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2015/01/31

耳囊 卷之九 鬼火の事

 

 鬼火の事

 

 大御番の在番に箱根宿に泊り、夏のことなれば、同勤の面々旅宿に打寄(うちより)て、酒抔給(た)べて涼み居(ゐ)たりしに、向ふなる山より壹ツの火、丸く中(ちう)にあがりけるを見付(みつけ)、あれは何ならんと人々不審しけるに、二つにわかれ又飛𢌞り、或は集り又は幾つにもわかれぬるを興じけるに、やがて此方(こなた)へ來るやうなれば人々驚きて、何ならんと高聲(たかごゑ)に語り合(あひ)けるに、旅宿の男聞付(ききつけ)て、早々座舖(ざしき)へ出、疾々(とくとく)這入(はひいり)給ふべし、後には害もあるなりと、殊外(ことのほか)恐れ、早々に戶抔たてける故、何れもなむとなく怖しくなりて内に入りけるとぞ。天狗火(てんぐび)などいふものならんと、石川翁かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:本格怪談で連関し、前話の話者「石川某」と、この「石川翁」は、孰れも大御番を勤めており、やはり全く同じその赴任(前話は帰府の途次ともとれる)の途中の直接の実体験の怪談としても連関、そうしてこれはもう、同一人物としか思われないから、話者同一で、トリプル連関である(かなり珍しい連関ケースである)。前話注で述べた通り、先行作品にこの人物、情報屋として多出する。「翁」と呼ぶ以上は、「卷之九」の執筆推定下限の文化六(一八〇九)年で根岸は七十二歳であるから、それより高齢の人物であることは間違いない。なお、この「耳囊」の「鬼火」譚を今の連中が読むと、恐らくUFO――飛行分裂するタイプ――か、大気中にプラズマ状で存在するといわれる非常にユニークな未確認生物クリッターだ、なんどと言いそうだ。

・「鬼火」私のサイトブログの名でもあるので、ここは一つ、ウィキの「鬼火」をほぼ全文引かせて戴くのをお許しあれ(注記号は省略した。なお、ただの引用ではなく、リンク先のリンクも活用してある。また、何箇所かには私の忘れ難い感懐も添えてあるので、この注、お暇な折りにじっくり読んで戴きたいというのが私の本音である)。『日本各地に伝わる怪火(空中を浮遊する正体不明の火の玉)のことで』、『伝承上では一般に、人間や動物の死体から生じた霊、もしくは人間の怨念が火となって現れた姿と言われている。また、ウィルオウィスプ、ジャックランタンといった怪火の日本語訳として「鬼火」の名が用いられることもある』(「ウィルオウィスプ」はリンク先のウィキによれば英語の「will-o'-the-wisp」で、「一掴みの藁のウィリアム(松明持ちのウィリアム)」の意。死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続けるというウィル(ウィリアム)という名の男の魂とするもの。生前は極悪人で、遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きを言い渡されそうになった所を、言葉巧みに彼を説得し、再び人間界に生まれ変わる。しかし、第二の人生も悪行三昧で、またしても死んだ時、死者の門で聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかりならん」と断ぜられて煉獄の中を漂うことになったが、それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィルに明かりとして渡した。この時、ウィルはこの石炭の燃えさしを手に入れ、その光が人々に鬼火として恐れられるようになったという。「ジャックランタン」の方は、同じくリンク先のウィキによれば、英語の「Jack-o'-Lantern」で、お馴染みのハロウィンの南瓜ランタンがそれ。アイルランド及びスコットランドに伝わる鬼火のような存在。名前は「ランタン持ちの男」の意。火の玉の姿の他、光る衣装を身に纏うカボチャ頭の男の姿であらわれることもある。生前に堕落した人生を送ったまま死んだ者の魂が死後の世界への立ち入りを拒否され、悪魔からもらった石炭を火種にし、萎びて転がっていたカブをくりぬき、それを入れたランタンを片手に持って彷徨っている姿だとされている(「ウィルオウィスプ」と同伝承)。また、悪賢い遊び人が悪魔を騙し、死んでも地獄に落ちないという契約を取り付けたものの、死後、生前の行いの悪さから天国へいくことを拒否され、悪魔との契約により地獄に行くことも出来ず、蕪に憑依して、この世を彷徨い続けている姿だともされている。こちらにはしかし、旅人を迷わせずに道案内をするという良き一面を持つ伝承もある)。『江戸時代に記された『和漢三才図会』によれば、松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされる』。また同書の挿絵からは、大きさは直径二~三センチメートルから二〇~三〇センチメートルほどで、地面から一~二メートル離れた空中に浮遊すると推察されてある(ここにまさに「耳嚢」の本話の概説が入る)。その外観は『前述の青が一般的とされるが、青白、赤、黄色のものもある。大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまである』。一個か二個しか現れないこともあれば、一度に二十個から三十個も現れ、『時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともある』。幾つもの例を見るに『春から夏にかけての時期。雨の日に現れることが多い』ようである。『水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れるが、まれに街中に現れることもある』。『触れても火のような熱さを感じないものもあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまうものもある』。『鬼火の一種と考えられている怪火に、以下のようなものがある』として、以下の四つが挙げられてある。それぞれのウィキのリンク内容を以下に附す(表題のリンクがそこ)。

不知:九州に伝わる怪火の一種。旧暦七月の晦日の風の弱い新月の夜などに八代海や有明海に現れる。現在これは蜃気楼の一種として解明されている。

●小右衛門火(提灯火):田の畦道などに出没し、地上から高さ一メートルほどの空中を漂い、人が近づくと消えてしまう。四国の徳島県では、一度に数十個もの提灯火が、まるで電球を並べたかのように現れた様子が目撃されている。化け物が提灯を灯していると言われていたことが名の由来で、狐の仕業ともされる。徳島県三好郡などでは、この提灯火のことを狸火(たぬきび)と称する。大和国葛下郡松塚村(現在の奈良県橿原市)では、こうした怪火を小右衛門火(こえもんび)と呼ぶ。

じゃんじゃん火:奈良県各地に伝わる怪火。鬼火の一種とされる。「じゃんじゃん」と音を立てるとされ、心中者や武将などの死者の霊が火の玉に姿を変えたものとする伝承が多い。私は中二の時に買って読んだ今野圓輔氏の編著になる「日本怪談集〈幽霊篇〉」(五六~五八頁)――この本は小学校三年の時に読んで痺れた小泉八雲の怪談・奇談に次いで、私の怪奇趣味の淵源となった忘れ難い書である――のこの名前が頭にこびりついて離れない。私にはとびっきりの怨念の鬼火・人魂として、この名が刻印されてしまっているのである。ついでに脱線しておくと(実は私は箱根繋がりで脱線だと思っていないのだが)、この本にはやはり恐ろしい話として、乗鞍連峰の朝日岳山頂の千町ヶ原「精霊田(しょうらいだ)」での亡者との遭遇譚(昭和二四(一九四九)年の話として別冊「週刊サンケイ」に載るもの)が載るのだが、この「しょうらいだ」という地名が私には何故か、箱根登山電車の駅名「入生田」(いりうだ)と連動してしまっており、あの箱根の駅の名を聴いたり、そこを通り過ぎると、自動的に「ジャンジャン火」が起動して鬼火の群れ見えてしまうのである! 少年期の擦り込みは凄い。こうしてタイピングしていても、五十七の私は、何だか、体がゾクゾクしてきたのである……

