の形に……

――これ……

――激しく腫れて御座った……

 ……ところが、

「――んなもん!――何んぼのもんじゃイ!」

と、翌朝、直ぐに、自ずとその患(わずろ)うた胸の脇に、夥しい量の灸をすえ打ったところが、二日と経たぬうち、これ、すっかり、快気致いたと申す。

尾形龜之助 「晝」 / 「五月」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    晝

 

         尾形龜之助

 

太陽には魚のやうにまぶたがない

 

 

Hiru_ameninaruasa

 

    白昼

 

         作 尾形龟之助

         译 心朽窝主人,矢口七十七

 

太阳……跟鱼类一样……没眼皮

 

 

 

   *   *   *

 

    五月

         尾形龜之助

 

或る夕暮

なまぬるい風が吹いて來た

 

そして

部屋の中へまでなまぬるい風が流れこんできた

 

太陽が ―― 馬鹿のような太陽が

遠くの煙突の所に沈みかけてゐた

 

 

[注:「ような」はママ。]

 

 

Gogatu_irogarasu

 

    五月

 

         作 尾形龟之助

         译 心朽窝主人,矢口七十七

 

有一天黄昏

刮来了温湿的风

 

甚至

温湿的风流房间里来

 

太阳 —— 像混蛋一般的太阳

快要从远方烟囱那边落下去了

 

 

 

  矢口七十七/


[心朽窩主人注:前者は詩集「雨になる朝」から、後者は詩集「色ガラスの街」からで、本来は全く別個な詩であるものを、我々が恣意的に併置、矢口氏のイメージフォトで飾ったものである。]

2015/01/16

さても

僕は僕の孤独を楽しむことと決した――

耳嚢 巻之九 妖談の事

 妖談の事

 

 文化六年の春、人の語りしは、此程奇(きなる)事あり、中仙道桶川宿(をけがはしゆく)とかや、親もありしや、母子二人暮(ぐらし)にて家もまた不貧(まづしからず)。然るに息子なる者、亂心と申(まうす)ほどにもなく、狐の付(つき)たると申にもあらず、うつゝなき事ありしゆゑ、他行(たかう)をとゞめ服藥等心を盡し、段々快く最早常體(つねてい)とも可申(まうすべ)けれども、時としてうつゝなき事多かりしに、近邊の稻荷へ參詣なし度(たき)由申ける故、近所親類共(ども)へも爲知(しらせ)、とゞめけれども、程遠き處にもあらざれば、彼(かの)社頭へ、相談の上遣しけるが、其後あさ草觀音へ參詣いたし度旨相願(あひねがひ)けるゆゑ、母の一了簡(いちれうけん)にも難成(なしがたく)、親類組合へも咄しけるが、是はいらぬものなり、心もとなき由にて所(ところ)役人も合點せざる故差留(さしとめ)けるに、四五日もありて風與(ふと)立出で行衞不知(しれず)。定(さだめ)て淺草觀音へ參詣とて江戸へ出ぬらんと思へども、母は大きに驚き人を出し尋(たづね)けれども不知。四日目の曉、門口(かどぐち)の井戸へ物の落(おち)候音しければ、家内驚きて井の内を搜しけるに、落入(おちいり)候ものあれば、かろうじて引上(ひきあげ)けるに彼(かの)息子にありければ、未だ息もあるゆゑ色々養生なしけれど、其日の夕刻果(はて)けるにぞ、母の歎きはいふ斗(ばかり)なく、無據(よんどころなく)親類打寄りて次の日菩提所へ葬りて皆々なげきけるが、四五日過(すぎ)て夜に入(いり)、表の戸をたゝくものありし故、右の戸をあけゝれば彼息子なるゆゑ大きに驚き、幽鬼の類ひならんと、母さへ側へ寄らざりしが、彼息子大きに不審して、我等幾日に頻りに觀音參詣いたし度(たく)、立出(たちいで)、いづ方に泊りて昨日出立(しゆつたつ)、道中もいづ方に泊り歸りしといふゆゑ、其先々へも人を出し尋(たづね)けるに、いさゝか相違なし。さて葬送せしは、心の通(かよ)ひ來るなるべし、掘(ほり)て見よとて、菩提寺へも斷(ことわり)、掘穿(ほりうがち)見しに、是又息子死骸に相違なければ、かゝる奇も有(ある)事や、立歸りし息子、若し妖物(ばけもの)にも有(ある)やと、打寄尋(うちよりたづね)て其樣子を□しけるに、いさゝか違ひなく、折節うつゝなき事の有(ある)も、前日にかわる事なし。今に不審不晴(はれず)とかたりぬ。

  但しかゝる事有べきにもあらざれば、

  其虛實を糺しぬれど、いまだ其實をし

  らざるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:実録的奇談物二連発。最後の字下げの記載は、根岸の後日附記と思われ、それだけに真相は別として、根岸が強く不審にも興味深くも思った事例であったことを感じさせる。一見、二重身(ドッペルゲンガー)譚に見えるが、これは実際に全く同一人の肉体が二つ存在するという特殊なケースで、論理的には井戸に落ちた男は行路死病人であって、偶然、そっくりな赤の他人であったという解釈以外には成立し得ない(母が口を噤んでいた一卵性双生児であったという設定も理屈では可能であるが、それならば母が気づかねばおかしいからあり得ない)。事件性や犯罪性も窺えず、根岸としても気になっても殊更に調べるわけには行かぬ事例であろう。しかし、この男子の精神状態がやや気になる(例えば、稲荷参詣の要求は自身が狐憑きであることをことさらに表明しようとする作為性を感じさせるし、後半での路程や宿泊地の明晰な記憶などを見ると、寧ろ、私は佯狂を疑うのである)……ここは一つ、杉下右京にでも登場して貰わずんば、なるまい。……右京さん、でも、相棒は亀ちゃんにしてね!……

・「文化六年の春」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。ほっかほかの事例である。

・「其樣子を□しけるに」の「□」には底本では右にママ注記がある。珍しい確信犯の伏字或いは書写本の虫食い等の欠損ということだが、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、

 其樣子を樣しみるに

で、長谷川氏は「樣」に「樣(ため)しみる」と読みを振ってられる。これで訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖しき話の事

 

●事件概要

・時 日 文化六年

・報告者 当該所轄役人

・要 約

 最近、管内に於いて、極めて奇体(きたい)且つ論理的に解釈不能なる出来事が出来(しゅったい)しているため、以下の通り、報告する。

●事件前史

 中山道(なかせんどう)桶川宿(おけがわしゅく)宿駅内、母子二人の家庭。

 家は、客観的に観察するに、経済的には貧しいとは言えぬ平均的世帯(しょたい)である。但し、この家の一人息子は、その精神状態――但し、これ、「乱心」と申すには語弊のあり、また、狐が憑依していると断定するほどの状況下でもない――が、時に正気を失って、尋常ならざる異常行動に陥ることがままあったため、母親はこの男子に外出を禁じ、相応の医師から処方された薬を継続的に投与するなどして、誠実な看護を尽くしていた。

●事件詳細

 しばらくして、徐々に快方へと向かい、最早、至って健全な状態となったかのように見えたものの、それでも時として、正気を失うような不審な行動や仕草をすることが、ままあった。

   *

 ある時、この男子、

「近くの稲荷へ参詣したい。」

と臨んだので、近所及び親類の者どもへ、この息子の現在の様態と、稲荷参詣の懇請につきて告げ知らせ、十分に協議した結果、取り敢えずは、未だ不安要素が大であるという諸判断に決し、取り敢えず、外出を押し留めさせた。

 しかし、母親は少しく、本自子たる男子を不憫に思い、その稲荷というも、これ、それほど遠き場所にあるものにてもなかったによって、最も信頼の於ける、近親・知己に対し、再度、話を向け、了承を得たによって、当該稲荷神社社頭への参拝を、この男子に許可した。

 その参詣から男子は無事戻り、また、その後(ご)に、何らの変化も認められなかった。

   *

 ところが、その後、この男子、今度は、

「浅草観音へ参詣したい。」

と、頻りに乞い願うようになった。

 されば、これも、母親一人の判断にては、とてものことに処理し難き案件であったがため、再び、ごく近しい親類及び近隣知音(ちいん)の講中の組合員等(ら)へも相談した。

 しかし、その結果、

「それは許容し過ぎであり、参拝の往路復路に於いても極めてっゆしき心配、これ、あり。」

という意見で一致を見、しかも、所轄の下役人も、

「問題が多すぎるに拠って、まずは今のところ、留保するが宜しい。」

と制止すべき答えが返って参った。

   *

 ところが、それから四、五日ほどして、この男子、ふと、自律的に実家からたち出で、そのまま行方不明となってしまった。

   *

 母親は、きっと浅草観音へ参詣するために江戸へ出たと判断し、すこぶいる驚愕、男子を知れる近隣の複数の者を雇い、江戸へ向かわせた上、ここかしこ、探し回ったもの、結局、発見出来なかった。

   *

 ところが、失踪から四日目の未明のことであった。

 この母親の家の実家入口のところにあった井戸の中へ、何か、相応の物体が落ちた感じを強く惹起させるところの物音がした。

 そこで、家内(かない)の者も、その音に驚き、井戸の内部を子細に探ってみたところ、明らかに井戸の底に落ち込んでいるように見える人影を現認した。

 そこで、何人かの者が集(つど)うて、これを引き上げてみたところ、それが実に、かの行方不明となっている息子であったがため、非常に驚き、その折りには未だに息もあったことから、応急処置を施しつつ、主治医の医師にも往診を頼み、誠実に看病致いた。

しかし結局、薬石効なく、その日の夕刻には死亡した。

   *

 死亡が確認され、母親の嘆きたるや、尋常ではなかったによって、葬儀その他の仕儀を実母が執り行うことは出来ぬと判断した親類一同がうち集った上、葬儀全般、これ、執行、菩提所へと葬って、皆々、悲愁致いて、法事、これ、恙なく終えることが出来た。

   *

 ところが、葬儀より四、五日過ぎた、ある夜のことであった。

 かの母親の家の、その表の戸を叩く者があった。

 そこで、その戸を開けてみたところが、そこに立っていた人物は――これ――何と――かの死んだはずの息子であった。

 されば、母親、大いに驚き、これは間違いなく幽鬼の類いであろうと存じて、その当の実母でさえも恐懼して、一切、側(そば)へは近か寄らぬ、という状況であった。

   *

 しかし、その息子と酷似した生きたる方に人物は、非常に不審なる面持ちのまま、

「……私(わたし)は××日……何やらん、心うちより……殊の外、観音参詣を致したき思いの、これ、募って参りましたによって……この実家を立ち出でまして……それから――〇〇の村へと至って――△△屋と申す屋号の旅籠(はたご)に泊り――その後(のち)、昨日、そこを出立(しゅったつ)致いて――思う存分――浅草観音に――これ、参拝を果しましたによって――そうさ――それより、また、帰りの道中にては――□□が方――なんどへ泊まって、かく帰りまして御座る。」

などと、きっぱり申しましたによって、母及び親族連中は、その息子の言の中(うち)にあったところの、その宿泊致いたと申す旅籠なんどへも、これ、それぞれ、一人ずつまでをも遣わして、これ、事実確認をしてみましたところが……これまた……総て……

――言う通り

――全く以って相違ない

ということが、これ、判明した。

   *

 されば、

「……さては……かの葬送したところの遺体というは……かの、息子の生霊……これ……心の憧憬(あくが)るる通り……ここへと通い至ったるものではなかったか?!……まずは、これ! 墓所を掘り返すに!――若くは――ない!」

という決議のあったによって、菩提寺へも特別なる断りを申し入れた上……かの息子の墓を掘り穿って見た。ところが、しかし、これ、まっこと、不思議なることに――確かに――その骸(むくろ)――これ――また、かの息子が死骸に他らなかったのである。

   *

 されば、母以下の数多(あまた)の者ども、これ皆、

「……か……かくなる……奇も……これ……あろうことかのう!?……と、とすれば――じゃ……その……たち帰ったと申す……息子とやらんは……これ……もしや……そ、その……おぞましき……化け物にても! 御座るまいかッ?!……」

と、皆して、かの生きたる息子を遠巻きにしつつ、叫んだ。

 しかし、それでも、特に親しかった者ども数人、及び、かの男に対し、親しく接し、かつ、いろいろと訊ねつつ、しかも同時に、それとのぅ、その雰囲気や外見を子細に観察してはみたものの……結局……これ……聊かの違いも、これなく――しからば――但し、確かに、折々、意識をふうっと失せる異様な感じは見受けられたによって――仔細に、その男を観察致いた限りでは――この男――聊かも妖しきところ――これない。……いや! 正直なところを申せば……これ……今に至るまでその不審――これ――晴るること――の、ない――と申す以外には、これ、御座らぬ。……

   *

 と申す報告文書ではあった。

●根岸鎭衛 附記

 但し、かかることは、これ、とてものこと、あり得べきことにてはなき部類のことであるによって――暫くは私的にその虚実につきて、かなり厳しき糺しを成さんとは思うが、しかし――実に未だ――その目から鱗の真相には……正直、これ、到達しては御座らぬと申しおこう…………。

今朝見た夢

――私は誰かの詩集を読んでいます――
――そのページに鮮やかな淡い桃色の桜の花弁がはらはらと降りかかってくるのです――
――私はその詩集を閉じるとその詩集をくるくると丸めます――
――詩集は羽二重餅のように柔らかな素材で出来ていて――
――仕儀の通りに綺麗な巻物のようになるのです――
――私は小さなナイフを執り出して――
――そのロールの詩集を截る――
――そうして……
――それを……
――口に……
――含む……
……すると……
――芳醇なあの桜の薫りを含んだ――「詩」の匂い――が――私の鼻を撲ったのでした…………


[やぶちゃん注:――この「詩」は昨夜、僕に届いた教え子の、奈良の思い出を綴った消息文の変化(へんげ)したものに違いない――と実は――覚醒する少し前――夢の終りに――既にして感じていた。]

尾形龜之助 「春」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    春

     (春になつて私は心よくなまけてゐる)

 

         尾形龜之助

 

私は自分を愛してゐる

かぎりなく愛してゐる

 

このよく晴れた

春 ――

私は空ほどに大きく眼を開いてみたい

 

そして

書斎は私の爪ほどの大きさもなく

掌に春をのせて

驢馬に乘つて街へ出かけて行きたい

 

 Haru_kokoroyokunamakete

 


 春天
 
(春天到了,我尽情悠忽)


             作 尾形龟之助
             
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

我爱着自己

无限地爱着自己

 

这么晴朗的

春天——

我想要睁开眼睛——辽阔的天空

 

话说

书房比我指甲还要小

因此我想把春天放在手掌上托着

骑驴子往街上去

 

              矢口七十七/

2015/01/15

北條九代記 卷第七 降霜石降冬雷 付 將軍家御臺所御輿入

      ○降霜石降冬雷  將軍家御臺所御輿入

 同七月十六日には、霜の降る事冬の如し。八月六日には日中より雨降り出で、瀉(うつ)すが如なりければ、洪水、俄(にはか)に漲りて、河邊の居民等家共(いへども)押流され、溺死(おぼれし)する者數知らず、古老の輩(ともがら)、未だかゝる洪水は例(ためし)をも聞及ばすとぞ申合ひける。同八日には、申刻より大風吹出でて、雨交りにして、夜半に及ぶ。草木の葉は枯落ちて、冬の氣(き)の如く、五穀損亡して、萎伏(しほふみ)したり。九月八日の申刻より、寅〔の〕時に至るまで少の休む時もなく、大風吹起り、御所中を初て、諸寺、諸社の鳥居、寶殿(はうでん)、武家、民屋(みんをく)、悉く破損顚倒す。只事とも思はれず。陸奥国芝田(しばたの)郡には、石の降る事、雨の如く、その大さは柚柑(ゆかう)の勢(せい)にて、細く長し。下道二十餘里の間に、馬人鳥類(てうるゐ)、打たるゝ者、數知らず。又、十一月十八日に、鎌倉の邊(あたり)、風雨頻(しきり)にして、申刻より夜に至り、大風大雨、大雷(おほがみなり)に、諸人、魂(たましひ)を惱ませり。冬至の日に、雷鳴(いかづちな)る事は希代(きたい)の變異なり。十二月五日には、客星(かくせい)西に見ゆ。是等の災變、只事ならず。飢饉疾疫兵亂の瑞兆なりと、京都、鎌倉共に申しければ、旁々(かたがた)、御愼深く、樣々の御祈禱あり。今年、將軍家十三歳、御嫁娶(よめどり)のこと御沙汰あり。故將軍賴家公の御娘(おんむすめ)竹御所(たけのごしよ)とておはしける、御年二十八にならせ給ふを、將軍賴經公の御臺所と定めらる。十二月九日、今日吉日なり。早卒(さうそつ)の密儀なれば御輿(みこし)に召されて、小町口(こまちぐち)より入り給ふ。式部〔の〕大夫政村、大炊〔の〕助有時、以下、布衣(ほい)にて馬に乘りたり。相摸守時房、武蔵守泰時は、狩衣にて供奉せらる。物靜なる御有樣、後(のち)は知らず、めでたかりける御事なり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜二(一二三〇)年七月十六日、八月六日・八日、九月八日、十一月八日・十八日、十二月五日の天変地異の記事、及び同年十二月九日の竹御所の将軍頼経へのお輿入れの記事基づく。今回も特に「吾妻鏡」原文を引く必要は私は感じない。

「降霜石降冬雷」「かうさういしふりふゆがみなり(こうそういしふりふゆがみなり)」と読む。

「同七月十六日」の「同」は前章の最初の(後ではない)同じ夏に降雪(寛喜二(一二三〇)年六月十六日)という天変地異の起こった寛喜二年を指すので注意されたい。因みにグレゴリオ暦換算では九月一日である。

「八月六日」グレゴリオ暦換算九月二十一日。

「瀉(うつ)す」流れ注ぐ。「瀉」は水や液体が内から外へ又は上から下へ移ることをいう。「うつす」という訓が実際にある。

「九月八日」グレゴリオ暦換算十月二十二日。

「申刻」午後四時頃。

「萎伏」訓も含め、特殊な用例と思う。植物が枯れて(但し、水気を含んでずくずくになり、萎えて倒れるの謂いであろう。

「寅時」午前四時頃。

「陸奥国芝田郡」現在の宮城県柴田郡柴田町。

「柚柑」ムクロジ目ミカン科ミカン属ユコウ Citrus yuko 。果実はユズよりやや大きく、香気が強いことから(柚香はそれに由来)。自然交雑によって生まれたユズ Citrus junos の変種で日本原産であるが、本邦では四国を中心に栽培が盛ん。「吾妻鏡」では『大如柚』(大いさ、柚のごとし)であり、宮城県であることから、これはユズ Citrus junos でよいように思う。

「下道」鎌倉街道下道(しもつみち)。推定される道筋は鎌倉から朝夷奈切通を越えて、六浦津より海路で房総半島に渡り、東京湾沿いに北上して下総国府・常陸国に向かうものの他、房総半島に渡らずに武蔵国側の東京湾沿岸を北上する道筋を、かく呼称する場合もあり、ここは後者の謂いで筆者は使っているものと思われる(以上はウィキ鎌倉街道」に拠る)。

「二十餘里」二十里は七十八・五四キロメートルであるから、八十~百キロメートル前後であるが、現在の宮城県柴田郡柴田町―鎌倉間は直線距離でも有に三百キロメートルを超える。ここはそこに向う武蔵国辺縁までの、比較的、アップ・トゥ・デイトに情報が入り易い地域を限定したものであろう。

「勢」それになんなんとするような勢い、大きさ。

「冬至の日」教育社の増淵氏の現代語訳では、この十一月十八日を冬至とする。グレゴリオ暦換算では十二月三十日であるが、それが当年の確かな冬至であるかどうかは確認出来なかった。文脈上はそういう叙述にはなってはいる。

「十二月五日」グレゴリオ暦換算では翌一二三一年一月十六日に相当する。

「客星」箒星。彗星のこと。

「竹御所」(建仁二(一二〇二)年-~天福二(一二三四)年)は頼家の娘で殺された一幡の同母妹、公暁の異母妹に当たる。この時、実に十五歳歳下の第四代将軍藤原頼経に嫁いだ。

「大炊助有時」北条有時。泰時の異母弟。「大炊」は「おほいのすけ(おおいのすけ)」で、元来は宮中で行われる仏事・神事の供物及び宴会でに於ける宴席の準備・管理を分掌する役職の名。

「布衣」布製の狩衣。

「後は知らず、めでたかりける御事なり」とは如何にも――いやな感じ――の謂いである。ウィキの「藤原頼経から引いておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。『北条義時・政子姉弟の担ぎ挙げた傀儡将軍であり、加えて天福二年(一二三四年)には正室・竹御所が死去したこともあり、将軍としての実権はなかった。しかしながら、年齢を重ね官位を高めていくにつれ、義時の次男・朝時を筆頭とした反得宗・反執権政治勢力が頼経に接近し、幕府内での権力基盤を徐々に強めていく。また、父の道家と外祖父の西園寺公経が関東申次として朝廷・幕府の双方に権力を振るい始めた事も深刻な問題と化してきた。特に北条氏との関係に配慮してきた公経が死去し、北条氏に反感を抱く道家が関東申次となると道家が幕政に介入を試みるようになってきた。そのため、頼経と執権・北条経時との関係が悪化し、寛元二年(一二四四年)経時により将軍職を嫡男の頼嗣に譲らされた』が、『翌寛元三年(一二四五年)鎌倉久遠寿量院で出家、行賀と号する。その後もなお鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けるが、名越光時ら北条得宗家への反対勢力による頼経を中心にした執権排斥の動きを察知され、執権時頼により寛元四年(一二四六年)に京都に送還、京都六波羅の若松殿に移った。また、この事件により父道家も関東申次を罷免され籠居させられた(宮騒動)』。『その後、宝治元年(一二四七年)三浦泰村・光村兄弟が頼経の鎌倉帰還を図るが失敗する(宝治合戦)。また、建長三年(一二五一年)足利泰氏が自由出家を理由として所領を没収された事件も、道家・頼経父子が関与していたとされる。建長三年(一二五二年)、頼嗣が将軍職を解任され、京都へ送還された。まもなく父・道家は失意の内に没した』。そして、彼自身もその四年後の康元元(一二五六)年八月、『赤痢のため三十九歳で京都で死去』し、翌月には息子の頼嗣も死去してた。『この頃、日本中で疫病が猛威を振るっており、親子共々それに罹患したものと思われるが、奥富敬之は九条家三代の短期間での相次ぐ死を不審がり、何者かの介在、関与があったのではないかと推測している』とある。]

甲子夜話卷之一 29 雁金打弓の事〔紀産〕

29 雁金打弓の事〔紀産〕

 紀州の雁金打と謂弓は、烙印(ヤキイン)にて雁形を二つ押す。紀藩の官制にして尋常の賣物にはあらず。以前は多く世上にも出たれど、近頃は賣出の禁ありて、世に出ること稀なり。此弓の良作と云は、其打出す處より筏にして水下げするに、にべ離れず。濕暑の患なきを以て良作と爲と云。

■やぶちゃんの呟き

「雁金打弓」「かりがねうちゆみ」。講談社「日本人名大辞典」の江戸前期の弓師であった「伊丹庄左衛門」(?~寛永五(一六二八)年)なる人物の解説に、摂津伊丹城主伊丹親興(ちかおき)の後裔といい、元和五(一六一九)年に家康十男徳川頼宣の紀伊入国に従い、和歌山藩弓御用を勤めた。子孫も代々弓師として紀州家に仕え、伊丹家の造る弓は雁金弓と称されて名弓として知られた由記載がある。以前に引いた結城滉二の千夜一夜本話箇所に、「雁形」の焼き印を押した弓の画像が載り、雁金の紋図柄六種の画像も見られる。なお、この限定品に限らず、名弓は「雁金」と呼ばれたという情報もある。

「其打出す處より筏にして水下げするに、にべ離れず」ここが私にはよく分からない。「其打出す處」というのは、多数の弓材に用いる良質の大きな竹用材を伐り出すという意味で当初は読んだ。それならば、「筏」にして「水下げする」(竹筏がたっぷり川に浸かった状態で。若しくはその状態で長時間に亙って川を下らせるの意か)というのが自然に読めるからであった。ところが、「にべ離れず」というのでちょと困ってしまった。この「にべ」というのは、鹿の皮から取る膠(にかわ)、接着剤であって、所謂、弓造りに於いて各所の部分の竹材を接合するのに用いるものだからである(弓は削り出しではなく、非常に多くのパートを神技的に接合して作る。ブログ「はりまの匠」の「弓師 播磨竹禅(はりまちくぜん)を参照されたい)。幾らなんでも、完成品の名弓を筏にして運ぶなんていうことは考えられない。そうか?! これは、その伐り出した竹の用材を、筏に組んで川を下らせて運ぶんだが、その際にどうしても水に浸かってしまう。しかし、この雁金弓に用いる竹はそのようにすっかり水に浸ってしまっていても、完成すれば、過剰な湿気を含むことなく、されば、にべが剝がれることもない、実に自在に保水をコントロールするような竹材であったと言いたいのではないか? それなら、目から鱗である。実際、処理より元の材の質こそが、やはり弓の良し悪しをまず決めるというのも納得がいくではないか。(勘違いだったら、ご指摘下されたい)。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本再上陸

 第十七章 南方の旅

 

 鹿児島から島原汚へ至る航海は、実に愉快だった。海は堰水のように穏かで、いささかのうねりさえもなく、私は大きに日誌を書くことが出来た。翌朝汽船は、高橋川の河口を去ること五マイル以上の点に投錨した。その内に強風が起り、一方の舷には大きな波が打寄せた。小さな日本の艀(はしけ)が如何に安全であるかは、何度もそれに乗って曳網をした私はよく知っているのであるが、それでも汽船の横で上ったり下ったりしている小舟を見た時には、いささか不安を感じた。我々は我々の荷物を艀に移すのに大いに苦心をし、続いて我々の為に下された船梯から、艀めがけて飛び下りねばならなかった。然しながら我我は、安全に上陸し、サミセンガイを掘り出し得るであろう場所をよく確めた上、私の下僕と、我々の所謂トミとを後に残し、目に入るかぎりのサミセンガイと、すべての海藻とを採集することに全注意を向けさせることにし、私は助手と一緒に四マイル近い内陸にある熊本へ向けて出発した。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」で再度確認しておくと、前章末で鹿児島を発ったのが明治一二(一九八九)年五月二十四日早朝で、彼らのこの長崎に向う船汽船は鹿児島までの『往路と同じく』、思いがけなくも沢山のシャミセンガイに再会出来た『肥後の高橋川河口で停泊する』ことになっていたので(「第十六章 長崎と鹿児島とへ 愛する生き物との再会」を参照)、『一行はふたたび下船。内山と菊池』(「内山」は同行者で小石川植物園園丁を勤めていた内山富次郎。本文で愛称で「トミ」と呼んでいる人物と同一人。「菊池」は動物学研究室雇(雑用係職員)であった菊池松太郎)『にシャミセンガイの採集をまかせて、モースと種田』(教場助手補(現在の大学助手)種田織三。モースの右腕)『は熊本を訪れ、富岡敬明熊本県令と面会した』(富岡については次段で注する)とある。

「五マイル」約八キロメートル。

サミセンガイ「第十六章 長崎と鹿児島とへ 愛する生き物との再会」の注で詳述済。

「四マイル」六・四四キロメートル。当時の熊本県庁は熊本城内の古城(ふるしろ)という場所にあった。ここと、高橋町(やや海岸線より内陸)は実測距離で五~六キロメートルに相当する。]

『風俗畫報』臨時増刊「鎌倉江の島名所圖會」  瑞泉寺

    ●瑞泉寺

理智光寺跡の東北紅葉谷にありて鶴岡一鳥居より十四五町あり錦屏山と號す和〔古語山花開似錦澗水湛如藍とあり當寺の景四季の開花屏風に似たり故に山號とすと云ふ〕關東十刹の一にて嘉曆二年起立。開山は夢想國師。中興開基は足利基氏なり。當寺住持職は昔は圓覺寺西堂の僧をもて補せらる。是私の補仕(ほし)にあらす。公帖(こうてう)を下されて補せられしなり。當寺に足利基氏の墓〔貞治六年四月廿六日死〕基氏の母大方夫人の墓〔應安元年九月廿九日死〕氏滿の墓〔應永五年十一月四日死〕義詮の墓〔應安元年四月七日公命により遺骨を分て當寺に葬る〕あり。基氏氏滿等の木像は。もと惣門の内の右方に開山堂ありて其中に納めありしか。堂宇破壞せしに因り。今本堂中に並置す。本堂には本尊釋迦を安す。本堂の前に普濟の二字を扁(へん)す。勅額と傳ふるのみ。其時代筆者の傳を失ふ。古傳に據れは當寺祖塔祥雲菴の額なり。彼菴廢せし後爰に移せしなるべし。本堂には當時氏滿筆大雄寶殿の四字を扁せしと云ふ。今は亡(う)せり。又本堂左右の聯(れん)に德共春和盛功將造化歸とあり。誰の書なるを詳にせす。

塔頭廢跡 永安寺跡内外右方の谷を云ふ。蓬萊山と號す。開祖は曇芳なり。應永五年十一月四日。管領氏滿逝せし後其祠堂として剏建ありしなり。

祥雲菴跡 域外(ゐきぐわい)左方(さはう)にあり。是古の祖塔(そとう)なり。廢置の事蹟を傳へす。此餘長春院。勝光院。果證院。保壽院。南芳院。羅漢院。三聖院。妙智院。證悟院。吉祥院。西芳院。東禪院等の塔頭在しと傳ふれど。悉く廢して其遺蹤も詳ならす。

遍界一覽亭跡 本堂北方の山上にあり。山麓より山頂に至る凡百間許にして。十八曲の坂路(はんろ)を爲す。頂上に亭跡(ていせき)あり〔南北八間東西五間〕嘉曆三年の建立なり。夢窓國師此亭にて詩を賦し。又歌を詠せり〔夢窓國師詠草曰瑞泉院の一覽亭にて雪の降ける日前も又重なる山の庵にて梢に續く庭の白雪〕基氏此亭にて櫻花紅葉等を翫て詩を賦し。又五山の僧徒等か亭席にての詩文章許多(きよた)あり。此餘一覽亭集と名(なづ)くるもの一卷あり。諸名僧の詩作を載す。其後何れの頃廢せしにや。元祿の頃。水戸光國卿より山上に一堂を建立ありて。千手觀音像を安す。其傍に寮を建て。爰に彼一覽亭集の原本を板(はん)に彫らて掛置れしとぞ。天明中堂寮ともに破壞せしかは。此板今本堂に懸けり。

[やぶちゃん注:「十四五町」約一・五三~一・六四キロメートル。

「古語山花開似錦澗水湛如藍とあり」これは「碧巌録」第八十二則の「大龍堅固法身」にある章句「山花開似錦 澗水湛如藍」(山花(さんか)開きて錦(にしき)に似たり 澗水(かんすい)湛(たた)へて藍のごとし)。

「關東十刹」室町幕府によって定められた「天下十刹」が至徳三(一三八六)年の五山制度改革による十刹制度改革によって確定した関東での五山の寺格。禅興寺(第一位/鎌倉山の内/廃寺であるが現存する明月院は旧塔頭)・瑞泉寺(第二位)・東勝寺(第三位/鎌倉葛西ケ谷/廃寺)・万寿寺(第四位/鎌倉長谷/廃寺)・大慶寺(たいけいじ/第五位/鎌倉寺分/現存)・興聖寺(こうしょうじ/第六位/廃寺若しくは形式上の格附けで実在しなかったか)・東漸寺(第七位/横浜市磯子区杉田/現存)・善福寺(第八位/鎌倉由比ヶ浜近辺か/廃寺)・法泉寺(第九位/鎌倉扇ヶ谷法泉寺ヶ谷/廃寺)・長楽寺(第十位/群馬県太田市世良田町/現存するが江戸初期に天海大僧正によって天台宗に改宗)。現存するのは以上下線の四寺のみ。

「嘉曆二年」一三二七年。当初の開基は鎌倉幕府御家人二階堂貞藤(さだふじ 法名は道薀(どううん):政所執事を務め、北条高時を補佐したものの、鎌倉幕府滅亡後には建武政権に参加、雑訴決断所所四番衆(建武新政期に設置された訴訟機関)として北陸道を管轄したが、建武元(一三三四)年に西園寺公宗(きんむね)による北条氏再興の陰謀に加担したとされて六条河原で処刑。以上はウィキの「二階堂貞藤」に拠る)。開創当時は瑞泉院と称した。院を寺と改め、規模も整ったのは本文に中興とする初代鎌倉公方足利基氏(興国元/暦応三(一三四〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年四月二十六日)の頃と考えられる。

「西堂」は「せいどう」と読み、禅宗寺院に於いて他の寺院の住職を務めて引退した僧侶を指す

「補仕」「ほし」のルビもままであるが、あまり聴き馴れない。但し、特定の職を命じて宛がうという謂いでは、違和感はない。しかし私にはこれは「補任」の誤字が強く疑われる。

「公帖」通常は公帖(こうじょう)と読む。五山制度に於いて足利将軍家が発給した五山十刹などの住持を任命(補任)する辞令。

「基氏の母大方夫人の墓〔應安元年九月廿九日死〕」足利尊氏の正室赤橋登子(あかはしとうし/なりこ 徳治元(一三〇六)年~正平二十年五月四日(一三六五年五月二十五日))。北条氏一族で得宗家に次いで家格の高かった赤橋家の出身で父は北条久時。同母兄に鎌倉幕府の最後の執権赤橋守時がいる。尊氏の死後は「大方殿」「大方禅尼」(「おおがた」か)と呼ばれていることから、夫の死に殉じて出家したものと思われる。しかしこの没年、應安元年は一三六八年で日付も異なり、はなはだ不審である。これは、「新編相模国風土記稿」の「瑞泉寺」の項に基づくものらしいが、この齟齬がよく分からない。識者の御教授を乞うものである。

「氏滿の墓〔應永五年十一月四日死〕」基氏の子で第二代鎌倉公方足利氏満(正平一四/延文四(一三五九)年~応永五(一三九八)年十一月四日)。

「義詮の墓〔應安元年四月七日公命により遺骨を分て當寺に葬る〕」足利尊氏嫡男で室町幕府第二代将軍足利義詮(元徳二(一三三〇)年~正平二二/貞治六(一三六七)年)。彼の正規の墓は京都嵯峨野の宝筐院(ほうきょういん/但し、当時は観林寺)に本人の遺言によって敬慕していた亡ぼした敵方の大将楠木正行(まさつら:正成嫡男)の墓の横にある。應安元年は一三六八年であるから、死の翌年の分骨である。

「普濟」とは「普(あまね)く濟(すく)ふ」という謂いである。

「德共春和盛功將造化歸」不詳。これはしかし、中唐の詩人孫逖(そんてき 六九六年?~七六一年)の五言排律「奉和李右相賞會昌林亭」の中の、

 德與春和盛 功將造化

の誤りではなかろうか? 全詩は中文サイトで読める。断っておくが、私はこの詩が読め、理解している訳では毛頭ない。

「剏建」「さうけん(そうけん)」と読む。創建に同じい。

「遺蹤」「いしよう(いしょう)」で、以前にあった・起った物事の跡。蹤(あとかた)。

「百間」百八十一・八メートル。

「南北八間東西五間」南北十四・五メートル、東西約九・一メートル。

「嘉暦三年」一三二八年。夢想窓石の建立。

「一覽亭集」一覽亭記。私の新編鎌倉志卷之二で全文を電子化しており、また私が我流で訓読したものがある(これは「新編鎌倉志」の電子化注釈で最も困難な作業であった)ので、挑まれん方は、覚悟を持ってどうぞ!

元祿の頃。水戸光國卿より山上に一堂を建立ありて。千手觀音像を安す。其傍に寮を建て。爰に彼一覽亭集の原本を板に彫らて掛置れしとぞ」一部の情報に、この再建した亭で光圀は「新編鎌倉志」の編纂をさせたとあるのだが、これは果たして正しい謂いであろうか? そもそも「新編鎌倉志」は延宝年間(一六七三~一六八一)に水戸藩主水戸光圀(寛永五(一六二三)年~元禄十三(一七〇一)年)が家臣で彰考館(光圀が『大日本史』編纂のために江戸小石川門の藩邸内に置いた修史局)館員であった河井恒久(友水)や、松村清之(伯胤)・力石忠一(叔貫)らに命じて編纂したものである。当初、光圀自身が延宝二(一六七四)年に来鎌、名所旧跡を歴遊、家臣に記録させた「鎌倉日記」がプロトタイプである(因みに、ドラマで水戸黄門諸国漫遊は知らぬ者とてないが、実際には彼の大きな旅行は、この鎌倉行一回きりであったと言われている)。後、延宝四(一六七六)年の秋、河井に社寺名刹の来歴に就いて調べさせた。当時、鎌倉英勝寺に療養中であった現地の医師松村清之は頗る鎌倉の地誌に詳しく、河井はこの松村に自身の記載の補正をさせたが、業半ばにして河井が亡くなり、力石が代わって、実に十一余の歳月を費やして貞亨二(一六八五)年に書き上げられた、全八巻十二冊からなる史上初の本格的な鎌倉地誌であるが、まず、何より、その上梓は本文にある元禄(一六八八年~一七〇四)よりも前のことであることに注意せねばならない。また、膨大且つ検証に時間のかかる「新編鎌倉志」の編纂をあの山の中の小亭で主編集を行ったというのは、少なくとも私にはちょっと考え難い。但し、例えばこの新編鎌倉志卷之二の、ここで詠まれた(或いはここで詠んだものとして仮想された)多量の漢詩群を含む「一覽亭記」についての部分編輯を、ここで行ったというのなら、私はすこぶる附きで賛同するものではある。大方の御批判を俟つ。「爰に彼一覽亭集の原本を板に彫らて掛置れしとぞ。天明中堂寮ともに破壞せしかは。此板今本堂に懸けり」光圀が荒廃した一覧亭を修復再興させ、この「一覧亭集詩板」なるものを亭の脇に掲げたことは事実らしい(新編鎌倉志卷之二での復刻の異様な力の入れようからもそれは自然に理解される)。現在は瑞泉寺が所蔵している(私は復元された遍界一覧亭とともに未見)。

「天明」一七八一年~一七八九年。]

耳嚢 巻之九 寡女死を免し奇談の事

 寡女死を免し奇談の事

 

 文化六年、相州西ケ原村の百姓女、元勤(つとめ)し屋鋪へ來り咄しける由。此頃奇談あり。西ケ原村に、夫に後(おく)れ子も失ひし老媼(ろうあう)あり。村内に家元の百姓ありて世話をもなしけるが、彼(かの)媼(をうな)無盡(むじん)に當りて金子三十兩程も請取(うけとり)しが、壹人の女性故、家元へ持參し預け置(おき)しが、右の事を聞(きき)し村内のわる者ども六人、顏に墨をぬり又は朱を塗りて右媼が許へ押込(おしこみ)、無盡をとり候沙汰もあれば右金子可出(いだすべし)と申(まうし)けるゆゑ、無盡を取(とり)しも無相違候得(さういなくさふらえ)ども、右金子は本家へ預け候由答へければ、しからば外に金錢あらば出すべしと責(せめ)けれど、外には金子なし、かゝるあばら屋自身(おのづと)さがし見給へと申(まうす)故、所々くまなく搜せど聊(いささか)も貯(たくはへ)なし。食(くふ)にうへたれば、何にしても喰(くは)せ候得(さふらえ)と申けるに、これは我等獨り住(ずみ)なれば、可振廻(ふるまふべき)食事なし、先程本家より牡丹餠(ぼたもち)を貰ひ佛前に備へ置(おき)たり、夫(それ)にても宜敷(よろしく)ば給(たべ)候へと申ければ、夫れにても宜(よろし)とて、彼(かの)牡丹餠十四五もありしを六人にて殘りなく喰ひしが、間もなくしつてんばつとうして、吐くやら倒るるやら苦しみけるゆゑ、媼も驚きて近所へしらせけるにぞ、いづれも立集(たちあつま)り見しに、六人とも毒にあたりしや死に入(いり)ける故、冠(かぶ)りもの又は墨を洗落(あらひおと)しけるに、何れも村内の者なり。さて右牡丹餠を送りしは本家の欲心にて、媼を殺す巧(たくみ)なるや、又は本家の主人は不知(しらず)して、下人か又外にわる者ありて右の手段に及びしや、いづれ公邊(こうへん)へも持出(もちいだ)す沙汰なりと、語りけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。事件実録物であるが、さもありなんというリアリティがあるのであるが、実は底本の鈴木氏注に『三村翁曰く、此話も草紙にありし覚えあり、と』あるから、作話の可能性も否定は出来ない。寧ろ、六人の殺人事件であるから南町奉行であった根岸がこの事実を確認することは容易であったはずであるから、寧ろ、正規の記載でない伝聞として書かれたこれは、やはり都市伝説の類いと考えた方が無難であろう。

・「寡女」「やもめ」と読んでいよう。未亡人。

・「しつてんばつとう」底本には右に『(七顚八倒)』と編者注がある。

・「文化六年」一八〇九年。「卷之九」の執筆推定下限は文化六年夏。この巻は、前の方からして有意にすこぶるホットな噂話の記載が多いのを特徴とする。

・「相州西ケ原村」底本の鈴木氏注では、『武州の誤か。いま北区』とし、岩波の長谷川氏注もそれを踏襲する。現在の東京都北区西ヶ原。日光御成道の一里塚が設置されていたというウィキの「西ヶ原の記載からみても、ロケーションのような田舎ではある(東京地下鉄南北線の駒込と王子に挟まれたここの西ヶ原駅は一九九一年の開業以来、東京地下鉄で最も乗降客が少ない駅の記録を日々更新している、とアンサイクロペディアの「西ヶ原」にある)。

・「無盡」無尽講。頼母子講(たのもしこう)のこと。金銭の融通を目的とする相互扶助組織で、講の構成員(組合員)が一定の期日に一定額の掛金を出し合い、後に籤(くじ)や入札によって所定の金額の融通を受けることが出来るシステムで、それが組合員全員に行き渡るまで行って公正を期するもの。鎌倉時代、信仰集団としての講から分派発生した。

・「公邊」おおやけ・公儀、表向き・表沙汰。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老いたる寡婦(やもめ)の死を免れし奇談の事

 

 文化六年のこと、相州西ヶ原村に住まう百姓女が、以前、勤めて御座ったさる御屋敷へ久し振りにご機嫌伺いに訪ねて参った折り、雑談の中で話したことと申す。

 

……近頃、奇怪(きっかい)なる話の、これありましたんや。儂(わし)らの西ヶ原村に、旦那を亡くして、子も失のうた婆さんがおります。

 村の内には、この婆さん縁戚の実家――これも百姓で――のあって、飢え凍えんほどには婆さんの世話を致しておりやんした。

 ところが、この婆さん、たまたま、入っておった無尽講(むじんこう)の、これ、大籤(おおくじ)を引き当てましての! これが、まあ、何と! 金子三十両ほども受け取ったちゅう話!

 ほんでも、一人住まいの女性(にょしょう)なれば、その実家の方へと持参の上、預けおいたんやそうで。

 ところが、あんた、この、婆さんが大籤引き当てたちゅう話を耳にした、村内(むらうち)の不良の餓鬼どもが六人、これ、顏にどろっどろの黒炭を塗ったり、おどろおどろしい朱(しゅ)をさしたりしましての、この婆さんとこへ、夜中に荒々しく押し込み、

「――ヤイ!――婆アッ!――無尽で大枚(たいまい)獲ったちゅう噂、これ、聴いたでエ!――アン?――ここに! その金子、耳を揃えて出してくんなイ!!」

と脅しました。すると、婆さん、

「……無尽をとったは、これ、間違いなきことにてはございますが、の……その金子は、これ、全部(ぜぇんぶ)、本家へ預けてしもうて……ここにゃ、一銭も、ありゃしません……」

と答えました。ほしたら、

「――なにいイ?!――ほ、ほんなら……他の金があろうガッ! それを、出さんカイ!」

と婆さんの頸根っこを摑んで締め上げ、なおも脅しましたん。

 けんど、婆さんは、

「……ほ、他には金子なんぞありゃせんが!……よう見さっしゃれ! かくも、ばっばたの小(ち)さきあばら屋じゃ! あんた! 自分で、隅から隅まで! 捜して、ごらんな!」

と啖呵を切ったん。

 そう言われた悪餓鬼どもは、そこたらじゅう隈なく捜して見たん。

 じゃけんど、婆さんの言う通り、ビタ一文、これ、貯えもあらなんだそうや。

 ほしたら、悪童の一人が、もう、苛立ってしもうて、

「……おらあ!……ああっ!……もう、食うに飢えた! 腹減ったんじゃ!――ワレ! 婆ア! 何でんええわ! 何か、喰わしてくんな!……」

と言うた。

 婆さん、

「……ここは儂(わし)の独り住(ず)みじゃての、おまえさんらに振る舞うような食事なんぞ、これありゃせんがね。……あ……じゃけんど、先っき、本家より無尽の当たりの幸いを御先祖へ告げなあかん、ついてはそのお供えじゃ云(ゆ)うて、仰山の牡丹餅(ぼたもち)を送って呉れたん。それが、これ、あるわ。……そこの、仏前に備えておいたって、それでよかったら、まあ、お食いな。……」

と教えたんや。

「……そ、そりゃ! ええな!……金はええわ! 牡丹餅! そんで、如何にもよろしいでえ!」

と、仏壇の前に車座となって、その牡丹餅――これがあんた、十四、五もあったんです――を六人で、これ、一つ残らず、おこぼれもなく、喰(くら)い尽くしたんや。

……ところが……間ものぅ……この六人が皆

――七転八倒(しってんばっとう)や!

――げぇろげろ! 吐くやら!

――ぶぅくぶく! 泡吹いて倒るるやら!

……その苦しんだるさまは、これ、見えぬ地獄の責め苦に遇(お)うてでもおるようじゃったと――これは、後の婆さんの話――。

 婆さんも、これには驚いての、深夜なれど、近所へと走って知らせに回ったん。

 近隣の者ら皆、寄り集(つど)うて――さて、婆さんの家内(いえうち)を覗いてみたところが、……これ……六人とも皆――毒にでも当たったんか――息絶えて冷とうなっておったん。

 そこで、この者らの、顔を隠しておった、おかしな被り物を剥ぎ取ったり、顔を塗ったくった墨やら朱やらを洗い落としてみたところが……あんた、これ……六人が六人とも皆――村内(むらうち)の悪たれども――じゃったん。

 さても、最後は、その贈られたっちゅう牡丹餠んことで!

 これは、それを送った本意は……何でも……

……本家百姓の獣(けもの)のごとき欲心の――婆さんを亡きものとせんとする――企みやった、とか……

……はたまた……

……本家の主人は一向、知らぬことであって……その本家の下人か或いは外に関係する悪者(わるもの)の、これあって――かの、おぞましき毒牡丹餅、ちゅう――卑劣な手段に及んだものか……

とか、これ、いろいろと噂致いておりますんや。

 まんず、孰れ、近いうちには、ご公議へも訴え出でて、表沙汰になるは、これ、決まってます…………

 

 と、語っておったとのことで御座る。

尾形龜之助 「障子のある家」副題/自序冒頭 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

つまづく石でもあれば私はそこでころびたい

 

[心朽窩主人注:詩集「障子のある家」副題。詩集扉裏に「あるいは」と書いて( )内に入って書かれている。]

 

 §

 

何らの自己の、地上の權利を持たぬ私は第一に全くの住所不定へ。 それからその次へ。

 

[心朽窩主人注:詩集「障子のある家」巻頭の自序の第一段落総て。

 

 

   *

 

 

如果路上碰到绊脚的石头,我愿意在那儿摔倒

 

 

[心朽窝主人附注:诗集《有纸拉门的房子》副标题。在诗集扉页背面上的「或者( )」小括号里有这句。

 

  §

 

没有任何自己的,人间的,权利——这样的我,首先要成为住址不定。然后还要走向下一个阶段。

 

 

[心朽窝主人附注:诗集《有纸拉门的房子》卷首自序的第一段落全文。]

尾形龜之助 「晝」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

 晝

         尾形龜之助

 

晝は雨

 

ちんたいした部屋

天井が低い

 

おれは

ねころんでゐて蠅をつかまへた

 

 

[心朽窩主人注:「ちんたい」はママ。「沈滯」。]

 

Hiru

 

 白天

         作 尾形龟之助
         
心朽窝主人,矢口七十七

 

白天一直下雨

 

沉闷的房间

天棚低

 

躺在榻榻米上捉住了个苍蝇

 

         矢口七十七/

2015/01/14

耳囊 卷之九 不思議の尼懴解物語の事

遂に「耳囊」中、私の最も好きな話にして、「耳囊」全電子化注釈の契機となった章に辿り着くことが出来た。感慨無量である――今回、既訳のものを全面改稿した。未読の方は勿論、私の授業で受けたことが教え子の方や既読の方も、またご笑覧戴ければ、幸いである――



  不思議の尼懺解物語の事

 文化の年の春、親友の來たりて語りけるは、去年なり、しれる者大和𢌞りして、大和に奇成(きなる)咄(はな)しに聞(きき)し由。村名は忘れたり、往來端の茶屋に立寄、雨に會ひて暫く休みしが、日も暮に及びければ頻りに賴みて茶屋に宿りしに、あるじ出て、かれ是咄しける内に、當夏奇成事ありといゝしゆゑ、切(せち)に其譯を尋(たづね)ければ年の頃十九歲と見えし殊外(ことほか)美麗成(なる)尼一人來りて、當國何とかいへる名高き寺を尋(たづね)、右所までは里數何程(いかほど)ありやと申(まうし)けるゆゑ、是よりは七八里も有(ある)べし。何ゆゑ右の處を尋給ふやと承りしに、我等はいとけなきとき兩親にも分れ、村內の有福(いうふく)成(なる)人に仕へて生長なしけるが、わけ有(あり)て尼となりて、今日は師の坊(ばう)のもとへと志しけれど、女の道はか行ず暮(くれ)に及びぬれば、夜通し行(ゆか)んなれどこよひ爰元(ここもと)に留(とめ)給(たまは)らば、あすこそ彼(かの)寺へ日高(ひたか)く行(ゆき)つかんといへるさま、僞りとも不思(おもはれず)、哀成(あはれなる)事と思ひて、一夜(ひとよ)をとゞめんが、得(とく)と樣子を聞(きき)て其(その)上と思ひ、さるにてもおん身年もいと若く、何故法心(ほつしん)し給ふや、見るに美敷(うつくしき)生れなれば譯こそあらん。有(あり)の儘に語り給はゞ宿(やど)まゐらすべきと申しければ、さらば我らが身の上ざんげなし可申(まうすべし)、御家内(おんいへうち)を集めて聞(きき)給はれと申(まうし)けるゆゑ、妻子抔(など)をも爲逢(あはせ)て、事の本末を聞(きき)しに、近き村何某といへるもの、彼(かの)尼をうみ出て兩親とも打續(うちつづき)身まかりしが、一人の娘にて村中世話して育てけるを、其郷(さと)に棟高(むねたか)き農家、不便(ふびん)と思ひて養ひとりそだてられ十五六になりけるに、主人いつか心をかけゝるゆゑ其心にまかせ通じけるが、主人の妻、風與(ふと)煩ひ付(つき)て日ましに重(おも)りけるを、いとけなきよりはごくみそだてし女人(によにん)なれば、こころのたけ看病なして仕へけるに、最早存命不定(ふぢやう)なる程に煩ひて、夫(をつと)へ申しけるは、我等は最早存命難斗(はかりがたし)、若(もし)身まかりし後、異妻(ことづま)むかへ給ふ程ならば、いとけなきより養育せし事なれば、右の女(むすめ)を我(わが)跡へすへ給へよと云(いひ)しを、かゝる心細き事ないゝそ、養生して快氣あれかしと答へしに、又彼(かの)女(むすめ)にむかひて、夫(をつと)にはかくかく言(いひ)しぞ。若し身まかりなば、我に代つて家の事などまめまめ敷(しく)なせよといひしを、こは心得ぬ仰(おほせ)や。よくよく保養なして快氣あられよと諫(いさめ)、心を入(いれ)て仕へしに、或日夕暮に成(なり)、今日は存(ぞんぢ)の外(ほか)快間(こころよきあひだ)、我をともない[やぶちゃん注:ママ。]近きあたりの觀音へ涼みがてら連行(つれゆく)べしと申(まうし)ける故、主人は村用(そんよう)にて宿(やど)にあらず。いなまば病氣のさはりともなるべしと手を引(ひき)て立出(たちいで)けるが、步行(あゆみ)苦しき由にて、彼(かの)女子(をんなご)の背におはれて行(ゆく)程に、殊外(ことのほか)くるしみ命終(みやうじゆう)の體(てい)にも見へければ、いかにやと振(ふり)あを向(むき)て見しにその顏色殊に怖しく、わつと云(いひ)て其處にたをれ氣絕せしを、主人も戾りて家內へ尋(たづね)ければ、出(いで)候樣子、夫(をつと)は病氣の樣子にては、中々觀音參詣は思ひもよらざる事なりと、自身並(ならびに)召仕(めしつかひ)、村内の者打寄(うちより)、跡より來り見しに、負(をは)れし女房は事きれ、負(をひ)し女(むすめ)も氣絕なしけるを、水などそゝぎて女子(をんなご)息出(いきいで)けるゆゑ、二人とも連れ歸りて見けるに、彼(かの)女房、手を女子の肩より胸へかけ、しかと取付居(とりつきをり)たりしが、右兩手いかにしても放れず、種々心を盡すといへども放れず、無據(よんどころなく)手首を切りて引放(ひきはなし)、死骸は厚く葬送なしけれど、我等が肩にとり付(つき)し手首は今に殘りあり。夫(それ)より我等も菩提心を起し尼となりしなり、最前(さいぜん)あるじの、年若く美しき尼の獨りあるき、若輩のものなど心をかけ、理不盡もあるべきと、疑ひ給ふ樣子なれど、若き男(をのこ)いゝよる事ありても、此(この)手首を見せぬればおそれて寄付(よりつく)者なし、是(これ)見給へとて、肌拔(ぬき)て見せける。家内の者も一同見て恐れあへりと語りしと、彼(かの)友物語せしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本話は私が「耳囊」の中で最も忘れ難い印象的な怪談である。同時に、私がここで「耳嚢」の全訳注を決することとなった濫觴でもある。実は教師時代の私は二〇〇五年にこれを私独自のオリジナルな教材の一つとして教案を作成し、過去数十回授業してきたのである。それが、私のサイト・トップに配した「やぶちゃんと行く江戸のトワイライト・ゾーン」である。されば、ここへと遂に辿り着いたことが、私には一際、感慨深いことなのである。高校生向けのものであるが、基本、無駄な注はなく、訳も大きく手を加える必要は感じなかった。それでも、ここでのコンセプトに整え直し、現代語訳も朗読に於ける滑らかさをモットーとして改訳した。但し、授業案では、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版を用いているので、この原文テクストは新規といってよろしい。

・「懺解」底本では「解」の右に『(悔)』と補正注する。本文中で「ざんげ」と出るのであるが、実は私は本当は「さんげ」と読みたい。懺悔(梵語の「クサマ」で、「懺」はその音写、「悔」はその意訳)。仏教用語。一般に今はキリスト教の「ざんげ」と一緒くたにされているが、本来は濁らない「さんげ」が正しい。「慚愧懺悔」(ざんぎさんげ)と熟語で用いることが多かったために、「ざんぎ」の影響で、下方が濁音化し、江戸時代には「ざんげ」となっていたとも言われている。過去に犯した罪を神仏や人々の前で告白して許しを請うこと、である。

・「文化の年の春」底本には「の」の右に『(六カ)』と編者注が載る。文化六年ならば西暦一八〇九年で、これは「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏の直近となる。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『文化巳の年の春』とあるから、文化六年春で採って現代語訳した。

・「大和𢌞り」現在の奈良県。奈良近辺の寺社仏閣の参詣を兼ねた観光旅行。

・「奇成咄しに聞し由」この「に」は格助詞で「~として」という資格の用法。

・「頻りに賴みて右茶屋に宿りし」この事態が尼のケースと似ていたため、茶屋の主人はこの話を思い出した、というストーリーの流れをちゃんと押さえた伏線である。

・「何とかいへる名高き寺」ここは固有名詞を伏せるための意図的な改変。作者の友人の話では、ここには当然ちゃんとした寺名が入っていた。当時でも実名表記は、やはり、問題があったのである。

・「七八里」約二十八~三十二キロメートル。

・「我等」丁寧な言い方として一人称単数でも使う。

・「今日は師の坊のもとへと志しけれど」彼女は既に出家しているので、この場合の師というのは、一般には出家得度した際の、導師となった僧侶をさす。彼女が、新たに就くべき師とも取れるが、新たに就く前には正式には師と呼称しないであろうから、訳では、(かの寺の、私めの出家の導師であられる)としておいた。

・「はか」果・捗。仕事の進み具合。はかどり。進捗。ここでは、踏破距離を指す。

・「樣子を聞ての其上」関所においても「入り鉄砲と出女」の言葉があるように、女の一人旅は江戸時代、かなり警戒された。特にこの女性の場合、尼(出家の身である尼は逆に容認されうる条件ではあるが)であるが、まだ若い。躍り巫女の系譜を引く、尼を装った売春などのいかがわしい商いをする者、若しくは変装した悪行の者及びその手下も多くいたに違いなく、この茶屋の主人の警戒心はすこぶる自然ではある。実はそもそもが、当時は宿駅以外の宿泊は禁じられており、しかもこうした街道の茶店などは人を泊めることは禁ぜられていた。しかし、当然の如く、よんどころない理由で茶店などに一泊を求め、内々にそうしたことを茶店などが許したケースは、ここに見る通り、頻繁にあったようである。

・「法心」底本では「法」の右に『(發)』と訂正注する。「發心(ほつしん)」である。本来は仏教用語で、「菩提の心を起こす事・発起」。ここは「出家すること」をいう。

・「有の儘に語り給はゞ宿まゐらすべき」主人は尼であるので、とりあえず、敬語を用いている点に注意。

・「爲逢(あはせ)て」のルビは底本の編者によるルビ。サ行下二段の他動詞。「集めて・合わせて」の意。

・「本末」始めと終わり。顛末。一部始終。

 

●補説①

 しかし、この部分は、文字面以上に深読みが出来るようにも思われる。尼に語らせることに拘る、この茶屋の主人、ちょっとこの尼に対して色気がありそうに見えないだろうか? 勿論、手を出そうと言うはっきりとした意志は感じられないが、美形の尼と膝突き合わせて、彼女に過去を語らせることへの、やや甘ったるい色欲の情趣が何やらん、感じられるのである。

 それに対し、彼女は懺悔の話をするのに、わざわざ「御家內を集めて聞き給はれ」と述べていることに注意したい。これは、そのような主人の猥雑な心を見抜いた尼の牽制の台詞とは言えないだろうか?

 そして、それがラスト・シーンの秀抜な伏線ともなっているとも私には思われるのである。

 

・「何某といへる者」ここも姓を伏せるための意図的な改変。少なくとも尼の話では、ここには当然ちゃんとした家名が入っていたであろう。そもそも近在の村の実在姓名が登場して初めて聞き手(この場合は茶屋の主人)は尼の話を信じてくれるからである。

・「棟高き農家」大家。裕福な家。

・「不便」不憫。意外と思われるかも知れないが実は、この「不便」が正しく、「不憫」「不愍」は後の当て字である。①つごうが悪いこと。困ること。不都合。ふべん。②めんどうをみること。かわいがること。③あわれむべきこと。かわいそうなこと。ここは②を含んだ③。

・「重り」ラ行四段活用の自動詞「重る」の連用形。病気が重くなる。

・「こころのたけ」「たけ」は、あるかぎり、ありったけ、の意。

・「存命不定」生死のほどがわからないこと。

・「かゝる心細き事ないひそ」呼応の副詞「な」を受けて禁止の終助詞「そ」で「言ってはいけない」の意。 

 

●補説②

 明らかに、夫は自分の養女との密通の事実があるために、それを見透かされたような、この妻の言葉に大いに狼狽していると読む。妻は完全に夫の近親相姦・密通に気づいていると私は見る。でなければ、この後の惨事――或いは怪異性と言い添えてもよい――は発生しないと考えるからである。 

 

・「言ひしぞ」の「ぞ」は終助詞で、聞き手に対して自分の発言を強調する。江戸後期以後の用法である。

・「まめまめ敷」忠実忠実(まめまめ)しで形容詞シク活用の連用形。①非常に誠実である。はなはだまじめである。②よく勤め働くさまである。③日常生活に必要である。実用のものである。ここでは、②の意味だが、①の意味も込めて訳した。

・「心得ぬ」趣意を理解できない。合点がゆかない。

・「諫」目上の人の非をいさめること。また、その言葉。諫言(かんげん)。忠告。

・「いかにや」は結びの省略で、「ある」「おはする」が想定される。

・「彼女房」病気の奥方。

・「女子」私=尼。

・「菩提心」悟りを求め、仏道を行おうとする心。無上道心。 

 

●補説③

 さて、ここで「最前主の、年若く美しき尼の獨りあるき、若輩のものなど心かけ、理不盡もあるべきと、疑ひ給ふ様子なれど」と尼は述べる。これは先の主人の台詞、「さるにてもおん身年もいと若く、何故法心(ほつしん)し給ふや。見るに美敷(うつくしき)生れなれば譯こそあらん、有の儘にかたり給はゞ宿まいらすべき」を指しているわけだが、補説①で推理した通り、尼は鋭く、そこでの主人の猥雑な思いを言い当てていると言えよう。ここで主人はすでに尼に心を読まれてしまい、精神的にも圧倒されてしまっているのである。それでこそ、この後にやってくる驚愕の事実による、主人の心理的な衝撃は、いやましに大きくなるのである。

 

・「彼友物語せしや」直接体験過去の助動詞「き」が用いられているので、「彼友」とは作者根岸鎮衛の友人である(友人に話した知人ではない)。感動を示す間投助詞「や」には根岸鎮衛自身の素直な驚愕がよく現れていると思われる。 

 

●補説④(直下のリンクは私のブログの「ウヰリヤム・ジエイコツブス作・菊池寛譯 猿の手」)

ジェイコブズの「猿の手」のエンディングを凌駕する、尼の乳をわしずかみにする手の 正体は何か!?

 この小話は、この作者の友人(または友人の知人)の創作であったとしても、極めて上質の、加えてホラーの勘所を心憎いまでに完璧に押さえた名作だと私は思っている。

 そもそも、民俗学的に考えるなら、冒頭の――私の・友人の・知人の・話である――という断り書きは、その無名性・匿名性という古今東西の噂話、アーバン・レジェンド(都市伝説)の常套的設定・必須属性なのである。

 まず構成の妙を考えてみる。

 絶世の若き尼という設定は、茶屋の主人ならずとも、ゴシップの匂い、通俗的興味をそそられざるを得ない。すなわち、我々は容易にこの一介の庶民である茶屋の主人と一体化するのである。我々は、知らず知らずのうちに、膝を突き合わせるようにして、粗末な煤けた茶屋で、この尼の話を聞く主人になるように本作は作られているのである。

 そして、その語る内容は、まさに我々の好奇心をくすぐる展開の連続である。――出生と同時に天涯孤独となる美少女――それが豪農の養女となる――その家の主人のお手がつく。……勿論、そこは極めてあっさりと語られてはいるのだが、聞く我々は、十五、六の少女の悲劇の、猥雑にして哀しい映像をそれぞれに空想するわけである。

 次の展開も、我々を裏切らない。

 主人の奥方が病みつく(この病因の一つは明らかに既にして娘への嫉妬心であろうと私思う)――次第に悪くなってお決まりの遺言――となる。しかし、当時の習慣から見れば、一見自然なその言葉の背後には、強烈な娘への遺恨が蜷局(とぐろ)を巻いているのである。表面的な平静が、逆に主人と娘の二人の平衡感覚を失わせてゆき、彼らはますます精神的に追い詰められてゆくのが、手にとるように伝わってくるではないか。

 そしてカタストロフがやってくる。この観音参りのシークエンスが突如、具体的な映像描写になっているところも、注意したいところである。エンディングの驚愕のリアリズムを効果的に高めるためには、既にして、ここからの詳細な描写が必要になってくるからである。その中でも特に直接話法の配し方が秀抜である。――「步行(あゆみ)苦しき」から――奥方を背負い――「いかにや」――そして――「わつ」!――に至る肉声の響きの流れは、美事な戯曲とも言えよう。

 さらに言えば、『主人は村用にて宿にあらず、いなまば病氣のさわりともなるべし』という心内語にも注意したい。この尼は、自分が最後の最後まで、奥方を母と思い、背負ってまでも誠意を示し続けたことをもちゃんと表明しているのである。これは実は大変大切なことなのである。なぜなら、この少女(=尼)がこの奥方に対して悪感情を抱いたり、オーバーに言えばここで殺意を抱いたりすれば、この話の最後の驚愕は逆に、その恐怖の度合いを殺(そ)がれてしまうからである。この主人の強要を拒めなかった、誠実で哀れな少女は――にもかかわらず――強烈な奥方の嫉妬の犠牲になった――という構造式であってこそ、この――救いがたい最後の恐怖――は完成するのである。悪女の報いというのでは、これ、当たり前でしかなく、本当の意味では、ちっとも怖くないのである。道徳的勧善懲悪のホラーは真正のホラーとは言えぬのである。

 背負った奥方を「振あを向(むき)て見しに」という場面も、強烈な映像的表現力で迫ってくる。自分の顔と奥方の、いや「鬼」の顔が、可憐な少女(すでに彼女は非処女であるが、私は敢えて少女と呼び続けたい)の顔に接するのである。恐怖はその「鬼」の顔が背後にあって、実に最も効果的なのである。我々は常に見えない無防備な背に恐怖を感じるのだ。ここでは、まさにその背に恐怖が文字通りとり憑き、張りついているのである!

 手首の話を聞いた(最後のコーダよりも前の)茶屋の主人は、まさに息を呑むと言うのが相応しい。補説③で述べたように、最早、彼は、尼の手中にあるといってよい。そして――やってくるのだ!

「是見給へとて、肌拔(ぬき)て見せける」

これほどの完全な戦慄のクライマックスはなかなか名作とされる戯曲にもあるまい。映像では急速にズーム・インする。美しく白い女のふくよかな両の乳房……そして……そしてそれをわしずかみにする……干からびた……赤黒い……ミイラの奥方の手首!――

   ***

 これが創作された話ではなかったと仮定しよう。

 それでは話中の尼の語りは本当であったのか、それとも、いやらしい主人をぞっとさせるための悪戯っぽい嘘っぱちだったのか?

 無事、師の寺へ安全に辿りつくために誰かが考えた(因果応報譚としては仏教説話に似たような話はあるから、作り話とすれば僧侶によるものである可能性が強い)策であったのか。しかも、そのためにわざわざざ模造の腕を胸に付けてまで準備した、手の込んだ芝居だったのか。いや彫り物を手すさびとする、導師の師匠が、美人の尼弟子のために、道中男除けとして造り込んだ、精巧なフィギアだったというオチは、笑い話としてはなかなか上質であろう。

 ただ、信憑性に疑問が残るとすれば、懺悔の冒頭、この茶屋に「ちかき村何某といへる者、彼尼を生み出て」という謂いにある。近在の村であれば、何故に、暮れかかる時刻に、この茶屋を訪れたのか。初めから、早朝に村を出ればよかろう。すぐに出ねばならない理由があったのかも知れぬが、その村に近い茶屋で遠くの寺の所在を尋ねるのも不可解な気がする。「ちかき」の一語、これは、激しく疑わしい。

 懺悔の内容とは違う、別な何らかの過去があって行脚する尼であったのかも知れぬ(寺云々の話は泊めてもらうための口実であったとも仮定出来る)。

 ただ、当時のこと、本人が述べたように、「年若く美しき尼の獨り步行、若輩のものなど心をかけ、理不盡もある」危険には満ちていた。そこで、普段から、この模造の腕を胸に常時付けておき、時によってはこのような話をして難を逃れていた、という可能性も全否定は出来まい。

   ***

 最後に。

 そうであったとしても、私は、この話を最初に読んだ時、これは模造の手ではないと直感したのである。

 それでは、やはり奥方の怨念の手首なのか?

 私は、この手は、左右の腋下リンパ節から腫脹した、進行した乳癌の病巣ではないかと思うのである。

 そして、私はこの女の懺悔もその大筋において真実である、と認めたいのである。

 主家の主人と不義密通を犯した上、育ての母である奥方の、裏切り者という影の声に怯える中、恨みを押し隠したまま奥方は死に(ここで奥方に対して悪意や殺意を抱いたことはあったと仮定するのは自由である。それでも私の仮説に影響はない)、その前後に、彼女の乳癌が発症したのではなかったか。若年性の、それも乳癌は進行が早いことは周知の事実である。なおかつ、花岡青洲の書き残した図譜を見ても、放置した乳癌の末期型はまさに赤黒く見るも無残な腫脹変形を起こす。まさに「癌」という字義の如く盛り上がる岩塊であり、リンパと血管が共に膨れ上がった患部は、脇の下から胸に張り付いたミイラの如き腕のようにも見えたであろう。

 それを彼女は、奥方の怨念、不義密通の因果応報と感じた。そしておのが罪の深さ故に出家、行脚に旅立った……と……そんな夢想を……私はするのである。……皆さんの一人一人の夢想をも、お聞きしたいものでもありまするがの……

 ……そんな哀しい話を私に創らせるほどに、私は、このまたとない強烈なホラーの、この尼に、何とも言えぬ幸薄(さちうす)さ、言い知れぬ寂しさや哀れを感じ、そして、また、なにゆえか……惹かれるのである。……

……その声に……

「これ……御覧なさい……ませ……」

……という……彼女の甘く優しく素敵に恐ろしい、その、幻の声に……。 

 

 

■やぶちゃん現代語訳

[やぶちゃん注:尼の語りの特に後半部は、茶屋主人(若しくは根岸の親友或いはその知人)の伝聞三人称間接話法となっている箇所があるが、臨場感を出すために、尼の一人称直接話法で統一し、読み易さを考え、シークエンスごとに適宜分章化してある。なお、尼の一人称の「私」は一貫して「わたくし」と読んで戴きたい。]

 

 不思議なる尼の懺悔(さんげ)の物語の事

 

   根岸鎭衞が語り

 文化六年巳年の春、私(わたし)の親しき友が訪ねて参り、その男の知れる御仁の話として語ったことである。

 

   根岸の親しき友が語り

……去年のこと……拙者の知人が大和・奈良辺りに遊んで、その大和で、これ、奇妙な話を耳にしたというのじゃ。……村の名は忘れたが、往来に面した茶屋に立ち寄り、ちょうど折悪しく雨も降って参ったによって、暫く休んでおったところが、気がつけば、陽も暮れかけてしもうた頃合いにて、雨も一向、止まなんだ。そこで、ちょいとしつこく頼んで、この茶屋に宿ったところが、その晩方、店(たな)を仕舞(しも)うた主人(あるじ)の出て参り、あれこれ、四方山(よもやま)話をしておるうち、その主人(あるじ)が、

「……そう言えば……この夏……けったいなこと、これ、御座いましてなぁ……」

と申したによって、我らも好奇心の動いて、「……それは、その……どこがどう……けったい、で御座った?」

と、話を乞うた……

 

   茶屋の主人(あるじ)が語り

‥‥‥年の頃は、十九か二十(はたち)と見えて、そりゃもう、あんた、見たこともないような別嬪(べっぴん)の尼はんが、たった一人でやって参りましてなぁ、

「……この大和の国の○○と申す、名高きお寺の在所は、いずくにて御座いまするか?」

と訊ねられられ、

「……その場所までは、ここより何里ほど、これ、御座いましょうや?」

と重ねて訊ねられましたによって、

「……へぇ?……ここからじゃ、あのお寺はんは……かれこれ……七、八里もありましょうぞ。……どうしてまた、そのようなところを、お訪ねなさるんじゃ?」

と伺ったところが、

「……私(わたくし)めは……幼き頃、両親にも死に別れ……村内(むらうち)の裕福なるお人にお仕え致しつつ、育ちましてございまする。……なれど、ある訳のあって……かくも、尼となり申した。……今日は、かの寺の、私の出家の導師であらるる師の僧坊へと、訪ね参るつもりで参りましたれど、女の足のこと、少しも路の捗(はかど)らず、陽も暮れてしまいましたによって……夜通し歩かんとも思いはしましたれど……今宵……ここもとにお泊め下さったとならば……明日は早朝に立ちましたれば、きっと明日は、日も高いうちに……お寺に着くこと、これ、出来ましょうほどに……」

と語るそのさまは、これ、嘘偽りとも思われませなんだによって、儂(わて)も、

『……哀れなことよ……一夜、宿として泊めてもええが……しかし、これ、やっぱり、しっかと、素性なんども聴いた上でのうては、のぅ……』

と思いまして、

「……それにしても、お前さま、若き身空(みそら)で……その……何故(なにゆえ)、ご出家なされた?……まあ、その……見るからに……美しいお生まれの人じゃて……よくよくの訳の、あろうほどに。……さても、その辺りのことも含め、これ、ありのままに、お話下すったとならば、一つ、宿をも、お貸し申そうぞ。……」

と申しました。すると、

「……そうとならば……私めの身の上を……これ……懺悔(さんげ)しましょうほどに……では一つ……お身内の方々をも、お呼び集めになられ……とくと……お聞き下さいまし。……」

と申しましたによって、妻子なんどをも呼び寄せましての、その尼の身の上、これ、その一部始終を、聞いたのでございまする…… 

 

   尼が懺悔(さんげ)

……私めの生まれは……ここからほど近き村の○○という家でございました。……私を産み落として間ものぅ、両親は相いついで身罷りまして……天涯孤独となり果てたのでございます。……一人娘でございましたによって、村中の者が、これ、何くれとのぅ、お世話をして下さり、育てて下さいましたが……そのうち、その里のうちにても、これ、特に裕福なる農家の旦那さまが、我らがことを不憫に思い、養子として引き取って、育って下すったのでございます。……

……そうして……ああ……忘れも致しませぬ……十五、六歳になりました頃のことでございます。……旦那さまは……いつしか……私めに……思いをかくることと、あいなりましたによって……私も……お育ていただいたご恩のありますればこそ……旦那さまの……その……お心のままに……身(みい)を……まかすることと……あいなってしもうたので……ございます……

……すると……奥方さまが……これ、急に病みつかれられて……日増しに重うなって参りますを……我らを、幼き頃より、心をこめて――親鳥が羽根で我が子を守るように――育てて下すった女人(にょにん)あればこそ……私めも深(ふこ)うに心をこめ、看病いたしましたのでございます……

……さて、最早、命も危ういと申すほどに患われた折りのこと……奥方さまは、旦那さまをお呼びになられ、次のように申し上げられました。

「……妾(わらわ)は最早、生きのびること、これ、難(かと)うなりました。……されば……もし……妾の身まかったとならば……その後に……他より……後添えをお迎えにならるるなんどということならば……これ……幼き頃より……大切に養い育てて参ったことなれば……この子を……どうか……妾のあとの……妻とされて……お迎えなされませ……」

 これには、旦那さまも大きに驚かれ、

「……そ、そのようなる心弱きことを申しては、いかんの。……せいぜい養生なしての、快気致すように頑張らねば、の。……」

とお励ましになられましたが、奥方さまは、それにお応えになられずに、今度はまた、私めに向かって、

「……夫(おっと)には、さても今のように申しましたぞえ。……もし、妾の身罷ったとならば……私に……代わって……家のことなど、万事、まことを尽くして、はかろうように……頼みますぞ……」

とおっしゃられましたによって、私は、

「……これは……何と訳のわからぬことをお仰せにならるるのでしょう?!……どうかして! しっかり養生なされ、お元気になって下さいまし!」

とお諫め申して……その後(のち)も、なお、心を込めて、ご看病、これ、致いたのでございます……

 

……そんな、ある日の夕暮れのことで、ございました。

 奥方さまが、

「……今日は、思いのほか、具合の好(よ)きによって……妾(わらわ)を伴(ともの)うて、近くの、ほれ、あそこの観音さまへ、夕涼みがてら、お参りに連れていっておくれでないか。」

とおっしゃられたのでございます。

 私めは、

『……旦那さまは村の御用で家におられぬ。……とは申せ……否(いな)まば、これもまた、病いの障(さわ)りともなろうか……』

と思いまして、手を引いて、二人して、その観音さまへと向(むこ)うたのでございます。…… 

 

……さても、しばらく歩くうち、奥方さまは、

「……ああっ!……歩くのは……やはり……苦しいゎ……」

と仰せになられましたによって、途中よりは、私めが奥方さまを背に負うて参りました。 

 

……ところが、しばらく参りますと……奥方さま、殊の外、お苦しみになられ始め、今にも死にそうな息遣いも聴こえましたによって、

「――ど、どうなされました!?」

と、私、

――肩越しに

――振り仰いで見ました……

……

ああっ!

……

――その顔の!

――恐ろしいことと言うたら……!