天火:「てんか」「てんび」「てんぴ」などと読む。日本各地に伝わる怪火の一種。かつては天火は怨霊の一種と考えられていたともいい、一例として、熊本県天草諸島の民俗資料「天草島民俗誌」に載る伝説によれば、ある男が鬼池村(現在の天草市)へ漁に出かけたが、村人たちによそ者扱いされて虐待され、それがもとで病死した。以来、鬼池には毎晩のように火の玉が飛来するようになり、ある夜に火が藪に燃え移り、村人たちの消火作業の甲斐もなく火が燃え広がり、村の家々は全焼した。村人たちはこれを、あの男の怨霊の仕業といって恐れ、彼を虐待した場所に地蔵尊を建て、毎年冬に霊を弔ったという、とある。このケースは怨念の火が実際に火災を引き起こすという比較的稀なケースと言えるであろう。

『狐火もまた、鬼火の一種とみなす説があるが、厳密には鬼火とは異なるとする意見もある』。以下、上記以外の各種鬼火(見易くするため。表題に●を附し、アラビア数字を漢数字に代えた)。

   《引用開始》

●遊火(あそびび)

高知県高知市や三谷山で、城下や海上に現れるという鬼火。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりする。特に人間に危害を及ぼすようなことはないという。

●いげぼ

三重県度会郡での鬼火の呼称。

●陰火(いんか)

亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる鬼火。

●風玉(かぜだま)

岐阜県揖斐郡揖斐川町の鬼火。暴風雨が生じた際、球状の火となって現れる。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つ。明治三十年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたという。

●皿数え(さらかぞえ)

鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にある怪火。怪談で知られる『皿屋敷』のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れ、皿を数える声が聞こえてくる様子を描いたもの。

●叢原火、宗源火(そうげんび)

鳥山石燕の『画図百鬼夜行』にある京都の鬼火。かつて壬生寺地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がっている。江戸時代の怪談集『新御伽婢子』にもこの名がある。

●火魂(ひだま)

沖縄県の鬼火。普段は台所の裏の火消壷に住んでいるが、鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされる。

●渡柄杓(わたりびしゃく)

京都府北桑田郡知井村(のちの美山町、現・南丹市)の鬼火。山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉。柄杓のような形と伝えられているが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされる。

●狐火(きつねび)

様々な伝説を産んできた正体不明の怪光で、狐が咥えた骨が発光しているという説がある。水戸の更科公護は、川原付近で起きる光の屈折現象と説明している。狐火は、鬼火の一種とされる場合もある。

   《引用終了》

『まず、目撃証言の細部が一致していないことから考えて鬼火とはいくつかの種類の怪光現象の総称と考えられる。雨の日によく現れることから、「火」という名前であっても単なる燃焼による炎とは異なる、別種の発光体であると推察されている』。『注目すべきは昔はそんなに珍しいものでもなかったという点である』。『紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていた。当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、後述する元素のリンを指す言葉ではない』(所謂、燐光という感覚的な発光現象の謂いであろう)。『一方の日本では、前述の『和漢三才図会』の解説によれば、戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したものとされていた』。「和漢三才図会」から一世紀後の十九世紀以降の日本に於いては、『新井周吉の著書『不思議弁妄』を始めとして「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と語られるようになった。この解釈は』大正から昭和初期頃まで『支持されており、昭和以降の辞書でもそう記述されているものもある』。『発光生物学者の神田左京はこれを』、一六九六年に『リンが発見され、そのリンが人体に含まれているとわかったことと、日本ではリンに「燐」の字があてられたこと、そして前述の中国での鬼火と燐の関係の示唆が混同された結果と推測している』。『つまり死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象だったと推測される』とある。

 私の亡き母も少女時代に墓の傍で光るものを見て驚いたが、父(私の祖父。歯科医)が「あれは人間の骨に含まれる燐(リン)と呼ばれる成分が発光するに過ぎない」と言われて、母は亡くなるまでまでそう思っていた。

『これで多くの鬼火について一応の説明がつくが、どう考えてもリンの発光説だけでは一致しない証言もかなり残る』。『その後も、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという説、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説などが唱えられており、現代科学においては放電による一種のプラズマ現象によるものと定義づけられることが多い』。『雨の日に多いということでセントエルモの火(プラズマ現象)と説明する学者もいる。物理学者・大槻義彦もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えている』。『さらに真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性も』あろうとある。『いずれの説も一長一短がある上、鬼火の伝承自体も前述のように様々であることから、鬼火のすべてをひとつの説で結論付けることは無理があ』り、『また、人魂や狐火と混同されることも多いが、それぞれ異なるとする説が多い一方、鬼火自体の正体も不明であるため、実のところ区別は明確ではない』とある。こうした超常現象のウィキ記載はなかなか難しいが、私はこの多様な形態と起源ン持つ「鬼火」をかなりよく書いていると思う(言っておくが、これは多量引用のお世辞でない)。

 因みに、申し添えておくと、私のサイトとブログの「鬼火」とは、この鬼火では、実は、ない。これはサイト・トップの写真やブログの画像の「 La fête est finie. 」(祭りは終わった。)見て戴ければ分かる通り、私の偏愛する映画 Drieu La Rochelle/Louis Malle "LE FEU FOLLET" (邦訳題「消えゆく炎」=映画邦題「鬼火」)の「鬼火」である。私個人は主人公 Alain の自死に至るまでのシンボルであり、またアランが寄って無名戦士の墓を自分のベッドと誤って寝ていたという、笑いを誘うエピソードを軽蔑するブランシオンに――『あなたに申し上げよう。酔って墓の上に眠っても、何も面白くない。眠るのなら墓の中に寝るべきだ――』――というシーンの向こうに、墓の蠟燭の朧に揺らめく形象でもあるのである――

・「丸く中」底本には「中」の右に『(宙)』と訂正注を打つ。

・「天狗火」ウィキの「天狗火」を引く(注記号は省略した。下線部やぶちゃん)。『天狗火(てんぐび)は、神奈川県、山梨県、静岡県、愛知県に伝わる怪火』で、『主に水辺に現れる赤みを帯びた怪火。その名が示すように、天狗が超能力によってもたらす怪異現象のひとつとされ、神奈川県や山梨県では川天狗の仕業とされる。夜間に山から川へ降りて来て、川魚を捕まえて帰るとも、山の森の中を飛び回るともいう』。『人がこの火に遭遇すると、必ず病気になってしまうといわれている。そのため土地の者はこの火を恐れており、出遭ってしまったときは、即座に地面にひれ伏して天狗火を目にしないようにするか、もしくは頭の上に草履や草鞋を乗せることでこの怪異を避けられるという』。『遠州(静岡県西部)に現れる天狗火は、提灯ほどの大きさの火となって山から現れ、数百個にも分裂して宙を舞うと言われ、天狗の漁撈(てんぐのぎょろう)とも呼ばれている』。『愛知県豊明市には上記のように人に害をなす伝承と異なり、天狗火が人を助けたという民話がある。昔、尾張国(現・同県)東部のある村で、日照り続きで田の水が枯れそうなとき、川から田へ水を引くための水口を夜中にこっそり開け、自分の田だけ水を得る者がよくいた。村人たちが見回りを始めたところ、ある晩から炎の中に天狗の顔の浮かんだ天狗火が現れ、水口を明るく照らして様子をよく見せてくれるようになった。水口を開けようとする者もこの火を見ると、良心が咎めるのか、明るく照らされては悪事はできないと思ってか、水口を開けるのを思い留まるようになり、水争いは次第になくなったという』。『また同県春日井市の民話では、ある村人が山中で雷雨に遭い、身動きできずに木の下で震え上がっていたところ、どこからか天狗火が現れ、おかげで暖をとることができた上、道に迷うことなく帰ることができたという』。『しかしこの村では天狗火が見える夜に外に出ると、その者を山へ連れ去ってしまうという伝承もあり、ある向こう見ずな男が「連れて行けるものならやってみろ」とばかりに天狗火に立ち向かったところ、黒くて大きな何かがその男を捕まえ、山の彼方へ飛び去っていったという』。以下、鳥山石燕の「百器徒然袋」にある天狗火、松明丸(たいまつまる)の図と解説を載せ、『火を携えた猛禽類のような鳥として描かれ』、『天狗礫(天狗が降らせる石の雨)が発する光で、深い山の森の中に現れるとされる。暗闇を照らす火ではなく、仏道修行を妨げる妖怪とされる』とある。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鬼火の事 

 

「……大御番の在番に箱根宿に泊まり、夏のことなれば、同勤の面々と一つ旅宿にうち寄よって、嶺に開いた座敷の縁側で酒なんど酌み交わしつつ、涼んでおったところ……

――向うの山の中腹より

――一つの火が

――これ

――丸(まある)き形となって

――フゥワリ

と宙へ上がったを仲間内の者が見つけ、

「……あれは何じゃろう?」

と、皆して不審がっておったところ、これが、突然、

――二つに分かれ

――また

――飛び廻り

――あるいは集まり

――または

――幾つにも分かれては

……これ、あたかも――そうやって火の玉が魂を持って遊び興じておる――ようにしか見えませなんだのぅ。

 やがて、何と!それらが、今度はこちらへ向かって飛び来たるような雰囲気になって御座ったによって、我ら皆、驚きて、

「……あ、あの妖しきものは!」

「……あれぇ! こっちを向いたぞ!」

「……何(なん)なんじゃあッ! ありゃア!」

と高声(たかごえ)に語り合(お)うておったところが、旅宿の男がこれを聴きつけ、足早に我らが座敷へと参るや、

「――さ! さっ! は、早(はよ)うに内へお入りなされませ!――こ、これは後々(あとあと)――これ、恐ろしき害も、あるものに御座いますればッ!」

と、殊の外、恐るるさまにて、早々にその座敷の雨戸なんどをまで皆、閉(た)て切ってしもうたによって……我ら、孰れも皆、何となく、これ、怖しゅうなりましての……皆して、そそくさと、宿内(やどうち)の奥座敷へと移って御座った。……

……これは……何でも

――天狗火(てんぐび)

なんど申すもので御座ったらしい。…………」

と、石川翁の語って御座った。

耳嚢 巻之九 其境に入ては其風をかたく守るべき事

 

 其境に入ては其風をかたく守るべき事

 

 石川某、大御番を勤(つとめ)し頃、いづれの宿にやとまりけるに、風雨烈敷(はげしく)、殊外(ことのほか)あれけるゆゑ、主人よりも夫々申付(まうしつけ)ぬるに、此宿のあるじ、當所はかかる荒(あれ)の節は外へは人を出し不申(まうさざる)事にて、人馬の賃錢さへ受取に不參(まゐらざる)なり、必(かならず)御供の面々も外出をとゞめ給へといふ故、二三人合宿(あひやど)なれど、銘々主人より用達(ようたし)へ申付(まうしつけ)、外出を禁じけるに、同宿の御番衆の家來中間用達へ、先刻建場(たてば)にて草履(ざふり)の錢を貸(かし)たり、取(とり)に行度(ゆきたき)由を申(まうす)に付(つき)、主人よりの申付なれば決(けつし)て難成(なりがたし)と申(まうす)を、承知なして、又候(またぞろ)來り同樣相願へども、難成と再々應(さいさいおう)さし留(とめ)ぬれば、次の間の葛籠(つづらかご)など積(つみ)たる所に臥(ふせ)り居(をり)けるが、用達もの、渠(かれ)が樣子心許(こころもと)なく、立𢌞(たちまは)り搜しけるに最前臥(ふし)たる所に見へざれば、所々搜しけれど不見(みえざる)故、亭主を呼び猶(なほ)火をともし隈々を搜すに見へず。しかれば外へ出(いで)ぬらんと尋(たづね)しに、亭主答へけるは、こよひの如く大荒(おほあれ)の日は異變ある事、此土地のならはしなれ、見給へ、口々には錠締(ぢやうしま)りして決して出給ふ事なりがたしといふ。さるにても不思議なりとて、猶(なほ)火を燃しくまぐま尋(たづぬ)るに、大戶(おほと)締(しま)りあれど右戶に一寸斗(ばかり)もあらん、ふし穴あり。其穴の邊より其あたり血流れたゝへ、節穴も血に染(そみ)けるゆゑ、扨は右の穴より引(ひき)や出しけん、妖怪の所爲(しよゐ)なりと、いづれも舌をふるひ恐れけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。本格怪談物。失踪と血だけ。これが怖い。

・「石川某」この人物、先行作に「石川某」以外に「石川翁」というのもあり、次の項に「石川翁」がまた出るから、これは恐らく総て同一人物と思われる。「翁」と呼ぶ以上は、「卷之九」の執筆推定下限の文化六(一八〇九)年で根岸は七十二歳であるから、それより高齢の人物で、宿場町を忘れているというのも納得出来る気がする。
 
・「大御番」大番。何度も注してきたが、ここでは交替の大番衆の一行で、人数も多いことが知れるので、この辺りで、ウィキの「大番を用いて再注しておく。『江戸幕府の組織の一つで、常備兵力として旗本を編制した部隊』。『常備兵力としての大番は、同様の組織である五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)の中で最も古く』、天正一四(一五八六)年頃に『徳川家康が徳川家の軍制を変更した際に編制されたと考えられている』文禄元(一五九二)年に行われた江戸城改築に伴い、当時あった六組の屋敷地を『江戸城北西側に設けている(千代田区には一番町から六番町までが静岡市葵区には一番町から八番町までの町名が現在も残る)。開幕前の大番は松平一族や家康の縁類が番頭に就く事が多く、この当時は後の両番のような親衛隊的側面も有していた』。大番は当初は六組、『その後の増強と幕府制度の整備にともない、本丸老中支配として』十二組となり、『徳川秀忠が将軍に就任し、書院番・小姓組(創設当初は花畑番)が新たに創設されると親衛隊側面はそちらに移行し、大番は幕府の直轄軍事力となってゆく。そのため、将軍・大御所・世子の親衛隊ではない大番が西の丸に置かれる事はない』。一つの組は番頭一名・組頭四名・番士五十名・与力十名・同心二十名で構成され、番頭は役高五千石の菊間席で、『しばしば大名が就任した(開幕初期はその傾向が特に強い)。組頭は』役高六百石躑躅間席、『番士は持ち高勤め(足高の制による補填がない)であるがだいたい』二百石高の旗本が就任した。『役高に規定される番士の軍役から計算した総兵力は』四百人強となり、二万石程度の大名の軍役に匹敵した』。『職務は、戦時においては旗本部隊の一番先手として各種足軽組等を付属した上で備の騎馬隊として働き、平時には江戸城(特に二の丸』『下および要地の警護を担当する。大番の警護する要地には二条城および大坂城があり、それぞれに』二組が一年交代で在番した。この石川某はその二条城或いは大坂城大御番で、役格は番士クラスか。

・「用達」岩波版長谷川氏注に、『用達役。必要なものを調達する役』とある。

・「建場」「立場」が一般的表記。五街道やその脇街道に設けられた宿場と宿場との間に於いて、主に人足や駕籠舁きなどが途中休憩をするために設けられた場所。継立場(つぎたてば)・継場とも称した。ウィキの「立場」によれば、『原則として、道中奉行が管轄した町を言う。五街道等で次の宿場町が遠い場合その途中に、また峠のような難所がある場合その難所に、休憩施設として設けられたものが立場である。茶屋や売店が設けられていた。俗にいう「峠の茶屋」も立場の一種である。馬や駕籠の交代を行なうこともあった。藩が設置したものや、周辺住民の手で自然発生したものもある。また、立場として特に繁栄したような地域では、宿場と混同して認識されている場合がある』。『この立場が発展し、大きな集落を形成し、宿屋なども設けられたのは間の宿(あいのしゅく)という。間の宿には五街道設置以前からの集落もある。中には小さな宿場町よりも大きな立場や間の宿も存在したが、江戸幕府が宿場町保護のため、厳しい制限を設けていた』。『現在、五街道やその脇街道沿いにある集落で、かつての宿場町ではない所は、この立場や間の宿であった可能性が高い』。