……

私は、

「わあっっつ!!」

と、一声叫ぶが早いか、その場に倒れてしまい、すっかり気を失(うしの)うてしもうたのでございます。…… 

 

……旦那さまは、お仕事のお済みになられ、家に戻ってこられたところが、私どもがおらぬので、家中の者に尋ねたところ、観音さまへと参ったとのこと、

「あの体にて、観音参詣など、これ、思いもよらぬことじゃっ!」

と、ご自身は勿論のこと、召使いやら村内の主だった者らをも呼び集(つど)うて、私どもの後を追うて参られ、我らを見出されましたとのこと。……

 

……ところが……私に背負われておられましたる奥方さまは……これ……すでにして……こと切れておられ……その亡くなった奥方さまを背負うたままの私めも……気絶致いておりましたを……水なんどをかけたところ……私めは……息を吹き返した……とのことでございます。…… 

 

……さても……奥さまと私と二人……これ……皆で家に連れ帰って……よぅく見ますると……奥さまは……その御手(おんて)を……私の肩から胸へと……しっかと、かけたままに……これ……こと切れておられたのでございましたが……さて!……

……その両手……

……これ……

……私めにとりついたるままに……

……いかにしても……

……これ……

……離れませなんだ……

……ご主人さまが、さまざまに手を尽くしてみられたのではございますが……

……これ……

……ビクとも……

……致しませなんだ…… 

 

……されば……仕方のぅ……

……その手首を……

……これ……

……切り離しまして、の……

……ご遺体を……

……引き剥がし……

……奥方さまのご遺体は、これ、手厚ぅに葬られましたけれども……

……その……

……私めの……

……肩から胸へと……

……とりついたる……

……奥方さまの……

……手首は……

……これ……

……今も……

……残ったままにて……

……ございまする…… 

 

……このことのあってより……私めも菩提心を発し、かくも尼となったのでございます。……

……そうそう……最前より、こちらのご主(しゅ)さまは、

――年若き美しき尼の一人旅――若き者なんどに言い寄られたり――意に添わぬ理不尽なるふるまいなどもあろうに……

なんどと……お疑いにならるるご様子……これ……ございましたれど……

……若き男(おのこ)なんど……言い寄ること……これ……ございましても、の……その時は……ほうれ……

……この手首……

……これを……

……見せますれば……

……誰(たれも)……

……恐れて……

……寄りつく者など……

……これ……

……ございませぬ。……

 

……これ……御覧なさい……ませ…… 

 

   茶屋主人が語り

……と

……肌脱いで

……見せました。……

……家中(かちゅう)の者も、皆、見て……これには、ほんまに!……心底……震え上がりまして御座いましたなぁ!…… 

 

   根岸鎭衞が結語

……と、その親しき友の、私(わたし)に語って御座った。……

 

耳嚢 巻之九 麹町小西重寶の事

 麹町小西重寶の事

 

 椛(かうじまち)町に小西といへる木藥屋(きぐすりや)あり。火災の節、土藏造の家へ袋をかけて防ぎ、度々の火災をまぬがれしといふ事、かゝる大造(たいそう)の袋、平常の持(もち)なやみ心得がたく、又火を革にて防ぐといふ革も信用なりがたく思ひしに、文化六年の春親友來りてかたりけるは、家來の内、彼(かの)小西が許へ調へものに至りて火事の咄しなど出(いで)しゆゑ、此家は火災のせつ袋を家にかけてまぬがるゝと云(いふ)事、實なるやと尋(たづね)ければ、亭主の答へに、家に袋など懸(かく)べきいわれなし、しかし一向なき事にてはなし、我等方土藏造なれど、火災の節は戸前口(とまへぐち)と窓の戸口とへは、先祖より持傳(もちつた)へし革にて拵へし暖簾(のれん)やうのものあり、是をかけ候也、風の勢、火の勢、吹(ふき)かけ候得(さふらえ)ば、右の暖簾あをり候ゆゑ自然(おのづ)と火氣を防(ふせぎ)候や、前々火事の節々まぬがれし由、若し好み候はゞ、右品見せ可申(まうすべし)、殊外(ことのほか)古くよごれたれども、持傳へものゆゑ寶となす由かたりしと、右の者咄しけるゆゑ、聊(いささか)故なきにも無之(これなき)間、少し疑ひも解(とけ)ぬれば爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一見、呪(なじな)い連関に見えるが、これは確かにして、理の通った防火施策である。実はこの状況は、既に「耳嚢 巻之五 火難を除けし奇物の事 又は この主人公コニカの御先祖であること」で語られた内容を、根岸が実際にさらに聴取して検証した、続編的一篇である。リンク先の私の諸注を参照されたい。なお、底本の鈴木氏注には、『三村翁「麹町四丁目生薬問屋小西六兵衛ならん。」また袋については「或は火浣布にや」と。それならば石綿を糸状にし、麻糸と交織したもの』とある。

・「文化六年の春」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。すこぶる直近。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 麹町の木薬屋(きぐすりや)小西の「火除けの革」と申す重宝(じゅうほう)の事

 

 麹町に小西と申す木薬屋(きぐすりや)が御座る。

 火災の折りには、土蔵造りの家へ袋を掛けて防ぎ、何度も大きなる回録(かいろく)を免れて参ったと風聞致す。

 しかし、かかる大造(たいそう)なる革製の袋と申すは、これ、平生、保管致すだけでも難しく、心得難きことにして、また、革を以って防ぐ火を、と申す「革」なるものも、これ、如何にも信用し難きものと思うて御座った。

 ところが、文化六年の春、親しき友の私が許へ参って語ったことには、……

 

……拙者の家来のうちに、かの小西が許へ必要の品のあって買いに訪れて御座った。

 その折り、主人(あるじ)と語るうち、たまたま近頃あった火事のことなんどに話が及んだによって、その家来が、

「……そう申せば、この家(うち)は火災の折り……何やらん、袋を家全体にかけて免るると専らの噂であるが……これ、まことのことか?……」

と訊ねてみたところ、小西が亭主の答えて、

「……いえ……家に袋なんど、かけられようはずは御座りませぬ。……しかし、その手前どもに纏わる噂は、これ……全くの流言飛語と申す訳にても御座いませぬ。……我らが方は、ご覧の通りの土蔵造りにて御座いますが、火事の折りには、土蔵の戸の前の口と、窓の方(かた)の戸口とへは、これ――先祖よりもち伝わっております、革にて拵えましたる暖簾(のれん)のようなるものの御座いまして――これをかけておくので御座います。風の勢いにて火の勢い盛んとなって、私どもが方の土蔵へと、これ、吹きかかって参りましたる折りには、この暖簾が、不思議に煽られましての、何故か、自ずと――あたかも、それを以って火を防いで呉れまするものかのように――火を外へ外へと遠ざけまする。……前々より火事の節々(ふしぶし)、悉くこれによって、延焼さるるを免れて参っておるので御座います。……もしお好みとあらば、一つ、その品をお見せ申し上げましょう。……いや、お見せするには、これ、殊の外、古うて、ひどぅ汚(よご)れたる代物にて御座いますれど。……代々家伝と致いております物ゆえ……宝と致いておるので御座います。……」

と、その実物をも実見致いたとのこと、かの者の申しておりましたれば……根岸殿。以前より怪しき話と仰せられて御座いましたが、これ、全くの流言飛語の類いと申すものにても御座らぬものと、存じまする。……」

 

とのことで御座ったれば、私の永年の疑いも、少しばかり解けたことで御座った。

 さすればこそ、特にここにその談話を記しおくことと致す。

耳嚢 巻之九 駕に醉ざる呪の事

 駕に醉ざる呪の事

 

 駕籠氣(かごけ)ある者、男女に限らず、道中は勿論、遠方などへ行(ゆく)に甚だこまる事あり。右の愁(うれひ)ある人、駕に乘(のら)んとする前廣(まへびろ)に、盃(さかづき)を男ならば左の袖へ入(いれ)、胸の前を通し右の袖へ出し、扨駕に乘れば醉ふ事なし。女は右の袖へ入、左の袖へ出す事なり。不醉(よはざる)事奇々妙なる由、岡松某もの語りなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。呪(まじな)いシリーズ。プラシーボ効果であるが、盃から酒、酒から酔いが連想されるから、これは類感呪術の一つと思われる。右左はよく分からないが、男女で異なる所を見ると陰陽説と関係するか。左右は異説もあるが、左が「陽」で右が「陰」とするのが一般的であろう。この動きがそうした気の流れをシンボライズするものであるとすれば、駕籠に酔う際の気の動きが、酒に酔う場合のそれと反対でありしかも、それは今度は男女の身体内ではまたまた反対であり、それを矯正する逆ベクトルの気の動きを真似ることで呪術が成立するということではあるまいか? 大方の御批判を俟つ。

・「前廣に」(名詞/形容動詞ナリ活用)前もっておこなうこと及びそのさまをいう。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 駕籠(かご)に酔わぬ呪(まじな)いの事

 

 駕籠に酔い易き者は、男女に限らず、市中平時の折りは勿論のこと、遠方などへ行くには、これ、はなはだ困ることではある。

 この虞れの御座る人は、駕籠に乗らんとする折り、前以って盃(さかづき)を――男ならば、左の袖へ入れ、それから胸の前を通し、さらに右の袖へと出だいて――その後、徐ろに駕籠に乗れば、これ、全く酔うことが、ない。

 女の場合は、これ、殆んど同じながら、逆に――盃を右の袖へ入れ、左の袖へと出す――これが、肝要。……

「……いや! まっこと駕籠に酔わざること、これ、奇々妙々で御座いまするぞ!……」

と岡松某(なにがし)と申す御仁が語って御座った。

耳囊 卷之九 怪棒の事

 

 怪棒の事

 

 藝州の家士、苗字は忘れたり、五太夫は、文化五年八拾三歲にて江戶屋鋪へ致勤番(きんばんいたし)、至(いたつ)てすこやか成(なる)者の由。右五太夫十五歲の時の由、同家中に何の三左衞門とか云る者ありしが、是は壯年の若者にて、同人申けるは、當國眞定山には石川惡四郞と云へる化(ばけ)もの住(すめ)る由、誰(たれ)有(あり)て高山の惡所ゆゑ見屆(みとどけ)し者なし、罷越(まかりこし)見屆け間敷哉(まじきや)と三左衞門申けれど、古來より申傳(まうしつた)へる惡所、無益の事と斷(ことわり)けれど、なんじやうの事か有(ある)べきとて三左衞門すゝめけるゆゑ、五太夫も、憶したれと云(いは)れんも口おしくともなひ登りしに、なん所(しよ)いふばかりなくかろうじて絕頂に至りけるに、ぼう風時々におこり黑雲ひまなく通行(つうぎやう)し、或は雨降り或はしんどうし、そのおそろしさいわんかたなく、三左衞門は最早絕頂まで來れば歸るべしといふ。五太夫は、夜もふけぬれば足場も心元なし、夜あけて歸るべしといひ、三左衞門とたち分れ、五太夫は岩のはざまに一宿なしぬれど、色々の怪敷(あやしき)ことども有(あり)て夜中ろくろくにいねず、翌朝下山なしけるが、三左衞門は大熱(だいねつ)いでて無中(むちう)となりて暫(しばらく)わづらひける由。然るに五太夫方(かた)へ、妖怪ありといへる事度々なり。或は鬼の形をなし、又は山臥(やまぶし)、外品々の變化(へんげ)など出て、甚(はなはだ)おそろしさ云(いは)ん方なけれど、强勇(がうゆう)の五太夫少(すこし)も不恐(おそれず)、或はのゝしり或は笑ひなどしてありければ、七日八日たちて、一人の出家と化して來り、扨々御身は强勇なる人哉(かな)、此上は我等も眞定山をたちさるべしと云けれは、尤(もつとも)の事なり、然れども御身と咄合(はなしあひ)し事、しやうこなくては如何なり、何ぞしやうこに成(なる)べき品を給(たまは)るべしと望(のぞみ)ければ、しばらく形を隱しけるが、外(そと)より何とも不知(しれざる)物をなげ込(こみ)けるゆゑ、是を見れば、三尺餘(あまり)有(ある)べき木性(きのしゃう)知(しれ)ざるねじ棒(ばう)なり。右棒は廣島の慈光寺と云(いへ)る寺へ、右の五太夫宅へ度々いでしばけ物の姿を、卷ものに繪(ゑ)書添(かきそへ)て納置(をさめおき)しと、右五太夫語りけるとなり。右文化六年、齡(よはひ)七十斗にて勤番に出、直(ぢか)に噺しけると、或人語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。これは一読、知られた「稲生物怪録」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく)のヴァリアントであることが分かる。「耳囊」では、ここまでで既に以下の二つのヴァリアントが紹介されてあり、これは三種目に当たる。

 「耳囊 卷之五 藝州引馬山妖怪の事」

 「耳囊 卷之九 妖も剛勇に伏する事」

「稲生物怪録」については、上記二つの私の注を参照されたい。上記の注で約束した通り、今回は「稲生物怪録」と比べつつ、少しく検証を試みてみたい。

 本話では知られた「稲生物怪録」の最後に登場する魔王から渡される木槌に似た贈物が登場している点にまず着目すべきであろう。さらに、採話状況が明確に書かれ、話柄の主人公の年齢が明確に示され(但し、御覧の通り、その記載が冒頭と掉尾で齟齬はする)、それが、「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年夏の極直近であること、しかもその時点で体験者である五太夫が生存しており、江戸勤番現役であって、これを根岸に伝えた話者は直接この五太夫から聴き取ったというのだから、少なくとも噂話との外見上は、超弩級に信頼性が高い話柄ということにはなる。但し、話としては「稲生物怪録」の目くるめく、意想外のオリジナリティ富んだ妖異の波状攻撃には全く劣る。絵入り本が何冊も出ているので(絵入りの方が絶対によい)、未見の方は、是非お読みあれ。怪作にして快作である。

・「藝州」安芸広島藩。本話にある文化五年当時は第七代藩主浅野斉賢(なりかた 安永二(一七七三)年~文政一三(一八三一)年)であるが、主人公五太夫が冒頭の「文化五年八拾三歳」とすると「十五歳の時」は元文五(一七四〇)年となり、当時は第五代藩主浅野吉長(よしなが 天和元(一六八一)年~宝暦二(一七五二)年 宝永五(一七〇八)年に家督を継いでいる)の頃である。これは文末の「齡七十斗」としてもぎりぎり彼か、若しくは第六代藩主浅野宗恒(むねつね)となる。因みに「稲生物怪録」の主人公稲生武太夫は広島藩の支藩である三次藩藩士の子である。但し、「稲生物怪録」の多くのヴァージョンでそのように語られ、しばしば稲生武太夫を「三次藩の藩士」とする現代の記載を見かけるが(例えばウィキの「稲生物怪録」)、これは既にしておかしい。何故なら、実際には三次藩は第五代藩主浅野長寔(ながざね)の夭折によって享保五(一七二〇)年に廃藩となって、広島藩に吸収されて存在しないからである。しかも諸本では、作品内時間を寛延二(一七四九)年五月から七月(本格怪異部分はこの一ヶ月)いっぱいに設定してあり、武太夫の年齢を十五或いは十六としているのであるが、これは三次藩廃藩から既に二十九年も経過している。しかも、以下に示す通り、実在した稲生平太郎(幼名平太郎/諸作でもこの名で出る)は三次藩廃藩当時では、未だ長じていたとしても数えで十四歳、実際には十二歳程度で藩士ではないからである。既にして、こうした事実との微妙な、しかし厳然としたあり得ない細部が、本話発生時の強い作話性を感じさせると私は思うのである(断っておくが、私は「稲生物怪録」自体のファンであり、フリークである。所持する「稲生物怪録」を書名に冠した専門単行書籍だけでも十数冊に及ぶ。されば、事実でないから語る価値がない作り物の怪異譚であると一蹴しようとするものでは毛頭ないことを断っておく)。いや逆に、だからこそ、本話の主人公広島藩士「五太夫」は「稲生物怪録」の主人公「稲生平太郎武太夫」、そして結局、広島藩藩士となった実在するモデル稲生武太夫と同一人物と考えてよいということにもなるのである。

・「五太夫(ごたゆう)」本話の姓不詳の主人公。「稲生物怪録」の主人公は稲生武太夫(いのうぶたゆう)で、この稲生武太夫なる人物は実在し(稲生家は現在も存続)、諸資料の記載により多少の差はあるものの、概ね享保一八(一七三三)年~享保二十年頃に出生、享和三(一八〇三)年には亡くなっている(特に没年は、「稲生物怪録」の最後に出る妖怪どもの元締めたる魔王山本(さんもと)五郎左衛門が平太郎(武太夫)に自分を呼び出すために与えた「化けもの木槌(きづち)」が現在の納められてあり、稲生武太夫の墓がある広島市東区山根町の日蓮宗自昌山國前寺についての裕氏の個人サイト「広島ぶらり散歩」のこちらページのデータに拠った)。この太夫」は例の悪の総帥山本(さんもと)郎左衛門の「」が逆転転訛したものと考えれば納得がゆく(神話学上では善悪の名指しや形象はそのパワーが著しく対極的であればあるだけ容易に相互交換も可能である)。因みに、ウィキの「山本五郎左衛門」には(こんな項目があるということは実に素晴らしいことではないか!)、「稲生物怪録」の類話として、この「耳嚢」の話を要約した上、『石川悪四郎の話は五太夫の体験談として『耳嚢』に記述されているが、内容は『稲生物怪録』とほぼ同じのため、鎮衛が書き誤ったか、もしくは五太夫が『稲生物怪録』を脚色して鎮衛に語ったとの説もある』とする。その最後の『説』は村上健司編著「妖怪事典」(毎日新聞社二〇〇〇年刊)に基づくとあるのであるが、私は誤記の可能性はないと思うし、況や、五太夫という稲生武太夫とは全くの別人が広島藩にいて、稲生と酷似した怪談を吹聴していたなんどという推定はとてものことに、出来ない。

   *

 なお、ここで書誌データをほぼ網羅した荒俣宏氏著の労作「平田篤胤が解く稲生物怪録」(角川書店平成一五(二〇〇五)年刊)から実在した稲生平太郎武太夫の興味深い、そしてまた、まさに謎めいてもいる経歴を以下に引用しておくこととする。

   《引用開始》

 稲生平太郎は、宝暦二年(一七五二)に二十歳になるやならずで一家の跡目を継ぎ、その名も稲生武太夫と改名している。浅野家に召し抱えられ、御供使方として八石三人扶持の俸禄を得た。しかし林良春氏によると、その翌年に御役御免となり、天明八年(一七八八)正月九日に帰藩するまでの間、ざっと三十四年間、平太郎あらため武太夫は浅野家のリストから消えるのである。いったい何があったのか。詳細はよくわからない。しかしおもしろいことに、この間、武太夫は諸国を武者修行して歩いたとの伝承があって、各地で武太夫の妖怪退治譚が残されている。また三次市の法務局三次支局の庭に建っている「稲生武太夫碑」にも、「宝暦七年二十五歳のとき諸国武者修行に出て、宝暦十三年五月三十一歳で帰落した」とある。その具体的真偽はともあれ、平太郎あらため武太夫は、わずか一年ながら藩に仕えた際、同僚たちに十六歳の夏に体験した妖怪との遭遇話を、さかんに吹聴したのである。あまりに途方もない話なので、多くの同僚は話半分に聞いたろうが、何度聞いてもディテールが変わらないし、なまなましい迫力も減じることがなかった。また妖怪の姿やかたちも独特で、聞いたこともないような細部描写をともなっていた。

 そこで、いつとはなしに稲生の怪異語を真剣に研究しようという人物があらわれた。その一人が柏正甫という同役であった。おそらく柏正甫もまた当時は二十歳前後の若い年代であったと思われる。柏は、稲生の話をメモに取り、記録に残したのである。稲生はその文章を見て、「これは事実だから他人にとやかく言われる筋はない。他人に見せてもかまわない」と納得した。しかし柏は内容が内容であるだけに他見を許さずにおいたようだ。

 その後、前述のように稲生は御役御免となったとすると、いつとはなしに稲生の怪異譚記録も箱に納められたまま忘れられてしまった。しかしそれから数十年後、柏は思いがけず、旧友の稲生武太夫とともに江戸へ旅立つという機会に巡りあった。あるいはこのとき、武太夫は三次の宗藩であった広島浅野家にふたたび召し抱えられたのかもしれない。柏正甫によれば、二人が江戸へ上ったのは天明三年(一七八三)か、あるいはその直前である。このとき宿で寝ながら語りあったが、昔聞いた怪異譚のことを話題にした。昔聞いた話をもういちど聞いたところ、内容が昔とすこしも違っていないことに仰天した柏は、あらためて以前の記録を箱から取りだし、自叙を付して書き改めた。これが天明三年のことである。その頃からふたたび稲生の怪異譚に村する興味が地元や江戸で湧きあがり、記録の閲覧を求める人もあらわれた。こうして柏正甫の筆記録は江戸の知識人からも注目されるようになつたのである。

   《引用終了》

そうして、後にこの話を学術的に再発掘したのが霊界博物学の権威ともいうべき平田篤胤であったのである。その詳細は荒俣氏の同書をお読み戴きたいが、ここで気になるのは、この「耳嚢」の記載された当時の「稲生物怪録」を巡る書誌的状況ということになろう。「稲生物怪録」の第一次の流布のピークの始まりは引用の通り、この柏正甫が天明三(一七八三)年に筆記した秘本と考えてよい。荒俣氏の前掲書によれば、この秘本の書写本は十九点ほどが現存し、それらは皆、江戸在と思われる猗々斎竹能(「いいさいちくのう」と読むか。酷似した名の茶人がいる)なる人物であるとある。その跋文には寛政一一(一七九九)年のクレジットがあるとするが、「稲生物怪録」の確信犯の採話である「耳嚢 巻之五 藝州引馬山妖怪の事」の載る「卷五」の執筆下限は寛政九年春であるから、実はそれよりももっと早い時期に、根岸は「耳嚢 巻之五 藝州引馬山妖怪の事」の末尾にある通り、『右武太夫方に寄宿なしける小林專助といふ者、今は松平豐前守家來にてありしが、右專助より聞しと語りぬ』という状況で「稲生物怪録」抄話を伝聞していたことが分かるのである。因みに、「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年前後の状況を見ると、文化三年に平田篤胤が同秘本の最初の書写を行い、その後、文化八年に厳密な校正本を作成させているのであるが、この文化八年版が元にした新たな資料源は、実は平田の親しい友人であった国学者『屋代弘賢が文化六年(一八〇九)に作成させた、稲生平太郎自身の作画とされる画本『稲生平太郎物語』の写本であった』(前掲書一五八頁)とあるのである。これは非常に興味深い。何故なら、「耳嚢 巻之八 白川侯定信屋代弘賢贈答和歌の事」によって幕府右筆であった屋代弘賢とは根岸も親しかったからである。この屋代版は『別資料を含めていくつかの新資料が加わ』ったものと荒俣氏は述べておられる。実は根岸は本話を含め、この「稲生物怪録」系の三つの類話(若しくは第九巻の二話としてもよい)をまさに屋代弘賢から得たのではなかったろうか? 大方の御批判を俟つものであるが、ここまでくると、実は根岸はこれが「稲生物怪録」のヴァリアントであることを承知の上で、かく記していると考えざるを得ない。彼は時間軸の中で、それらを聴き知った順に配し、それが類話だと言わなかっただけなのだ。類話と称し、それらを編集して一箇所に纏めてしまうと、学術的ではあってもはっきり言って明らかに遜色が歴然と出る。並べて比較しては面白くないのである(「稲生物怪録」を集成した本を私は何冊も持っているが、実はそれを通読して「奇譚」として面白いと思ったことは実は一度もない)。根岸はまさにそれを嫌ったのではなかったか? アップ・トゥ・デイトな都市伝説を時系列の中に生き生きと散りばめて置くことで、見えてくる別な興味と真実もあるのである。「耳嚢」とは、実は結果して近代民俗学に於ける類話採集の濫觴となっているのであり、ただの千話の奇譚を集めるだけの奇体なコレクターの手すさびではなかったのではなかろうか? 今、私はそんな思いを強くしているのである。なお、私の知る限りでは、根岸鎭衞と平田篤胤は根岸の方が三十九も年長で、接点は見つからない。

   *

・「文化五年八拾三歲」再確認しておくと、この年齢では「五太夫」

   「十五歳の時」は元文五(一七四〇)年

となり、文末の「齡七十斗」となると、

   「十五歳の時」は宝暦二(一七五二)年~宝暦三(一七五四)頃

となる。この年齢記載の齟齬が如何にも、本当は嘘的な作話性を暗示させるものであるようにも見えるが、私は寧ろ小手先でリアルさを調整しようとしたのだとも見えるのである。何故なら、この十三年の齟齬分を実在したモデル稲生武太夫の没年である享和三(一八〇三)年に足してみると一八一六年になり、冒頭の文化五(一八〇八)年時点で、矍鑠として広島藩の江戸勤番を勤めていたという記載が、俄然、真実性を纏うかのように見えてくるからである。

・「何の三左衞門「稲生物怪録」では隣家に住む豪傑の相撲取り三井権八姓の一部「三」が生きている。しかも、ここでも原話の魔王の名である山本(さんもと)五郎「左衞門」が生きているとも言える。妖怪の大魔王の名をヴァリアントの対抗者が「五」と「さん」と「左衞門」を分かって逆に一種の《言挙げ》として予め持つからこそ、彼らは最終的に怪異に打ち勝つ側に「在る」ことが定められているのだとも言えるのではなかろうか?

・「眞定山」底本及び岩波版も不詳とする。実際、広島県内にはこのような山はない(ネット検索をかけてもかかってくるのは悉くこの「耳嚢」に話を紹介したページばかりで、しかもどれも真定山の実在を検証していない。原話のみの紹介なら許そう。しかし、これを現代語訳したり、抄述紹介したりする場合、私はこういう不仕儀にはすこぶる怒りを感ずる人間である。都市伝説を示す時、明らかに事実に反する箇所については、紹介者は一言添えるべき絶対の《義務》があると考えている。面白可笑しく読者を騙してただ喜ぶという無責任な人間でよいという現代の市井の伝承者を気取らないのであればという謂いで、である)。「稲生物怪録」では実在する広島県三次市の比熊山である。現代語訳では一応、「まさだやま」と訓じておいた。

・「石川惡四郞」鈴木氏は『石川悪四郎は、『芦屋道満大内鑑』の石川悪右衛門の焼直しの感あり、実説ではあるまい』とする。既に示した通り、「稲生物怪録」では山本(さんもと)五郎左衛門。「川」は「山」のづらしであるし、「四郎」は「五郎」のずらしであるとともに稲生平「太郎」に対する遙かな劣位の表現(しかも相棒は「三」でやはり上位にある)。因みに「惡」は古えの武士の通称名に頻繁に用いられた「強い」の謂いであって邪悪の意は伴わない。遊びで現代語訳では「石川」を「せきかわ(せきかは)」と読んでおいた。

・「當國眞定山には石川惡四郞と云へる化もの住る由、誰有て高山の惡所ゆゑ見屆し者なし、罷越見屆け間數哉と三左衞門申けれど、古來より申傳へる惡所、無益の事と斷けれど、なんじやうの事か有べきとて三左衞門すゝめけるゆゑ、五太夫も、憶したれと云れんも口おしくともなひ登りしに、なん所いふばかりなくかろうじて絕頂に至りけるに、ぼう風時々におこり黑雲ひまなく通行し、或は雨降り或はしんどうし、そのおそろしさいわんかたなく、三左衞門は最早絕頂まで來れば歸るべしといふ。五太夫は、夜もふけぬれば足場も心元なし、夜あけて歸るべしといひ、三左衞門とたち分れ、五太夫は岩のはざまに一宿なしぬれど、色々の怪敷ことども有て夜中ろくろくにいねず、翌朝下山なしける」本話柄は二人で山に登っているのは最初の絵入本「稲生平太郎物語」などに見られる特徴すこぶる自然で怪奇譚に必要なプレのリアリズムがあると私は思う。柏正甫本「稲生物怪録」では登るのは、権八に肝試しを挑まれ、籤引きで当たった平太郎の方一人だけである(翌朝、山頂まで権八が迎えに来るから、こちらでも異界に踏み入れてはいるので祟られてもおかしくはないが、如何にも弱く、寧ろ、この冒頭に必要なリアリズムが減衰してしまう。私は原型は本話のように二人で登ったものであったと断じたい。恐らく平太郎自身が本話が盛んに持て囃されるようなって、自分一人の英雄性を高める意図で以ってかく話柄を創り変えたのではないかと私は疑っている)。

・「なんじやう」「なんでふ」が正しい。「何でふ」。「何といふ」の転で「何条」と漢字を当てる。疑問・反語の意の連体詞で、何という・何ほどの、の意。ここは無論、反語。

・「三左衞門は大熱いでて無中となりて暫わづらひける」「無中」底本では右に『(夢中)』と訂正注がある。「稲生物怪録」は諸本で怪奇現象が始まると、隣家に住んでおり怪異を起動させた共同正犯であるにも拘わらず、権八の出番は急速に少なくなってゆく(後代のヴァリアントになればなるほどその傾向が強いように私は感じる)。私は原形ではこの権八が恐らく現在のものよりももっと道化役として顔を出していたのではないかと想像している。その方が怪異譚は格段に面白くなるからである(その分、平太郎の純粋な英雄性が減衰してしまうと話者である平太郎自身が感じ、改作したのではなかったか?)。

・「山臥」山伏。数多の絵本・絵巻を確認してみても、変化(へんげ)の中に山伏姿の者は見かけない。印象に残るものでやや近く感じるのは、無数の虚無僧がぞろぞろ家内へ上り込んで、足の踏み場もなくなり、尺八を吹き鳴らして喧しきこと限りなしというシークエンスか。山伏の方が怪異としては古形で自然である。悪所禁断の山を冒している平太郎を天狗が襲うのは、実に理が通っており、古くから天狗は山伏姿に化けるのは御承知の通りである。そもそもが変化の王の名、山本(さんもと)という姓は如何にも天狗であろう

・「七日八日たちて」現在知られる「稲生物怪録」では実に七月一杯一ヶ月に及ぶ怪異が手を換え品を替えて語られる。そのバラエティが本話の面白さでもあるが、如何にもな、読者サービスの作話性を私は感ずる。寧ろ、原形はここにあるように一週間ほどであったのではなかろうか?

・「一人の出家と化して來り」この「化して」の謂い方に注意されたい。これは則ち、そこまでの「七日八日」の間に起った怪異は総てが、この「化」け物独りが成したことであり、ここではそのただ一匹の「化」け物が一人の僧に変じて現われたと述べている点である。現行の「稲生物怪録」は総てが、最後に百鬼夜行を配しており、この最後に登場するのはの妖怪の総帥という設定となっている。また、これも大事なところで、最後に出現するのは「稲生物怪録」では一貫して僧形なんどではなく、裃に帯刀した厳めしい武士姿ある。僧形が古形かどうかは不明であるが、私は悪の総帥の変化としては、かなり違和感を感じる。

・「外より何とも不知物をなげ込けるゆゑ」この部分、底本では、

 外より何とも不知。物をなげ込けるゆゑ

となっているが、如何にも繋ぎが悪く、訳しようがない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に基づき、例外的に以上の如く本文を訂した。

・「三尺」約九十一センチメートル

・「ねじ棒」鼻捻(はなねじ)。暴れ馬を制するための道具で、先端に鎖や紐の小さな環をつけた五十センチメートルほどの棒で、その輪を馬の鼻に引っ掛けて捩じって制する馬具。はなひねり。はなねじり。現行の「稲生物怪録」では山本(さんもと)を呼び出すための六寸(十八・一八センチメートル)の木槌(但し、原形に近いものではこうした平太郎に与え残されるアイテムは存在しないようである)。前掲した通り、実在したモデル稲生武太夫の墓がある広島市東区山根町の國前寺に現存する(実見は出来るが撮影は不可)。先に紹介した裕氏の個人サイト「広島ぶらり散歩」のこちらページによると、現存する木槌は三十センチメートル程の長さの黒色をしたもので、『打つ面が盛り上がってい』るとある。

・「慈光寺」岩波版の長谷川氏注に、『佐伯郡草津村(広島市西区草津町)に日蓮宗の寺あれど如何か』と注する。日蓮宗の古刹普門山慈光寺であるが、公式サイトにもネット検索にも稲生武太夫との関係性を見出せない。前注通り、伝承では奉納されたのは木槌で、奉納先は広島市東区山根町の國前寺であり、そこに現存する。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 怪棒(かいぼう)の事 

 

 安芸国の家士にて――苗字は失念致いた――五太夫(ごだゆう)と申す者は、文化五年の頃、八十三にして、未だ広島藩江戸屋敷へ勤番致し、高齢ながら、いたって健康なる御仁の由。

 この五太夫殿が十五の砌りの話の由。 

 

 五太夫の友にて、同広島藩御家中に〇〇三左衞門とか申す者が御座ったが、この者、壮年の血気盛んなる若者にして、ある夜のこと、五太夫と雑談の折りから、

「……当国の真定山(まさだやま)には、石川悪四郎(せきかわあくしろう)と申す化け物、これ、住んでおると聴く……聴くがしかし、これ誰(たれ)一人として――まんず、高き山の悪所なれば、の――見とどけた者はおらん。……どうじゃ? 一つ、二人して今から真定山の頂上へ、これ、登って、そんなもんが居るか居らぬか、見とどけるっちゅうんは、これ、なし、か、のう?」

と三左衞門、如何にもな、もの謂いにて水を向けたれど、

「……あれは古来より申し伝えたるとびきりの悪所。軽々に、かくなる仕儀を致さんとするは、これ、無益なことじゃ。」

と一度は断ったものの、三衛門が頻りに、

「――ほんなもん! なんぼのもんじゃい!」

煽り、なおも頻りに誘うたによって、五太夫も、三左衛門の目の内に幽かな侮蔑の光りを垣間見、

『憶したか――と言われずとも――これ、思われもせんは、口惜しきことじゃ。』

と感じたによって、三左衛門を伴い、真定山へと登ることと決した。

 さても、難所とされし道筋は、これ噂に違わず、曰く言い難き悪路にて、深夜となって、辛うじてようよう絶巓(ぜってん)へと登りつめたれど、如何にも酷(ひど)き暴風が断続して吹き起こり、黒雲(こくうん)の蒼穹を覆いて間断なく天空を行き交い、また、あるいは、天海に穴の空いたるかと思わるるほどの激しき雨の降り、また、あるいは、恐ろしき地震(ない)に山全体が震動致いて、その怖ろしさたるや、三左衞門にとっては、言わんかたなきもので御座ったによって、登頂致いて間もなくのこと、直きに五太夫に向い、

「……最早……絶頂まで来たればこそ……帰ろう!」

と申した。

 ところが、五太夫は、一向に、ものに怯える様子ものぅ、

「――夜も更けぬれば、足場も心もとなし。夜の明けてより、帰ると致すが得策じゃ。」

と平然と言い放った。

 とてもつき合い切れぬと、内心、びびったる三左衛門は、早々に下山するため、彼とは、たち分れた。

 五太夫は山上の岩の狭間に身を入れて横たわり、悪所真定山山巓にて一宿をなした。

 されど、いろいろなる怪しきことどもが、たて続きに起ったによって――恐ろしくはなけれど――ともかくも――その変事、夜中じゅう、ひっきりなしのことなれば、ろくろく寝(い)ぬることも叶わず、翌朝、五太夫、欠伸(あくび)をしいしい、下山致いたと申す。

 ところが、訊いて見れば、三左衛門は――これ、高熱を発して夢中に譫言(うわごと)を言うという体たらくとなって御座った(その後もかなり長い間、そのまま患(わずろ)うておった由)。

 五太夫の方は、これ、すこぶる健勝で御座ったものの……実は……この下山したその日より、五太夫方の屋敷にて、妖怪の出た、としか申しよう、これなき、如何にも妖しきことの、たびたび起こるようなって御座った。……

――あるいは――鬼の形を成し

――または――妖しき山伏となり……

……その他、さまざまなる――変化(へんげ)――なんどの出でて、執拗(しゅうね)き怪異の数々――後に聴いた者は、これ誰(たれ)もがはなはだ恐ろしき思いを致し、その恐怖たるや、言葉にさえ出来ぬほどのもので御座ったと申す――のあったれど、強勇の五太夫、これ、少しも恐れず、

――あるいは――平然と叱りつけ

――あるいは――呵呵大笑して笑ひ飛ばす……

……といった塩梅で過ぎて御座った。……

 さてもかく七日、八日ほど経った頃、

――遂には

――その変化

――これ

――五太夫と面会致さんがため

――一人の出家

と化して来ったと申す。

 して、徐ろに、

「……さてさて御身は強勇なる御仁なるかな……かくなる上は……我らも……真定山を立ち去らずんば……なりますまいて……」

と申したによって、

「――それは、まこと、尤もなることじゃ。――しかれども、御身と話し合(お)うたること、これ、証拠なくては如何なものか? 何ぞ、証拠になるべき品を、一つ、給わりとう存ずる。――」

と望んだところ、

――ふっ

と、しばらくの間、姿を隠しておったが、外庭の方より、

――ドン!

と、何とも知れぬ物を投げ込んで参ったによって、これを見てみれば、

――三尺あまりもあろうかという

――何の木で作られたものかは知れざる

――捩じ棒

のあったと申す。…… 

 

……さても、この棒はその後(のち)、広島は慈光寺と申す寺へ――この五太夫宅へ出でたるもろもろの化け物の姿を巻物に描(えが)き添えたるものと併せて――納めおいた。…… 

 

……と、その五太夫が語ったと申す。 

 

 これは――五太夫は文化六年の折りにても、齢(よわい)既に七十ばかりになんなんとするに、未だ勤番に出でて御座った由――その当人が直かに話したることと、ある御仁の語って御座った話である。

ワニの胆汁が毒という記事について

(リンク先は togetter.com. )

まことしやかに報知して何らの疑問を示さないアナウンサーどもを見乍ら、僕は――こういうマスコミは国民を救えない――とつくづく思ったものである――

尾形龜之助 「晝の部屋」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

 晝の部屋

         尾形龜之助

 

テーブルの上の皿に

りんごとみかんとばなな ―― と

 

晝の

部屋の中は

ガラス窓の中にゼリーのやうにかたまつてゐる

 

一人 ―― 部屋の隅に

人がゐる
 

 

Hirunoheya

 

 
 
 
白昼的房间

         作 尾形龟之助

         译 心朽窝主人,矢口七十七

 

桌子上的盘子里有

苹果和橘子和香蕉 —— 等

 

白昼

房间里的空间

好像果冻一样地凝固在玻璃窗内

 

在那屋角 —— 有一个

人 ……

 

         矢口七十七/

2015/01/13

耳囊 卷之九 形に不似合憶病者の事

 

 形に不似合憶病者の事

 

 文化五年二月十七日、しれる人、淺草觀音へ參詣いたしけるに、上野より淺草の間、別(べつし)て人群集なしける中に、年頃四拾斗(ばかり)にて頰骨荒れたくましく、髮は惣(さう)はつの大たぶさにて、すぐれてゆき短(みぢか)の小袖、丈け短き袴を着し、袖なしのぶつさき  羽織、朱鞘(しゆざや)の大小を橫たへ、小兵(こへう)なれど刀の長き事五六尺ばかり、廣德寺前の種物(たねもの)あきのふあたりを通りけるに、家中の侍體(てい)の武家三人、若黨(わかたう)草履取(ざふりとり)召連(めしつ)れ行違(ゆきちが)ひけるに、草履取彼男の刀を見て、扨もけしからぬ長刀(ちやうとう)かなと獨言(ひとりごと)いゝしを、かの男をし止(とど)め、武士の刀を嘲弄する事の可有哉(あるべきや)、討捨(うちすて)くれんと、刀の束に手を懸け大(だい)の眼(まなこ)をいからしければ、草履取大(おほい)に恐れ地に手を突(つき)て、何分御免あれと佗(わび)けれども、中々合點せず。若黨も立戻(たちもど)り、此間(このあいだ)田舍より召抱(めしかかへ)しものなれば、麁言(そげん)申(まうし)候はゞ宥免(いうめん)あれと侘ければ、彼男主人の名をたづねんと申けれど、主人の名前申さんもいかゞと、行過(ゆきすぎ)し主人に追ひ付(つき)、しかじかと語りける故、主人三人共(とも)立戾り、兩人は彼男の左右に立(たち)、壹人は前に來りて小腰をかゞめ、家來麁言申候儀、不調法の至り、何分用捨に預り度(たし)と丁寧に申けれど、何分勘忍なりがたきと答ふ故、然る上は御十分になさるが宜(よろしく)候、しかし江戶廣しと申せども、かゝる長き刀を帶(たい)せる人は是迄見候事も無之(これなく)、下郞が麁言申せしもことわりに候はんか、斯迄(かくまで)長き刀は御覺(おんおぼえ)有(あれば)こそ御帶(おんたい)しも候はん、我等もかたの如き短き刀を帶(たい)し候得共(さふらえども)、短きなりに覺ありて帶し候、我等家來を御討捨(おんうちすて)と承り、さまざま御佗を申、御承引なくば是非に不及(およばず)、我等御相手可罷成(まかりなるべし)、如何に如何にとさし寄せければ、彼男にがり切(きつ)たる顏色にて一言も出さず。其時彼藩中の侍、かく申に御挨拶無之(これなく)、御無言に候上は、御承引被下(くだされ)候事と有るなり、左あらば參り申さん、皆々來るべしと、同道は不及申(まうすにおよばず)、若黨並(ならびに)草履取共引連れ行去(ゆきさ)りぬ。彼男は手持(てもち)ぶさたなる顏色にてそろそろ步行(ありき)しを、群集の者口々に、長刀の大(おほ)たわけ大馬鹿ものと、種々惡言(あくげん)申かくれど、群集の中なれば誰(たれ)相手ともしれざれば詮方なく、憖(なまじひ)異風の形なれば逃隱(にげかく)る事もならず、見苦しさ云(いは)ん方なし。漸(やうやう)細き橫道に這入(はひいり)、足早にいづちへか逃去(にげさ)りぬ。げにや外に餘りある者は内にたらずと、古(いにしへ)の人いゝしも、かゝる事ならむかし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:事実奇譚で軽く自然な流れで連関。棕櫚のお化けみたような頭に、手足の半分が丸見えになったちんちくりんの上下を着し、朱色のド派手な鞘の異様に長い大小を差した、背もついでにちんちくりんのちょっと老けた傾奇(かぶき)者のとんだ嘲笑譚である。江戸の庶民の如何にも楽しそうな明るい笑い声が聴こえてくる好きな笑話である。

・「不似合」「にあはざる」と読む。

・「文化五年二月十七日」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。日付まで入れてあるのは珍しい。

・「髮は惣はつの大たぶさ」「惣はつ」は「惣髪」で総髪とも書き、「そうごう」「そうがみ」とも呼んだ、男子の結髪の一つ。月代(さかやき)を剃らずに、髪を伸ばした、その髪の毛総てを頭頂で束ねて結ったもの。近世では主に儒学者・医師・山伏などが結った髪形。「大たぶさ」は「大髻」と書き、「髻」(たぶさ/もとどり/みずら 音ケツ/ケイ/ケ/ケチ)は髪を頭上に集め束ねた所で、ここは束ねたそれが豊かで大きいもののことをいう。

・「ゆき」「裄(ゆき)」で、着物の背縫いから肩先を経て袖口までの長さ。肩ゆき。

・「ぶつさき羽織」打裂羽織(ぶっさきばおり)。帯刀に便利なように背縫いの下半分を縫い合わせていない羽織。武士などが乗馬・旅行の際などに用いた。

・「五六尺」約一・二~一・八二メートル。

・「廣德寺」浅草山谷町(現在の台東区東浅草二丁目)にある浄土宗大運山西照院広徳寺。増上寺末寺で天文二一(一五五二)年に創建された。この寺は、浅草寺の北北東、直線でも一キロメートル強離れた場所にある。町域の北部が吉原に向う日本堤に接しているから、相応に繁華な地であったことが窺われる。

・「種物」冬場保存しておいた植物の種子。野菜や豆類の種がこの辺りで商いされていたらしい。

・「若黨」特に身近に置いた若い側近の家来。

・「草履取」武家の下僕の一人。主人の外出の際に草履を揃え、切れた際のために替えの草履を持って供をした者。

・「侘」他の二箇所とともに底本では右に『(詫)』と訂正注がある。

・「憖(なまじひ)」のルビは底本編者によるもの。

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 傾奇(かぶ)いたる姿形に似合わぬ憶病者の事 

 

 文化五年二月十七日のこと、私の知れる者が、浅草観音へ参詣したが、その折りに実見致いた話を以下に再録致す。

 

……折りから、上野より浅草の間、何時にも増して人が群集(ぐんじゅ)なしておった中に、年の頃、もう四十ほどにもなろうかという、顴骨(かんこつ)の尖(とん)がり出た悪相も逞しい、髪は惣髪(そうはつ)の大髻(おおたぶさ)にて、驚くほど裄(ゆき)短かの小袖(こそで)に、これまた丈(たけ)のちんちくりんな袴を着し、袖無しの打裂羽織(ぶっさきばおり)を引っ掛け、毒々しい朱鞘(しゅざや)の大小を殊更に横向きに佩いた――背(せえ)は、これ。ついでにやっぱり、ちんちくりんの――男が、往来を我が物顔に闊歩致いておるのと同じき方へと歩んで御座った。

 こ奴、小兵(こひょう)のくせに、刀の長いことというたら、これ、実に五、六尺もある物干し竿の如き本差(ほんざし)で御座った。

 そ奴が、広徳寺前の種物(たねもの)を商(あいきの)うお店(たな)が並んでおる、あの辺りを通った時で御座る。

 相応の格式と思しい御家中の侍と見える御武家三人が若党・草履取りらを召し連(めしつ)れたのと行き違って御座ったが、その草履取り、かの傾奇(かぶ)いたる男の刀を見て、

「……なんと、まぁ、けったいな長刀(ちょうとう)やなあ……」

と独り言を呟いて御座った。

 それを聴き及んだかの傾奇者(かぶきもの)、その草履取りの男の袖を、ぐいっと摑んで押し止め、

「――武士の命たる刀を嘲弄すること、これあるべきやッ! 討ち捨てくれんッツ!」

と息巻いて、刀の束に手を掛け、どんぐり眼(まなこ)を裂けんばかりに見開いて怒らしたによって、草履取りは、大いに恐れ、地べたに手を突いて、

「……な、何分、ご、ご容赦下さりませぃ!」

と詫びをなしたれども、傾奇者、これ、なかなかに合点致さぬ。

 先に歩いておった若党も、この騒ぎに気づいて、すぐに立ち戻ると、傾奇者に謝して、

「――この奴はつい先だって、田舎より召し抱えたばかりの者なれば――沮喪(そそう)なる物謂いを成して御座ったとならば、どうか、ここは平(ひら)に御宥免(ごゆうめん)のほど、あれかし!」

と、誠意を込めて、ともに詫びたと申す。

 すると、男は、

「御主(ごしゅ)の御名(おな)をお訊ね申さん!」

と申した。されど、このような場所と仕儀にあって、主人の名前を口に出だすということは、これ、憚られたによって、直接に告げ知らすに若くはなし! と、

「――しばしお待ち下されませ!」

と断りを入れた上、既に遙かに行き過ぎて御座った主人に追いつくと、しかじかの由、語ったところが、主人ら三人ともに立ち戻って、二人は、かの傾奇者の左右に立ち、草履取りの主(しゅう)たる一人が前に徐ろに立って、小腰をかがめ、傾奇(かぶき)に対し礼を成しつつ、

「――家来の者、沮喪なる物謂いを申し候儀、不調法の至り。――何分、御容赦に預りとう存ずる。」

と丁寧に申した。ところが、傾奇(かぶき)は、

「――うんにゃ! 何分、勘忍、な、り、が、た、し、じゃ!……」

と憎々しげ答えた。

 すると、

「――なるほど。相い分かり申した。――しかる上は、どうか、貴殿の御気持ちのままに、御十分になさるるが宜しゅう御座ろう。――しかし、江戸広しと申せども、かかる長き刀を帯(お)びたる御仁は、これまで我らも、一度も見申し上げたこと、こ、御座ない。我らが下郎(げろう)が沮喪にも申せしも、これ、理(ことわ)りにあらんかと存ずる。……さても。かくまで長き太刀をお佩きになられておらるると申すは、これ、剣の御覚え、相当のあらるればこそ、かくは帯(たい)しておらるるものと拝察仕った。我らは、このの通り、普通の、短かき刀を帯(たい)しては御座れど、短かきなりに、拙者も腕に覚えの御座って帯(お)びて御座る。我ら家来を御討ち捨てにならるると承り――また、さまざま御なる詫びを申したにも拘らず――それにても御宥免御承引なきとならば――是非に及ず!――我ら、この我らが草履取りの代わりとして――御相手、仕らん! さあ、如何に! さッさ、如何にッ!」

と、

――ずいっ

と! 傾奇の鰓顔(えらがお)に寄り迫ったところが、

……かの男は……

……これ……

……すっかり苦り切った顏色にて……

……しかもこれ……

……一言も言うこと……

出来ずに、ただただ俯いて、歯嚙み致いておるようで御座った。

 すると、かの藩中の侍で男の横に立って御座った一人が、

「――かくも申し上げたるに――御挨拶も、これなく、御無言にておらるると申すは、これ、御宥免、御承引下されたものと、受け取ってよろしいかと存ずる。さ。されば皆、参ろうではないか。」

と言挙(ことあ)げ致いたによって、同道の今一人、今にも刀を抜かん勢いにて御座った傾奇の正面に立っておったる御仁の二人は申すに及ばず、若党並びに草履取りともども皆々引き連れ、浅草寺の賑わいの方へと悠々と去りなして御座った。

 さて、かの中年の傾奇者(かぶきもの)はと申せば、

……手持無沙汰なる顔色にて……

……そろうり……そろそろ……

……びくつくように……

……街路の真ん中で……

……阿呆面(あほづら)提げたまま……

……あっちへうろうろ……こっちへうろうろ……

と致いて御座ったれど……そのうち……あっちからも……こっちからも……

「長刀(ちょーとう)の大(おー)たわけじゃ!」

「傾奇(かぶき)被(かぶ)った鰓張(えらば)りちんちく!」

「……打裂(ぶっさき)の面子(めんつ)も一気にぶっ裂けて……」

「……袖なし意気なし胆(きも)なっしー……」

「大(おー)たぶさの、大臆病(おーおーくびょう)!」

「赤鞘赤っ恥(ぱじー)いの! お、お、ば、か、モンじゃあ!……」

と、これまた、周囲の群集(ぐんじゅ)の者たち、口々に、いろいろなる、ありとある罵詈雑言、これ、奴(きゃつ)に浴びせかけ始めて御座った。

 この頃には、野次馬も最高潮に集まっておったればこそ、足の踏み場もなきほどに群集(ぐんじゅ)致いた中のことなれば、どこの誰がどの悪罵を申したかは申すに及ばず、言いかけたる相手がどの辺りにおるかさえも定かならねば、せん方なく、また、なまじいに異風の形相(ぎょうそう)・着衣なればこそ、逃げ隠るることもままならず、端(はた)で見ておっても、まっこと、その見苦しきこと、これ、言いようも御座らなんだ。

 そのつまらない奴は、身動きもし難き大群衆の中を泳ぐようにして、ようよう、近くの人気なき細き露地へとこそこそと這い入ったかと思うと、一目散に、何処(いづこ)かへと逃げ去って御座った。

……げにも、『外見に威勢を張らんとする者はその身に於いて頗る気の弱い者なり』と、古えの人の言うたも、これ、このようなことを申すので御座いましょうかの……。

 

耳嚢 巻之九 陣太鼓の事

 

  陣太鼓の事

 是も越後の者にて、在所にて身上(しんしやう)沒落して無據(よんどころなく)江戶へ出けるが、生業(なりはひ)にさし支(つかへ)、持來(もちきた)る道具類も不殘(もこらず)賣代(うりしろ)なし、殘る者は先祖より持傳へし陣太鼓一つ箱に入(いれ)ありしが、是は可賣請(うりこふべき)相手なきゆゑ哉(や)、持居(もちゐ)たりしを、或時張替(はりかへ)候て奇麗にもならば望むものも有(ある)べしと、太鼓張職人のもとへ持參(もちまゐり)、此太鼓を拵直(こしらへなほ)し賣拂(うりはら)ひ度(たし)と申ければ、彼(かの)亭主是を見て、これは一通(ひととほり)の道具にあらず、古へれきれきの人の所持と見へたり、しかれども我目には不及(およばず)、其の師匠の許へ參り給り候樣に申て同道致(いたす)。右師匠といえる其職の頭(かしら)なるや、立出(たちいで)て右太鼓一覽の處、是は世に二つ三つの古物(こぶつ)なり、拂ひ給ふや、持傳へ給ふならば祕藏なし給へといゝしが、我等先祖より傳へぬれど、段々不身上(ふしんしやう)に成(なり)、持居たりとも其光輝もあらじ、依之(これによつて)拂ひ申度(まうしたき)旨申ければ、然る上は暫く待(まち)給へとて勝手へ入(いり)、金子貮百兩臺に乘せて、此太鼓の代り不足ながら進上申(しんじゃうまうす)由、申ければ、案外の事故、是程の謝禮に不及(およばざる)旨、申斷(まうしことわり)けれど、左(さ)な宜ひそ、古物にはかゝる事ありと鋲(びやう)を拔(ぬき)て、此通り金(きん)を埋(うずめ)て鋲を打(うち)候事なり、右金子にて不足なくば貰ひ請(うく)べきと答へしゆゑ、彼田舍人も右金子請取(うけとり)て、身上をもかためけると、或人の咄しけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:越後出の主人公で連関。展開の意外性という雰囲気から、前話と同じニュース・ソースの可能性が高そうな印象がある。

 

■やぶちゃん現代語訳

  陣太鼓の事

 これも越後出身の者の話。

 在所にて、すっかり身上(しんしょう)を潰して没落、よんどころのぅ江戸へと出でたが、そこで始めた生業(なりわい)も上手く行かずなって、在所より持ち来ったる道具類もこれ、残らず売り代(しろ)となし果て、残りおるものと申せば、これ、ご先祖さまより家に伝えたる――箱入りの古びた陣太鼓一つ――となってしもうたと申す。

 こればかりは、物が物なれば、売ろうにもそれを求めん相手もなかったからか、結局、最後まで手元に置きおいて御座ったを、遂にある時、ほどのぅ食うにも困ろうかという体たらくと相い成ったによって、まずはともかくも、虫食いの穴の空いたる、ぼろぼろになって御座った太鼓の皮だけでも、とりあえず張り替えた上、少しでも見た目、綺麗な感じにもなさば、こげな物でも、望む者、これ、あるやも知れぬと、太鼓張りの職人が許へ持ち込み、

「……この太鼓……まんず、皮んとこだけでも、拵え直した上……その……買(こ)うてやろうと申す、奇特な御仁のあらるれば……どうか一つ、そのぅ……売り払いとう存ずる……」

と告げた。すると、そこの亭主、この陣太鼓を一目見るなり、

「――こ、これは!……一通りの御道具にては……こ、これ、御座らぬ。まずは……そうさ、古えの、名のある武将であられた御方の御所持なされた逸品と見えまする。……しかれども……我らのような凡愚には、とてものことに、鑑識の、これ、及ぶようなる御品にては御座らねば。……そうじゃ! 一つ、今より我らとともに、我が師匠の許へ参らるるがよろしい!……」

と切(せち)に慫慂致いたれば、そこへと同道致いた。

 さて、その師匠と申す御仁、これ――江戸の太鼓張り職人の名人にして、江戸の太鼓張りの同業者の、言わば頭(かしら)格とでも申すべき者であったものか――相応なる屋敷に住もうて御座ったが、話を聴くや、即座に出でて参り、その太鼓を一覧、すると、

「――こ、これは!――これは、世に二つ三つしか御座らぬ、名物の古物(こぶつ)じゃ!……こ、これを、何と!……売り払うとおっしゃらるるか? いやいや! 家伝の御品(おんしな)と承ればこそ、これ、大事大事に秘蔵なさるるに若くは御座いませぬ!」

と、思いもかけぬことを告げられた。されば、男は、

「……い、いや、その……我ら先祖より伝え持ったる家宝の品にては、これ、御座れど……そのぅ……近年、我らこと……言わば、だんだんに……言うところの、不身上(ふしんしょう)……その……何のかのと……そのぅ……所謂、立ち行かぬことの、多く御座っての……そのぅ……何で御座る……この陣太鼓を持ち守って御座ったとしても――うむ! そうさ、本来、この陣太鼓の持ったるところの栄えある光輝も、これ、あたら無駄になろうもの――と、感じて御座るによって、どうか一つ、望まるる御仁など、万一あらせらるるとならば、言い値にて売り払いとう、存じますれば……」

といったことを苦し紛れに申した。

 この男、かくも御大層なもの謂いをしつつも、その内心にては、

『……この話の塩梅じゃ、まんず、一月分位の食い扶持には……これ、当てらるる値(ねえ)には……なりそうじゃて……』

と、陣太鼓なればこそ、さもしい「皮」算用なんどを致いておったものらしい。

 すると、その頭(かしら)なる男は、

「……しかる上は……うむ!――しばらく! お待ち下されよ!」

と、何か堅く決した面持ちとなって、奥の勝手方へと入って行く。

 間もなく、頭、

――金子二百両

これ、進上に用うるところの台にまで載せ置き、うやうやしく男の前に差し出だすと、

「――この太鼓の代金と致しましては――これ――いささか不足では御座いまするが――今、手元にあって出だし得る金子は、これ、が総て――ともかくも、進上(しんじゃう)申し上ぐる――」

と申したによって、意想外のことなれば、男は思わず後ろ手を突き、

「……こ、これほどの……し、謝礼には……お、及びませ、せねば……」

と、小判の山を前に、あたかも贋物(がんぶつ)を見破られでも致いたかの如く、不思議なる臆病風の、これ、心うちを、がうがうと吹き荒んだればこそ、思わず、心にもなき固辞の詞を発してしもうたと申す。

 しかし頭(かしら)は、

「……そのようなことは仰せ下さいまするな。……古物(こぶつ)の陣太鼓には――よろしいか? 見てくれとは異なりましての。このような一面が、御座る。……」

と申すや、頭(かしら)は工具を手に、その陣太鼓の、面の縁のところの、皮の破れとれ、すっかり煤けて御座った鋲(びょう)の一本を抜き、その孔(あな)の中を男に見せた。

「――この通り――鋲の孔の内には金(きん)がみっちりと埋め込んで御座る。――まっこと、かくあればこそ、野にあっても町にあっても音のよう、響き渡るので御座る。――これぞ、まこと、この陣太鼓の文字通り――金色(こんじき)の光輝――と申せましょう!」

と語った。そうして徐ろに、

「……さても……この金子にて、もし不足御座らぬとならば……どうか一つ、この陣太鼓の名品、貰い受けとう存ずる。――」

と言うたによって、かの越後の田舎者は、全身震顫(しんせん)しつつ、金子を有り難く貰い受けると、何度も何度も平身低頭致いて、頭(かしら)の屋敷を後にしたと申す。

 後、この男は、この二百両を元手となしてまっとうなる商売を起こし、堅実なる身上(しんしょう)をも手に致いたと申す。

 これは、とある御仁の語ったる話で御座る。

尾形龜之助 「音のしない晝の風景」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

 音のしない晝の風景

         尾形龜之助

 

工場の煙突と それから

もう一本遠くの方に煙突を見つけて

そこまで引いていつた線は

 

啞が街で

啞の友達にあつたような

 

 

[注:「あつたように」はママ。]

 

 Otonosiaihirunohuuki  

 

 没声音的白昼情景
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

工厂的一个烟囱 还有

远处发现另一个烟囱 然后

从这个到那个划线 这一条线……

 

就像在街上一个哑巴

碰到另一个哑巴的朋友似的

 

 矢口七十七/

2015/01/12

Wifredo Lam, Cuando no duermo, yo sueño,

Wifredo Lam, Cuando no duermo, yo sueño, 1955
 
 
……私は眠らない限り、夢を見る……


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何枚かヴァリアントがあるようですが、やっと一枚を発見しました。
既にお気づきのように、僕がしばしば曾て教え子の卒業アルバムに書いたものは、この絵の題名の「私は」を「あなたは」に変えたものだったのです――

枯野來て少女の母と逢ひにけり   寺山修司

枯野來て

  少女の母と逢ひにけり

         寺山修司

耳嚢 巻之九 本然の義心其功を得 但戲場の徒も其義有事

 本然の義心其功を得 戲場の徒も其義有事

 

 近き頃の事の由、越後の百姓にて、劍術抔其妙を得たしと、江戸に出て稼(かせが)んと暫く江戸表へ出、義太夫ぶしを好み、政太夫とて其頃の名人といへるを師匠となし、打(うち)はまり稽古しけるに其妙を得ければ、江戸表に落付(おちつき)て好む所の義太夫を語りなんと、在所の田地を賣りて江戸住ひ極(きは)むべしといふを、政太夫聞(きき)て甚だ憤り、御身こゝろざしある人と思ひしに、甚だの愚人なり、義太夫節に精を入(いれ)、我等に不劣(おとらざる)か又我より增(まさ)りたりとも、我等を見給へ、淨瑠璃かたりなり、先祖よりの田畑を賣りてかゝる下職(げしよく)を貴(たふと)ぶとは沙汰の限りなれば、向後(かうご)義絶致(いたし)、懇意をかへすなりと申(まうし)ければ、右百姓大(おほき)に愧入(はぢいり)、御意見の趣、心魂に徹したり、向後義太夫節を生涯相止むべしとて、麹町邊にて浪宅(らうたく)を構へ、在所にて覺えし劍術の師をはじめ、素より貯へ來る金子もありけるを利倍に貸付、すぎわひなしけるが、淺草三筋町の與力を勤(つとめ)ける由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。奇人の変格技芸譚。

・「政太夫」底本の鈴木氏注に、まず初代竹本政太夫(たけもとまさたゆう 元禄四(一六九一)年~延享元(一七四四)年)の名を挙げ、『竹本播磨少掾。竹本義太夫の弟子。初名、若竹政太夫。享保十九年二代義太夫を襲名。義太夫節の大成者、浄瑠璃中興の名人。延享元年没、五十四』とするも、但し、『江戸で政太夫についたといふのは不審であり、また「近き頃」とあるので、時代的にも合わない。その門流の者か』とある(「といふ」はママ)。それに対して、岩波の長谷川氏注は、同二代目竹本政太夫とする。ウィキの「竹本政太夫」によれば二代目は宝永七(一七一〇)年生まれで明和二(一七六五)年)没、本名は薩摩屋重(十)兵衛、大坂鮮魚卸売市場ざこばで魚屋を営んでいたことから、「雑喉場政太夫」などと呼ばれたとあり、『初代政太夫(後の竹本播磨少掾)の門下で後に養子』となり、三十四歳という太夫としては結構な歳で『竹本座に初出勤。 師匠譲りそっくりの芸で評判を呼』んだ、とあり、長谷川氏は『宝暦十三年(一七六三)江戸に下り明和六年(一七六九)没、五十六歳』とされる(ウィキと長谷川氏では没年が異なる)。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、二代目だと確かに「近き頃」はおかしくないとは言える。しかしここに今一人、候補として良い人物がいる。三代目政太夫(享保一七(一七三二)年~文化八(一八一一)年で、通称は播磨屋利兵衛、俗称を塩町政太夫と称し、初代の門下。明和四(一七六七)年に三代目政太夫を襲名している。但し、この人物はトラブル、話題が多く』、師である二代目政太夫の存命中に『勝手に江戸で政太夫を名乗ったり』、寛政四(一七九二)年には『播磨大掾を名乗ったこともある』。『登場人物の語り分けに秀で』、『大坂や江戸で人気を呼』び、『当たり芸は「心中天網島」』とある。これらの下線部と、「近き頃」からは、私はこの三代目竹本政太夫の方が(それこそ不義の行いのある変人ではあるが、だからこそ思い上がりの強いトンデモ変人が自分のことは棚上げにしておき、思い上がったトンデモ変人の弟子をきつうに諭したとする方が遙かに面白い気がするのである)よりしっくりくるようにも思うのであるが、如何であろう?

・「三筋町」底本鈴木氏注に、『元鳥越町(台東区鳥越二丁目)のうち。町の北側が大番組屋敷と書院番組屋敷によって三筋の小路に分れていたための俗称。与力は大番にも書院番にも与力、同心が付属する。ここはどちらか不明』とあり、岩波長谷川氏注には、『台東区三筋一・二丁目』とあり、こちらは現在の鳥越二丁目の北に接している地名である。鳥越は古くは三筋を含む広域名であったらしい。そもそも「淺草三筋町」自体が明治以降のそれとは異なり、広域名であったものと思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 本来持ったる義心に目覚めてまことの成果を得たる事

 但し、人形浄瑠璃の徒とても、それなりの義を持ちたる事

 

 近き頃のことの由。

 越後の百姓にて、剣術などにてその妙技を得たいものと、酔狂にも江戸へと上って、まずは資金を稼がずんばなるまいと、暫くの間は江戸で何やらん商売致いて御座った由。

 その合間に、今度は義太夫節に興味を持って唸りだし、さらにはその趣向の高じて、政太夫(まさたゆう)と申す、その頃の名人と呼ばれた太夫を師匠となし、すっかり入れ揚げ、嵌りに嵌って、稽古を重ねるうち、その筋も相応に御座ったものらしく、なかなかの妙技を得たによって、ある時、師匠政太夫に向い、

「――かくもなったる上は――江戸表に腰を落ち着けまして、この、まさしく、我らの好むところの、義太夫を語る太夫たらんと決しましたによって、在所越後の田畑はこれ、皆、売り払ろうて、我ら、江戸住まいせんと決まして御座いまする。」

と申した。

 すると、政太夫、それを聴くや、青筋立てて憤り、

「――あんさんは、相応のしっかとした志しを――これ――持ってはるお人やと思うておったに!――いやもう――とんでもない愚人じゃったワ!――義太夫節に精を入れ――我(わて)に劣らざるか――また我(わて)より勝(まさ)らはるようになったかて、のう!――我(わて)を、よう見なはれ!――所詮は――浄瑠璃語りのカタリ者じゃ!……先祖代々よりの大事大事の田畑を、これ、売り払(はろ)うて――こないに賤しい職なんどを貴ばんとは!――沙汰の限りじゃッツ!――向後(こうご)は義絶致いて、今までの親しき交わりも、これ! なぁんもかも! 皆、返上じゃッツ!」

と、吐き捨てたれば、かの男、その師匠の言葉に目覚め、大きに愧じ入り、

「……ご、御意見の趣き……心魂に徹しまして、御座いまする。……されば我ら、向後(こうご)――義太夫節をば生涯これ相い止(や)むること――誓いまする!」

と謝して、師匠の前を辞したと、申す。

 それより、この男、麹町辺りにて小さき一つ家(や)を構え、在所にて覚えて御座った、本来の願いであったる剣術の師匠を始めたと申す。

 一方では、もとより、義太夫以外には質素倹約致いて貯えて参ったる金子も、これ、相応に御座ったによって、これを人に貸し付け、その利息がまた利息を産み、倍々倍々と殖え、かくも生計(なりわい)を成して御座ったが、そのうち、相応の金も溜まり、遂には近年、御家人株を買(こ)うて、晴れて武士と相い成り、今は浅草三筋町辺りの与力を勤めておる由、聞いて御座る。

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅱ) 

 

十月十二日、朝の食堂で  

 けさはもう六時から起きてゐる。朝の食事をするまへに、大體こんどの仕事のプランを立てた。とにかく何處か大和の古い村を背景にして、Idyll 風なものが書いてみたい。そして出來るだけそれに萬葉集的な氣分を漂はせたいものだとおもふ。――ちよつと待つた、お前は僕が何かといふとすぐイディルのやうなものを書きたがるので、またかと思つてゐることだらう。しかし、本當をいふと、僕は最近ケーベル博士の本を讀みかへしたおかげで、いままでいい加減に使つてゐたそのイディルといふ樣式の槪念をはじめてはつきりと知つたのだよ。ケーベル博士によると、イディルといふのは、ギリシア語では「小さき繪」といふほどの意ださうだ。そしてその中には、物靜かな、小ぢんまりとした環境に生きてゐる素朴な人達の、何物にも煩はせられない、自足した生活だけの描かれることが要求されてゐる。……どうだ、分かつたかい、僕がそれより他にいい言葉がなかつたので半ば間にあはせに使つてゐたイディルといふのが、思ひがけず僕の考へてゐたものとそつくりそのままなのだ。もうこれからは安心して使はう。いい譯語が見つかつてくれればいいが(どうも牧歌なんぞと譯してしまつてはまづいんだ)……

 さて、お講義はこの位にしておいて、こんどの奴はどんな主題にしてやらうか。なんしろ、萬葉風となると、はじめての領分なのだから、なかなかおいそれとは手ごろな主題も見つかるまい。そのくせ、一つのものを考へ出さうとすると、あれもいい、これもちよつと描けさうだ、と一ぺんにいろんなものが浮かんで來てしまつてしやうがない。

 ままよ、けふは一日中、何處か古京のあとでもぶらぶら步きながら、なまじつかこつちで主題を選ばうなどとしないで、どいつでもいい、向うでもつて僕をつかまへるやうな工合にしてやろう。……

 僕はそんな大樣(おほやう)な氣もちで、朝の食事をすませて、食堂を出た。 

 

[やぶちゃん注:「Idyll」私の持つ「羅和事典」には idyllum とあってただ「牧歌」とある。「研究社英和辞典」を見ると、idyll(名詞・可算名詞)①田園詩・牧歌(田園詩に適する)ロマンチックな物語/②田園風景(生活など)/③[音楽用語]田園詩曲/④かりそめの恋・情事とあり、語源としてギリシャ語で「小さな絵画」の意とある。同社「リーダーズ・プラス」によれば、ギリシャ語由来のラテン語が語源とあり、eidos(形の意)の指小辞とある。則ち、本来は「小さな形のもの」の謂いである。そこで今度は eidos を調べると、ギリシャ語 eidos(エイドス)はプラトン哲学に於ける「イデア」とほぼ同じ概念を指す重要な概念であることが分かる。本邦ではしばしば「形相(けいそう)」と訳されるものである。それを受けるアリストテレス哲学に於いては、一種類の事物を他のものから区別する本質的特徴の謂いとなる。ウィキの「エイドス」を見ると、アリストテレスは『「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と語る。ここで肉体は質料にあたり、魂は形相にあたる。なにものかでありうる質料は、形相による制約を受けてそのものとなる。いかなる存在も形相のほかに質料をもつ点、存在は半面においては生成でもある』。『質料そのもの(第一質料)はなにものでもありうる(純粋可能態)。これに対し形相そのもの(第一形相)はまさにあるもの(純粋現実態)である。この不動の動者(「最高善」=プラトンのイデア)においてのみ、生成は停止する』。『すなわち、万物はたがいの他の可能態となり、手段となるが、その究極に、けっして他のものの手段となることはない、目的そのものとしての「最高善」がある。この最高善を見いだすことこそ人生の最高の価値である、とした』とある。私はお雇い外国人として東京帝国大学で哲学と西洋古典学を教えた、知られた哲学者ラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber 一八四八年~一九二三年 ロシア出身のドイツ系ロシア人)をまともに読んだことがない迂闊にして暗愚な人間である。この注を附すために、今更ながらケーベル先生の著作を買って繙くほどの余裕もないが、何か、この辰雄が「牧歌」なんどという邦訳は厭だという彼方に、極限にまで凝集した――形相(けいそう)そのもの(第一形相)としてのまさに「在るもの(純粋現実態)――としてのエイドスを私は見たように思うのは――とんだ、お門違いなのかも知れないが――私は私としてそれで腑に落ちたのである。] 

 

午後、海龍王寺にて  

 天平時代の遺物だといふ轉害門(てがいもん)から、まづ步き出して、法蓮(ほふれん)いふちよつと古めかしい部落を過ぎ、僕はさもいい氣もちさうに佐保路(さほぢ)に向ひ出した。

 此處、佐保山のほとりは、その昔、――ざつと千年もまへには、大伴氏などが多く邸宅を構へ、柳の竝木なども植ゑられて、その下を往來するハイカラな貴公子たちに心ちのいい樹蔭をつくつてゐたこともあつたのださうだけれど、――いまは見わたすかぎり茫々とした田圃で、その中をまつ白い道が一直線に突つ切つてゐるつきり。秋らしい日ざしを一ぱいに浴びながら西を向いて步いてゐると、背なかが熱くなつてきて苦しい位で、僕は小說などをゆつくりと考へてゐるどころではなかつた。漸つと法華寺(ほつけじ)村に著いた。

 村の入口からちよつと右に外れると、そこに海龍王寺(かいりゆうわうじ)といふ小さな廢寺がある。そこの古い四脚門の陰にはひつて、思はずほつとしながら、うしろをふりかへつてみると、いま自分の步いてきたあたりを前景にして、大和平(やまとだひら)一帶が秋の收穫を前にしていかにもふさふさと稻の穗波を打たせながら擴がつてゐる。僕はまぶしさうにそれへ目をやつてゐたが、それからふと自分の立つてゐる古い門のいまにも崩れて來さうなのに氣づき、ああ、この明るい溫かな平野が廢都の跡なのかと、いまさらのやうに考へ出した。

 私はそれからその廢寺の八重葎(やへむぐら)の茂つた境内にはひつて往つて、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂(さいこんだう)(これも天平の遺構ださうだ……)の中を、はづれかかつた櫺子(れんじ)ごしにのぞいて、そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剝落した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい樂書を一つ一つ見たり、しまひには裏の扉口からそつと堂内に忍びこんで、磚(せん)のすき間から生えてゐる葎までも何か大事さうに踏まへて、こんどは反對に櫺子の中から明るい土のうへにくつきりと印せられてゐる松の木の影に見入つたりしながら、さう、――もうかれこれ小一時間ばかり、此處でかうやつて過ごしてゐる。女の來るのを待ちあぐねてゐる古(いにしへ)の貴公子のやうにわれとわが身を描いたりしながら。…… 

 

[やぶちゃん注:「海龍王寺」奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てられたことから「隅寺(すみでら)」の別称がある(ウィキの「海龍王寺」より)。同寺公式サイトの「歴史」によれば、飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平三(七三一)年に光明皇后が海龍王寺として改めて創建、苦難の末に唐より帰国を果たした玄昉(げんぼう)が初代住持となったことから、遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことともなったとある。『平安時代となり、都が平安京に移ると平城京は衰退し、海龍王寺も同様に衰退してい』ったものの、『鎌倉時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え』、鎌倉幕府は関東御祈願三十四箇寺の一つ選んでいる。『しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響を受け、海龍王寺一帯も戦場とな』り、『打ち壊しや略奪の被害を被ったことから再び衰退の一途を』辿った。『江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受けることとなり、本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たし』のも束の間、『明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失うという大きな打撃を受け』、辰雄が訪れた頃には無住のまさに「廢寺」同前であった(後注参照)。

「轉害門」奈良ホテルから国道三六九号を真北に向って一・四キロメートル地点で西からの一条通りとにぶつかるところに東大寺の境内西北(正倉院西側)の三間一戸八脚門。平安末と室町の戦火を潜り抜けてきた東大寺でも数少ない建造物の一つで、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像し得る唯一つの遺構とされる(鎌倉期の修理によって一部が改変されているものの基本部分は奈良の遺稿が保存されているとされる)。

「法蓮」「佐保路」轉害門門前を西に折れて一条通りを真西に向い、佐保川の法蓮橋を渡ったところから西が現在の法蓮町である。轉害門そのものから法蓮橋までは凡そ五〇〇メートル強である。ここから真西にさらに真西に法蓮仲町の交差点を過ぎて一条通りを八〇〇メートルほど辿るとかつての小字地名と思われる辰雄のいう「佐保」路を通過する。現在の法蓮町は東西にかなり広く、西は関西本線を越えて現在の奈良バイパスが一条通りと交叉する箇所(法華寺東交差点。ここまでは法蓮橋から約一・七キロメートル)まであり、ここから西が知られた法華寺や、彼が次に向かった海龍王寺のある法華寺町となっている。海龍王寺へはこの(法華寺東交差点から一条通りを四七〇メートルほど歩き、通りが真北へ折れた直近(法華寺の極直近の東北位置)にある。なお、新潮文庫版「大和路・信濃路」では「佐保路」に「さおじ」とルビを振るが、現行でも「さほじ」が正しい。

「佐保山」は先のロケーションの丁度、中間点辺りの真北にあった山で、広域的には阿保山・奈保山(法蓮町・奈保町一帯)を含む、佐保川北方に広がる丘陵地帯の総称でもある。西部の佐紀山と合わせて平城山丘陵を形成し、周囲には聖武天皇ら皇族の陵墓が点在し、古くから桜の名所としられる地域であって、特に南部を流れる佐保川沿いの桜並木が有名である。この事から、佐保山には春を司る神霊が宿っていると考えられ、佐保姫と呼ばれる女神が信仰されていたが、グーグルのストリート・ヴューで見ても、現在では開発が進み、運動公園や学校、住宅地などになって辰雄が歩いた頃の「見わたすかぎり茫々とした田圃で、その中をまつ白い道が一直線に突つ切つてゐるつきり」と描写する素朴な田園風景からは全く変容してまった(以上はウィキの「佐保山」に拠った)。

「海龍王寺といふ小さな廢寺」「そこの古い四脚門」ウィキの「海龍王寺」によれば、『明治以降は境内の荒廃が進み、無住の時期が続いたが』、昭和二八(一九五三)年に『住職が着任し、堂宇の修理、境内の整備が行われた』とあり、すっかり荘厳にして綺麗になってしまっている。辰雄が訪ねた当時の雰囲気は「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「大和路編1」にある、岩波写真文庫「奈良―東部―」の写真で辛うじて想像出来る。特に『当時の海龍王寺の門前』のリンク写真をご覧になられたい。その下に辰雄とあなたと立たせてみることこそが本作を読む上では肝要であると私は思うのである。因みにそこには、当時の海龍王寺の門前には何もなく、若草山(海龍王寺のほぼ東の四・五キロメートルにある)までも遠望出来たらしいとある。

「西金堂」海龍王寺公式サイトの「伽藍」によれば、『創建当時からの建物』であり、鎌倉時代と昭和四十年から翌四十一年(一九六五、六年)にかけて『大きな修理を受けてはいるものの、一部に奈良時代の木材を残してい』るもので、『規模や形式には大きな変更がなく、奈良時代に造られた小規模の堂はこの西金堂以外に現存していないことから非常に価値の高いものと評価されてい』る、とある。現在は重要文化財指定を受けており、ウィキの「海龍王寺」によれば、『内部に五重小塔(国宝)を安置する。切妻造、本瓦葺き、正面』三間、側面二間の『小規模な仏堂である(ここでいう「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語)。古代の仏堂で現存するものは、構造的に中心部の「身舎」(もや)と、その周囲の「庇」という』二つの部分から構成されるものが多いが、『この西金堂は「身舎」のみで「庇」にあたる部分がない、簡素な建物である。奈良時代の建物ではあるが、鎌倉時代に再建に近い大修理を受けており、奈良時代の部材はその多くが当初位置ではなく、堂内の他の場所に転用されている。創建時より規模や様式的は変更は無いと考えられている』とある。

「磚」塼・甎とも表記する。中国に於いて粘土を型で固めて焼くか、乾燥させて作った灰黒色の煉瓦をいう。漢代に発達して城壁・家屋・墓室の構築に用いられたが、日本にも伝来して飛鳥時代の寺院跡や鎌倉時代の唐様建築などに用いられた。……この最後の段落で私たちは、辰雄と連れ立って、「その廢寺」となった荒れた海龍王寺「の八重葎の茂つた境内にはひつて往つて、みるかげもなく荒れ果てた小さな西金堂」「の中を、はづれかかつた櫺子ごしにのぞ」き、「そこの天平好みの化粧天井裏を見上げたり、半ば剝落した白壁の上に描きちらされてある村の子供のらしい樂書を一つ一つ見たり、しまひには裏の扉口からそつと堂内に忍びこんで、磚のすき間から生えてゐる葎までも何か大事さうに踏まへて、こんどは反對に櫺子の中から明るい土のうへにくつきりと印せられてゐる松の木の影に見入つたりしながら」「小一時間ばかり」そこで過ごしてみたくなるではないか。そうして……辰雄と同じように……私は……「女の來るのを待ちあぐねてゐる古の貴公子のやうにわれとわが身を描ゐたりし」てみたくなるのである……] 

 

夕方、奈良への歸途  

 海龍王寺を出ると、村で大きな柿を二つほど買つて、それを皮ごど嚙りながら、こんどは佐紀山(さきやま)らしい林のある方に向つて步き出した。「どうもまだまだ駄目だ。それに、どうしてかうおれは中世的に出來上がつてゐるのだらう。いくら天平好みの寺だといつたつて、こんな小つちやな寺の、しかもその廢頽した氣分に、こんなにうつつを拔かしてゐたのでは。……こんな事では、いつまで立つても萬葉氣分にはひれさうにもない。まあ、せいぜい何處やらにまだ萬葉の香りのうつすらと殘つてゐる伊勢物語風なものぐらいしか考へられまい。もつと思ひきりうぶな、いきいきとした生活氣分を求めなくつては。……」そんなことを僕は柿を嚙り嚙り反省もした。

 僕はすこし步き疲れた頃、やつと山裾の小さな村にはいつた。歌姬(うたひめ)といふ美しい字名(あざな)だ。こんな村の名にしてはどうもすこし、とおもふやうな村にも見えたが、ちよつと意外だつたのは、その村の家がどれもこれも普通の農家らしく見えないのだ。大きな門構へのなかに、中庭が廣くとつてあつて、その四周に母屋も納屋も家畜小屋も果樹もならんでゐる。そしてその日あたりのいい、明るい中庭で、女どもが穀物などを一ぱいに擴げながらのんびりと働いてゐる光景が、ちよつとピサロの繪にでもありさうな構圖で、なんとなく佛蘭西あたりの農家のやうな感じだ。

 ちよつとその中にはいつて往つて、女どもと、その村の聞きとりにくいやうな方言かなんかで話がしてみたかつたのだけれど、氣輕にそんなことの出來るやうな性分ならいい。僕ときたひには、そうやつて門の外からのぞいてゐるところを女どもにちらつと見とがめられただけで、もうそこには居たたまれない位になるのだからね。……

 氣の小さな僕が、そうやつて農家の前に立ち止まり立ち止まり、二三軒見て步いてゐるうちに、急に五六人の村の子たちに立ちよられて、怪訝さうに顏をじろじろ見られだしたのには往生した。そのあげく、僕はまるでそんな村の子たちに追はれるようにして、その村を出た。

 その村はづれには、おあつらへむきに、鎭守の森があつた。僕はとうとう追ひつめられるやうに、その森のなかに逃げ込み、そこの木蔭でやつと一息ついた。 

 

[やぶちゃん注:「佐紀山」これは、海龍王寺門前の北方にある佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)のコナベ古墳やウワナベ古墳一帯を指しているように思われる。

「せいぜい何處やらにまだ萬葉の香りのうつすらと殘つてゐる伊勢物語風なものぐらいしか考へられまい」これはこの旅で構想され、後に書かれた「曠野」(同昭和一六(一九四一)年十二月『改造』に発表)の話柄と合致する。

「歌姬」現在の奈良市歌姫町。辰雄は海龍王寺を出ると、左折して北へ向かい、コナベ・ウワナベ古墳を遙かに見つつ、それらの古墳の手前、現在の法花寺北の交差点を左に折れ、平城宮跡を横切って、東西に走る県道一〇四号が南北に走る県道七五一号と交差する佐紀町交差点まで辿ったものらしい(海龍王寺門前からではここまで実測で一・五キロメートル)。ここから県道七五一号を一キロ弱真北へ向かった所に、この歌姫という村はあった。「南都銀行」の観光案内サイト「ええ古都なら」の「歌姫街道 古代の歌姫が暮らした街道」に辰雄が辿ったこの南北の道について、以下のようにある。『京都府の木津川市へ向かうこの道は、かつては歌姫街道と呼ばれ、京都と奈良を結ぶ重要な交通路だった。壬申の乱で大友皇子の近江軍が飛鳥に攻めこむ際には、ここを越えきたといわれている。また平城京造営のときには、この街道を通って建築資材が運ばれた。歌姫街道とはなんともロマンチックな名前だが、平城宮で雅楽を奏し、舞を舞った女官たちがこの街道沿いに多く住まいしたため、この名前が付いたという』。『街道はずいぶんと開けたが、歌姫町のバス停を北へ過ぎた辺りから急に細くなり、古い民家が点在する。京へ向かい、街道がやや下り坂になったところに鎮座するのが、農業や旅の安全を守る神を祀る添御縣坐神社である。神社の前をさらに北へ過ぎると、道はカーブを描きながら下り、やがて広々とした田園風景となる』とある。……しかし、この日に辰雄が辿った地名の、何とことごとくが、美しい響きを持っていることだろう。奈良に疎い私でさえ、この地名だけで何かこころからあくがれ出でるものがあるような気がするのである。……

「ピサロ」フランスの印象派の画家ジャコブ・カミーユ・ピサロ(Jacob Camille Pissarro 一八三〇年~一九〇三年)。多くの農村を舞台と下風景画や人物画を描いている。グーグル画像検索「Jacob Camille Pissarroを見られるがよい。辰雄の謂いがまことに、しっくりとくる。

「鎭守の森」これは位置的に見て、歌姫の集落の添御県坐神社 (そうのみあがたにいますじんじゃ)と思われる。この神社は大和平野中央を貫く古代の下つ道の北端に位置し、大和から旅する者が旅の安全を願ったところの、まさに国境――異界への通路――に鎮座する手向けの神として尊崇されていたのである。

「村の子たちに追はれるようにして、その村を出」、「その村はづれに」ある「おあつらへむき」の「鎭守の森」がって、そこに「僕はとうとう追ひつめられるやうに、なかに逃げ込み、そこの木蔭でやつと一息ついた」という、この情景がまた、素晴らしいではないか! これは子どもたちの時空を超えた鬼ごっこによって追われた詩人――神に選ばれた者―― が、昼なお暗き古代の異界へと繋がるところ、妖しい鎮守の森の奥へと誘われたのではあるまいか?……

とうとう」ママ。]

耳嚢 巻之九 イシマの事

 イシマの事

 

 蝦夷(えぞ)の女、人に嫁すれば、イシマとて男の方より長さ二尺ばかりの紐をあたふ。女是を腹に占(し)め置(おく)事なり。執心(しふしん)に思ふ男ありても、右イシマをしめし女なれば、其戀を思ひたゆ。達(たつ)て口説(くど)きても、イシマ有(ある)女は、其譯(わけ)いふて不從(したがはず)。若し好淫(かういん)等申懸(まうしか)け、女も得心なれば、右紐を解(とき)て心に從ふよし。幼女にても、言名付(いひなづけ)あれば、右紐締(しめ)る事の由。松前奉行河尻某語りし。夷俗にも規格ある事なり。歌に下紐(したひも)をとき、亦下紐の關(せき)など詠(よめ)るもあれば、古へ此國の俗もまたかゝる事ありしや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、女の真心や決心と言いう点ですこぶる自然な流れで読めるように作られている点は、流石と思う。いまさら乍らであるが、根岸はある意味で通読する際の読者の意識関心の流れをしっかりと押さえて話を組んでいるのである。六つ前の「蝦夷の俗男女掟の事」の重出。さればそちらの本文と注をまずはご覧あれ。イシマの長さ、本邦習俗との類似比較(これが格別によい。根岸は幻の日本民族などに陶酔するどこぞのヘイト連中とは格段に違う)など、やや記載が詳しい。今まで、幾つかのダブり記事を批難してきたが、実は根岸にとって「耳嚢」は当初、まさに耳に入ったものの内、自身の興味を持ったものを書き記しては投げ入れておくものであった。それが十巻千話という妙な目標をこの巻の終了時に立てた(彼は始め巻九での擱筆を考えた)ことの方が、それこそいらぬ目標だったのではなかったか? だから寧ろ、こうしたダブりの方にこそ根岸の本当の興味の核心を伝える、検証する価値のある記事なのではないかという気が私には今、萌し始めているということを述べておきたい。

・「イシマとて男の方より長さ二尺ばかりの紐をあたふ」この叙述全体は完全な誤りである。ウプソルクッ(イシマ)は夫が妻に与えるものではなく、女系の神聖具として母から娘へと受け継がれてゆくものである。「蝦夷の俗男女掟の事」の「イシマ」の注を必ず参照されたい。「二尺」六〇・六センチメートル。グーグル画像検索「ラウンクッ」の幾つかのそれらしきものを見ると、この長さは首肯出来る。

・「松前奉行」ウィキの「遠国奉行」によれば、十八世紀末のアイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い:寛政元(一七八九)年、松前藩家臣知行地で交易場所であったクナシリ場所請負人飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持った国後郡(クナシリ場所)のアイヌが首長ツキノエの留守中に蜂起、ネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じ、商人や商船を襲って和人を殺害した。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たって、結局、蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された)及びロシア人アダム・ラクスマンの来航を背景に、幕府は北辺警護のため、松前藩の領地であった東蝦夷地(北海道太平洋岸及び千島列島)を寛政一一(一七九九)年に上知(領地の幕府への返上)、享和二(一八〇二)年二月には箱館に遠国(おんごく)奉行として蝦夷奉行が設置されて二名を任命された(他の遠国奉行同様一名が一年交代で箱館駐在)。同年五月に箱館奉行と改称、文化元(一八〇四年)年には宇須岸館(うすけしかん:別名で河野館又は箱館)跡(現在の函館元町公園)に奉行所を置いた。文化四(一八〇七)年の文化露寇(文化三年と翌四年にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節ニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方拠点を攻撃させたロシア名「フヴォストフ事件」)を機に、和人地及び西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸及び樺太。なお、「樺太」は文化六年に「北蝦夷地」に改称された)も上知、この時、箱館奉行を松前奉行と改め、松前に移転した。但し、ロシアの脅威が収まった文政四(一八二一)年、和人地及び全蝦夷地は松前氏に還付され、松前奉行は廃止されている。

・「河尻某」河尻春之(はるの)。「蝦夷の俗男女掟の事」の「川尻肥州」の私の注を参照。

・「歌に下紐をとき、亦下紐の關など詠るもあれば」「下紐」は女性が襲(かさね)の裳を穿く際に下着とし着す下裳(したも)又は膝辺りまでの丈しかない肌に直接穿く袴である下袴(したばかま/肌袴(はだばかま))の紐を指す。「大辞林」では動詞として「下紐解(したひもと)く」という動詞を見出しとして載せる。他動詞としてはカ行四段活用で「下紐をほどく」とし、女が男に身を任せることに用いるとして、「伊勢物語」三十七段の「われならで」の和歌を引く。短章なので全文を示す。

   *

 むかし、男、色好みなりける女にあへりけり。うしろめたくや思ひけむ、

   われならで下紐解くなあさがほの

     夕影またぬ花にはありとも

 返し、

   ふたりして結びし紐をひとりして

     あひ見るまでは解かじとぞ思ふ

   *

因みにこの後者の一種は、「万葉集」巻十二の二九一九番歌、

   *

   二人して結びし紐を一人して

     吾れは解きみじ直(ただ)に逢ふまでは

   *

「大辞林」ではさらにカ行下二段活用の自動詞として、「下紐がほどける」で、人に恋い慕われていると、下紐が自然に解けてしまうという俗信があったと記し、以下に「万葉集」第三一四五番歌を引く。

   *

   我妹子(わぎもこ)し我(あ)を偲(しの)ふらし草枕

     旅の丸寢(まろね)に下紐解けぬ

   *

「下紐の關」の方は陸奥(現在の宮城県白石市越河字樋口)の歌枕。福島・宮城の県境のにある「伊達の大木戸」「伊達関」の通称で、坂上田村麻呂が蝦夷を防ぐために設けたとされる。当地には「石大仏」とも呼ばれる「下紐の石」なるものがあるが、伝承としては聖徳太子の父用明天皇の皇妃玉世姫(たまよひめ)が、この石の上でお産の紐を解かれたという伝説が伝わる(これは室町期に成立した幸若舞「烏帽子折」が淵源か)。幾つかの和歌を示す。

   *

   あづま路のはるけき路を行きかへり

      いつか解くべき下紐の關

         (「詞華和歌集」太皇大后宮甲斐)

   あひみじと思ひかたむる仲なれや

      かく解けがたし下紐の關

         (「六百番歌合」藤原季経)

   現(うつつ)とも夢とも見えぬほどばかり

      通(かよ)はばゆるせ下紐の關

(「新後拾遺和歌集」大中臣能宣)

   立ち返りまたやへだてむ今宵さへ

      心も解けぬ下紐の關

         (「新続古今和歌集」左大将公名(きみな))

   *

 また、私の出身校である國學院大學公式サイト内の「万葉神事語辞典」の「下紐」の記載も参照されんことをお薦めする。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 イシマの事

 

 蝦夷(えぞ)の女性(にょしょう)は、人に嫁(か)すれば、「イシマ」と申す長さ二尺ばかりの紐を、男の方(かた)より与えると申す。

[やぶちゃん注:「男の方より与える」は誤り。注を必ず参照されたい。]

 女はこれを、普段は必ず、腹に締めおくことを掟(おきて)とする。

 かりに執心(しゅうしん)を以って彼女に思いを懸くる男のあっても、このイシマを腰に締めておる女性であったなら、その恋の思いは、男の方から、絶たねばならぬのである。

 強引に口説(くど)きても、イシマを締めたる女は、

「私には唯一人愛しい夫がいる」

と言うて、決して言う通りにはならぬ。

 但し、男が懸恋(けんれん)の切なるを以って、覚悟の姦通を申しかけ、それに対してまた、その女もその男に心底惹かれて得心の上でのことなれば、女は――そのイシマを解いて外し――男の意に従うとのことで御座る。

[やぶちゃん注:その場合の、驚くべき誠実さに富んだ――それは神の名の元になされると私は思う――女の夫への告白及び夫の密夫に対する処置については、「蝦夷の俗男女掟の事」の本文を必ず読まれたい。]

 未だ幼なき女児であっても、許嫁(いひなづけ)として既に夫が決まっておるならば、このイシマを必ず締めており、頑是なき者なれど、必ず貞節を守るとのことで御座る。

 以上は松前奉行河尻春之(はるの)殿の直話にて御座った。

 ……さても蝦夷の風俗にも、このような古えよりの掟(おきて)の、これ、ある、ということを知り、まっこと、興味深く思うて御座った。本邦の和歌にても「下紐(したひも)を解き……」「下紐の関……」と詠めるもあればこそ、古え、この北の国の民の民俗にも、また、全くかく同じき、心のゆかしさのあるということを思えば、何やらん、しみじみと致いては参らぬかのう?……(根岸談)

2015/01/11

耳嚢 巻之九 膽太き女の事

 膽太き女の事

 

 鎗劍(さうけん)の師範をなす吉田某かたりけるは、當春上州産のよし、十八九の女子(をなご)を抱(かかへ)けるに、見付(みつき)は甚(はなはだ)柔和なるものなりしが、上州を出(いで)しは、隱し夫(づま)を拵へ、右夫(つま)江戸へ出(いで)候由を聞(きき)て親元を駈落(かけおち)して、風呂敷に着替(きがへ)と鏡一面を包み、夜に紛れて在所を出て夜通し道中なしけるに、いづくにて有(あり)しや、壹人の盜賊立出(たちい)で、汝其風呂敷包を差置(さしおき)、着類(ちやくるい)も可渡(わたすべし)と申(まうし)ければ、彼(かの)女是を聞て、包は可渡、着類は女の事なればゆるし給へと申ければ、此盜賊如何(いかが)思ひけん、其乞(こひ)に應じ立別(たちわか)れしが、立歸りて猶(なほ)又盜賊に向ひ、ひとつの願ひあり、風呂敷の内にちいさき鏡あり、衣類はまいらすべけれど、右鏡は親のかたみなれば、何卒給はるべし、御身のもとにありて、賣代(うりしろ)なしても纔(わづ)かの價ひなるべしと申ければ、尤(もつとも)とや思ひけん、右鏡を取出(とりいだ)して女にあたへしに、忝(かたじけなき)由厚く禮をのべ、彼盜賊こゞむ所を右鏡を以て眉間(みけん)を打(うち)ければ、あつといふて手をあげる所を、たゝみかけて打けるゆゑ盜賊はたをれし故、包共(とも)取(とり)て足にまかせて御當地へ出しと語りけるゆゑ、汝は遖(あつぱれ)の豪傑なり、我武藝の師範なせど、かゝる手柄をきかずといひしかば、夫(それ)に乘(のり)けるや、私在所を出(いで)候節、鎌を一丁持出可申(もちだしまうすべし)と思ひしが、急(いそい)で取落(とりおと)しぬと云しゆゑ、夫(それ)は道中の用心なるやと尋(たづね)しに、跡より親はらから追駈來(おひかけきた)る事あらば足をもなぐべきといゝしに、吉田も大(おほき)に驚き、怖敷(おそろしき)心底の者と見限り、早々いとまを出しけるとかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:生首を蹴っ飛ばしそうな勘弁の女傑から、両親の脚も鎌で薙ぐ鬼畜系烈女で直連関。

・「當春」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 胆(きも)太き女の事

 

 槍剣術(そうけんじゅつ)師範をなしおる吉田某が語った。

   *   *   *

……今年、文化六年の春のことで御座った。何でも、上州生まれの由にて、十八九の女子(をなご)を下女として抱えたので御座るが、見た目は、これ、如何にも柔和にして素朴なる田舎娘で御座った。

 ところが、いろいろと訊ねてみたところが……

   *

……私が上州を出でたのは……その、実は……間男を拵えましたのが、そもそもの始まりで御座います。……その出来た男が、ある時、一旗揚げんと、急に江戸へ向かったと聴きました。……そしたら、居ても立ってもおられずなりましての。……江戸の男の元へ行こうと、親元を、これ、独りで駈け落ちしました。……風呂敷に着替えと鏡一面を包み、夜(よる)に紛れて在所を出で、夜通し江戸へと街道を急ぎました。……どの辺りで御座いましたか……闇の中、一人の盜人(ぬすっと)が、私の目の前に飛び出だいて参りました。……そうして、

「……お女中よォ――おめえさんの、その風呂敷包み――それ、ここへ置きない。……それからその着物(べべ)もよ、こっちへ渡しな!」

と凄んで申しました。されば、私は、これに、

「……包みはお渡ししましょう。……なれど……着衣は、これ、女の身なれば……どうか、お許し下さりませ。」

と切に請いましたところ、その盜人(ぬすっと)は、何をどう思ったものか、私のその乞うたのに応じて、風呂敷包みばかりを奪ったなり、そのまま何もされることものぅ、私は走って逃げることが出来たので御座います。

 しかしその時、闇の中を走りながら、ふと心に思うことのありましたによって、私は、また踵(きびす)を返し、その盗人(ぬすっと)の元へと立ち戻ると、なおもまた、その盗人に向って、

「……御免なさいませ。……どうしても、一つだけお願いが御座います。……その……風呂敷の内には、これ、小さな鏡が、入っておりまする。……一緒に包(くる)んであります衣類は、これはもう、あなたさまに差し上げまする。……なれど、その鏡は……これ、親の片身の品なればこそ……どうか! 何卒、頂戴致しとう存じます。……おん身の手元にあったとしても、安物の小さき手鏡なれば、お売りになられたと致しましても、僅かな値にしかなりそうにもな、つまらぬものにて御座いますれば……」

と申しましたところが、盗人は、尤もなこととでも思うたものか、その鏡を風呂敷より取り出だいて、私に渡しました。

「忝(かたじけの)う御座いまする!」

と、厚く礼を述べまして、何度も何度も、頭を下げました。

 その頭を下げては上げた――何度目か――何か、恥ずかしがりでもするかのように……その盗人(ぬすっと)が……顔を伏せて微笑み……風呂敷包みをやおら包み直そうとしゃがんで……私から眼を離した――その時で御座います。――そこに生まれた盗人めの油断を――これ、私は見逃しませんでした。……盗人が何かへらへらとした阿呆面(あほうづら)にて……ふっと……私を見上げた……その瞬間――

――私は右手に握った鉄の鏡を以って

――盗人の眉間(みけん)をしたたかに打ったので御座います。……

 その下らぬ奴は、

「あッツ!」

と言うて、男が顔を防がんと手を挙げるより早いか、さらに顔面を畳かけ、鏡にて連打致いたので御座います。……打ち下ろした数は……さて……もう覚えてはおりませぬ。……

 気がつくとその男は、

――顔中

――ぬらぬらと

――血だらけになって

――道に斃れておりました。

……されば、下に置かれてあった私の風呂敷包みもともに取り返しまして……そのまま……足にまかせて……こちら……御当地へと着きましたる……次第にて……御座います。……

   *   *

 などと、その娘の語って御座ったゆえ、拙者、思わず、

「……な、汝は遖(あつぱ)れの豪傑なるぞ! 我ら、武芸の師範を致いておれど、そのようなる巧みな仕儀と手柄は、これ、未だ嘗て聴いたことがないわ!」

と褒めてしもうたところが、それに気を良くしたものか、また、さらに……

   *

……私が在所を出奔致しました折り、鎌を一挺(ちょう)持ち出しとう存じましたが、ついつい、急いでおりましたによって、道すがら、その鎌、落してしまいましたのが災いとなりましたのですなあ。……

   *   *

と付け加えたによって、拙者が、

「……それは……まさに、かような道中の危難の用心のためで御座ったのじゃな?」

と訊いたところが……

   *

……おほほ!……いいぇえ! ほれ、後より田舎の親兄弟(はらから)どもが、駆け落ちと知って追い駈けてくるようなこともあろうかと存じましての。……もし、そのようなことのあらば、その連中の足を、その鎌で、横払いに、思いきりずたずたに薙ぎ切ってやろうと思うての手ことで御座いましたの……

   *   *

と応えて御座った。

 それを聴いて我ら、大きに驚き、

『――この女子(おなご)――可愛い顔して――いや! そら怖ろしき――心底の者じゃ!』と、流石に見限ぎりましてな、早々に暇(いと)ま出だいて、出て行ってもろうたので御座いまする。……

   *   *   *

と、吉田殿の語って御座った。

尾形龜之助 「東雲(しののめ)」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

 東雲(しののめ)

     (これからしののめの大きい瞳がはじけます)

 

         尾形龜之助

 

しののめだ

太陽に燈がついた

 

遠くの方で

機關車の掃除が始まつてゐる

そして 石炭がしつとりと濕てゐるので何か火夫がぶつぶつ言つてゐるのが聞えるやうな氣がする

そして

電柱や煙突はまだよくのびきつてはゐないだろう

 

 

[注:標題の「しののめ」は本来はルビ、「だろう」はママ。]

 

 Sinonome  

 

 拂晓

 (拂晓的大大的眼睛快要绽开了)

        
作 尾形龟之助
        译 心朽窝主人,矢口七十七

 

拂晓了!

太阳点火了!

 

在远方

整修机车的工作已经开始

于是 总觉得我听见由于煤炭潮湿而铁路员工嘟哝着的那些话语

还有

相信电线杆子和烟囱还在伸长的过程中

 
  

Sinonome2_2

  
 

            矢口七十七/
 
 

 
[心朽窩主人注:【二〇一五年六月四日】二枚目の写真を追加した。]

耳嚢 卷之九 女豪傑の事

 

 女豪傑の事

 

 黑田の奧に勤(つとめ)し女、植木某の妻となりしが、黑田の屋敷にも色々怪有(ある)事あり。廣き住居(すまゐ)なれば古狸の類(たぐひ)のなす事ならんと思へば强て恐るゝ事もなし。雨の降りし日、通ふ道に生首などある事あり。怪しきと思はず立(たち)よりぬれば、行方(ゆくゑ)なく失(うせ)ぬるよし、植木が同役咄しける。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。一つ前の霊異怪奇譚と連関。

・「黑田」福岡藩。筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩、藩主黒田氏(初代長政)から黒田藩という俗称もある。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏で、当代なら蘭癖大名として知られた第十代藩主黒田斉清(なりきよ 寛政七(一七九五)年~嘉永四(一八五一)年)で松平備前守と呼称した。ウィキ福岡藩」によれば、江戸の藩屋敷は、現在の千代田区霞が関で外務省庁舎の位置に上屋敷があったとあり、鈴木氏の注によると、中屋敷は溜池にあったとあり、ウィキの方には上屋敷の跡は『現在も外務省外周の石垣が残り、藩屋敷の面影が残っている。桜田屋敷と呼ばれ、隣接する芸州浅野家屋敷との間に見晴らしの良い坂があり、江戸霞ヶ関の名所とされた』。『他に赤坂に中屋敷』(鈴木氏注と同位置)が、『郊外には御鷹屋敷、下屋敷があった』とある。周辺の寂しさからは中屋敷であるが、奥とあり、「廣き住居」として特に示さないところからみると、霞が関の上屋敷であろうか。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 女の豪傑の事

 

 松平備前守黒田様の奧向きに勤めておった女、植木某(なにがし)殿と申す武士の妻となったが、黒家の屋敷にも、これ、いろいろと怪のある由。その女性(にょしょう)の言。

「……広きお住まいにて御座いますれば、古狸(こり)の類いの成すことであろうと思えば、しいて恐るることも御座いませぬ。……雨の降れる日など、通(かよ)って参る屋敷内(うち)の道の真ん中に、生首などがあることの、これ、御座いました。怪しいこと――と――思わず、その首のあるところへと寄って参りますると――これ――ふっと――行方(ゆくえ)なく、消え失せてしまうので御座いまする。……されば、あまり気に致さぬよう、生首の一つや二つは、これ、素知らぬ風にて過ぎ行くを、常と致いておりました。……」

 さても、これ、植木殿が同役が、直談として聴いたと、話して御座ったよ。

耳嚢 巻之九 強惡の者其死も又強惡の事……「耳嚢」中で僕が最も慄っとした話……

 強惡の者其死も又強惡の事

 

 寶曆明和の頃なりし、御旗本に下枝采女(しもえだうねめ)といえる強惡不道のおのこありて、衆惡露顯して、御吟味の上八丈島へ遠島に處せられける。猶(なほ)惡事不止(やまず)、島にても品々不屆ありける間、島にて刑に行はれしが、島の刑は、簀卷(すま)きになして數十丈ある岸上より投落(なげおと)せば、屈曲峨々たる岩にあたりて微塵になりて死せる事の由。下枝をも簀卷にして彼(かの)巖上に連れ行(ゆき)しに、下枝いえるは、我もかく積惡の上は死は覺悟なり、しかれども元來武士の事なれば、簀卷にして谷底に落ち死なんこと、いかにも口惜(くちをし)き間、簀を解かれたし、自身谷底へ落ち死なんと申(まうす)故、任其意(そのいにまかせ)ければ、巖の端へ出て右谷へ飛(とび)けるが、下さる巖へ突立(つきたち)て上をにらみけるが、遍身裂け破れ、其(その)にらみし顏色怖(をそろ)しなんどいわんかたなしと、八丈の土地の者語りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:実話乍ら、ずっと続いてきた、怪奇譚よりも実際の映像――これは肛門辺りから内臓か脊髄を劈(つんざ)いて尖塔上の細い岩が男の身を貫いて、そこに貼りついたまま、離れなかったのであろうと私は想像する――浮かんできて、遙かに慄っとする。……私は実は「耳嚢」千話の中で、この短い話しこそが、最も慄然とした話として忘れられぬのである。……

・「宝暦明和の頃」西暦一七五一年~一七七一年。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。

・「強惡」「がうあく(ごうあく)」と読みたい。

・「下枝采女」底本の鈴木氏注に下枝正重として詳細に載る。『寛政譜に「明和元年二月十五日はじめて汝明院殿(家治)に拝謁し、閏十二月十六日大番となる。五年十月五日さきに増田太一郎某が宅にをいて鄙賤のものと出会して博突し、あるひは歌舞伎狂言の戯をなし、または音曲をもって祭礼または涼船に出、或は夜中往来のもの無礼ありとて猥に打身し、あるひは某が許の植木紛失のゝち正重これを所持し、しかのみならず病と称し、引こもりながらしばしば他行せし事等糺明あるのところ、さまざま申陳じ、白状の期に至り、朝比奈喜三郎昌幸、松崎幸四郎頼房等もともに博突せしむね偽申せし条、彼といひこれといひ、その罪軽からずとて遠流に処せらる。」同家は二百五十石。遺跡は娘聟が相続した』とある。明和元年は一七六四年。これは実に真正の悪党――しかし、今から見れば風俗壊乱の小悪党っぽい男で、こんなジュネの「ブレストの乱暴者」(Querelle de Brest)のケレル(Querelle)みたような若造どもは今の世の中、ゴマンといるぞ!――はある。八丈で死罪となる以上は、そこで人を殺めたか、島抜けでも計ろうとしたものであろう。それにしても、こんなにこと細かに記録として残って、二百五十年後にインターネット上に私の手でまたしてもしっかり無惨に『強惡』人として書き残されてしまうというのも……少し……哀れな気もしないでもないのである……それは多分……私自身がケレルだから……であろう……

・「數十丈」一丈は約三メートルであるから、六十~九十メートルから百五十メートル~百八十メートル相当。

・「下さる巖へ」底本では「さる」の右に『(なるカ)』と推定訂正注がある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版はそうなっているので、「下(した)なる」で訳した。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

  強悪(ごうあく)の者はその死にざまもまた強悪たる事

 

 宝暦・明和の頃のことであった。

 御旗本に下枝采女(したえだうねめ)と申す極悪非道の、頗る傾(かぶ)いた男があった。

 実にさまざまなとんでもない悪事の数々、これ、露見致いて、お裁きの上、八丈島への遠島と相い成ったが、こ奴(やつ)、なお、悪事の止むことなく、島にてもさんざんに罪を重ねたによって、結果、在島のままに、島で処刑が行われた。

 八丈島に於ける死刑は――簀巻(すま)きにされた状態にて――数十丈ある断崖の真上より投げ落とす――という荒々しきもので御座ったれば、……屈曲し、海風に風化致いた、鋭くそそり立ったる岩塊や尖塔に――したたかに打ちつけられ――劈(つんざ)かれ……下に落つる頃には――身体これ――ばらっばらの――肉と骨の――小さなる塊へとうち砕かれ――死ぬる――という、まっこと、無惨なるものである。

 下枝も、かく簀巻きにされ、その処刑の断崖絶壁の上に連行されたが、そこで下枝の申すに、

「……我らかくも悪を積んだる上は、死なんど、もとより覚悟の上じゃ。……しかれども、我らとて、元来は武士なれば……身動きも出来ぬ芋虫の如(ごと)、簀巻きにされたままに谷底へ投げ落とされ、粉微塵にされて死ぬると申すは……これ、如何にも口惜しきことじゃ。……どうか一つ、この簀巻きを解かれたい。……拙者――自ら谷底へ飛び込み、落ちて死んで見しょうぞッツ!――」

と申した。

 されば処刑の者も、下枝が元は御旗本と存じおればこそ、その意に任せ、簀巻きから解き放ってやった。

 下枝は、悪びれた様子ものぅ、断崖絶壁の端へと出で立ち、

――一気に

――その立った姿のまま

――飛んだ!

……飛んだを見て、皆して、崖の上より恐る恐る覗いて見た……ところが……

――下枝は

――ずぅっと下の方(かた)の

――針の如(ごと)

――屹立しておった岩に

――真っ直ぐに

――突き刺さっておった。

……落下する際、岩場に何度もぶち当たったによって、

――体中

――裂け破れ

――腕やら足やら

――既にして形をとどめておらなんだ

……が……しかし……突き刺さった……その先の……頭……顔……

――その両の眼(まなこ)は…

…これ……覗いておる崖の上の者らを……

――ねめつけ!

――その表情たるや!

……これ……まさにしく……

「恐ろしなんどといはん方なし」

と申すに相応しきものじゃったと申す。……

 これは、八丈の土地の者が、じかに物語ったこととして、伝え聴いた話で御座る。

耳嚢 巻之九 英心在る女の事

 英心在る女の事

 

 是も右邊の事なる由。中野某妻、子供有(あり)て見まかりしに、人々獨身(ひとりみ)にて幼子(をさなご)の養育も成るまじとすゝめけるゆゑ、後妻を呼(よび)むかゑしが、此後妻まめまめ敷(しき)者にて、幼子を育養なし今に榮へけるに、彼かの)後妻婚姻なして四五日も過(すぎ)て、用場へ行(ゆき)て立歸(たちかへ)る折柄、色靑く年頃三十内外の女、ほうほつと立(たち)て居(をり)たりければ、後妻はやくも察しけるゆゑや、おん身はおさなき者の事氣遣ひかく顯れ給ふらん、聊も苦勞にな思ひ給ひそ、いとけなきもあるゆゑに男も我等をむかへ給ひしなれば、我おん身にかはり、いかにも守り育てん事、御身には增(まさ)るともおろか成(なる)事あらんや、くれぐれも安堵なし給へと申ければ、嬉しげに笑ひてかき消して失せぬ。其事夫へもしばしは不語(かたらず)、一兩年も過(すぎ)てかたりけるとなり。女丈夫ともいふべきものなりと、中野が同僚のかたりける。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:植物妖魅譚から霊異譚で連関し、また、冒頭の謂いからは、前話のニュース・ソースである「組屋舖に住(すめ)る與力」が合わせて語ったものである可能性も捨てきれない。ただ、これ、明らかに幾つも先行類話があって、やや話柄の新味には欠く。鈴木氏も指摘する如く、耳嚢 巻之七 婦人強勇の事耳嚢 巻之八 幽魂貞心孝道の事などがそれで、『いずれも先妻の幽霊が遺児の養育を案じて後妻の枕元に現われる筋で、幽霊話における一つの型であることがわかる』と評しておられる。但し、本話は登場人物が全く怖がらないこと、首尾一貫して後妻の誠意が貫いていることなど、個人的には非常に好ましい怪談の外套を着た誠心の人の話として、清々しく読める。

・「右邊」前話の舞台である「牛込と大久保の境、若松町」辺。完全な辺縁ではないが、この辺り、江戸御府内としては片田舎、辺地に近い。民俗世界にありがちな、江戸御府内という巨大な「ムラ」の境界上に異界への回路が開くというセオリーがここでは明らかに生きているように思われるのである。

・「ほうほつ」底本には右に『(彷彿)』と編者注がある。髣髴。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 誠実なる心を以って霊に接したる女の事

 

 これも前の話と同じい、牛込と大久保の境辺りにての出来事なる由。

 中野某(なにがし)が妻、子供の御座ったに、若くして急に身罷ってしもうたによって、中野が周囲の人々、

「……独り身にては幼な子の養育も、これ、ままなるまいぞ。……」

と、頻りに再婚を勧めたによって、後妻を迎えたと申す。

 この後妻、まことに誠実なる者にして、先妻の産みたる幼な子を、我が子の如く養育なし、中野家は今に、名家として栄えておらるる由。

 さてもこの話は、その後妻が、婚姻を成して、四、五日も過ぎた、ある日のこと、と申す。

 後架へ行きて戻ろうとするおりから……

……色のまっ青なる……年頃三十かそこらの女が独り……何か……影の薄う……ぼぅっと宙に浮かぶように……廊下の突き当たりに……立っておるを……見た。……

 後妻はしかし、一目見るや早くも、その何者なるかを察したらしく、穏やかなる声にて、その女に語りかけた。

「……おん身は、幼き者のこと、これ、ご心痛のあって、かく現われなすったものでございましょう。……しかし、どうか、いささかもご心配、これ、お思し召さるるな。……いとけなきお子もあればこそ……ご主(しゅう)も我らをお迎え下されたものなれば。……妾(わらわ)、おん身になり代わり、如何にしても、お子をお守りお育て申し上げまする。……おん身に勝るとも――及ばぬほどの愚かな女とは――妾(わらわ)自身も思うては、ございませぬ。……どうか、くれぐれもご安堵なさいませ。……」

と心を込めて切(せち)に告げたところ、

――その女はいかにも嬉しげに

――美しく笑ろうて

――かき消すように失せた。……

 その出来事に就きては、この妻、夫へも一切を語らず、そうさ、一年余りも過ぎた頃になって、やっと日々の語りの中で、さり気のぅ、夫へ語って御座ったものという。……

「……いや……まっこと、誠実なる女性(にょしょう)にして、これをまことの女丈夫と申すべきもので御座ろうと存ずる。……」

と、中野の同僚なる、私の知人の語って御座った。

尾形龜之助「夜の部屋」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

 夜の部屋

         尾形龜之助

 

靜かに炭をついでゐて淋しくなつた

 

夜が更けてゐた

 

 

 Yorunoheya  

 

 夜里的房间
         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

往火盆里悄悄地添炭,忽然感到寂寞

 

夜深了……

 

 

            矢口七十七/

耳囊 卷之九 若松町化杏樹の事

 

 若松町化杏樹の事

 

 牛込と大久保の境、若松町(わかまつちやう)といえるあり。右組屋舖の邊に、何年ともなく年古き杏樹(いてふ)あり。或年、枝葉繁りて近邊の者日の當る事なきを愁ひける故、杣(そま)を入(いれ)候て枝をきらせけるに、中端に至りけると、如何せしや、事馴し杣なるが眞逆さまに落(おち)て大きに怪我をなしける由。枝によりては、血を出す事も有(あり)、或は烟の立登(たちのぼ)る抔有て、近邊にて化杏樹(ばけいてふ)ととなへ恐れあへる由。右組屋舖に住(すめ)る與力の語りける。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。怪異都市伝説シリーズ。底本の鈴木氏注には、『明治になってからは稲荷の祠の社地となった。化け銀杏でなくて、実がならぬので馬鹿銀杏だなどといわれた』という、鈴木先生にしては珍しい、後日談のオチ附きの注である。

・「若松町」現在の東京都新宿区若松町。ウィキの「若松町」に、『新宿区のほぼ中央部に位置する。町域の北は喜久井町及び戸山、東は原町、南は河田町及び余丁町、西は新宿七丁目に接する。(地名はいずれも新宿区)南部を抜弁天通りが、地域北部を大久保通りが通っている。また北東部・原町との境界を夏目坂通りが通っている』。地名の由来は、『かつて当地の若松が江戸城に正月用の門松として献上されていたことからといわれている』とある。また古くは豊島郡牛込村であったが、宝永二(一七〇五)年に『江戸町奉行所の支配になり、牛込若松町が起立。商家のほかに武家屋敷などもあった。明治維新後、武家地等を併合』、明治九(一八七六)年には『三十人町・原町・市谷河田町の各一部を併合して町域が確定。大銀杏(賓祥寺一帯)・戸山前(総務省統計局一帯)・川向(東京女子医大一帯)という小字も存在していた』とある(下線やぶちゃん)。この新宿区若松町三八の一に現存する曹洞宗金谷山寶祥寺近くの小字の「大銀杏」というのが如何にもそれらしいが、どうも最早、存在しないようである。

・「組屋敷」与力組や同心組など、組に属する下級武士が居住していた屋敷地。単に「組」とも称した。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 若松町の化(ば)け杏樹(いちょう)の事

 

 牛込と大久保の境、若松町と申す所が御座る。

 ここにある組屋敷の辺りに、樹齢何百年とも知れぬ年古き銀杏(いちょう)の樹がある。

 ある年、枝葉(えだは)の繁りに繁ったによって、近隣のある者が、

「えらい、陽当たりが悪くなったじゃねえか。」

と気を遣って、自ずと木樵りを雇い入れ、枝打ちを命じた。

 ところが、木樵りが樹の中ほどまで登ったところが――一体、何事のあったものか――木登りならば朝飯前の如(ごと)馴れておるはずの、その木樵が、

――すってん! どう! ズン!

と、真っ逆さまに下に落ちて、これ、大怪我を致いたとのことで御座った。……

 この銀杏……

……樹下の枝によっては……剪ったそのそばから……たら~り……たらり……と……血を流すこともあり……

……あるいは……

……幹の股や瘤……洞(うろ)の辺りから……これ……妖しげな煙りのようなるものが……すう~っ……すう~っ……と……立ち昇登たりする……ことなんどの……たびたび御座ってからに……

 近辺にては、この樹を――化け杏樹(いちょう)――と称し、皆々、恐れ合って御座る由。

 その組屋敷に住もう知れる与力の、語って御座った。

 

尾形龜之助「戀愛後記」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

 戀愛後記

         尾形龜之助

 

窓を開ければ何があるのであらう

 

くもりガラスに夕燒けが映つてゐる

 

 

[心朽窩主人注:先の「戀愛後記」とは同題異篇。]

 

 Renaikouki_madowoakereba_2  

 

 恋爱后记

         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

如果打开窗户,外头能看见什么?

 

映在磨砂玻璃上的黄昏天空

 

         矢口七十七/

耳嚢 巻之九 蝦夷の俗男女掟の事

 蝦夷の俗男女掟の事

 

 蝦夷の俗、男一人にて女四五人を妻妾になすあり。夫妻の約をなせば、イシマと唱(となへ)候紐を以(もつ)て腰の所を結(ゆ)ふ由。言名付(いひなづけ)あれば、幼女にても右紐にて腰を結べば、奸淫等を男吟味なす時も、右紐を不解(とかざる)をもつて誓ひとなすよし。若(もし)男より頻りに申(まうし)かけ女も得心なれば、右紐を解(とき)てわたし、本夫吟味の節、かくかくの事にて他の男に隨ふ由語りぬれば、本夫密夫を捕へ、罰銀錢を以て償ふ由。償ふ事ならざるは、何とか云ふ小さき棒を以(もつて)敲(たたき)候定例(じやうれい)の由。且出生(しゆつしゃう)の小兒、寒中にも單物(ひとへ)ひとつにて、平日は丸裸にて肌に負ひあるく由。暴風に不堪(たへざる)故や、小兒育生希也(まれなり)。しかれども、身をかく習はせざれば用に不立(たたざる)故の事の由、川尻肥州物語りなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。前半の「イシマ」は、一種の愛する男女の相手への信頼関係(それは他の男を愛した場合に於いてでも成立しているところが凄いと私は思う。相手を騙すことが当たりまえの現代にあって私はこれは凄いことだと思うのである。これこそ神への素朴な畏敬に基づく良心の現われであるからである)で成立するところの半ばは精神的な、文字通り、貞操「帯」である。なお、六つ後にやや内容が詳しい「イシマの事」が重出するが、これだけ近いと、根岸がこの「イシマ」の風習にいたく興味を持ち(かくいう私も実は感動した)、ダブりを厭わず、再記録をなしたと見るべきか。

・「イシマ」ウィキの「貞操帯 (アイヌ)」によれば、アイヌ語では「ポンクッ」(小さな帯)・「ウプソルクッ/ウプショルクッ」(肌帯)・「ラウンクッ」(懐帯)などと呼ばれる(クッは帯の意)とある。以下、全面的に引用させて戴く(下線部やぶちゃん)。これらは、『かつてアイヌの成人女性が下腹部に装着していたひも状の装身具、あるいはお守り』で、『イラクサやツルウメモドキの樹皮を雪の上に晒して取った繊維で編んだ紐で、端が』三~八本の『房状に分かれており、房の先には黒い布片を下げる場合もある初潮を迎えた女性、あるいは結婚を控えた女性は一人前の女になった印としてこの貞操帯を腰の周りに締める。この貞操帯を常に締めることで貞淑な女との証しが立ち、同時に神々の加護を得られるとされた』。『形状は締め方はその女性が属する女系によって千差万別である。そのためアイヌの貞操帯は、女系の家紋としての意味合いも果たす』。『アイヌの貞操帯はヨーロッパの貞操帯と異なり、物理的な意味で女性の「貞操」を保つ効果は無く、着脱も完全に女性本人の自由である。しかし女性が自身の貞操観念の証しとして締める精神的な意味での貞操帯である。更科源蔵や知里真志保は自身の著作物でこの装身具を「貞操帯」と表現しているが、ヨーロッパの貞操帯とは概念が全く異なるため、誤解を避ける為に「守り紐」「腰紐」などの表記を取る日本語文献も多い』。『アイヌの貞操帯は、同じ女系の女性のみの装身具である。本人か母親、母方の祖母、母方のおばが制作した貞操帯でなくては身に着けられない。この貞操帯を同じくする女系を「シネウプソル」という』。『結婚後に姑と同じ形状の貞操帯を締めることはせず、必ず実家の母親と同じ貞操帯の形状を貫き、娘が生まれれば彼女にシネウプソルを継いでいく。娘のいない女性は息子の嫁に自身のシネウプソルと同じ形状の貞操帯を継ぐよう頼み込む例もあるが、嫁は表向きには姑の女系の貞操帯を受け入れつつも、実際には実家の貞操帯を用いる』。『女性の死者を葬る場合は、シネウプソルに類する女性が死者の貞操帯その他、死に装束を着させる。従って、嫁は姑の葬儀には関知しない。自身の女系の正しい貞操帯を身に着けて葬られた女は、死後に来世で母親に』。逢えるとされる。『婿の母親と嫁のシネウプソルが同じ組み合わせの結婚は近親婚とされ、禁じられている。タブーを犯せば、子が生まれなかったり、障害児が生まれると』考えられた。『アイヌの貞操帯は、貞淑な女性として身の証しを立てる象徴である。これを締めていなければ神に対する不敬とされ、神を拝んだりカムイプヤラ』(チセ《アイヌの伝統的な住居建築で掘立柱を地面に直に立て、柱と梁を組んで屋根を支えた寄棟造。建築材は木材と茅。》の一番奥に設けられた神聖な窓でカムイ(神)のみが出入りする)『に近づいたりできない。さらにアペフチ(火の女神)に失礼だとして火を焚けず、食事の支度もできない。また、狩りに出た夫の留守に貞操帯を外していれば、夫は猟運を失って不猟に見舞われるともいう』。『一方、常に身に着けていることで神の加護を得ることができる。コタン』(アイヌの「部落」)『に火事が迫ってきた折は、自身と同じく女性である火の女神に向けて貞操帯を振り回し、「女の帯ですよ神様。それに向かってくるのですか」と唱えることで火伏せをする』。『山中で野営する際、周囲に貞操帯を張り巡らしておくことで害獣の侵入を避けられる。また、ヒグマに遭遇した場合は素早く貞操帯を振り回し、以下のような呪文を唱える。

アイヌ語

メノコウプソロウ、メノコウプソロウ、メノコネネー。カッケマツクウプソロウネネー。メノコウプソロウ、カッケマツクウプソロウ、オウイカラカムイ。アイヌモシリカタ、パツクヌプルカムイ、イサンベネナ。エイチヤウレイシツク、エンロンノ。エンロンノチカラネコンヌプルカムイエネヤヤツカイ、エカシカムイワノ、エペタイサム、ナコンナ。

―日本語訳

これは女の懐にあるもので、火の神から授かった女の一番大事なものだ。女の大事な守り神で、これほど偉大な神様にはどこにもおらぬ。それが嘘だと思うならばこの俺を殺してみれ。いかにお前が偉くとも、魂が解けて消えるぞ。

火の女神と同じ貞操帯を持つ身であることを誇れば、熊でも退散するという。アイヌの伝承では「熊は蛇を嫌う」とされているため、細長い貞操帯を見た熊が蛇だと誤解して恐れるとも考えられる』。『また、どうしても勝たなければならないチャランケ(談判、裁判)に出る男は、妻の貞操帯を持って行く。貞操帯を振れば敵は悶絶し、波風も立たず丸く収まるという』。貞操帯の端は三本以上の『房状に分かれているが、位の高い女性が使用するものほど房の数が多くなり、最高は』八本とある。『そのため、「天上界の女神が地上に残した貞操帯が命を持ったものが、蛸である」との伝説がある』。『成長を経て貞操帯を身に締めた女性は、それを常に帯びていることが要求される。締めていない女性はだらしない女として非難の対象となり、嫁に出せば婚家から抗議される』。『アイヌ社会で姦通が発生した折は、男性が貞操帯を無理に外したか、女性が自ら外したかで強姦か和姦か判断する。貞操帯を締めていなければ女に落ち度があるとされ、事実上の強姦であっても男は罰せられない。しかし貞操帯を締めていた未婚女性や人妻と交わった男性は、一生にかかわるほどの制裁を受ける』。『なお、アイヌ社会において姦通を犯した者には、耳削ぎ、鼻削ぎ、あるいはアキレス腱切断の刑が執行される』。『貞操帯は決して他人に見せるものではない。男はもとより女に見せることも、話題にすることも憚られる。たとえ夫であっても外すには妻の許可がいる。また、山中で卒倒していた女を夫以外の男が介抱した際、蘇生した女は男に貞操帯を見られたものと理解し、男に正式な妻がいる場合でもその男の妻になる場合があったという』。『常時締めていることが要求される貞操帯だが、自身の出産の折は血のケガレを避ける為に貞操帯を外し、火の傍に近づかない夫が死んだ折はしばらく喪服で暮らすと共に、貞操帯を逆に締めるか新しく作り直す』。『村上島之丞の『蝦夷島奇観』には「女は腰に細き緒を六重結ぶ。いやしき者は三重結べり。成長の後もおなし」。との記載があり』、十八世紀半ばには『すでに貞操帯を締める風習があったことがうかがえる』。『しかし北海道の開拓の歴史と共に締める習慣もすたれ、昭和の中期には』八十歳代以上の女性のみが使用している状況だったとある。この下線部を総合すると、信義の中にあっては緊急避難としてこの紐を解くことがかなり自由に許されていることが分かる。また、本文では不法な姦淫であった場合の相手の男への罰が思いの外、「罰銀錢を以て償ふ由。償ふ事ならざるは、何とか云ふ小さき棒を以敲」とソフトであるが、本来(は相当な肉体刑が下されることになっていたことも分かる但し、これも建前とすべきかとも思われる。アイヌは闘争を好まない民族であったことは、よく知られる)。神聖にして秘具であるだけになかなか見出せなかったが、グーグル画像検索「ラウンクッ」に数枚それらを見出せるようだ。……私も神聖な領域に足を踏み入れることを嫌う人間である……御自身の目でどれがそれかは発見なさるがよかろう……

・「男一人にて女四五人を妻妾になすあり」ネットジャーナリスト協会公式サイト内の「北の国からのエッセイ」の「女1人 未開の地を行く(4)」によれば、明治一一(一八七八)年に北海道を旅した知られたイギリス人女性旅行家イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird 一八三一年~一九〇四年)は瞥見したアイヌたちを「海岸アイヌ」と「山アイヌ」に区別し、「山アイヌ」は一夫多妻制であるのに対し、「海岸アイヌ」は一夫一婦制であること、言語は発音が少し違うのを除けば、ほとんど変わらないと書いている、とある。ネット上を見ると、死んでも治らぬ馬鹿な差別主義どもがアイヌが一夫多妻だったことを知っているかなどと鬼の首を獲ったように書き込んでいるのを見かける。しかし、ネット上の信頼し得る複数の記載によれば、江戸時代までアイヌではコタンの有力者が二人以上の妻を持つことを許す文化もあったとされるが、近代以降は制度・習慣としてはなく、いわゆる妾を持つケースはあるものの、それは和人の世界でも全く変わらないとあり、私も全く以ってその通りだと思うのである。因みに、私はアイヌ民族は原日本人の一民族であり、我々の祖先こそが実に侵略者であったと考ている人間である。不倫やそれに基づく殺人が横行してそうしたゴシップを消費して面白がっている現代人の方が、自然の神への畏敬を忘れ、おぞましい科学技術を辛抱して自身を近親相姦するに等しいクローン技術を待望している文明人の方が、遙かに救われず、愚劣且つ野蛮である

・「若(もし)」は底本の編者によるルビ。

・「川尻肥州」底本の鈴木氏注で、松前奉行の河尻肥後守春之(はるの)とする。現代語訳では訂した。彼については既に耳嚢 巻之六 古佛畫の事で注したが、原話を語った責任者として再掲しておきたい。しかし、この河尻春之という人物はなかなか魅力的な人物である。ウェブサイト「定有堂書店」のブック・レビューにある岩田直樹氏の「今月読んだ本」の一二〇回「近世日本における自然と異者理解-渡辺京二『逝きし世の面影』『黒船前夜』を読む-(下)」によれば、文化四(一八〇七)年、幕府は蝦夷地全体を直轄地としたが、その際、函館奉行は松前奉行と改称され四人制となり、翌年に河尻春之・村垣定行・荒尾成章の三人制となった。翌文化五(一八〇八)年、河尻春之は荒尾成章とともに、蝦夷地警衛について老中から諮問を受けた際、二人は次のような意見を上申したという。文化三(一八〇六)年と翌年にかけて樺太のクシュンコタンや択捉島のシャナを襲撃した『フヴォストフらの「不束」(暴行)を正式に謝罪すれば、交易を許してもよい。レザーノフを長崎で軟禁状態にして半年も待たせ、揚げ句の果て通商を拒否したのは、国家使節を迎える上で「不行届の義」であった』。『むろん交易は国法に叛くものである。しかし、ロシアの辺境と松前付属の土地との間であれば、すなわち国同士ではなく辺土同士であれば、交易をしても「軽き事」と見なすことが出来よう。ロシア極東領の食糧難を鑑みて許可すべきである』。『蝦夷地全域の警護がどれだけ非現実的か』。『今年の警護役の仙台・会津両藩は併せて』八十万石もの大藩であるのに、僅か三千人の兵を出すだけで『財政破綻の危機に瀕している。「ロシアなど恐るるに足らぬ」などと主張するのは、民の命を損なうことではないか』。『河尻と荒尾は、天命・天道に言及する。心を平静に保ち、ロシアと日本の「理非如何と糺し、…明白にその理を尽すべく候。もし、非なる処これありと存じ候ても、これを取りかざりて理を尽さず、命にかかわり候に及び候ては、国の大事を挙げ候とも、天より何と評判申すべきや」』(二七六頁)。『老中たちは、松前奉行の大胆な上申書を咎めるどころか、再来が予想されるフヴォストフに与える返書にその趣旨を取り入れた』という(以下はリンク先をお読みあれ)。河尻春之はあの幕末の動乱に向けて、自ら開国への水掻き役たらんとしたのである。そういう意味で、この驚くべき上申書はもっと知られてよいであろうと私は思うのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蝦夷(えぞ)の男女の掟(おきて)についての習俗の事

 

 蝦夷の習俗にては、男一人にて女四、五人を妻や妾とするという。夫婦の契りを成すと、「イシマ」と呼び慣わすところの、紐を以って、腰の所を結ぶという。

 許嫁(いいなづけ)があれば、幼女であっても、この紐を以って腰を結べば、姦淫など男がもちかけんとした際にても、この紐を決して解かぬことを以って、夫への貞節の誓い、証しと成すと申す。

 もし、男より頻りに不義をもちかけられ、またその既婚女性の側も、それを受け入れんとする場合には、この紐を解いて密夫(みっぷ)へと渡し、妻は本来の夫に、その有体の事実を正直に告白した上、これこれの事情を以って、その男に随うこととしたる旨を語るという。

 それを受けて、本来の夫の方は、その密夫を探し出して捕え、罰としての銀銭を以って妻を奪わるることへの代償と成す、とのことで御座る。

 万一、密夫がその罰銭(ばつせん)を償(つぐの)うことが出来なんだり、しようとしせぬ場合には、何とかと申すところの――名を失念致いた――小さき棒を以って、密夫をしたたかに打擲して罰するを、これ、定例(じょうれい)と成す、と申す。

   *

 かつまた、別の習俗にて、誕生したばかりの乳児は、寒中にあっても単衣(ひとへ)一枚を纏わするだけにて、普段家内にあっては丸裸(まるはだか)にて、母が直接、肌に背負うて立ち働く、と申す。

 されば、厳しき寒風に堪えざることの多きが故か、小児が健やかに育つこと、これ、アイヌにては稀なる由。

 しかれども、身をこのように馴れさせねば、極寒の地に於いては、生くるに若かず、育ったとしても役立たずと相い成ればこそ、かく仕儀致す、とのこと。

 松前奉行を勤められたる、川尻肥後守春之(はるの)殿が、物語られたことで御座る。

耳嚢 巻之九 鯉煮ようの事 / 蚫和らか煮の事 (二話)

 鯉煮ようの事

 

 鯉は、枝ある骨多くして食するに煩しかりけるを、或人かたりけるは、蜆(しじみ)の貝内の紫なるを鯉一本に三つ程入(いれ)て、味噌汁にて煮へる程に煮てさて眞那板(まないた)の上へ取出し置候得(おきさふらえ)ば、上へ骨顯(あらは)れ候を毛貫にて拔(ぬき)とり、扨赤味噌にて本途(ほんと)に鹽梅(あんばい)して煮る由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。久々の調理法シリーズ煮方編。現行の調理法に、このようなものは発見出来なかった。カルシウムが溶け出して、ということになろうが、果たして? 専門家の御教授を乞うものである。

・「蜆の貝内の紫なる」斧足綱マルスダレガイ目シジミ科シジミ属 Corbicula の内、本邦産(一属七種/保育社昭和三四(一九五九)年刊・吉良図鑑)の中で一般的な種は以下の三種で、ここでいう「紫なる」とはシジミ(この場合、強い紫色という点からマシジミ Corbicula leana と(京阪ならばセタシジミ Corbicula sandai でもよい)の、まるまるの殻一個を「三つ」という謂いである。

●ヤマトシジミ Corbicula japonica

 全国の汽水砂泥底に棲息。雌雄異体卵生。殻長は三〇~三五ミリメートル。以下の二種に比すと、殻が有意に前後に長く、殻頂が小さい。殻の内面が白色であることを特徴とし、これで概ね識別が可能である。僅かに窩心部(殻頂内面部分)に紫または橙色が淡く染み出ている(稚貝の間はやや紫色をしているが、大きくなるにつれて白色となる)。本邦で食卓に供される種は殆んどがこれである。

●マシジミ Corbicula leana

 全国の淡水砂礫底や砂底に棲息(泥底は好まない傾向がある)。雌雄同体で卵胎生であるが、自身の精子の情報のみで発生する動物界では極めて稀な雄性発生を行う(但し、繁殖様式自体は十分に解明されていない)。殻長三〇~三五ミリメートル、時には四〇ミリメートルに達する個体もある。殻の内面は紫色をなす。北海道を除く、本邦全土に棲息していたが、業者の砂抜き作業後の排水の不用意な廃棄等によって外来種である本種に酷似した淡水産のタイワンシジミ Corbicula fluminea などが侵入拡大し、本種の棲息域を圧迫、棲息総数が激減して、通常の流通で本種を見かけることは非常に稀となってしまった。

●セタシジミ Corbicula sandai

 琵琶湖固有種の淡水種。水深十メートル以浅の砂礫底・砂泥底に棲息。寿命は七~八年ほどとされている。雌雄異体卵生。殻頂部が著しく膨大して高く秀でた三角形を呈するが、これはマシジミの特徴でもあり、両者の識別は素人には困難。殻の内面は藤色または濃紫色で、時に橙色や紅色も呈する。かつては瀬田川で多量に漁獲されたことからかく呼称するが、現在では瀬田川では殆んど獲れない。棲息総数が激減しているため、滋賀県は漁業者らと連携して種苗生産放流技術の開発・稚貝の生産・漁場放流・湖底耕耘と水草除去による放流漁場の環境改善活動を行ってはいる。かつて諏訪湖に移植を試みたことがあるが、繁殖しなかった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鯉の煮方の事

 

 鯉は、細かなる枝様(えだよう)の骨の多くして、食するに煩わしいもので御座るが、ある人の語って御座ったに――

一、蜆(しじみ)の、貝の内には紫色の部分が御座るが、あの紫の鮮やかなる貝殻を撰(えら)み、鯉一本につき、都合、蜆の貝殻三つほどを入れて、まず、味噌汁に致いて、ぐつぐつと煮えるほどにまで、煮るので御座る。

二、そのように下処理を致いた鯉を、さても俎板の上へと取り出しておいて御座れば、自ずと、鯉の体の表より、かの細かな骨々が、悉く、これ、皮を貫いて生えるように出でて参る。

三、されば、それを毛抜きにて抜き取るので御座る。

四、その上で、徐ろに赤味噌にて本格的に普段通り、調味塩梅致いて煮れば、これ、よろしゅう御座る。

 

 

 蚫和らか煮の事

 

 蚫(あはび)を和らかに煮るに品々の法あれど、貝をはなし、こしきの内、湯の不附(つかざる)樣にして蒸し候て、さて鹽梅(あんばい)醬油を以(もつて)煮れば、和らか成(なる)こと綿の如しと、水野氏傳授なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:調理工夫煮方編二連発。

・「こしき」厳密には弥生時代以降に米・豆などを蒸すのに用いた道具で、底に数個の湯気を通す小穴を開けた深鉢形の土器で、別に湯を沸かした釜を用意し、その上に載せて用いる。奈良時代頃からは木製のものも現れたが、後に円形や方形の木製蒸籠(せいろう)にとって代わられた。ここは蒸籠と同義である。

・「水野氏」これより前の直近話柄を調べると「水野」姓では耳嚢 巻之八 すあまの事に水野若狭守忠通(ただゆき)がいる。彼は根岸の情報源と考えてよく、根岸より十歳年下で「氏」とするのも納得がゆく。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鮑の柔らか煮の事

 

 あの硬き鮑を柔らかに煮るには、各種の手段工夫のあれど、

――貝殻より身を剥き離したものを、蒸籠(せいろ)の内に、串や箸を差し渡したる上などに静かに置くなど致いて、決して沸騰せる湯の、直接に鮑の身につかざるように成した上、徐ろに蒸し成し、さても、それより普通通りの塩梅や醬油を以ってして煮れば、柔らかになること、これ、綿の如し。

 と、これは水野氏よりの伝授で御座った。

2015/01/10

耳囊 卷之九 御府内奇石の事

 

 御府内奇石の事

 

 牛込山臥町に酒井靭負佐(ゆぎへのすけ)下屋舖(やしき)あり。右は先祖空信の頃より拜領にて、むかし御成(おなり)などもありて古き屋舖なり。右屋館内、家來並(なみ)にて長安寺といふ寺もあり。其邊に馬石(うまいし)と號し、馬の形なる岩石あり。胴に鐡砲の打拔(うちぬき)候やう成る穴ありとかや。昔大き成(なる)馬、夜る夜る出て人々驚(おどろき)けるを、主人より命じけるや錢砲にてうちたる、其玉疵(たまきず)の由、今以顯然たる由、右邊の人かたりぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:都市伝説連関としておく。

・「御府内」「ごふない」と読む。江戸町奉行支配の及ぶ江戸市街区域を言う。文政元(一八一八)年に、東は亀戸・小名木村辺、西は角筈村・代々木辺、南は上大崎村・南品川町辺、北は上尾久・下板橋村辺の内と定められた。

・「牛込山臥町」牛込山伏町が正しい。岩波の長谷川氏注に、『新宿区市谷山伏町・北山伏町・南山伏町』とある。この附近(グーグル・マップ・データ)。

・「酒井靭負佐」「靭負」は本来は「ゆげひ(ゆげい)」で「靫負」とかくことが多い。「ゆぎへ(ゆぎえ)」「ゆぎおひ(ゆぎおい)」とも読む。「ゆきおい」の音変化で古くは「ゆけい」と発音したらしい。古くは大化の改新以前、靫(ゆき/ゆぎ)を負って宮廷諸門の警護に当った者を指し、後にそこから衛門府(えもんふ:律令制の官司の一つで宮城諸門の警備・部署巡検・行幸先駆けなどに当たった。その職員は多く検非違使(けびいし)を兼任した。靫負司(ゆげいのつかさ)。)及びその職員を指したか、ここは遠くそこに発した形式上の官職名である。底本の鈴木氏注には、『忠進(タダユキ)。若狭小浜城主、十万三千五百石』とある。ウィキの「酒井忠進」によれば、明和七(一七七〇)年生まれで文政一一(一八二八)没。老中で若狭小浜藩第十代藩主・小浜藩酒井家第十一代。越前敦賀藩主酒井忠香の七男であったが、第九代小浜藩主酒井忠貫の養嗣子となり、文化三(一八〇六)年に家督を相続、幕府では寺社奉行・京都所司代・老中を歴任、文化一二(一八一五)年に焼失した日光東照宮五重塔を文政元(一八一八)年に再建した、とある。

・「空信」底本の鈴木氏注に、『空印の誤。酒井忠勝の致仕号』とある。ウィキの「酒井忠勝によれば、徳川家康忠臣として知られる酒井忠利の子で、天正一五(一五八七)年~寛文二(一六六二)年没。武蔵川越藩第二代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。第三代将軍徳川家光から第四代将軍徳川家綱時代の老中・大老とある。

・「長安寺」底本の鈴木氏注に、『深谷山。浄土宗、知恩院末。このあたりは新宿区信濃町のうち。家譜に忠勝を、「牛込別荘の長安寺に葬る」とあり、もと同邸内であったことが知られる』とある。岩波の長谷川氏注には『新宿区左門町』とあるが、鈴木氏注の通り、新宿区信濃町である(左門町はその北隣)。公式サイトによると、江戸幕府が開幕される以前の天正一五(一五八七)年に浄土宗総本山知恩院末寺として深誉利貞によって市谷本村町に最初に創建されたとあり、『当時は、太田道灌が江戸城を築城し、その周辺の整備を進めていた』頃に当たり、『その後、江戸城の周りを徳川家の屋敷町にし、市谷本村町は尾張徳川家の屋敷地いわゆる御用地とされたため、その地に創建された長安寺は』、明暦二(一六二五)年に『現在の地に移転し今に至って』いるとあるから、長谷川氏の注はやはり誤りである。因みに公式サイトには酒井家「家來並」という記載は載らない。歴史や寺格から言っても、私は「家來並」というのはちょっと言い過ぎのように思われる。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 御府内(ごふない)の奇石の事 

 

 牛込山伏町(やまぶしちょう)に酒井靭負佐(さかいゆきえのすけ)忠進(ただゆき)殿の下屋敷が御座る。これは、酒井家御先祖酒井忠勝空印(くういん)殿の頃より拝領の屋敷地にして、古えは将軍家のお成りなども御座った、由緒正しき古き屋敷で御座る。また、屋敷内(うち)には、酒井家家来格の扱いとさるる半ば私(わたくし)の長安寺という浄土宗の寺も御座る。

 さて、その下屋敷辺りに、通称「馬石」と称する、馬の形をしておる岩石がある。

 しかも、その石の、馬の胴の辺りに相当する箇所には、これ、鉄砲にて撃ち抜いたようなる穴があるとか申す。

 何でもその昔、大きなる妖しき馬が、夜な夜なその辺りに出でては、近隣の人々を恐懼(きょうく)させて御座ったを、当時の酒井家御当代当主よりの命ででもあったものか、その妖馬を鉄砲にて撃ち殺したとか申し――その穴は――これ――その時の弾傷(たまきず)の由にて――今以ってくっきりとそれが残りおると、近辺に住まう御仁の語って御座った。

 

耳囊 卷之九 不思議に神像を得し事

 

 不思議に神像を得し事

 

 武州府中に西念寺といへる寺院あり。同所國分寺の末院にありけるや、當住職は本所羅漢寺の隱居にて、西念寺へ請招せしや當時住職せし由。羅漢寺を隱居の後、右寺より拾町餘りも隔(へだた)りし場所に庵室(あんじつ)ありし故、右庵に二三年も住居(すまひ)せしが、西念寺住職後文化五辰年の六七月の頃、夢に右庵持佛堂の内に大神宮の神像あり。右像を此所(このところ)へ持來(もちきた)りて安置可致(いたすべし)と見しが、取用(とりもちふ)べきにもあらずと其儘に成(な)し置(おき)しに、引續(ひきつづき)同樣の夢を見し故、もしや神の告(つげ)給ふ所無相違(さうゐなき)やと彼(かの)庵室に至り案内を申入(まうしいれ)けるに、山の手より尋來(たづねきた)り給ふ人にや、こなたへ入らせ給へと答へける故、我等は御身に尋(たづぬ)べき事ありて來れり、當所に大神宮の神像有之哉(これあるや)と尋ければ、されば其事にて御身の尋給ふを待居(まちゐ)たりと云ふ故、大きに驚きて、我はかくかくの夢を打續(うちつづき)見し故、もしおん心當り有(あり)やとまかりし旨申(まうし)ければ、彼者も此程打續御身尋來らば右像を可讓(ゆづるべし)との告なりとて、右の木像を取出(とりいだ)し與へける故、懷中の南鐐銀(なんりやうぎん)を取出し、報恩にもあらざれども聊(いささか)是を佛前へ奉納と申(まうし)ければ、神佛の告にて讓り申上(まうすうへ)は何歟(か)禮謝に及ぶべきと斷(ことわり)、不請(うけざれ)ども、左にあらず、行脚の路費(ろひ)たし合(あひ)にもなし給へと、せちに申越(まうしこし)てあたへ持歸(もちかへ)り安置なせしを、其土老(どらう)の案内にて、我知れる小野某まのあたり見しに、甚だ古く、岩屈(ぐわんくつ)の間(あいだ)束帶にてたち給ふ銅像の由、右小野氏語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、やはり神仏像の霊験譚で噂話の流水感が心地よく、また、夢が重要な契機となる点では、三つ前の「夢に見て關羽の像を得し事」と連関する。

・「西念寺」底本の鈴木氏注に、『不詳。府中附近には同名寺院を見ない。大日本寺院始真によれば、元八王子村に時宗の西念寺があるが、昭和三十八年発行の宗教法人名簿には記載がない。また小金井市に本願寺派の西念寺があるが、羅漢寺の末寺とするといずれも宗旨違い』とある。

・「羅漢寺」底本の鈴木氏注に、『黄檗宗。もと本所五つ目通り大島村にあった。いま下目黒三丁目。宗教法人名簿では独立寺院となっている。(なお国分寺は新義真言宗)』とある。私は大学二年から三年の間、目黒区東山に下宿していたので、この寺は馴染み深い。五百羅漢の中のおどろおどろしい貘像が大好きで、何度も夕暮れに見に行ったものである。

・「拾町」約一・一キロメートル。

・「文化五辰年」西暦一八〇八年。「卷之九」の執筆推定下限は文化六年夏。ホットな噂話である。

・「大神宮」天照大神(あまてらすおおみかみ)。言わずもがな、当時は神仏習合である。

・「南鐐銀」南鐐二朱銀のこと。以下に記す通り、一両の八分の一。『江戸時代に流通した銀貨の一種で、初期に発行された良質の二朱銀を指す。形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されている。「南鐐」とは「南挺」とも呼ばれ、良質の灰吹銀、すなわち純銀という意味であり、実際に南鐐二朱銀の純度は』九十八パーセントと『当時としては極めて高いものであった』。明和九(一七七二)年、『田沼意次の命を受けた勘定奉行の川井久敬の建策により創鋳される。寛政の改革時に一旦鋳造禁止されたが、程なく発行』再開されている(以上、ウィキの「南鐐二朱銀」を参照した)。

・「報恩」特に仏家では、仏や祖師などの恩に報いるために法事などを行うことをかく言うが、ここは本来の恩返し、謝礼の意である。

・「小野某」小野姓の人物は以前にも出るが「某」と濁した人物はない。

・「岩屈」底本には「屈」の右に『(窟)』と訂正注する。

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 不思議に神像を得たる事 

 

 武蔵国府中に西念寺と申す寺院がある。同所国分寺の末院ででもあったものか、当住職は、これ、本所にある羅漢寺元住持で御座られた隠居で、西念寺へ招聘せられたものか、当時は、その西念寺の住職を致いて御座られた由。

 羅漢寺を隠居の後、かの寺より十町あまりも隔たった場所に庵室(あんじつ)のあって、その庵に二、三年も住まいなさっておられたとか申す。

 さてもその後(ご)、西念寺の住持となられて後(のち)、文化五年辰年の六、七月の頃合い、

「……かの貴僧がおられたる庵(いおり)の……持仏堂の内に……大神宮(だいじんぐう)の神像……これ……ある……この像を……この西念寺へ持ち来たって……安置致さるるように……」

という、声のみが響き渡る夢を、ご覧になられた。

 されど、流石に夢のことなれば、

「……まず……どうこうすること、これ、憚らるることか。……」

と、そのままに、うちやっておられた。

 ところが、それからも、引き続き、毎日のように、同じ様なる夢を、これ、ご覧になられたによって、

「……これは……もしや……まっこと、神のお告げになられておらるるに……そうじゃ! これ! 相違あるまい!」

と、お思いになられ、遂に意を決せられ、かの旧知の庵室(あんじつ)へと参って、案内(あない)を乞われたところ、

「――山の手より尋ね来られたるお人では御座いませぬか?――どうぞ! どうぞ! こなたへお入りなされませ――」

と相手があたかも自分の来るのを既にして知っておるように答えたによって、不審に思いつつも、

「……実は拙僧、御身にお訊ね致したきことの御座って参った。こちらに大神宮天照大神(あまてらすおおみかみ)の神像――これ――あらせらるるか?」

と訊ねたところが、庵主(あんじゅ)は、

「――されば! まさにそのことにて、御身のお尋ね下さるるを心待ちに待っておりましたのじゃ。」

と応えたによって、大きに驚き、

「……拙僧、かくかくの夢をうち続きに見申したによって……もしや、こちらにお心当たりの儀、これあるやなしやと、かくも罷り越したる次第……」

といったことを申し述べたところ、かの庵主も、

「――我ら儀も、このほど、うち続いて、『……御身の訪ね来たらば……この像を譲るように……』との夢の告げを、日々受けて御座いました……」

と申しつつ、その大神宮の木像を取り出だし、かの僧へとさし出だいた。

 されば、西念寺住持、懐中致いて御座った南鐐銀(なんりょうぎん)一枚を取り出だし、

「……これは、その……報恩……いや、謝礼と申すほどのものにては御座らねど……いささかでは御座いまするが……一つ、当庵の仏前への奉納となしたく、存じまする……」

と、さし出だいた。

 しかし庵主は、

「――神仏のお告げによって、譲るべき方へと譲り申した上は、何をか、謝礼に及ぶべきことの御座いましょうや。」

と断って、受けようとは致さなんだ。そこで住持は、

「――さにあらず。憚り乍ら、僅かでは御座るが、御貴殿の、これよりの行脚(あんぎゃ)路銀の、足し加えにも、なして下さるれば本望。」

と、切(せち)に言い説いて受け取らせた上、大神宮の尊像を西念寺へと持ち帰って安置申し上げられたと申す。

 

 私の知れる小野某(なにがし)殿が、かの府中の地の古老の案内(あない)にて、目の当たりに、その大神宮の尊像を見て御座ったが、はなはだ古いものにして、まさに天の岩戸の如き、岩窟の間に衣冠束帯の出で立ちにて、お立ち遊ばされておらるるところの、銅製の、神々しき像で御座った由。その小野氏当人よりの聞き書きで御座る。

耳囊 卷之九 駒込富士境内昇龍の事

 

 駒込富士境内昇龍の事

 

 寬政五辰八月廿五日の事なる由。駒込富士境内に護摩堂あり、淺間(せんげん)の社(やしろ)其外寺よりは少しはなれけるに、右堂へ年若き僧至りて、香花(かうげ)抔始末なして不動尊祈念なしけるに、頻りに不動は不及申に(まうすにおよばず)、こんがら精高(せいたか)十二天各(おのおの)動きけるゆゑ、甚(はなはだ)物凄くなりて早く堂を立出(たちいで)しに、右堂の脇に大木の松有(あり)しが、一本の處、二本同じ樣に連(つらな)り寄りて立(たて)るゆゑ、怖しき儘本堂の前に至り遠く是を見しに、一本の松は段々上へ上(のぼ)る樣(やう)に見へし。先のほのうを燃出(もえいで)て、見るも中々恐ろしかりしに、黑雲立(たち)おほひ、右地をはなるゝと見しに、怖(おそろ)しき物音して大雨頻りにふり出(いだ)しとや。暫く過ぎ雨はれて彼(かの)所を見しに、堂も一丈程地中へおち入りけると、其所(そこ)のもの來りて語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、ここ四つ、本格・変格の怪異譚が並び、流れが澱まない、よい話柄配置ではある。

・「駒込富士」底本の鈴木氏注に、『いま富士神社という。文京区駒込神明町。もと本郷にあったが、そこに前田邸が設けられたとき現在地に移された。富士山の形を模した小丘で、六月朔日の祭礼には、参詣人が富士登山の型を行なった』と記す。これは現在は正式には駒込富士神社と呼ぶようである。現住所は東京都文京区本駒込五丁目(鈴木氏の注のそれは旧住所)。ウィキの「駒込富士神社」によれば、『祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)』で、『建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚』『の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている』。伝承によれば、天正元(一五七三)年に『本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請』したとされ、寛永五(一六二八)年、『加賀前田氏が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町』に移して、その後に『現在地に合祀した(時期不詳)』とある。『江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消のシンボルマークを彫った石碑が数多く飾られている』。『初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれた』。縁日の山開き(現在六月三十日から七月二日)では『土産の茄子が人気だったが、現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、土産の茄子も売られていない。鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている』とある。この「富士塚」というのは富士信仰に基づく富士講によって、江戸で各所に築かれた富士山に模した人工の山や塚のことをいう。以下、富士講について、ウィキの「富士講」から引く。狭義の富士講は、戦国から江戸初期に富士山麓の人穴(ひとあな:静岡県富士宮市。)で修行した角行(かくぎょう)『という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。のちに旺心(赤葉庄佐衛門)らが初の講社を組み』、(以下、箇条書きを繋げた)。『良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。稼げは福貴にして、病なく命長し。怠ければ貧になり病あり、命短し。』という三つの掟(おきて)を立てている。享保期以降、富士講の指導者であった村上光清(こうせい)や食行身禄(じきぎょうしんろく)によって発展し、『村上は主に大名や上層階級から支持され、家業を真面目に勤めることが救いとなると説く食行は江戸庶民から熱狂的に支持』を受けるようになった。『身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は既存の宗教勢力に属さないもので、食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力であった』。『一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には』御師(おし:特定の寺社に所属し、その社寺への参詣者の案内・参拝・宿泊などの世話をする者を指す。特に伊勢神宮のそれは他と区別して「おんし」と呼んだ)の『集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に宝永の大噴火以降復旧に時間がかかった大宮口や須山口は、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわった。最盛期では、吉田口には御師の屋敷が百軒近く軒を連ねていたほどであったのである。数多くの講社があり、江戸時代後期には』前に出た通り、「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどに爆発的流行をみた。『富士講は、江戸幕府からはその宗教政策上好ましくないと見なされしばしば禁じられた。が、死者が出るほど厳しい弾圧を受けはしなかった』。因みに、『明治以後、神道勢力からの弾圧が非常に激しくなった。その結果、やむなく富士講のその一部は教派神道と化し、食行の流れを汲む不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教などが生まれ』たが、『特に戦後、富士山やその周辺が観光地化され、登山自体がレジャーと認識されるようになり、気軽に富士登山をできるようになると、登山の動機を信仰に求めていた富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は』昭和三九(一九六四)年以降は行われておらず、富士講自体すっかり衰退し、講員の数もめっきり減少、『東京の街中などで講員が活動する姿を見ることはまず無くなったが、現在でも富士山に行けば富士講講員らが巡礼する姿を見ることができる』とある。この信仰に基づき、講中によって金を出し合って、日常の尊崇と、実際の富士に参拝登山出来ない婦女子や老人などために築造されたのが富士のミニチュアたる富士塚である。最後にウィキの「富士塚」からも引いておく。造営方法としては主に、実際の富士山の溶岩を積み上げたものと、既に存在した丘や古墳を利用したものとがあり、『頂上には浅間神社を祀り、関東地方を中心に分布する。富士山の山開きの日』(現在では七月一日)に『富士講が富士塚に登山する習慣がある。基本的に富士塚の上から富士山をのぞむことができるように築造されるが、近年の家屋の高層化に伴い富士山を直接視認できるものはほとんどない。近年では劣化を防ぐため普段は立ち入ることができない富士塚も多いが、前述の富士山の山開きに合わせて』六月末〜七月初めか、『あるいは催事などの際に登ることができるものもある』。『富士塚の名称としては後ろに富士を付して、「○○富士」のように呼ばれることがある』。安永九(一七八〇)年、『高田籐四郎(日行)が江戸の高田に建てたものが最古であるとされる。この富士塚は文化財となっており、富士講や富士信仰を知る上で重要な史蹟であったが』、昭和三九(一九六四)年頃、『早稲田大学のキャンパスを拡張』『する際に破壊され、近隣の水稲荷神社に移築されている(現在は富士講が行なわれる日にのみ入ることができる)』。『一方で、当時の場所に現存する富士塚としては東京都渋谷区千駄ヶ谷の鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士(後述の江戸八富士の一つ)が都内最古のものとなっており、東京都の有形民俗文化財にも指定されている』。『江戸市中の有名な富士塚は特に「江戸八富士」』と呼ばれた。現存するものでは『江古田の富士塚(東京都練馬区小竹町の茅原浅間神社境内)』・『豊島長崎の富士塚(同豊島区高松の富士浅間神社境内)』・『下谷坂本の富士塚(同台東区下谷の小野照崎神社境内)』・『木曽呂の富士塚(埼玉県川口市東内野)』の計四基の『富士塚が国の重要有形民俗文化財に指定されている』。ここに出た「江戸七富士」は品川富士(品川神社境内)・千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)・下谷坂本富士(小野照崎神社境内)・江古田富士(茅原浅間神社境内)・十条富士(富士神社境内)・音羽富士(護國寺境内)・高松富士(富士浅間神社境内)で、この駒込富士神社は含まれていない。

・「寬政五辰」寛政五年は癸丑(みずのえうし)で誤り。岩波の長谷川氏注では、『この前後の章に文化五年(戊辰)の記事あり、文化五年の誤りか』と注しえおっれるが、確かに次の「不思議に神像を得し事」には『文化五辰年』と出るものの、前と言うのは六つも前の「稻荷奇談の事」で、これを『前後』と言うには、やや問題がある。因みに、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、この通りなら十六年も前のこと、長谷川氏が推測する通りなら、極めてホットな都市伝説となり、その点では――民俗学上の噂話としての通例特徴という観点からは――長谷川氏の言う文化五年説を採りたくはなるのだが、考証的には従えない。訳では「辰」を除いて寛政五年で訳した。因みに寛政五年八月二十五日ならばグレゴリオ暦では一七九三年九月二十九日、文化五年のその日ならば一八〇八年十月十四日に相当する。

・「護摩堂」護摩をたき祈禱をする建物で仏教施設であるが、この時代は神仏習合で、先の駒込富士神社の記載には全く出ていないが、別当寺が併存していた。以下の諸仏から見ても不動明王を主尊とした相当数の仏像がある、相応の伽藍があったものと推測される。恐らくは皆、おぞましき明治の廃仏毀釈で消失してしまったのである。

・「淺間の社」富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(あさまのおおかみ)又は浅間大神を記紀神話に現れる木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と見て、これを祀った社。以下、ウィキの「浅間神社」によれば、富士山は古くは「ふじがみ」「福慈神」「不尽神」と記載されるような霊妙な日本鎮護の神山であった。奈良末から火山活動が活発化すると、火山の神浅間神(せんげんしん)としての浅間(せんげん)信仰に変化して、全国的に流行るようになった。「浅間(あさま/せんげん)」という語の『語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる』(「あさま」の方が古称で、もう一つの「せんげん」の方は中世以降から用いられたとされる)。『浅間神と木花咲耶姫命が同一視されたのには木花咲耶姫命の出産が関係している。中には木花咲耶姫命の父神・大山祇神や、姉神・磐長姫命を主祭神とするものもあり、それらを含め』、現在でも全国に約千三百社の『浅間信仰の神社がある。これらの神社は、富士山麓をはじめとしてその山容が眺められる地に多く所在する。その中でも特に、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。のち、浅間神は神仏習合により「浅間大菩薩」(本地仏:大日如来)とも称された』。『祭祀の特徴として、主要な浅間神社は山中に祀られた山宮と麓の集落に鎮座する里宮が対をなして祀られることが挙げられ』、『これは、山宮が富士山を遥拝する場所、里宮は湧水池・湖沼周辺で鎮火を祈る場所であると解されている』とある。

・「こんがら」矜羯羅童子(こんがらどうじ)。不動明王の従者八大童子の第七。不動三尊の一人であり、制多迦童子(せいたかどうじ。次注参照)とともに不動明王の脇士として不動明王の左(向かって右)に祀られる。参照したウィキの「矜羯羅童子」によれば、『「矜羯羅」とは、サンスクリットで疑問詞の矜(kim)と、「作為」の意味である羯羅(kara)を合わせたもので、直訳すれば「何をするべきかを問い、その命令の通りに動く」という意味であり、奴隷や従者を指す普通名詞であるが、矜羯羅童子の場合は主人に隷属するというよりは仏法に対して恭順であるさまを表す。十五歳ほどの童子の姿をしている』とある。

・「精高」制多迦童子。不動明王の従者八大童子の第八。ウィキの「制多迦童子」によれば、不動三尊の一人で前の矜羯羅童子と一緒に『不動明王の脇士を務める。通常は不動明王の右(向かって左)に配置される。「制多迦童子」とはサンスクリットで奴隷・従者の意』であるとある。私は個人的には、遠い二十の昔に、一度だけ、昔の恋人と訪れた、高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)の二脇侍像が好きだ。

・「十二天」「十二天」仏教を守護する十二の天尊。四方・四維の八天、上・下の二天、日・月の二天のこと。八方を護る諸尊に天地日月を護る諸尊を加えたもの。帝釈天(東)・火天(南東)・閻魔天(南)・羅刹天(らせつてん・南西)・水天(西)・風天(北西)・毘沙門天(北)・伊舎那天(いしゃなてん・北東)、及び梵天(上)・地天(下)と日天・月天。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 駒込富士境内にて昇龍のあったる事 

 

 寛政五年八月二十五日のことなる由。

 駒込富士の境内に護摩堂のあって、浅間(せんげん)の社(やしろ)その他(ほか)は、寺よりは少し離れたところに祀られてあったが、その堂へ、未だ年若き僧が一人参り、香華(こうげ)など手向(たむ)け、頻りに不動尊に祈念致いて御座ったと申す。

 すると……主尊の不動明王像は申すに及ばず、左右脇侍の矜羯羅童子(こんがら)・制多迦(せいたか)、その他にも祀られてある、ありとある十二天なんどの像が……これ、悉く……しきりに震えて、鳴動し出したと申す。……

 はなはだ、もの凄き気味となったによって、早々に堂を立ち出でたところが、その護摩堂の脇に、大木の松が御座った。先に入堂する際に見た折りには、確かに一本しか御座らなんだはずのそれが……何故か……二本目のあって、同じ如(ごと)、本来あったる大松のすぐ横に、同じき太さで連なって……寄って立って御座った。……

 あまりの怖しさに、そのまま本堂の前まで走り逃げ、そこでようやっと背後を振り返って、遠く、護摩堂の方(かた)を見た……ところが……

 その……新たに出現致いた……新しき方の「松」は……これ……だんだん……だんだん……上へ……上へ……しゅるしゅる……しゅるしゅる……と音を響かせ……気を震わせ……昇りに昇ってゆくかの如く……見えた。……

 僧はそこで、その昇ってゆく「松」の先のある、遙かな虚空の彼方を、眺めてみた。……

 と……その昇りゆく「松」の先からは……紅蓮の焔(ほのお)が……ごうごう……ごうごう……と……吹き出だし……ぼうぼう……ぼうぼう……と……燃え出でて御座って……いや、もう、見るもなかなかに……これ、恐ろしきもので御座った。……

 すると、たちまち、どす黒き黒雲(こくうん)……これ……もくもく……もくもく……と……空を覆い尽くした。

 そうして……かの「松」が……遂に!……地面を離れた!……と……見るや!……

――фτϢЦςδДЮηЯψξζξ!!!