・「大戶」「おおど」とも読める。家の表口にある大きな戸。

・「一寸」三・〇三センチメートル。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 「郷に入ったら郷に従え」という諺は堅く守らねばならぬという事 

 

 石川某が大御番を勤めて御座った頃のこと――何処(いずこ)で御座ったか、昔のことなので失念致いた――同じ大御番衆らと、とある宿場に泊まったことがあった、そこでの出来事と申す……

 

……その日は、風雨激しく、殊の外、大荒れに荒れて御座ったれば、我らは、じきに供の者どもへ、

「――それぞれ、重々、用心なすように。」

と、申しつけておいた。

 すると、すぐ、宿の主人よりも、

「……当所にては、このようなる荒れの折りは、これ、決して外へ人を出さぬこと、これを掟(おきて)としてごぜえやす。……そうさ、宿入りの後に、まま参る駕籠や馬の賃銭の受け取りさえも、これ、参ること、ごぜえやせん。……さればこそ、ご覧の通り、皆、立て切ってごぜえやす。……どうか必ず、お供の方々のご外出も、これ、堅く、お留め下さいますよう、お頼(たの)申します。……」

と申し出のあったによって、二、三人の大御番衆朋輩(ほうばい)も同宿であったによって、それぞれの主人より、雑貨日用の品なんどの用達役(ようたつやく)の使用人を呼びつけ、堅く申し付けて、外出を禁じた。

 ところが、さる御仁の中間(ちゅうげん)が、用達役(ようたつやく)の者に、

「……ついさっき、宿場の手前の立場(たてば)にて、分宿なさっておらるる御番衆の、知れる中間に草履(ぞうり)の銭を貸したんで。そいつをちょいと、返えしてもらいにいきてえんだが。」

と申し出て参った。されど、用達(ようたつ)の男は、

「――ご主人さまよりの、きついお申し付け、これ、御座ったによって、決して、ならぬ!」

と厳しく制したれば、

「……へぇ!……」

と一度はしぶしぶ承知致いたものの、またぞろ、同じことを何度も執拗(しつこ)く繰り返し乞うて参る。

 用達(ようたつ)の男はその都度、突っぱね、

「だめじゃと言うら、だめじゃ!」

と禁足を厳命した。

 そのうち、結局、諦めたものか、控えの間の、道中葛籠(つづら)などを積み上げた所に、ふて腐れて、ごろりと横になったを見た。

 しかし、暫くしてこの用達(ようたつ)の男、どうもその中間の態度が、なんとのぅ心に引っ掛かったおったによって、様子を見にいってみれば、さっきふて寝しておったと思うた所には、これ最早、姿が――ない。

 あちこち泊まれる階を捜し廻ってみても、これ、やはり――おらぬ。

 宿中、厠の内なんどまでも覗いてみたが、これ、やはり――おらぬ。

 されば用達(ようたつ)の男、宿の主人を呼び、燈(ともし)を持って来させ、表の三和土(たたき)や土間の暗がりの隅々まで、捜しみたれども、これ、やっぱり、何処にも――おらぬ。

 されば、用達(ようたつ)の男、

「……さても……これ、外へと出た、か……」

と呟いたところが、宿の主人、これ、大きに驚き、

「……此度(こたび)の如く大荒れの日は、これ……必ずや、何ぞ妖しき怪異のあると……当地にては言い習わしてごぜえやす。……さればこそ、ご覧下せえやし! もう、あなたさま方がお着きになられてすぐに、出入り口という出入り口には、これ、ほれ!――心張り棒を差しおき、押しても引いても動かんようにした上――用心にも用心を重ね――かくも枢(くるる)を落し――こちらには、ちゃあんと、これ、錠をも鎖(さ)してごぜえやす。……さればこれ、この宿から出ていくなんちゅうことは、とっても出来る芸当にてはありゃしません! ここいら内を見ても、どこかを外して、誰か出ていったちゅうような、跡もなんも、これ、ありやしませんでのぅ?!」

と言う。

 確かに主人の言う通りで、中間が外へ出た形跡は、これ全く御座らなんだ。

「……確かに。……そうは申せど……これ……どこにもおらぬのも、また、確かなこと。……まっこと、不思議なことじゃ……」

と呟きつつ、なおも燈火(ともしび)を持って、宿の表正面の内側を見て廻ったところが、確かに大戸(おおど)は堅く閉ざされてはあったものの、厚いその戸板の丁度、真ん中あたり――人の眼の高さの辺り――そこに――これ――一寸ばかりの――小さなる節穴の――これ――あった。

……が……

――その節穴の辺りから……

――ぬうらり

――べったりと……

――血(ちい)が……

――ずうーっと……

――下へと垂れ……

――そこの土間に……これ……

――大きなる盛り上がった血溜りを成しておった。…………

……そうしてまた……

――その節穴を照らしみたところが……

――その小さなる節穴の周囲には……これ……

――凝り固まって……

――何やらん……

――べとべとになったる……

――肉片やら血(ちい)やら分からぬ……

――おぞましきものが……これ……

――こびりついておった。…………

 されば、

「……さ、さては……こ、この、ち、ちいさき穴より……そ、外へ……ひひひ、引きずり、出だいた、ものか?!……こ、これはぁ……もう……よ、妖怪の……仕業(しわざ)としか、思えぬわッ!!……」

と、これ、我らも含め、旅籠(はたご)内の者は皆一人残らず、その怪異に舌を震るわせて、戦(おのの)いて御座いましたじゃ。…………

北條九代記 卷第七 天變地妖御祈禱

      ○天變地妖御祈禱

去年の夏の比より天變打續きければ、武藏守泰時、深く痛思(いたみおもは)はれて、御祈り(おんいのり)の爲、諸寺の驗者(けんじや)に仰せて、五壇の法、一字金輪(いちじこんりん)、烏瑟差摩(うすさま)明王の祕法をぞ行ぜられける。諸國の國分寺にしては、最勝王經を轉讀すべき由、京都より宣下あり。民部大夫入道行然を奉行として、關東の分國に施行(せぎやう)せらる。「承久兵亂の後、諸國郡郷(ぐんがう)、莊園、新補(しんふ)の地頭等所務の事、まづ諸國の守護人(しゆごにん)は、大犯(だいぼん)三條の外は、過分の沙汰を致すべからず。守護地頭に就きて、領家(りやうけ)の訴訟、是あるの時、六波羅の召(めし)に應ぜざるの由、二度は宥恕(いうじよ)すべし。相觸(あひふるゝ)事三度に及ばゞ、仰付(おほせつ)けらるべし、次に竊盜(せつたう)の事、錢百文より以下の小犯(せうぼん)は、一倍(ばい)を以て償ふべし。百文以上は重科(ぢゆうくわ)なり。この身を搦捕(からめと)りて禁(いまし)むべし。妻子、親類、所從(しよじゆう)の輩(ともがら)、同心せざる者は煩(わづらは)すべからず。本(もと)の如く居住せしむべし。洛中諸社の神事祭禮に於いて、非職凡下(ひしよくぼんげ)の輩、武勇(ぶよう)を好む條、尤(もつとも)停止すべし」となり。又この間、炎旱(えんかん)頻(しきり)にして、疫癘(えきれい)諸國に流行す、是に依て、天下泰平國家豐稔(ほうしん)の爲、鶴岡八幡宮にして、三十口(く)の學僧を以て、大般若經を讀誦せしめ、重(かさね)て十日の問答講(もんだふかう)をぞ修せられける。五月中旬より、南風吹いて、日夜に小休(をやみ)なし。是に依て、由比〔の〕浦鳥居の前に於いて、風伯祭(かぜのかみまつり)行はる。法橋圓爾(ゑんに)、其(その)祭文(さいもん)を書き進ず。關東に、この祭の例(れい)なしといへども、京都に行はれしかば將軍家、御使を以て武蔵守に仰付けられ、大膳〔の〕亮泰貞、奉行す。この效驗(かうけん)にや、六月十七日、南風、漸く靜(しづま)りけり。