と! 形容しがたき怖ろしき物音の致いて

――ダァーーーーーーーーーーーーーーッツ!!!

と、天海に穴の開いたかと思わるるが如き、大雨の、俄かに激しく降り出だいたと申す。

――と――

しばらく過ぎて――ぱったり――雨は――霽(は)れた。

 僧が、徐ろに、先ほどの護摩堂の辺りを見――驚いた!……

 堂は一丈ほども……地の中に開いたる……大きなる穴の中へ……陥っておったからで御座った。………… 

 

 これは、その駒込富士別当におる者が来た折り、私に語った話で御座る。

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅰ) 

 

十月

 

[やぶちゃん注:「十月」は昭和一八(一九四三)年一月から『婦人公論』に連載を始めた「大和路・信濃路」で「十月(一)」「十月(二)」と題して昭和一八(一九四三)年一月号に掲載された。後に「十月」と改題して、作品集「花あしび」(青磁社昭和二一(一九四六)年刊)に所収された。

 このロケーションは発表に先立つ一年二ヶ月前の昭和一六(一九四一)年の秋十月である。この十月十日、創作のために杉並の家を単身出発、十月二十九日に帰京するまでを妻多恵子宛の書簡を基にしつつ、加筆したのが本作である。十月十日の到着から起こし、十月二十七日の琵琶湖湖畔で擱筆している(最後のクレジットは操作が入っているように思われる)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの角川書店昭和二三(一九四八)年刊の「堀辰雄作品集 六 花を持てる女」所収の正字正仮名のものを用いた。各条のクレジットは底本ではポイント落ちで下二字空けインデントである。傍点「﹅」は太字に代えた。各条の間は一行空けであるが、注を施した関係上、二行空けにしてある。 各条の後に簡単な注というか、感想を含んだ蛇足を附してある。私は奈良に数度しか行ったことがない嘲笑されるべき迂闊な人間である。されば、奈良通の方には言わずもがなのへんてこりんな注と感じられる箇所もあろうかと存ずるが、御寛恕願いたい。私は私も作中主人公と一緒に散策を同じゅうしたいだけである。奈良を分かり切っておられるという方は、本文のみを味わうに若くはあるまい。なお、注に用いた年譜的事実については、諸書の年譜資料の他、個人サイト「タツノオトシゴ」の詳細な「年譜」も参考させて戴いた。最後に御礼申し上げる。【電子化注開始2015年1月10日 藪野直史記】] 

 

   十月 

 

        一

 

一九四一年十月十日、奈良ホテルにて  

 くれがた奈良に著いた。僕のためにとつておいてくれたのは、かなり奧まつた部屋で、なかなか落ちつけさうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に沒頭してゐる最中のやうな氣もちになつて部屋の中を步きまはつてみたが、なかなか步きでがある。これもこれでよからうといふ事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛に手をかけたが、つい面倒になつて、まあそれくらゐはあすの朝の樂しみにしておいてやれとおもつて止めた。その代り、食堂にはじめて出るまへに、奮發して髭を剃ることにした。

[やぶちゃん注:この昭和十六年十月十日の午前中に杉並成宗(なりむね:在の杉並区大宮・成田東・成田西の一部を包括した旧地域名でその成田東に妻の実家があり、この前年三月に鎌倉からここへ転居していた)の自宅を出発、叙述通り、夕刻(推定午後六時代)に奈良県奈良市高畑町(たかばたけちょう)の、現在でも「西の迎賓館」呼ばれる高級ホテルである奈良ホテルに到着している。「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「大和路編1」で辰雄が滞在した部屋に印を施した多恵子宛絵葉書(十六日夜附)画像が見られる。同ホテルには二十日間泊まったことになっている(例えばウィキの「奈良ホテル」の記載)が、この記録自体は正しいものの、実際には十月二十八日の早朝に荷物を奈良ホテルに預けたままで滋賀に向い、琵琶湖ホテルに一泊し、二十九日に戻って奈良ホテルを引き払っている。] 

 

十月十一日朝、ヴエランダにて  

 けさは八時までゆつくりと寢た。あけがた靜かで、寢心地はまことにいい。やつと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池(あらいけ)に面してゐることだけは分つたが、向う側はまだぼおつと濃い靄につつまれてゐるつきりで、もうちよつと僕にはお預けといふ形。なかなかもつたいぶつてゐやあがる。さあ、この部屋で僕にどんな仕事が出來るか、なんだかかう仕事を目の前にしながら噓みたいに愉しい。けふはまあ輕い小手しらべに、ホテルから近い新藥師寺ぐらゐのところでも步いて來よう。

[やぶちゃん注:「荒池」これは一般名詞ではなく、この池の通称固有名詞である。ウィキの「奈良ホテル」によれば(下線やぶちゃん)、奈良ホテルは『春日大社一の鳥居前から天理方面へ向かう』国道百六十九号(天理街道)沿いにあり、『荒池と呼ばれる農業用灌漑池の畔、かつては興福寺の塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘に建って』いるとある。彼がこのホテルを選んだその時から、既にして彼のタイムマシンは作動しているのである。

「新藥師寺」奈良ホテルの同じ高畑町の西南西にあり、直線で一・二、実測歩行距離約一・五キロメートル。 

 

夕方、唐招提寺にて  

 いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いてゐる。けさ新藥師寺のあたりを步きながら、「或門のくづれてゐるに馬醉木(あしび)かな」といふ秋櫻子の句などを口ずさんでゐるうちに、急に矢も楯もたまらなくなつて、此處に來てしまつた。いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたつて、屋根瓦の上にも、丹(に)の褪めかかつた古い圓柱にも、松の木の影が鮮やかに映つてゐた。それがたえず風にそよいでゐる工合は、いふにいはれない爽やかさだ。此處こそは私達のギリシアだ――さう、何か現世にこせこせしながら生きてゐるのが厭になつたら、いつでもいい、ここに來て、半日なりと過ごしてゐること。――しかし、まづ一番先きに、小說なんぞ書くのがいやになつてしまふことは請合ひだ。……はつはつは、いま、これを讀んでゐるお前の心配さうな顏が目に見えるやうだよ。だが、本當のところ、此處にかうしてゐると、そんなはかない仕事にかかはつてゐるよりか、いつそのこと、この寺の講堂の片隅に埃だらけになつて二つ三つころがつてゐる佛頭みたいに、自分も首から上だけになつたまま、古代の日々を夢みてゐたくなる。……

 もう小一時間ばかりも松林のなかに寢そべつて、そんなはかないことを考へてゐたが、僕は急に立ちあがり、金堂の石壇の上に登つて、扉の一つに近づいた。西日が丁度その古い扉の上にあたつてゐる。そしてそこには殆ど色の褪めてしまつた何かの花の大きな文樣(もやう)が五つ六つばかり妙にくつきりと浮かび出てゐる。そんな花文のそこに殘つてゐることを知つたのはそのときがはじめてだつた。いましがた松林の中からその日のあたつてゐる扉のそのあたりになんだか綺麗な文樣らしいものの浮き出てゐるのに氣がつき、最初は自分の目のせゐかと疑つたほどだつた。――僕はその扉に近づいて、それをしげしげと見入りながらも、まだなんとなく半信半疑のまま、何度もその花文の一つに手でさはつてみようとしかけて、ためらつた。をかしなことだが、一方では、それが僕のこのとききりの幻であつてくれればいいといふやうな氣もしてゐたのだ。そのうちそこの扉にさしてゐた日のかげがすうと立ち去つた。それと一しよに、いままで鮮やかに見えてゐたそのいくつかの花文も目のまへで急にぼんやりと見えにくくなつてしまつた。 

 

[やぶちゃん注:「唐招提寺」一度、奈良ホテルへ戻ったものであろうが、唐招提寺は実に奈良駅を挟んで正確に真西の対称位置に位置しており、この主人公の動きが私には非常に面白いものに感ぜられるのである。

「或門のくづれてゐるに馬醉木(あしび)かな」水原秋桜子の句集「葛飾」(昭和五(一九三〇)年馬酔木発行所刊)所収の「大和の春」の中の一句。季は春。この想起の句が実際の秋と混淆して時空間を変容(メタモルフォーゼ)させていることに注目されたい。

「褪めかかつた」「さめかかつた」と読む。

「まづ一番先きに、小說なんぞ書くのがいやになつてしまふことは請合ひだ」ここにこそ辰雄の、近代芸術の持つ矮小性や限界性への感懐が吐露されていると私は読む。近代文芸などというものは、古の歴史の時間の前にあっては、まさにその程度のものでしかないと、私も思うからである。しかし、この謂いは同時に書いている自身を危うくする。そのために巧みに主人公は現実の時間を錯覚させようと試み、その程度のものでしかないながら自身の書かんとしている小説内時間へと、自身をダブらせてゆくのである。

「この寺の講堂の片隅に埃だらけになつて二つ三つころがつてゐる佛頭みたいに、自分も首から上だけになつたまま、古代の日々を夢みてゐたくなる」私の非常に好む箇所である。

「何かの花の大きな文樣」現在では(恐らく辰雄が見た八十四年前も)摩耗が著しく現在はその紋様をみることは不可能に近いが、現在の画像を見る限りでは、扉上方に骰子の五の目型に丸い紋様全景があるように視認出来る。これは恐らく、宝相華文(ほうそうげもん)と呼ばれる仏教系文様の一種と思われる。「ブリタニカ国際大百科事典」によると、「宝相」とはバラ科に属する植物の中国名で、これを文様としたものとも言われるが、別にまた、蓮華文の変化したものとも、アオイ科のブッソウゲを文様化したものとも言われる。優美に文様化された植物の装飾文様で唐花・瑞花とも言う、とある。グーグル画像検索「宝相華文をリンクして、その「幻」の花を読者のそれぞれにイメージして戴いたところで、この条の注を終わることとする。私はこの条のエンディングを、殊の外、偏愛しているのである。]

2015/01/09

耳嚢 巻之九 戰記を讀みて聊怪しみ有事

 

 戰記を讀みて聊怪しみ有事 

 

 安永天明の頃にや、予が知れる石川某、大番の健士勤て大阪に在番なし、つれづれには同僚の人々寄集(よりあつま)りて書物等讀み、其外雜談等をなす事の由。夏の事なりしが同僚の内、難波戰記(なんばせんき)の本を借り出し、最早番所引(ひき)候ゆゑ何れも圓居(まどゐ)して右の本を讀けるに、表の勤番所(きんばんしよ)、市中火事沙汰の由申(まうす)故、各(おのおの)驚きて何方(いづかた)の火事にやと所々を遠見(とほみ)すれど火事の沙汰なし。誰より通じたるやと、表の番所を承れどしれるものなし。寐(ね)おびれたるものゝ仕業(しわざ)ならんと、何れもまた元の所へ立歸りて難波戰記を讀しに、暫く有(あり)て又火事沙汰の事を申入(まうしいれし)ものありし故、此度はいづれも庭までも立出(たちいで)て、段々糺しけれども何の沙汰もなし。さるにても何ものかかゝるいたづらをなすやと、いづれもつぶやきて元の所へ來りしが、列座の内ふと心附(こころづき)申(まうし)けるは、今日は五月六日にて、大阪落城の日限(にちげん)なり。しかるに難波戰記を讀しは、心なき事なりと、いづれも是を聞(きき)て思わずぞつとして、早く仕𢌞(しま)ひ臥しぬと、彼(かの)石川の物語り也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、極めて変わった怪談、都市伝説の類いで、アーバン・レジェンドとして続いた雰囲気は持っている。二つ前の「猫忠死の事」と同じ「安永天明の頃」で始まっているから、そこでも同じ時期の噂話としての連関性が認められる。というより、話者が大番を勤めていた際の話と言う共通性からは、実はこの二つは同一人からの採話した可能性が高いようにも思えるのである。

・「安永天明」西暦一七七二年~一七八九年。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、三十七~二十年前の比較的古い都市伝説である。

・「石川某」先に出る「石川翁」とは別人か。しかしえらく昔の話であり、彼であってもおかしくはない。また最初に注したように、「猫忠死の事」の「大御番勤し某」と同一人物の可能性が私は濃厚な気がする。

・「健士」本来は「こんし」と読み、平安時代に陸奥国の辺境を警備した兵士を指す。勲位を持ち、武芸に長じた者から選ばれ、租庸調が免ぜられて食料も支給された。ここは遠くそれに因んだ治安部隊の兵士に対する敬称であろう。

・「難波戰記」底本の鈴木氏注に、『国書総目録によれば、万年頼方・二階堂行意合著の同書は、寛文十二年(?)成立、巻は伝本により異同があって、二十五巻本、三十二巻本などもあるが、十巻が通常の形らしい。その他、立松東蒙著の同名本(三十巻)もあるといい、また浪速戦記大全と題し、田丸具房著の三十巻或い墜二十二巻などもある』とあるが、中身が分からない。個人サイトと思われる「阪南市の祭・やぐら」の難波戦記」の祭のやぐら彫刻画像に、慶長一四(一六一四)年冬から慶長一五(一六一五)年夏にかけての徳川家康と豊臣秀頼の対立・合戦、所謂、冬の陣から夏の陣を描いたものとするキャプションがあり、『難波戦記とは大坂冬の陣~和睦~大坂夏の陣を中心に描かれた合戦の物語で、江戸幕府が倒れ明治期になると、豊臣秀吉寄りの物語が公に楽しめるようになり、一気に流行した物語で』、『関が原の合戦以降、徳川幕府時代に豊臣家を滅ぼすために徳川家康が方広寺鐘銘に因縁をつけて挑発的な行為を仕掛けていた。その挑発に乗った大坂方は』慶長一九(一六一四)年の冬、『徳川家康は挙兵するが大坂城を落城できずに和睦となる。しかし、外堀だけを埋めるという条件の和睦だったが、徳川家康は内堀までも埋めてしまい』、翌元和元・慶長二〇(一六一五)年夏、『再び戦闘が繰り広げられ大坂城は炎上、豊臣家は滅亡し』たと記しておられる。近世史暗愚の私には、これで本話の怪異の意味がしっくりと腑に落ちたのであった。

・「五月六日」夏の陣は五月七日の深夜の大坂城炎上で幕を閉じた。ウィキ夏の陣によれば、『燃え上がる炎は夜空を照らし、京からも真っ赤にそまる大坂の空の様が見えたという』とある。因みにグレゴリオ暦では六月三日から翌四日に相当する。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 戰記を読んでおる最中に何とも慄っと致す怪異のあったる事

 安永天明の頃のことで御座ったか、私の知人である石川某(なにがし)殿が、大番の健士(こんし)を勤めて、大阪に在番致いて御座った折りのことと申す。

 非番の折りには、同僚の人々が寄り集(つど)って、いろいろなる書物を輪読致し、そこに書かれた武辺などにつき、雑談致すを、これ、楽しみにして御座った由。 

 

 ある年の夏のことであった。

 同僚のうち、大坂冬の陣から夏の陣の興亡を記したる相応の巻数の、「難波戦記(なんばせんき)」をごっそり借り出して参ったによって、最早、番所役目も交替となって、奥へと数人が退(ひ)いて御座ったによって、皆、車座となって、この「難波戦記」を各々、寛いで読んで御座ったと申す。

 すると、表の勤番所(きんばんしょ)の方(かた)より、

「――市中火事ノ沙汰アリ!――」

との声が聴こえて参ったによって、皆々、驚き、

「何方(いずかた)の火事なるやッ!?」

と、縁先より伸び上がって、方々を見廻してみたものの、これ、それらしき火の手も煙も、人の騒ぎも、これ、聴こえて参らぬ。

「――今『市中火事の沙汰あり』との伝令、奥方へと御座ったが、これは誰の成したる報知で御座ったか?」

と、表にて勤むる番所方の者に確認をとってみたが、

「そのようなる報知は我ら成しては御座らぬが?」

と、誰も心当たりがない、と申した。

「……大方、寝惚けでもした馬鹿者の仕業(しわざ)にて、他愛もなき譫言(うわごと)ででも御座ったのであろうよ。」

などと、おのおの失笑致いて、孰れもまた、元の所へたち戻り、再び、「難波戦記」を読み始めた。

 と、暫く致いて、

「――市中火事ノ沙汰アリ!――」

と叫ぶ声が奥方へと再び響いて御座った。

 流石に、このたびは、その座にあった孰れもが、庭にまで裸足で走り降り、ある者は木戸口を出でて町方の者をつかまえて質(ただ)いたり、高き場所へと登って四方を見廻したり、また、表向きへと走って、当番の健士(こんし)ら一人びとりに厳しく糺してみたが、これ、やはり――何のそれらしき沙汰もない。……

「それにしても、如何なる不届き者が、かくもゆゆしき悪戯(いたずら)を成したるかッツ!」

と、皆々、憤りつつ、また、もとの席へと戻っ参ったが、その列座せる健士(こんし)のうちの、とある一人が、ふと、気がついた。……

「――今日は五月六日にて……大阪城落城の日限(にちげん)じゃ!……しかるに……この……「難波戦記」なんぞを……面白おかしゅう読まんとするは……これ……慮外の無情なることでは……なかったものか?……」

と呟いた。

 孰れも、この呟きを聴くや、思わず、慄っとして、書を部屋の隅にたたみ積んでしまうと、早々に臥して御座ったと申す。……

 

 これはその石川殿御自身が物語られたもので、石川殿自身が体験なさったという実話にて御座る。

耳囊 卷之九 夢に見て關羽の像を得事

 

 夢に見て關羽の像を得事

 

 近き頃番頭勉勤(つとめ)し坪内美濃守内分(うちわけ)ケの坪内嘉兵衞と云る男ありしが、いかなる事にや、蜀の關羽の像を需度(もとめたし)と人にも語り、其身も尋(たづね)しが、或夜の夢に、小日向(こびなた)邊の道にて右像を拾ひしと夢見たりしが、取用(とりもち)ひもせで日數へしに、或日小日向中の橋邊を通りて、先頃夢見しはか樣成(やうなる)所なりしと其邊へ眼を配りけるに、塵埃(じんあい)の内に何歟(か)所々缺け損ぜし人形ありしゆゑ、拾ひ歸りて水に淸め見しが、關羽の像にもあるべきと思はれけるゆゑ、物知る人に見せければ、損じあれども容貌衣紋(えもん)關羽の像に疑ひなしといふゆゑ、段々莊嚴(しやうごん)等なして全備(まつたきそなへ)の像に成りしを、我許へ來れる人、まのあたり見しと語りぬ。

□やぶちゃん注

○前項連関:夢が重要な意味を持つ点で直連関。都市伝説としてもスムースに繋がる。ここにも底本の鈴木注は三村翁の注を長く引用する。全条同様に恣意的に正字化して当該部を示す。

   *

寫本阿漕雲雀、古人朝山善右衞門、今より三代之祖、名は元嵩、俳名漕浦と云、此翁が語りしは、我壯年之比、或夜の夢に、とある古道具の店に古き刀あり、見るに正宗の銘あり、さて何となく打過しに、再び三度みる事始にかはらず、不思議のまゝ、井野淸左衞門に語り試るに、世に靈夢といひ、正夢と云事あり、疑べきに非ず、試に尋べしと云に、さらばと、ともに出たつに、そも方角はいづくをさすべきと云、夢心に北の方と思ふと云に、先岩田橋より北を搜し求るに、似たるものもあらず、夫より橋商うら町、津中殘りなく家々覗步けども、見當らず、さらば北を見せとて、部田に到るに、ある家、店のつき夢心に似たりとて、入りて見るに、果して刀かけにある古鞘の刀、恰好似たりとて、主に問へば、これ正宗にて候といふにぞ、先づ胸おどり嬉しき事限りなし、乞ひ取て中子を見るに、實にも正宗と銘あり、何とてかく打すてあるぞといへば、これ相州正宗にては侍らず、達磨正宗なれば、さして人賞翫せず、年久敷持傳へて侍りと云、何まれ靈夢感應の物なりとて、價を不論買得、鍳刀家に質すに、達磨正宗正眞なるよし也、いかなる因緣ありて、あまたゝび夢にも見えて、我が手に落たり、不可思議の事ならずや、といひき。

   *

これに続けて、鈴木氏は『關羽像を夢に見て拾う話は、巻五関羽の像奇談の事も同様。靈像感得の紋切り型ともいえるが、仏像でなく関羽なのが近世的である』と評されている。この「巻五 關羽の像奇談の事」は、かなりシチュエーションは異なるものの、何より、主人公の名が「坪内善兵衞」で、本話の「坪内嘉兵衞」と偶然とは思えぬほどにクリソツなれば、これはもう、類話ではなく、全くの同源話のヴァリエーションでしかないと断言出来る。まあ、前の話よりは有意に違う。しかし、面白うない。

・「坪内美濃守」底本の鈴木氏注に、『定系(サダツグ)。寛政五年小普請組支配より御小性組番頭、従五位下美濃守。同八年没、五十五』とある。下野壬生藩第三代藩主・壬生藩鳥居家第七代の鳥居忠意だおき 享保二(一七一七寛政六(一七九四)ウィキのデータ中に、次男と思しい位置に坪内定系の名を見出せる。継嗣(忠意の長男は早世、世子は四男に飛んでいる)から見ると側室の子であったか。
 
・「内分ケ」「卷五 關羽の像奇談の事」では「御朱印の内へ御書加(かきくは)への同苗(どうめう)家來」とある。これは恐らく江戸時代の武家(特に大名・旗本)の公的な分家形態の一つである「内分分知」(ないぶんぶんち)の、私的なケースであろう。内分分知は分家の創設の際に、主君から与えられた領知の表高を減らすことなく、新規に分家を興す形態を指す。ウィキの「内分分知」によると、公的なものは(アラビア数字を漢数字に代えた)、『本来、新規に分家を創出するには本家の領知を分知し、表高を減じて行われてきたが、分知の結果、大名で表高一万石を下回ると旗本に、旗本(寄合)で表高三千石を下回ると小普請役に家格を低下させることになる。家格低下は、軍役や役職就任に大きく影響するため、本家の領知内で分家に分知する形態が考案された』。『内分分知によって創出された分家は本家に強く依存し、家督相続、婚姻、嫡子嗣立など家庭内での事柄のみならず、幕府内での役職就任などにも影響を持つ。また、本家は内分分家を親族として自家内に留めることになり、しばしば、内分分家当主が本家当主の代理の立場をとる場合があった』とあるものの、広く武家に於いて、專ら継嗣の予備や、文字通りの表向きの名の名誉を目指したような、家来に与えることが許されたところのプライベートな改姓仕儀ではなかろうか。実際、この主人公、どう見ても、そんなに地位が高いようには見えぬ。

・「需度(もとめたし)」は底本のルビ。

・「小日向中の橋」岩波版長谷川氏注に、『文京区水道一丁目と新宿区新小石川二丁目を結ぶ橋』とある。神田川(旧江戸川)に架橋。現存。

・「全備(まつたきそなへ)」は私の全くの趣向から訓じた。「ぜんび」では如何にも響きが荘厳でない。

 


■やぶちゃん現代語訳


 関羽の像を拾う夢を見て、実際に関羽の像を拾い得たという事


 最近のことである。

 番頭を勤めておられた坪内美濃守殿の内分(うちわ)けの御家来衆に、坪内嘉兵衛と名乗る男があった。

 何の趣味か酔狂かは存ぜねど、蜀の名将関羽の像を何としても手に入れたいと人にも語り、自身もあちこちを訪ね歩いて捜してはみたものの、なかなか入手出来ずにおった。

 ところがある夜(よ)の夢に、

……嘉兵衛……

……どうも小日向(こびなた)辺りの道を歩いておる……

……すると……

……かの関羽像の像が落ちておる……

……それを拾うた……と思うた――と――

 そこで、夢が醒めた。

 嘉兵衛は、日々求めあぐんでおることなれば、たわいないなき己れが望みの夢に出たものと、これといって気にすることもなく、数日が経ったと申す。

 ところが、そんなある日のこと、用事のあって、たまたま小日向(こびなた)の中ノ橋辺りを通った。と、

「……そういえば……先んだって夢に見たは、かようなる場所であったが。……」

と、夢の景色を思い出したによって、その辺りへ眼を配って御座ったところが、川っ端(ぱた)の塵埃(じんあい)の積もる中に、これ、何やらん、ところどころ、欠け損じたる人形のようなるものがあったによって、拾うて帰り、水で洗い清め、つくづく眺めてみたところが、

「……こ、これは! 関羽の像にては、あ、あるまいかッ?!……」

と思われた。

 されば、物知れる知人のもとへ急き持ち行き、見せてみたところが、

「……多少の損じはあれども――容貌や衣紋(えもん)――これ、関羽の像に疑い御座らぬ。」

と太鼓判を貰(もろ)うたによって、欠け損じたるところを直し、また、衣服の剝げをも塗り、持ち物や台座に至るまで、これ、自ずと調え、荘厳(しょうごん)など成し、遂には、全き備えの、偉丈夫関羽像と成し上げたと申す。

 私のもとへ来たれる、さる御仁が、目の当たりにその立派なる関羽像を嘉兵衛本人に見せて貰(もろ)うたと語って御座った。

尾形龜之助「雨 雨」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

注:ローマ字部分は脳内でフォントをcentury

(例:
DORADORADO

 などに読みてみ変えてお読み戴きたい。



    雨 雨

         尾形龜之助

 

DORADORADO ______

TI ______ TATATA ___ TA

TI ______ TOTOTO ___ TO

DORADORADO

 

TI ______ TATATA ___ TA

TI ______ TOTOTO ___ TO

DORADORADO ______

雨は

ガラスの花

 

雨は

いちんち眼鏡をかけて

 

 

[心朽窩主人注:以上は「尾形亀之助 詩集 色ガラスの街」を底本とした。本詩について、私が私の尾形亀之助 詩集 色ガラスの街 〈初版本バーチャル復刻版〉の冒頭で述べた通り、現行の出回っている詩形は誤りであることをここに強く訴えておきたい。以下に思潮社版全集の本詩を示す(出来得る限り、表記が同様に見えるように示したが、単一のダッシュは心持ちもう少し長い)。

    *

    雨 雨

 

DORADORADO ――

TI - TATATA - TA

TI - TOTOTO - TO

DORADORADO

 

TI - TOTOTO - TO

DORADORADO ――

雨は

ガラスの花

 

雨は

いちんち眼鏡をかけて

    *

思潮社現代詩文庫は殆んど相同であるが、第一連第一行と第二連二行目(上記の最終行)の二箇所のダッシュが、

 

DORADORADO______

 

最後の「O」と殆んどくっついており、しかもダッシュ自体の位置が実際には中央よりも有意に下にある(出来得る限り、表記が同様に見えるように示したが、ダッシュ位置は上記よりも心持ち上にある)。

 これと私の示した「色ガラスの街」版とを比較して貰いたい。ダッシュの長さや位置が違うと印象がガラリと異なるのである。さらに拘りを言えば、表題も「雨」と「雨」の間は全角空けとなっているが、詩集では半角空けである

 そして何よりも、一目瞭然、現行の本篇は第二連目の、

 

TI ______ TATATA ___ TA

 

相当の一行が脱落しているのである!

 はっきり言おう。

 現行の「雨 雨」は本来の「雨 雨」と似て非なるものである。

 現行の「雨 雨」は最早――尾形龜之助の詩ではない!――。]

 

 Photo  

 

 下雨 下

      作 尾形龟之助

      译 心朽窝主人,矢口七十七

 

DORADORADO ______

TI ______ TATATA ___ TA

TI ______ TOTOTO ___ TO

DORADORADO

 

TI ______ TATATA ___ TA

TI ______ TOTOTO ___ TO

DORADORADO ______

下雨天

玻璃做的花

 

下雨天

 

从早到晚戴眼镜

 

 矢口七十七/

淨瑠璃寺の春 堀辰雄 ブログ・ベタ・テクスト ―― PDFの読めない方のために

[やぶちゃん注:「浄瑠璃寺の春」は昭和一八(一九四三)年一月から『婦人公論』に連載を始めた「大和路・信濃路」で「淨瑠璃寺」と題して、同年七月号に掲載された。後に「淨瑠璃寺の春」と改題して、作品集「花あしび」(青磁社昭和二一(一九四六)年刊)に所収された。
 このロケーションは昭和十八年の春である。四月十二日に多恵子夫人同伴で信濃から大和の旅へ出立、木曾路に入って木曽福島藪原に泊り、翌十三日、木曾路から伊賀を経、大和に入り、十四日には奈良ホテルに泊まっているが、この日が本作の作品内時間である。 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの角川書店昭和二三(一九四八)年刊の「堀辰雄作品集 六 花を持てる女」所収の正字正仮名のものを視認した。但し、一部の字空け、具体には、会話鍵括弧閉じるの後にある、視覚上の一字空けにしか見えない箇所は、実際に試みにそうしてみたところが、激しい違和感を生ずる箇所が出来(しゅったい)することが私自身にはっきり感じられたため、結果としては、この特異な字空きは無視することとした。
 私の偏愛してやまない本作を、私はここで私のブログの六十五万アクセス突破記念として公開する。【二〇一五年一月九日 藪野直史】公開当時、WordのUnicodeを使い慣れていなかったため、表記に粗漏があり、しかも所持する底本が書庫の藻屑となって沈んで発見出来なかったため、以上の国立国会図書館デジタルコレクションの同書で、再度、校正し直し、頭注も書き変えた。【二〇二三年二月一日 藪野直史】]
 
 
 
   淨瑠璃寺の春
 
  
 この春、僕はまへから一種の憧れをもつてゐた馬醉木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかつたのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いてゐた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なづな)のやうな花にもひとりでに目がとまつて、なんとなく懷かしいやうな旅びとらしい氣分で、二時間あまりも步きつづけたのち、漸つとたどりついた淨瑠璃寺(じやうるりじ)の小さな門のかたはらに、丁度いまをさかりと咲いてゐた一本の馬醉木(あしび)をふと見いだしたときだつた。
 最初、僕たちはその何んの構へもない小さな門を寺の門だとは氣づかずに危く其處を通りこしさうになつた。その途端、その門の奧のはうの、一本の花ざかりの緋桃(ひもも)の木のうへに、突然なんだかはつとするやうなもの、――ふいとそのあたりを翔け去つたこの世ならぬ美しい色をした鳥の翼のやうなものが、自分の目にはひつて、おやと思つて、そこに足を止めた。それが淨瑠璃寺の塔の錆(さび)ついた九輪(くりん)だつたのである。
 なにもかもが思ひがけなかつた。――さつき、坂の下の一軒家のほとりで水菜を洗つてゐた一人の娘にたづねてみると、「九體寺(くたいじ)やつたら、あこの坂を上りなはつて、二丁ほどだす」と、そこの家で寺をたづねる旅びとも少くはないと見えて、いかにもはきはきと敎へてくれたので、僕たちはそのかなり長い急な坂を息をはずませながら上り切つて、さあもうすこしと思つて、僕たちの目のまへに急に立ちあらはれた一かたまりの部落とその菜畑を何氣なく見過ごしながら、心もち先きをいそいでゐた。あちこちに桃や櫻の花がさき、一めんに菜の花が滿開で、あまつさへ向うの藁屋根の下からは七面鳥の啼きごゑさへのんびりと聞えてゐて、――まさかこんな田園風景のまつただ中に、その有名な古寺が――はるばると僕たちがその名にふさはしい物古りた姿を慕ひながら山道を骨折つてやつてきた當の寺があるとは思へなかつたのである。……
 「なあんだ、ここが淨瑠璃寺(じやうるりじ)らしいぞ。」僕は突然足をとめて、聲をはずませながら言つた。「ほら、あそこに塔が見える。」
 「まあ本當に……」妻もすこし意外なやうな顏つきをしてゐた。
 「なんだかちつともお寺みたいではないのね。」
 「うん。」僕はさう返事ともつかずに言つたまま、桃やら櫻やらまた松の木の間などを、その突きあたりに見える小さな門のはうに向つて往つた。何處かでまた七面鳥が啼いてゐた。
 その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がつて、はひりかけながら、「ああ、こんなところに馬醉木(あしび)が咲いてゐる。」と僕はその門のかたはらに、丁度その門と殆ど同じくらゐの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしてゐるのを認めると、自分のあとからくる妻のはうを向いて、得意さうにそれを指さして見せた。
 「まあ、これがあなたの大好きな馬醉木(あしび)の花?」妻もその灌木のそばに寄つてきながら、その細かな白い花を仔細に見てゐたが、しまひには、なんといふこともなしに、そのふつさりと垂れた一と塊りを掌のうへに載せたりしてみてゐた。
 どこか犯しがたい氣品がある、それでゐて、どうにでもしてそれを手折つて、ちよつと人に見せたいやうな、いぢらしい風情をした花だ。云はば、この花のそんなところが、花といふものが今よりかずつと意味ぶかかつた萬葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもつと他にもあるのに、それらのどの花にも增して、いたく愛せられてゐたのだ。――そんなことを自分の傍でもつてさつきからいかにも無心さうに妻のしだしてゐる手まさぐりから僕はふいと、思ひ出してゐた。
 「何をいつまでもさうしてゐるのだ。」僕はとうとうさう言ひながら、妻を促した。
 僕は再び言つた。「おい、こつちにいい池があるから、來てごらん。」
 「まあ、ずいぶん古さうな池ね。」妻はすぐついて來た。「あれはみんな睡蓮ですか?」
 「さうらしいな。」さう僕はいい加減な返事をしながら、その池の向うに見えてゐる阿彌陀堂を熱心に眺めだしてゐた。
 阿彌陀堂へ僕たちを案内してくれたのは、寺僧ではなく、その娘らしい、十六七の、ジャケット姿の少女だつた。
 うすぐらい堂のなかにずらりと竝んでゐる金色(こんじき)の九體佛(くたいぶつ)を一わたり見てしまふと、こんどは一つ一つ丹念にそれを見はじめてゐる僕をそこに殘して、妻はその寺の娘とともに堂のそとに出て、陽あたりのいい緣さきで、裏庭の方かなんぞを眺めながら、こんな會話をしあつてゐる。
 「ずゐぶん大きな柿の木ね。」妻の聲がする。
 「ほんまにええ柿の木やろ。」少女の返事はいかにも得意さうだ。
 「何本あるのかしら? 一本、二本、三本……」
 「みんなで七本だす。七本だすが、澤山に成りまつせ。九體寺(くたいじ)の柿やいうてな、それを目あてに、人はんが大ぜいハイキングに來やはります。あてが一人で捥(も)いで上げるのだすがなあ、そのときのせはしい事やつたらおまへんなあ。」
 「さうお。その時分、柿を食べにきたいわね。」
 「ほんまに、秋にまたお出でなはれ。この頃は一番あきまへん。なあも無うて……」
 「でも、いろんな花がさいてゐて。綺麗ね……」
 「そうだす。いまはほんまに綺麗やろ。そやけれど、あこの菖蒲(あやめ)の咲くころもよろしいおまつせ。それからまた、夏になるとなあ、あこの睡蓮が、それはそれは綺麗な花をさかせまつせ。……」さう言ひながら、急に少女は何かを思ひ出したやうにひとりごちた。「ああ、そやそや、葱とりに往かにやならんかつた。」
 「さうだつたの、それは惡かつたわね。はやく往つてらつしやいよ。」
 「まあ、あとでもええわ。」
 それから二人は急に默つてしまつてゐた。
 僕はさういふ二人の話を耳にはさみながら、九體佛をすつかり見をはると、堂のそとに出て、そこの緣さきから蓮池のはうをいつしよに眺めてゐる二人の方へ近づいていつた。
 僕は堂の扉を締めにいつた少女と入れかはりに、妻のそばになんといふこともなしに立つた。
 「もう、およろしいの?」
 「ああ。」さう言ひながら、僕はしばらくぼんやりと觀佛に疲れた目を蓮池のはうへやつてゐた。
 少女が堂の扉を締めおはつて、大きな鍵を手にしながら、戾つてきたので、
 「どうもありがたう。」と言つて、さあ、もう少女を自由にさせてやらうと妻に目くばせをした。
 「あこの塔も見なはんなら、御案内しまつせ。」少女は池の向うの、松林のなかに、いかにもさわやかに立つてゐる三重塔のはうへ僕たちを促した。
 「さうだな、ついでだから見せて貰はうか。」僕は答へた。「でも、君は用があるんなら、さきにその用をすましてきたらどうだい?」
 「あとでもええことだす。」少女はもうその事はけろりとしてゐるやうだつた。
 そこで僕が先きに立つて、その岸べには菖蒲のすこし生ひ茂つてゐる、古びた蓮池のへりを傳つて、塔のはうへ步き出したが、その間もまた絕えず少女は妻に向つて、このへんの山のなかで採れる筍(たけのこ)だの、松茸(まつたけ)だのの話をことこまかに聞かせてゐるらしかつた。
 僕はさういふ彼女たちからすこし離れて步いてゐたが、實によくしやべる奴だなあとおもひながら、それにしてもまあ何んといふ平和な氣分がこの小さな廢寺をとりまいてゐるのだらうと、いまさらのやうにそのあたりの風景を見まはしてみたりしてゐた。
 傍らに花さいてゐる馬醉木よりも低いくらゐの門、誰のしわざか佛たちのまへに供へてあつた椿の花、堂裏の七本の大きな柿の木、秋になつてその柿をハイキングの人々に賣るのをいかにも愉しいことのやうにしてゐる寺の娘、どこからかときどき啼きごゑの聞えてくる七面鳥、――さういふ此のあたりすべてのものが、かつての寺だつたそのおほかたが既に廢滅してわづかに殘つてゐるきりの二三の古い堂塔をとりかこみながら――といふよりも、それらの古代のモニュメントをもその生活の一片であるかのやうにさりげなく取り入れながら、――其處にいかにも平和な、いかにも山間の春らしい、しかもその何處かにすこしく悲愴な懷古的氣分を漂はせてゐる。
 自然を超えんとして人間の意志したすべてのものが、長い歳月の間にほとんど廢亡に歸して、いまはそのわづかに殘つてゐるものも、そのもとの自然のうちに、そのものの一部に過ぎないかのやうに、融け込んでしまふやうになる。さうして其處にその二つのものが一つになつて――いはば、第二の自然が發生する。さういふところにすべての廢墟の云ひしれぬ魅力があるのではないか? ――さういふパセティックな考へすらも(それはたぶんジムメルあたりの考へであつたらう)、いまの自分にはなんとなく快い、なごやかな感じで同意せられる。……
 僕はそんな考へに耽りながら步き步き、ひとりだけ先きに石段をあがり、小さな三重塔の下にたどりついて、そこの松林のなかから蓮池をへだてて、さつきの阿彌陀堂のはうをぼんやりと見かへしてゐた。
 「ほんまになあ、しよむないとこでおまつせ。あてら、魚食うたことなんぞ、とんとおまへんな。蕨(わらび)みてえなものばつかり食つてんのや。……筍(たけのこ)はお好きだつか。さうだつか。このへんの筍はなあ、ほんまによろしうおまつせ。それは柔(やは)うて、やはうて……」
 そんなことをまた寺の娘が妻を相手にしやべりつづけてゐるのが下の方から聞えてくる。――彼女たちはさうやつて石段の下で立ち話をしたまま、いつまでたつてもこちらに上がつて來ようともしない。二人のうへには、何んとなく春めいた日ざしが一ぱいあたつてゐる。僕だけひとり塔の陰にはいつてゐるものだから、すこし寒い。どうも二人ともいい氣もちさうに、話に夢中になつて僕のことなんぞ忘れてしまつてゐるかのやうだ。が、かうして廢塔といつしよに、さつきからいくぶん瞑想的になりがちな僕もしばらく世間のすべてのものから忘れ去られてゐる。これもこれで、いい氣もちではないか。――ああ、またどこかで七面鳥のやつが啼いてゐるな。なんだか僕はこのまますこし氣が遠くなつてゆきさうだ。……
 
        
 
 その夕がたのことである。その日、淨瑠璃寺(じやうるりじ)から奈良坂を越えて歸つてきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとづれたのち、さんざん步き疲れた足をひきずりながら、それでもせつかく此處まで來てゐるのだからと、春日(かすが)の森のなかを馬醉木の咲いてゐるはうへはうへと步いて往つてみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂つて、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるやうな氣のするほどだつた。だが、もうすつかり疲れ切つてゐた僕たちはそれにもだんだん刺戟が感ぜられないやうになりだしてゐた。さうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんといふこともなしにかうして步いて見るのをこんどの旅の愉しみにして來たことさへ、すこしももう考へようともしなくなつてゐるほど、――少くとも、僕の心は疲れた身體とともにぼおつとしてしまつてゐた。
 突然、妻がいつた。
 「なんだか、ここの馬醉木と、淨瑠璃寺にあつたのとは、すこしちがふんぢやない? ここのは、こんなに眞つ白だけれど、あそこのはもつと房が大きくて、うつすらと紅味を帶びてゐたわ。……」
 「さうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くささうに、妻が手ぐりよせてゐるその一枝へ目をやつてゐたが、「さういへば、すこうし……」
 さう言ひかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおつとしてゐる心のうちに、けふの晝つかた、淨瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあつて見てゐた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに、蘇らせ出してゐた。
 

魔のもの Folk Tale 佐藤春夫 ―― PDFの読めない方のために

魔のもの Folk Tale   佐藤春夫
 
 (昭和七(一九三二)年春陽堂刊「少年文庫」版)
 
[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月発行の『新小説』に発表され、後に佐藤春夫最初の童話集となった「蝗の大旅行」(改造社昭和元(一九二六)年九月刊)に所収された。国立国会図書館蔵の昭和七(一九三二)年春陽堂刊の「少年文庫 3」版を底本としたが、総ルビであるため、読みが振れると判断した箇所にのみのパラルビで電子化した。本「魔のもの」を載せている国書刊行会一九九二年刊須永朝彦編「日本幻想文学集成」の第十一巻「佐藤春夫」の、編者須永氏の解説によれば(引用部は恣意的に正字化した)、『『退屈讀本』所収の「わが父わが母及びその子われ」に「私は母に抱かれて幾つかの傳統的な怪異な話を覺えてゐる」とあるから左様なものゝ一つかとも推測してみるが、粉本の有無は不詳』とある。なお、この「日本幻想文学集成」は初出に拠っている者と思われ、本テクストと表記の一部や句読点及び改行に異同がある。内容的にそれを逐一記す必要性は感じないが、一箇所だけ、三話目の、「――さう言つて、その若い衆の妹が今でも泣いて話すが、これや愚痴とは言へまい‥‥」という一文の後、「早う汽車がとほるとええなあ、と、そこでわしが言うたことぢや。」が入るが、これは私の底本としたものでは改頁となっているものの、視認する限りでは一行空けがない。しかし、話術の流れから、ここのみ須永編の「日本幻想文学集成」をよしとして一行空けとした。影絵の切り絵の挿絵が入るが、作者不詳であり、著作権を考えて省略した。なお、本テクストは私のブログの六十五万アクセス突破記念として作成した。【二〇一五年一月日 藪野直史】]
 
魔のもの
     Folk Tale
 
 もう八つの刻(こく)だつたらう――
 とぼとぼ、坂路を下りて居ると、ピカリと不意に光つたものがある。――松の梢(こずえ)のてつぺんぢや。ハツと、そこへ(ヽヽヽ)思はずひれ伏してしまつた。
「六根淸淨(ろつこんしやうじやう)々々々々々々々々……」
 手を合はしてから、ちらりと一目拜むと、鳥(とり)のやうな足ぢや。羽根をひろげての――。天狗(てんぐ)さまがござらつしやる。息もつかずに居た。おそるおそる、もう一度、そつと、首をちぢめたままで見上げると、もう、何(なに)も無い、ほーつ(ヽヽヽ)と思つて、もう一度、ゆつくり見上げると本當にもう何もない。
 一もくさん(ヽヽヽヽヽ)に林のなかからかけて下りて、やつとの思ひで村へ出た。
 ――あれやあ、本當の天狗さまぢやらう。
      *     *     *     *
         *     *     *
 六甲越(かふごえ)で丹羽へ出ようと思つとつた。峰一つ越えてしまうて、もう少しのことで人里だつた。
 月が出てゐたがの。
 その長い一本道を、いきなりスーツ(ヽヽヽ)と來て通つた、ゴオーと言つて地鳴りがしたやうにも思つたがのう、荷物も、商賣ものの灰(はひ)もあつたものぢやない、身(からだ)一つで竹藪のなかへすくみ込んだ。
 夜(よる)は魔のものといふが、そりや、えらいものぢや、通つたあとがといふと、お前、あたり一めんの蓮華畑(れんげばたけ)に、一すぢ、幅が三尺(じやく)ほど、そこだけ刈り取りでもしたやうに、帶(おび)になつて、蓮華の花が綺麗に切れてしまつてゐるのだ。
 ――いや、四つ足(あし)ぢやない。さあ? 長(なが)ものでもない。鱗(うろこ)もありやせん。いや、ただもう、三丈もあらうかといふかたまりなのぢや、黑いものぢや、影のかたまりぢや。
 さうさ、幽靈ぢやらうかのう。お化けぢやらうかのう。さあ、何やら知らんが、何(な)にせ、まあ、それがその魔のもので、つまりは今だに正體が知れんのぢや‥‥て。
      *     *     *     *
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 その谷といふのがその、名(な)うての魔所なので、ひとり旅などをするものはもとより、つれのある衆(しう)でも、そこまで來ると、ふいとその谷のなかへ上の道からをどり込んだりするのだ。夕がたなどは論外だが、晝日中(ひるひなか)でもそれだ。――いきなりひき込まれるのはまだたち(ヽヽ)のいい方ぢや。一度などはこんなことがあつた――。
 次の村で話し込んで夕方になつて出かけた若い衆が、その晩になつても、朝になつても、その次の夕方になつても歸らぬ。さあへん(ヽヽ)だといふのでさがして見ると、案のとほり、そこの谷へ墜(お)ち込んでゐる。體(からだ)は、今さらぢやないが目もあてられない。で、一番妙なことはといふと、たかが一里もない手前の緣者のうちで新らしくはかせたわらぢ(ヽヽヽ)が、二十里も歩いて來たやうにぐしやぐしやにはきつぶれてゐた。――そんなに遠道(とほみち)を、どこをどう歩いて來たやらそれがとんとわからない。――さう言つて、その若い衆の妹が今でも泣いて話すが、これや愚痴とは言へまい‥‥
   
 早う汽車がとほるとええなあ、と、そこでわしが言うたことぢや。
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 村中の人が雪の上で焚火(たきび)をして、手に手に得(え)ものを持つてゐるところだつた。聞くと、今夜こそは是非(ぜひ)とも一つあれ(ヽヽ)をどうかしてくれようと言つてゐる‥‥
 その晩はえらい騷動ぢやつたて。たうとう丑滿(うしみつ)すぎになつてわな(ヽヽ)に落ちた。つかまへて見ると、それは二尺あるなしの四つ足なのだ、見たところは山犬に似てゐるが、ぢやが山犬でもない。てん(ヽヽ)でもない。白い毛のふさふさしたものぢや。捉(つか)まつても割合に神妙にして居(を)つた。ちよつとその邊では見なれないものぢやと言つた。わしも見たことのないものぢやつた。もう夜中でもあつたしそれにめづらしい奴(やつ)ぢやといふので、村の衆はそれをともかくも生(い)けて置くことにした。それで、どこから持ち出したのか、こんな太い丸太を組み合(あは)した。さうして、その隙間(すきま)といつたら、それこそ指二本とはそろへて這入(はい)らぬ檻(をり)のなかへ、そいつを投(はふ)り込みをつた。それから獵につかふ犬を皆(みんな)そこへ張番(はりばん)させて置いた――これや、私(わたし)もちやんと見たのぢや。
 ――ところが、やつぱり魔のものぢやつたのぢや。明(あめ)の日になつて見ると、もう影も形もあるものぢやない。――その檻はちやんとそつくり頑丈(ぐわんじやう)にのこつてゐるのぢやげにな。なにさま、やつぱり魔のものぢやつたのぢやらう‥‥
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 この村に、むかしから魔の住んどる家(うち)が三軒(げん)あるのぢや。一軒(けん)はそれ、あの高いくぬぎの下(した)の家(うち)ぢや。もう一軒は、馬方(うまかた)の馬屋(うまや)のねき(ヽヽ)にあるあの空(あ)き家(や)ぢや。――あれが一ばん惡(わる)いて、それからもう一軒はな、――さうさ、ええ、もう言うてしまヘ――お前のうちぢやがな‥‥
[やぶちゃん注:「六根淸淨(ろつこんしやうじやう)」以下の「々」の記号部分には底本では六回分の踊り字「〱」が入っている。これは「ろつこん」と「しやうじやう」を分割した繰り返し表記と思われ、朗読される際には、最低でも三回以上(リーダがある)は必ず、お願いしたい。
「ねき」根際(ねき)。側。傍ら。]

ブログ・アクセス650000突破記念 佐藤春夫「魔のもの Folk Tale」(PDF縦書版)  /  堀辰雄「淨瑠璃寺の春」(正字正仮名PDF縦書版)

ブログ・アクセス650000突破記念として「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に、

佐藤春夫「魔のもの Folk Tale」(PDF縦書版)

と、

堀辰雄「淨瑠璃寺の春」(正字正仮名PDF縦書版)

を公開した。後者は新字新仮名の電子テクストは出回っているが、僕にとってはこの「大和路・信濃路」、その中でも特に僕の偏愛する、この「淨瑠璃寺の春」は、どうしても正字正仮名でなくてはいけないのである。

2015/01/08

ブログ・アクセス650000突破

先ほど、見たら、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、ブログ・アクセスが650000を突破していた。
寝ようと決していたので、記念テクスト公開は明朝に――

では――皆さん――おやすみなさい……

耳嚢 巻之九 猫忠死の事

僕は大阪弁のネイティヴでない。そこでこの疑似大阪弁現代語訳(同話のそれと差別化するために意識的に行った)については大阪弁を流暢に操るあちらの生まれの教え子に本日只今、以下の訳文の校閲を個人的に依頼してある。但し、忙しい公務員(それも転職直後なれば時間はかかろうかと存ずる)なので、暫くはこの不全な訳で御辛抱あれかし――


 猫忠死の事

 

 安永天明の頃なる由、大阪農人(のうにん)橋に河内屋(かはちや)惣兵衞と云へる町人ありしが、壹人の娘容儀も宜(よろしく)、父母の寵愛大方ならず。然るに惣兵衞方に年久敷(ひさしく)飼置(かひおけ)る猫あり、ぶち猫の由、彼(かの)娘も寵愛はなしぬれど、右の娘につきまとひ片時も不立離(たちはなれず)、定住座臥、厠(かはや)の行來(ゆきき)等も附(つき)まとふ故、後々は彼娘は猫見入(みいり)けるなりと近邊にも申成(まうしな)し、緣組等世話いたし候ても、猫の見入し娘なりとて斷るも多かりければ、兩親も物憂(ものうき)事に思ひ、暫く放れ候場所へ追放(おひはな)しても間もなく立歸(たちかへ)りけるゆゑ、猫はおそろしきものなり、殊に親代より數年飼置けるものなれど、打殺(うちころ)し捨(すつ)るにしかじと内談極(ないだんきはめ)ければ、彼猫行衞なくなりしゆゑ、さればこそと、皆家祈禱其外魔よけ札(ふだ)等を貰ひいと愼みけるに、或夜惣兵衞の夢に彼猫枕元に來りてうづくまり居(をり)けるゆゑ、爾(なんぢ)はなにゆゑ身を退(しりぞき)、又來りけるやと尋(たづね)ければ、猫のいわく、我等娘子を見入たるとて殺(ころさ)れんと有事(あること)故、身を隱し候、よく考へても見給へ、我等此家先代より養はれて凡(およそ)四拾年程厚恩を蒙りたるに、何ぞ主人の爲(ため)あしき事をなすべきや、我(われ)娘子の側を放れざるは、此家に年を經し妖鼠(ようそ)あり、彼娘子を見入(みいり)て近付(ちかづ)んとする故、我等防(ふせぎ)のために聊(いささか)も不放(はなれず)、附守(つきまも)るなり、勿論鼠を可制(せいすべき)は猫の當前(たうぜん)ながら、中々右鼠、我(われ)壹人の制(せい)に及びがたし、通途(つうと)の猫は二三疋にても制する事なりがたし、爰に一つの法あり、島(しま)の内口(うちぐち)河内屋市兵衞方に虎猫壹疋有(あり)、是を借りて我と俱に制せば事なるべしと申(まうし)て、行方不知(ゆくえしれず)なりぬ。妻なる者も同じ夢見しと夫婦かたり合(あひ)て驚きけれども、夢を强(しい)て可用(もちふべき)にもあらず迚、其日はくれぬるに、其夜又々彼猫來りて、疑ひ給ふ事なかれ、彼猫さへかり給はゞ災(わざはひ)のぞくべしと語ると見しゆゑ、彼(かの)島の内へ至り、料理茶屋躰(てい)の市兵衞方へ立寄(たちより)見しに、庭の邊(へん)椽頰(えんばな)に拔群の虎猫ありけるゆゑ、亭主に逢(あつ)て密(ひそか)に口留(くちどめ)して右の事物語りければ、右猫は年久敷(ひさしく)飼(かひ)しが、一物(いちもつ)なるや其事は不知(しらず)、せちに需(もと)めければ承知にて貸しけるゆゑ、あけの日右猫をとりに遣しけるが、彼れもぶち猫より通じありしや、いなまずして來りければ、色々馳走(ちそう)などなしけるに、かのぶちねこもいづちより歸りて虎猫と寄合(よりあひ)たる樣子、人間の友達咄合(はなしあふ)がごとし。扨その夜、又々亭主夫婦が夢に彼ぶち猫來り申(まうし)けるは、明後日彼鼠を可制(せいすべし)、日暮(くる)れば我等と虎ねこを二階へ上げ給へと約しけるゆゑ、其意に任せ翌々日は兩猫に馳走の食を與へ、扨夜に入(いり)二階へ上置(あげおき)しに、夜四ツ頃にも有之(これある)べくや、二階の騷動すさまじく暫しが間は震動などする如くなりしが、九ツにも至るころ少し靜(しづま)りけるゆゑ、誰彼(たれか)れと論じて、亭主先に立ちあがりしに、猫にもまさる大鼠ののどぶへへ、ぶち猫喰ひ付たりしが、鼠に腦をかき破られ、鼠と俱に死しぬ。彼(かの)島の内のとら猫も鼠の脊にまさりけるが、氣力つかれたるや應(まさ)に死に至らんとせしを、色々療治して虎猫は助りけるゆゑ、厚く禮を述(のべ)て市兵衞方に歸しぬ。ぶち猫は其忠心を感じて厚く葬(とむらひ)て、一基(いつき)の主となしぬと、在番中聞しと、大御番勤(おほごばんづとめ)し某(なにがし)物語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:二つ前の蛇と椋鳥の動物譚から愛猫霊験譚で、また三つ前の妖狐報恩から猫報恩譚でも連関するが、しかしこれは「耳嚢 巻之七 猫忠臣の事」と細部に異同はあるものの、殆んど相同話と言ってよい。根岸先生、この酷似に気づかぬとは、少し耄碌されたか? それとも確信犯で都市伝説の一つの酷似類型として敢えて載せられたか。ここまでお付き合い致いて御座った拙者なれば、ここは後者と採って、粛々と訳致しましょうぞ――(意識的に前回のものとは異なる文体で訳すこととする)。なお、底本の鈴木氏注には、同話であることを指摘した上で、三村翁の長い注を引く。ここは敢えてそれを恣意的に正字化して示すこととする(三田村翁の文体は擬古文である)。

   *

安永五年刊烟花淸談卷一、今はむかし元祿の始、京町一丁目三浦やに薄雲といへる遊女あり、沈魚落雁の姿美しく、楊梅桃李の俤たをやかにして、百の媚いはんかたなし、いにしへの衣通姬小町とも云ふべき面影にして、糸竹の業は更なり、和歌俳諧の道も工にして、情のみちいはんかたなし、然るに此薄雲、猫を愛しける事、いにしへの女三の宮にもこえたり、常に毛なみ美しき猫に、から紅の首綱を付て、禿にいだかせ揚屋に到れり、薄雲用たしに行ときは、此猫跡を慕ふ、後には人々不思議をたて、此猫薄雲を見入れしと、誰言としもなく私語合けり、後は三浦の亭主も是を聞、公界する身にかゝるうき名たちては、能からぬ事とし彼猫をいましめ置けり、折ふし薄雲厠へおもむきける後影を見るより、此猫背を立、齒をむき出してけしきをかへ、忽綱をかみ切、料理場を一走に飛おりて行所を、料理人庖丁を持居けるまゝ、一打に切けるがあやまたず、猫の首水もたまらず打落して、むくろは俎板のもとに殘れども、頭はいづち行けん見えずなりぬ、然るに、薄雲が居たりし厠、物騷しき音しければ、薄雲は此音に驚きはしり出、しかじかと云けるまゝ、男ども立寄て、厠の踏板を引放見ければ、大成蛇のかしらに、彼猫の首は喰付て有ける、いつの比よりか、此蛇雪隱の下にかくれ、薄雲を見いれしを、猫のとく知りて、厠へともに行、薄雲が身を守護なしけるとも知らずして、猫を殺しけるは、いと不便なりとて、猫の亡骸は、菩提所へ葬遣しける、其比揚屋へ到る太夫格子、皆々猫を禿に抱せて、道中なしけるとなん。

   *

根岸先生、思うに、こっちをお載せになっておられたら、私は感服致しましたがのぅ……

・「安永天明」西暦一七七二年~一七八九年。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、三十七~二十年前の比較的古い都市伝説である。

・「農人橋」現在は大阪府大阪市中央区を流れる東横堀川に架かる中央大通平面道路の橋及び東詰周辺の町名。

・「定住座臥」底本では「定」の右に『(常)』と訂正注を打つ。

・「椽頰」底本では「椽」の右に『(緣)』と訂正注を打つ。但し、この誤用は近代の芥川龍之介などもしており、殊更に誤記と示す必要はない慣用表現である。

・「島の内」大阪府大阪市中央区の地域名。東を東横堀川、南を道頓堀川、西を西横堀川、北を長堀川に囲まれていた(現在は道頓堀川のみが現認出来る)地域で、人工の堀川開削によって出来た島の内側であることから「島之内」と呼ばれた。それぞれの堀川を挟んで東は上町、南は道頓堀、西は堀江、北は船場に接している(以上はウィキの「島之内」に拠った)。

・「夜四ツ頃」不定時法で十時(冬至頃)から十時半過ぎ(夏至頃)。

・「九ツ」暁九ツ。不定時法で午前零時前後。

・「大御番」大番。耳嚢 巻之三 年ふけても其業成就せずといふ事なき事の私の「兩御番」の注を参照。さすれば、これは大坂での実聞(じつぶん)ではなく、又聞きであることが分かる。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 猫忠死の事

 

 安永天明の頃のことやった、とか。

 大坂農人(のうにん)橋に、河内屋惣兵衞(かはちやそうべえ)ちゅう町人がおったが、この一人娘、これ、えろぅ器量よしやったさかい、お父うおっ母あの可愛がりよう、これ一方ならんかったそうや。

 ところが、惣兵衞が方には、これ、年久しゅう、飼(こ)うて御座った猫のあって――ぶち猫やったというこっちゃ――その娘も、この猫を、よぅ可愛がっておった。

 されど、この猫、度(どお)が過ぎた訳や。

 その娘子(むすめご)につきまとうて、つきまとうて、これがまあ、かた時も、離れんちゅうこっちゃ。

 常住座臥……なんやな……そのぉ……へへっ……厠(かはや)の行き来なんどにも、つきっぱなしの、まといっぱなし、ちゅう訳や。

 そんなこんなで、のちのちには、

「……河内屋はんとこの、あのごりょうはん、何でん、猫に魅入られるたちゅう、もっぱらの噂やでぇ……」

と、近隣どころか、大坂中、もう、えろぅ、知れ渡ってしもうた。

 そうなったら、こりゃもう、美人やいうて、これ、縁談の世話なんぞ致いても、

「……そやかて……あのごりょうはん、これ、猫に魅入られたちゅう、評判の――猫娘――だっしゃろぅ?!」

と、どこもかしこも、けんもほろろに断って参ったによって、流石に、その二親(ふたおや)も、えろぅ、もの憂いことになった、ちゅう訳や。

 時に、しばらくの間、お店(たな)から遠く離れた所へ、追っ放してみても、これ、ふっと気がつけば、立ち帰って、娘のお膝へ、ちんまり、これ、座っておる。

「……猫ちゅうもんはおそろしいもんや。……とりわけ、親の代より可愛がって、数年この方、飼いおいておる猫なれど。……しゃあないわ。……打ち殺ろして捨(すつ)るしかおまへんやろなぁ……」

と内々に相談致いて、これ、極まって御座ったと。

 ところが、そう話し合(お)うた翌朝のこと――かの猫――どこぞへ行方知れずになってしもうたによって、

「……やっぱそうやったかい!」

と、家を挙げて、祈禱師を呼んで化け猫調伏を祈るやら、その他もろもろ、魔よけのお札なんどをぎょうさん貰(もろ)うてからに、そこたらじゅう、これ、ぺたぺた、べたべた、貼りに貼っては、家内(いえうち)の者、皆して精進潔斎、慎んで御座ったちゅうことや。

 ところが、それからほどない、ある夜のことじゃ。

……惣兵衛の夢に……何と……あの猫が出た!……

……枕元に来たって、これがまた、凝(じぃー)っ、とうずくまってな……恨めしそうな眼(めえ)で……惣兵衛がことを……これまた……凝(じぃー)っと、見つめておったそうな……

 されば惣兵衛、

「……そ、そなたは!……な、なして、身を隠したくせに、……か、かくもまた、……も、戻ってきたんやッ?……」

と質(ただ)いたところが……猫が……人声(ひとごえ)にて……答えたんやて!……

 その言うことには、

「……わては……ごりょうはんを魅入った言うて……殺されんとのこと……聴き及びましたよって……身を隠して御座いますんや……よう考えても見さっしゃれ……わては……この家のご先代さまより養はれ……まず……凡そ四十(しじゅう)の年ほども厚き恩を蒙って参りましたに……どうして……どうしてご主人さまがために……そないな恐ろしきこと……これ……致しましょうか……わてがごりょうはんの傍(そば)を離れなんだは……実に……この家(や)に……年を経(へ)ましたるけったいな鼠のおって……そ奴(やつ)こそが……かのごりょうはんに魅入って……これ……近づかんと致いておりましたんや……さればこそ……わては……その防ぎのために……いささかも……ごりょうはんの傍を離れず……ついて守らんと致いたので御座います……勿論……鼠を制しまするは……これ……猫にとっては当たり前のこととは申せ……なかなか……かのけったいな鼠……これ……わて一人の身にては……制すること及びがたく……そんじょそこらの猫にては……とてものこと……二匹三匹にても……これ……制すること……成り難き物の怪……されど……ここに一つの法の……御座いまする……島(しま)の内口(うちぐち)に……御主人さまと同じき屋号の……河内屋市兵衞と申さるるお方がおられます……そのお方のもとに……虎猫の一匹……これ……おりまする……一つ……これを借り受けて……わてとともに……かのけったいな鼠を制したとならば……ことは……これ……確かに……成就間違い……御座いませぬ……」

と、申したかと思うたら……ふっと……影も形も見えんようになった――と――眼(めえ)が醒めた。

 ところが、醒めてみれば、隣の妻なる者も、これまた、蒼い顔して、起きておった。

 惣兵衞、

「……実は……今……こないな不思議な夢を……見たんや……」

と言うたところが、妻も唇を震わせながら、

「……わ、わても、そ、それと同(おな)いな夢を! これ! 見ました!……」

と体をわななかせて言いよったによって、夫婦揃うて、ひしと抱きおうた、と申す。

 されど、

「……たかが、夢を……これ、強いて何かをするということも……何やしのぅ……」

と、結局、何もせんと、その日は暮れた。

 ところが……

 その日の夜(よる)……

……またまた……

……かの猫が……

……二人の夢に現われた!
 
 そうして、

「……疑ごうて下さるな……かの猫さえ……お借り下さっしゃれば……お主(しゅう)さまの……この災い……きっと……除いて……見せますれば……」

と語ったと、申す。

 さればこそ、翌朝になるを待って、惣兵衞、かの申し条(じょう)の通り、島の内へと至って、料理茶屋風の河内屋市兵衛と申す者の商うお店(たな)の方へと立ち寄って、それとのぅ、店(たな)内を見てみたところが、その内庭の辺り、縁端(えんばな)のところに、これ、一目見て――これぞ!――と思わるる、まあ、実にまるまるとした剛毅な虎猫の、陽だまりにうずくまって御座ったによって、惣兵衞、亭主に声掛け致すと、直々に逢(お)うて、密かに口止めを申し述べた上、かの顛末の仔細、これ、物語り致いたところ、

「……いや……この猫は年久しゅう飼(こ)うてはおります。……なれど、そのように傑物なるやいなや……まんず、ようは分かりませぬ。……されど、まあ、切(せち)にお求めとならば……」

とて、承知の由、言質(げんち)を受けたによって、その場で貸しもろうことを約し、別れて御座った。

 明けの日、下男に、かの虎猫を借り受けに遣わしたところ、その虎猫も――信じ難きことなれど、かのぶち猫より通じて御座ったかの如(ごと)――嫌がる様子ものぅ、素直に下男が懷(ふところ)にちんまりと収まって、惣兵衞が方へと参ったと申す。

 されば、いろいろ馳走(ちそう)など遣わして御座ったところ……かの……行方知れずであったぶち猫が……これ……何処からとものぅ、ひょいと惣兵衞のお店(たな)へと戻って参り……この虎猫と寄り添うて、

「……ゴロコロ……ニャア! ゴロ……ゴロ! ニャアニャア……」

と、互いに、しきりに喉を鳴らし合(お)うておる。その様子は、これ、あたかも人間の友達同士が、何やらん、話し合(お)うておるような塩梅(あんばい)。

 さても、その夜(よ)のこと、またまた惣兵衞夫婦が夢に、かのぶち猫の参り来たって、申すことには、

「……明後日……かの鼠を成敗(せいばい)致さんと存じまする……日の暮るれば……わてと虎猫殿を……これ……二階へ上げおき下さりませぃ……」

と、きっと約して御座ったと申す。

 されば、その意に任せ、翌々日、二匹の猫に、これ、相応の馳走の膳を供した上、さても夜(よ)に入って、お店(たな)が二階へと上げおいた。

 夜(よ)も既に四ツ時かと思う頃のこと、

ドンガラ! ガッシャン! ド! ドッツ! ドッスン!

フンギャア! ヒイイーッツ!

――と!

――二階の騒動!

――これ、まあ!

――凄まじく!

――しばしが間(あいだ)は、お店(たな)の総身が地震(ない)の如く、ビリビリと顫えなど致いた。……

 九ツにも至らんとする頃合い、少し静まって御座ったによって、

「……た、誰れか!……」

「……い、いや!……お前が!……」

なんどと家内の皆々が言い合しだしたによって、

「……わ……わてが、ま、参りまひょ!……」

と亭主惣兵衞自ら、先に立って二階へと上がってみた。

……と……

……猫にも勝る大鼠の……

……その喉笛へ……

……かのぶち猫……

……喰らいついておったれど……

……鼠にその脳味噌を掻き破られ……

……大鼠ともに……

……すでにこと切れて御座った。 

 

 さても、かの島の内の虎猫も、これ、鼠の脊(せえ)に遙かに勝る大猫で御座ったれど、気力も何(なん)も、すっかり使い尽くしてしもうたものか、まさに瀕死の体(てい)にて御座ったれど、この方は、いろいろと療治致いて、命を救うこと、これ、出来て御座ったと申す。

 されば、惣兵衞、虎猫の十分に元気になったところで、かの島の内の市兵衛方へ、厚うに礼を述べ、虎猫殿を返して御座ったと申す。

――ぶち猫は――これ――その河内屋への忠心に感じ――厚く葬いをも成し――一基(いっき)の墓を建立(こんりゅう)致いてやったとか申す。 

 

 以上、在番中に聞いたことで御座ると、大御番(おおごばん)を勤めて御座った某(なにがし)殿が、私に直接、物語ってくれた話で御座る。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 了

M573

図―573

M574

図―574

 

 日本の他の地方に言及する前に、記録しておかねばならぬことが二、三ある。あらゆる場所には、それぞれ特有の人力車の型があるらしく、鹿児島もその例に洩れない。ここの人力車の梶棒は、横木が車夫の頭の上へ来るような具合に鸞曲しているので、乗る人はこれでよく自分が投げ出されぬなと、不思議に思う。この人力車の大体のことは写生(図573)で判るであろう。背面と側面とには、ペンキ漆がゴテゴテと塗ってあり、竜その他の神話的の事物や、英雄、豪傑の絵等が背面の装飾になっていたりする。薩摩と肥後の穀物畑では、変った型の犁(すき)が使用される(図574)。鉄の沓(くつ)と剪断部とは、軽くて弱々しいらしいが、犁は土中で転石にぶつかったりしない。これは一頭の馬に引かれ、構造は原始的だが、充分役に立つらしく思われる。

[やぶちゃん注:「くるま屋 人力車工房」日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第一章 一八七七年の日本――横浜と東京 19 倉・竹箒・ミシン・人力車・箸で人力車については注したが、公式サイトの「政策の歴史」(斎藤俊彦著「人力車」より抜粋とある)の「梶棒」の稿には以下のようにある。

   《引用開始》

錦絵に描かれた人力車をみると、梶棒に二つの型がありました。一つはまっすぐな梶棒で、他は握る部分が急に上の方に曲がった梶棒です。この後者の方は。地方で生産される人力車の中に、明治二十年ころまで残っていました。この梶棒の先端に、象の鼻のように曲がった金具をつけて、梶棒を地面につけるときの支えとしました。形状から「象鼻」と呼ばれていますが、これは秋葉大助が明治十三年ころに考案したものだと伝えられています。

   《引用終了》

ここに『明治十三年ころ』とあるのは不審である。ここに見るようにこの「象鼻」は明治一二(一九七九)年の鹿児島には既にあった。これって、もしかして新しい発見!?

「犁」ウィキの「ブラウ」の「日本における普及と発展」の「犂」には以下のようにある(下線部やぶちゃん)。『日本においてプラウは、その伝来の経緯から犂(すき)と呼ばれ、カラスキ(唐犂)とも呼ばれていた。正倉院に収蔵されている子日手辛鋤(ねのひのてからすき)は』、天平宝字二(七五八)年の『正月の行事に使われたと伝えられており、また、滋賀県草津市の中畑遺跡からは平安時代のカラスキが出土している。なお、牛馬に牽引させる犂(すき)と手に持って使う農具の鋤(すき)は異なる農具である。また、「犂」という漢字は俗字扱いであり、正字体は「犁」である』。『犂の種類には、中国から伝来し、大化の改新の時代、時の政府が推奨した長床犂と、朝鮮半島からの渡来人がもたらした無床犂があり、長床犂はプラウのヒールに相当する床が長く、安定して耕起することが出来て取り扱いやすい反面、大きな牽引力が必要で長い床の為に深く耕すことが出来なかった。一方、無床犂は床がないために深く耕すことが出来たが、取り扱いには熟練を要し、その取り扱う姿から抱持立犂(かかえもったてすき)とも呼ばれた』。『最初に犂が伝来した九州の北部をはじめ、西日本では犂を使っての耕起が盛んであった。後に明治から大正期にかけて長床犂、無床犂それぞれの長所を取り入れた日本独自の短床犂が作られ、畜力による犂耕が全国的に普及した。その後、牛や馬による畜力から、内燃機関を原動力にしたティラーや耕耘機へと牽引の動力は移り変わり』、第二次世界大戦後の昭和三十年代には、『耕耘機によるロータリー耕が普及したことにより、稲作での犂による耕起法は衰退した』とある。香川県農業試験場公式サイトのⅡ.農具等の解説と画像を見るに、これはまさにこの無床犂(抱持立犂)ではなかろうか。しかも犁は九州が伝来の地とあるから、この図の犁は本邦の犂の古形を伝える外国人による貴重なデッサンと言えるのではあるまいか。]

M575

図―575

 

 この国には石造の拱橋が多い。古いのも多く、ある物はかなり大きく、そしていずれも絵画的である。鉄橋がこれ程沢山あるのに、それ等の拱(アーチ)に、我我が橋に於る非常に重大な要素と思う楔石を持ったのが一つも無いのは、不思議に思われるが、而も日本人はその必要を認めていない。我々には、日本の拱が不完全で不確実であるように見える。然しながら、私は弱さを示したものは唯の一つも見たことがなく、又、しかある可き理由も無い。それは景色に美しい特徴を与える――河や、小さな流れにさえ、時代の苔が緑についた、石の拱がかけ渡してある。鹿児島市中の小さな、狭い川には、一箇所に石の拱橋が三つかかり、三つの小さな歩径をつないでいた(図575)。

[やぶちゃん注:ネットで調べてみたが、この三つ並んだ架橋群は現存しないか。識者の御教授を乞うものである。

「拱橋」前出。「こうきょう」と読む。上方に弓のように反ったアーチ橋のこと。ウィキアーチ橋」に、『日本には、石のアーチ橋の技術は中国から沖縄(当時は琉球王国)にもたらされたものが最初とされる。また長崎にも伝えられ』、寛永二〇(一六四三)年『に眼鏡橋が架けられた。これを期に九州各地に石造りのアーチ橋が架けられている。熊本の通潤橋は灌漑用の水路橋として知られている』。『木造のアーチ橋と知られている錦帯橋も、寛文一三・延宝元(一六七三)年『に中国の同名の橋をモデルに独自技術で架設された。 日本ではアーチ橋は古来、反橋・太鼓橋などと呼ばれてきた。ただし、これらの中には形はアーチだが途中に橋脚を持つものもあり。この場合はアーチではなく桁橋の変形と言える』とある。モースは楔石(くさびいし)がないとするが、アーチ橋は楔型に加工した石を両側から積み、最後に中央に要(かなめ)石を置くことで石同士の圧力で強度を保っており、楔石が楔に見えないのである。架橋には石と石が接する合端(あいば)と呼ばれる部分の精密な加工や合端の角度を設計通りに仕上げる緻密な積み方が要求されるが、それが実にモースの称讃する「景色に美しい特徴を与える」という神技の印象を齎しているといえるのである(この最後の部分は北國新聞社・富山新聞社の記事「アーチ橋に石工の技 小松石材工業協同組合」の記述を参考にさせて戴いた)。]

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図―576

 

 薩摩では古いニューイングランド型の跳つるべが見られるばかりでなく、図576に示すが如く、井戸が家の内にあって、跳つるべが外に立つているというのもある。鹿児島では、これは湯屋を現している。

M577

図―577

 

 日本人が小さな物をつくるのに、如何に速に竹を使用することを思いつくかは、興味がある。一例として、先日曳網をしている最中、私は長い鉄の鉗子(ピンセット)を忘れて来たことに気がついた。すると私の下男は、直ちに舟の細い竹の旗竿をとり、その一節を切って、間もなく美事な、長い銀子をつくった。使って見ると便利なばかりでなく、軽くて都合がよかった(図577)。

M578

図―578

 

 錨(いかり)は数種の型がある。四個の外曲した鉤を持つ鉄製のものは、戎克(ジャンク)の写生図の一つに於てこれを示した。図578はまた別の型である。これは木製で、錘(おもり)は横材にくくりつけた二個の石から成っている。

[やぶちゃん注:「戎克の写生図の一つに於てこれを示した」先の図568の舳先の方に横に渡して置かれてある、巨大な釣り針のようなものを指していると思われる。]

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図―579

 

 肥後と薩摩――九州の他の地方でも多分同様であろう――では、馬具の尻帯に、長さ二インチの陶器の珠数、換言すれば円筒をつける。この装置によって網は、擦傷をつけることなしに上下する。これ等は馬の脇腹を超す綱に交互につけられ、黄色緑色との釉(うわぐすり)がかけてある(図579)。蝦夷では同様にして、丸い木の玉が使用される。

[やぶちゃん注:「二インチ」五・〇八センチメートル。]

 
 
M580

図―580

M581_582

図―581[やぶちゃん注:上の大きな層を成すもの。]

図―582[やぶちゃん注:下の四つの突起様の岩礁(?)。]

 

 岬の写生図二、三をここに示す。図580は鹿児島湾への入口、図581は肥後の海岸からつき出たもので、南に下傾する岩の層があり、図582は薩摩の西海岸にある岩で、高さが五十フィートあるというので「五十フィート岩」と呼ばれる。層畳した岩の、これ程明瞭なのは、従来見たことがない。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、明治一二(一九八九)年五月二十四日早朝に鹿児島を出航したモースは、『この船が往路と同じく肥後の高橋川河口に停泊』したので、そこで再び下船している(以下の体験は次の「第十七章 南方への旅」で続いて詳述される)。

「鹿児島湾への入口」行ったことがないので、この景観では同定出来ない。鹿児島県指宿市西方の知林ヶ島(ちりんがしま)周辺か。識者の御教授を乞う。

「肥後の海岸からつき出たもの」同じく行ったことがないので同定出来ない。「南に下傾する岩の層」というのが顕著な特徴である。「つき出た」と言っているところを見ると島ではないように思われる。識者の御教授を乞う。なお、最後の「層畳した岩の、これ程明瞭なのは、従来見たことがない」というのは、スケッチと合わせると、同もこっちの岩の層を述べているように思われる。

『薩摩の西海岸にある岩で、高さが五十フィートあるというので「五十フィート岩」と呼ばれる』「五十フィート」は十五・二四メートル。簡単に同定出来ると思ったが、それらしい名称の岩を発見出来ない。最後の最後に識者に再度、御教授を乞うものである。

 以上を以って「第十六章 長崎と鹿児島とへ」が終わる。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 元垂水での貝類採取及び深夜の県令岩村通俊の愉しい饗宴の事

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図―571

 

 上陸地への帰途、我々は古い陶器を見るために、ある紳士の家へ立寄った。同行した官吏が人々に向って、私が古い陶器に関して、非常に興味を持っていることを話したので、私は沢山の珍しい物を見る機会を得た。図571は、古い朝鮮の盃で直径六インチあり、内側の模様が如何にも変っているので、写生した。こんな奇妙な熊手や床几は、日本では見たことがない。私は大学博物館のためとて、変った形をした卵形の壺を貰った。これは高さ十四インチで、最大直径の部分に粘土の紐(ひも)がついている。いう迄もないが赤い粘土で、厚くて重く、より北方で見出される如何なる陶器とも違ったものである。

[やぶちゃん注:「六インチ」十五・二四センチメートル。

「奇妙な熊手や床几」文脈上はこれは前の盃の外側に描かれたもののように読めるが、盃ではかなり小さい絵になってしまう。別な陶器の図柄か。ともかくも蒐集家ならばこれらのモースがみたものを特定出来そうだ。私は貝なら掬すが、陶器にはまるで関心がない。識者の御教授を乞えると助かる。

「十四インチ」三十五・五六センチメートル。

「大学博物館」前にもこの「博物館」という言葉は出ているのであるが、私はずっと、例えばここで「大学」と称しているところからも、これは当時あった教育博物館(現在の国立科学博物館前身)などではなくて、「日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十章 大森に於る古代の陶器と貝塚 8 東京大学構内」で図示して注したところの、そこの図で『「1・2」を合わせた面積の一階部分が列品(標本室)であった』という場所、モースの半ば私的なコレクション・ルームを「大学博物館」と称しているのではあるまいかと疑っていることをここに述べておきたい。]

 

 古代の朝鮮及び日本の陶器を見て、この上もなく気持のよい時をすごした後、我々はまた、干潮なので岸に沿うて出立し、私は初めて熱帯性の貝がいくつか、生きているのを見て、大きによろこんだ。タカラガイ、イモガイ、ホネガイ等の科、及び精美な小さい一つのナツメガイがそれである。日のある内に風が無くなって了い、我々は数時間、遅滞させられた。知事は私を六時の正餐に招待してくれたのであるが、上陸点へ着いたのは九時であり、それも、途中で起った疾風のおかげで、そうで無かったら、十二時にはなっていたであろう。私は舟から飛び下り、旅館へ駆けつけて靴下と新しいシャツとを身につけ、同行した官吏と、助手との三人で、知事の家へ急いだ。我々は大きくて広々とした美しい部屋へ通された。勿論私は靴をぬいでいた。この部星へ歩いて入ると、知事が出て来て懇(ねんご)ろに私に挨拶したが、殆ど十時に近かったにもかかわらず、彼の態度には、いささかも待ちくたびれたような所が見られなかった。彼の庭園には菊の驚くべき蒐集があり、それ等は数百の燈火で照らされてあった。次に彼は私に数箇の薩摩焼その他を見せ、その興味は全然別の方向にあるものとされている外国人が、かくも早く、支那、朝鮮及び日本の陶器を鑑別することを覚え込んだことに就て、何度か驚嘆した。十時、我々は食事のために、二階へ呼ばれた。すべてで六人で、正餐は私に敬意を表する為とあって西洋風だったが、私はもう日本料理に馴れているので、日本風であったら、より喜んだことと思う。が、私は大いに食って、感謝の意を示した。朝の四時から、私が口に入れたものとては、少量のきたない荒塩をつけた薩摩芋たった二個なのである。

[やぶちゃん注:「古代の朝鮮及び日本の陶器を見て、この上もなく気持のよい時をすごした後、我々はまた、干潮なので岸に沿うて出立し、私は初めて熱帯性の貝がいくつか、生きているのを見て、大きによろこんだ。タカラガイ、イモガイ、ホネガイ等の科、及び精美な小さい一つのナツメガイがそれである。日のある内に風が無くなって了い、我々は数時間、遅滞させられた。」原文は“After a charming time over the old Korean and Japanese pottery we started off again along the shore, as the tide was out, and I had the delight of seeing alive for the first time a number of tropical species of shells, Cypraea, Conus, Murex, and an exquisite little Bulla, During the day the breeze died out, and we were delayed for hours.”である。以下、属同定。この同定はすこぶる明解に行える(以下、フォントはセンチュリー斜体に代える)。

「タカラガイ」“Cypraea” は腹足綱直腹足亜綱 Apogastropoda 下綱新生腹足上目吸腔目高腹足亜目タマキビ下目タカラガイ超科タカラガイ科タカラガイ属 Cypraea のタカラガイ類を指す。世界で二百三十種ほどが知られ、本邦近海に産するものは九十種弱。コレクターの間では最も人気のある種で、本種のみを収集するおぞましい(私も無論、好きだが、少なくとも私はこういう偏愛的な連中とは同等に見られたくないのである)フリークも多い(次のイモガイ類も全く同様である。以下の三種は極めて知られた貝であるから画像リンクはしない)。

Conus” 新腹足目イモガイ科イモガイ亜科イモガイ属 Conus

Murex” 吸腔目アクキガイ科 Murex属のホネガイ Murex pectin 若しくはその近縁種。

Bulla”は“an exquisite little”とあるから、後鰓亜綱異鰓上目後鰓目ナツメガイ科ナツメガイ(棗貝)Bulla vernicosa の小型個体か、その稚貝と考えてよい。ナツメガイは本州中部以南に棲息し、成体の殻高は四・五、殻径は三センチメートルに達する。殻は円筒形でやや厚く、有意に内方に向って巻き込み、螺塔や螺層が現れず、殻頂は狭く窪んで開口する。殻口は下方に開いて外唇は鋭く、中間部は鋭く、彎曲していない。殻表は平滑で光沢を持ち、しかも葡萄色の地に三角形の小さな黒褐色を帯びた小斑が不規則に散布し、四条の濃い色帯を持つ美しい掬すべき貝である(私も好きな貝の一つである。なお、ここまでの記載は主に保育社の吉良図鑑に拠った)。本邦には同属で、酷似した、しかも有意な小型種であるコナツメガイ Bulla orientalis があるが、残念ながらこれは沖繩以南にしか棲息しない。分類の「後鰓亜綱異鰓上目後鰓目」で気づかれた方も多いであろうが、グーグル画像検索「Bulla vernicosaを見て戴くと一目瞭然、「コナツメガイ」と「カイ」がつくが、所謂これは広義の「カイ」で、本種は有殻のウミウシの仲間である。

「知事」先に注した鹿児島県令岩村通俊。以下のモースの観察を見ても、彼は実に誠実な人物であることが知れる。彼の故郷の宿毛市立宿毛歴史館公式サイト内にある「岩村通俊記載を読むと、彼の人となりがよく分かる。なお、この深夜の饗応の膳は磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の推定によるなら、明治一二(一八七九)年五月二十三日の午後十時に始まり、翌二十四日未明の午前二時に終わっている。以下見るように、この数時間後の早朝に鹿児島を出帆しているので、薩摩芋二個の昼間の遠征観察採集から宴会――相当ハードな予定である(後段に出る船上でのバタンキューもさもありなん、である)。]

 

 列席した一人の紳士は面白いことをするのが好きで、正餐が半分も終らぬ内に、両手で色々と変ったことをやり出した。私は彼のやったことをすべて真似することが出来たが、只指を曲げて腕につけることは出来なかった。そこで私は彼等に両手を反対の方向に廻し、お仕舞には右手を左手より速く廻すという芸当をやって見せた。彼等がこれをやろうとして死物狂になる有様には、実に笑わざるを得なかったが、誰にも出来なかった。

[やぶちゃん注:「指を曲げて腕につけることは出来なかった」私は出来ますよ、モース先生。因みに、先生がやられたのは、所謂「アブラハムの子の踊り」のようなものでしょうか? 見たかったな、モース先生の「アブラハムの子の踊り」!]

 

 次に私は一寸の間刀を借して貰い度いと頼んだ。刀は前の布に包まれて持ち出された。刀を抜くことに伴う権威と儀礼を承知している私は、先ず謝辞を述べ、僅かに横を向いてから、刃を私の方に向けて刀を抜いた。これは両手の甲を下に、柄を片手で、鞘(さや)の柄に近く別の手で握り、そこで刀を抜き、両手で完全にひっくりかえしてから、刀を掌で鍔(つば)に納めようというのである。所が誰にも刀と鞘とを並行にすることが出来ず、大抵は直角にするのであった。

[やぶちゃん注:ちょっと意味が分からないのだが、モース先生の左右の腕の膝関節が非常に柔軟で、左右の腕を反転させて、その左右に持っているものを反転させる前の平行状態にまで持って行けるということを指しているか? だとすると、これは私も出来ない。]

M572

図―572

 

 私はまた彼等に、私が子供の時田舎の学校で覚えた、床でやる芸をいくつか見せたが、酒を飲んだり遊んだりしたので、一同大いに面白くなった。知事は彼がそれから洒を飲んだ薩摩焼の徳利を呉れた。これは何年か前、特に彼のためにつくられたのであるが、彼はこれでは酒の入りようが足らぬといった。図572はその徳利と、それに附属する深い函形の皿との写生である。深い木製の皿には相対した側に穴があり、それを清める時に、ここから布を引き出す。

 

 午前二時、我々は別れを告げねばならなかったが、一同、非常に面白く、愉快だったといった。我々は暗い中を旅籠屋へ急ぎ、その日採集した物を包み上げ、恰も夜が明けようとする時汽船へ向けて出立した。我々は錨の捲きあげられる音を聞き、動き始めた汽船に乗り込んだ。私は二十四時間活動しつづけ、曳網を行い、殆ど何も食わずに赫々たる太陽の下を八マイルも歩き、今や疲労のあまり固い甲板の上にぶっ倒れて熟睡して了った。

[やぶちゃん注:「八マイル」十二・八七キロメートル。元垂水での貝積層までが徒歩片道(3マイル×2)で、それにその他の歩行距離(+1マイル)である。]

 

 長崎で手に入れそこねた米国からの私宛の郵便物が、陸路鹿児島へ転送されたということを、私はどうにかした方法で耳に入れた。が、汽船は定刻に出帆するので、待っている訳には行かず、又しても私はそれを見ずに行かねばならぬ。だが、郵便局に、それを長崎へ戻すことを命じた。私は長崎には一週間か、あるいはそれ以上滞在することになっていた。

[やぶちゃん注:この五月二十四日早朝の鹿児島出帆後、幾つかの寄り道をしながら(後注する)モースは長崎に、六日後の五月三十日に戻っている。]

カテゴリ 堀辰雄

幽やかにカテゴリ「堀辰雄」を創始した。24時間以内に必要になるからである――

2015/01/07

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 元垂水

M569

図―569

 

 翌朝は湾を十マイルか十二マイル下り、曳網をしたり、岸に沿うて採集したりすることになっていた。我々と同行すべく知事によって選ばれた官吏は、私に陸上の高所に貝殻の堆積があり、人々がそれを焼いて石灰をつくっている場所があると話した。彼の説明を聞いた私は、それを古代の貝墟に違いないと思った。我々は四時に起き、必要品を取りまとめてから、湾を下り始めた。風が無いので長いこと漕ぎ、湾の東岸にある元垂水という、非常に美しい場所に着いた。官吏は私と一緒に上陸し、種田氏と下僕とは曳網をしに舟を出した。こんな所へは外国人なんぞ来ないので、海ぞいの小さな漁村を通りすぎると、村民達は一斉に私を見に出た。私は、ある山間の渓流で飲んだ水が、非常にうまかったことを覚えている。我々は想定的貝墟まで、殆ど三マイル、海岸について歩いた。それは貝墟には違いなかったが、人工的なものではなく、海岸で磨滅された貝殻の巨大な堆積であった。比較的新しい時代に海岸が隆起し、これ等の貝を水面から、かなり高い所迄持ち上げたのである。ダーウィンは『博物学者の航海』で、チリー、コキムボに於る同様な海岸隆起を記述している。これは更に山容によって示された、この地方の火山性性質を証拠立てるものである。ここを歩くことは、古い習慣がすべて行われているので、誠に興味が深かった。子供達は遊びをやめて丁寧に私にお辞儀をし、男や女は私が通ると仕事を中止してお辞儀をした。これ等に対して私もまた丁寧にお辞儀をしかえした。練習の結果、私は日本風のお辞儀が大層上手になっていたのである。我々は鞍も鐙(あぶみ)も日本古来の物をつけた馬に乗って来る人に逢った。万事日本風である。ある家の背方を過ぎた時、私はニューイングランドの典型的なはねつるべを見た(図569【*】)。

 

 

* この写生図は『日本の家庭』にも出ているが、私は再びそれをここに出さずにはいられない。

 

[やぶちゃん注:「十マイルか十二マイル」十六・一~一九・三キロメートル。現在の鹿児島県垂水市市木下元垂水(もとたるみず)は桜島の南西一一・三キロメートル位置にある。鹿児島からは錦江湾東の鹿児島港からなら、鹿児島湾を直線で計測しても十七キロメートルあり、桜島の南岸を少し迂回せねばならず、穏当な距離測定と言えよう。

「種田氏」モースの右腕で正規の助手(教場助手補)種田織三。既注。

「三マイル」四・八三キロメートル。この石灰を採取出来るほどの多量の貝の堆積層があった場所は不明であるが、叙述の中に桜島が出ない点、モースが「殆ど三マイル、海岸について歩いた」と述べている点、官吏は「陸上の高所」と呼んでいる点などから考えると、私は元垂水、現在の垂水港の北にある市木の港を起点として、南(北では殆んど桜島直近となり、桜島を描写しないのは不自然であるから排除出来る)の海岸線で、そこから土地が有意に急速に高くなっている場所と考えてよいと思われる。現在の佐多街道に沿って南下すると、この距離だと、現在の鹿児島県垂水市柊原(くぬぎばる)か、その北にある垂水市本城(ほんじょう)地区(尾根が伸びていて明らかに有意に高い)辺りではなかったかと推理する。現地の方から御意見を戴けると誠に嬉しい。よろしくお願い申し上げる。

「博物学者の航海」これは原文も“Voyage of a Naturalist”となっているのであるが、恐らくは知られた“The Voyage of the Beagle”のことと思われる(「ビーグル号航海記」の邦訳名で知られるこれは一八三八年から一八四三年にかけて出版された“Zoology of the Voyage of H.M.S. Beagle”(全五巻)を皮切りに、改題と改稿を繰り返している)。私は凡愚にして、まともに読んだことがない。

「チリー、コキムボ」コキンボ(スペイン語:Coquimbo)。チリのコキンボ州(北にアタカマ州・南側にバルパライソ州と接し、東は全面がアルゼンチン共和国国境、西部は全面が太平洋に面している)にある港湾都市でエルキ県の県都。前注通りであるからして、途方に暮れていたところ、検索で「さとふみ」氏という方がブログで膨大な「ダーウィンの日記」を対訳されておられ(凄い! 必見!)、その「ダーウィンの日記1835年5月19日」にまさにそのコキンボでの日記が載っているのを発見! 快哉! そうしてそこには実に、

   《引用開始》

私は少し谷を溯って、かの階段状の砂利の平原を見た。これはキャプテン・B・ホールによって叙述されているもので、その起源についてはライエル氏によって議論されている。同じ現象はウァスコの谷にもっとはっきりした形で見出される。所により、7つにもおよぶ完全に水平で広さの異なる平原があり、谷の片側または両側に一段々々と昇っているのである。疑いもなく陸地の隆起の間、崖のそれぞれの線がある期間大きな湾の海岸だったのだ。

コキンボでは海の貝が地表近くの層に埋まっていた。この証拠に依拠することなくキャプテン・ホールによって言われているような、湖の障壁の継続的な崩壊という説明は、まったく当てはまらない。

これらの段丘の外見は、特にウァスコにおけるものは、陸地の今日の形状の成因についてまったく関心を持たない者全ての関心を呼び起こすに十分に顕著なものである。平行で平らな線の多さ、その線の多くには谷の反対側のそれがちょうどぴったり対応していて、これは近接の山脈の不規則な輪郭によってよりいっそう異彩を放っているのである。

   《引用終了》

という記載が載る(訳注と補助訳の部分は省略したので、必ずリンク先を確認されたい)。モースが言っているのはこれを元にした「ビーグル号航海記」の一節と見て間違いあるまい。

「この写生図は『日本の家庭』にも出ている」(原注の箇所)以下、“Japanese homes and their surroundings”(1885)の原文、及び斎藤正二・藤本周一訳「日本人の住まい」(八坂書房二〇〇二年刊)の「第二章 家屋の形態」から当該の図54と、その前のこの元垂水行でのスケッチである図53及び当該図の本文の解説箇所を引用しておく。これはまさに本段落をよりよく理解するためには欠くべからざる、学術的にも翻訳著作権の侵害に当たらぬ正当なる引用であると信ずる。

Smai53

Fig. 53. — Shore of Osumi.

Sumai54

Fig. 54. — Farmers' Houses in Mototaru-midsu, Osumi.

 

   The country houses on the east coast of Kagoshima Gulf, in the province of Osumi, as well as in the province of Satsuma, have thatched roofs of ponderous proportions, while the walls supporting them are very low. These little villages along the coast present a singular aspect, as one distinguishes only tlic high and thick roofs. Fig. 53 is a sketch of Mototaru-midsu as seen from the water, and fig. 54 represents the appearance of a group of houses seen in the same village, which is on the road running along the gulf coast of Osumi. The ridge is covered by a layer of bamboo ; and the ends of the ridge, where it joins the hip of the roof, are guarded by a stout matting of bamboo and straw. In this sketch a regular New England well-sweep is seen, though it is by no means an uncommon object in other parts of Japan. Where the well is under cover, the well-sweep is so arranged that the well-pole goes through a hole in the roof.

   《訳文引用開始》

 大隅地方の、鹿児島湾東岸にある家々は、薩摩地方における場合と同様に、どっしりとした感じの草葺きであるが、その屋根を支える壁は非常に背が低く、屋根ばかりが異常に大きくて目立つ。ともかくこの沿岸ぞいに点在する小村落は、奇妙な様相を呈している。見えるのはただ高いずんぐりした屋根ばかりなのである。五三図は、海上から眺めた元垂水(もとたるみず)というところの風景である。また五四図は、同村の一画で、その独特な家のたたずまいを示している。蛇足ながらこの村は、大隅地方の鹿児島湾岸ぞいに走る街道に面している。これらの家の屋根の棟は、棟押(むねおさえ)に竹を使っており、棟の両端の上棟(あがりむね)は、竹と藁でできた丈夫な当て物によって防護している。この図(五四図)では、標準型のニューイングランド式撥釣瓶が見えている。これは、日本の他の地方においてもよく見られるものである。井戸に簡単な屋根が取り付けられている場合でも、水を汲み上げる竿は、屋根に開けられた穴を通るようにうまく作られている。

   《訳文引用終了》

いつものことながら、こちらの絵の方が生地で屋根の特殊な造りなどもよく分かる。]

M570

図―570

 

 図570では、一種の粗末な厩を示す。日本の馬は頭の方から馬房に入って行かず、尻の方から後むきに入れられる。

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 当日の錦江湾ドレッジ

M568

図―568

 

 私は県知事を訪問して私の旅行の目的を話した。すると彼は非常に気持のよい日本人の官吏を一人、私の短い滞在期間中、私の助手としてつけてくれた。彼はまた我々の為に、清潔な、気持のいい宿泊所をさがしてくれた。正午、彼は舟をやとってくれた。裸体(はだか)の舟夫四人は、力強く漕いだばかりでなく、曳網に興味を持ち、曳いた材料から標本を拾い出すことを手伝った。薩摩の舟はこの種の中では最も能率的なもので、私がそれ迄に見た舟の中では最も速いものの一であり、台所の床――清潔で乾燥している場合の――みたいに奇麗である。舟首は図568に示すように、一つの木塊からえぐり出してあり、舟の平面図は右に輪郭図で示してある。我々は暗くなる迄網を曳き、沢山いい物を手に入れた。

[やぶちゃん注:「県知事」正しくは県令。当時の鹿児島県令は岩村通俊(天保一一(一八四〇)年~大正四(一九一五)年)であった。岩村は土佐国宿毛(すくも)で土佐藩陪臣岩村英俊長男として生まれた。明治二(一八六九)年に政府に出仕、聴訟司判事・箱館府権判事開拓判官・佐賀県権令・山口地方裁判所長を経て、西南戦争勃発直後の明治一〇(一八七七)年三月に鹿児島県令として赴任した(就任期間は明治一三(一八八〇)年六月まで)。彼は戦後、軍部の了解を得て、敵将西郷隆盛の遺体を鹿児島浄光明寺に丁重に葬ったとされる。その後は明治一九(一八八六)年の北海道庁初代長官を務め、元老院議官から農商務次官を経て第一次山縣内閣農商務大臣となった。大臣退任後は宮中顧問官・貴族院議員・御料局長・錦鶏間祗候を歴任、朝鮮京釜鉄道会社常務理事となっている(ウィキの「岩村通俊」に拠る)。

「薩摩の舟はこの種の中では最も能率的なもので、私がそれ迄に見た舟の中では最も速いものの一であり、台所の床――清潔で乾燥している場合の――みたいに奇麗である。舟首は図568に示すように、一つの木塊からえぐり出してあり、舟の平面図は右に輪郭図で示してある」形状からも典型的な美しく安定した丸木舟(刳り舟)である。私は詳しくないが、南西諸島、特に直近の種子島・屋久島・吐噶喇(とから)列島(総て現在の鹿児島県に所属)・奄美群島の人々の、古くからの通用船舶であり、また恐らくは古代ポリネシアの人々が黒潮に乗って北上して来たおりの造船技術が伝承されているものでもあろうと思われる。いつものモースだったら、そうした直感を覚えたはずなのだが。]

芥川龍之介遺稿集「西方の人」跋文 佐藤春夫

「西方の人」跋文 佐藤春夫

 

[やぶちゃん注:これは昭和四(一九二九)年十二月二十日に岩波書店から刊行された遺稿作品集西方人」の跋文である(小穴隆一画・装幀。リンク先は国文学研究資料館の「近代書誌・近代画像データベース」の「西方の人」。状態の良い書誌画像が見られる)。収録作品は、以下の通り。

 三つの窓

 手紙

 

 「古千屋」

 「たね子の憂鬱」

 http://yab.o.oo7.jp十本の針

 闇中問答

 齒車

 或阿呆の一生

 西方の人

 續西方の人

以上のリンク先は総て私の正字正仮名の電子テクストである(ものによっては草稿も附加してある)。但し、「手紙」と「冬」は私が唯一正統と考える二つがペアになっている初出形「冬と手紙と」であり、「西方の人」と「續西方の人」は私がカップリングしたテクストである。「古千屋」「たね子の憂鬱」(それぞれ以下にリンク)は孰れも「青空文庫」で読める(但し、新字新仮名仕様で、しかも親本がやや校訂上問題のある「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」であることは注記しておく)。

 底本は
国立国会図書館当該書籍近代デジタルライブラリ視認を用いた。]

 

 「西方の人」跋文

 

 ここに集められたものは悉く彼が晩年の稿である。或ものは文字どほりに必死の努力によつて生命をそのなかに注入しようとしてゐるし、また少数の或るものは心にもない重たげな筆を義務を痛感しながら不機嫌そうに運んでゐる。各の意味で一篇として彼が傷ましい生活を反映せぬものはない。就中、齒車の如きは紙背にこもつてゐる作者の暗涙がそぞろに人に迫つて、心なしには通読出來ないであらう。

 さきの日の颯爽たちすがたは今や悲痛な面ざしに變つた。彼を愛する讀者にとつてこれらの諸篇こそは最も愛惜に得堪ぬもので、蓋し卿等も亦わたくしとともに卷を掩うて必ず長く歎息せられるであらう。

  昭和四年晩秋   佐 藤 春 夫 誌 す

 

■やぶちゃん注

・「暗涙」「あんるい」で、人知れず流す涙。ひそかに流す涙。

・「卿等」「きやうら(きょうら)」で、尊敬の二人称の複数形。

・「卷を掩うて」「かんをおおうて」で、読んでいる本を一旦閉じ、そこまでの内容を吟味追懐すること。そうした読書の仕方を「掩巻(えんかん)」と呼ぶが、それを訓読したもの。

無題

その黄昏に君の行く
 
かの生臭き袋抱へ
 
その朝まだき
 
我れが饐えたる
 
そが香滴らせ
 
美(は)しき指にぞ
 
死の匂ふ

2015/01/06

「ノスタルジア」のあの民謡の歌い手の動画!

世の中には恐るべき人がいる! その方が探し当てたタルコフスキイの「ノスタルジア」のあの民謡を歌った歌い手の方の動画である!――
Сергеева Ольга Федосеевна 2000 г

ロシア語版ウィキの「Сергеева, Ольга Федосеевна」さんの記載(やはりその方から教えて戴いた)――
既に2002年に80歳で亡くなられていた……

何か僕は哀しい気がしているのである……

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ ゴミ捨て場で貝類を採取

 この、気のめいるような食事の後で、私は助手を従えて、海岸と町の海堤とに添うて採集に行き、下僕二人は町の背後の丘へ、陸産の螺(にし)をさがしにつかわした。暑くてむしむしし、採集している中に我々は、この町の塵や芥を積み上げた場所へ来たが、これは最も並外れた光景なのである。我々は一種奇妙な二枚貝のよい標本を沢山と、腐肉を食う螺とを手に入れた。積み上げた屑物の中では、沢山のオカミミガイとメラムパスと、一つのトランカテラとを採つた。悪臭は恐しい程で、日本の町は一般に極めて清潔なのに、これはどうしたことだろうと、私は不思議に思った。帰る途中で郵便局へ寄ったら、日本語で「コレラが流行している、注意せよ!」と書いた警報が出ているのを見つけた。最も貧弱な日本食を食うべく余儀なくされたので、私の胃袋は殆ど空虚であり、また始終非常に咽喉がかわくので、ちょいちょい水をのみながら、私は残屑物の山をかきまわしていたのである。その日一日中、私は気持が悪かった。

[やぶちゃん注:これも原文を最初に総て示す。

   *

   After this depressing meal I took my assistant and went collecting along the shores and sea wall of the town, sending the two boys into the hills back of the town for land snails. It was hot and sultry, and in our collecting we came across piles of garbage and refuse of the town, a most unusual sight. We got many fine specimens of a peculiar bivalve and also some carrion-eating snails. We got a great many Auricula, Melampus, and one Truncatella in the refuse piles. The stench was dreadful, and I wondered at it, as Japanese towns are generally so clean. On our way back we went to the telegraph office, and there saw posted up in Japanese a warning notice which read, Cholera is now prevalent; be careful!  I must confess I felt uncomfortable the whole day knowing how I had exposed myself overhauling garbage heaps on a nearly empty stomach, compelled to live on Japanese food of the poorest quality, and so thirsty all the time that I had to drink water once in a while.

   *

 まず注意されたいのは、訳文の『帰る途中で郵便局へ寄ったら、日本語で「コレラが流行している、注意せよ!」と書いた警報が出ているのを見つけた。』の部分で、ここは厳密に言えば、

 

帰る途中で郵便局へ寄ったら、日本語で警報が出ているのを見つけた。「コレラが流行している、注意せよ」!

 

である。このエクスクラメンション・マークは警報の告示文にあるのではなく(考えて見ればこの当時の鹿児島の電信局の日本人向けの告知文に「!」が使われている考える方が不自然である)、モースの「オウ!」という感嘆を示すものだという点である。

「陸産の螺」原文は“land snails”。これはカタツムリ類とキセルガイ科 Clausliidaeのキセルガイ類のような殼の巻の細いものを含めた腹足綱有肺類 Pulmonata を広く指していると考えられる。

「この町の塵や芥を積み上げた場所」これがどのような場所なのかが不分明なために以下の貝類の同定も思いの外、難しい。但し、「海岸と町の海堤とに添うて採集に行き」と前書することから、このゴミ捨て場は町中ではなく、町の外れの海岸線に思いっきり近い位置にあるか、錦江湾に流れ込む溝か小川かの河口周辺ではないかと考えてよいのではないかと思っている。

「一種奇妙な二枚貝」人が食べた後の殻であろう。それにしても専門家のモースが「奇妙な」と形容しているのがひどく気になる。「二枚貝」と明記している以上は二枚貝らしい。これは一体、何だったのか? 錦江湾で採れる二枚貝で、食用になり、しかもモースが見たことがない変わった形態をした種――モースがスケッチを残して呉れなかったことが悔やまれる――これはちょっと宿題としたい。どなたか、ピンとくるものがあったらお教え戴きたい。

「腐肉を食う螺」これが難問である。まず、海岸に近いとしても、純然たる海産肉食性巻貝類で、かくも陸のゴミ捨て場まで上がって腐肉に群がるという種はちょっといない(モースが見たのは叙述からして生貝である。腐肉食の死貝の貝殻を採取したとしてもこんな書き方は彼は絶対にしない)。とすれば、腐肉食の陸生腹足類、有肺類ということになるが、私は陸産貝類は実は守備範囲になく、実はお手上げである。ただ、ウィキカタツムリの「餌」の項によれば(下線やぶちゃん)、『ほとんどの種は植物性のものを食べ、生の植物や枯葉などやや分解の進んだ植物遺骸などを食べるほか、菌類を餌とするもの、雑食性のものなどがあり、一般にやや広い食性をもつ。また建物壁面やガードレールなどの人工物の表面に発生した藻類も餌となり、その食痕は日常的に見ることができる。農作物や園芸植物を食べるウスカワマイマイやチャコウラナメクジは害虫として駆除の対象ともなる。多くの種がセルロースを分解吸収できるため、新聞紙やチラシなどの紙類もよく食べ、その場合には糞も元の紙の色になる』。『しかし中には他のカタツムリを捕食する肉食性の種もあり、米国南部原産の肉食種ヤマヒタチオビはアフリカマイマイの駆除のためにハワイや小笠原諸島、その他の太平洋諸島に人為的に移入された。しかしアフリカマイマイの駆除にはあまり役立たず、むしろこれらの島々の固有種を捕食して絶滅に一役買うこととなってしまった。このほか近年日本の一部に定着した地中海原産のオオクビキレガイも農作物のほか陸貝を捕食すると言われており、ニュージーランドのヌリツヤマイマイはミミズを捕食する大型種として知られる。フランスでは犬の糞を食す種も観察されている』。『またカタツムリは殻を形成・維持するためにカルシウムを多く必要とし、捨てられた貝殻や古くなった他のカタツムリの死殻をなめることもある。雨が降った後、ブロック塀やコンクリート壁にカタツムリが沢山現れる所を見ることがあるが、これもコンクリートに含まれるカルシウムを摂食する為に集まっている現象である』とあり、モースは腐敗が進んだ植物残骸や同族の死殻を舐めるカタツムリを腐肉を食っていると錯覚した可能性もあるように思われる。

「オカミミガイ」原文“Auricula”。石川氏の訳の「オカミミガイ」とは腹足綱有肺目オカミミガイ上科オカミミガイ科オカミミガイ亜科 Ellobium 属オカミミガイ(陸耳貝) Ellobium chinense を及び同科の種を指す。ウィキの「オカミミガイ」によれば、『三河湾以南の本州・四国・九州と中国南部に分布』し、『河口や内湾など汽水域周辺に広がる塩性湿地に生息』する。『満潮線より上の一定の高さまでに生息し、明らかな帯状分布を示す。このため陸から水域への傾斜が緩やかで広大な塩性湿地が広がる所ではしばしば多産する。海岸性の貝だが水中に入ることはほとんどなく、一方で乾燥した所にも生息せず、生活様式はカタツムリに近い。暗く湿った所を好むので、昼間は枯れ葉・転石・漂着物などの下に潜んでいる』。成貝は殻長四〇、殻径二五ミリメートルに達し、『日本産オカミミガイ類の中では最大種である。貝殻はラグビーボールのような楕円球形で厚質である。殻表は縫合下にごく細かい布目状彫刻があるがほぼ平滑で、光沢のない褐色の殻皮をかぶる。殻頂は浸食されて欠けることが多く、丸みを帯びている。殻口は縦長の水滴形で周辺が白く、外唇が肥厚する。殻底に近い内唇と軸唇に』計三個の『歯状突起が突き出るが、最も上に位置する突起は痕跡的である』。『軟体部のうち、殻外に出す頭部-腹足部の色はベージュで、しわ状の模様がある。触角は橙色で短い』。『若い個体では殻口外唇が肥厚せず、殻頂周辺に細かい短毛が生える』。また三五ミリメートルを超えるほどの老成個体にあっては、『褐色の殻皮が剥がれて黄白色を呈し、貝殻もいびつに変形してジャガイモのような印象になることが多い』。『標準和名は、海岸の陸地に生息し水中には入らないことと、殻口に』二~三箇所『突起が出た様がヒトの耳たぶに似ることに由来する』とある。石川氏がかく訳しているということは、恐らく貝類の専門家に教授を願ったものと思われ、とすると古くはオカミミガイが Auricula 属と呼ばれていたことになる。次の「メラムパス」も潮間帯に棲息する同じオカミミガイ科の一種ハマシイノミガイMelampus nuxeastaneus と同定出来ること、「トランカテラ」も陸生貝類であることからもこれは自然には思える。……しかしどうも、原文の属名“Auricula”が気になったのである。……この語はラテン語の“auricuia”が語源と考えられ、それは「小さな可愛いらしい耳」の意や、動物や人の「耳介」の意であるから陸耳貝(おかみみがい)と確かにしっくりくる。……しかしこれは現在の属名には見当たらない。ただ、幾つかの種小名としては見かける。その一つは、ニシキウズ超科ニシキウズガイ科ヒメアワビ亜科スジヒメアワビ Stomatella auricula であるが、この種は熱帯系で本邦産ではないようである。但し、このヒメアワビ亜科 Stomatellinae に属する本邦産のアワビ形の貝は、表面の絹糸状の微脈や、内面の真珠光沢が非常に美しい(と私は感じ、かつてはビーチ・コーミングでよく採取した)ので、モースが好んでゴミ捨て場から採取し、これらの仲間を指して、“Auricula”と記載したとしてもおかしくはないのではないかなどと思ってしまったのであった。但し、モースは明らかにフォントを変えて斜体表示しているから、正式な属名として記載している以上、私の想像は科学的には誤認誤解である。……ここまで読んで戴けた方、私の妄想にお付き合いして戴き恐縮である……ともかくも古い属記載には「オカミミガイ」としてこの属があるのかも知れないが、見出せなかった。識者の御教授を乞う

「メラムパス」原文Melampus”。腹足綱有肺目オカミミガイ上科オカミミガイ科ハマシイノミガイ亜科ハマシイノミガイ(浜椎の実貝)Melampus nuxeastaneus を指すウィキハマシイノミガイによれば、『南日本から台湾までの熱帯・亜熱帯域に分布し、外洋に面した磯の潮間帯上部に生息』し、成貝は殻高十五ミリメートルに達するが、多くは一〇ミリメートル前後で、『殻はやや厚く、中盤が膨らんだ紡錘形で和名通りドングリに似た形をしている。日本産ハマシイノミガイ属の中ではツヤハマシイノミガイ M. flavus に次ぐ大型種で、殻頂がわりと高く尖る』。『殻の表面は弱い光沢のある褐色で、個体によって黄・紫・赤・黒などを帯びる。体層に淡黄色の横縞が数本入るもの、または成長痕の白い縦線が入るものもいる。殻口は縦長で殻底付近がわずかに肥厚・外反する。殻口の内側に向かって』内唇二歯、軸唇一歯、外唇の内側に櫛状の低い五~十歯を持つ。『軟体部のうち殻の外に出す部分はクリーム色だが、触角と目は黒い』。『南日本から台湾まで、暖流に面した熱帯・亜熱帯域に分布する。日本での分布域は太平洋側は房総半島以南、日本海側で山口県以南とされているが、富山県での記録もある』。『外洋に面した岩礁海岸の満潮線付近に生息し、海岸動物としては帯状分布の範囲がかなり高所で狭い。岩の割れ目・転石下・漂着物の下などの暗く湿った物陰に潜み、岩の表面に出ることはまずない』とある。

「トランカテラ」Truncatella”。腹足綱前鰓亜綱盤足目リソツボ超科クビキレガイ(首切れ貝) Truncatella guerinii である。千葉聡氏の「進化の小宇宙:小笠原諸島のカタマイマイ」の中の小笠原諸島のクビキレガイ科によれば、本種は鹿児島県以南のインド洋~太平洋地域に広く分布し、一般に海浜の礫下や打上物や落葉下に棲息する。幼貝の間は殻頂が尖っているが、成長とともに殻頂部が脱落してしまうため、頭部が切れたような形となって現認され、それが本種のおどろおどろしい和名の由来ともなっている。海浜性の貝であるが直達発生であってプランクトン幼生期を持たない。但し卵嚢がデトリタスに付着して海中を長期漂うと推定されており、これが本種の広分布域の理由と考えられている、とある(リンク先は引用さえ禁じているので引用記載としていない。個人的にネット上に公開して誰もが読めるようになっていながら、無断引用を禁じるこの方は、総ての文章を書く際、総ての人に引用許諾を求めておられるのだろうか? 妙なことが気になる私である。リンク先の記載自体はすこぶる素晴らしいものである。ただふと感じた違和感には述べておきたいのである)。なお、本種はその歩行方法が非常にユニークなる由、リンク先をお読みあれ。面白い。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十六章 長崎と鹿児島とへ 鹿児島の印象

 こんなに魅力に富んだ景色にかこまれていながら、汽船が翌朝夙く長崎へ帰船するので、たったこの日一日だけしか滞在出来ぬということは、誠に腹立たしかった。新しく建造された鹿児島市それ自身は、巨大な石垣に依って海に臨んでいる。家屋は貧弱で、非常にやすっぽい。二年前には、薩摩の反乱のために、全市灰燼に帰し、人々は貧乏で、往来は泥だらけで木が無く、家の多くは依然として一時的の小舎がけである。十年か十二年前、鹿児島は英国人に砲撃された。これは友人が警告したにもかかわらず、江戸へ向く途中の薩摩の大名の行列に闖入(ちんにゅう)して殺された、一人の高慢きわまる英国人の、かたきをとるためにやったことなのである。外国人が一般的に嫌われていることは、男の敵意ある表情で明らかに見られ、また外国人が大いに珍しいことは、女や子供が私を凝視する態度で、それと知られた。二百マイル以内に、外国人とては私一人なので、事実私はここに留っている間、多少不安を感じた。この誇りに満ちた町は、同時にアジアコレラの流行で苦しんでいたのであるが、我々は数時間後で、そのことを知らずにいた。我々はみすぼらしい茶店へ導かれたが、そこの食事は如何にもひどく、私には御飯だけしか食えなかった。ああ、如何に私が伽排一杯をほしく思ったか!

[やぶちゃん注:「この日一日」これは後の叙述を見ると、明らかにおかしい。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば、鹿児島入船は明治一二(一八七九)年五月二十二日の早朝と推定され、『その日と翌日ドレッジを試みた』が、『これは、動物学者による鹿児島底生動物調査の最初で』、叙述からもこの翌日、鹿児島市対岸の元垂水に於いて自然堆積し隆起を起こした貝殻層を調査していることは明らかである(その日は夜遅くに鹿児島に戻っていることも後述されてある)から、ここはやはり磯野先生の推定通り、『鹿児島を去ったのは二十四日早朝』で、都合、鹿児島には実質上、二日間(二泊)滞在している。

「二年前には、薩摩の反乱のために、全市灰燼に帰し」西南戦争の城山籠城戦。明治一〇(一八七七)年九月二十四日。薩摩軍と政府軍との戦いは七ヶ月にも及ぶ壮絶なものであった。

「十年か十二年前、鹿児島は英国人に砲撃された」文久三年七月二日(一八六三年八月十五日から 七月四日(同八月十七日)に生麦事件(武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近に於いて薩摩藩主島津茂久(忠義)の父島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人四名(女性一名を含む)を供回りの藩士が殺傷(男一名死亡・男二名重傷)した事件。後注)の解決を迫るイギリス(グレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾に於ける戦闘で、鹿児島では「前の浜戦(まえんはまいっさ)」と呼ばれる(城下町付近の海浜が前の浜と呼ばれていた。以上はウィキの「薩英戦争」に拠る)。

「江戸へ向く途中の薩摩の大名の行列に闖入して殺された、一人の高慢きわまる英国人」上海のイギリス人商人チャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox Richardson, 一八三四年~一八六二年九月十四日)。私は幕末史に冥いので、まず、ウィキの「生麦事件」より引用させて戴く(注記番号は省略し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『文久二年(一八六二年)、薩摩藩主島津茂久(忠義)の父で藩政の最高指導者・島津久光』(当時四十五歳)は、幕政改革を志して七百人もの軍勢を引き連れて江戸へ出向いた後、『勅使大原重徳とともに京都へ帰る運びとなった。久光は大原の一行より一日早く、八月二十一日に江戸を出発した。率いた軍勢は四百人あまりであった』。『行列が生麦村に差しかかった折り、騎馬のイギリス人と行き会った。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンである。四人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいたとあるが、観光目的で川崎大師に向かっていたとの説もある』。『生麦村住人の届け出書と神奈川奉行所の役人の覚書、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記を突き合せてみると、ほぼ以下のような経緯を辿った』。『行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人四人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局四人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が斬りかかった』。『四人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から二百メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受けることになった』。「薩藩海軍史」によれば、『リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは奈良原喜左衛門』(当時、三十一歳。薩英戦争では海江田信義とともにスイカ商人に扮して敵艦を奪おうと画策したが失敗、その後は主に京都で活動し、元治元(一八六四)年の禁門の変では出水隊の物主(隊長)として活躍した。慶応元(一八六五)年没。ウィキに拠る)『であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休』(「くきむらはるやす」と読む。昭和一二(一九三七)年の『国史教育』に九十四歳の彼が「生麦事件で夷人(外国人)を殺した私」(口述筆記)という記事を残しているようであるから、長生きしている。この年齢が当時のものであるとすれば、事件当時は満十九歳である)『が抜き打ちに斬った(のち久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている)。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりでとどめをさしたのは海江田信義』(薩摩藩士有村仁左衛門兼善次男。文久元(一八六一)年に日下部伊三治の次女まつを娶ると同時に婿養子となって海江田武次信義と改名した(海江田は日下部の旧姓)。幕末期は有村俊斎の名で活動、戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀となり、江戸城明け渡しには新政府軍代表として西郷を補佐、勝海舟らとも交渉するなど活躍したが、大村益次郎と対立、彼の暗殺された後に実行犯処刑の妨害を企てたとして謹慎処分となった。明治三(一八七〇)年に大久保利通の尽力によって官職に復帰、廃藩置県に先立って県となっていた奈良県知事に任命されるも翌年の廃藩置県で解任される。その後、薩摩に帰って隠遁するつもりが、島津久光の目にとまり、新政府に不満を持つ久光と新政府の調停役となり、翌明治五(一八七二)年には再び左院四等議官として官途に就いた。三年後の明治八年の左院廃止により、鹿児島に帰郷した。明治一〇年の西南戦争の際は病床にあったが、西郷の死を悼み、翌年の大久保利通の遭難(紀尾井坂の変)に際してもその死を悼んだ。その後、明治二〇(一八八七)年には欧米各国視察を命ぜられて渡航、翌年帰国後も貴族院議員・枢密顧問官を歴任、明治三九(一九〇六)年、七十五歳で没した。事件当時は三十歳であった。以上は同人ウィキに拠る)『であったという。なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという』。殺害の状況はネット上の情報によれば、リチャードソンは奈良原喜左衛門に左鎖骨から肋骨数本を切断され、さらに行列の前方に乗馬のまま逃げたが、そこで待ち受けていた久木村利休によってさらに左脇腹を斬られた。そこからさらに一キロメートルほど馬を走らせたものの、内臓が露出し落馬、まだ息があったが追って来た数名に止めを刺されたとされる。(中略)『事件から二日後の八月二十三日(一八六二年九月十六日)、ニール代理公使は横浜において外国奉行津田正路と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して奉行は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話」として、ニールに反論されている。ニールは本国の外務大臣への報告書に、久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している』。『八月三十日には、老中板倉勝静邸においてニールと老中板倉・水野忠精との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。一方、ニールは本事件の賠償金要求については、イギリス本国の訓令を待って交渉することとしていた』。『当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいたという。当の久光の幕政介入によって政事総裁職に就いた松平慶永は、本事件に関する処置案(久光の帰国差し止め等)を老中らに建言するも受け入れられず、一時登城を停止する事態となった』。『一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。閏八月七日(一八六二年九月三十日)に久光は上洛、九日に参内するが、孝明天皇はわざわざ出御して久光の労を賞し、これは無位無冠の者に対しては異例の待遇であった。この事件を題材に山階宮晃親王が作った「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になって愛唱された。しかし、生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩の幕政改革の意図は攘夷ではなく、彼らの不満はむしろ幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、二十三日に京都を発って鹿児島に戻った』。『文久三年(一八六三年)の年明け早々、生麦事件の処理に関するイギリス外務大臣ラッセル伯爵の訓令がニール代理公使の元へ届いた。これに基づき、二月十九日、ニールは幕府に対して謝罪と賠償金十万ポンドを要求した。さらに、薩摩藩には幕府の統制が及んでいないとして、艦隊を薩摩に派遣して直接同藩と交渉し、犯人の処罰及び賠償金2万5千ポンドを要求することを通告した。幕府に圧力を加えるため、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国艦隊が順次横浜に入港した』。『折しも将軍徳川家茂は上洛中であり、滞京中の老中格小笠原長行が急遽呼び戻され、諸外国との交渉にあたることとなった。賠償金の支払いを巡って幕議は紛糾するが、水野忠徳らの強硬な主張もあって一旦は支払い論に決する。しかし、攘夷の勅命を帯びて将軍後見職・徳川慶喜が京都から戻り、道中より賠償金支払い拒否を命じたため事態は流動化し、支払い期日の前日(五月二日)になって支払い延期が外国側に通告された。これにニールは激怒、彼は艦隊に戦闘の準備を命じ、横浜では緊張が高まった』。『再び江戸で開かれた評議においては、水戸藩の介入もあって逆に支払い拒否が決定されるが、五月八日、小笠原長行は海路横浜に赴き、独断で賠償金交付を命じた。翌九日、賠償金全額がイギリス公使館に輸送された。一方、横浜に滞在していた慶喜は小笠原と入れ違いに江戸に戻っており、小笠原との間に賠償金支払いを巡って黙契が存在していたという説がある。小笠原は、賠償金支払いを済ませたのち再度上京の途に就くが、大坂において老中を罷免された』。『幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため、六月二十七日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、七月二日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、四日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した』。『十月五日、イギリスと薩摩藩は横浜のイギリス公使館にて講和に至った。薩摩藩は幕府から借りた二万五千ポンドに相当する6万三百両をイギリス側に支払い、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった』。「事件発生の背景」の項(下線部分はやぶちゃん。モースの本文での謂いはこれらの主に(一部はイギリス人によるものも含む)アメリカ人が関連する本事件への発言や記事を念頭においたものであろう)。『当時、宣教の機会をうかがって来日していたアメリカ人女性宣教師のマーガレット・バラは、アメリカの友人への手紙にこう記している。「その日は江戸から南の領国へ帰るある主君の行列が東海道を下って行くことになっていたので、幕府の役人から東海道での乗馬は控えるように言われていたのに、この人たちは当然守らなければならないことも幕府の勧告も無視して、この道路を進んで来たのでした。そしてその大名行列に出会ったとき、端によって道をゆずるどころか行列の真ん中に飛び込んでしまったのです」。ただしこの光景はバラが直接観察したものではなく伝聞によるものであり、バラはその情報源を述べていない』。『ただ、事件後の代理公使ニール中佐と幕府とのやりとりで見れば、イギリス公使館は勅使・大原重徳の東海道通行の知らせは受け取っていたものの、その日付は島津久光の通行より一日遅く、またイギリス公使館では翻訳に手間取ってもいて、リチャードソン一行はイギリス領事館からの正式な告知は受けていなかったものと思われる。しかし林董の回顧録に、リチャードソンたちは「今日は島津三郎通行の通知ありたり。危険多ければ見合すべし」と友人から忠告されていたという話も見えて、アメリカ公使館は非公式の通知を受けていたか、あるいは情報を得て、独自の判断から自国民に警告を出していたのではないかとも考えられる』。『事件が起こる前に島津の行列に遭遇したアメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、すぐさま下馬した上で馬を道端に寄せて行列を乱さないように道を譲り、脱帽して行列に礼を示しており、薩摩藩士側も外国人が行列に対して敬意を示していると了解し、特に問題も起こらなかったという。ヴァン・リードは日本の文化を熟知しており、大名行列を乱す行為がいかに無礼なことであるか、礼を失すればどういうことになるかを理解しており、「彼らは傲慢にふるまった。自らまねいた災難である」とイギリス人四名を非難する意見を述べている』。『また当時の『ニューヨーク・タイムズ』は「この事件の非はリチャードソンにある。日本の最も主要な通りである東海道で日本の主要な貴族に対する無礼な行動をとることは、外国人どころか日本臣民でさえ許されていなかった。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法や慣習を犯す権利を与えたわけではない。」と評している』。『また、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(Frederick Wright-Bruce、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの弟)は、本国の外務大臣ラッセル伯爵への半公信(半ば公の通信)の中でこう書いている。「リチャードソン氏は慰みに遠乗りに出かけて、大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから周囲から敬意を表されて育つ。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきに避けるしなかったのであろうか。私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分の雇っていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で、重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホークであったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によっていささかも抑制されることのない、プロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持ち主である」』。『以上に見るように、生麦事件はリチャードソン一行の礼儀を欠いた行動によって発生したという見方もイギリス側の一部には存在したものと推測できる。ただ、ブルース公使も書いているように、極東に進出していたイギリスのミドル・クラスの人々には、現地の習わしをふみにじる粗暴なタイプも多く』、『上海の商人仲間におけるリチャードソンの評判は、かならずしも悪くはなかったようである。イギリス外務省も、その指令を受ける在日イギリス公使館も、横浜居留商人などの強硬論や被害者家族の訴求を無視することはできなかった』。『さらに肝心な点は、日英修好通商条約による治外法権の規定により、日本の側にはイギリス人を裁く権利は存在しなかったことである。つまりイギリス側から言うならば、イギリス人が日本の法律に従ういわれはなく、たとえ日本の国内法で無礼討ちが認められていようとも、当然のことながらそれはイギリス側からは認められるものではなかった。一方、薩摩藩側から見るならば、「国内法との整合性がつかない治外法権を含んだ条約は、朝廷の許しも得ず幕府が勝手に結んだもの」ということになるのである。したがってこの事件は、治外法権が日本国内にもたらす矛盾を大きく露呈させたものでもあり、以後薩摩藩が真剣に、朝廷を中心として条約を結び直すための条件整備について模索を始めるきっかけともなった』。『事件直後に現場に駆けつけたウィリス医師は、リチャードソンの遺体の惨状に心を痛め、戦争をも辞すべきでないとする強硬論を持ちながらも、一方で兄への手紙にこう書いている。「誇り高い日本人にとって、最も凡俗な外国人から自分の面前で人を罵倒するような尊大な態度をとられることは、さぞ耐え難い屈辱であるに違いありません。先の痛ましい生麦事件によって、あのような外国人の振舞いが危険だということが判明しなかったならば、ブラウンとかジェームズとかロバートソンといった男が、先頭には大君が、しんがりには天皇がいるような行列の中でも平気で馬を走らせるのではないかと、私は強い疑念をいだいているのです」』。『こういった当時の横浜居留民の常態を考えれば、薩摩藩がすでに往路で事件が起こりかねなかった状況を訴えていたにもかかわらず、島津久光一行の東海道通行とそれにともなう外国人通行自粛の要請を、幕府が各国公使館に正式に通告していなかったことの問題は大きい。この不手際は、事件後のイギリスとの外交交渉においても幕府側の弱みとなり続けた。条約により、居留地を中心として十里四方の外国人の遊歩は自由とされていたことから、幕府の規制要請がない限りにおいては、リチャードソン一行の行動がいかに無礼なものであろうとも、通行の安全を保障すべき幕府の責任をイギリス側は強硬に追求することができたのである』。『余談だが、当事件の数ヶ月前に同じ生麦を大名行列として通過した尾張藩の見物をジェームス・カーティス・ヘボンが近所の丘の上からオペラグラスで行っているが、一行への礼を表したため不問に付されている。そもそも外国人のみならず当時の日本人にとっても、華美な大名行列の見物は娯楽のひとつであった』(ウィキの「生麦事件」からの引用はここまで)。次に、この殺害されたチャールス・リチャードソンのウィキペディアの記載を引く(変更は同前)。『ロンドン出身』で、『一八五三年にサザンプレス港から上海へ渡海し、そこで商社を設立して商業に従事していた』。一八六二(文久二)年、『仕事を引き払ってイギリスへ帰郷する際に、観光のために日本へ入国する。上海で交友のあった横浜商人ウッドソープ・クラークと再会し、クラークやウィリアム・マーシャルの案内で、ボラディル夫人を加えた四人で川崎大師へ向かうことになる。その途中、生麦村で島津久光の行列と遭遇』したとある。彼は『親孝行で物静かな性格であったとの話の一方、当時の清国北京駐在イギリス公使フレデリック・ブルース(Frederick Wright-Bruce、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースの弟)は、リチャードソンに対して冷ややかな見解を持って』いたとして、先の引用文が載る。因みに彼の墓所は横浜市中区の横浜外国人墓地である。

「二百マイル」約三百二十二キロメートル。当時の最寄りの外国人居留地は長崎で、直線距離で百五十八キロメートルで短か過ぎ、神戸では凡そ五百四十キロメートルで長過ぎる。「圏内」と言っているから、陸路での長崎との距離を述べているものか。

「アジアコレラ」コレラ菌(Vibrio cholerae)の型の一つ(従来は知られていたのはこのアジア型 (古典型) とエルトール型であったが、一九九二年には新たな菌種である「O139」が発見されている)。コレラ菌の中でもこのアジア型は高い死亡率(治療を行わなかった場合、七五~八〇パーセントでエルトール型の一〇パーセント以下と著しい差がある。但し現在では適切な対処さえ行なえば死亡率は一~二パーセントと極めて低い)を示し、ペストに匹敵する危険な感染症であるが、ペストとは異なり、自然界ではヒト以外に感染しない。参照したウィキコレラ」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『アジア型は古い時代から存在していたにもかかわらず、不思議なことに、世界的な流行 (パンデミック)を示したのは十九世紀に入ってからである。コレラの原発地はインドのガンジス川下流のベンガルからバングラデシュにかけての地方と考えられる。最も古いコレラの記録は紀元前三百年頃のものである。その後は、七世紀の中国、十七世紀のジャワにコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は一八一七年に始まる。この年カルカッタに起こった流行はアジア全域からアフリカに達し、一八二三年まで続いた。その一部は日本にも及んでいる。一八二六年から一八三七年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降、一八四〇年から一八六〇年、一八六三年から一八七九年』(ここに本記載の年に含まれる)、『一八八一年から一八九六年、一八九九年から一九二三年と、計六回にわたるアジア型の大流行があった。しかし一八八四年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった』とある。「日本におけるコレラ」の項の関係する箇所までを引いておくと、『日本で初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が日本に及んだ一八二二年(文政五年)のことである。感染ルートは朝鮮半島あるいは琉球からと考えられているが、その経路は明らかでない。九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、三回目は再び日本に達し、一八五八年(安政五年)から三年にわたり大流行となった』。『一八五八年(安政五年)における流行では九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかったという文献が多い一方、江戸だけで十万人が死亡したという文献も存在するが、後者の死者数については過大で信憑性を欠くという説もある。一八六二年(文久二年)には、残留していたコレラ菌により三回目の大流行が発生、五十六万人の患者が出た。この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸だけでも七万三千人〜数十万人が死亡したという文献があるが、これも倒幕派が世情不安を煽って意図的に流した流言蜚語だったと見る史家が多い』。『一八五八年(安政五年)の流行は相次ぐ異国船来航と関係し、コレラは異国人がもたらした悪病であると信じられ、中部・関東では秩父の三峯神社や武蔵御嶽神社などニホンオオカミを眷属とし憑き物落としの霊験を持つ眷属信仰が興隆した。眷属信仰の高まりは憑き物落としの呪具として用いられる狼遺骸の需要を高め、捕殺の増加はニホンオオカミ絶滅の一因になったとも考えられている』。(以下、下線はやぶちゃん)『コレラが空気感染しないこと、そして幕府は箱根その他の関所で旅人の動きを抑制することができたのが、江戸時代を通じてその防疫を容易にした最大の要因と考えられている。事実一八六八年(明治元年)に幕府が倒れ、明治政府が箱根の関所を廃止すると、その後は二~三年間隔で数万人単位の患者を出す流行が続く。一八七九年(明治十二年)』(まさに本記事の当該年である)『と一八八六年(明治十九年)には死者が十万人の大台を超え、日本各地に避病院の設置が進んだ』とある。]

2015/01/05

春ぞなかなかに悲しき 朱淑眞作 佐藤春夫訳

 

  春ぞなかなかに悲しき

       滿眼春光色色新

       花紅柳綠總關情

       欲將鬱結心頭事

       付與黄鸝叫幾聲

            朱淑眞

 

まばゆき春のなかなかに

花もやなぎもなやましや

むすぼほれたるわが胸に

啼けうぐひすよ 幾聲に 

 

   ※

朱淑眞 十一世紀初頭。宋朝。海寧の人である。幼少の時に兩親を失い充分に夫を擇ぶこともし得なかった。市井の民家に嫁して無知凡庸な夫を持ったことを常に歎き、吟咏(ぎんえい)によって胸中の憂悶を洩した。その詩詞集は斷腸集と呼ばれ、前集十一卷後集七卷があるが、その中には胸中の不平抑えがたいものが屢々(しばしば)現われ風雅と稱するには激越にすぎたものも見える。詩藁(しこう)も沒後夫の父母によって焚かれたものの一部分が遺ったのを、好事者が顏色如花命如秋葉その薄命を憐れむの餘りにこれを編んだものだと傳えている。彼女は朱文公の姪だという説もあるけれども、朱子は新安の人で海寧に兄弟が居たということは聞かないから、多分後人が彼女を飾るための僞説だろうと言われる。とにかく生涯はあまり明かではないらしい。ハイネの小曲に、「胸中の戀情は夜鶯の聲となる」という意を咏じたものがあったと思うが、ここに掲げた絶句は正に同工異曲である。

   ※

【二〇二三年六月八日追記】本日、正規表現版で仕切り直したので、そちらを見られたい。

ただ若き日を惜め 杜秋娘作 佐藤春夫訳

 

  ただ若き日を惜め

 

       勸君莫惜金縷衣

       勸君須惜少年時

       花開堪折直須折

       莫待無花空折枝

            杜秋娘 

 

綾にしき何をか惜しむ

惜しめただ君若き日を

いざや折れ花よかりせば

ためらはば折りて花なし

 

[やぶちゃん注:佐藤春夫「車塵集」より。

 原作者について「車塵集」は末尾に無署名乍ら佐藤自身の筆になる「原作者の事その他」という後書があるので、そこから引いておく(以下、「車塵集」ではこの注書を略し、※で挟んで示す。なお、底本自体が編者によって振り仮名が振られているので、それ以上に私が読み難いものに読みを現代仮名遣で振った。アンバランスなのは最後に説明する)。

    ※

杜秋娘西曆七世紀初頭。唐。もと金陵の娼家の女。年十五の時、大官李錡(りき)の妾となった。常に好んで金縷曲(きんるきょく)――靑春を惜しむ歌を唱えて愛人に酒盞(しゅさん)を酭めた。ここに譯出したものが今に傳わっているが、「莫情」「須惜」「堪折」「須折」「空折」など疊韻のなかに豪宕(ごうとう)な響(ひびき)があるというのが定評である。李錡が後に亂を起して滅びた後、彼女は召されて宮廷に入り憲宗のために寵せられた。その薨去の後、帝の第三子穆宗(ぼくそう)が即位し、彼女を皇子の傅姆(ふぼ)に命じた。その養育した皇子は壯年になって漳王(しょうおう)に封ぜられたが、漳王が姦人のために謀られ罪を得て廢削(はいさく)せられるに及んで彼女は暇を賜うて故郷に歸った。偶々(たまたま)杜牧が金陵の地に來てこの數奇にも不遇な生涯の終りにある彼女を見て憫れむのあまり杜秋娘詩を賦したが、それは樊川(はんせん)集第一卷に見られる。

    ※

 この小伝については、疑問があるので簡単に注しておく。

・「酭めた」というのは、私は実は不遜にも誤字ではないかと疑っている。「酭」(音ユウ)という字は「報いる」の意で、とても読めない「廣漢和辭典」にも載らない字である(だのに底本にはルビが振られていないのは如何にも不審ではないか?)。ところが、ここに、よく似た字体で「酳」(音イン)があり、これは「すすめた」と読めるのである。大方の御批判を俟つ。

・「豪宕」気持ちが大きく、細かいことに拘らず、思うがままに振る舞うこと。「豪放」に同じい。

・「傅姆」乳母。

   *

 「車塵集」(昭和四(一九二九)年九月武蔵野書院刊)は正しくは頭に「支那歷朝名媛詩鈔 車塵集」と冠りし、扉(底本の)表題の左下には、

 

 芥川龍之介が

 よき靈に捧ぐ

 

という二行分かち書きの献辞を持つ(芥川龍之介の自死は先立つ二年前の昭和二年七月二十四日)。非公式の情報であるが、佐藤春夫のこの漢詩訳詩集は実は芥川龍之介と共著とする予定であったという記載をネット上で見かけた。この献辞はその可能性をよく伝えるもののように思われる。その場合、どんなものになったのか、想像するだけでも心惹かれるものがある。――

    *

 扉裏(底本の)には、 

 

濁世何曾頃刻光

人間眞壽有文章

     薄少君悼夫句 

 

とある。この後に門弟で中国文学者の奥野信太郎の序文が入る(著作権継続中につき、省略)。彼は本訳詩集の原典紹介の協力者である(但し、出版当時は未だ慶応の学生であった)。

    *

 奥野の序文の終わった頁の裏右頁(底本では)には、 

 

美塵香骨

化作車塵

  「楚小志」

 

と記す。次より本文で、第一篇が杜秋娘の訳詩「ただ若き日を惜しめ」となる。

   *

 底本は講談社文芸文庫一九九四年刊佐藤春夫「車塵集 ほるとがる文」を用いたが、恣意的に漢字を正字化した。こうすると、私には生理的に虫唾の走る事態となることは百も承知である。実はこの底本の親本である講談社版「佐藤春夫全集」自体が新字新仮名採用であるらしい。その関係上、漢字は正字で仮名遣は現代仮名遣となってしまう(特に原作者小伝で顕著)。しかし、かといって私は漢詩をおよそ新字なんぞで示したくはない。向後、初出原本を入手した際には、全篇を正しく補正するとして、この私のブログ版では、どうか、この混在表記を御寛恕願いたく存ずる。なお以下、佐藤春夫「車塵集」より引用は総てこれに基づくので以下では、この一段全部の注を略す。]



これより、ブログ・カテゴリ「佐藤春夫」を始動する。

二〇二三年六月八日追記】本日、同書を冒頭から正規表現版で仕切り直した。本篇は冒頭である。こちらを見られたい。

生物學講話 丘淺次郎 第十二章 戀愛(9) 四 歌と踊り(Ⅰ)

     四 歌と踊

Tenagazaru

[手長猿]

[やぶちゃん注:本図は国立国会図書館蔵の原本(同図書館「近代デジタルライブラリー」内)の画像からトリミングし、やや明るく補正した。底本の図より細部が観察出来るのでこちらを採用した。]

 

 動物の中で巧みに歌を歌ふものは鳥類と蟲類とであるが、その他にも多少歌ふものは幾らもある。獸類では手長猿などが調子を十一段にも上下して恰も音階を練習する如くに歌ふ。蛙の類が喧しく鳴くことは人の知る通りであるが、熱帶地方では樹の枝で「とかげ」の類がなかなかよく歌ふ。かやうに歌ふものは隨分澤山あるが、それがいづれも雄だけであることを考へると、その生殖の働と何らかの關係を有するものなることが、始から察せらるる。

[やぶちゃん注:「手長猿」サル目真猿亜目狭鼻下目ヒト上科テナガザル科テナガザル属Hylobates に属する九種。ウィキの「テナガザル」によれば、『東南アジア地域では熱帯雨林、アジア本土では半落葉性モンスーン林』を中心として棲息し、『インド東端を西限、中国最南端を北限とし、バングラデシュ ・ミャンマー・インドシナ半島を経て、マレー半島からスマトラ島、ジャワ島西部、ボルネオ島に至る地域』に分布するとある。『千年ほど前には黄河以北にも生息していたことが中国の文献に記載されている』ともある。『ほとんどの種では』頭胴長 四五~六五センチメートル、体重五・五~六・七キログラム(但し、フクロテナガザル Hylobates syndactylus は有意に大きく頭胴長七五~九〇センチメートル、体重は凡そ一〇・五キログラムに達する)。『樹上生活者であり、長い腕で「枝わたり」(ブラキエーション)をして林冠を移動して生活する』。一夫一妻で、子供を含めた四頭ほどの群れを形成する。母親は通常二~三年毎に一頭の子供を産み、子は生後凡そ六年ほどを経て性成熟し、八年目を迎える頃までに社会的にも成熟して、『それまでに群れを出て行っていなければ家族集団からの離脱が父親によってうながされる』とある。以下、本文と関わる「歌」の項。『テナガザルは歌を歌うことで知られている。主にカップルのオスとメスが交互に叫びあいながら、複雑なフレーズを取り混ぜたデュエットを行うのである。頻度は』一日二回から五日で一回というように、『種や社会的状況によっても異なる。縄張りの境界で集団が出会ったときなどは』、一回の平均歌唱継続時間が三十五分と『非常に激しくなる。この歌は家族間の絆を深めたり、他の群れに対してなわばりを主張したりすることに役立っていると考えられる』。『この歌い方は、種によってそれぞれ特色があるため、歌を聞き分けることにより、種の判別が可能である』とある。彼らの歌については「生命誌ジャーナル」2006年夏号の京都大学霊長類研究所正高信男氏のテナガザルの歌からことばの起源を探るがよい。「歌」もちゃんと聴けるのが嬉しい!