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十七の寛喜三(一二三一)年四月十九日・二十一日、五月十三日・十七日、六月十五日・十六日に基づく。

「去年」寛喜二年。

「夏の比より天變打續きければ」前の三章を参照のこと。

「驗者」個人的には「げんざ」と読みたい。加持祈禱を行い、優れた功徳を齎し、また悪魔退散調伏を修すること出来る、そうした加持祈禱を修する資格を持った僧。

「五壇の法」特に密教で行われる修法の一つで、五大明王(不動明王〔中央〕・降三世(ごうざんぜ)明王〔東方〕・大威徳明王〔南方〕・軍荼利(ぐんだり)明王〔西方〕、及び真言宗では金剛夜叉明王を、天台宗では烏枢沙摩(うすさま)明王(後注参照)を北方に配するのが一般的)を個別に五壇に勧請安置なし、それら総てに国家安泰・兵乱鎮定・現世利益などを祈願する修法。天皇や国家の危機に際して行われる非常に特別な秘法である。「五壇の御修法(みずほう)」「五大尊の御修法」などとも称する。

「一字金輪」既注であるが、再注する。「一字金輪」は一字頂輪王・金輪仏頂などとも呼ばれ、諸仏菩薩の功徳を代表する尊像を指す。真言密教では秘仏とされ、息災や長寿のためにこの仏を祈る一字金輪法は、古くは東寺長者以外は修することを禁じられた秘法であったと言われる(国立博物館の「e国寶」の「一字金輪像」の解説に拠る(リンク先に一字金輪像の画像あり)。なお、そこでは「きんりん」と読んでいる)。

「烏瑟差摩明王の祕法」烏枢沙摩(うすさま)明王(Ucchuma)は、密教における明王の一尊で、「烏芻沙摩」「烏瑟娑摩」「烏枢沙摩」などとも表記される。真言・天台・禅・日蓮宗などの諸宗派で信仰され、台密では五大明王の一尊とする。火の神・厠の神として信仰される。参照したウィキの「烏枢沙摩明王」によれば、「大威力烏枢瑟摩明王経」などの『密教経典(金剛乗経典)に説かれ』る神で、『人間界と仏の世界を隔てる天界の「火生三昧」(かしょうざんまい)と呼ばれる炎の世界に住し、人間界の煩悩が仏の世界へ波及しないよう聖なる炎によって煩悩や欲望を焼き尽くす反面、仏の教えを素直に信じない民衆を何としても救わんとする慈悲の怒りを以て人々を目覚めさせようとする明王の一尊であり、天台宗に伝承される密教(台密)においては、明王の中でも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊に数えられる』。『烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた』。『特に有名な功徳としては便所の清めがある。便所は古くから「怨霊や悪魔の出入口」と考える思想があったことから、現実的に不潔な場所であり怨霊の侵入箇所でもあった便所を、烏枢沙摩明王の炎の功徳によって清浄な場所に変えるという信仰が広まり今に伝わっている。現在でも曹洞宗寺院の便所(東司)』(「とうず」と読む)『で祀られている』。『また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ(これが「烏枢沙摩明王変化男児法」という祈願法として今に伝わっている)、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた』。また「伝承」の項には、『ある時、インドラ(帝釈天)は仏が糞の臭気に弱いと知り、仏を糞の山で築いた城に閉じ込めてしまった。そこに烏枢沙摩が駆けつけると大量の糞を自ら喰らい尽くし、仏を助け出してみせた。この功績により烏枢沙摩は厠の守護者とされるようになったという』という強烈な話が載る。『烏枢沙摩明王は彫像や絵巻などに残る姿が一面六臂であったり三面八臂であるなど、他の明王に比べて表現にばらつきがあるが、主に右足を大きく上げて片足で立った姿であることが多い(または蓮華の台に半跏趺坐で座る姿も有名)。髪は火炎の勢いによって大きく逆立ち、憤怒相で全ての不浄を焼き尽くす功徳を表している。また複数ある手には輪宝や弓矢などをそれぞれ把持した姿で表現されることが多い』とある。グーグル画像検索「烏枢沙摩明王」をリンクしておく。

「最勝王經」金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう 梵語: Suvara-prabhāsa Sūtra スヴァルナ・プラバーサ・スートラ)。「金光明経」とも呼ぶ。四世紀頃に成立したと見られる大乗経典の一つで、日本に於いては「法華経」「仁王経(にんのうきょう)」とともに鎮護国家を祈る護国三部経の一つに数えられる(参照したウィキの「金光明経」によれば、古代サンスクリットの原題は「スヴァルナ」(suvara)が「黄金」、「プラバーサ」(prabhāsa)が「輝き」、「スートラ」(sūtra)が「経」、総じて「黄金に輝く教え」の意とある)。『主な内容としては、空の思想を基調とし、この経を広めまた読誦して正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされ』、『日本へは、古くから金光明経(曇無讖訳)』(どんむしん/どんむせん 三八五年~四三三年:中部インド出身の僧で四一二年に五胡十六国の一つで現在の甘粛省にあった北涼(ほくりょう)を訪れ、王の保護のもと、経典の訳業に従事する一方、政治顧問ともなって「北涼の至宝」と仰がれた。彼の行った「大般涅槃経」の翻訳は涅槃宗〔中国仏教の宗派の一つで同経典に立脚し、この世の生きとし生けるものには本来仏陀となる可能性がそなわっている《一切衆生悉有仏性》とする思想を根本義とする〕の濫觴となり、教学に及ぼした影響が大きい。ここは主に「ブリタニカ国際大百科事典」を参考にした)が伝わっていたと思われるが、その後の八世紀頃になって唐代の僧義浄(ぎじょう 六三五年~七一三年)の訳になる「金光明最勝王経」が『伝わり、聖武天皇は金光明最勝王経を写経して全国に配布し』た。また、天平一三(七四一)年には『全国に国分寺を建立し、金光明四天王護国之寺と称された』とある。まさに国分寺はこの経典自体のシンボルでもあったことが窺われる。

「民部大夫入道行然」政所執事にして評定衆の二階堂行盛。

「施行」「吾妻鏡」を見ると、以下の「北條九代記」本文に書かれた内容は、同年四月二十一日(諸国新補地頭の所務に関する達し及び五箇条の得分率法/六波羅への非職狼藉停止と強盗殺人罪及び窃盗罪の処断法)と五月十三日(諸国守護地頭の大犯三箇条の厳守と検非違所の職務の厳正/六波羅に対する訴訟の適正迅速な対応の確認/諸国守護地頭への窃盗・謀叛・強盗(夜討)罪の処断法)に別々に分けて載っているものを一緒くたにしてしまっていることが分かる。

「諸國郡郷、莊園」後掲するように「吾妻鏡」寛喜三 (一二三一) 年四月二十一日の条で、「承久の兵乱の後、諸國の郡・郷・庄・保の新補地頭所務の事、五ケ條の率法を定めらる」と出る。この『郡・郷・庄・保』は行政上のそれぞれの地頭が管理した国衙(こくが)領(平安後期以降、荘園化せずに諸国に置かれた国司の支配下に置かれた国庁の領地。国領。)の構造単位名を示す。大きな「郡」から最小単位の「保」である。