『樹の枝で「とかげ」の類がなかなかよく歌ふ』ヤモリ属の模式種である爬虫綱有鱗目トカゲ亜目ヤモリ下目ヤモリ科ヤモリ亜科ヤモリ属トッケイヤモリ Gekko gecko を指しているように思われる。別名オオヤモリ、トッケイとも呼ぶ。参照したウィキの「トッケイヤモリ」によれば、インド・インドネシア・カンボジア・タイ・中華人民共和国南部・ネパール・バングラデシュ・フィリピン・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・ラオスに分布し、全長は二五~三五センチメートルと大きく、頭部は上から見ると大型の三角形を成す。背面は細かい鱗で被われているが、やや大型の鱗が中に混じる。体色は淡青色で、橙色の斑点が入る個体が多いが、個体変異や地域変異がある。斑点が尾では帯状になる。森林や民家の近くに生息する。食性は動物食で、昆虫・クモ・ヤモリ・小型哺乳類などを摂餌する。繁殖形態は卵生で一回に二~三個の卵を産む。地域によっては本種の鳴き声を七回連続で聞くと幸福が訪れるという言い伝えがあるところもある。ペットとして飼育されることもあるが、顎の力が強い上に歯が鋭く、気性も荒いため、思わぬ怪我をすることもあるので取り扱う場合は注意が必要である。学名・英名(Tokay gecko)は鳴き声に由来する。ウィキのリンク先で驚きのその声を聴くことが出来る。マジ! 必聴! また、本邦のヤモリの中でも南西諸島の種には鳴くものが結構いるようである(沖縄言葉(うちなーぐち)では「やーるー」と呼ぶ)。宮古島在住の「さんごのたまご」さんのブログに写真入りで「ケケケケケケケ」と鳴く旨の記載がある。女性の方の個人サイト「たびかがみ」の「【解説】ヤモリという虫」によれば、本邦には少なくとも十四種以上が棲息すると考えられ、その中に鳴くことに由来すると思われるタヤモリ亜科ナキヤモリ属 Hemidactylus があり、以下の同属の二種を掲げておられる(一部データや情報を「国立環境研究所」その他のそれと差し替えさせて戴いた)。

シロヤモリ Hemidactylus bowringii

分布は奄美諸島・沖縄諸島・宮古諸島・八重山諸島に分布するとされるほか、台湾・東南アジアなどに棲息。人家付近で夜間照明に集まり、昆虫を食べること以外には生態は殆ど知られていない。全長は九〇~一二〇ミリメートルで暗い場所で見ると明瞭な横帯が現れて見え、一見「虎柄」のように見える。一部のネット記載には殆んど鳴かないともある。

ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus

原産地ははっきりしないが分布は奄美諸島・沖縄諸島・大東諸島・先島諸島のほぼ全ての有人島および小笠原諸島で人為的な移入による外来種であり、世界的分布域は大陸の内陸部を除く熱帯・亜熱帯域広範に及ぶ。民家などの建造物を好み、かなりの密度で棲息し、逆に人里から有意に離れた自然林内ではあまりみられない。「ケケケ」又は「チッ、チッ」と鳴き、灯りに集まり虫などを摂餌する。全長は九〇~一三〇ミリメートルで南西諸島では最も普通にみられるヤモリである。

 私の愛する宮古島に赴任した俳人篠原鳳作の句に、

守宮啼くこだまぞ古き機屋かな

という句があるが、これらから見るに、鳳作の聴いた「こだま」するほど吃驚したそれは、後者ホオグロヤモリ Hemidactylus frenatus の可能性が高いように思われる。南洋系と思われる種を突いて鳴かせている動画も幾つかあるが、何となくいじめているようで不快であるからリンクしない。しかしかなり大きな声で高い鳴き声で鳴く。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅲ) 頁3

《頁3》

澄むこと知らぬ濁り江に

かがやかなりや支那金魚

わが 欲念のもなかにも

さこそはすぐる

 

[やぶちゃん注:これは「■3」の【頁21】【頁22】に生きた推敲が残る。]

 

心ふたつにまよひつつ

たどきも知らずわが來れば

まだ晴れやらぬ町ぞらに

怪しさ虹ぞそびえたる

 

[やぶちゃん注:「怪しさ」はママ。「怪しき」の書き損じではあるまいか? 後の《頁12》に、

 

たどきも知らずわが來れば

ひがしは暗き町ぞらに

怪しき虹ぞそびえたる

 

とある。そうしてこの抹消詩篇とほぼ相同のものが「■2」に出る。

 

心ふたつにまよひつつ

たどきも知らずわが來れば

まだ晴れやらぬ町ぞらに

怪しき虹ぞそびえたる

 

「怪しさ」以外は全く同一であることが分かる。ところがまたしても、これは生きた同一詩篇が現存資料には見当たらないのである。私はこれも、堀辰雄によって掘り起こされて補正され「てしまった」芥川龍之介の一篇であると考える。]

 

光は薄き橋がかり

靜はゆうに出でにけり

昔めきたるふりながら

君に似たるを如何にせむ

 

[やぶちゃん注:この抹消詩篇はほぼ全く相同のものが「■2」に出る。

 

光はうすき橋がかり

靜はゆうに出でにけり

昔めきたるふりながら

君に似たるを如何にせむ

 

「うすき」の漢字表記以外は全く同一であり、これもやはり遺憾乍ら、生きた同一詩篇が現存資料には見当たらないのである。堀辰雄による恣意的復元「未定詩稿」の一篇である。再度、言っておくが、私は抹消を抹消として復元したものであるなら、それは立派に芥川龍之介の「未定詩稿」であると肯んずるものである。しかし乍ら、堀辰雄のそれにはそうした一切の削除指示や解説も何もないのである。しかも前の一篇では「怪しさ」を「怪しき」に、ここでは「薄き」を「うすき」と堀が勝手に訂して知らんぷりして芥川龍之介の詩篇で御座いと投げ出したとしか思われないのである。このように杜撰な校訂は到底許されるものではないと私は考えるし、この「澄江堂遺珠」という極めてプライベートな――その詩篇の多くは私は有意に片山廣子への掻き毟るような恋情に裏打ちされていると考えている――(但し、総て、ではない。明らかに別なあの女性、かの女性へ向けたものもある。そして私個人の中ではその具体的な人名を名指しすことも可能である。孰れにせよ、これらの膨大な夢魔は、同時に芥川龍之介自身の複数の具体な女性(にょしょう)に対する夢魔であり、同時にまた、抽象的複合体としての「月光の女」に対する夢魔なのである)――詩篇に於いて、その抹消した詩篇やフレーズを安易に弄るという行為が(これは私にも言えることではあるが)、芥川龍之介の魂をどれほど痛めつけることになるかを考えると、やはり堀辰雄の「未定詩稿」の一部は、これ、到底、許すことが出来ないのである。]

 

しらべかなしき蛇皮線に

小翠花(シヤウスヰホア)はうたひけり

耳環は金にゆらげども

きみに似たるを如何にせむ

 

[やぶちゃん注:「小翠花」は京劇の名花旦として知られた別名、于連泉(Yú Liánquán ユィ リェンチュィアン うれんせん 本名桂森 一九〇〇年~一九六七年)を指す。但し、正しい芸名は筱翠花(しょうすいか)である。幼い時に郭際湘(芸名水仙花)に師事し、芸名を「小牡丹花」と名乗った。特に花旦の蹻功(きょうこう:爪先立った歩き方の演技を言うと思われる。)に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした龍之介の「上海游記」の「九 戲台(上)」「十 戲臺(下)」にも記される京劇の花旦(huādàn:可愛い若い女性役の男優。)の名優である。《頁10》にも二つの推敲形が残り、「澄江堂遺珠」には、

 

しらべかなしき蛇皮線に

小翠花(セウスヰホア)は歌ひけり

耳環は耳にゆらげども

きみに似たるを如何せむ

 

で載る。「うたひ」が「歌ひ」となっているが、推敲形は悉く「うたひ」と平仮名である。私はこれについては、佐藤春夫によるおかしな補正が行われたのではないかと、深く疑っている。それは「小翠花」のルビ(読み)に関わる芥川の詩稿では一貫して「シヤウスヰホア」と記してある。それが「澄江堂遺珠」では何故、「セウスヰホア」となっているのか? これは「小」の日本語の音「ショウ」を歴史的仮名遣「セウ」で補正したとしか思われないのである。しかし、芥川はこの京劇役者の艶な響きを持った芸名の中国音「小翠花」(xiǎo cuì huā 正しい「筱」(篠)でも音は xiǎo )を忠実にカタカナに模そうとしたのではなかったか? それは芥川にとって「セウスヰホア」なんぞではなかったのだ!「シヤウスヰホア」であったのではなかったか?! という激しい疑義なのである。大方の御批判を俟つものではある。]

耳嚢 巻之九 疣の妙藥の事

 疣の妙藥の事

 

 いぼをとるに色々呪(まじな)ひ又藥あれど、蛇の拔殼(ぬけがら)をもつていぼの上をすり候へば、其直る事奇々妙々なり。其外女の面(をもて)などに、はたけ又は蕎麥かすの類有之(これある)時、右の拔殼にてこすれば直りて、面ての艷を生ずる由、人の語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:薬とする蛇の抜け殻で直連関。お馴染みの「耳嚢」民間療法シリーズ。疣とりは既に耳嚢 巻之六 いぼをとる呪の事で二話(一話は同巻の後で)あり、耳嚢 巻之八 いぼの呪の事にもある。実はこの蛇の抜け殻を用いた疣とりについても、既に耳嚢 巻之七 いぼを取奇法の事に既出である(少し療法が異なるので重出とは言えない。また、そこの私の民俗学的な注も参照されたい)。

・「はたけ」単純性粃糠疹(ひこうしん)の俗称。皮膚の表面に粉を噴いたような細かい落屑(らくそう)があり(鱗屑(りんそう)と呼ぶ)、周囲の皮膚に比べると白く見える。尋常性白斑(皮膚色素を作る部位の損失を不規則に引き起こす慢性的な皮膚疾患。俗に「しろなまず」と呼ぶ)のように色素が完全に抜けているというよりも、日焼けしても次々と新しい皮膚が出来ては剥けを繰り返しているために日焼けの色がつかずに色が薄く見える状態と言ってよい。私が小学生の頃は伝染性と誤解されており、担任教師が「はたけ」の女子児童を指して、染るから近づいていけないという驚天動地の警告をクラス全生徒の前で言ったのを、私は驚きの思いで聴いたの忘れない。本症状は伝染性ではなく、また、放置しておいても問題はない。以上は信頼出来る複数の皮膚科病院サイトを参照して記載してある(次も同様)。

・「蕎麥かす」雀斑(そばかす/じゃくはん)。米粒の半分の薄茶・黒茶色の色素斑が、おもに目の周りや頰等の顔面部に多数できる色素沈着症の一種。雀卵斑(じゃくらんはん)とも言う。主因は遺伝的体質によるものが多く、三歳ぐらいから発症し、思春期に顕著になる。なお、体表の色素が少ない白人は紫外線に対して脆弱であり、紫外線から皮膚を守るために雀斑を形成しやすい傾向がある。「そばかす」という呼称は、ソバの実を製粉する際に出る「蕎麦殻」、則ち、「ソバのかす」が本症の色素斑と類似していることによる症名であり、「雀斑」「雀卵斑」の方は、スズメの羽にある黒斑やスズメの卵の殻にある斑紋と類似していることからの命名である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疣(いぼ)の妙薬の事

 

 疣をとるに、いろいろなる呪(まじな)ひやら薬のあれど、蛇の抜け殼を以って疣の上を擦(こす)ってみれば、その治ること、これ、奇々妙々にて御座る。その外、女子(おなご)の顔なんどに、「はたけ」又は「雀斑(そばかす)」の類い、これ、生じたる折りにも、この蛇の抜け殻にてちょいと擦ればたちどころに治って、よき艷の顔色に戻るとの由、人の語って御座った。

耳嚢 巻之九 同棲不相害事

 同棲不相害事

 

 大久保に住(すめ)る横田其の屋舖に楓樹の大木あり。大人三抱(みかかへ)に猶(なほ)あまりありて、地を去る事凡(およそ)一丈程、二股にわかれぬ。其股なる所に大きなるうろありて蛇住(すみ)て、時としては枝に蟠(わだかま)り、飜りぬる事、家内にても見て恐るれど、害をなす事なし。年々拔替(ぬけかは)る殼をとりて藥にもなすよし。しかるに、むく鳥又年々來りて、此うろに巣をなして雛を連れて飛去(とびさ)る事、又常の事なり。蛇彼(かの)むく鳥の子を害せる事なく、勿論うろの内、隔(へだて)ありて其巣を異にする趣なれど、脇目には甚だ危く思ひしが、今は常となりて不怪(あやしからざる)由かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:大久保の地所で軽く連関。

・「同棲不相害事」は「同棲(どうせい)相ひ害せざる事」と読む。

・「一丈」三・〇三メートル。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇と椋鳥が同棲して相い互いに害することなしという事

 

 大久保に住んでおる横田殿の、その屋敷に楓樹(ふうじゅ)の大木がある。大の大人が三人で抱えるに、なお余りあるほどの大樹で御座る。

 この木は、地面から隔つること、およそ一丈辺りのところで、二股に分かれておるが、その股になっておる箇所に、大きなる洞(うろ)が空いており、そこに一匹の蛇が住みついておる。

 時には楓(かえで)の太き枝の上に蟠(わだかま)っておったり、鎌首をもたげては風に靡き翻るかのような動きを見せることもある。

 当初、家内(いえうち)の婦女なんどはこれを見、すこぶる恐れたりもしたものだが、これといって害をなすことは御座らぬ。

 毎年毎年、抜け変わるその殼を下男の者に採らせて、薬にも成して御座る。

 ところが、この洞(うろ)にはまた、椋鳥が、これまた毎年毎年来たっては、まさにこの洞(うろ)に巣を作り、雛を育ててはまた、それらをひき連れて飛び去ってゆくこと、常なることで御座る。

 蛇は、この椋鳥の子(こお)を害することは全くなく、勿論、洞(うろ)の内は広うして、蛇の巣と、年々歳々参る椋鳥が巣を作る所との間には、木目(きめ)の隔ての御座って、互いの巣は、これを異(い)にして御座る様子にてはあれど、初めて両者の同棲せるを知った折りには、脇目にも、これ、はなはだ危く思うて、椋鳥の雛の身を案じたりもしたもので御座ったが、今となっては、最早、その平穏が常なるものと知り、家内にても、もう誰(たれ)一人としてこれを怪しむものはおらずなっておる、とのこと、横田殿の語って御座った。

耳嚢 巻之九 稻荷奇談の事

 稻荷奇談の事

 

大久保本村最寄〔又市ケ谷川田ケ窪ともいふ。〕小笠原大膳太夫下屋敷あり。大屋敷なりしが、近年松平越中守と半分相對替(あいたひがへ)ありしが、右屋鋪に目附役を兼、屋鋪守(やしきもり)を勤(つとむ)る鮎川權左衞門と云へるあり。至(いたつ)て律儀に過(すぎ)候位(くら)いの人物にて、山師(やまし)樣(やう)の事抔なす物にあらず。然るに右殘り大膳太夫屋鋪も、外(ほか)と相對替も可致(いたすべき)沙汰有(あり)しに、此程權左衞門夢に一人の老翁枕元に來りて、此屋舗ほかへ替へ候ては、住所(すむところ)等にも差支(さしつかへ)、甚(はなはだ)難儀におよぶ間、何とぞ右の趣申立(まうしたて)、是迄の通致度(とほりいたしたき)旨相賴(あひたのむ)由、右禮には火難病難除(よけ)の守り札(ふだ)あたふべき由を告(つげ)て、かき消して失(うせ)ぬ。ゆめのさめて大きに怪(あやし)み、律儀成(なる)男ゆゑ麻上下(あさがみしも)など着替へて、屋舖内鎭守淸水(しみづ)稻荷へ參詣せし處、拜殿に備(そなへ)一つ御札壹枚ありしゆへ持歸(もちかへ)りて、早速上屋舖へ出て役人へ其事語りけるに、屋舖替(やしきがへ)は止みけるや、其事は不知(しらざれ)ども、右札の事聞(きき)およびて、もらうものありけるゆゑ哉(や)、右寫(うつし)を拵へ、文化五辰年九月廿八日より、右札の寫、望(のぞむ)ものへは附與(つけあたへ)候由。右最寄に住(すむ)人、九月廿九日來りて物語りしけるを、爰に記(しるす)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:一つ前の妖狐譚から連関。相対替えと妖狐譚という組み合わせでは、既に「耳嚢 巻之七 稻荷宮奇異の事」がある。

・「大久保本村」岩波版長谷川氏注には、『西大久保村をいうか。新宿区』とある。

・「市ケ谷川田ケ窪」岩波版長谷川氏注には、現在の『新宿区市谷柳町』とする。

・「小笠原大膳太夫」クレジットにより、豊前小倉藩の第六代藩主で小笠原家宗家第七代小笠原忠固(ただかた 明和七(一七七〇)年~天保一四(一八四三)年)。この人物、小倉藩の衰退に繋がった、「白黒騒動」を起こした藩主として知られる、かなり問題のある御仁である。ウィキの「小笠原忠固」より引用しておく(アラビア数字を漢数字に代えた)。彼は本来は播磨安志藩主小笠原『長為の長男であったが、生母が側室であったため、長為の正室に男児が生まれると、忠固は次男とされてしまった。しかし寛政六年(一七九四年)、本家の藩主である忠苗の養嗣子となり、文化元年(一八〇四年)七月二十日の養父の隠居により家督を継いだ。文化四年(一八〇七年)には朝鮮通信使の正使の接待、さらに小倉城の火災焼失などによる再建費用などで出費が相次ぎ、藩財政は悪化』した。『このような中で御家騒動が発生する。忠固は決して暗愚だったわけではなかった。むしろそれなりに活動的な大名で、実力もあった。ただし中途半端に実力を備えていたことが災いした。文化八年(一八一一年)、忠固は突然、家老の小笠原出雲を呼び出して、「自分も幕閣となって国政に参与したい」と言い出した。出雲はこれに対して賛成しなかった。もし、小倉藩主ほどの家格で幕政に参与するとなれば、老中くらいの役職に就くことになる。そうなれば、老中になるまでの運動で幕閣に対する出費や運動資金、いわゆる賄賂は莫大なものになるだろう。しかも当時は日本近海に外国船が出没し、幕政も行き詰まっている時期である。だから出雲はあまり幕政に関わらず、むしろ藩政の再建が重要だと考えて反対した。忠固も一時はこの諫言を聞き入れたが、またもや出雲に対して老中になるように運動するように命令を出した。こうなると小笠原一族である出雲は、本家当主の命令に従うしかなかった』。『だが、やはりそのための運動資金は莫大なもので、藩財政は破綻寸前となる。このため、反対派は忠固を老中にしようと運動している出雲を奸臣と見なしてその暗殺を図った。出雲のほうは未遂で終わったが、出雲の腹心が暗殺されてしまった。だが、反対派のほうも必ずしも一枚岩ではなかった。反対派の一部に自分の出世と出雲の手腕を妬む者がいて、この一派がとんでもないことに小倉藩が外国船に備えて造営していた狼煙台を勝手に使用して藩士を扇動したりして、執拗に出雲の暗殺を図ったのである。しかも反対派の一部が藩財政の悪化などからストライキを起こして筑前国黒崎に出奔してしまったのである。このため、反対派は黒崎から「黒」、出雲の一派は小倉城内(城→「白」)ということから、この騒動は白黒騒動と呼ばれている』。『このような一連の騒動が幕府の耳にも入り、そのメスが藩に入ることとなった。出雲は家老罷免の上で失脚。反対派に属していながら己の栄達を謀った一派は処刑、藩主の忠固も百日間の禁固刑となった。忠固の刑が軽かったのは、幕政に参与したいという幕府に対する忠誠心から起こったものであるとして、軽くされたためであ』った。『その後、忠固は年貢増徴などにより藩財政の再建を図ったが、それくらいではもはや賄いきれず、白黒騒動での出費と混乱から借金は十五万両に膨れ上がって藩財政は窮乏化する。そして遂には百姓の窮乏化を見て哀れんだ奉行が、年貢減免を独断で行なった後に切腹するという事件までもが起こった。文政年間には村方騒動も起こった』。『このように混乱続きの藩を再建するため、忠固は土木工事を行ない、倹約令を出しているが効果はなかった』とある。『幕末期に九州でも最有力の譜代大名・小倉藩の衰退は、外様の薩摩藩や長州藩など近隣の諸藩にとっては有利になったと言えるであろう』とも記す。この狐の護符も効かなかった、ということか。なお、底本の鈴木氏注には小笠原『忠徳』とし(不詳。誤記か?)、『豊前小倉城主、十五万石。中屋敷が下谷、下屋敷が市谷にあった。(安永三年武鑑)川田ヶ窪の小笠原家と他三家の屋敷および月桂寺の地を併せて市ケ谷河田町(新宿区河田町)となる』とある。私の尾張屋板江戸切絵図ではこの河田町(偶然であろうが、先の「狐に被欺て漁魚を失ふ事」に出た牛込柳町の南西の極直近である)に小笠原右京大夫の屋敷を見出すことが出来、無関係であろうが(本文に屋敷内の私的な鎮守の稲荷社とする)、その南側の道を隔てた地所に稲荷社がある(これは調べてみると、現在の新宿区余丁町の出世稲荷神社(太田道灌創建とする)である)。また、西に接して「松平伯耆守」「松平伊豆守」の屋敷も続いている(但し、彼らは同族ではあるものの松平定信と直接の関係はないと思われる)。因みに、ここで注しておくと、江戸藩邸は江戸城からの距離や機能により種類があって、上屋敷・中屋敷・下屋敷と区分されていた(以下、参照したウィキの「江戸藩邸」より引いておく)。『上屋敷は大名とその家族が居住し、江戸における藩の政治的機構が置かれた屋敷である。大名が居住するものは居屋敷(いやしき)とも呼ばれた。大名は在府中、定例の登城日や役職に定められた日など、しばしば江戸城に登城する必要があったため、通常は最も江戸城に近い屋敷が上屋敷となった。大名が江戸在府の際はここで政務を取り、大名が帰国した後は江戸留守居役が留守を預かり、幕府や領地との連絡役を務めた』。『上屋敷の構成は、大きく御殿空間(ごてんくうかん)と詰人空間(つめにんくうかん)に分けられる。御殿空間は主の居室などの表御殿、正室の居室などの奥御殿や庭園などであり、詰人空間は家臣の住まいである長屋、藩の政務を行う施設や厩舎などで構成された』。『江戸藩邸の中屋敷は上屋敷の控えとして使用され、多くは隠居した主や成人した跡継ぎの屋敷とされた。下屋敷と比較した場合、江戸城までの距離は近く、規模は小さいことが多い。中屋敷や下屋敷にも長屋が設けられ、参勤交代で本国から大名に従ってきた家臣などが居住した』。『江戸藩邸の下屋敷は主に庭園など別邸としての役割が大きく、大半は江戸城から離れた郊外に置かれた。上屋敷や中屋敷と比較して規模は大きいものが多い。江戸市中はしばしば大火に見舞われたが、その際には大名が避難したり、復興までの仮屋敷としても使用された。藩により様々な用途に利用され、本国から送られる米や各種物資を貯蔵する蔵屋敷として、遊行や散策のために作られた庭園として、あるいは菜園などとして転用される場合もあった』(他に、年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する蔵屋敷というのを別に持った藩もあり、これは収蔵品を販売するための機能を持つこともあった。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられた。藩によっては下屋敷が蔵屋敷の機能を兼ねることもあった、とある)。

・「松平越中守」元老中松平定信。但し、この時は例の尊号一件(閑院宮典仁親王への尊号贈与に関する紛議事件)によって既に失脚(寛政五(一七九三)年七月二十三日に将軍輔佐・老中等御役御免となった)、白河藩の藩政に専念していた。参照したウィキの「松平定信」によれば、『白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が』文化七(一八一〇)年に『実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した』。文化九(一八一二)年三月六日に『家督を長男の定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。桑名には良港があったため、これが目当てだったと云われている。ただし異説として、前述の江戸湾警備による財政悪化に耐え切れなくなった定永が、江戸湾岸の下総佐倉藩への転封によってこれを軽減しようと図ったために、佐倉藩主・堀田正愛やその一族である若年寄・堀田正敦との対立を起こし、懲罰的転封を受けたとする説もある』と記す。かの寛政の改革のチャンピオンも、この頃には経済的に厳しかったことが分かる。

・「相對替」当事者双方の合意に基づいて田畑・屋敷等を交換すること。田畑の永代売買が禁止されていたために行われた事実上の土地所有権移動の一形態である。幕臣も幕府の許可を得て、拝領屋敷の相対替をすることが出来た。当初は新規に拝領した屋敷の場合は、相対替えには三年経過することが条件であり、また一度相対替した屋敷は替えて十年が経過している必要があったが、文化元(一八〇四)年には前者は年限の規制が廃止され、後者は五年に短縮された(さらに後の文久元(一八六一)年には五ヶ月経過後ならば再度の相対替が許可されるようになった。以上は小学館「日本大百科全書」に拠る)。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、この前者の規制緩和が行われた後である。

・「鮎川權左衞門」不詳。

・「山師」非合法な手段で金儲けを企む者、又は、儲け話を持ちかけては他人を欺く者。

・「淸水(しみづ)稻荷」読みは、現在の東京都内にある同名の神社の読みに一応、従っておいた。

・「備(そなへ)一つ」「供へ」。神前に供えるための、三方(檜の白木で作った折敷(おしき)の三方に刳(く)り形(がた)のついた台に附けたもの。神饌(しんせん)を載せたり、儀式用の台とする。古くは食事の膳に用いた)であろう。

・「文化五辰年九月廿八日」西暦一八〇八年。「九月廿九日來りて物語りしける」という都市伝説としては普通あり得ない、クレジットの明記と翌日即伝聞の非常にリアルな形態を採った妖狐譚で、極めて特異と言える。しかも「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから凡そ十ヶ月ほど前の新鮮な噂話でもある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 稲荷社の奇談の事

 

 大久保本村(ほんむら)の最寄り〔または市ヶ谷川田ヶ窪ともいう。〕に小笠原大膳太夫(だいぜんだいふ)忠固(ただかた)殿の下屋敷がある。大きなる屋敷で御座ったが、近年、その半分を松平越中守定信殿と相対替(あいたいが)えされておらるる。

 この屋敷に目附役を兼ね、屋敷守(やしきもり)をも勤めて住もうておった鮎川権左衛門(あゆかわごんざえもん)と申す御仁がある。極めて律儀にして、律儀過ぎると評さるるくらいの人物にして、凡そ、山師(やまし)のような、金儲けのために怪しきことを企てつる如き人体(じんてい)にては、これ、御座ない。

 かの相対替えを致いた大膳太夫殿の御屋敷の残り部分についても、実は、他(ほか)の御仁と、これ、やはり相対替えを更に致さんとする話が御座ったと申す。

 ところが、ある夜(よ)のこと、その権左衛門が夢を見た、と申す。

……一人の老翁が枕元へと来たって、

「……この屋敷……外(ほか)へ替えなさられては……我ら……住まうところなんどにも……これ……大きに差し支え……はなはだ難儀に及ぶによって……何卒……この趣きを御主君へと申し立てて戴き……これまでの通り……致いて下さいまするよう……どうか……相いお頼み申し上ぐるものにて……御座る……」

と深く頭を下げるのであった。

 そうして、

「……その御礼には……火難(かなん)・病難(びょうなん)除けの守り札(ふだ)……これ……差し上げんと……存ずる……」

と告げたかと思うと、ふっと――かき消えて失せた――と思うたら――眼(めえ)が覚めた。

 夢の醒めて大きに怪しみ、律儀なる男にて御座った故、早朝より麻上下(あさがみしも)などに着替え、真っ先に屋敷内の鎮守たる清水(しみづ)稲荷へと参詣致いたところ、拝殿に真新しい三方が一つ置かれており、そこには、これまた墨痕未だ鮮やかなる御札(おふだ)が一枚、載せられて御座った。

 されば、それを持ち帰って、早速、上屋敷へと出向き、主家の上司へ、その事実を語ったと申す。

 まあ――それによって更なる屋敷替えが沙汰止みとなったかどうか、これは、よう、存ぜぬが――ともかくも、この稲荷神(いなりがみ)が直々に齎(もたら)したところの御札のことは、これ、瞬く間に世間に知れ渡って、貰い分けに参る者が、これ、ひきをきらずとか。余りに切望する者の多く御座れば、権左衛門は、この写しを拵えおき、この文化五年辰年九月二十八日より、この札の写しを、卑賤の別なく望む者に分け与え始めた、と。

 この小笠原殿下屋敷の最寄りに住まう知人が、翌九月二十九日に来たって、物語りして御座ったを、そのままここに記すことと致いた。

2015/01/04

耳囊 卷之九 不死運奇談の事

 

 不死運奇談の事

 

 文化五辰年七月廿五日、戶塚程ケ谷三浦三崎の邊、高浪大荒(おほあれ)、敗船數艘死人夥(おびただしき)由、虛實は知らざれども、獵船百三十四艘、人も是に準じ、三崎近所二町町谷村といふ所にて漁人一村にて六十七人も死せし由。江戸四日市干肴(ひざかな)問屋市兵衞と申(まうす)者、右難風に逢ひ不思議に歸りし由訴へるものありしが、彼(かの)市兵衞に急度(きつと)なく能く聞來(きききた)れと其筋のものへ申付置(まうしつけおき)しが、九月に至りて右市兵衞に聞(きき)し由にて委細申けるを爰に記しぬ。右市兵衞は、相州湯川(ゆかは)村へ商買物(しやうばいもの)仕入(しいれ)として、右村善左衞門押送(おしおく)りの船湯川へ歸り候に便船(びんせん)して、船主(ふなぬし)善左衞門、水主(かこ)八十七(やそしち)市郞左衞門半左右衞門長七、外に名前不存(ぞんぜず)長七兄(あに)の由一人都(すべて)七人乘組(のりくみ)、七月二十四日出船(しゆつせん)、其夜は浦賀御番所(ごばんしよ)手前に懸り居(ゐ)、翌二十五日朝は雨天の處、四ツ時より晴(はれ)候間乘出(にりいだ)し候處、九ツ時分平塚沖にて俄(にはか)に雲立(くもだち)惡敷(あしく)、風雨烈敷(はげしく)、高波になり、帆を下し候迚(とて)帆柱を取落(とりおと)し押流(おしなが)され、風は次第に募り候ゆゑ、船主(ふなぬし)水主(かこ)申(まうし)候は、此儘にては助命の程難斗(はかりがたし)、善左衞門其外(そのほか)水主(かこ)共(ども)は水泳も心得候間、何樣(いかやう)にもいたし可助(たすかるべ)けれども、御身は其心(こころ)なけれども何卒助け申度(まうしたき)間、船梁(ふなばり)へ取付(とりつき)凌(しのぎ)候はゞ、萬一助り可申(まうすべし)と申(まうす)ゆゑ、單物(ひとへもの)は脫捨(ぬぎすて)帶(おび)にて胴を强く締(しめ)、細引(ほそびき)にて船梁(ふなばり)へ被締付居(しめつけられゐ)候處、甚(はなはだ)風烈敷(はげしく)なり船へ水打込(うちこ)み、少しも重(おもき)品ははね捨(すて)、船頭水主(かこ)は飛込(とびこみ)、船具(ふなぐ)等を持(もち)游(およぎ)候處、市兵衞は船梁に取付(とりつき)、浪にゆられ居(をり)候内(うち)、高浪にて頻りに闇(くら)くなり東西も不分(わかたず)、怖敷存(おそろしくぞんじ)、波打込(うちこみ)候節(せつ)は水を冠(かぶ)り目を塞(ふさぎ)息を詰(つめ)、其間(そのあいだ)には息をつぎ、凡六七度も右の通(とほり)ゆゑ身命(しんみやう)まさに絶(たえ)んとせしに、南風に代(かは)り平塚宿岸の方へ段々打寄(うちよ)せられ、陸へ凡一町餘も可有之哉(これあるべきや)、海端(うみはた)を立𢌞(たちまは)り候人(ひと)も見へ候間、足にて下を搜(さぐ)り候得(さふらえ)ば淺く候間、砂地にて臍の邊迄も水(みづ)有之(これある)ゆゑ、始(はじめ)て活命(くわつめい)の心持(こころもち)に成(なり)、梁(はり)に結付(むすびつけ)し細引を解(とき)、凡(およそ)一間(けん)程も步行(ありき)候虞處、陸より見付(みつけ)、助(たすけ)に參り候もの手を取引上吳(ひきあげくれ)候間岸へ游付(およぎつき)候由。市兵衞船に乘り居(をり)候内(うち)、艫(とも)の方(かた)崩(くづれ)候迄の處、同人上(あが)り候跡にて波にて船も微塵(みぢん)に相成(あひなり)侯由。然れども、最初船へ被結付(むすびつけられ)候節、懷中の金拾貮兩分、貮朱判にて財布に入れ投出(なげだ)し候處、水主(かこ)共(ども)取計(とりはから)ひ、船の内へ結付置(むすびつけおき)候を、船具(ふなぐ)取上(とりあげ)候節取上(とりあげ)、右金子も失不申(うしなひまうさざる)由。乘組(のりくみ)の内、船主(ふなぬし)善左衞門水主(かこ)半左衞門長七幸左衞門は船具に取付(とりつき)游(およぎ)候て、市兵衞より先へ平塚へ上り、八十七市郞左衞門名前不存(ぞんぜぬ)長七兄(あに)都合三人は溺死致(いたし)、八十七は死骸出候得(いでさふらえ)ども外(ほか)兩人は不相知(あひしれざる)由。尤(もつとも)右嵐は凡(およそ)二時(ふたとき)程の内に候由。尤も市兵衞儀も上陸の上(うえ)氣を取失(とりうしな)ひ、彼是(かれこれ)介抱を請(うけ)、兼(かね)ての知人須賀(すか)村平兵衞(へいべゑ)と申(まうし)者より衣類抔借請(かりうけ)、夫(それ)より支配役所手代(てだい)罷出(まかりいで)、吟味を請(うけ)、船中にて祈念(きねん)致(いたし)候ゆゑ、江戶表へ飛脚を以(もつて)委細申越(まうしこし)、大山石尊(おほやませきそん)へ參詣致(いたし)、八月朔日(ついたち)陸路を歸り候由。右市兵衞は廿六才にて、兩親は相果(あひはて)、兄弟六人有之(これあり)、男子五人の内(うち)末子(まつし)にて、妻も相果(あひはて)、獨身(ひとりみ)にて、召使(めしつか)ひ男三人有之(これあり)、干肴物(ひざかなもの)屋にて相應にくらし候者の由。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。貴重な台風による海難事件の実録物である。

・「不死運奇談の事」は「死なざる運、奇談の事」と読む。

・「文化五辰年七月廿五日」文化五年は戊辰(つちのえたつ)で、グレゴリオ暦の一八〇八年九月十五日に当たる。因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、前年の極めてホットな事実記載である(しかも南町奉行であった根岸が直々に調査を命じた、ほぼ公記録に等しいものである)。「武江年表」によれば、この年は異常気象が頻繁に起ったらしく(幻斎氏の「幻斎ブログ」の「記録に見る地震・噴火・気象異変(五)」より正字化・箇条書化して孫引きさせて戴いた。一部の歴史的仮名遣を補正し、読点などや読みを恣意的に補った。下線はやぶちゃん)、

   *

◯正月九日、十日、大雪、降る。五十年來の雪といふ。所々、松、折れる。

◯二月朔日、大雨・大雷。

◯六月初旬より、雨繁(しげ)く降り、十六日より十八日迄、江戶及び近國、洪水、溢(あふ)る。米穀價、貴(たか)し。

◯閏六月十八日より二十日迄、大雨、降る。再び洪水、溢る。

◯七月二十一日、夜に入り、雷、少し鳴る。暮六時より大雨、盆(ぼん)を傾(たかたむ)くるが如し。

◯七月二十五日、晝九ツ時より南大風・雨、家屋を損じ、怪我人多し。豆州獵船、七十餘艘、覆へる。又、酒船(さかぶね)入津(につしん)絶えて、市中、酒なし。

◯八月に至りて、雨、繁く降り、七日、八日、大雨、江戶諸國、洪水溢る。

   *

国土交通省近畿地方整備局和歌山河川国道事務所公式サイト内の紀の川の歴史の江戸時代のページに、この日の記事があり、そこには暴風雨が紀伊半島を襲ったことが記されてあり、『紀伊和歌浦等の通船が転覆したので溺死者が多く出た』とある。大型台風かと思われるが、想像を絶する大惨事を引き起こしていることが分かる。

・「二町町谷村」底本の鈴木氏注に、『二町谷村が正しい』とある。これは「ふたまちやむら」と読み、岩波の長谷川氏注に、現在の『三浦市三崎町六合(むつあい)』とする。城ケ島の東直近の宮川湾の北奥一帯の地名である。

・「四日市」岩波の長谷川氏注は『日本橋と江戸橋の間の日本橋川の南岸の地。中央区日本橋一丁目』とし、底本の鈴木氏注も『日本橋の元四日市町』で、その地名の由来とともに、『昔、毎月四の日に市が立つので四日市場村といった処で、後々まで乾魚その他食料品の市があった。明暦大火後、道路を拡張したので霊岸島に代地をし、そこを四日市町と呼び』、残った旧地を「元四日市」と呼んだという記載がある。重宝している人文社の「耳嚢で訪ねる もち歩き裏江戸東京散歩」(二〇〇六年刊)では、これを中央区新川一丁目に比定しているが、これはまさに鈴木氏が言った霊岸島の移転先の「四日市町」であって、同定としては完全な誤りである。因みに、この元四日市町の日本橋川の対岸が日本橋魚河岸であった。

・「戸塚」東海道戸塚宿。現在の横浜市戸塚区。

・「程ケ谷」東海道保土ヶ谷宿。現在の横浜市保土ヶ谷区。

・「三浦」現在の三浦半島の広域地名。次の三崎と区別するなら、横須賀市・三崎町を除く三浦市・逗子市・葉山町に相当する。

・「三崎」現在の三浦市三崎町。

・「急度(きつと)なく」この「急度」は、鋭く・厳しくの意の副詞「きと」が促音便化したもので(しばしば見る「屹度」やこの「急度」は当て字である)、ある事柄が確実に正式に厳重に行われるさまをいうので、「きっとなく」で、犯罪の取り調べではなく、また大きな被災直後でその当事者ということをも考慮し、事細かに漏れなく正式に厳しく取り調べよというのではなく、非公式に、しかし細かな部分も可能な限り、よく押さえつつ、取り調べて参れと、南町奉行であった根岸が命じたものであろう。

・「湯川村」不詳。底本の鈴木氏注では『不詳』としつつも、『湯河原か』と記しておられ、市兵衛は海産物の干物問屋であり、買い入れ先としてしっくりくるし、遭難の位置関係からもおかしくない。現代語訳は湯河原で採った。

・「水主(かこ)」「水夫」「水手」などとも書く。「か」は「梶(かじ)」、「こ」は「人」の意で、船を操る人。古くは広く船乗り全般を指したが、江戸時代には下級船員をこう称した。岩波の長谷川氏がこの注でも指摘しておられるが、この乗員の数はちょっとおかしい。①船主「善左衞門」②水主「八十七」③同「市郎左衞門」④同「半左右衞門」⑤同「長七」⑥同(名前不明の)⑤の長七の兄一人で計「七人乘組」とある。市兵衛を含めてこれは「七名」かと納得して読んでいたのであるが、後の文にを見ると、遭難し救助された「水主」の一人に「幸左衞門」という名が出る。実は市兵衛を除くと、この船には全部で七名の船員(船主を含む)が乗り組んでおり、市兵衛を含めると、乗員総数は八名であったと考えられる。現代語訳では幸左衛門を追加して、前後の齟齬を訂することにした。なお、「右衞門」は「うえもん」と読み、起源は律令時代に兵役に就いた者が兵役終了後に、その証として配属先の右衛門府の名を名乗ったことであるとされている。参照したウィキの「右衛門」によれば、時代が下がると武士平民を問わず広く用いられるようになり、頭に親族・兄弟関係を表す文字などを付けた「弥右衛門」「彦右衛門」「四郎右衛門」などとして多用されたたが、一般的に頭に文字を付けた場合は「右衛門」の部分は「~うえもん」ではなく「~えもん」と読む場合が多いらしい、とある。永く不審であったのでここに注しておく。

・「浦賀御番所」幕府が相模国浦賀(現在の横須賀市西浦賀町)に設置した番所(幕府や諸藩が交通の要所などに設置した監視所で必要に応じ、通行人・通航船舶・荷物などの検査や税の徴収を行なった。幕府は主要港・主要河川に設置して物流の出入りを監視した)。江戸湾の出入りする船は総てがここで積載物などの検査を受け、箱根関にも匹敵する重要な関門であった(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

・「懸り居」碇を下ろして停泊し居り、の意。

・「四ツ時」朝四ツ。不定時法で、この時期(七月二十五日)は午前十時頃に相当。

・「九ツ」昼九ツ。不定時法ながら、年間を通じて正午前後に相当。

・「單物(ひとへもの)」この二字で「ひとへ」と訓じているのかも知れない。下着の服。これも脱いで、褌一つとなったのである。

・「船梁」和船の外板を構成する棚板(和船の外側に張ってある板。船底より順に根棚・中棚・上棚と称する)と棚板との間に多数挿入して船の横圧を支えて船形を保持するための横材。前後の位置によって二番船梁・腰当船梁・床船梁などがあり、上下位置では上船梁・中船梁・下船梁などがある。

・「一町」約一〇九・一メートル。

・「一間」約一・八メートル。

・「艫(とも)」船尾。

・「金拾貮兩分、貮朱判」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は(正字化した)、『金拾弐兩弐分、貮朱判』である。これを訳では採った。

・「二時」約四時間。

・「須賀村」現在の相模川河口の平塚市須賀。

・「支配役所手代」岩波版の長谷川氏注に『平塚は幕府領。中原陣屋の代官の属僚』とある。ネットの2ちゃんねるの記載によると(「2ちゃんねる」も侮れない)、平塚地域内の各村は江戸の初期には概ね天領(一部は小田原藩領)だったが、元禄期頃までには殆んどが旗本の知行地に分割されていったらしい(一部は六浦藩・小田原藩、遠く佐倉藩領の飛地などもあった)。これは江戸幕府は江戸近郊に大名を置かないという政策の一端で、しかも一つの村を数人の旗本領に分割、旗本が在地に勢力を張れないようにしていた、とある。「平塚市博物館」公式サイトの「ひらつか歴史紀行 第44回 近世平塚の領主 その1(近世初頭の領主)」によると、『家康の江戸入り後の相模国の領主』では、『最も多いのが徳川氏直轄領で、次に藩領、そして旗本領と続』くとあり、これを『郡別にみると藩領は足柄上下郡のみで、これは領国境の押さえとして配された大久保氏の小田原藩領です。また、旗本領は戦に備え江戸から』十里(約四十キロメートル)前後の近郊に配置され、『高座郡など東部に多く』、『直轄領は足柄上下郡以外の諸郡に広く分布』、『なかでも平塚市域を含む大住郡はその中心といえ』るとある。そして『これら直轄領は当初、彦坂元正・伊奈忠次ら代官頭によって広域的に支配され』たが、慶長一五(一六一〇)年に伊奈忠次が死去すると、『相模国中郡(淘綾・大住・愛甲郡)は、中原陣屋を拠点とする中原代官によって支配されるようになり』、『中原代官は一村を複数の代官によって管轄する「相代官」制という特長的な支配を行』ったとある。『この中原代官の出自は、大きく二つの系統に分けられ』、『一つが家康の関東入り以前から家康の地方巧者(民政にたけた者)として登用さていれた系統の者。もう一つが関東入り以降、小田原北条氏の旧臣から登用された系統の者で』、『徳川譜代の代官に加え、在地の事情に詳しい小田原北条氏旧臣も加えた中原代官の支配方式には、代官頭消滅後の徳川氏の在地支配を地域の事情に即して強化しようとするねらいがうかがえ』ると記す。

・「大山石尊」現在の神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利(おおやまあふり)神社。大山詣でで知られるようにここは江戸庶民の深い崇敬を受けていた。

・「八月朔日」文化五年の七月は小の月であるから、遭難救助されたのが七月二十五日とすると、江戸に帰着する八月一日までは、救助されてから五日間ある。大山詣でも決して不審ではない。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 命運によって死んずに済んだ者の奇談の事

 

 文化五辰年(たつどし)七月二十五日のことである。

 戸塚・保土ヶ谷・三浦・三崎の辺り、高波が押し寄せ、海が大荒れとなって、数艘の船が難破し、夥しい数の死者が出たと伝える。

 正確かどうかは確認出来ていないが、難破した船は総計百三十四艘に及び、人もこの数に準ずるという甚大なもので、三崎近隣の二町谷(ふたまちや)村という所に於いては、漁師がここ一村だけで六十七人も亡くなったと聴く。

 さて、江戸四日市町(よっかいちちょう)にある海産物干物問屋の市兵衛(いちべえ)と申す者は、この未曾有(みぞう)の嵐に遇いながら、不思議に無事に帰って参ったによって、よくよくその不可思議をお調べあれかしと、上申する者がこれあったがため、取り敢えず、この当事者たる市兵衛に対し、非公式乍ら、しっかりとした聴取を成しおくよう、その筋の者に申し付けおいたのであるが、やっと同年九月に至って、かの市兵衛の聴取を終えたという報告があった。されば、その委細を聴き及ぶことも出来たによって、ここにその事実を記しおくこととする。

 

一、市兵衛が儀及び乗船の経緯

○この市兵衛は、相模国の湯河原村へ商売の海産干物を仕入れんとして、かの村の善左衛門(ぜんざえもん)が江戸へ種々の荷を回漕して参ったところの船の、湯河原へ帰船するというを聴き、それ便乗した。

一、乗組員

・船主(ふなぬし) 善左衛門(ぜんざえもん)

・水主(かこ)   八十七(やそしち)

・同じく      市郎左衛門(いちろうざえもん)

・同じく      半左右衛門(はんざえもん)

・同じく      長七

・同じく      幸右衛門(こうえもん)

・同じく      氏名不詳の先の長七の兄と称する人物

計、水主(かこ)七名及び市兵衛、総計八名が乗っていた。 

 

一、経過と遭難

○七月二十四日

・出船(しゅっせん)し、その夜は浦賀御番所手前に停泊した。

○七月二十五日

・朝、雨天にて出船を控えていたが、四ツ時より晴れたために、出帆した。

・ところが、二時間ほど経った(三崎を越えて相模灘に既に出てかなり航行した後であった)九ツ時分(既に船は、その時、平塚沖にあった)、俄かに黒雲の湧き起って、頗る天候が悪化し、加えて風雨も烈しくなり、波も尋常ならざる高波となった。

・そこで、帆を下ろそうとしたが、下ろす前に帆柱が風に吹き折られ、そのまま海上に押し流されてしまった。

・その後、ますます風が激しくなってきたため、船主(ふなぬし)や水主(かこ)らが市兵衛に、

「このままにては、命の助かること、これ、極めて有り難きこと。我ら(善左衛門のこと)や、その外の水主(かこ)どもは水練も心得て御座るによって、最悪の事態となっても、助かる見込みはあろうと存ずる。しかれども、貴殿は水練の心得もない――ないが――しかし、何としてもお助け申し上げとう存ずる。されば、一つ、船梁(ふなばり)へ取りついて、この暴風雨を凌ぎなすったならば、失礼乍ら、万が一にも助かるやも知れませぬ――」

と告げたと申す。

・されば、市兵衛は下着をも一切脱ぎ捨て、褌一丁となったを、水主(かこ)の一人が、彼の帯を以って彼の胴を強く縛りつけ、それに漁具の細引(ほそびき)を以って結わえ、船梁(ふなばり)へときつく、これも、締め結びつけて座らせた。

・それの直後から、直ぐにまた、風が烈しくなって、船中へと海水が打ちなだれる如く、多量に流れ込んできた。

・水主(かこ)らは、船を沈ませぬよう、少しでも重い物は、これを摑んでは海へと、幾つも放ち捨てた。

・その後、船主(ふなぬし)及び水主(かこ)八名は、一斉に海へと飛び込み、予め放ちおいて海上に浮かしておいたる船具(ふなぐ)なんどに取り付き、それに身を任せて泳いでいた。

・市兵衛はというと、船梁にしがみつき、激しい波にぐるぐると揺られ続けた。

・恐ろしき高波が続き、あっという間に辺りも暗くなって、最早、西も東も分からぬ状態となった。

・市兵衛は殆んど恐怖の限界に達していた。

・波の激しく打ち込んでくる折りには、海水を頭から何度もかぶり、その時にはただ、固く目を塞いで、息を詰め、窒息せんかと思うぎりぎりに息をついだ。

・こうした呼吸の困難な、死ぬような思いを、これ、凡そ六、七度も繰り返した。

・されば、市兵衛は、かかる状況下、

『――最早――我が身命(しんみょう)絶えんか!』

と思いもし、実際にそうなりかかった(後にこの時、市兵衛は大山石尊を心に念じたと語っている)。

・ところが、ふっと南風(はえ)に代わって、沈みかけた船は平塚宿の海岸の方(かた)へと、これ、だんだんに打ち寄せられるのが市兵衛にも分かった。

・市兵衛がふと心づいて見遙かすと、陸(りく)へはたかだか一町あまりしか、これ、なかろうかと覚えた。

・しかも、闇の中、海岸端(ぱた)を往ったり来たりしている人の燈火(ともしび)さえも見えたによって、殆んど沈みかけて御座った船端から、恐る恐る、足だけを下ろして、海中を探ってみたところ、これ、意想外に浅いことが判明した。

・そこはもう遠浅の砂地であって、臍(へそ)の辺りの深さに過ぎぬことも分かったによって、市兵衛は、ここで初めて、生き返ったような心持ちとなり、船梁に結ひつけてあった細引を解き、凡そ一間(けん)ばかりも海を歩いたところが、即座に陸よりその姿を見つけて助けに参った者が、市兵衛の手をしっかりと取って引き、そのまま、浜辺の方へと連れて引き上げて呉れたによって、岸へと泳ぎつくことが出来たという。

・市兵衛が乗っていたその船は、その折りには、既に、艫(とも)の方(かた)がさんざんに崩れかけていたが、同人が陸(おか)上がったその直後、一際(ひときわ)、大きなる波が打ち寄せ来たって、船は木端微塵となったという。

・それでも、市兵衛が最初に船の船梁へ結びつけられた折り、懐中の金子――十二両二分及び二朱判――があったが、これを一つ財布に入れ、船中に投げ出してそのままにして御座ったものを、たまたま見かけた水主(かこ)が彼の金子と合点し、船の内の船具(ふなぐ)の一つへとしっかりと結びつけおいた。それを、やはり海に飛び込んだる水主(かこ)の一人が、その結わえつけたる船具に取りついたままに、先に救助され、しかもその船具をも手放さずに御座ったによって、市兵衛は、何と、その金子も一銭も失うことなく、最終的には彼の手に全額が戻されたと申す。 

 

一、事後

○乗組員の内、船主(ふなぬし)善左衞門、水主(かこ)の半左衞門・長七・幸左衞門三名計四名は船具(ふなぐ)に取りつて海岸へと泳ぎ着き、市兵衛よりも先に、平塚の海岸に上がって救助されていた。

○八十七・市郎左衞門及び氏名不詳の長七の兄の都合三名は溺死した。八十七は死骸が浮かんだものの、外(ほか)両人の遺体は結局、上がらなかったという。

○尤も、この台風、凡そ二時(ふたとき)ほどの短い間(ま)の通過であったという。

○尤も、市兵衛も、陸に上がった当初は、その場で失神し、かれこれ、介抱を受けた上で息を吹き返したとのことで、兼ねての知人で須賀(すか)村におったる平兵衛(へいべえ)と申す者より、着衣等(とう)を借り受け、それより、支配役所の手代(てだい)が急遽、彼の元へと派遣されたによって、今回の海難事故についての吟味を受けたという。

○市兵衛からは、江戸表の右市兵衛所有の店と実家へ向け、特に飛脚を以って、本件につき、委細を知らするところの通知を成さしめ、また、難破せる船中に於いて、頻りに命乞いの祈念を致いたとの願い出によって、命を救うて呉れたと信ずる大山石尊(おおやませきそん)へと、まずは参詣なした上、神前に命拾いの謝礼を成し、その後、八月朔日(ついたち)、陸路を経て、江戸表へ帰着なしたる由。

 

一、その他附記

○この市兵衛なる者は二十六才にして、両親はすでに世に亡く、兄弟は六人、これあり、男子五人の内の末子(まっし)にして、若いながら妻も既に相い果てており、独身(ひとりみ)にして、店(たな)には召し使う男、三人、これ、ある由。干物屋にして、相応の暮しを致いておる者とのことである。

        依って件(くだん)の如し。

 

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅴ ■4 推定「第三號册子」(Ⅰ) 頁1~2

■4 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」に於いて佐藤春夫が「第三號册子」と呼称するものと同一のノート(若しくはその一部)

[やぶちゃん注:底本(岩波版新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』。但し、恣意的に正字化した)の頁番号を踏襲したが、前の「■3」のノートのページ番号と区別するために《頁1》という風にした。]

 

《頁1》

  時 雨

西の田のもにふる時雨

東に澄める町のそら

二つ心のすべなさは

人間のみと思ひきや

 

 

[やぶちゃん注:これは「■1」の二番目の同題の一篇、

 

西の田の面(も)にふる時雨

東に澄める町の空

二つ心のすべなさは

人間のみと思ひきや

      時雨

 

と、「田の面(も)」が「田のも」に、「空」が「そら」になっているという二箇所の表記が異なるだけで、相同の詩篇と言ってよい。]

 

  沙羅の花

沙羅のみづ枝に花さけば

うつつにあらぬ薄明り

消なば消ぬべきなか空に

悲しき人の眼ぞ見ゆる

 

[やぶちゃん注:これも「■1」の三番目の同題の一篇、

 

沙羅のみづ枝に花さけば

うつつにあらぬ薄明り

消なば消ぬべきなか空に

かなしきひとの眼ぞ見ゆる

         沙羅の花

 

と、「かなしき」が「悲しき」になっているという表記が一箇所異なるだけで、相同の詩篇と言ってよい。]

 

  花 火

夜半の川べに來て見れば

水のもをこむる霧のなか

花火は空に消えにけり

われらが末もかくやらむ

 

[やぶちゃん注:これは、「■3」の、【頁4】に、

 

夜はの川べに來てみれば

ほのかに靑き

水(ミ)のもをこむる霧の中

花火は空に消えゆけり

われらが戀もかくやらむ

 

と相似形の句である。削除部分がないことから、こちらの方が後の推敲形であろうか。「夜は」が「夜半」に、「みれば」が「見れば」になっていること、「水」にルビを持たないこと、最も大きな違いは最終行の「戀」が「末」と変えられて、「消えゆ」く「花火」が完全な「戀」の隠喩として隠されてある点である。]

 

  惡 念

松葉牡丹をむしりつつ

人殺さむと思ひけり

 

 

《頁2》

光まばゆき晝なれど

女ゆゑにはすべもなや

 

[やぶちゃん注:これも「■1」の八番目の同題の一篇、

 

松葉牡丹をむしりつつ

ひと殺さむと思ひけり

光まばゆき晝なれど

女ゆゑにはすべもなや

       惡念

 

と、「ひと殺さむ」が「人殺さむ」になっているという表記が一箇所異なるだけで、相同の詩篇と言ってよい。]

 

  夕

廢れし路をさまようぞ

光は草に消え行けり

けものめきたる欲念に

悸ぢしは何時の夢ならむ

 

[やぶちゃん注:これは「■1」の一番目の「心境」という一篇、

 

廢れし路をさまよへば

光は草に消え行けり

けものめきたる欲念に

怯ぢしは何時の夢ならむ

        心境

 

と酷似した相似形の一篇である。最も大きな違いはロケーションのリアルな「夕」(「ゆふべ」と読ませていよう)から心象風景に創り変えた「心境」という題名変更及び一行目の「さまよへば」が「さまようぞ」と裁ち切られている点で(これは音律からも内在律的からもよろしくないと私は思う)、「悸ぢし」が「怯ぢし」になっている(孰れも「おぢし」と訓辞じているものと思われる)点である。]

 

涅槃のおん眼ほのぼのと

とざさせ給ふ夜半にも

悲しきものは釋迦如來

邪淫の戒を説き給ふ

 

[やぶちゃん注:これも「■1」の十番目の「佛」と題する一篇、

 

涅槃のおん眼ほのぼのと

とざさせ給ふ夜半にも

かなしきものは釋迦如來

邪淫の戒を説き給ふ

      佛

 

と、の有無及び「かなしき」が「悲しき」になっているという表記が一箇所異なるだけで、相同の詩篇と言ってよい。]

 

遠田の蛙聲やめば

いくたび■よはの汽車路に

命すてむと思ひけむ

わが夫はわれにうかりけり

 

[やぶちゃん注:「■」は底本には『一字不明』とあるもの。音数律から「□」ではなく「■」とした。この一篇は、「■2」に、

 

遠田の蛙聲やめば

いくたびよはの汽車路に

命すてむと思ひけむ

わが夫(せ)はわれにうかりけり

 

として生きた一篇として載ってしまっている問題の一篇である。何が問題なのか?――それは実に大問題なのである! これは「澄江堂遺珠」にも載らない一篇である。現存する「澄江堂遺珠」関連資料の中に、他に生きた詩篇としてこの文字列と同じものを見出せない――ということは――とりもなおさず、「■2」の堀辰雄編集になる「未定詩稿」なるものには、堀辰雄によって、芥川龍之介が抹消した部分さえ蘇生させ、不当にして恣意的に、復元或いは捏造してしまった詩篇が混じっていることの明白な証左となるから――である。亡き詩人が抹消した部分を生きた詩篇として何のコメントもなしに復元して発表するというのは私は立派な《捏造》であると考える人間である。――]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅳ ■3 推定「第二號册子」(Ⅱ) 頁12~34 / ■3 推定「第二號册子」了

【頁13】

雨にぬれたる曇沙華

ふみつつひとり思ひけり

天女にあらぬ人の上

――釋迦佛の世は遙なり

 

思ふは

 

穗麥はまじる

わが欲念に

 

たときもしらずひとを戀ひつつただひとり

歩むはつめたき踏むは濡れたる敷石に

誰がまきすてし曼沙沙華

――釋迦佛の世は遙なり

 

[やぶちゃん注:「曼沙沙華」はママ。]

 

【頁14】

脈の光のびとすぢに

 

わが欲念のみにくさは

羽ぬけ鷗

 

疊をはへるむかではもさへ

まもるわれとはなりけり

わが欲念のみにくさに

おぢし昔ぞしたはは何時やらむ

 

黄土の壁に來しやもり

しばらくゐつつ去りにけり

わが欲念に驚きし

 

疊をつたふむかでさへ

まもるわれとはなりにけり

わが欲念のみにくさに

馴れしは

 

【頁15】

廢れし路をさまよへば

光は草に消え行けり

けものめきたる欲念に

悸ぢしは何時の夢 ならむ昔は何時ならむ

 

[やぶちゃん注:ここだけ「廢」は底本の用字。「悸ぢし」は「おぢし」と読んでいると思われる。「怖(お)づ」。]

 

ひとをこひつつただひとり

ふむはぬれたるしきいしに

たかまきすてし はつはつききしまだちりがてぬ曼珠沙華

――釋迦佛の世は遙かなり

 

【頁16】

廢れし路をさまよへば

光は草に消えゆけり

わが欲念の執のすべなさに

悸ぢし昔は何時やらむ

 

わが欲念は秋の夜の

土をながるるしめり風

 

(けものめきたる欲念に

(疲れし路をさまよへば

(光は草に消えゆけり

(わが欲念のみにくさに

 
[やぶちゃん注:底本に『以上四行、上方に印あり』とある。如何なる印かは明記がないが、取り敢えず他に認められるスラーのようなものかも知れない。一応、「(」で示しておいた。]

 

悸ぢし昔は何時やらむ

 

【頁17】

疑ひ深きわれなれば

疑ふものは數おほし

 
 
鮓はいきるる夏のよ

紺の暖簾に

またたかぬ顏浮びけり

 

佛の世は遙なり

女を思

佛の世は遙なり

 

【頁18】

またたかぬ顏浮びけり

 

夜はふけやすき日本橋

いきるる鮓に

たどきも知らずわが來れば

鮓は

夏の

 

時雨はかかる日本橋

たどきも知らずわが行けば

うす紫にほのぼのと

時雨はかかるアーク燈

[やぶちゃん注:「燈」は底本の用字。]

 

【頁19】

圓葉柳に靑蘆に

まひるは眠る川の上

 

かなしきものはほの暗き

月の中なる山の影

君が心のおとろへも

       眼に見ゆる

見じとはすれど

       見ゆるなる

 

雨にぬれたる敷石に

珠沙華

 

【頁20】

古き日あし

 

しみらに雪はふりしきる

 

[やぶちゃん注:「しみらに」一日じゅう絶え間なしに。ひっきりなしに。しめらに。]

 
 
秋の薔薇に

 

 

藤の

 

古き

 

こぼるる藤に月させど

心は

 

君が心のおとろへは

水のもに暮るる薄明り

橋間をすぐる鶯

 

【頁21】

わか欲念の濁り水

 

[やぶちゃん注:「わか」はママ。]

 

澄むとここと知らぬ濁り江に

かがやかなりや大金支那金魚

わが煩惱のもなかにも

佛こごろぞかくは

かくは過ぎ行く

 

おのれを

かがやかにこそ過ぎにけれ

 

【頁22】

澄むこと知らぬ濁り江に

かがやかなりや支那金魚

わが煩惱のもなかにも

知慧こそかくは過ぎにけれ

時には知慧ぞかくは來る

知慧はかくこそ下り來れ下り來る

かくこそ知慧は かかさある知慧こそ下り來れ

さこそは知慧も下り來れ

 

澄むことしらぬ濁り江に

かがやかなりや支那金魚

わが煩惱のもなかにも

閃かずやは 刹那はすぐるさこそはすぐる彌陀ごころ

 

【頁23】

おそうぐひすのとびすぐるひらめける

たそが

ひらめける

 

栴檀木の花ふるふ

花ふるふ夜の水明り

水明りよりにもさしぐめる みしめる

さしぐめる眼は

 

[やぶちゃん注:「栴檀木」ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarachの別名。別名、楝(おうち)。五~六月の初夏、若枝の葉腋に淡紫色の五弁の小花を多数、円錐状に咲かせる(ここから「花楝」とも呼ぶ)。因みに、「栴檀は双葉より芳し」の「栴檀」はこれではなく全く無縁の異なる種である白檀の中国名(ビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダンSantalum album )なので注意(しかもビャクダン Santalum album は植物体本体からは芳香を発散しないからこの諺自体は頗る正しくない。なお、切り出された心材の芳香は精油成分に基づく)。これはビャクダンSantalum album の原産国インドでの呼称「チャンダナ」が中国音で「チャンタン」となり、それに「栴檀」の字が与えられたものを、当植物名が本邦に伝えられた際、本邦の楝の別名である現和名「センダン」と当該文字列の音がたまたま一致し、そのまま誤って楝の別名として慣用化されてしまったものである。本邦のセンダン Melia azedarach の現代の中国語表記は正しく「楝樹」である。グーグル画像検索「楝の花」をリンクさせておく。]

 

薮木の空まじりに花かほる

花かほる夜の波の音

波の音する月

 

暗き

 

暗き木々の梢に風すぐる

風すぐる夜の栗鼠 月明り

の家にいざ

 

【頁24】

きみとゆかまし山のかひ

山かひにはたけなびき

たけなびくへにうす紅葉

うす紅葉ちる草

 

きみとゆかまし山のかひ

山のかひにも日はけむり

日はけむるへに古草屋

草屋にきみときみゆきてまし

 

きみとゆかまし山のかひ

山のかひには竹けむり

竹けむるへにうす紅葉

うす紅葉ちる

 

ひとざととほききみと住みなば山の峽

山の峽にも日は煙り

日は煙る

 

【頁25】

ひとり胡桃をかみをれば

雪は幽かにつもるなり

夕まど枠にふる雪は

こころ冷たき人も見む

時雨かけ うす紫に

きみひともまた

かかる夕は

     ひややかに

 

ひとり胡桃をかみをれは

雪は幽かにつもるなり

こころ冷たき手

たそがれかかる

 

心も

時雨かけ うす紫に

 

ひとりくるみをかみをれば

ゆきはかすかにつもるなり

たそがれかかる雪よりも

 

ひとをまつまのさびしさは

時雨かけたるアーク燈

まだくれはてぬ町ぞらに

うすこころはふるふ光かな

 

[やぶちゃん注:「アーク燈」の「燈」は底本の用字。]

 

【頁26】

のみわすれたる※古チョコレエト――

つめたき匙をまさぐれば

幽かにつもる雪の音――

君が

 

[やぶちゃん注:「※」=「木」+「聿」。]

 

のみわすれたるチョコレエト

つめたき匙にふれもせで

 

のみわすれたるチヨコレエト

つめたき色に澄めるみしとき

ひとをおもへば

君がといき

雪は幽かにふりつもる

 

のみ忘れたるチヨコレエト

つめたき色に澄むときは

幽かにつもる雪の音も

君が吐息にまじるなり

 
【頁27】

ひとり胡桃をかみをれば

雪は幽かにつもるなり

かかるきみはまろ腰冷やかに

かかる夕はひとり寐む

忘れがた〔〕きはその夜半に

のみ忘れたるチヨコレエイト

 

椅子に机にこころ卑しき

 

空はかなしき薄明り

土に眠れるひとの眼は

何時かかそけき星をみむ

 

楡の梢

 

わが卑しさを知るものは

 

おさん

茂兵エ

 

[やぶちゃん注:「おさん」「茂兵エ」おさん茂兵衛(もへえ)。天和三(一六八三)年九月 に不義密通の罪でともに処刑された京都烏丸(からすま)の大経師(だいきょうじ:元来は表具師を指すが、ここは「大経師暦」と呼ばれた暦を販売する暦商。)浜岡権之助の妻おさんとそこの手代茂兵衛のこと。二人して丹波へ逃げたものの、捕えられ、洛中引回しの上、粟田口にておさんと茂兵衛は磔(はりつけ)、手引きをした下女おたまは獄門に処せれた(五日晒し)。当時、評判となった事件で歌にも唄われ、井原西鶴の「好色五人女」巻三や近松門左衛門の浄瑠璃「大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)」(正徳五(一七一五)年初演)の素材となった。]

 
【頁28】

ひとり胡桃をかみをれば

雪は幽かにつもるなり

きみひとも今宵は冷やかに

ひとりねよとぞ祈るなる

 

まひるの月仰ぎつつ

萩原をあゆむやさ男

あれは阿呆かもの狂ひ

いやいや深草の少將に候

 

これは

 

芝居も見ずにうつそりと

廊下の雪に立つ男

夜半のカツフェにうつそり

さめし

あれは※呆かもの狂

いやいや戀する男に候

 

[やぶちゃん注:「※」=「呆」+「犬」。次の一篇の「※」も同字。]

 

銀座四條通りにうつそりと

まひる月を見る男

あれは阿※かもの狂ひ

いやいや戀す

 

【頁29】

A fly-brush ( Herbert A. Giles )

            Strange stories from a C. Studio

  As he stood up slowly and solemnly, brandishing a wand of streamers,

to address the soul of the dead,

he gave a wild shout like the thunder of anger at some Viking banquet,

and an awful fire darted from his countenance.

     Japanese Cameos

      by E. E. Speight ( The Far East )

[やぶちゃん注:底本には、ここまでが横書の注がある。底本は原本に忠実に配されているかどうかは不明。私は単語の切断を嫌うのでダッシュで示された切断部を繋げ、カンマの後でのみ改行して表示した。正直、私はこの英文が意味するところが分からない。識者の御教授を乞う。

Herbert A. GilesHerbert Allen Giles。ハーバート・アレン・ジャイルズ(一八四五年~一九三五年)はイギリスの中国学者。一八八〇年より中国領事を務め、一八九七年よりケンブリッジ大学中国語教授。中国人の思想・生活を深く理解し、特に中国詩文の翻訳が優れている。著作は「中英辞典」「古今姓氏族譜」。四男のライオネル・ジャイルズは、大英博物館東洋部長となり、スタイン収集の敦煌漢文文献の分類目録を出版。「論語」「老師」「荘子」の英訳などでも知られる(彼の英語版ウィキはこちら)。

E. E. SpeightErnest Edwin Speight。アーネスト・エドウィン・スパイト(一八七一年~一九四九年)はイギリスの英語学者で東京帝国大学や金沢の第四高等学校で英語を教授している(彼の英語版ウィキはこちら)。「The Far East」という著作には行き当らなかった。識者の御教授を乞う。]

 

 

われもかなしき世の中の

おろかのひとり

 

 

【頁30】[やぶちゃん注:ここにこの頁が横書である旨の注がある。以下、書誌のメモであろう。特に詩篇類との関連は認められないように思われる。]

The Legend of Tyl Ulenspiegel

     Charles de Coster

        London, Chatto & Windus

Civilization

La Morte    George H. Doran Company

170 Chinese Poems

Arthur Waley

H. A. Giles. (Chinese poetry in English Verse)

Judith Gautier     Le Livre de Jade

 

[やぶちゃん注:「The Legend of Tyl Ulenspiegel」この書名は正しくは「The Legend of Thyl Ulenspiegel and Lamme Goedzak (French: La Légende et les Aventures héroïques, joyeuses et glorieuses d'Ulenspiegel et de Lamme Goedzak au pays de Flandres et ailleurs)」(テュル・ウーレンシュピーゲルとラム・グッドザックの伝説)で 一八六七 年にベルギーの作家「Charles De Coster」(シャルル・ド・コスター 一八二七年~一八七九年)によって書かれた小説である。「Tyl Ulenspiegel」はドイツ語で、ティル・オイレンシュピーゲル(Till Eulenspiegel)の別称。十四世紀に北ドイツに実在したとされる伝説の奇人(トリック・スター)で、様々ないたずらで人々を翻弄し、最期は病死若しくは処刑されたとされる人物の名である。この人物については私自身に全く知識がないので、特に以下にウィキの「ティル・オイレンシュピーゲル」から引いておきたい(アラビア数字を漢数字に代えた)。『民衆本の中では、ティルはブラウンシュバイクに近いクナイトリンゲン村の生まれで、一三五〇年にメルンでペストのために病死』したとされている。『かつて人々が口伝えに物語ってきた彼の生涯は、十五世紀にドイツで民衆本「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」にまとめられ、出版された。このため彼の言動はエピソードごとに首尾一貫しておらず、様々な地方・語り手によって伝承されたエピソードの編纂であることがうかがえる。ここで繰り広げられる彼のいたずら話やとんち話は、日本でいうところの一休さんのように非常に有名である。教会や権力者をからかうティルの姿勢は、日本の吉四六さんにも似通っている』とある。例えば、「親方への仕返し」というタイプの話では、『ティルは当時の下層民、遍歴職人や大道芸人、道化としてドイツ国中を渡り歩いて様々な都市に現れ、いろいろな職業に従事する。ティルに命令する尊大な親方の気取った言い回しや、ティルの使う低地ドイツ語との方言の行き違えを逆手に取った、ティルの仕返しが毎回の見所となっている。描写も詳細でリアルであり、伝承主体と思われる当時の遍歴職人たちの実体験に基づいていると見られている。親方にいじめられた遍歴職人達は、このティルの仕返しを方々で語り継いで、溜飲を下げていたのである』。『この原典は大評判となり、オランダ、フランス、イギリス、デンマーク、ポーランドでも翻訳され、「狐のラインケ」』(芥川龍之介は佐佐木茂索宛書簡(旧全集書簡番号一五七七)の中で自身の寓話小説「河童」について『「河童」は僕のライネッケフックスだ』と述べているが、これはこの伝承(Reineke Fuchs)に基づいてゲーテが一七九三年に刊行した叙事詩で、奸謀術数の悪玉狐ライネケに封建社会の風刺をこめた寓意文学である)『や「司祭アーミス」など他の民衆本からのとんち話が数編組み込まれていった』とある。最後に、『ティルは様々ないたずらの旅を繰り広げた末に、病を得て終焉を迎えるが、最後の床でもいたずらを繰り返す。埋葬された際も、手違いで棺が垂直に墓穴に落ち、人々も「へそ曲がりな奴さんのことだ、死んでても立っていたいんだろう」と放置、墓標には「オイレンシュピーゲル、ここに“立つ”(「眠る」ではない)」と刻まれる、という落ちまで付いている』。『全編にわたってダブル・ミーニングと、無邪気なスカトロジーが頻出するのが特徴で、様々なエピソードにいたずらの小道具として「大便」が登場し、挿絵にも頻繁に描かれている』(ダブル・ミーニング(double meaning)は二つ以上の解釈が可能な意味づけの意。洒落や掛詞の類い)。この伝承記の『編著者については長年不明とされ、様々な説が出されてきた』が、『十九世紀末にC・ヴァルターによってヘルマン・ボーテ(de:Hermann Bote)が編者とされたが、E・シュレーダーらの批判によって』一度は立ち消えとなったものの、『その後、チューリッヒの研究家P・ホネガーの研究によって各章の頭の文字がアクロスティックになっており、その中に"ERMAN B"という文字列が見られることなどが判明したため、近年ではこのヘルマン・ボーテが編著者だと考えられている。千九百七十八年には、インゼル文庫からボーテ名義のオイレンシュピーゲル本が発行されている』。『「オイレンシュピーゲル」、「ウーレンシュピーゲル」(Eulenspiegel)の名の語源解釈には二説あり、ひとつは高地ドイツ語での「フクロウと鏡」(Eule + Spiegel)という意味をそのまま受けたもので、上図の民衆本の表紙でもフクロウと鏡を手にした姿で描かれている。阿部謹也はこれを、木版画家のあまり意味のない解釈としている。民衆本の第四十話には、彼が「いつもの習慣」としてラテン語で「彼はここにいた」の文字を「梟と鏡」の絵とともに書き残す場面がある。オイレンシュピーゲルがラテン語を使うという不自然さから、この部分は後世の付け足しと考えられている』。『もう一つの説は、口承で使われた低地ドイツ語の方言で彼の名が「ウーレンシュペーゲル(ウル・デン・シュペーゲル)」(Ulenspegel)と発音され、これは当時の低地ドイツ語で「拭く」(ulen)と「尻」(猟師仲間の隠語のSpegel)、すなわち「尻を拭け」を意味する駄洒落であるとするものである』。『こちらも、民衆本の第六十六話で、窮地に立たされた「ウーレンシュペーゲル」が「俺の尻を(拭かなければならないほど汚いか、汚くないか)とっくりと見てみろ」と開き直り、これから逃れる場面がある』。『研究家C・ヴァルター、K・ゲーデケ、W・シェーラーらは、本来の民衆本は低地ドイツ語で書かれ、重版の際に高地ドイツ語に書き換えられたとみている。作品中にも低地ドイツ語のままのエピソードが数編存在し、一五一五年版が原本とはみられていないが、これ以前の原本は現在も発見されていない。E・カドレックは一九一六年に、文体や内容の差異から、口承者としてと、編纂者としての二人の作者がいるとしている。一方、L・マッケンゼンは一九三六年にこれを、教養ある人物による個人創作としている』。『ラッペンベルクやE・シュレーダー、W・ヒルスベルクらは、ティルの実在説を採り、生誕地の年代記に取材して同姓の人物を見つけているが、確証は得られていない。ティルの死因についても、民衆本以外の記録は無い』『彼を題材とした芸術作品としては、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』(一八九五年)が良く知られる。民衆本では絞首刑を言い渡されたティルがとんちを利かせてまんまと逃れてみせるが、シュトラウスの交響詩では伝承の別の形に従い』、絞首刑が執行されて終曲となっている。『その他の作品としては、ゲアハルト・ハウプトマンの物語詩『ティル・オイレンシュピーゲル』(一九二八年)、ジェラール・フィリップの監督・主演映画『ティル・オイレンシュピーゲルの冒険』(一九五六年)などがある』。日本では、児童文学者の巌谷小波が明治三八(一九〇五)年に、「木兎(みみずく)太郎」という題名で、数エピソードを子供向きにアレンジした日本語翻案が出ている、とある。重要なのは、芥川龍之介が記したこの出版社の書誌データで、ネット上で調べると「The Legend of Tyl Ulenspiegel Charles de Coster trans Geoffrey Whitworth Published by Chatto & Windus, London, 1918」とあるのである。これは次の注とも絡んで、本ノートの記載時期を特定する非常に重要な意味を成すことになると私は思うのである。

Civilization」文明の意であるが、これでは書籍を特定出来ない。

La Morte    George H. Doran Company」フランス語で「死」、後ろはニューヨークの書店であるが書籍の特定は出来なかった。

Arthur Waley」アーサー・ウェイリー(Arthur David Waley 一八八九年~一九六六年)はイギリスの東洋学者。日本古典及び中国古典研究の権威で、「源氏物語」の抄英訳や唐詩の英訳で知られる(前者は翻案とも批判されるが、現在、世界的に「源氏」の評価が高いのは彼のこの翻訳のお蔭と言われる。ここまではウィキの「アーサー・ウェイリー」に拠った)。直前に記されてある「170 Chinese Poems」とは彼の英訳になる「A Hundred and Seventy Chinese Poems (1918)」のことである。この発行が大正七(一九一八)年であることは、本ノートの閉鎖上限の貴重な一つを示すものとして非常に貴重なデータと思われる。

H. A. Giles. (Chinese poetry in English Verse)Herbert Allen Giles(ハーバート・アレン・ジャイルズ 一八四五年~一九三五年)は外交官で東洋学者。彼の著作「Chinese poetry in English Verse」(中国詩の英語韻文訳)は一八九八年の著作である。

Judith Gautier     Le Livre de JadeJudith Gautier(ジュディエット・ゴーチェ 一八四五年~一九一七年)は小説家テオフール・ゴーチェの長女で作家。「Le Livre de Jade」は「白玉詩書」などと訳されるジュデエットが一八六七年に刊行した中国の漢詩仏訳選集。これはヴェルレーヌ、アナトール・フランスやレミ・ド・グールモンの称讃を得、後には独・伊・英(一九一九年)・ポルトガル語などにも転訳されており、その後暫くの間、ドイツやイギリスに於ける中国詩の欧文訳はこれに拠った(以上は森英樹氏の論文「ジュディエット・ゴーチェの中国詩翻訳〔1〕」の記載に拠った)。彼女について、芥川龍之介は「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(初出は大正九(一九二〇)年四月発行の雑誌『人間』。リンク先は私の電子テクスト。私の現代語訳版もある)の冒頭で、

   *

     別乾坤

 Judith Gautier が詩中の支那は、支那にして又支那にあらず。葛飾北齋が水滸畫傳の插畫も、誰か又是を以て如實に支那を寫したりと云はん。さればかの明眸の女詩人も、この短髮の老畫伯も、その無聲の詩と有聲の畫とに彷弗たらしめし所謂支那は、寧ろ彼等が白日夢裡に逍遙遊を恣にしたる別乾坤なりと稱すべきか。人生幸にこの別乾坤あり。誰か又小泉八雲と共に、天風海濤の蒼々浪々たるの處、去つて還らざる蓬莱の蜃中樓を歎く事をなさん。(一月二十二日)

   *

と記している。若しも、このアフォリズムがこの「Le Livre de Jade」の入手以後に書かれたものであるとすればその可能性は頗る高いと言える)、前に記すシャルル・ド・コスターの「The Legend of Tyl Ulenspiegel」とアーサー・ウェイリーの「A Hundred and Seventy Chinese Poems」の本が孰れも大正七(一九一八)年刊行で、「骨董羹」の「別乾坤」の執筆が大正九(一九二〇)年三月以前とするなら、このノートが書かれたのは大正七(一九一八)年末か翌大正八年から大正九年年初までの間と考えるのが妥当であろう。]

 

【頁31】

夜雉

サイゴサイゴサア行カウ 日露戰爭當時滿州にゐし兵ニ

 

[やぶちゃん注:「サイゴサイゴ」の後半は底本では踊り字「〱」。「夜雉」とは「野鶏」(yějī)のことであろうこれは不通は「雉(キジ)」の通称であるが、隠語として街娼・夜鷹を指す。「野」の中国音を芥川が「夜」()と誤って記したか、若しくは夜鷹との酷似から当時の大陸での兵士や日本人はそう記したものかも知れぬ。]

 

秦檜

 

[やぶちゃん注:「秦檜」(一〇九〇年~一一五五年)は南宋の宰相。英雄岳飛を謀殺したとされて中国で最も忌み嫌われる人物の一人である。私の電子テクスト「江南游記」(←全文サイト・テクスト)の「江南游記 八 西湖(三)」(←ブログ・テクスト)の本文及び注などを参照されたい。]

 

赤■

林出新領事

 

[やぶちゃん注:「林出新領事」林出賢次郎(はやしで/けんじろう 明治一五(一八八二)年~昭和四五(一九七〇)年)。芥川が上海に旅した大正一〇(一九二一)年当時、上海総領事館副領事であった。出身地である和歌山県御坊市の市役所公式サイトのこちらに詳しい事蹟が載る。

 この後に空白一頁がある旨、注がある。]

 

【頁32】

囘々堂

舒蓮記扇莊

 

[やぶちゃん注:ここに『以上、横書き』と注するが、これは【頁32】に対する注と私はとっている。「囘々堂」不詳。次のメモとの一緒と考えれば、これは中国の店か建物の名称と思われる。「舒蓮記扇莊」杭州扇子三大名店の一つ。]

 

【頁33】

副將

王伯黨

 

[やぶちゃん注:これは恐らく京劇の人気演目の一つ「虹霓関」(こうげいかん)の登場人物のメモランダである。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるという悲惨なストーリーらしい(私は見たことがないので、以上は複数のネット記載を参考に纏めてみた)。「江南游記 前置き」の私の注に芥川龍之介の芥川の「侏儒の言葉」に載る『「虹霓關」を見て』を引用、さらにそれに詳細な注を施してあるので、参照されたい。

 この後に空白一頁がある旨、注がある。]

 

【頁34】

西城靈境井兒胡同  陳寶琛

〃〃米糧庫   陳啓修

〃〃嵩祝寺後身鼓鏡胡同後門内鍾鼓寺  胡適之

 

[やぶちゃん注:ここに『以上、横書き・天地逆』及び『以下二頁空白』という編者注が二つ入っている。

「西城靈境井兒胡同」「西城」は北京の地域名でそこに「霊境」と呼称する「胡同」(プートン)がある(地下鉄の駅名ともなっている)。「井兒」もそうした胡同(横丁)の名と思われ、ネットを調べると「雨児胡同」「帽児胡同」「鴉児胡同」といった呼称が現存することが分かる。

「陳宝琛」(ちんほうちん Chen Baochen 一八四八年~一九三五年)は清末の官僚・詩人・歴史家。福建省閩県出身。一八六八年に進士に登第、一八八一年には翰林院侍講学士となって清史の「穆宗本紀(ぼくそうほんぎ)」の編纂にあたったが、一八八四年に起った清仏戦争で降格され、帰郷して暫く読書三昧の日々を送った。一九〇九年に北京に召し出されて礼学館総纂大臣に返り咲き、一九一一年には宣統帝溥儀の帝師となるも、翌一九一二年に清朝が倒れて溥儀は退位、陳宝琛はそのまま溥儀に従って紫禁城に居留、「徳宗実録」の編纂に従事し、芥川が中国を訪問した一九二一年に本紀が完成すると太傅を授かっている。一九二三年には総理内務府大臣として鄭孝胥を推挙、一九二五年に溥儀が紫禁城を退去して天津に赴くと、これに従った。満州事変を経、溥儀が満州国執政として擁立されると、自らも同道するよう請われたものの、これを拒絶、そのまま天津に寓居してそこで没した。蔵書家としても知られ、十万冊を有していたとされる(以上はウィキの「陳宝琛」に拠った)。なお、「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏「芥川龍之介が観た1921年・郷愁の北京」によって、芥川龍之介は北京で、恐らくこの住所「西城靈境井兒胡同」に彼を訪ねている。これについては私の「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」の中の、「○郎世寧百駿圖。雍正六年歳次戊申仲春臣郎世寧恭畫。」の後に附した注を参照されたい。秦剛氏によれば、陳宝陦は淸朝の遺臣で『溥儀の師匠に当たる人物である。彼自身も書画に長け、書画の収蔵家でもあり、なんと紫禁城内の元乾隆帝の収蔵品まで所有していた。訪ねてきた芥川の前に、陳宝陦は数々の珍品を惜しみなく持ち出して、芥川をすっかり瞠目させた』とあり、そこで芥川が観た作品として『宋徽宗「臨古図」』『郎世寧「百駿図」』を挙げている。更に、どうも芥川の陳宝陦宅訪問は二度あったように思われる、と私は注した(ここで秦剛氏は「陳宝陦」と表記しておられるが、これは明らかに陳宝琛その人である。

「陳啓修」(一八八六年~)。政治学者。日本に自費留学して第一高等学校から東京帝国大学法科大学へ進んだ。一九一七年に北京大学教授となった。参照した広州在住の方のブログ「鞦韆院落」の「石室聖心大教堂 その2」によれば、北京を訪れた芥川龍之介の通訳をしたという情報もある(未確認)。一九二三年から一九二五年まではソ連とヨーロッパで学び、中国共産党と国民党に入っているとあり、一九二六年に『広州へもどり、黄埔軍官学校の教壇に立って周恩来らとともに四期生に講義をしたり、中山大学で経済学科主任と法科主席を務めたかと思うと、武漢で『中央日報』の編集長もしている』。一九二七年、『上海クーデターが起こると、身の危険を感じて日本に亡命し、日本で『資本論』や河上肇の『経済学大綱』を中国語に翻訳』するなどしたことから、現代『中国で彼は『資本論』を初めて中国語に訳した人として知られている』らしい。一九三〇年に帰国してからは国民党政府の政治家をしていたが、戦後は四川に戻って大学教育に力を注いだらしいとある。

「胡適之」中華民国の学者・思想家・外交官として知られた胡適の字(あざな)。胡適(「こせき」又は「こてき」とも読まれる Hú Shì  ホゥシ 一八九一年~一九六二年)は本名を胡嗣穈、字は希疆とするが、後に自ら適と改名した。この改名は「適者生存」に由来するという。清末の一九一〇年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「上海游記」「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、一九一七年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、一九一九年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和六(一九三一)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の一九三八年には駐米大使となった。一九四二年に帰国して一九四六年には北京大学学長に就任したが、一九四九年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、一九五八年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介「新芸術家の眼に映じた支那の印象」にその旨の記載がある)。

2015/01/03

本日閉店

久し振りに友人夫婦が訪ねて来る。「澄江堂遺珠」関係資料集成をきりのいいところまで今終わったのだが……まずは、あせるまい――

2015/01/02

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅲ ■3 推定「第二號册子」(Ⅰ) 頁1~12

以降は、抹消表示の取り消し線の関係上、ブログに移すのに細部補正が必要となるので、少し公開に間隙が生ずることを御寛恕願いたい。
 
しかしこの電子化は、ネット上では未だ嘗て誰もやっていない試みであろうとは存ずる――



■3 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」に於いて佐藤春夫が「第二號册子」と呼称するものと同一のノート(若しくはその一部)

[やぶちゃん注:底本(岩波版新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』。但し、恣意的に正字化した)の頁番号を踏襲したが、後の「■4」のノートのページ番号と区別するために【頁1】という風にした。取り消し線(例:「雨空の」)は抹消を、ブログでは機能制限の関係上、斜体取り消し線(例:「煙る岩根に水苔の靑むをたれかとどむべき」)は複数行纏めた全体抹消を(斜線等によって抹消されたものと思われる)、取り消し線と下線を持つものはその全体若しくは部分の抹消に先だって抹消されたものを示す(例:「淸水は落ちて煙りけりるなり」は最初に「淸水は落ちて煙りけり」と書いて、その後「淸水は落ちて煙るなり」と訂したが、結局抹消――この場合は斜体なので前後を含めて全体を抹消――したことを意味する)。取り消しを意味する線の間に半角空欄を持つものはその抹消が個別であることを意味する(例:「たかまきすてし はつはつききしまだちりがてぬ曼珠沙華」は最初に「たかまきすてし」と書いたが、抹消して「はつはつききし」としたが、それも抹消して「まだちりがてぬ」として決定稿を「まだちりがてぬ曼珠沙華」としたことを意味する)。]

 

【頁1】

 

牡丹洞主

村田牡丹洞

牡丹洞

 

[やぶちゃん注:編者注によれば、以上の三行についてはノートを逆さまにして『天地逆』にして記載している旨の注記がここに入っている。

この「村田」という人の姓のようなものは一見、私は即座に「上海游記」に登場する大阪毎日新聞社記者村田孜郎(むらたしろう ?~昭和二〇(一九四五)年)を連想した。中国滞在中の芥川の世話役で当時は上海支局長あった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正八(一九一九)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した人物であるが、この「牡丹洞」という雅号は如何にも中国好みなのである。これ以上の確証が得られないのが悔しいのであるが、私は一つの直感としてこれは彼のことではないかと強く疑っている。]

 

風にゆらげる蘆の葉の

 

わがおもひいつかははてむ

 

夕空にうかぶ靑山(あをやま)

こひらぎ

 

 

秋風秋雨愁殺人

 

   麥 秀

 

げんげ野に羊雨空を仰ぎ

松江の塔が見ゆる麥の穗のび

菜たね莢になる水牛の鼻さき

石橋に草生ゆる雨空の 農人農人行かんともせず

そらまめ花さく中の墓なり

籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨

 

[やぶちゃん注:ここに空白一頁がある旨、注がある。]

 

【頁2】

夕風にふかるるレエス

窓ぎはの

ほのめくは

 

ほのめくはレエスのかなた

 

[やぶちゃん注:ここに空白一頁がある旨、注がある。]

 

【頁3】

泥濁る水べのやなぎ

ほのぼのと芽をはくもとに

草をはむつがひの羊

びんがしの空に

 

雨はやみたる麥畑

 

【頁4】

    ×

夜はの川べに來てみれば

ほのかに靑き

水(ミ)のもをこむる霧の中

花火は空に消えゆけり

われらが戀もかくやらむ

    ×

涅槃のおん眼ほのぼのと

とざさせ給ふ夜半にも

悲しきものは釋迦如來

邪淫の戒を説き給ふ

 

【頁5】

    ×

人を殺せどあきたらぬ

妬み心も今ぞ知る

赤き光にとぶ蠅も

日頃は打つにうきものを

    ×

松葉牡丹をむしりつつ

人殺さむと思ひけり

光あまねき晝なれど

女ゆゑにはすべもなや

    ×

西の田のもにふる時雨

東に澄める町の空

ふたつ心のすべなさは

人間のみと思ひきや

 

【頁6】

[やぶちゃん注:ここに芥川龍之介のカット(描画図不詳)がある旨、注がある。]

    ×

沙羅のみづ枝に花さけば

うつつにあらぬ薄明り

けなばけぬべきなか空に

かなしき人の眼ぞ見ゆる

    ×

晝の曇りにしんしんと

石菖の葉はむれだて

晝の曇りにしんしんと

痛む心を心は今日も痛みつつ

痛む心も堪へがたし

 

【頁7】

海べを行けば

 

山べを行けば岩が板に

何時しか苔も靑みけり

日かげに煙る淸水にも

何かは人のなつかしき

 

煙る岩根に水苔の

靑むをたれかとどむべき

山べを行けば春の日に

淸水は落ちて煙りけりるなり

淸水は落つる岩根さへ

煙り渡れる岩が板に

 

【頁8】

悲しき人の

月の中なる山のかげ

 

月はまどかに照らせども

悲しきものはほの暗き

月の中なる山のかげ

 

月の

 

王桂英

王鳳瑛

 

[やぶちゃん注:最後の二つの名は龍之介の中国行の折りに逢った芸妓の名のメモランダか? ここに芥川龍之介のカット(描画図不詳)がある旨、注がある。]

 

 

【頁9】

[やぶちゃん注:ここに芥川龍之介のカット(描画図不詳)がある旨、注がある。]

 

【頁10】

[やぶちゃん注:ここに芥川龍之介のカット(描画図不詳)がある旨、注がある。]

 

【頁11】

戀とは

君はよ

 

夕と

ゆうべとなれば藤の花

われは知らねども

 

ひとをおもへば

 

いとしさのみぞまさりける

戀とはわれ

 

水にに

 

藤の花房ながながと

月夜

雨にぬれたる鼻珠沙華

 

きみ

戀とはわれも知らねども

水脈の光のひとすぢに

いとしさのみぞまさりける

 

 

戀とはしらねども

 

衣衫 裳 繡衣 餠乾 餠乾 餠乾

 

[やぶちゃん注:中国での単語のメモランダと思われる。「衣衫」(いさん)は中国音「yīshān」で一重の上着、転じて広く衣裳・服装の意、「繡衣」は美しい刺繡を施した衣服、「餠乾」は 「bǐnggān」でビスケットやクッキーのことを指す。ここに空白一頁がある旨、注がある。]

 

【頁12】

春さりくれば

山べを行けば春の日に

淸水は落る岩が根も

いつしか苔に煙るなり

 

山べを行けば春の日に

淸水は煙る岩が根も

いつしか苔にすてむなり

 

月はまどかに照らせども

悲しきものはほの暗き

月の中なる山のがけ

君が心の        も

見じとはすれど見ゆるなる

 

[やぶちゃん注:底本では「君が心の」の後に『〔この部分空白〕』と編者注が入る。何字分かは不詳。取り敢えず『〔この部分空白〕』相当分を入れた。以下、同様の箇所は同じ仕儀を施した。以下この注は略す。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅱ ■2 岩波旧全集「未定詩稿」

2 岩波版旧全集に於いて――昭和六(一九三一)年九月発行の雑誌『古東多方(ことたま)』から翌七年一月発行の号まで、四回に亙って「佐藤春夫編・澄江堂遺珠」として掲載され、後、昭和八(一九三三)年三月岩波書店から芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. に収められ、その後、昭和一〇(一九三五)年七月発行の「芥川龍之介全集」(それを普及版全集と称する)第九巻に「未定詩稿」の題で所収された――と全集後記で称するこれは正しい謂いではないので注意)ところの末尾に『(大正十年)』という編者クレジットを持つ詩群

[やぶちゃん注:底本は岩波版旧全集(旧普及版全集本文底本)に拠った既に私が電子化した「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」から引いたが、これは実際には「澄江堂遺珠 Sois belle,sois triste. そのままではない点に注意されたい。例えば、冒頭の一篇からしてからが、「澄江堂遺珠」には載らない詩なのである! 何故、旧全集のこの「未定稿」の後記が、こんなすぐに分かる嘘をついているのか、私には頗る不審なのである。

 本文中の〔 〕は編者(恐らくは堀辰雄)によるものと思われる。

 正直に言おう。

 これらの詩群は堀辰雄によって、主に佐藤春夫のいう「第二號册子」及び「第三號册子」(加えて消失している以上は「第一號册子」からも絞り出されてある可能性を排除は出来ない)の膨大な詩篇及び詩篇断片を編者堀辰雄が――かなり恣意的に――滅菌と洗浄を繰り返して――整序――悪く言えば一部は勝手に繋ぎ合わせて強引に意味が通るように改造捏造した――ものと考えるべきものである。従って、「澄江堂遺珠」源泉資料としてはこれは信頼出来る一次資料とは言えないと言わざるを得ない。しかし、これは「澄江堂遺珠」の「はしがき」冒頭で佐藤が『岩波版「芥川龍之介全集」の中に收錄された詩篇は堀辰雄君の編纂にかかるものにして、故人の遺志を體して完成を重んずる精神を飽くまでも尊重せる細心の用意をもつてなされたもの、出來得る限り多數の採錄を努められたるも、その嚴密なる用意の結果は却つて多少の遺漏を生じてそこに逸せられたものも尠くない』と評しているところの、「澄江堂遺珠」に先行するところの、原「澄江堂遺珠」資料の一つということになってしまうのであって、これを一次資料と見做すことは出来ないからといって無視することも到底出来ない貴重な資料ではあるのである。大きな問題は、堀辰雄が如何なる編集方針を以ってこれらの驚くほど整然とした詩篇を《製作》したのかが、今となっては全く分からないという点(この恨みは存外に大きいと私は思っている。佐藤の「澄江堂遺珠」とてもその難を免れぬことは出来ぬとも言えるが、佐藤は小まめな注記を本文中に入れ込んでおり、ある程度まで佐藤の編集方針を窺い知ることが出来るようになっているのとは大違いだからである)、そして何より、「第一號册子」の消失という致命的な事実にある。まさにこの「未定詩稿」は、本家本元の『「澄江堂遺珠」という夢魔』の濫觴とも言える存在なだと私は思うのである。]

 

    *

夜はの川べに來てみれば

水のもをこむる霧の中

花火は室に消えゆけり

われらが戀もかくやらむ

    *

人を殺せどあきたらぬ

妬み心も今ぞ知る

赤き光にとぶ蠅も

日頃は打つにうきものを

[やぶちゃん注:私は、この詩篇と芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」の一篇は軌を一にするものと考えている。

 

   二十八 殺  人

 

 田舍道は日の光りの中に牛の糞の臭氣を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上りの道を登つて行つた。道の兩側に熟した麥は香ばしい匀を放つてゐた。

「殺せ、殺せ。………」

 彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は如何にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。

 すると黄ばんだ麥の向うに羅馬(ローマ)カトリツク教の伽藍が一宇、いつの間にか圓屋根を現し出した。………

 

この殺そうと思っている男、そしてその男の妻――龍之介の愛した女――は誰か? ということについて私はある見解を持っている。ロケーションも含め、私の芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察を参照されたい。]

    *

 ひるの曇りにしんしんと

石菖の葉はむらだてり

ひるの曇りにしんしんと

痛む心は堪へがたし

[やぶちゃん注:単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus グーグル画像検索「。]

    *

山べを行けば岩が根に

何時しか苔も靑みけり

日かげに煙る淸水にも

何かは人のなつかしき

    *

かなしきものはほの暗き

月の中なる山の影

君が心のおとろへも

見じとはすれど見ゆるなる

    *

雨にぬれたる曼珠沙華

ふみつつひとり思ひけり

天女にあらぬ人の上

――釋迦佛の世は遙なり

    *

ひとを戀ひつつただひとり

踏むは濡れたる敷石に

誰がまきすてし曼珠沙華

――釈迦佛の世は遙なり

     *

澄むことしらぬ濁り江に

かがやかなりや支那金魚

わが煩惱のもなかにも

さこそはすぐる彌陀ごころ

    *

ひとをまつまのさびしさは

時雨かけたるアーク燈

まだくれはてぬ町ぞらに

こころはふるふ光かな

[やぶちゃん注:「アーク燈」アーク放電による発光を利用した光源。特に電極に炭素棒を用いたもので空気中で放電させるアーク放電灯を指し、明治初期には街路灯に用いられた。]

    *

のみ忘れたるチヨコレエト

つめたき色に澄むときは

幽かにつもる雪の音も

君が吐息にまじるなり

    *

まひるの月を仰ぎつつ

萩原をあゆむやさ男

あれは阿呆かもの狂ひ

いやいや深草の少將に候

    *

遠田の蛙聲やめば

いくたびよはの汽車路に

命すてむと思ひけむ

わが夫(せ)はわれにうかりけり

    *

心ふたつにまよひつつ

たどきも知らずわが來れば

まだ晴れやらぬ町ぞらに

怪しき虹ぞそびえたる

[やぶちゃん注:「たどき」「たつき/たづき(たずき)」に同じい。方便。活計。]

    *

光はうすき橋がかり

靜はゆうに出でにけり

昔めきたるふりながら

君に似たるを如何にせむ

    *

女ごころは夕明り

くるひやすきをなせめそ

きみをも罪に堕すべき

心強さはなきものを

    *

紅蓮と見れば炎なり

炎と見れば紅蓮なり

安養淨土は何處やらむ

救はせ給へ技藝天

[やぶちゃん注:「技藝天」伎芸天とも書く。仏教守護の天部の一人。ウィキの「芸天」によれば、『摩醯首羅天(大自在天=シヴァ神)が天界で器楽に興じている時、その髪の生え際から誕生した天女とされる。容姿端麗で器楽の技芸が群を抜いていたため、技芸修達、福徳円満の守護善神とされる』。『ヒンドゥー教などに相当する尊格を特定することができず、梵名も不詳。父尊の額から生まれるという出自に注目しギリシャ神話のアテナとの関連を指摘する説もある。 日本では単独での信仰がそれほど広まらなかったこともあり、現存する古像の作例は秋篠寺の一体のみとされる。現存の像は、頭部のみが奈良時代の造立当時のもので首以下は鎌倉時代の後補によるものである。造立当時の造様は不明で、現在の姿は経軌と大きく異なっており、技芸天像とすることに疑問を呈する意見もある』とある。]




 

Sois belle,sois triste

 
 
    *

何かはふとも口ごもりし
 

えやは忘れむ入日空

せんすべなげに仰ぎつつ

何かはふとも口ごもりし

その
 

入日の空を仰ぎつつ

何かはふとも口ごもりし

 
消えし言葉は如何なりし

    *

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは
 

「思ふはとほき人の上」

船のサロンにただひとり

玫瑰の茶を畷りつつ

ふとつぶやきし寂しさは

[やぶちゃん注:「玫瑰」音は「まいくわい(まいかい)」訓じて「はまなす」と読むが、孰れとも考え得る。歌柄が芥川の中国行の際のイメージを思わせ、その場合は寧ろ、音「マイクワイ(マイカイ)」或いは中国音を音写した「メイクイ」の可能性が高いと思うからである(後者については芥川龍之介の「江南游記」「六 西湖(一)」に『私は玫瑰(メイクイ)のはいつた茶碗を前に、ぼんやり頰杖をついた儘、ちよいと蔭甫(いんぽ)先生を輕蔑した』と出るからである。リンク先は孰れも私の注釈附テクスト)。中国原産のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa は、あちらでは普通に花を乾燥させて茶や酒の香料とする。中国音「méigui」。]

 

水の上なる夕明り

畫舫にひとをおもほへば

たがすて行きし薔薇の花

白きばかりぞうつつなる

    *

畫舫はゆるる水明り

ほるけき人をおもほへば

わがかかぶれるヘルメツト

白きばかりぞうつつなる

      欄外ニ〕Sois belle, sois triste ト云フ
 

 
はるけき人を思ひつつ

わが急がする驢馬の上

穗麥がくれに朝燒けし

ひがしの空ぞ忘られね
 
    *

みどりはくらき楢の葉に

ひるの光のしづむとき

つととびたてる大鴉

 

みどりは暗き楢の葉に

晝の光の沈むとき

ひとを殺せどなほあかぬ

妬み心も覺えしか

 

綠はくらき楢の葉に

晝の光の沈むとき

わが欲念はひとすぢに

をんなを得むと

 

みどりはくらき楢の葉に

晝の光のしずむとき

きみが心のおとろへぞ

ふとわが

    *

ひとをころせどなほあかぬ

ねたみごころもいまぞ知る

垣にからめる薔薇の實も

いくつむしりてすてにけむ

 

垣にからめる薔薇の實も

いくつむしりて捨てにけむ

ひとを殺せどなほあかぬ

ねたみ心に堪ふる日は

    *

ひとり葉卷をすひ居れば

雪は幽かにつもるなり

かなしきひともかかる夜は

かそかにひとりいねよかし

幽かに雪のつもる夜は

 

ひとり胡桃を剝きゐたり

こよひは君も冷やかに

ひとりいねよと祈りつつ

 

ひとり胡桃を剝き居れば

雪は幽かにつもるなり

ともに胡桃は剝かずとも

ひとりあるべき人ならば

    *

ひとり山路を越え行けば

雪は幽かにつもるなり

ともに山路は越えずとも

ひとり眠(いぬ)べき君ならば

    *

ひとり山路を越え行けば

月は幽かに照らすなり

ともに山路は越えずとも

ひとり眠ぬべき君ならば

夜毎にきみと眠るべき

男あらずばなぐさまむ

    *

雲は幽かにきえゆけり

みれん

 

夕づく牧の水明り

花もつ草はゆらぎつつ

幽かに雲も消ゆるこそ

みれんの

 

水は明るき牧のへも

花もつ草のさゆらぎも

わすれがたきをいかにせむ

みれんは

 

みれんは牧の水明り

花もつ草の

    *

いづことわかぬ靄の中

かそけき月によわよわと

啼きづる山羊の聲聞けば

遠き人こそ忘られね

 

何か寂しきはつ秋の

日かげうつろふ靄の中

茨ゆ立ちし鵲か

ふと思はるる人の顏

    *

雨はけむれる午さがり

實梅の落つる音きけば

ひとを忘れむすべをなみ

老を待たむと思ひしが

 

谷に沈める雲見れば

ひとを忘れむすべもなみ

老を待たむと思ひしが

 

ひとを忘れむすべもがな

ある日は古き書のなか

匀も消ゆる白薔薇の

老を待たむと思ひしが

    *

雨にぬれたる草紅葉

侘しき野路をわが行けば

片山かげにただふたり

住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

    *

われら老いなばもろともに

穗麥もさわに刈り干さむ

 

夢むはとほき野のほてに

穗麥刈り干す老ふたり

明るき雨のすぎ行かば

虹もまうへにかかれとぞ
 

[やぶちゃん注:「虹」私はここのこの「虹」及び次と次の次の詩篇の二箇所で現われる「虹」は、大正一三(一九二四)年八月十九日、避暑地先の軽井沢での片山廣子との体験を原風景とするものだと確信している。旧全集一二三四書簡(大正一三(一九二四)年八月十九日軽井沢発信の室生犀星宛絵葉書(浅間山風景の写真の裏面に記載)を引く。

   *

御手紙拝見

   つくばひの藻もふるさとの暑さかな

朝子孃前へ這ふやうになつたよし、もう少しすると、這ひながら、首を左右へふるやうになるさうすると一層可愛い雉子車は玩具ずきの岡本綺堂老へ送る事にした、けふ片山さんと「つるや」主人と追分へ行つた非常に落ついた村だつた北國街道と東山道との分れる處へ來たら美しい虹が出た

廿日は廿十九日頃かへるつもり

               龍 之 介

 室生君

   *

この日、廣子と龍之介、二人の避暑先であった「鶴屋」の主人の三人で中軽井沢の追分に出かけている(ここは中山道と北国街道の分岐に当たり、古来、江戸から親しく長旅をしてきた旅人同士がここで別れを惜しんで袂を分かったことに由来する、「分去(わかさ)れの道標」が立っていることで知られる)。廣子四十六歳、龍之介三十二歳、ここで二人は美しい虹が上がるのを見たのであった。私の電子テクスト「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「■書簡4」及び「■書簡5」を是非、参照されたい。]
 
 

夢むは遠き野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

仄けき雨の過ぎ行かば

虹もまうへにかかるらむ

 

たとへばとほき野のはてに

穗麥刈り干すわれらなり

われらは今日も野のはてに

穗麥刈るなる老ふたり

雨に濡るるはすべもなし

幽かにかかる虹もがな

    *

ゆふべとなれば

物の象(かたち)はまぎれ

 

物の象のしづむごと

老さりくれば

 

牧の小川も草花も

夕となれば煙るなり

われらが戀も

 

牧の小川も草花も

夕となれば煙るなり

わが悲しみも

老いさりくれば消ゆるらむ

 

ゆふべとなれば草むらも

 

ゆふべとなれば海ばらも

……………………………

今は忘れぬおもかげも

老さりくれば消ゆるらむ

 

ゆふべとなれば波の穗も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老いさりくれば消ゆるらむ

 

夕となれば家々も

畑なか路も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老さり來れば消ゆるらむ

 

[やぶちゃん注:底本では最後に編者による『(大正十年)』のクレジットがある。

Sois belle,sois triste.」はフランス語で「より美しかれ、より悲しかれ。」で、これはボードレール( Charles Baudelaire )が一八六一年五月に発表した「悲しいマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste ――現在は「 悪の華」( Fleurs du mal )の続編・補遺に含まれる一篇――の一節である。以下に原詩総てを示しておく(英文サイト「 Charles Baudelaire's Fleurs du mal / Flowers of Evil 」のこちらより引用。リンク先原文下に英訳有り。翻訳例は注の最後にリンクした)。

 

Madrigal triste

 

I

 

Que m'importe que tu sois sage?

Sois belle! Et sois triste! Les pleurs

Ajoutent un charme au visage,

Comme le fleuve au paysage;

L'orage rajeunit les fleurs.

Je t'aime surtout quand la joie

S'enfuit de ton front terrassé;

Quand ton coeur dans l'horreur se noie;

Quand sur ton présent se déploie

Le nuage affreux du passé.

Je t'aime quand ton grand oeil verse

Une eau chaude comme le sang;

Quand, malgré ma main qui te berce,

Ton angoisse, trop lourde, perce

Comme un râle d'agonisant.

J'aspire, volupté divine!

Hymne profond, délicieux!

Tous les sanglots de ta poitrine,

Et crois que ton coeur s'illumine

Des perles que versent tes yeux.

 

II

 

Je sais que ton coeur, qui regorge

De vieux amours déracinés,

Flamboie encor comme une forge,

Et que tu couves sous ta gorge

Un peu de l'orgueil des damnés;

Mais tant, ma chère, que tes rêves

N'auront pas reflété l'Enfer,

Et qu'en un cauchemar sans trêves,

Songeant de poisons et de glaives,

Éprise de poudre et de fer,

N'ouvrant à chacun qu'avec crainte,

Déchiffrant le malheur partout,

Te convulsant quand l'heure tinte,

Tu n'auras pas senti l'étreinte

De l'irrésistible Dégoût,

Tu ne pourras, esclave reine

Qui ne m'aimes qu'avec effroi,

Dans l'horreur de la nuit malsaine

Me dire, l'âme de cris pleine:

«Je suis ton égale, ô mon Roi!»

 

廣田大地氏のボードレール研究サイト「 L'Invitation @ Baudelaire 」で廣田氏の個人邦訳「悲しみのマドリガル」が読める。参照されたい。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成 Ⅰ ■1 旧全集「詩歌二」の内の十二篇

この『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成』は終りではなく始まりなのである。まずテクストを総て掲げた後、それを元に推敲過程の迷宮を探ろうという迂遠な仕儀なのである――



やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成

[やぶちゃん注:私は既に芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」を電子化し、そこで幾つかの注も附したが、そこで明らかになったことは、現在、「澄江堂遺珠」の元となった原資料は、実はその一部(佐藤が「澄江堂遺珠」を編むに当たって基礎底本とした三冊の冊子の内、佐藤が「第一號册子」と呼んでいるもの)が既に行方不明となっているという驚愕の事実であった。しかも、現在、完全な『源泉資料の全貌を示』(新全集後記より引用)すものと信じ込んでいた岩波新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』について、判読の一部に不審な点があること、ここで現存するとされて写真版から活字化されているもの(山梨県立文学館蔵とするノート二冊)が必ずしも佐藤春夫が述べている所の「第二號」「第三號」と同一のものではないか若しくは同一のものではあるもののそこに重大な欠損がある可能性を排除出来ないということであった。大きな問題は「第一號册子」の喪失で、非常に考え難いことではあるのであるが(佐藤は発表を意図しているかのように清書されたものと記しており、そこからそれでも堀辰雄が何か恣意的な意図を以って取捨選択してしまったというのはあまり考えたくはないという点で、である)、その消失した「第一號册子」中に、全く活字化されていない詩篇或いは詩篇断片が存在したか、或いは現存する「第二號」「第三號」資料に脱帖や欠損があるのではないかという疑義を、私に強く起こさせる証拠――「澄江堂遺珠」で最後の最後に佐藤が引用する四種の詩篇(抹消を含む)の完全に一致する詩篇や文字列が現在の『「澄江堂遺珠」関連資料』は勿論、私の知る如何なる資料中にも見出せずにいるという重大な事実である――があるのである。

 以上から、私は私独自に「澄江堂遺珠」原資料の集成を試みたいと思う。といっても、その多くの部分を労作である新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』に負うことにはなる。幾つかの疑義を述べたものの、山梨にある原資料ノートなるものは在野一介の私には到底閲覧することが出来ないからである(新全集自体が原本ではなく写真版から判読したような感じさえする)。但し、ただ新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』を活字化して、おためごかしの注を附するのでは岩波の編集権云々の問題以前に、私自身が面白くない。そこでまず、

■1 として諸研究によって「第一册子」に清書されていたと思われる詩群の全部若しくは一部(前に述べた通り、私はこれが総てとは実は思っていない)と目されている旧全集に正字で載る十二篇を示す。

次に、堀辰雄が「第一號」から「第三號」までの詩篇を無菌状態にまで整序してしまった(私は「しまった」と弾劾する。これは佐藤の「澄江堂遺珠」に於いても言えることである)、

■2 として旧全集の「未定稿」全篇

掲げる。その後に、

■3/■4 として新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の「第二號」「第三號」冊子の全部若しくは一部(前に述べた通り、私はこれも総てとは実は思っていない)と同一と思われる二冊が活字化された膨大な資料を、恣意的に正字化し、削除記号も底本とは異なる仕儀を施したものを示す

こととする。新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の順列とは、私の「■2」と「■3/■4」が入れ替わっている。これは校訂公開された時系列に資料を並べるのが私は正しいと考えたからである。それに加えて以下、

■5 として現在知られる芥川龍之介の詩歌及び手帳・未定稿断片の内、「澄江堂遺珠」との親和性が極めて強いと判断されるものを既発表・未発表を問わず、集成する

予定である(既に誰もが読める何箇所かの断片・手帳その他に、明らかにそれらしいものを見出すことが出来るからである)。

 この最後の「■5」は私の恣意的な印象観察によるものとなろうが、それでも考証の資料として集成しておく必要がどうしてもあると私は考えている。そのため、現在のアカデミックな権威ある『「澄江堂遺珠」関連資料』と野人である私の拙作を差別化するために、敢えて『やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成』としてある

 踊り字「〱」「〲」は全体を通して正字化した。しかも以上総てについて、私が気になった詩篇や断片については、逐次オリジナルな注を附すこととする(これも現在の庶民が容易に読めるようなアカデミックなそれらには行われていない仕儀であると思う)。

 これは恐らく私のライフ・ワークとなろう。そういうものとしての覚悟がなければ、この膨大な夢魔に立ち向かおうとは思わない。本文も含め、新発見や訂正も随時、私のブログ「鬼火~日々の迷走」のブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』で公開・更新してゆく予定である。] 

 

■1 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」に於いて佐藤春夫が「第一號册子」と呼称する現在は所在不明の冊子に載ると推定される詩群若しくはそこに載る詩に基づき堀辰雄によって整序された可能性のある詩群十二篇

[やぶちゃん注:「夏」の一篇を除き(理由は後述する)、岩波旧全集「詩歌二」に所収するものを底本とした。底本後記によると、この「詩歌二」の内、以下に示す「心境」から「戲れに⑵」までの詩は、元版全集(昭和四(一九二九)年二月二十八日発行の岩波書店「芥川龍之介全集」(岩波書店版第一次「芥川龍之介全集」全八巻の通称。昭和二年十一月に刊行を開始、昭和四年二月に完結した)の「月報」第八号の「編輯者のノオト」に『「心境」以下の今樣風の詩は全部、一つの帳面に淸書されてあったものである。それらは大正十年頃のやうに思はれる』とある、とする。新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の後記では、これを受けて、『こうしたことを考慮すれば、「心境」から「戯れに⑵」までの詩は、この「第一号」のノートに記されていたものに基づいている、と推測される』とする。また、佐藤春夫は「澄江堂遺珠」の「はしがき」に於いて、この堀辰雄(と思われる)が語る『帳面』――佐藤の言う『第一號册子』――なるものが、実はノート様のものなどではなく、書籍の体裁を成した『四六版形で單行本の製本見本かとも見るべきを用ひ、これには作者が自ら完作としたかと思へるものを一頁に一章づつ丹念に淨寫してある。恐らく作者は逐次會心のものを悉くここに列記し最後の稿本をこれに作成する意嚮があつたかと見られる』と、かなり細かな書誌情報を記している点にも注意したい。

 私は既に「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」でこれらを電子化しているが、今回はそれぞれの詩篇の冒頭に配されてある誌題を敢えて後ろに持ってくることにした。それは何故かと言うと、佐藤が「澄江堂遺珠」の五十一~五十二頁で、まさにこの「第一號册子」から「戯れに」の二篇の詩を引用した際、彼は、

 

   汝と住むべくは下町の

   水どろは靑き溝づたひ

   汝が洗湯の徃き來には

   晝もなきづる蚊を聞かむ

             戲れに⑴ 

 

   汝と住むべくは下町の

   晝は寂しき露路の奥

   古簾垂れたる窓の上に

   鉢の雁皮も花さかむ

             戲れに⑵

 

と表記していることが、非常に気になっているからである。

 何故、佐藤はこの「戲れに⑴」「戲れに⑵」の詩題を普通に前方に示さなかったのか?

 「澄江堂遺珠」の中には「劉園」や「麥秀」のように、前方にを持つものが先行登場しているのにである。

 これは佐藤が「第一號册子」からの引用との差別化を図るために過ぎないという説明はつくかも知れない。しかし、これらは後注でわざわざ「第一號册子」からと断っているのだから、何も殊更に堀の編集ではちゃんと前にある題を、わざわざ後ろに配する必要はないと私は考えるのである。

 ということは――この二篇で題が後に回されている可能性として考えられることは――ただ一つ――失われた「第一號册子」では一篇が製本見本の一頁に一篇の詩が記され――その題は実は総て詩の後に総て書かれていた――という事実を語っているのではないか? だから「そのままに」佐藤は素直にかく表示したのではないか? ということである。

 そして、その事実を立証する証拠が実は一つだけあるのである。

 何を隠そう、失われた「第一號册子」の一頁だけが、画像で残っており、それを我々は容易に見られ、そこでは詩篇のが最後に回されているからなのである。

 「澄江堂遺珠」七十二頁と七十三頁の間に入っている、芥川龍之介の以下に示す「夏」自筆稿写真である。

 

 

Jikihitusikou

 

画像を見ると、

 

 微風は散らせ柚の花を

 金魚は泳げ水の上を

 汝は弄べ 画團扇を

 虎疫は殺せ汝が夫を

       夏 

 

これで(題の本来の位置を再現するために四行目の「虎疫(ころり)」「夫(つま)」のルビを排除して示した)「夏」という題が後に回っていることが判明するのである。

 されば私は今回の電子データでは、総ての詩題を詩本文の最後の行の次に、この「夏」に倣って、詩本文最後の行の末尾の字から三字上げた位置に配することにした。これで、「澄江堂遺珠」の原資料である失われた「第一號册子」に、僅かながらも近づける仕儀と大真面目に考えているからである。なお、各詩篇の間が底本では二行しか空いていないが、ここは三行空とした。ポイントの違いは無視し、題名の字空けなども上に掲げた「夏」を除いて無視した。] 

 

廢れし路をさまよへば

光は草に消え行けり

けものめきたる欲念に

怯ぢしは何時の夢ならむ

        心境 

 

西の田の面(も)にふる時雨

東に澄める町の空

二つ心のすべなさは

人間のみと思ひきや

      時雨

[やぶちゃん注:旧全集の大正一〇(一九二一)年九月二十日附佐々木茂索宛九四〇書簡にこの詩を記し(差異は「東に澄める町のそら」の「空」のみ)、その後に『これは三十男が斷腸の思を托せるものなり 一唱三嘆せられたし』と書いている。] 

 

沙羅のみづ枝に花さけば

うつつにあらぬ薄明り

消なば消ぬべきなか空に

かなしきひとの眼ぞ見ゆる

         沙羅の花 

 

[やぶちゃん注:「沙羅」は「さら」(「しやら(しゃら)」とも読む)と読み、ツバキ目ツバキ科ナツツバキ Stewartia pseudocamelli の別名である。本邦には自生しない仏教の聖樹フタバガキ科 Dipterocarpaceae の娑羅樹(さらのき アオイ目フタバガキ科 Shorea 属サラソウジュ Shorea robusta)に擬せられた命名といわれ、実際に各地の寺院にこのナツツバキが「沙羅双樹」と称して植えられていることが多い。花期は六月~七月初旬で、花の大きさは直径五センチメートル程度で五弁で白く、雄しべの花糸が黄色い。朝に開花し、夕方には落花する一日花である(ここは主にウィキの「ナツツバキ」及び「サラソウジュ」に拠った。グーグル画像検索「Stewartia pseudocamelli もリンクしておく)。

 この詩は、知られた決定稿で、後に「マチネ・ポエティク」の連中が近代定型詩中希有の珠玉の一篇と持ち上げた、 

 

   相聞

また立ちかへる水無月の

歎きを誰にかたるべき。

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。 

 

に先行する推敲形の一つである。最も古いものでは、旧全集の修善寺からの室生犀星宛大正一四(一九二五)年四月十七日附の一三〇六書簡に『又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。』とし(この原稿とは以下の詩稿を指すと判断する)、次の二篇を記す。 

 

歎きはよしやつきずとも

君につたへむすべもがな。

越(こし)のやまかぜふき晴るる

あまつそらには雲もなし。

 

また立ちかへる水無月の

歎きをたれにかたるべき

沙羅のみづ枝に花さけば、

かなしき人の目ぞ見ゆる。 

 

詩の後に『但し誰にも見せぬように願上候(きまり惡ければ)尤も君の奥さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。』微妙な自負を記す。更に、龍之介の大正一四(一九二五)六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雑詠」で決定稿が公となっている。以下に示す(底本は岩波版旧全集を用いた私の古い電子テクストから)。これは全集では「澄江堂雜詠」その最後に「六 沙羅の花」として所載しているもので、「澄江堂雜詠」は大正十四(一九二五)年六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載されたもので、この「沙羅の花」は作品集『梅・馬・鶯』にも所収されている。

   *

   沙羅の花

 沙羅木は植物園にもあるべし。わが見しは或人の庭なりけり。玉の如き花のにほへるもとには太湖石と呼べる石もありしを、今はた如何になりはてけむ、わが知れる人さへ風のたよりにただありとのみ聞こえつつ。

   また立ちかへる水無月の

   歎きをたれにかたるべき。

   沙羅のみづ枝に花さけば、

   かなしき人の目ぞ見ゆる。

   *

「太湖石」は蘇州近郊の主に太湖周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称していう。] 

 

この身は鱶の餌ともなれ

汝を賭け物に博打たむ

びるぜん・まりあも見そなはせ

汝に夫(つま)あるはたへがたし

        船乘りのざれ歌 

 

[やぶちゃん注:「びるぜん・まりあ」はポルトガル語の「virgin maria」で聖処女マリアのこと。] 

 

ゆうべとなれば海原も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老いては夢にまがふらん

        船中 

 

初夜の鐘の音聞ゆれば

雪は幽かにつもるなり

初夜の鐘の音消え行けば

汝はいまひとと眠るらむ

        雪 

 

微風は散らせ柚の花を

金魚は泳げ水の上を

汝は弄べ 画團扇を

虎疫(ころり)は殺せ汝が夫(つま)を

       夏 

 

[やぶちゃん注:これは冒頭に注したように、「澄江堂遺珠」の「第一號册子」をそのまま写真に撮ったと思われる自筆稿画像(前掲)を忠実に再現したものである。「畫」ではなく「画」であり、その前には明らかな字空きが存在している。] 

 

松葉牡丹をむしりつつ

ひと殺さむと思ひけり

光まばゆき晝なれど

女ゆゑにはすべもなや

       惡念 

 

「ひとの音せぬ曉に

ほのかに夢に見え給ふ」

佛のみかは君もまた

「うつつならぬぞあはれなる」

           曉 

 

[やぶちゃん注:これは「梁塵秘抄」巻二の法文歌(ほうもんのうた)に基づく。以下に引用する(底本は新潮日本古典集成版を用いた)。

   ほとけは常にいませども

   うつつならぬぞあはれなる

   人のおとせぬあかつきに

   ほのかに夢にみえたまふ

やぶちゃんの現代語訳:

   み仏というものは常に我らがそばにいますと存じながら……

   愚かなる私の眼には拝み得ぬことの何としても哀しく侘しく……

    故にこそ恋しく慕わしいもの……

   人声も物音も絶え果てたその暁の頃……

   幽かに私の夢の内にその影をば……

    お現わしになられた……

ここにあるのは言うまでもなく信仰の極限の仏身への恋着という特異点である。そして、そこにやはり「煩悩即菩提」を、我執とも言える恋着に悩む龍之介は見てとったに違いない、と私は思うのである。] 

 

涅槃のおん眼ほのぼのと

とざさせ給ふ夜半にも

かなしきものは釋迦如來

邪淫の戒を說き給ふ

      佛 

 

汝と住むべくは下町の

水どろは靑き溝づたひ

汝が洗湯の徃き來には

晝もなきづる蚊を聞かん

        戲れに⑴

 

[やぶちゃん注:「徃」の字のみ「澄江堂遺珠」に引用されたもので示した。] 

 

汝と住むべくは下町の

晝は寂しき露路の奧

古簾垂れたる窓の上に

鉢の雁皮も花さかむ

      戲れに⑵ 

 

[やぶちゃん注:「雁皮」は古く奈良時代から紙の原材料とされてきたフトモモ目ジンチョウゲ科ガンピDiplomorpha sikokiana を指し、初夏に枝の端に黄色の小花を頭状花序に七から二十、密生させるものであるが(グーグル画像検索「雁皮の花」)、どう考えても地味な花で、それをまた鉢植えにするというのは、如何にも変わった趣味と言わざるを得ない。そうした不審を解いてくれたのが、「澄江堂遺珠」の末尾にある神代種亮の「卷尾に」という文章で、神代はそこで「雁皮」について、これ『は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い。』と記している(「罕な」は「まれな」と読み、「稀」と同義。「目葢」は「まぶた」)。まさにこれは目から鱗である。これはジンチョウゲ科のガンピではなく、中国原産で花卉観賞用に栽培されるナデシコ目ナデシコ科の多年草である別なガンピ(岩菲(がんぴ)) Lychnis coronata であったのである。こちらのガンピ(岩菲)は茎は数本叢生し、高さは四十~九十センチメートルほどになり、卵状楕円形の葉を対生させ、初夏に上部の葉腋に五弁花を開くが、花の色は黄赤色や白色といった変化に富む。グーグル画像検索「Lychnis coronataでその鮮やかな花を見られたい。これは確かに神代の言う通り、「雁皮」ではなく「岩菲」に違いない。]

耳嚢 巻之九 狐に被欺て漁魚を失ふ事

 

 狐に被欺て漁魚を失ふ事 

 

 大久保原町(はらまち)に肴商ふ瀧介といえるものありしが、或夜目白下水神橋の下へ、友どち兩人連れにて鱣(うなぎ)を釣に出しに、思ひしよりも得もの多(おほく)、兩人共畚(ふご)一盃(いつぱい)になりしかば、最早歸らんと瀧介申(あうし)けれども、連れの男、今少しと得物に耽りて手間取(てまどる)内、水神橋の上を、若き女あわたゞしく跡へ行(ゆき)先へ行、幾邊ともなく往來せる間、有樣を見るに渠(かれ)は必定(ひつじやう)身投(みなげ)なるべし、止(とど)めとらせんと、兩人ながら陸(をか)へ上り扨彼(かの)女を呼懸(よびか)け、御身いかなればかく往來し給ふと尋(たづね)しに、彼(かの)女恥しげに答へけるは、我等は繼母の憎しみを請(うけ)、殊に思ふ男にも添(そひ)候事ならざれば身を投(なげ)死(しな)んと思ふなり、留(とどめ)させ給ひそと、泣々答へければ頻りに不便(ふびん)に思ひて、繼母のいきどふりは我等侘(わび)なして可濟(すむべし)、思ふ男も能(よき)に取計(とりはから)ひかたあるべしと、達(たつ)て止(とど)めければ、忝(かたじけなき)由にて少し許容の體(てい)なりけるゆゑ、さらば御身の住家(すみか)はいづくなるぞ、おくらむといふまゝ、不遠(とほからざる)由にて、先に立(たち)待合(まちあひ)する體(てい)故、片へに置し畚(ふご)釣道具を尋(たづね)、持歸(もちかえ)らむとて右畚(ふご)を見しに畚には獲(え)もの一つもなし。兩人とも同樣なれば、驚きて彼(かの)女を尋(たづぬ)るに行方(ゆくへ)なし。全(まつたく)狐に誑(たぶ)らかされしならん、おしき事と、かの瀧介我知れるもとに來りてかたりけるとぞ。

□やぶちゃん注

○前項連関:狐狸らしき獣による凶宅譚から妖狐譚で直連関。底本の鈴木氏注に、経世論家で海防の充実を主張する軍事書「海国兵談」の著者として知られる林子平が体験した類似譚譚その他の引用が載るので、以下の示しておく。『三村翁曰く、「林子平、釣の帰りに或寺内を通りぬけんとして、三門を仰ぎしに大なる女の首ありて、ゲラゲラと笑ふ様物凄し、必定狐狸の業よと打笑ひ、門をくゞりて行けば、その首あとより逐ひ来りて、腰のあたりへ喰ひつくを、うるさしとて、もぎとり投げつけて行くに、あとよりあとより首いくつとなく飛び来りて、腰に縋る故、もぎすてもぎすてやがて寺をぬけて、心づけば、いつの間にか腰につけたる魚を入れしびくも無かりし由。又、或男釣の帰りに、さる小橋を渡りて、不図見れば、大なる鯰、泥にや酔ける、捕へ得べき様なれば、立寄り見しに橋の下へ入りぬ、覗き見れば、確にそこにひそみぬ、さらばと釣道具を置きて、小川に下り立ち、橋の下を見れば、鯰はいづ方へ行きしや、見えず、つまらぬ顔して、上りて来つれば、そこへ置きし魚籠いつか空しくなりぬとぞ。」』。

・「狐に被欺て漁魚を失ふ事」「狐(きつね)に被欺(あざむかれ)て漁魚(れふぎよ)を失(うしな)ふ事(こと)」と読む。

・「大久保原町」牛込原町。現在の新宿区原町(はらまち)。都営大江戸線の牛込柳町(やなぎちょう)駅周辺とその西方一帯。根岸の屋敷があった現在の千代田区神田駿河台一丁目からここまでは直線距離で三・五キロメートルほどで、根岸の家が彼を鮮魚仕入れの御用達としていた可能性もないとは言えない。

・「目白下水神橋」江戸切絵図を見るに、これは八幡宮水神社及び水神別当の東南の角で神田川に架かる駒塚橋(古くは駒留橋と呼んだ)のことを指しているように読める。

・「鱣」音は「セン」「廣漢和辭典」の「鱣」の項には「一」として〔①こいの一種。②大魚の名かじきに似て、肉は黄色。〕の他に「二」として、即ち中国での意義の一つとして〔魚の名。うなぎに似た淡水魚。=うみへび⇒鱓。〕というウナギみたような淡水魚でウミヘビだあ、という意味不明の記述が見られる。「鱓」は音「せん」又は「ぜん」で、前掲の「鱧」(ヤツメウナギ)の注でも示したとおり、現在、一般には硬骨魚綱ウナギ目ウツボ亜目ウツボ科 Muraenidaeのウツボ類を指す字としても用いられ、国字としては食品のカタクチイワシの干物を謂う「ごまめ」の字でもある。但し、「白鱓」と書くとウナギを指すと思われる。この漢字につき、博物学的に興味のある方は私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第五十 魚類 河湖無鱗魚」で「鱣」及び「鱓」「鰻」で検索を掛けられたい。ゴッソリ網に掛かりますぞ!

・「畚(ふご)」原義は、物を運搬するために用いる竹や藁で編んだ籠(かご)・モッコを指すが、特に釣った魚を入れるための籠・魚籠(びく)をも指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 狐に欺(あざむ)かれて漁(すなど)ったる鰻を失(うしの)うた事

 大久保原町(はらまち)にて魚を商(あきの)う瀧介(たきすけ)と申す者が御座るが、ある夜(よ)、目白下水神橋(めじろしたすいじんばし)の下へ、友だちと二人連れにて鰻を釣りに出たと申す。

 意想外に獲物が多く、二人孰れの魚籠(びく)も鰻で溢れんばかりとなったによって、瀧介は、

「最早、充分じゃ。帰(けえ)るとしようぜ。」

と相方へと声をかけたが、連れの男は、滅多にない入れ食いに興奮致いて、

「――今、少し!」

と釣竿に執心し、重い腰をなかなか上げようとはせなんだ。

 すると上(うえ)つ方の水神橋の上を、若き女の慌ただしく走る軽き下駄の音が、瀧介の耳に入って御座った。

 暗ければ、はっきりとは見えぬが、その音は、あっち岸(がし)へ走っては止まり、また、こっち岸(がし)へと未練がましき感じで立ち戻るので御座った。

 それはまさに、何か心に惑うことのあって、行ったり来たり、幾遍ともなく往復致いて御座る気配を伝えおったよって、その様子をつくづく見る内、二人して、

「あの女子(おなご)は必定(ひつじょう)、身投げしようとしてるんじゃねえかい?!」「そうじゃ! おい! こりゃ、止(と)めにゃ、なんねえぞッ!」

と言い合って、魚籠(びく)や釣り道具を抱えると、急いで二人して堤を走り登り、

「――お女中!!」

とかの女へ呼び懸けた。

「……おまいさんは……いったい、何だって、そう……橋の上を行ったり来たりしてるんでえ?」

と質いたところが、その女、如何にも恥しげな様にて、

「……妾(わらわ)は……継母(ままはは)の……いわれなき憎しみを……身に受け……また……ことに……心より思うておりまするところの……男(おのこ)とも……これ……添い遂ぐること……とてものことに……出来そうも……御座いませぬ……されば……いっそ……ここより……身(みい)を投げて……死なんずらんと……思うておるので御座いまする……さればこそ……どうか……お留(とど)めなさいまする……な……」

と、泣く泣く、ぽっつらぽっつら答えたればこそ、瀧介と相方は、聴けば、如何にも不憫なことと思うて、互いに、

「……継母の憤りなんてぇもんは、よ……まあ、なんだ! おいらが、その継母とかいう女の話を聴いて、詫びるところがありゃあ、その場でおいらもおまいさんと一緒になって詫びてやろうじゃねえかい!……」

「……そうよ!……その思う男(おのこ)と添い遂げるなんてことも、よ。これ、幾らでも、よきに計らう仕方の、これ、あろうってもんよ! おいらに、まかしときない!」

などと威勢のいいことを言い、頻りに入水(じゅすい)を思い留めさせんとしたところ、

「……なんと……見ず知らずの殿方たちにもかかわらず……忝(かたじけな)きこと……ありがたきことにて……御座いまする……」

と、幾分、彼らの言葉を聴き入れんとする、落ち着いたる感じに見えたによって、

「――そんなら、ともかくよ! おまえさんの住まいは何処(どこ)じゃ? もうすっかり暗(くろ)うなったし、そのむごい継母とかいう女、これそいつの出方次第じゃ、きつく談判もしようほどに!……さ! 送ったるで!」

と声をかけると、

「……へえ……ここからそう遠くは……御座いませぬ……」

と言うて、すっと先に立って行き、少し隔てたところにて二人を待っておる気配なれば、瀧介と相方は、橋の袂の傍らへ置きおいたる魚籠(びく)と釣り道具のところへと参り、それらを持って行かんとしたが……

……瀧介……

……己れの魚籠(びく)を覗いて見たところが……

……魚籠内(うち)には……

……溢れんばかりに入って御座ったはずの獲物の鰻……

……これ……

……一匹も……

――おらずなっておる!

 驚いて、相方へと声を掛ければ、同じく、

「わ、儂の魚籠が! か、空、じゃあぁ~~~!」

と叫んだ。

 そこでふと、かの待っておるはず女の方(かた)を見てみてみれば……

……これ……

……姿形……

……忽然と……

……消えて御座った。…………

 

「……いや! ほんによう! 全くもって! 狐に誑(たぶら)かされたんでえ! あん畜生め! 悔しくって! 悔しくって! なんねえわい!……」
 
と、その瀧介が、私の知れる者の元へやって参り、一頻り息巻いて語ったということで御座ったよ。

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 信濃の旅(Ⅰ)

橋本多佳子句集「命終」

[やぶちゃん注:昭和四〇(一九六五)年三月二十九日角川書店刊。「命終」は「みやうじゆう(みょうじゅう)」と読む(本句集第十三句目「この雪嶺わが命終に顕ちて来よ」の私の注を参照されたい)。第五句集にして遺句集。橋本多佳子はこの二年前の昭和三八(一九六三)年五月二十九日、肝臓癌と胆嚢癌及び周囲淋巴腺部への転移により午前零時五十一分に死去している。昭和三一(一九五六)年五月から同三十八年三月(多佳子五十七歳~六十四歳)までの作品七百四十一句を収録する。序文と題字は山口誓子、あとがきは橋本美代子。誓子・美代子の序文は著作権存続中のため、省略する。]

 

 昭和三十一年

 

 信濃の旅

 

  八ケ嶽高原

 

花しどみ老いしにあらず曇るなり

 

[やぶちゃん注:「花しどみ」バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属 Chaenomeles ボケ Chaenomeles speciosa の近縁種で本邦固有種であるクサボケ(草木瓜)Chaenomeles japonica 。ボケは中国原産で観賞用に栽培されており自生はないのに対し、クサボケは本邦の本州関東地方以西・四国・九州に自生する。樹高は五十センチメートルほどで、『実や枝も小振り。本州や四国の日当たりの良い斜面などに分布。シドミ、ジナシとも呼ばれる。花は朱赤色だが、白い花のものを白花草ボケと呼ぶ場合もある。果実はボケやカリン同様に良い香りを放ち、果実酒の材料として人気がある。減少傾向にある』とウィキの「ボケにあり、この場合、特に多佳子が「花」を冠しているところをみると、この白い花の『白花草ボケ』なのかも知れないとも思ったが、とすれば二句後の「草木瓜は紅きがゆゑに狐寄らず」を差別化せずに出すことは考え難い。やはりこれも紅い花であろうと思われる。因みにグーグル画像検索「Chaenomeles japonicaの中に桃色のものや白化したものが少し見られる(但し、これが Chaenomeles japonica 白色花タイプである保証はない。必ず当該頁を開いて確認されたい。例えば、最初にピンク色で出るものは、そのページに「Chaenomeles japonica Madame Butterfly 」とキャプションする。]

 

入りゆくや落葉松(からまつ)未知の青籠めて

 

草木瓜は紅きがゆゑに狐寄らず

 

旅ゆく肩落葉松の風草の風

 

背を凭せて風がひびける芽落葉松

 

五月白き八ケ嶽(やつ)聳つを日常にて

 

天界に雪溪として尾をわかつ

 

双眼鏡天上界に白嶺混み

 

双眼鏡いつぱいの白嶽にて遠し

 

  伊藤淳子さん

 

欲れば手に五月の雪嶺母の傍(そば)

 

[やぶちゃん注:「伊藤淳子」不詳。しかしこれ、「伊藤」は「伊東」の誤りで、前出の諏訪の伊東総子の娘か孫ではなかろうか? そう私が思う理由は、後の「この雪嶺わが命終に顕ちて来よ」の私の注を参照されたい。]

 

孤(ひと)つ身のいよよ孤つに白穂高

 

五月白嶺恋ひ近づけば嶺も寄る

 

この雪嶺わが命終に顕ちて来よ

 

[やぶちゃん注:「命終」は「みやうじゆう(みょうじゅう)」と読む。底本年譜の昭和三一(一九五六)年五月の条に、『二十日、長野県「七曜」俳句大会に誓子と出席』し、その『大会の帰途、伊東総子の案内で、誓子と八ヶ岳に遊ぶ』とある(下線やぶちゃん)。年譜にも、多佳子の死後の遺句集「命終」の書名の由来となるとする本句が引かれており、そこにははっきりと「みやうじゆう」のルビが振られているからである。さらに『句帳に、「五月雪嶺に涙する」と前書がある』と記す。「顕ちて」は「たちて」と読む(これも同年譜にルビがある)。目前にかつて見たものの記憶が鮮やかに蘇る(他にも、季節の気配などがたち現われる或いはそうした雰囲気が濃厚に漂ってくるといった意味も持つ。いずれにせよ、一種の歌語で日常的な語彙とは言い難い)謂いである。]

 

2015/01/01

萩原朔太郎 こゝろ (初出形)

 こゝろ

 

こゝろをばなにゝたとへん

こゝろはあぢさゐの花

もゝいろに咲く日はあれど

うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

 

こゝろはまた夕闇の園生のふきあげ

音なき音のあゆむひゞきに

こゝろはひとつによりて悲しめども

かなしめどもあるかひなしや。

あゝこのこゝろをばなにゝたとへん

 

こゝろは二人の旅びと

されど道づれのたえて物言ふことなければ

わがこゝろはいつもかくさびしきなり。

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年五月号『朱欒』(第三巻第五号)の初出形。詩集「純情小曲集」に再録された。校訂本文及び詩集類及び通用する電子テクスト類では、第二連四行目末の句点が、総て五行目末「あゝこのこゝろをばなにゝたとへん。」と移動している。初出のそれは単なる誤植ではあろうが、初出形としてそのまま示した。]

耳囊 卷之九 上杉家明長屋怪異の事

 

 上杉家明長屋怪異の事

 

 上杉家の下屋鋪(しもやしき)や、又上屋敷や、名前も聞(きき)しが忘れたり。近頃事なりし由。交替の節にや、交代長屋も多く塞(ふさが)りしに、相應の役格(やくかく)の者、跡より登りて、其役相應の長屋無之(これなし)。一軒相應の明(あき)長屋あれども、右長屋住居(すまひ)の者は色々異變ありて、或は自滅し又は身分難立(たちがたき)事抔出來て退身(たいしん)などするとて、誰(たれ)も住居せず、主人にも聞(きき)に入(いれ)候程の事なり。然るに右某は至(いたつ)て丈夫なりけるゆゑ、右長屋に住(すま)はん事を乞ひければ、其意に任せけるにさしてあやしき事もなかりしが、或夜壹人の翁出て、見臺(けんだい)にて書を見据たる前へ來りて着座なしけるを、ちらと見けれども一向に見向(みむき)もせず居(ゐ)たりし。飛(とび)も懸らむ體(てい)をなしけるゆゑとつて押(おさ)え、汝なに者なれば爰には來りしと申(まうし)ければ、我は此所に年久敷(ひさしく)住(すめ)るものなり、御身爰にあらば爲(ため)あしかりなんと云けるゆゑ、大きにあざ笑ひ、我は此長屋主人より給はりて住居なす、汝はいづ方よりの免(ゆる)しを請(うけ)て住居なすやと申ければ、其答に差(さし)つまりしや、眞平(まつぴら)ゆるし給へといふゆゑ、以來心得違不可致(いらいこころえちがひいたすべからず)とて膝をゆるめければ、かき消して失(うせ)ぬ。扨日數二三日過(すぎ)て、屋鋪の目付役なる者兩人連(づれ)にて來り、主人の仰(おほせ)を請(うけ)て來れり、面會可致(めんくわいいたすべき)旨ゆゑ、着用を改め其席へ出(いで)ければ、彼(かの)目付役申けるは、御自分事何々の不屆の筋御聞(おきき)に入(いり)、急度(きつと)も可被仰付候得共(おほせつけらるべくさふらえども)、自分存念(じぶんぞんねん)を以(もつて)、覺悟の儀は勝手次第の段、申渡(まうしわたし)ければ、委細の仰渡(おほせわたされ)の趣(おもむき)奉畏候(かしこまつてたてまつりさふらふ)、用意の内(うち)暫時御控可被下(おひかへくださるべき)旨申越(まうしこし)、勝手へ入(いり)て召仕(めしつかひ)へ申付(まうしつけ)、近邊に住居のものを急に呼寄(よびよせ)、密(ひそか)に彼(かの)目付役を爲覗(のぞかせ)しに、一向不見覺(みおぼぼえざる)ものゝ由ゆゑ、左こそ有(ある)べきと、召仕どもへも申含(まうしふくめ)、棒其外を爲持(もたせ)、爲立忍(たちしのばせ)、扨、座敷へ出て、被仰渡(おほせわたされ)の趣畏(かしこま)り候間、切腹も可致候得(いたすべきさふらえ)ども、得と相考候得(あひかんがへさふらえ)ば、一向御尋(おたづね)の趣、身に覺へなき事なり、委細其筋へ申立候上(まうしたてさふらふうへ)、兎も角も可致(いたすべく)、然る處、我等は御在所より出て、各樣(かくさま)をも御見知不申(みしりまうさず)、御屋鋪内何方(いづかた)に住居有之(これあり)、何年勤(つとめ)られ候や抔と尋(たづね)ければ、我等主人の被仰渡(おほせわたされ)を以て、申渡(まうしわたし)に罷越候(まかりこしさふらふ)、餘事(よじ)の答に不及(およばざる)趣申(まうし)ける故、左あるべしと思ひて、當屋鋪案内の者も呼置(よびおき)たり、全(まつたく)紛者(まぎれもの)ゆるさじと、刀に手をかけければ、兩人ともうろたへて逃出(にげだ)せしを、拔打(ぬきうち)に切(きり)ければ手を負ながら、形ちを顯はし、逃去(にげさ)りしが、供のものをも、中間(ちうげん)抔、棒を以(もつて)たゝき倒(たふ)しけるが、是も、ほうぼう、逃去りける。此後はたえて右長屋に、怪異、絕けるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:宅妖二連発。これも狐狸の類いと思われる。

・「上杉家」米沢藩藩主上杉氏。出羽国置賜(おきたま)郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた。藩庁は米沢城(現在の米沢市)。「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年夏当時の藩主は上杉斉定(なりさだ)。当時の石高は十五万石。

・「御自分」反照代名詞。二人称・三人称に用いて、その人自身を敬意を込めて指す。御自身。

・「自分存念」自分の判断。ここは自主的に罪を認めて自害をすることをいう。

・「紛者」不審者。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 上杉家の空き長屋の怪異の事

 上杉家の下屋敷(しもやしき)か上屋敷で御座ったか、話柄主人の名前も聞いて御座ったれど、失念致いたが、ともかくも近頃起った事実との由。

 参勤交代の折りのことか、交代のための長屋も多くが塞がって御座ったに、相応の役格(やくかく)の者が少し遅れて江戸へ上って参り、その役職相応の長屋が、生憎、これ、御座らなんだ。

 正確に申せば、実は一軒だけ、相応の空き長屋が、これ、あるにはあったが、この長屋、ここに住まい致す者は、必ずといって、いろいろな異変を体験し、ある者は意味不明の自殺を成したり、また、死なずとも、身分の立ち行かずなるなどして役職から退いたりするということにて、これ、誰(たれ)一人として住まいせず、空き家となって、藩主御自身の耳にも入り、

「仕方あるまい、空き家のままに捨ておけ。」

との命も下って御座った代物であった。

 ところが、この某(なにがし)は至って偉丈夫の武士(もののふ)で御座ったによって、その長屋に住まわんことを切に乞うたによって、藩主もその意に任せたと申す。 

 

 移った当初は、さしてこれといって妖しきこともなかったが、暫く致いたある夜(よ)のことで御座った。

 一人の翁(おきな)がどこからともなく現われ出で、主人が書見台の書を見て御座ったその真ん前にやって来ると、その場へ音もなく顔をやや俯き加減に着座なして御座った。主人は騒ぐこともなく、徐ろに、ちらと眼をば向けたが、一向に見向きもせず座っておる。

 しかし、その体(てい)を見るや、今にも飛びかかってくる気配が体全体の緊張から感じられた。

 されば、主人は機先を制してぱっと飛びかかると、膝にて男の背を踏みとって押さえつけ、

「――汝――何者なれば、ここには来たるかッツ!」

と一喝した。

 すると、老人は、

「……我らはここに年久しゅう住める者じゃ……御身……ここにこのまま……かく住まい致さば……ために……悪(あ)しゅう御座るぞ……」

などとほざいたによって、大きに嘲(あざわら)い、

「我は、この長屋を藩主より賜わって住もうておるのじゃッツ! 汝は、何方(いずかた)の者より免(ゆる)しを請(こ)うて、ここに住まいなすかッツ?!」

と逆に糾いた。

 その答えにさし詰ったものか、老爺は、

「……ま、真っ平御免……お、お許し下されぇ……」

と悶え苦しんで請うたによって、

「――以後、心得違い致すでないぞッツ!」

と、念を押して膝を緩めた……と……

――一瞬にして、かき消え失せて御座ったと申す。 

 

 さてもそれより日数(ひかず)にして、二、三日ほど過ぎた頃、屋敷の目付役と申す者が二人連れで参り、

「――藩主の仰せを請けて参上致いた。面会あれかし。」

と如何にも意気丈高に来意を告げた。

 藩主の命と聴けばこそ、着衣を改め、その席へと出でたところ、その目付役の申すことには、

「――貴殿が儀、何々につきて、これ、不届きの筋あり。それを御藩主、御耳に入らせられ、厳しき処分を仰せつけられて御座る。……なれど、御自身の存念(ぞんねん)を以って、覚悟の切腹を致す儀ならば、これ、勝手次第!――」

といった驚くべきことを申し渡されて御座った。

 しかし主人は、慌てず、

「――委細の仰せ渡されたるところの趣き、畏まって奉って御座る。――就いては、用意を致すによって――暫時、お控え下さるよう、お願い申し上ぐる。」

と応えて、勝手方へと参ると、召使って御座った者へ申しつけて、近辺に住まいする江戸詰の長き家士を急ぎ呼び寄せ、次の間より密かに、かの目付役らを覗かせたところが、

「いや、一向、見覚えなき人体(にんてい)にて御座る。」

とのことで御座ったによって、

「――やはり――そうであったかッツ!」

と、家来どもへも、重々、言い含め、棒その外をめいめいに持たせて、戸の後ろや前栽(せんざい)に立ち忍ばせておき、さても、主人は徐ろに座敷へと出でて、

「――仰せ渡されたるところの趣き、畏まってお請け申し上げたによって、切腹も致そうずと覚悟致いて御座る。――されど、とくと己れの身に引き合せて考えて御座ったところ、これ一向、貴殿らの御尋ねの趣きにつきては、身に覚え、これ、御座ない。委細につきてその筋へ申し立て致しましたる上、兎も角もどうにでも致そうずと思うて御座る。……時に……我らは御在所より江戸へ参ったばかりにして、ご貴殿らをも、これ、全く見知らざるによって、一つ伺いたいので御座るが……ご貴殿らは、御屋敷内(うち)の何方(いずかた)に住まいしておらるるか? また、何年、江戸詰めをお勤めなされて御座らるるか? また……」

と、矢継ぎ早に、糺いたところが、二人は、

「……わ、我ら藩主の仰せ渡されしことを以って……も、申し渡しに、これ……ま、罷り越こして……ご、御座った者じゃによって……そ、そのようなる……ほ、他の事につきては……こ、これ……こ、答えるには……お、及ばぬ!……」

といった苦し紛れを、どもりつつ申したによって、

『やはり! 怪しいッツ!』

と思い、

「――当屋敷の案内(あない)の者も呼びおいておるわッツ! 全く! 紛(まぎ)れ者じゃなッツ?! 許さんッツ!!」

と、刀に手をかけたところ、両人ともおたおたと狼狽(うろた)え、逃げ出そうとした。

 そこでその二人の背に、瞬時に左右抜き打ちに斬りつけた。

 手負いながら、何やらん、おぞましき獣の姿を現わし、逃げ去さって行ったが、供の者や中間(ちゅうげん)などが待ち構えて御座って、寄ってたかって棒を以って叩き倒したれば、二匹とも、ほうほうの体(てい)にて逃げ去って御座ったとか。

 この後は、この長屋の怪異、絶えてなくなったと申す。

「澄江堂遺珠」の挿絵は蘇軾の「枯木竹石図」の模写ではないか?

教え子より本日公開した「澄江堂遺珠」の芥川龍之介の挿絵(画像のデッサン風のもの)
 
Akutagawasasie

について、これは蘇軾の「枯木竹石図」


Kobokutikusekizu


をインスパイアしたものではないかと教授を受けた。中文サイト「視覚素養」の「枯木竹石圖」所収の画像を添付しておく。
如何にも!!!

謹賀新年 / 芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯 澄江堂遺珠 (PDF縦書版 ) ・ 同(HTML縦横書版) 附画像 公開

謹賀新年
 今年もサイト「鬼火」及び本ブログ「鬼火~日々の迷走」をよろしゅうに――
 
 
 
同「澄江堂遺珠」HTML縦横書版

を公開した。
 
特にPDF版は恐らく僕の作成した中では出色の出来かと存ずる。新年の進物として皆さんにお贈りする。
本ブログ・カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』
 
でも全テクストと画像を公開している。それぞれの便宜で使い分けされたい。



多くは言うまい。

しかし「耳嚢」全巻完結は絶対のアンガジュマンとする――

澄江堂遺珠 神代種亮 跋 図版目次 奥附 / 「澄江堂遺珠」ブログ電子化公開完了

 

 卷尾に

 

 芥川さんから親しく枚正を託された最後のものは「三つの寶」であつた。その中に讀み落した活字が一つあった。「魔術」の中に「骨牌」とか「金貨」とかいふ語があつて、その次に「札」といふ字が出て來るのでルビが「さつ」となつてゐたのを看落したのである。佐藤春夫さんが「誤植を一つ發見して直して置いた」と序文に書いてゐるのは之を指してゐる。今その佐藤さんから遺篇の枚正を託されて感慨の切なるものを覺える。

 校正刷を讀みながら心づいた文字二三を左に摘記して置く。

 「はしがき」中に「本誌」とあるのは「古東多万」のことで、第一號から第三號に亙つて連載されたものに新に補正を加へたものである。

 二十三頁一行の「夾竹桃」は原本には「杏竹桃」とあつたものを編者が訂正したのである。

 三十三頁四行、四十頁二行、同四行、同七行、四十四頁七行、六十七頁一行、六十七頁一行、同五行、七十七頁四行、七十八頁三行の「ゆうべ」は明かに「ゆふべ」の書損であると推測する。芥川さんは他の述作に於て決して「夕」の場合に「昨夜」の假名遣を用ゐてゐない。

 四十八頁四行の「眠ぬ」は「寢ぬ」の意に用ゐたものである。書損と看られぬこともない。

 五十二頁五行「露路」は「露地」と書く意志であつたものと判ぜられる。但し「地」の字では「路」の感じが出ないと芥川さんが考へてゐたかも知れないが、最初に「お時宜」と書いたものを後に私が注意したので「お時儀」と改めたことから推考すると、恐らくは「露地」と書いただらうと思はれる。

 五十二頁七行の「雁皮」は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い。

 六十頁七行の「仄けき」は「かそけき」と讀むのであらう。「丸善の二階」と題する短歌には「幽けみ」と「幽」の字が用ゐてある。「仄」の字を「かすか」と用ゐた例は芥川さんの他の作には無い所である。

 旁點の箇所は前後の文字の異同に對して讀者の注意を喚ばんが爲に編者の加へたものである。

 扉の「澄江堂遺珠」の五文字は朝鮮古銅活字より採取したもの。見返し及び箱貼りは原本の部分を複寫して應用したものである。

     昭和七年十月三十一日

          神代 種亮

[やぶちゃん注:筆者「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は「こうじろたねすけ」と読まれることが多いが、名は正しくは「たねあき」が正しい。龍之介より九歳上。書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。彼をよく知らない方から見ると、幾ら親しかったとは言え、芥川龍之介のような大家の遺稿集の跋文を何故、校正担当者が書いているのかと不審に思われることであろう。またこの「卷尾に」の内容も、文字通り校正を終えた「卷尾に」という内容で一般的な遺稿集の追悼の意を含んだ跋文とは趣きを異にしている。正直、変な跋であると私は感ずる。そもそもが『校正の神様』という呼称が胡散臭い。森洋介氏のサイト「書庫 或いは、集藏體 archive」の中の「校正癖 あるいはコレクトマニア綺譚」の記載が彼の実体を良く伝えてくれる。例えばその引用では、『なぜ、校正の神様なのか? 頼まれないのに、大作家の著書をつぶさに点検し、誤字や誤植を見つけては、その作家に送りつけた。大作家を始め数多くの作家を知己に持ってゐたのはこの為めであった。作家たちは、神代の力量を認めて、次の著作には彼の校正を求め、自然と校正に関する権威といふ風に扱はれ出し、何時か神様の尊称を呈上された』(廣瀬千香「私の荷風記」)とあり、『神代種亮には逍遥や荷風と格別に昵懇なのだと、装う癖が度を過ぎて強かったのではないか』と推察され、神代はまさに『校正家、とでも言うより仕方のない畸人伝中の人。校正の名人と自称して知名の文士や学者などに擦り寄り、ひとかど文人として振舞う、この世界に何時の時代にもよくある型タイプである』(谷沢永一「文豪たちの大喧嘩――鷗外・逍遥・樗牛」)と酷評されてある。但し、筆者の森氏はこれらの批判に対し、『なるほど、多分それが一半ではあったらう。特に後年、人たる身で神樣呼ばはりされるやうになってはつけ上がらずにゐる方が難しからう(それゆゑ後には荷風からも疎んじられたりする)。けれど、取り卷き連の知友氣取りはよくあることでも名士に近づくに校正を以てすることは誰でも能く爲す所ではないし、はじめ頼まれもせぬうちから正誤を送りつけた初心までを賣名心のみと取るのは酷である。それは作家に取り入る魂膽もあったかしれないが、他面で校正者の性分として、思惑拔きに、間違ひを見つけると默ってをられないといふことがある。それが愛讀する書であれば、なほさら。むしろ普通は著者に誤謬を細かく指摘すれば嫌はれかねぬものを、歡迎されぬと知りながら訂さずにおかない、已むに已まれぬこの氣性。それが、校正癖といふものではないか。必也正名乎(かならずやなをたださんか)(『論語』子路第十三)』と綴られ、神代を『讀書人の業と言ふべき』『コレクトマニア correctomania――即ち校正癖』の持ち主であったのだと位置づけておられる。一つの中立的な評価というべきであろう。但し、冥界の芥川龍之介が、神代が「澄江堂遺珠」の跋を書いた事実をどう思っているかを考えるとやや気持ちとしては複雑である。確かに芥川の諸作品集の校正や彼の「近代日本文芸読本」の影に彼の姿が親しげに見え隠れすることは事実である。しかし例えば、大正一三(一九二四)年八月十九日附小穴一游亭(隆一)宛(旧全集書簡番号一二三六)には、神代が校正した前日公刊された自身の短編作品集「黄雀風」(新潮社刊)に対して、『黄雀風一讀。神代の校正に少々憤慨してゐる』と記している。作者自身が『憤慨してゐる』というのは明らかに神代が原文を弄ったり、とんでもない思い込みのルビを附してあったものとしか思われず、そのような越権行為を無断で平気で確信犯でやってしまう校正者は、これは「神様」どころか「校正職不適格者」であることは最早、言を俟たない。

「三つの寶」没後の昭和三(一九二七)年六月二十日改造社刊。遺作ながら、芥川龍之介唯一の童話集となった。佐藤春夫の序文(後に全文を掲げる)や装幀挿画を担当した小穴隆一の跋を読むと、この作品集の企画が芥川龍之介生前に行われていたことが明記されており、二人ともに龍之介自身もこの本の出るのを樂しみにしていたことを記している。小穴跋には『芥川さんと私がいまから三年前に計畫したものであ』ると企画期日も明記されているが、現在の諸研究ではこの作品集の企画時期は特定されていない。なお、小穴の跋は子どもに向けて書いており、『著者の、芥川龍之介は、この本が出來あがらないうちに病氣のために死にました』と記しているのが、哀感をそそる。収録作品は「白」「蜘蛛の糸」「魔術」「杜子春」「アグニの神」「三つの宝」の六篇である。小穴の挿画が出色。

『その中に讀み落した活字が一つあった。「魔術」の中に「骨牌」とか「金貨」とかいふ語があつて、その次に「札」といふ字が出て來るのでルビが「さつ」となつてゐたのを看落したのである』これは「魔術」(リンク先は私の電子テクスト)の後半部で主人公が「骨牌(かるた)」(トランプ)をするシークエンスに出る三ヶ所の「札(ふだ)」(カード・手札(てふだ))の語を指す(この三箇所総てか一箇所かは不明。因みに調べてみると「魔術」には「骨牌机(かるたづくゑ)」という文字列があるが、ここに記された内容とは異なるし、「机」を「札」とやらかしたものを見落としていたら、幾らなんでも「校正の神様」も堕天するからあり得ない)。あまり知られている事実は思われないが、文学作品の初出ルビというのは、実は泉鏡花のように作者自身が総ルビの原稿を書くことは極めて稀れであり、作者自身が特に難読若しくは誤読防止のために特に明記した場合を除き、殆んどは校正者が附していたのである。

『佐藤春夫さんが「誤植を一つ發見して直して置いた」と序文に書いてゐるのは之を指してゐる』以下、佐藤春夫の序(独立頁大標題は「序に代えて」で見出し題が「他界へのハガキ」である)全文を示す。底本は「名著復刻 日本児童文学館」(昭和四七(一九七二)年ほるぷ社刊)の復刻版「三つの寶」を用いた。但し、底本は総ルビであるが、誤読の虞れは殆んどないと判断し、二箇所を除き略してある)。

   *

 序に代へて

他界へのハガキ

  芥川君

  君の立派な書物が出來上る。君はこの本の出るのを樂しみにしてゐたといふではないか。君はなぜ、せめては、この本の出るまで待つてはゐなかつたのだ。さうして又なぜ、ここへ君自身のぺンで序文を書かなかつたのだ。君が自分で書かないばかりに、僕にこんな氣の利かないことを書かれて了ふぢやないか。だが、僕だつて困るのだよ。君の遺族や小穴君などがそれを求めるけれど、君の本を飾れるやうなことが僕に書けるものか。でも僕はこの本のためにたつた一つだけは手柄をしたよ。それはね、これの投了の校正刷を讀んでゐて誤植を一つ發見して直して置いた事だ。尤もその手柄と、こんなことを卷頭に書いて君の美しい本ときたなくする罪とでは、差引にならないかも知れない。口惜(くや)しかつたら出て來て不足を云ひたまへ。それともこの文章を僕は今夜枕もとへ置いて置くから、これで惡かつたら、どう書いたがいいか、來(き)て一つそれを僕に教へてくれたまへ。ヸリアム・ブレイクの兄弟がヸリヤムに對してしたやうに。君はもう我々には用はないかも知れないけれど、僕は一ぺん君に逢ひたいと思つてゐる。逢つて話したい。でも、僕の方からはさう手輕るには――君がやつたやうに思ひ切つては君のところへ出かけられない。だから君から一度來てもらひ度いと思ふ――夢にでも現にでも。君の嫌だつた犬は寢室には入れないで置くから。犬と言へば君は、犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね。それを君が書きながら一瞬間、君が僕のことを思つてくれた記録があるやうで、僕にはそれがへんにうれしい。ハガキだからけふはこれだけ。そのうち君に宛ててもつと長く書かうよ。

 下界では昭和二年十月十日の夜   佐 藤 春 夫

   *

この「他界へのハガキ」に二ヶ所だけ注しておく。

・「ヸリアム・ブレイクの兄弟がヸリヤムに對してしたやうに」サイト「Digital English and American Poetry Archive」の「ブレイクの生涯」に、ウィリアムは実弟ロバートに彫版術などを教えたが、『まもなく病死する。ロバートが亡くなってから、ブレイクはロバートの霊が天井を抜けて昇天するのを見たと言っている』とある。この辺のことを指すか。

・「犬好きの坊ちやんの名前に僕の名を使つたね」本作品集冒頭にも載る「白」(リンク先は私の「□旧全集版及び■作品集『三つの寶』版」電子テクスト)の主人公は「春夫」である。

『最初に「お時宜」と書いたものを後に私が注意したので「お時儀」と改めたことから推考すると、恐らくは「露地」と書いただらうと思はれる』これは恐ろしく傲慢な発言である。こんな跋文は私なら御免蒙りたい。

『五十二頁七行の「雁皮」は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い』ともかくも厭な感じの跋ではあるが、これだけは目から鱗であった。詳しくは前掲の、

   汝と住むべくは下町の

   晝は寂しき露路の奥

   古簾垂れたる窓の上に

   鉢の雁皮も花さかむ

             戲れに⑵

に附した私の注(これに続く佐藤の評言の後に附してある)を参照されたい。

『「丸善の二階」と題する短歌には「幽けみ」と「幽」の字が用ゐてある』この一首は、大正十一(一九二二)年三月発行の『中央公論』の「現代芸術家餘技集」の大見出しのもと、「芥川龍之介」の署名で掲載された「我鬼抄」の短歌パート(他に俳句三十句と画賛二)に載る、

  丸善の二階

しぐれふる町を幽(かそ)けみここにして海彼(かいひ)の本をめでにけるかも

である。これは葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」には、

  丸善の二階

しぐれ降る町を靜けみ此處ここにして海彼(かいひ)の本を愛でにけるかも

の形で載る。「靜けみ」は「静かなので」の意(但し、これは「しづけみ」と読むのが普通で「かそけみ」とは読まないであろう)。「み」は接尾語で形容詞語幹に付いて原因理由を表す。葛巻末尾に『(大正八年頃-大正十二年頃 未発表)』と創作推定年が示されているから、後者が先行作か改案かは不明である。以上については私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集」を参照されたい。

「朝鮮古銅活字」古活字版の銅活字のこと。但し、金属業者間では表面の劣化がない非情に品質の良い銅材を上銅・上故銅と呼ぶが、「故」は縁起がよくないとして「古銅」と表記するらしい。さすれば、これは「古い」意味以外に「上質の」の意も含まれているようでり、銅活字自体が非常に高価なものであったろうから、朝鮮古銅活字自体はそうした稀少価値のブランド・ステイタスも持っているものなのであろう。] 

 

       圖版目次

     一 白衣像   小穴隆一筆

     一 南支漫遊中驢背の著者

     一 漫畫筆蹟

     一 詩稿筆蹟

 

 (下島製本)

昭和八年三月十五日印刷    定價金貮圓拾錢

昭和八年三月二十日發行

          著者   芥川龍之介

          編者   佐藤春夫

               東京市神田區一ツ橋通町三番地

  (佐藤印)   發行者  岩波茂雄

               東京市神田區錦町三丁目十七番地

          印刷者  白井赫太郎

               東京市神田區一ツ橋通町三番地

          發行所  岩波書店

[やぶちゃん注:奥附。底本では「(下島製本)」を除く全体が黒枠で囲われている。佐藤の印は岩波の社票「種蒔く人」の印刷物の上に捺印されてある。以下、岩波書店刊行の芥川龍之介の「西方の人」「大導寺信輔の半生」「文藝的な、餘りに文藝的な」(以上は単行本)「偸盗」「侏儒の言葉」(以上二冊は岩波文庫版)の広告が各解説附きで一頁宛に続くが、略す。]

澄江堂遺珠 本文Ⅶ

この身は鱶の餌ともなれ

汝を賭け物に博打たむ

ぴるぜん・まりあも見そなはせ

汝に夫あるはたへがたし

          船乘りのざれ歌

 

   嗟(ああ)人を殺さざりし彼は遂に自らを殺せし

   なるか。非か。

 

[やぶちゃん注:「びるぜん・まりあ」はポルトガル語の「virgin maria」で聖処女マリアのこと。]

 

 

ひとをまつままのさびしさは

時雨かけたるアーク燈

まだくれはてぬ町ぞらに

こころはふるふ光かな

 

[やぶちゃん注:「アーク燈」アーク放電による発光を利用した光源。特に電極に炭素棒を用いたもので空気中で放電させるアーク放電灯を指し、明治初期には街路灯に用いられた。]

 

   その他單獨の短章にして作者自身×印を

   以て題に代へたる作十章あるも、こは完作

   として既に全集中に収錄されあるを以て、

   ここには抄出することなし。ただ二三句

   のみに止まりて未だ章を成さざれども趣

   に富めるものを玉屑として拾ひ得て試み

   に次に示さんか。

 

[やぶちゃん注:ここで佐藤が「その他單獨の短章にして作者自身×印を以て題に代へたる作十章ある」と言っているのはやや問題がある。確かに佐藤は「こは完作として既に全集中に収錄されある」と述べているから、現在の芥川龍之介の詩歌として旧全集の詩歌パート或いは断片に収録されているものを指している。しかし現在は「作者自身×印を以て題に代へたる作」は数作しかなく、旧全集時代に既に仮題や断片という呼称で載せられてしまい、佐藤が言っているものが現在の旧全集に載っているものと完全一致し、漏れがない、とは誰も断言出来ないという点で問題なのである。さらにお気づきになった方もおられると思うが、この部分は前の佐藤の解説の流れから言うと、最早、所在不明となった「第一號」ノートの中の詩を言っているように読めてしまうのである。そうすると、「ただ二三句のみに止まりて未だ章を成さざれども趣に富めるものを玉屑として拾ひ得て試みに次に示さんか」という文句は、素直に読むと、「第一號」ノートの中にそのようなものがあるように読めてしまうという点である。但し、以下で佐藤が引くのは、実は新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート1』、佐藤が言う「第二號」ノートのものではある。佐藤はここでそうした厳密な物謂いをしなかったのだというだけのことであれば、それはそれでよい。しかしだからこそ、「第一號」ノートを喪失している我々は、原「澄江堂遺珠」の全貌を見てはいないのかも知れないという可能性を、やはり残すとも言えるのである。]

 

栴檀の木の花ふるふ

花ふるふ夜の水明り

水明りにもさしぐめる

さしぐめる眼は     

 

こぼるる藤に月させど

心は      



しみらに雪はふりしきる

      秋の薔薇に

 

[やぶちゃん注:「しみらに」は「終(しみ)らに」という副詞で、一日中、間断なく。絶えずひっきりなしに、の意。]

 

   この類なほ入念にこれを求めなば、さすが

   に一台の名匠が筆端より出でし字々句々

   皆その片鱗神采陸離たらざるはなく、ただ

   に二三にして足るべからず、就中、

 

[やぶちゃん注:「神采」「しんさい」と読み、原義は精神と姿であるが、特に優れた風貌の意で用いる。神彩。「陸離」は、美しく光り煌(きら)めくさま。]

 

ゆふべととなれば海原に

波は音なく

君があたりの

ただほのぼのと見入りたる

 

死なんと思ひし

 

入日はゆる空の中

涙は落     

 

部屋ぬちにゆうべはきたり

椅子卓(つくゑ)あるは花瓶(はながめ)

ものみをはうつつにあらぬ(この三行消)

 

[やぶちゃん注:この三篇はとんでもない詩篇なのである。何故か?――これは現在、旧全集中にも、また新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』にも、如何なる芥川龍之介の「詩歌」集成の中にも――見出すことが出来ない文字列だからである!――佐藤はこれらを何から引用したのか? 新全集が佐藤の言う「第二號」「第三號」と同一なのだとすれば、幻の「第一號」の可能性しかない。若しくは実は新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の言う『ノート1・2』というのは完本ではない可能性もある――ということになるのではあるまいか? 識者の見解を俟つものではあるが、やはり「澄江堂遺珠」は永遠の夢魔なのではあるまいか?