「新補の地頭」新補地頭(しんぽじとう:現行の読みでは「しんぽ」が一般的)。特に承久の乱(一二二一年六月)後の論功行賞によって京方の貴族・武士らの所領三千余ヶ所の土地を吸収、新たに新補率法(後注する)に基づいて補任された地頭職を指す。なお、それ以前の地頭は「本補(ほんぽ)地頭」と称して区別した(主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「大犯三條」翌貞永元(一二三二)年の八月十日制定された御成敗式目に於いて成文化されることとなる守護の基本的権限。以下、ウィキの「大犯三箇条」に拠る。『その原型は平安時代に追捕の対象とされ、必要に応じて追捕使・押領使が任命・派遣された重犯(重科)の処断に由来する。鎌倉幕府の守護も元は追捕使・押領使の性格を受け継いでおり、「重犯」のことを「大犯」とも称した。通説としては』、「御成敗式目」第三条本文が例示する三つの守護の有する権限、

 大番催促(京の警備)

 謀反人の検断

 殺害人の検断

を「大犯三箇条」と称したとされている。但し、ウィキには近年の異論が示されており、『特に大番催促については、守護の検断権の対象ではあったものの、「大犯」として取り扱われていた実例が確認できないことを指摘されている。更に「大犯三箇条」の用語そのものが鎌倉時代には存在せず、用語の成立時期を南北朝時代とする説も唱えられるようになった』とあり、『そもそも、夜討強盗山賊海賊の検断を大犯に加える考えは』、「御成敗式目」第三条の承久の乱後に特に付け加へられた「付」に、『既に守護の職権として掲げられているものである。また、「謀叛(人)・殺害(人)・刃傷(人)・夜討・強盗」を「重犯五箇条」とする考え方が鎌倉時代の段階で既に存在していたことが知られて』おり、『更に六波羅探題と守護とのやりとりにおいて、大番催促・謀叛・殺害等の三箇条を指して「関東御下知三ヶ条」と称している事例』『があり、鎌倉時代における上記三箇条については「大犯三箇条」に代わってこの呼称を採用すべきであるとする見解もある』とある。参考までに「御成敗式目」第三条」を以下に示しておく。原文は Tomokazu Hanafusa 氏のサイト「世界の古典つまみ食い」の「『御成敗式目(貞永式目)』一覧」を漢字の一部や記号・字空きを変更して使用、訓読と注記も一部参考にさせて戴いた(異なる条々のデータも見掛けるが、これを採用させてもらう。リンク先最下部に引用元が明記されてあり、それを見る限り、信頼度は高いと判断した)。

   *

 

第三條

一、諸國守護人奉行事

右々大將家御時所被定置者、大番催促謀叛殺害人〔付、夜討強盜山賊海賊〕等事也、而至近年分補代官於郡鄕、宛課公事於庄保、非國司而妨國務、非地頭而貪地利、所行之企甚以無道也、抑雖爲重代之御家人、無當時之所帶者、不能驅催、兼又所々下司庄官以下、假其名於御家人、對捍國司領家之下知云々、如然之輩可勤守護所役之由、縱雖望申一切不可加催、早任大將家御時之例、大番役幷謀叛殺害之外、可令停止守護之沙汰、若背此式目相交自餘事者、或依國司領家之訴訟、或就地頭土民之愁鬱、非法之至爲顯然者、被改所帶之職、可補穩便之輩也、又至代官可定一人也。

〇やぶちゃんの書き下し文

第三條

一、諸國守護人奉行の事

右、右大將家の御時、定め置かるる所は、大番催促・謀叛・殺害人〔付。夜討(ようち)・強盜・賊・海賊。〕等の事なり。而るに、近年に至りて、代官を郡・郷に分補(ぶんぽ)し、公事(くじ)を庄・保に宛(あ)て課(おほ)せ、國司に非ざるに國務を妨げ、地頭に非ざるに地利を貪る所行の企て、甚だ以つて無道なり。そもそも重代の御家人たりと雖も、當時の所帶(しよたい)無き者は、驅け催すこと能はず。兼ねて又、所々の下司(げし)・庄官以下、その名を御家人に假り、國司・領家の下知と對捍(たいかん)すと云々、然るごときの輩は、守護役を勤むべきの由、縱(たと)ひ望み申すと雖も、一切、催(さい)を加ふべからず。早く右大將家御時の例に任せ、大番役幷びに謀叛・殺害の外、守護の沙汰を停止(ちやうじ)せしむべし。若し、此の式目に背き、自餘(じよ)の事に相ひ交(かかは)る者、或ひは國司・領家の訴訟により、或ひは地頭土民の愁鬱(しふうつ)に就き、非法の至り、顯然たる者は、所帶の職を改められ、穩便の輩(ともがら)を補(ほ)すべきものなり。又、代官に至つては一人(いちにん)を定むべきなり。

 

 以下、語注を附す。

・「奉行」政務分掌によって担当した公務を執行する、その権限と範囲。

・「大番催促」「大番」は京都の内裏・諸門等の警固役である京都大番役のこと。鎌倉幕府の警固に当たる者は特に鎌倉大番役といった。「催促」は、その役目を御家人に命ずる権限のこと。

・「代官」この文脈では守護の代理の役人を言う。

・「分補」任命の謂いであろうが、この場合は幕府の正式な命を経ずにという条件であることに注意。このような勝手な任命は認めない、代官は公認で一名のみというのが、この条の主旨であるから、「勝手に遣わして」ぐらいで訳すのが無難かと思われる。

・「公事」ここは中世に於いて年貢以外の雑税や賦役を総称する意。

・「庄・保」前述の通り「庄」(荘園)と「保」、国衙領の最下位の単位である「保」とそれに次ぐ「荘」。

・「課(おほ)せ」「課(おほ)す」(サ行下二段活用他動詞)で「負ほす」「科す」等とも漢字表記した。雑税や賦役を割り当てて命じる、の意。

・「国務」国司の支配権、ひいてはそうした全国衙領の支配権の首座にある幕府の権限。

・「地利を貪る」本来の国司や地頭の権限を冒して、不当に地租やそこから生まれる利益を搾取している。

・「御家人」鎌倉幕府将軍直属の家臣として認定された者。本領安堵・新恩給与・官位推挙などの保護を受けたが、御家人役と呼ばれる多くの義務をも負わされた。

・「当時」現在。

・「所帶」所領。開幕以来の御家人の中には所領を売ってしまい、所領や所職を殆んど持たない「無足の御家人」と称する者が増加していた。幕府は御家人領の保護に努めるとともに非御家人への流出(売買・譲渡・質入)を阻止しようとし、早い段階から開幕以後に幕府から受けた新恩所領の売買を禁じていたが、この後の仁治元(一二四〇)年には本領などの私領に対しても非御家人への売買を禁止じ、永仁五(一二九七)年の永仁の徳政令などもこうした御家人領保護政策の一環として考えられてはいるが、それでも御家人領の流出は収まらず、それによって幕府の基盤が脅かされることともなったのであった(ここは主にウィキの「御家人領」に拠った)。

・「駆け催すこと」警備実務や地頭の管理観察権を指すが、ここは主に前記の大番役を担当することと考えてよいであろう。

・「下司」荘園の現地にあって実務を掌った荘官の一種。古く預所(あずかりどころ:平安末期以後の荘園制に於いて、領主に代わって下司・公文(くもん)などといった下級荘官を指揮して年貢徴集や荘園管理にあたった職。遙任国司同様、現地に赴かない。)以上の在地しない荘官などを上司・中司と称したのに対する実務荘官で、多くは武士であった。