 

   これらの句はやや長き一篇の連續的碎片

   かとも見るべく、一頁中に或は三行或は

   三四行置きに散記せるもの、或は故人が「死と

   戲れたり」と稱する鵠沼の寓居の一夕を

   詠出せんとせしに非ざるかを疑はしめて

   唐突たる「死なんと思ひし」の一句は作者が

   後日の「美しけれどそは悲しき」かの自裁あ

   るを以てか、慄然として人を寒からしむ。

   かく閲し來れば一把の未定詩稿は故人が

   心中の消息を傳へて餘りあり。語らずし

   て愁なきに似たらし故人が雙眸に似て幽

   麗典雅なるその遺詩は最も雄辯なる告白

   者に優るの觀を呈するに非ずや。

   擱筆せんとして感あり、乃ち拙詩一篇を附

   記す。

 

   友が歌草搔き集め

   搔きあつめつつ思ふかな

   みやび男とのみおもひしを、

   たとへばわれらもののふの

   戰の庭に倒れたる

   君を見出でて紅にそむ

   君が傷手をしらべ見るかと。

 

      昭和辛未十二月十四日夕、春夫記す。

澄江堂遺珠 本文Ⅵ

 

 

 

 老を待たんとする心と妬み心と

 

 

 

雨にぬれたる草紅葉

侘しき野路をわが行けば

片山かげにただふたり

住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

 

   ふたりかの草堂に住み得て願ひは農に老

   いんといふにありしが如し。――

 

われら老いなばもろともに

穗麥もさはに刈り干さむ

 

夢むは

穗麥刈り干す老ふたり

明るき雨もすぎ行けば

虹もまふへにかかれかし

 

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

 

明るき雨のすぎゆかば

        {らじや

虹もまうへにかか{れとぞ(消)

        {れかし(消)

 

ひとり胡桃を剝き居れば

雪は幽かにつもるなり

ともに胡桃は剝かずとも

ひとりあるべき人ならば

 

   見よ我等はここにしてまた「或る雪の夜」に

   接續すべき一端緒を發見せり。宛然八幡

   の藪知らずなり。

 

[やぶちゃん注:「宛然」音は「ゑんぜん」であるが、ここは「さながら」と訓じているように思われる。まさにそれ自身と思われるさま。そっくりであるさま。

「八幡の藪知らず」「やはたのやぶしらず(やわたのやぶしらず)」と読む。千葉県市川市八幡、現在の市川市役所前にある森の通称。古くから、禁足地」とされ、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名な地で、転じて迷うことの譬え、ラビリンス、迷宮の意。]

 

何か寂しきはつ秋の

日かげうつろふ靄の中

茨ゆ立ちし鵲か

ふと思はるる人の顏

 

[やぶちゃん注:「ゆ」上代の格助詞。基本は動作・作用の起点を示すから、~から、~より。また、移動する動作の経過する場所を示して、~を、~を通ってであるが、ここは「立ちし」とあるから、前者でよい。

「鵲」狭義にはスズメ目カラス科カササギ Pica pica を指し、日本へは十六世紀末頃に朝鮮から持ち込まれたとされ、筑紫平野で繁殖するが、古典的世界では現在のコウノトリ目サギ科サギ亜科アオサギ Ardea cinerea などを指すと考えられている。龍之介は歌語として、七夕の架け橋を作る、愛する者同士を繋ぐ伝説の鳥と用いていると考えてよいであろう。]

 

夢むは遠き野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

仄けき雨の過ぎ行かば

虹もまうへにかかるらむ

 

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

      雨はすぐるとも

虹は幽     

我らが末は野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

 

[やぶちゃん注:「      雨はすぐるとも」の空欄のみ、標記通りの正長方形で開放終わりは開放していない。]

 

虹は幽かにかかれかし

たとへばとほき野のはてに

穗麥刈り干すわれらなり

 

われらは今日も野のはてに

穗麥刈るなる老ふたり

雨に濡るるはすべもなし

幽かにかかる虹もがな

 

雨はけむれる午さがり

實梅の落つる音きけば

ひとを忘れむすべをなみ

老を待たむと思ひしか

 

ひとを忘れむすべもがな

ある日は古き書のなか

(ママ)

〔香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明〕も消ゆる

白薔薇の

老いを待たむと思ひしが

 

[やぶちゃん注:「〔香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明〕」は二行ポイント落ちの割注。便宜上、〔 〕を附したが、底本では括弧は存在しない。]

 

ひとを忘れむすべもがな

ある日は秋の山峽に

 

   ……中絶して「夫妻敵」と人物の書き出しあ

   りて、王と宦者との對話あるう戲曲的斷片を

   記しあり……

 

[やぶちゃん注:「宦者」宦官。]

 

忘れはてなむすべもがな

ある日は      

ゆうべとなれば

物の象(かたち)はまぎれ

 

物の象のしづむごと(消)

老さりくれば     

 

牧の小川も草花も

夕となれば煙るなり

われらが戀も      

牧の小川も草花も

夕となれば煙るなり

わが悲しみも

老さりくれば消ゆるらむ

 

夕となれば家々も

畑なか路も煙るなり

今は忘れぬおもかげを

老さりくれば消ゆるらむ

 

ゆうべとなれば波の穗も

船の帆綱も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老さりくれば消ゆるらむ

 

ゆうべとなれば波の穗も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

夢にまがふは何時ならむ

 

夕となれば家々も

畑なか路も煙るなり

今は忘れぬ     

老され來れば消ゆるらむ

 

   別にただ一行

   「今は忘れぬひとの眼も」

   と記入しあるも、「ひとの眼も」のみは抹殺せ

   り。

   かくて、老の到るを待つて熱情の自らなる

   消解を待たんとの詩想は遂にその完全な

   る形態を賦與されずして終りぬ。この詩

   成らざるは惜むべし。

   然も甚だしく惜むに足らざる似たり。

   最も惜むべきは彼がこの詩想を實現せず

   してその一命を壯年にして自ら失へるの

   一事なりとす。

   假りに「ねたみ心」とも題しつべき數篇の小

   曲を發見す。

   試みにこれを左に列記せん。

 

ひとをころせどなほあかぬ

ねたみごころもいまぞしる

垣にからめる薔薇の實も

いくつむしりてすてにけむ

 

垣にからめる薔薇の實も

いくつむしりて捨てにけむ

ひとを殺せどなほあかぬ

ねたみ心に堪ふる日は

 

人を殺せどなほ飽かぬ

妬み心を知るときは

山になだるる嵐雪

松をゆするも興ありや

 

   同じ心をうたひて「惡念」と題したるは

 

松葉牡丹をむしりつつ

人殺さむと思ひけり

光まばゆき晝なれど

女ゆゑにはすべもなや

   *

夜ごとに君と眠るべき

男あらずばなぐさまむ

 

  右二句はこれを抹殺しあり。蓋しその發

  想のあまりに粗野端的なるを好まざるが

  故ならんか。然もこの實感はこれは歌は

  ではやみ難かりしは既に「惡念」に於て我等

  これを見たり。更に、册子第一號中

 

微風は散らせ柚の花を

金魚は泳げ水の上を

汝は弄べ畫團扇を

虎疫(ころり)は殺せ汝が夫(つま)を

                     夏

 

   と云ひ、なほ別に一佳篇を成すあり。――

 

[やぶちゃん注:以上の一篇の「微風は散らせ柚の花を」のところで改頁となり、ここにこの一篇総てを示した以下の図版が入る。これはそれを活字に起こすと、

 

 微風は散らせ柚の花を

 金魚は泳げ水の上を

 汝は弄べ 画團扇を

 虎疫(ころり)は殺せ汝が夫(つま)を

       夏

 

と三行目に有意な字空きがあることが分かる。]

 

Jikihitusikou

澄江堂遺珠 本文Ⅴ

Akutagawarakugaki

 

[やぶちゃん注:以上は芥川龍之介の原稿にある龍之介自身の落書。底本画像を見易く横に補正した。以下は、底本の五十四頁の佐藤春夫による図版及び本書の例の上部に配された芥川龍之介のデッサン、その他、草稿のメモとそれについての解説である。このうち、芥川龍之介メモ類は頁の左半分上方に横書となっており、その下方に佐藤が『蛇足』と称する解説が入っている。]

 

 澄江堂がノートブツク中には筆のすさびと見るべき戲畫のたぐひ或は隨想のメモあることは既に述べたるが如し。本文上部に用ゐたる裝飾はその筆のすさびの一例を利用したるものにして原册にも同じく上欄にカツトの如くデザインしあるものなり。また次に掲ぐるは隨感的メモの一例にて下方なるは編者が蛇足なり。

 

[やぶちゃん注:以下、横書の龍之介のメモ。本ブログ版では綴りのフォントは底本に準じていない。]

Kunst

1) Kunst Ausdruck ナリ、

  單ナル Liebe ニ非ズ。

2) Ausdruck ハ即、Eindruck ナリ。

3) Ausdruck ヲ Wesen トスル

  
 Kunst ニ Technique ナカルベ

   カラズ( Cézanne ノ例)

4) Technique ハ手段ナリ、

  
 Ausdruck  ハ目的ナリ、本末顚

   倒ノ弊アルベカラズ。

 

[やぶちゃん注:概ねドイツ語であるが、「Technique」の綴りはフランス語である。ドイツ語は「Technik」。フランス語経由で入った外来語だからであろうか。但し、フランス語「Technique」自体もフランス語にとって外来語で、もとはギリシャ語の「techne」(テクネー)で「technique」は「techne」の形容詞形「technikos」(テクニコス)が直接の語源である。参照した独協医科大学ドイツ語教室のサイト内のこちらのエッセイによれば、ギリシャ語の「technikos」は一旦、「technicus」(テクニクス)というラテン語形に変化し、それがフランス語への橋渡しとなったらしい。則ち、「technikos」(ギ)→「technicus」(ラ)→「technique」(仏)→「Technik」(独)や「technique」(英)となった旨の記載がある。英語学が専門の芥川にとってはフランス語として知られた違和感のない綴りだったのであろう。

 新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁21』を見ると、

   *

Kunst

1)  Kunst Wesen Ausdruck ナリ單ナル Liebe ニ非ズ。

2)  Ausdruck ハ即 Eindruck ナリ、

3)  Ausdruck Wesen トスル Kunst Technique ナカルベカラズ( Cézanne ノ例、

4)  Technique ハ手段ナリ Ausdruck ハ目的ナリ本末顚倒ノ弊アルベカラズ

   *

これを見ると「1)」の箇所に「ノ Wesen」が脱落しているのが分かる。一応、以下の訳は「Kunst Wesen Ausdruck ナリ」を正しく訳しているから、

 

1) Kunst   Wesen  Ausdruck ナリ、

  
 單ナル Liebe ニ非ズ。

 

と正しいものを示しておくこととする。

 以下、佐藤の縦書の解説。「ザ」の右の半角「?」は、意味が通らないために佐藤が補訂した『(ラザ)』に対する佐藤の疑問符である。]

 

一 藝術ノ本質ハ表現ナリ、單ナル愛ニ非ズ。

二 評言ハ即、印象ナリ。       ?

三 表現ヲ本質トスル藝術ニ手法ナカ(ラザ)ルベカラズ(セザンヌノ例)。

四 手法ハ手段ナリ、表現ハ目的ナリ、本末顚倒ノ弊アルベカラズ。

澄江堂遺珠 本文Ⅳ

[やぶちゃん注:次の左頁が次の佐藤春夫による一行標題。中央。]

 

 

 

 或る雪の夜

 

 

 

   次に澄江堂手記册より抄錄せんとするは

   種々に書き改められて然も終に完成せざ

   る一小曲なり。その内容に從ひて假に「或

   雪の夜」と題す。甚しく出色の文字とも

   見えざれども、故人がこれがために濺げる

   苦心はこれを閑却し難きこものあるを思ひ

   てこれを捨てざるなり。册子中このあた

   りを繙き行けば詩に憑かれたるがごとき

   故人の風貌のそぞろに髣髴たるものある

   に非ずや、これを以下に見られよ。

 

[やぶちゃん注:「繙き」「ひもとき」と読む。]

   *

かそかに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

こよひはきみも冷やかに

ひとりねよとぞ祈るなる

 

   右の一章は左上より右下へかけて斜なす

   直線によつて抹殺されあるものなるが、す

   ぐ次の頁には第二行を記入せざる外は一

   字も相違なきものを再記して同じく抹殺

   せり。その直あとより

 

かそけき雪のつもる夜は

ココアのもさめやすし

こよひはきみもひややかに

ひとりねよとぞいのるなる

 

   同じく抹殺せるも尚大同小異のものの記

   入と抹殺を反復すること左の如し。

 

 

かそかに雪のつもる夜は

ココアの湯氣もさめやすし

きみもこよひは冷やかに

ひとりねよとぞ祈るなる

 

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

こよひ       

こよひはも冷やかに

獨りねよとぞ祈るなる

 

[やぶちゃん注:この三行目の空欄は底本では下部の横罫がない開放型である(凡愚の私ではどうしてもそれをワードでうまく表示出来なかった。御寛恕あれかし。これでも文字を透明にする(ブログでは見えてしまっているのはご愛嬌とお許しあれ)などして非常に苦労して作った)。後掲する新全集版『「澄江堂遺珠」関連資料』を見ると、「こよひ」で始まる幾つかの詞章のバリエーションが見えるから、そうした不定複数の抹消詞章を暗に示すものと私には思われる。少なくともこれは何字分を抹消したか確定出来ないという謂いでは「ない」と考えてよいよいと思う。以下、最後の二箇所(注を施してある)以外は総てがこの下方開放の長方形を成すが、以下は注しない。くどいが、このマスの大きさや開放・閉鎖は抹消字数を特定させるものではないことに留意されたい。

 

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

今宵はひとも冷やかに

ひとり寢よとぞ祈るなる

 

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

こよひはひとも冷やかに

ひとり寢よとぞ祈るなる

 

   右は兩章とも×を以て抹殺せり。その後

   二頁の間は「ひとりねよとぞ祈るなる」は跡

   を絶ちたるもこは一時的の中止にして三

   頁目には再び

 

かすかに(この行――にて抹殺)

幽かに雪の

 

   と記しかけてその後には

   「思ふはとほきひとの上

    昔めきたる竹むらに」

   とつづきたり。さてその後の頁にはまた

 

幽に雪のつもる夜は

 (一行あき)

かかるゆうべはひややかに

ひとり寢ぬべきひとならば」

 

   (「 」中の八字を消してその左側に「ねよとぞ思

   ふなる」と書き改めたり。

   さてこの七八行後には

 

雪は幽かにきえゆけり

みれん     

 

   とありて

 

   *

夕づく牧の水明り

花もつ草はゆらぎつつ

幽かに雪も消ゆるこそ

みれんの      

 

   と一轉して、さて

 

水は明るき牧のへも

花もつ草のさゆらぎも

みれんは牧の水明り

花もつ草の      

 

   と別作の努力にうつりしも次の頁九行目

   あたりより三たび

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

幽かにいねむきみならば

 (一行あき)

ひとりいぬべききみならば}併記して對比

幽かにきみもいねよかし }推敲せしか。

 

[やぶちゃん注:「}」は底本では二行に亙る大きな「}」である。]

 

   その後四頁目より改めて反復連續するも

   の次の如し。

 

ひとり     

雪は幽かにつもるなり

きみも今宵はひややかに

ひとりいねよと祈りつつ

 

幽かに雪のつもる夜は

ひとり胡桃を剝きにけり

きみも今宵はひややかに

ひとり寢ねよと祈りつつ

 

幽かに雪のつもる夜は

 ココアを啜りけり(消)

ひとり胡桃を剝きゐたり

こよひは君も冷やかに

ひとりいねよと祈りつつ

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

幽かにひとりいねよかし

ひとりいねよと   

 

幽かに雪のつもる夜は

君も幽かにいねよかし

ひとり      

しら雪に夕ぐれ竹のしなひかな

君もかなしき小夜床に

ひとり      

 

       しら雪も

幽かに今はつもれかし

きみも(消)

幽かにひとりいねよかし

 

かかるゆうべはきみもまた

幽かにひとりいねよかし

 

ゆうべとなればしら雪も

幽かにおほへかし

さては(消)

ゆうべかなしき

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

「思ふはとほきひとの上」

幽かにひとりいねてがな

 

   の如き窮餘の句法も現はるるに到つて未

   だ適歸するところを見出し得ざりしも、更

   に再起して

 

ひとり葉卷をすひをれば

雪は幽かにつもるなる

こよひはひともしらじら

ひとり小床にいねよかし

ひとりいねよと祈るかな

 

   幾度か詩筆は徒らに彷徨して時には「いね

   よ」に代ふるに「眠れ」を以てし、或は突唐に「な

   みだ」「ひとづま」等の語を記して消せるも

   のなどに詩想の混亂の跡さへ見ゆるも尚

   筆を捨てず、最後には再び

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

「思ふはとほきひとの上」

幽かにひとりいねてがな

 

   のごとき無意味なる反復ありて然も詩魔

   はなほ退散することなく更に第何囘目か

   を出直して

 

ひとり葉卷をすひをれば

雪はかすかにつもるなり

こよひはひともしらじらと

ひとり小床にいねよかし

ひとりいねよと祈るかな

 

ひとり葉卷をすひ居れば

雪はかすかにつもるなり

かかるゆうべはきみもまた

ひとり幽かにいねよかし

 

ひとり葉卷をすひ居れば

雪はかすかにつもるなり

かなしきひともかかる夜は

幽かにひとりいねよかし

 

(ひとり胡桃を剝き居れば

(雪は幽かにつもるなり

(ともに胡桃を剝かずとも

(ひとりあるべき人ならば

 

   とあり、この最後の意を言外にのこしたる

   一章には大なる弧線を上部に記して他と

   區別し、些か自ら許せるかの觀あり。かく

   て第二號册子の約三分の二はこれがため

   に空費されたり。徒らに空しき努力の跡

   を示せるに過ぎざるに似たるも、亦以て故

   人が創作上の態度とその生活的機微の一

   端とを併せ窺ふに足るものあるを思ひ敢

   て煩を厭はずここに抄錄する所以なり。

 

[やぶちゃん注:最後の詩篇の頭の部分は佐藤が注するように、底本では巨大な一つの「(」(弧線)である。]

 

 

 

   又册子第一號に「雪」と題せる

 

初夜の鐘の音聞ゆれば

雪は幽かにつもるなり

初夜の鐘の音消えゆけば

汝はいまひとと眠るらむ

 

   とあるは前記苦心の一章の完成の姿とも

   見るを得べし。

 

   なほ

 

   *

ひとり山路を越えゆけば

月は幽かに照らすなり

ともに山路を越えずとも

ひとり眠ぬべき君ならば

 

   この一章も前期の「或る冬の夜」の連作につ

   づきて記入されてある別作なるが、これ亦そ

   の情緒に於ては「或る冬の夜」の連續と見る

   べし。

 

   ここにこれを補ふ所以なり。右の一章に

   つづきて左の斷章あり。これ亦連作とし

   てこれを見るとき感慨甚だ深からずや。

 

雨に濡れたる草紅葉

侘しき野路をわが行けば

片山かげにただふたり

住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

 

きみとゆかまし山のかひ

山のかひには日はけむり

日はけむるへに古草屋

草屋にきみとゆきてまし

 

きみとゆかまし山のかひ

山のかひには竹けむり

竹けむるへにうす紅葉

うす紅葉ちる     

 

きみと住みなば  }

          山の峽

ひとざととほき(消)

山の峽にも日は煙り

日は煙る     

 

[やぶちゃん注:「}」は底本では二行(空きなし)に亙る一つの括弧で、その下に「山の峽」が配されてある。]

 

   即ち知る個人はその愛する者とともに世

   を避けて安住すべき幽篁叢裡の一草堂の

   秋日を夢想せる數刻ありしことを。

   これを册子第一號中に戲れに⑴⑵と題し

   たる左の二章

 

汝と住むべくは下町の

水どろは靑き溝づたひ

汝が洗湯の徃き來には

晝もなきづる蚊を聞かむ

             戲れに⑴

 

汝と住むべくは下町の

晝は寂しき露路の奥

古簾垂れたる窓の上に

鉢の雁皮も花さかむ

             戲れに⑵

 

[やぶちゃん注:ここに図版「漫畫筆蹟」が入るが、掲載は注の後に回した。]

 

   と對照する時一段の興味を覺ゆるなるべ

   し。隱栖もとより厭ふところに非ず、ただ

   その地を相して或は人煙遠き田圃を擇ば

   んか、はた大隱の寧ろ市井に隱るべきかを

   迷へるを見よ。然も「汝と住むべくは」の詩

   情に於ては根蒂竟に一なり。

 

[やぶちゃん注:「根蒂」は「こんたい」と読む。原義は根と蔕(へた)で、転じて、物事の土台、よりどころの意。根蔕。「雁皮」は古く奈良時代から紙の原材料とされてきたフトモモ目ジンチョウゲ科ガンピDiplomorpha sikokiana を指し、初夏に枝の端に黄色の小花を頭状花序に七から二十、密生させるものであるが(グーグル画像検索「雁皮の花」)、どう考えても地味な花で、それをまた鉢植えにするというのは、如何にも変わった趣味と言わざるを得ない。そうした不審を解いてくれるのが、後掲する本テクストの末尾の神代種亮の「卷尾に」という文章で、神代はそこで「雁皮」について、これ『は事實から看て明かに「眼皮」の誤書である。雁皮は製紙の原料とする灌木で、鉢植ゑとして花を賞することは殆ど罕な植物である。眼皮は多年生草本で、達磨大師が九年面壁の際に睡魔の侵すことを憂へて自ら上下の目葢を剪つて地に棄てたのが花に化したのだと傳へられてゐる。花瓣は肉赤色で細長い。』と記している(「罕な」は「まれな」と読み、「稀」と同義。「目葢」は「まぶた」)。まさにこれは目から鱗である。これはジンチョウゲ科のガンピではなく、中国原産で花卉観賞用に栽培されるナデシコ目ナデシコ科の多年草である別なガンピ(岩菲(がんぴ)) Lychnis coronata であったのである。こちらのガンピ(岩菲)は茎は数本叢生し、高さは四十~九十センチメートルほどになり、卵状楕円形の葉を対生させ、初夏に上部の葉腋に五弁花を開くが、花の色は黄赤色や白色といった変化に富む。グーグル画像検索「Lychnis coronataでその鮮やかな花を見られたい。これは確かに神代の言う通り、「雁皮」ではなく「岩菲」に違いない。

澄江堂遺珠 本文Ⅲ

     劉園

人なき院にただひとり

古りたる岩を見て立てば

花木犀は見えねども

冷たき香こそ身にはしめ

 

   右「劉園」は西湖劉莊の園に於ての口吟か。

 

[やぶちゃん注:【二〇一四年十二月二十三日改稿】私は旧全集の「詩歌二」で初めてこの詩を読んで以降、この「劉園」をずっと蘇州古城の西北にある明の嘉靖年間に徐時泰が建てた中国四大名園の一つである「留園」であると思い込んできた。それは「留園」は古えは「劉園」と書いたという事実、そして、芥川龍之介の「江南游記」の「二十 蘇州の水」の冒頭に(リンク先は私の注釈附電子テクスト)、

   *

 主人。寒山寺だの虎邱(こきう)だのの外にも、蘇州には名高い庭がある。留園だとか、西園だとか。――

 客。それも皆つまらないのぢやないか?

 主人。まあ、格別敬服もしないね。唯(ただ)留園の廣いのには、――園その物が廣いのぢやない、屋敷全體の廣いのには、聊(いささか)妙な心もちになつた。つまり白壁の八幡知(やはたし)らずだね。どちらへ行つても同じやうに、廊下や座敷が續いてゐる。庭も大抵同じやうに、竹だの芭蕉だの太湖石だの、似たやうな物があるばかりだから、愈(いよいよ)迷子になりかねない。あんな屋敷へ誘拐された日には、ちよいと逃げる訣にも行かないだらう。

   *

と述べていること(この詩の雰囲気とこの龍之介の述懐部が私には妙にしっくりと重なったのである)、そして何より実際に私も「留園」を訪れてその「漏窓」と言われる透かし窓や奇岩奇石の迷宮のような作りに素敵に異界を覚えたことによる鉄壁の確信なのであった。従って私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」では、

[やぶちゃん注:「劉園」明の嘉靖年間に徐時泰が建てた中国四大名園の一つ。私も行ったが「漏窓」と言われる透かし窓や奇岩奇石の迷宮のような作りに素敵に異界を覚えた。]

という注を附してきた。

 ところが今回、この芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」を電子化注釈する過程の中で、その確信が揺らいできたのである。問題はこの佐藤の注である。彼はこの「劉園」を蘇州古城の「留園」ではなく、『西湖劉莊の園』ではないかと注しているからであった。そこで中国滞在の長い教え子にこのことについて以下の質問を試みてみた。以下はその際の私の消息文の後半部分である。

   《引用開始》

私が注で言っているのは現在の蘇州古城の西北にある「留園」(但し、昔は「劉園」という呼称であったといいます)ですが、実は「西湖劉荘」と佐藤が注している方は、現在の「杭州西湖国賓館」の別称「劉荘」なのだろうと遅まきながら気づきました。私は単純に自分が気に入ったあの庭園の記憶と、この詩の持つ雰囲気から「留園」と完全に思い込んで注していたのですが、これは西湖の「劉荘」でしょうか? 私は西湖に行っていないので判断がつきません。しかし中国の観光サイトには「杭州西湖国賓館」について、

   *

西湖の西側にあって、三面が湖に臨んでいて、後ろが丁家山である。三十六万平米土地を占め、沿西湖の総長は二キロである。ホテルは緻密、調和、豪華な江南建築で有名になって、庭に小橋、水亭、古樹があり、建築物が緻密で、飾り付けが上品で、人文景勝もいっぱいあるので、「西湖第一の名園」という称号がある。

   *

とあり、これはもしかすると、佐藤の言う、現在の「杭州西湖国賓館」=「劉園」での感懐吟の可能性が出てきたのです。あなたは何度も西湖を訪問されているので、出来ればご判断を仰げればと思っています。

   《引用終了》

 これに対する教え子の返事を引用する。

   《引用開始》

西湖西岸の国賓館については、わたしもはっきりしたことは分かりません。西湖西岸にはここ数年の間に何度も足を運び、時には家族と、時には会社の同僚たちとゆっくり散策しました。ただし、国賓館そのものに入ったことがあったかどうか、定かに憶えていません。ただ、西湖のほとりと言えば、蘇州の、留園はもちろんいかなる庭園と比べてもスケールが断然異なります。西湖周辺というのは、まさに見はるかす限りの夢のような風景が広がり、私は何度訪れてもうっとりしてしまいます。そうですねえ、例えは悪いかもしれませんが、京都の庭園のせせこまさと、奈良の旧都跡との違いというのでしょうか(かなり偏見が入っています、すみません)。私は、留園の小世界で感慨にふける龍之介より、西湖畔の茫洋として天地の広がりに立ち尽くす龍之介の方が、今ありありと眼に浮かぶのです……

追伸 とりわけ西湖の西岸は、汀の線が入り組んでおり、波もほとんどなく鏡のようです。靄の立つ早朝や、霧雨に降り込められた風情など、まさしく絶品です。

   《引用終了》

この文面を眺めながら、私はこの一篇への注は書き直さねばならぬと感じた。私の中では偏愛する「留園」であって欲しいという無意識の力が働いたのであるが、そもそも龍之介は「江南游記」の上記の引用で「留園」と記している。彼が同じ「留園」を詩に詠んだとすれば、そこでは標題を「劉園」とせずに「留園」としたに違いない。とすれば、これはやはり――佐藤が注で推測し、教え子が述べるように実体としては実はせせこましい(実際にそれは事実である)「留園」とは比較にならない広大広角の西湖の「劉園」こそが、本詩のロケーションであった――と推定するのが正しいという結論に至ったからである。大方の識者の御批判を俟つものである。]

    *

欲識東坡狂醉處

至今泉聲

 

[やぶちゃん注:「欲識東坡狂醉處」は「識らんと欲す 東坡狂醉の處」、「至今泉聲」は「至今(しこん) 泉の聲」(今なお、往時より湧き出ずる泉の音が聴こえる)か。龍之介が訪ねた蘇東坡の旧跡としては西湖があり、「江南游記 六 西湖(一)」「江南游記 九 西湖(四)」などに蘇東坡の名が出る。特に前者の叙述には、先行する詩に用いられている「玫瑰(メイクイ)」の茶を飲むシーンや「畫舫」が登場する。]

    *

しらべかなしき蛇皮線に

小翠花(セウスヰホア)は歌ひけり

耳環は耳にゆらげども

きみに似たるを如何せむ

 

[やぶちゃん注:「小翠花」は別名于連泉(うれんせん)、龍之介の「上海游記」の「九 戲台(上)」「十 戲臺(下)」にも記される京劇の花旦(huādàn:可愛い若い女性役の男優。)の名優である。]

    *

みどり明るき芭蕉葉に

水にのぞめる家あまた

夾竹桃

薊花すぎ

アカシヤの落ち花

しつとりと黄な瓦踏む

 

 

  麥秀

げんげ野に羊雨空を仰ぎ

粉江の塔が見ゆる麥の穗のび

菜たね莢になる水中の鼻さき

石橋に草生ゆる農人の行かんともせず

そらまめ花さく中の墓なり

籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨

 

   右「麥秀」六句はその詩體と詩情とを異にす

   るとは云へ亦當然支那游記詩章中のもの

   なるべし。

 

[やぶちゃん注:当初、「澄江堂遺珠」のみで虚心坦懐に芥川龍之介の詩想を読み解こうとしたが、この詩の「粉江の塔」「水中」という語に忽ち行き詰ってしまった。「水中の鼻さき」?……まず、「粉江」で検索したが、龍之介の中国旅行の行程の中にこのような地名(或いは川の名前)は見出せなかった。そこで中国滞留の長い教え子に聴いたところ、「聴いたことがありません。これは本当に中国の地名ですか? 他に情報はありませんか?」との返事を得た。そこで、『「澄江堂遺珠」関連資料』の当該資料を探ってみると、驚くべきことが分かった。これは同資料の『ノート1』の『頁1』に載る以下の詩に該当するのだが(取り消し線は芥川龍之介による抹消を示す)、

 

   麥 秀

 

げんげ野に羊雨空を仰ぎ

松江の塔が見ゆる麥の穗のび

菜たね莢になる水牛の鼻さき

石橋に草生ゆる雨空の 農人農人行かんともせず

そらまめ花さく中の墓なり

籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨

 

「粉江」ではなく「松江」であり、「水中」ではなく「水牛」なのである!

「水牛」は納得した。では「松江の塔」とは?……「松江」と言えば、芥川龍之介所縁とすればかの出雲の松江(私の芥川龍之介「松江印象記」初出形テクストを参照)があるが、「塔」は不審であり、この他に出るロケーションは、佐藤春夫が敢えてここにこの詩を配したように、佐藤が誤読したか誤植かは不明だが「水牛」を引くまでもなく、中国大陸での嘱目と考えなくてはおかしい。そもそも「春雨」が出るが、龍之介の松江訪問は真夏である。とすると……「松江」(しょうこう)「の塔」……と称すべきものは中国にないか?……検索をかけると!……あった!――「松江方塔」である! 上海市観光局公式サイトの記載などよれば、現在の上海市郊外の西区にある古城で、「方塔」は正式名称を「興聖教寺塔」といい、土木構造製の九段階方形の塔で高さは四二・五メートル、造形と構造は唐代の煉瓦作りの塔を真似たもので、中国国内では極めて少ない唐代の北宋塔とある。但し、龍之介はここを訪れた形跡は現存する資料の中にはない。この情報を先の教え子に提示してみた。すると、

   《引用開始》(本人の承諾済)

はい! 松江というのは非常に知れ渡った地名であり、上海市に松江区という行政区もあります。塔も有名です。ただ、かなり距離があります。龍之介はせいぜい上海郊外と言っても同文書院あたりまでしか行っていないという印象でしたので、不思議です。もしかしたら、実際に行っていなくても、写真などで見たのかしらん……龍之介は、そんなことしないよな……

先生、龍之介が上海から杭州へ向かう際に、汽車から見えたのではないかしら? 現在の鉄路(新幹線でなく在来線:昔の線路もおそらく同じ場所を通っていたと仮定すれば)から、距離にして一キロメートル足らずです。これなら、絶対に見えたはずです。僕もその在来軌道を何度も利用しました。しかし残念なことに、方塔が見えた記憶は一度もないのですけれども。

   《引用終了》

という返事を貰った。そこではたと思い当った。この詩は「げんげ野に羊雨空を仰」いでいて、「松江の塔」が「麥の穗のび」た先に「見」えるのであり、「菜たね莢になる水牛の鼻さき」が過ぎ行き、「石橋に草生ゆる雨空の」の中を「農人」は「行かんともせず」に立ち尽くすのが見え、今度は「そらまめ花さく中の墓」があって、「籐むしろの腰かけに足冷ゆる春雨」の降っている景なのだ! これらを嘱目する龍之介は、その「松江の塔」に登ったり、その塔の直下に立ったりなどはしていないのだ! しかも景色は目まぐるしく変わっているではないか?! こんな風に景色がつぎつぎと移り変わるのは――これは車窓から見た景色なのではないか?!……こんなことを考えて、私はまさに教え子の言うように、その杭州に向かう汽車から「麦の穂の伸びた先に松江方塔が見えたのではないか?」と返事をものした。

   《引用開始》

はい! 大正十(一九二一)年五月二日。汽車が上海を出て間もなくのことになるはずです。上海市内を出発して約三十キロほど走ったところですから、当時の汽車の速度などを考えれば約一時間ほどといったところでしょうか。

   《引用終了》

と返事が返ってきた。私はもう、誰が何と言おうとこれは興聖教寺塔、松江(しょうこう)の塔の遠望であると信じて疑わないのである!――]

澄江堂遺珠 本文Ⅱ


    *
 

梨花を盛る一村の風景暗し

    *

何かはふとも口ごもりし

えやは忘れむ入日空

せんすべなげに仰ぎつつ

何かはふとも口ごもりし

 

「思ふはとほき人の上」

船のサロンにただひとり

玫瑰の茶を畷りつつ

ふとつぶやきし寂しさは

 

[やぶちゃん注:「玫瑰」音は「まいくわい(まいかい)」訓じて「はまなす」と読むが、孰れとも考え得る。歌柄が芥川の中国行の際のイメージを思わせ、その場合は寧ろ、音「マイクワイ(マイカイ)」或いは中国音を音写した「メイクイ」の可能性が高いと思うからである(後者については芥川龍之介の「江南游記」「六 西湖(一)」に『私は玫瑰(メイクイ)のはいつた茶碗を前に、ぼんやり頰杖をついた儘、ちよいと蔭甫(いんぽ)先生を輕蔑した』と出るからである。リンク先は孰れも私の注釈附テクスト)。中国原産のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa は、あちらでは普通に花を乾燥させて茶や酒の香料とする。中国音「méigui」。]

    *

畫舫にひとをおもほへば

たがすて行きし薔薇の花

白きばかりぞうつつなる

 

[やぶちゃん注:「畫舫」は「ぐわばう(がぼう)」と読み、絵を描いたり、極彩色を施したりした中国の遊覧船をいう。中国音「huàfǎng」。]

    *

畫舫はゆるる水明り

はるけき人をおもほへば

 

わがかかぶれるヘルメツト

白きばかりぞうつつなる

 

   右の一章の上欄には横書にて

 Sois belle, sois triste. ト云フ

   (美しかれ、悲しかれ)(?)と記入しあり。

 

    *

はるけき人を思ひつつ

わが急がする驢馬の上

穗麥がくれに朝燒けし

ひがしの空ぞ忘られね

    *

古き都は靑々と

穗麥ばかりぞ

なびきたる

朝燒け

 

[やぶちゃん注:底本では「なびきたる」で改頁となっており、その間に以下の蘇州の北寺の塔の前で撮られた驢馬に跨る芥川龍之介の写真が入る。撮影者は不詳であるが、恐らく案内者であった島津四十起(しまづよしき 明治四(一八七一)年~昭和二三(一九四八)年:俳人・歌人。明治三三(一九〇〇)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正二(一九一四)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。)と考えられ、とすれば写真の著作権は満了している(違う撮影者若しくはその著作権継承者からの要請があれば以下の画像は取り下げる)。]


Hokujitou

澄江堂遺珠 本文Ⅰ 冒頭第一篇 附やぶちゃん詳細注

 

 

 

 思ふはとほき人の上

 

 

 

[やぶちゃん注:以上は佐藤春夫による一頁一行標題。改頁。左頁から以下の本文。]

 

 

 

 *

何かはふともくごもりし

消えし言葉は如何なりし

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは

 

[やぶちゃん注:「何かはふともくごもりし」という一行と完全一致するものは、実は現存する資料の中にはたった一篇しかない。それは、新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』のパートの『頁11』に現われる、それである。以下に同頁を総て示す。取り消し線は抹消を、下線はそれに先立つプレ抹消を指す(但し、これは私独自の仕儀)。

   《引用開始》

かそかにゆきのつもるよは

 

こよひばかりはひややかに

ひとりいぬ

 

入日の空を仰ぎつつ

何かはふともくごもりし

せんすべ

消えし言葉は如何なりし

 

運河むるる上る鯉魚の群あまた

波もさざらに上るとき

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは

   《引用終了》

次に、この抹消箇所を消去してみる。

   《提示開始》

かそかにゆきのつもるよは

 

こよひばかりはひややかに

ひとりいぬ

 

何かはふともくごもりし

消えし言葉は如何なりし

 

鯉魚あまた

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは

   《提示終了》

では、この一篇に関係する部分のみを次に抽出してみる。

   《提示開始》

何かはふともくごもりし

消えし言葉は如何なりし

 

鯉魚あまた

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは

   《提示終了》

こうしてみても(太字化はやぶちゃん)、本来、別フレーズであることを示す空行と、抹消していない「鯉魚あまた」が間に挟まって、実は「澄江堂遺珠」のこの一篇は全く再現されないと言ってよいのである。

 では、一歩下がって酷似したものはどうか?

 実は「何かはふとも口ごもりし」ならば全部で七つの資料にヒットする。一つは堀辰雄の編集したと思しい現在「詩歌未定稿」と称するもので、そこではまさに同一のパートに三ヶ所連続で登場する(太字化はやぶちゃん)。

   《引用開始》

    *

何かはふとも口ごもりし

えやは忘れむ入日空

せんすべなげに仰ぎつつ

何かはふとも口ごもりし

その

入日の空を仰ぎつつ

何かはふとも口ごもりし

消えし言葉は如何なりし

    *

 

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは

「思ふはとほき人の上」

船のサロンにただひとり

玫瑰の茶を畷りつつ

ふとつぶやきし寂しさは

 

    *

   《引用終了》

一見すると、文字列だけならば、一致して見えるが、ここでも詩句は「*」で分断されており、一篇のソリッドなものではないのである(しかも「口ごもりし」と表記が異なる)。

 他には『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁23』に、

   《引用開始》

何かはふとも口ごもりし

大路にこの この のこる夕明り

 

戸のもの櫻見やりつつ

何かはふとも口ごもりし

 

戸のもの

 

きみ

 

何かはふとも口ごもりし

せんすべなげに□まひつつ

えやは忘れむ入日空

せんすべなげに仰ぎつつ

何かはふともほほえみし口ごもりし

その日のその

   《引用終了》

と出るが、本篇の後の二行とは一致部がない。後は同『頁26』の一部、

   《引用開始》

光は

何かはふとも口ごもりし

その

   《引用終了》

本編の後に続く詩句と相同相似の文字列はないのである。

 さすれば、佐藤は先に掲げた二つ、即ち、

・新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』のパートの『頁11

若しくは(これは考え難いことであり、その可能性は極めて低いと考えたいのだが)、

・推定堀辰雄編の「未定稿」

の、孰れも分断された詩篇を、恣意的に接続して一篇に捏造したとしか思われないのである。以下、冒頭注で述べた通り、本「澄江堂遺珠」の各詩篇の考証はこれを後の作業に譲ることとするが、少なくとも私は、我々はこの「澄江堂遺珠」の数多の絶唱を――芥川龍之介の生の肉声の吟詠として聴いてはいけない――と断言するものである。]

澄江堂遺珠 佐藤春夫 はしがき

[やぶちゃん注:以下、佐藤春夫「はしがき」本文。改頁で左頁から始まる(右頁は全くの白紙で挿絵もない)。なお、ここ以降では必要のない限り、改頁の注は附さない。]

 

 岩波版「芥川龍之介全集」の中に收錄された詩篇は堀辰雄君の編纂にかかるものにして、故人の遺志を體して完成を重んずる精神を飽くまでも尊重せる細心の用意をもつてなされたもの、出來得る限り多數の採錄を努められたるも、その嚴密なる用意の結果は却つて多少の遺漏を生じてそこに逸せられたものも尠くない。これを惜んで先年、遺友の間に故人の三周忌記念として散佚せる詩篇を集成して更に一卷の詩集を得ばやとの議起り、その材料を蒐集し得て業を予に託された。予が性質の疎懶と身邊の多事とは荏苒今日に及んでも未だその任を果し得ない。この責任のもとより予にあるはこれを否定すべくもないが、敢て他に理由を求むれば、業の至難を擧げて遁辭とすることも出來るであらう。遺稿は故人が二三の特別に親愛な友人に寄せて感懷を述べた一束の私書と別に三册の手記册に筆錄した未定稿とである。この三册を予は假に各第一第二第三と呼んでゐるが、第一號は四六版形で單行本の製本見本かとも見るべきを用ひ、これには作者が自ら完作としたかと思へるものを一頁に一章づつ丹念に淨寫してある。恐らく作者は逐次會心のものを悉くここに列記し最後の稿本をこれに作成する意嚮があつたかと見られる。他の二册第二號第三號に至つては第一號とは全然その趣を異にしてゐて、外形も俗にいふ大學ノートなる洋罫紙のノートブツクで全く腹稿の備忘とも見るべきものが感興のまま不用意に記入されてゐるので逐次推敲變化の痕明らかで、一字も苟もせざる作者が心血の淋漓たるもの一目歷然たるに、その間また折にふれては詩作とは表面上何の關聯もなき斷片的感想や筆のすさびの戲畫などさへも記入されて、作者が心理的推移や感興の程度などを窺ふには實に珍重至極な絶好の資料であるが、それならばこそ一層取捨整理に迷ふ點が尠少ではない。既に作者自身がこれを爲し得なかつたとさへ見るべきだからである。堀君が册子第一號及び私書中の詩章は悉くこれを既刊集中に完全に收錄しながら、第二號及び第三號よりは完作の趣を具へたるに近きものを僅に數篇しか抄出せず他の大部分はこれを逸したのは故無きに非ずと首肯されるのであつた。予も亦、これが選擇整理の方針に迷ふのあまり、時には寧ろ作者の意を體してこれを世に示すを斷念して然る可きかとさへ思ふのであつたがかくては永久にこれを世に問ふの機を失ふを思うては割愛に忍びざるの意も亦禁じ得なかつた。かくてこれを通讀玩味すること數次、その結果、頃日予は一つの整理方針の端緒を發見し得た。即ちこの二册の未定稿册子は内容的に見てほぼ三部分に分ち得ることに氣づいたからである。即ち、稿本には作者が最も會心切實としたらしい二三行の句があつてこの二三行をいかに活用すべきかに就いて作者が執拗な努力を示し、爲に一册子の大半を費して尚これを決定せざる箇所が二箇所ほどある。予はこの二三行を中心としてこの二箇所を探究してみることによつてこの部分はほぼ解決するだらうと看取したのである。この二箇所の外にもう一つは故人が支那旅行中のつれづれを慰めんとしてその間の口吟をしるし留めたと思へる部分が一種の自然的關絡によつて統一されてゐるのを見出したのである。この最後のものには、ところどころに「思ふはとほき人の上」の句を反復して用ひ、これを用ひざるものにも自らにしてこの情懷を帶びでゐるのを見るのである。これらのもの約十章は蓋し「支那游記」中にその適切なるを個所を得てこれを篏鏤することによつて最も光彩を放つべきを予は信じて疑はないのであるが、終にその所を得ざるはこれを如何とも爲すべからざるを徒らに歎ぜざるを得ない。換音すれば予はこの結ぼれ縺れた一縷の絲束をそのむすぼれの大きな部分に從つて、思ひ切つて三つに切斷することを敢てした上で、徐ろにむすぼれを解かんと試みるのである。たとひ完全な一條を得ること能はずとするも、これによつて價値多き部分を棄却し去らずにすませることが出來たら幸甚だと考へたからである。或は暴擧との辭を得んことを惧れるけれども、予としてはこれでも愼重な考慮の末の最上のものと信ぜられる唯一の方法であつたのである。予は決然としてこの方法を斷行する。かくてこれらの三部分のうち容易なるものからこれを始めて完了せんことを期するのであるが、その第一部は「思ふはとほき人の上」を主題とする支那游記詩章で手帳第二號より抄出したものである。予は予の見て最も自然とする順序に從つて以下の如くこれを排列したが、この一章は依て以てありし日の多恨なる一游子の面影を多少とも髣髴せしむるの一助たり得たならば乃ち予の能事は足るとして今は專らこれを旨とした。作者が感興の推移或は推敲の痕を索ぬるは別に期する所があるからである。予は故人が或は一應予のおせつかいを咎めるかを惧れるが、結局はその友情がこれを宥すことを信ずるが故に敢てこれを整理しで予が編輯する本誌上に發表するのである。これを緒言として逐次整理し得るに從つてこれを完了し以て澄江堂新詩集一卷を世に送り、併せて故人が晩年の消息を明かにしてその傳記の最後の一頁を得んことを期するものであるが、江湖の諸君子乞ふ幸に故人の靈とともに予が衷情を諒として、予を目して亡友の遺稿を私するものとせざらん事を切に希望すと云爾。

   故人が第四周忌の前四日の夜、

         夜木山房に於て編者記す。

 

[やぶちゃん注:以上九頁分の佐藤春夫の序。気になる語などを注しておく(若い読者を意識して注したため、一部は言わずもがなとお感じになられるかと思うものも敢えて入れてある)。

・『岩波版「芥川龍之介全集」の中に收錄された詩篇は堀辰雄君の編纂にかかるもの』冒頭に注したが、再掲しておく。昭和四(一九二九)年二月二十八日発行の岩波書店「芥川龍之介全集」(岩波書店版第一次「芥川龍之介全集」全八巻。昭和二年十一月に刊行を開始、昭和四年二月に完結した。「元版全集」と通称する)の「別冊」に載る堀辰雄編の芥川龍之介の「詩歌」のパートを指す。

・「三周忌」芥川龍之介は昭和二(一九二七)年七月二十四日に自死したから、昭和五(一九三〇)年七月に相当する。

・「疎懶」「そらん」と読む。無精なこと、怠けるさま。

・「荏苒」「じんぜん」と読む。なすことのないままに歳月が無駄に過ぎるさま。また、物事が延び延びになること。「荏」は柔らかである。力が抜けていてだらしない。じわじわとしているさまを指し、「苒」はその「荏」の持つ「じわじわ」感を示すための擬態語的添辞らしい。

・「遺稿は故人が二三の特別に親愛な友人に寄せて感懷を述べた一束の私書と別に三册の手記册に筆錄した未定稿とである。この三册を予は假に各第一第二第三と呼んでゐる」岩波版新全集第二十三巻(一九九八年刊)の『「澄江堂遺珠」関連資料』の「後記」(海老井栄次・岩割透共著)によれば、この原「澄江堂遺珠」の内、佐藤が「第一號」と呼称しているノートは現在、所在不明である。しかし、『元版全集別冊に紹介されている「詩歌」のうちの「拾遺」、及び普及版全集第九巻の「詩」に紹介されている「心境」から「戯れに⑵」までの詩は、元版全集以後、岩波書店から刊行されているいずれの全集においても一貫して配列は変わっていない』(ここに示された詩は総て私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で読める。参照されたい)とし、以下その元版全集月報の第八号に記された「編輯者のノオト」から次の部分を引用している。『「心境」以下の今樣風の詩は全部、一つの帳面に淸書されてあつたものである。それらは大正十年頃の作品のやうに思はれる』(原本を持たないので引用元の表記を恣意的に正字化して示した)。これに続けて、『こうしたことを考慮すれば、「心境」から「戯れに⑵」までの詩は、この「第一号」のノートに記されていたものに基づいている、と推測される』とあるのである。則ち、原「澄江堂遺珠」を探ろうとする我々は、原「澄江堂遺珠」には現在は失われてしまって最早見ることが出来ないと思われる、この幻の「第一號」ノートが存在したという重大にして深刻な事実に直面することになるのである。なお、同「後記」にはこの「第二號」及び「第三號」に該当すると思われる山梨県立文学館蔵のノートについての記述があり、「第二號」(「後記」では一九九三年刊山梨県立文学館刊の山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の標題に基づき「澄江堂遺珠ノート1」と称している)は『左開きノートで「BUN-UN-DO’S」のもの。筆記されているのは計三四頁、白紙の箇所は計六八頁で、黒インク、墨で記されている』とあり、「第三號」(「後記」では同前「芥川龍之介資料集・図版2」の標題に基づき「澄江堂遺珠ノート2」と称している)『右開きのノートで、同じく「BUN-UN-DO’S」のもの。筆記されている箇所は計六一頁、白紙の箇所は一頁であり、黒インクで記されている』とある。同後記はこれらの現存物から、

●現在我々が読む佐藤春夫纂輯に成るこの「澄江堂遺珠」は、佐藤が「第二號」と呼称するもの(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の「澄江堂遺珠ノート1」と称するもの)から主に採録されたものと推定

されるとし、

旧全集「未定詩稿」(その総ては私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」で読める。参照されたい。この「未定稿」だけの単独ファイルも私のサイトで近日公開する予定である)の方は、佐藤が「第三號」と呼称するもの(山梨県立文学館編「芥川龍之介資料集・図版2」の「澄江堂遺珠ノート2」と称するもの)から主に採録されたものと推定

されるとする。なお、これらの『事情を踏まえ』て新たに編集されたものが、岩波版新全集題二十三巻に載る『「澄江堂遺珠」関連資料』という驚くべき労作である(これも私のサイトで近日独自の編集を加えて公開する予定である)。「後記」には、この佐藤の「澄江堂遺珠」及び堀辰雄編になる『「未定稿」の源泉資料の全貌を示すべく、忠実に活字に再現し、「未定稿」は前回全集を底本として、その後に配した』とある。確かに佐藤はここで『堀君が册子第一號及び私書中の詩章は悉くこれを既刊集中に完全に收錄し』ていると述べているから、この新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』は『「未定稿」の源泉資料の全貌』であるとは、まずは『推測』してよいとは『思われる』。以上の二語は同「後記」の中でそれぞれに二回も用いられている。確かに『示すべく』と「べく」が用いられてはあるが、私は文学研究も厳密に科学的でなくてはならないと考えている。「第一號」ノートを既に我々が失ってしまっている以上、私はこれを『源泉資料の全貌』と称して無条件に遥拝することは微妙に留保したい気がするのである。そもそも今回、私は上記の通り、『「澄江堂遺珠」関連資料』に存在しないことになっている抹消箇所を装幀の貼り交ぜ自筆稿の中に複数発見しているからである。

・「四六版」一二七×一八八ミリメートル。新書判(一〇三×一八二)よりも大きく、教科書や文芸雑誌類等のA5判(一四八×二一〇)よりも小さい(印刷会社の正確なデータに拠った)。

・「意嚮」「いかう(いこう)」と読む。意向に同じい。

・「淋漓たる」水・血・汗などの溢れ滴るさま。

・「尠少」「せんせう(せんしょう)」と読み、非常に少ないさまをいう。鮮少。

・「頃日」「きやうじつ(きょうじつ)/けじつ」と読み、この頃。近頃。

・「關絡」関係性と連絡通底性の意であろうが、漢方の経絡関連の記載には見かけるものの、日常的には見馴れない漢語である。

・「篏鏤」「かんる」又は「かんろう」と読むか。「篏」ははめる・はまる・穴の意(「嵌」と同義であろう)、「鏤」は「ちりばめる」であるから、金銀・宝石などを一面に散らすように嵌め込む、また比喩的に文章のところどころに美しい言葉などを交えるの謂いである。されば適切な位置に美しく調和的に象嵌するの謂いである。

・「縺れた」「もつれた」と読む。

・「能事」「のうじ」と読む。なすべき事柄。

・「索ぬる」これは「索(もと)める」の誤植ではなかろうか? それとも「たづぬる」と読んでいるか? 識者の御教授を乞う。

・「宥す」「ゆるす」と読む。許す。

・「本誌上」冒頭に注した雑誌『古東多万』(やぽんな書房・佐藤春夫編)。昭和六(一九三一)年九月から翌年一月までに発行された同誌の第一年第一号から第三号に本作は初出掲載された。さすれば、この「はしがき」は本単行本のためではなく、初出の恐らくは『古東多万第一年第一号に掲載されたものをほぼそのまま載せたものと考え得る。

・「私する」「わたくしする」と読む。

・「云爾」「いふのみ」と読む。

・「故人が第四周忌の前四日の夜」昭和二年七月二十四日が芥川龍之介自死の日附であるから、これは昭和六(一九三一)年七月二十日の夜である。

・「夜木山房」「夜木」の読みも含め不詳。佐藤春夫の書斎の号のように思われるが、情報がない。識者の御教授を乞うものである。]

はしがき表紙 挿絵

Akutagawasasie

  はしがき
 

[やぶちゃん注:上部三分の一に以上に示した、岩(?)とひねこびた枯木のデッサンが入る。これは以下、本作の佐藤春夫の序文も含めて本文頁(図版頁と五十四頁にある佐藤図版その他についての解説頁及び「卷尾に」と奥附を除く)の上部を常に占めている。装幀挿画者の表示はないが、五十四頁の佐藤の解説によってこれは稿に描かれた芥川龍之介自身の手遊びであったことが分かる。これなくしては「澄江堂遺珠」の香りを再現出来ないと私は考えるので敢えて前に掲げておいた。ここで改頁となり、左頁から佐藤春夫の序が始まる。以下、「卷尾に」の前まで、これが常に頁の上部三分の一を占めているのだというイメージでお読み戴きたい。]

澄江堂遺珠 扉

      詩集

 

 

 

[やぶちゃん注:扉の後にさらに遊び白紙一枚が入って左頁の中央より右寄りに小さく「詩集」。これは印刷ミスではなく、紙を透かして下の次の次の頁の「澄江堂遺珠」の文字が幽かにみえるようにしてあるのである。改頁。]

 

Akutobira

 

 

[やぶちゃん注:左頁に「澄江堂遺珠」。ここにのみ雲竜紙(うんりゅうし:三椏或いは楮の地紙に手ちぎりした楮の長い繊維を散らせて雲形文様を出した和紙。)様の特殊和紙が使用されてある。この扉の「澄江堂遺珠」の独特の味わい深い文字は、末尾の神代種亮の「卷尾に」に『扉の「澄江堂遺珠」の五文字は朝鮮古銅活字より採取したもの』とあり、上記画像の文字自体は著作権を侵害しないことが分かっている。改頁。]

 

Hyoudai

 

[やぶちゃん注:左頁に。改頁。]

 

[やぶちゃん注:ここ(ハトロン紙を挟んで左頁)に親友小穴隆一の芥川龍之介の肖像画「白衣」(びゃくえ・大正一一(一九二二)年二科展出品作)が入るが、著作権継続中のため省略する。]

澄江堂遺珠 裏表紙見開き

Urabyousimihirakir


Urabyousimihirakil

 

[やぶちゃん注:裏表紙見開き。順に右(遊び側)と左(効き紙側)。芥川龍之介の直筆詩稿である。裏表紙見開きであるが、表紙側と同じく芥川龍之介の直筆詩稿でありながら、しかもその表側のそれとは違う箇所であるから、敢えてここに配した。以下、直筆原稿を可能な限り、活字化してみる。

●右(遊び側) 部分

『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁36』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八一~五八二頁)。

 

   妬し妬しと

   嵐は襲ふ松山に

   松の叫ぶも興ありや

   山はなだるる嵐雲

   松をゆするもおもしろし興ありや

   人を殺せどなほ飽かぬ

   妬み心をもつ身には

   妬み心になやみつつ

   嵐の谷を行く身に

 

   雲はなだるる峯々に

   ■■

   昔めきたる竹むら多き瀟湘に

   昔めきたる雨きけど

 

[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]

 

      嵐は襲ふ松山に

      松のさけぶも興ありや

      妬し妬しと

      峽をひとり行く身には

 

      人を殺せどなほ飽かぬ

      妬み心も今ぞ知る も知るときは

      山にふとなだるる嵐雲

      松をゆするも興ありや

 

『頁36』稿では「■■」抹消部分は『二字不明』とあるが、私には「生贄」と書いて抹消したかのように見える。また、下段の最初の「嵐は襲ふ松山に/松のさけぶも興ありや/妬し妬しと/峽をひとり行く身には」は『頁36』稿では生きているが、明らかに一気に斜線を三本も引いて抹消していることが分かる

 

●左(効き紙側)部分

前の稿の続き。『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁37』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八二~五八三頁)。

 

   竹むら多き瀟湘に

   夕の雨ぞ

   

 

   大竹むらの雨の音

   思ふ今は

   幽かにひと

 

   夜半は風なき窓のへに

   薔薇は

 

   古き都は來て見れば靑々と

   穗麥ばかりぞなびきたる

   朝燒け

 

[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]

 

      古き都に來て見れば

      路も

 

 

      幽かにひとり眠てあらむ

 

 

      わが急がする驢馬の上

      穗麥がくれに朝燒くるけし

      ひがしの空ぞわすられね

 

 

      ひがしの空は赤々と

      朝燒けし

 

『頁37』稿では、私が判読不能とした抹消字三字は存在しないことになっている。]

澄江堂遺珠 表紙見開き

Hyousimihirakir

Hyousimihirakil

 

[やぶちゃん注:表紙見開き。順に右(効き紙側)と左(遊び側)。芥川龍之介の直筆詩稿である。これは詩原稿そのものであって、装幀として著作権を要求することは出来ないと判断出来るが、やはり用心のために一部を恣意的に問題のない端部分をカットしてある(次も同じ。この注は略す)。以下、直筆原稿を可能な限り、活字化してみる。

 

●右(効き紙側)部分

『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁38』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八三頁)。本文罫欄外上部頭書様パートに、

 

 Sois belle, sois triste ト云フ

 

と記す。

 

   水の上なる夕明り

   畫舫にひとをおもほへば

   わかぬぎたがすて行きしマチ箱の薔薇の花

   白きばかりぞうつつなる

    水のうへなる夕明り

    畫舫にひとをおもほへば

    たがすて行きし

    わがかかぶれるヘルメツト

    白きばかりぞうつつなる

 

    はるけき人を思ひつつ

    わが急がする驢馬の上

    穗麥がくれに朝燒けし

    ひがしの空ぞ忘れられね

 

     さかし

    

 

白きばかりぞうつつなる」の「ぞ」が吹き出しで右から挿入。「驢」の字は原稿では「盧」を「戸」としたトンデモ字。『頁38』稿では「白きばかりぞうつつなる」と「水のうへなる夕明り」の間に空行がある。最後の抹消字は不詳であるが、これは『頁38』稿では存在しないことになっている。

 

●左(遊び側)部分

前の稿の続き。『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁39』稿と同一と思われる(岩波版新全集第二十三巻五八四頁)。

 

   畫舫はゆるる水明り

   はるけき人をおもほへば

   わがかかぶれるヘルメツト

   白きばかりぞうつつなる

 

   幽に雪のつ■■

   幽かに雪のつもる夜は

   ひとりいねよと祈りけり

 

   疑ひぶかきさがなれば

   疑ふものは數おほし

   薔薇に刺ある蛇に舌

   女ゆゑなる涙さへ

   幽かに雪のつもる夜は

   ひとり葉卷をくはへつつ

   幽かに君も小夜床に

 

最後の三行は原稿では一気に斜線で以って総て削除している点に注意。『頁39』稿には私の判読不能箇所は存在しないことになっている。]

澄江堂遺珠 本体表紙・背・裏表紙

Honntai

 

[やぶちゃん注:本体(約縦二十二・四/横十七・五/厚さ一・五センチメートル)。表紙・背・裏表紙。多色の美しい墨絵流し。背の書名、

 

  澄 江 堂 遺 珠     佐 藤 春 夫 編

 

は金箔押。装幀及び画家不詳。作者若しくはその著作権継承者からの要請があれば以上の画像は取り下げる。権利主張としてあり得ないと私は考えているが、完全な画像を示した場合に復刻版出版者から疑義が出ぬよう、左右の一部をわざと切っているので注意されたい。実横全長(約三十五・五センチメートル。耳の部分で収縮が生じる)で合わせて凡そ五センチメートル分をカットしてある。]

澄江堂遺珠 箱

Hakoomote


Hakoura

Hakose

Hakotenn

Hakosoko

[やぶちゃん注:箱(約縦二十三/横十七・八/厚さ一・九センチメートル)。順に表・裏・背・両天地(天、地の順。なお、天の横で支えに用いたのは本体の底部分である)。芥川龍之介の直筆詩稿の一部が切り張りされた独特の装幀である(末尾の神代種亮の「卷尾に」に『見返し及び箱貼りは原本の部分を複寫して應用したものである』とある)。表の書名その他は佐藤春夫の直筆かと思われる。装幀者も彼と思われるが装幀挿画者の表示はない。小穴隆一(著作権継続中)の可能性も排除は出来ないが、取り敢えず、本書の一つの特異な装幀であり、しかも本書の芥川龍之介直筆稿である。これなくしては「澄江堂遺珠」の香りを再現出来ないと私は考えるので、敢えて前に掲げておいた。著作権継続中の筆者若しくはその著作権継承者からの要請があれば以上の画像は取り下げる。以下、直筆原稿を可能な限り、独自に判読し、活字化してみることとする(切り貼りであることから一篇の連続性を優先し、開始位置のパートに全篇を示すこととした。従って他の箇所に送ったものやダブって判読したものがある。判読の際には岩波版新全集第二十三巻(一九九八年刊)の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』パートを参考にしたが、その過程で不思議なことに同一であるはずのそれとの齟齬を発見した。ここでは活字に起こすだけで注は附さない。近い将来行う同『「澄江堂遺珠」関連資料』を元にした電子化注釈でそれは行う。取り消し線は抹消を示す。以下の原稿判読電子化にはこの注は略す)。

 

●表部分

*標題紙(中央やや上部にピンクの現在の付箋紙様のものに右から左へ、佐藤春夫に拠るかと思われる手書きで記す。以下、逆に綴って示す)

 

芥川龍之介遺著

佐藤春夫纂輯

詩 集

澄江堂遺珠

sois belle, sois triste

昭和癸酉

岩 波 書 店 刊

 

「癸酉」は「みずのととり」で昭和八(一九三三)年の干支。

*最も使用面積の多いこの標題紙の張られた稿(*最上部にある抹消一行「人を殺せどなほあかぬ」は次の裏での判読に回す)。本文罫欄外上部頭書様パートに、

 

黄龍寺の晦

堂老師

 

吾 爾に隱す

ことなし(論語)

 

としるし、以下、本文部分に次の詩稿が載るが、先の標題紙によって九行分が完全に見えなくなっている。標題紙はかなり厚手のもので透過せず、下にあるであろう稿は全く読み取れない(強い光源を当てて見たりしたが見えない)。これは新全集『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁24』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七六頁)と等しいと思われる(マスキングされている部分の行数も完全に一致するからである。なお、これは『頁24』の総てである)。そこで判読可能な前三行と後五行の間に『「澄江堂遺珠」関連資料』に示されたものを再現させて以下に示す。『「澄江堂遺珠」関連資料』による再現部分は下部に【再現】と入れた(同新全集は新字体コンセプトであるが、幸い、このマスキングされた部分には正字と異なる新字が散在存在しない)。

 

   ひとり葉卷を吸ひ居れば

   雪は幽かにつもるなり

   こよひはきみも

   ひとり小床に眠れかし   【再現】

   きみもこよひはほのぼのと 【再現】

   きみもこよひはしらじらと 【再現】

   きみもこよひは冷え冷えと 【再現】

                【再現】

   みどりはくらき楢の葉に  【再現】

   ひるの光のしづむとき   【再現】

   つととびたてる大鴉    【再現】

                【再現】

   ひとり葉卷きをすひ居れば

   雪は幽かにつもるなり

   こよひはきみもしらじらと

   ひとり小床にいねよかし

   ひよりいねよと祈るかな

 

*(下部の九行分の稿は次の裏での判読に回す)

 

●裏部分

*最上部にある稿(表から天の部分を経てここに至る)は、『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七五頁)と等しい(最後の一部が欠であるが、実は別な貼り交ぜでそこは出る。後掲)と思われる(但し、三箇所に不審な点がある)。

 

   人を殺せどなほあかぬ

    妬み心も今ぞ知る

 

   みどりは暗き楢の葉に

   晝の光は沈むとき

   ひとを殺せどなほあかぬ

   妬み心も覺しか

       ■

   風に吹かるる曼珠沙華

   散れる

 

①二行目頭の「」は何かの字を一字書いてそれを十文字マークで抹消したように見える。「石」か?

②「妬み心も覺しか」の次行の「覺」の左にあるのは記号のような不思議なもので判読出来ない。

③「散れる」の抹消の後にある「何」の抹消字は自信はないが、初見では「何の」と判読し得た。これは「何」をぐるぐると抹消し、「の」を消し忘れている。なお、以上の三点の私の判読(不能を含む)部は『「澄江堂遺珠」関連資料』には存在しないことになっている

 

*中央部にある稿は『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁26』とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七七頁)と等しいと思われる。

 

   綠はくらき楢の葉に

   晝の光の沈むとき

   わが欲念

   わが欲念はひとすぢに

   をんなを得むと

   ふと眼に見ゆる

   君が心のお

    光は

    何かはふとも口ごもりし

 その日

 

   みどりはくらき楢の葉に

   ひるの光のしづむとき

   わがきみが心のおとろへを

   ふとわが

 

『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁26』では「わが欲念はひとすぢに」は全抹消、抹消の「君が心のお」は「君が心の」とする。さらにこの次の抹消の「光は」との間に一行空けがある。よくみるとこの直筆原稿では行空けはないものの、「光は」以下の三行が半角分前の詩篇の位置よりも有意に下がっているのが分かるので、新全集編者はここで詩篇を改稿したと判断したのであろう。また、この三行目の抹消「その日」は『頁26』では「その」で「日」はない。

 

*最下部から地を経由して表下部へ続く稿は、前の最上部(表から天の部分を経てここに至る)にある『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』稿とナンバリングするもの(岩波版新全集第二十三巻五七五頁)と等しい。先の最後の一部の欠部分がここでは見えている。煩を厭わず活字化する。

 

 

   人を殺せどなほあかぬ

    妬み心も今ぞ知る

 

   みどりは暗き楢の葉に

   晝の光は沈むとき

   ひとを殺せどなほあかぬ

   妬み心も覺しか

       ■

   風に吹かるる曼珠沙華

   散れる

 

   夕まく夕べは

   いや遠白む波見れば□に來れば

   人なき

 

最後の四行分(最初の空行を含む)が前の貼り交ぜではなかった。『頁22』稿では「いや遠白む波見れば」と「ば」する。「□に來れば」の「□」は判読不能。『頁22』稿でも『〔一字不明〕』とする。因みにこれが『頁22』稿との総てである。

 

●背部分

 佐藤春夫に拠るかと思われる手書き。ここだけが「編」となっていて「纂輯」でないのが特異。

 

  澄江堂遺珠   芥川龍之介遺著佐藤春夫編

 

●天部分

前掲『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』の『頁22』稿の「 妬み心も今ぞ知る」と空行一行分。

●地部分

同前稿の「みどりは暗き楢の葉に」と「晝の光は沈むとき」の二行分。]

芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」 附やぶちゃん注 冒頭注

芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯「澄江堂遺珠」 附やぶちゃん注

 

[やぶちゃん注:本作は佐藤春夫(明治二五(一八九二)年~昭和三九(一九六四)年)が、「澄江堂遺珠」として昭和六(一九三一)年九月から翌年一月までに発行された雑誌『古東多万』(ことたま・やぽんな書房・佐藤春夫編)第一年第一号から第三号(号数は本文末尾に記された本書の校正者の神代種亮(こうじろたねすけ)の「卷尾に」による。本誌は国立国会図書館の書誌データによれば月刊らしいが、実際には各月に発刊されてはいないことになる)に掲載したものを佐藤自身がさらに整理し、二年後の昭和八年三月二十日に岩波書店より芥川龍之介遺著・佐藤春夫纂輯(さんしゅう)「澄江堂遺珠 Sois belle, sois triste.」として刊行したものである。内容的には序にある佐藤の「はしがき」にも記されてあるように昭和四(一九二九)年二月二十八日発行の岩波書店「芥川龍之介全集」(岩波書店版第一次「芥川龍之介全集」全八巻。昭和二年十一月に刊行を開始、昭和四年二月に完結した。「元版全集」と通称する)の「別冊」に載る堀辰雄編の芥川龍之介の「詩歌」から漏れた詩稿を「纂輯」したものではある。纂輯とは「文書や材料を集めて書物にまとめること」の言いで編纂・編集と同義で用いられるのであるが、私はまさしく本書の場合――暗号めいてばらばらになっている友芥川龍之介の「歌草」の謎の断片を「搔き集め」、そこから「戰の庭に倒れた」芥川龍之介という「もののふ」たる友の「傷手をしらべ」、遂に恐るべき一箇の書物として纏め上げた稀奇書――と言えると思っている(鍵括弧内の語は本文最後の佐藤自身の献詩の一節である)。

 佐藤春夫が江口渙を通じて芥川龍之介と初めて面会したのは、大正六(一九一七)年三月中旬、互いに二十五の時であった(二人は同年生まれである)。これは芥川が作品集「羅生門」を刊行したり「偸盗」を発表する前月であり、佐藤はと言えば、まさにこの年に神奈川県都筑郡中里村(現在の横浜市)に移住して田園生活を開始、画作に精を出しつつ、かの名作「病める薔薇」の執筆を始める時期と一致する。三ヶ月も経たない同年六月一日に日本橋のレストラン「鴻の巣」で開催された芥川龍之介「羅生門」出版記念会「羅生門の会」では佐藤が開会の辞を述べる名誉を得ており、龍之介とは急速に親密度が増したことが窺われる。

 本ページは、そうした著者佐藤春夫の亡き友への限りない愛惜というコンセプトで、装幀や紙質に至るまで徹底的に考え尽くされた、奇妙ながら龍之介遺愛と言ってもよい本書の面影を、種々の著作侵害に抵触せぬよう配慮しながら、なるべく伝え得るように作ったつもりである。ただ、私でない誰もが可能なただの平板鈍愚な電子テクストに終わらせぬために恥ずかしながら不肖私藪野直史のオリジナルな注を各所に配してあり、それが折角の原本の美しさを穢していることについては内心忸怩たる思いがあることは言い添えておく。

 底本は日本近代文学館発行「名著復刻 芥川龍之介文学館」(昭和五二(一九七七)年発行)の岩波書店発行の初版復刻本を用いた。

 底本では佐藤春夫の三字下げの評注は本文よりもポイントが落ちるが、敢えて同ポイントとしつつ(佐藤の役割を考えれば、私は寧ろこれが正しいとさえ考えている。但し、正当本文中のものは明確に区別するために有意にポイントを落した)、改行箇所は底本に準じて一行字数を一致させた。但し、鍵括弧や読点の半角(総て)は見た目が悪く(私にとって)、読点半角はPDF化した際に不具合を生じるため、総て全角にしてある)。また、佐藤春夫による注意強調の傍点(底本のものは通常の黒の傍点「ヽ」ではなく、白抜き傍点「﹆」)はブログ版では太字とした。

 一部に注を附した。当初は総ての各詩篇について、現存する資料との校合を試みようとしたが、実は冒頭の一篇から既に躓いてしまったのである。則ち、この冒頭の一篇からして、全く同一の文字列を持った同一テクストは――実は――少なくとも現存するテクスト類には――ない――のである。則ちこれは、「澄江堂遺珠」や堀辰雄の旧全集「未定稿」は――単純にして虚心坦懐の芥川龍之介の一篇を忠実に書写したものでは――全くない――ということなのである。一応、最初の一篇にのみはそうした校合結果の注を附したが、以下では特に注しておかねばならぬと私が考えた重大な部分のみに限った。これらの解析はしかし、向後、私自身、生涯、続けていきたいと考えている(そのために私はブログにカテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』を創っておいた(これはまさに痙攣的な恐るべき「澄江堂遺珠」との格闘の修羅場となると覚悟しているが、それは私と芥川龍之介の出逢いの究極の因縁と心得ている。これをここに告白し、これ以上述べることは控えたいと思う)。

 なお、本書の副題のような「Sois belle, sois triste.は詩稿の欄外に記されたメモに基づく(後掲する装幀貼り交ぜに出る)。これ自体はフランス語で「より美しかれ、より悲しかれ」の意であり、またこれはボードレール( Charles Baudelaire )が一八六一年五月に発表した「悲しいマドリガル(恋歌)」( Madrigal triste )――現在は「 悪の華」( Fleurs du mal )の続編・補遺に含まれる一篇――の一節である。私の「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の旧全集「未定詩稿」の最後に附した私の注で原詩総てを示してあるので参照されたい。]

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