・「庄官」荘官。本来は領家(後注参照)や本所・本家(後注参照)の命を受けて、荘園を管理するという役だが、実質的には実際の持ち主と変わらぬ実権を握っており、面倒なことに、こうした者も自ら「領家」と称した。荘園制の当初は上位の領主(上司)らから派遣されていたが、後には在地の武士の内の豪族が任命されるようになった。されば「御家人に假りて」(御家人を自称・詐称して)、そうした越権行為を行使し得たのである。

・「領家」荘園の実質上の支配を行った荘官の上にある名義上の荘園領所有者。荘園の名目上の持ち主。この上にさらに「本所」「本家」と呼ばれる、その上の名目上の持ち主がおり、名目上の主座の支配者となることによって利益の一部を得ていた貴族(公卿である場合が多かった)・寺社などがそれに当たる。このようにこの当時の国衙領は上司・中司・下司の大別の中に、さらに異様に多層的で複雑怪奇な支配構造が存在していた。

・「對捍す」本来は反対するの意であるが、転じて、逆らい拒む・敵対するの意となり、特に中世以後は、国司や荘園領主の課役・年貢徴収に対し、下位の地頭や名主などが反抗して従わないこと、納付命令に背いて滞納することを言う。

・「守護役」守護ではなく、前述の「駆け催すこと」、大番役を担当することを指す。

・「催」採用。

・「右大將家」頼朝。

・「沙汰」権限。

・「停止」差し止めること。

・「自餘」爾余。このほか。そのほか。

・「交(かかは)る」「かる」「かかる」とも読める。関わる。関係する。

・「愁鬱」愁訴。

   *

 以下、「北條九代記」の本文注に戻る。

「過分の沙汰」余分な取り締まり、過剰な治安処罰といったものを越権行為と戒めているのであるが、実際には以下の訴訟で匂わされているように、暗に、守護職自身やその支配下の地頭らの殆どが行っていた、年貢横領罪を牽制することが目的であったものらしい。

「仰付けらるべし」幕府に直ちに注進せねばならない。

「錢百文」ネット上の情報では、当時の一文は六十円~百五十円相当とある。米一石が約一〇〇〇文(現代の約六万円相当)、一日の職人の労賃が約一〇〇文(現代の約一万円五千円ほど)であった。なお、当時の流通貨幣は宋から輸入した一文銭の渡来銭だけであった。

「一倍」二倍の賠償額。百文以下の窃盗なら被害者に二倍の弁償をさせて処理せよ、流行りの「倍返し」で示談にせよ、というのである。

「妻子親類所從の輩、同心せざる者」窃盗事件の主犯の妻子・親類・配下の者で、共犯として立件出来ない者。

「煩すべからず」処罰対象としてはならない。

「非職」武士以外。武家を「家職」と称した、その対義語。増淵氏の訳は『退官した者』とされるが、採らない。

「凡下」一般の民衆。

「武勇を好む條」祭礼などの際、晴れの場なればと、調子に乗った者らが、乱暴狼藉などの反社会的行動をとったことを指すのであろう。

「豐稔」穀物の豊かな稔り。豊穣。

「三十口」三十人。「口」は人や動物などを数える際の数詞。

「問答講」増淵氏の訳に、『講師と問者とによって経典が説かれるもの』とある。

「由比浦鳥居」かくあるので、現在の一の鳥居に相当するものであるが、位置は同一であったかどうかは不明である。恐らくはもっと八幡宮寄り(下馬四角と現在の一の鳥居の間の中間点辺り)であったと考えられ、しかも拝殿を備えていたことが「吾妻鏡」の他の記述からも分かっている(江戸時代まではこの海に鳥居一番近いそれは「三の鳥居」或いは「大鳥居」と呼称した。詳しくは私の「新編鎌倉志卷之一」の「鶴岡八幡宮」の条の私の詳細な注を参照されたい)。

「風伯祭」風神を祀った神事で、風災を鎮め、同時に豊年満作を祈念した祭祀。

「法橋圓爾」誤り。以下に見る通り、「吾妻鏡」には「法橋圓全」とある。これは現在の山口県の湯梨浜町(旧東郷町)出身の御家人、東郷八郎左衛門尉原田良全なる人物の法号で、彼は実に「御成敗式目」の原案執筆者であった(ネット上ではワード文書で彼について詳細な考証をなさった方の論文を読むことが出来る)。注意しなくてはならないのは、円爾(建仁二(一二〇二)年~弘安三(一二八〇)年)は実在する同時代の僧で、しかも当時、鎌倉におり、以下に引く「吾妻鏡」の寛喜三(一二三一)年五月十七日の条に出るという事実である。ウィキの「円爾」によれば、『駿河国安倍郡栃沢(現・静岡市葵区)に生まれる。幼時より久能山久能寺の堯弁に師事し、倶舎論・天台を学』び、十八歳で得度、『上野長楽寺の栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学』んだ(この間が本話の時間である)。嘉禎元(一二三五)年には『宋に渡航して無準師範の法を嗣い』で、仁治二(一二四一)年に帰国、『上陸地の博多にて承天寺を開山、のち上洛して東福寺を開山する。宮中にて禅を講じ、臨済宗の流布に力を尽くした。その宗風は純一な禅でなく禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本とするものの、禅のみを説くことなく真言・天台とまじって禅宗を広めた。このため、東大寺大勧進職に就くなど、臨済宗以外の宗派でも活躍し、信望を得た』。『晩年は故郷の駿河国に戻り、母親の実家近くの蕨野に医王山回春院を開き禅宗の流布を行った。また、宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称される』とある。

「大膳亮泰貞」既出の陰陽師。

「六月十七日」誤記。後掲するように六月十六日が正しい。

 

 以下、「吾妻鏡」を引用する。まず、寛喜三(一二三一)年四月十九日。

 

○原文

十九日乙亥。爲祈風雨水旱災難。於諸國々分寺。可轉讀最勝王經之旨。宣旨狀去夜到著。仍今日爲民部大夫入道行然奉行。於政所。關東分國可施行之由有其沙汰。

申刻。相摸四郎朝直室〔武州御女。〕男子平産。

○やぶちゃんの書き下し文

十九日乙亥。風雨水旱の災難を祈らんが爲、諸國の國分寺に於いて、最勝王經を轉讀すべきの旨、宣旨の狀、去ぬる夜、到著す。仍つて今日、民部大夫入道行然を奉行として、政所に於いて、關東分國に施行すべきの由、其の沙汰有り。

申の刻、相摸四郎朝直(ともなを)が室〔武州の御女。〕男子、平産す。

・「關東分國」将軍家(鎌倉殿)が支配した五知行国である武蔵・相摸・越後・伊豆・駿河。

・「申刻」午後四時頃。

・「相摸四郎朝直」北条時房四男であったが、長兄時盛は佐介流北条氏を創し、次兄時村と三兄資時は出家したため、時房の嫡男に位置づけられ、次々と出世した。以下、ウィキの「北条朝直」によれば、正室が伊賀光宗の娘で、貞応三(一二二四)年六月の伊賀氏の変で光宗が流罪となってしまい、二十一歳で無位無官であった朝直は、嘉禄二(一二二六)年二月、執権北条泰時の娘を新たに室に迎えるように父母から再三の慫慂を受けたものの、それでも愛妻との離別を拒み、泰時の娘との結婚を固辞し続けたという(「明月記」二月二十二日の条に載る)。翌月になっても、朝直はなおも叔父である執権泰時、連署である父時房の意向に逆らい続け、出家の支度まで始めるという騒動となっている。その後も抵抗を続けたと見られるが、この記載にから、最終的には泰時の娘をもらっている。なお、都の公家にまで届いたこの北条一族の婚姻騒動は「吾妻鏡」には一切記されていない。なお、『北条泰時から北条政村までの歴代執権に長老格として補佐し続けた』ものの、寄合衆には遂に任ぜられていないが、これは寧ろ、彼のせめてもの真意を汲まなかった親族らへの反抗の表現であったのかも知れないと私は思う。

・「武州」北条泰時。

・「男子平産」長男北条朝房かと思われる。

 

 次に、同年四月二十一日の条。

 

○原文

廿一日丁丑。承久兵亂之後諸國郡郷庄保新補地頭所務事。被定五ケ條率法。又被仰遣六波羅條々。先洛中諸社祭日非職輩好武勇事可停止。次強盜殺害人事。於張本者被行斷罪。至與黨者。付鎭西御家人在京輩幷守護人。可下遣。兼又盜犯人中假令錢百文若二百文之程罪科事。如此小過者。以一倍可致其弁。於重科輩者。雖召取其身。至于不同心緣者親類者。不可及致煩費云々。

○やぶちゃんの書き下し文

廿一日丁丑。承久の兵亂の後、諸國の郡・郷・庄・保の新補地頭所務の事、五ケ條の率法(りつぱふ)を定めらる。又、六波羅に仰せ遣はさる條々、先づ洛中の諸社の祭の日、非職(ひしよく)の輩(ともがら)、武勇を好む事を停止(ちやうじ)すべし。次に強盜殺害人の事、張本に於いては斷罪に行はれ、與黨(よたう)に至りては、鎭西の御家人、在京の輩幷びに守護人に付して、下し遣はすべし。兼ねて又、盜犯人の中、假令(けりやう)錢百文若しくは二百文の程の罪科の事、此くのごとき小過(せうくわ)の者は、一倍を以つて其の辨(わきまへ)を致すべし。重科の輩に於いては、其の身を召し取ると雖も、同心せざる緣者・親類に至りては、煩費(はんぴ)を致すに及ぶべからずと云々。

・「五ケ條の率法」新補地頭はこの五箇条から成る「新補率法」と呼ぶ法廷得分率による地頭職を指すと言ってよい。今一つ、「五ケ條」の具体な五条がよく分からないのであるが、ネット上の信頼し得る辞書及び記載を複数並べてみると、概ね以下のような内容であることが分かった(最も参考になったのがこちら)。幕府は承久の乱後に院方の所領凡そ三千箇所を没収、勲功のあった御家人をそこの新たな地頭職に補任したが、この新設の地頭は、任された各地域での得分権(収入権)が一定でなく、荘園領主との間で争いが絶えなかった。そこで幕府は、得分に永く安定した先例がある場合に限っては以前の通りとし、特に先例のない場合は、田畑十一町毎に一町の給田(職務給としての免田。私有田)と一段(反)当たり五升の加徴米(私的に徴収取得することを公的に許可された米〕、所領内に土地の生産性の差の著しい山野(所領内の山手部分)と河海(同川手海手)が併存する場合、それぞれの地域を領家と折半にするという、得分率法をこの新補地頭に適応した。このように幕府から広汎な権益のお墨付きを貰った新補地頭は,旧来の荘園制と荘園自体の様態を大きく変革させ、やがてはこの得分率法をも無視して給田・雑免田・免在家(領民の中の公的に認められた私有分)の収入を増やしていった。後に地頭らは寧ろ逆に荘園領主と好んで紛争を起こしては幕府に訴訟に及ぶようになり、当事者間の取り決めによる和与(解決)を勧めていた幕府は、結果として領主に納入すべき年貢高を地頭に背負わせる地頭請所(じとううけしょ:地頭が年々の豊凶に拘わらず毎年一定額の年貢を請け負って進納する制度。地頭請)を実施させることとなる。これによって荘園領主側では一応、その収入が確保されるようになったものの、現地では地頭の管理経営権の独占化が進み、納入すると取り決めてしまった一定年貢の他の総ての収益を自己の得分とすることが出来るようになり、これによって事実上の支配権を得た地頭の領主化が進み、後代はさらにそれを支配する守護が台頭、室町後期の守護大名へと成長し、それに多くのこうした地頭たちが被官されていくこととなる。

・「断罪」斬首。

・「下し遣はす」鎌倉へ護送する。

・「假令」は通常なら「たとへば~」という仮定条件、特に「たとひ~(ても)」と訓じて逆接の仮定条件を示すことが漢文では圧倒的であるが、その単純仮定「たとへば」から「たとへば~のごとし」を経て、恐らくは「凡そ」の意味に転訛したものと思われ、ここもそれ。

・「煩費」百姓に罪を科すことで、武家や有力者が言いがかりをつけて(この場合は連座処断の脅迫)そうした百姓やその妻子及び下男などを、自身の下人や所従にしたりすることをもいうと、Wallerstein 氏のブログ「我が九条」の「鎌倉幕府「撫民」法を読んでみる1」で判明した。感謝。

 

 次に、同年翌月五月十九日の条。

 

○原文

十三日戊戌。今日。有被定下條々。先諸國守護人者。大犯三ケ條之外。不可致過分沙汰。檢非違所者。廻寛宥之計。可專乃貢勤之由云々。次同守護地頭。有領家訴訟之時。不應六波羅召之由。依有其聞。二ケ度者可相觸。及三ケ度者。可注申關東之由。先度被仰之處。成優恕之儀。不申之歟。自今以後。無隱容可言上之旨。重可被仰遣。次竊盜事。假令於錢百文已下之小犯者。以一倍。令致辨償。可令安堵其身。至百文以上之重科者。搦取一身。不可煩親類妻子所從。如元可令居住。謀叛夜討等者。不及寛宥之由云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十三日戊戌。今日、定め下さるるの條々、有り。先づ、諸國の守護人は、大犯(だいぼん)三ケ條の外、過分の沙汰を致すべからず。檢非違所(けびゐしよ)は、寛宥(くわんいう)の計ひを廻らし、乃貢(なうぎ)の勤めを專らにすべきの由と云々。

次いで同じく、守護・地頭、領家の訴訟有るの時、六波羅の召しに應ぜざるの由、其の聞え有るに依つて、二ケ度は相ひ觸(さは)るべし、三ケ度に及ばば、關東へ注し申すべきの由、先度、仰せらるるの處、優恕(いうじよ)の儀を成し、之を申さざるか。自今以後は隱容(おんよう)無く言上すべきの旨、重ねて仰せ遣はさるべし。

次に竊盜(せつたう)の事、假令(けりやう)錢百文已下の小犯(しやうぼん)に於いては、一倍を以つて辨償を致さしめ、其の身を安堵せしむべし。百文以上の重科(じゆうか)に至りては、一身を搦(から)め取り、親類・妻子・所從を煩はすべからず。元のごとく居住せしむべし。謀叛(むほん)・夜討(ようち)等は、寛宥(くわんいう)に及ばざるの由と云々。

・「寛宥」寛大な心持ちを以って罪過を許すこと。

・「乃貢」年貢。平安から鎌倉期にかけてはこれを「所当」(しよとう)・「乃貢」(のうぐ)・「土貢」(どこう)などと呼ぶことも多かった(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

・「觸る」軽く注意を促すという意味で私は採った。本「北條九代記」の叙述は、明らかに二度目の呼び出しで出頭したらそちらで言い分を聴いて処置してよいが、それでも出頭しない場合は、という謂いである。実際には私の解釈が実際的な謂いであるように思うのであるが、如何? 「先度、仰せらるるの處、優恕の儀を成し、之を申さざるか」は――以前からそう申し伝えてあるにも拘らず、優恕(同情)して、これを注進してこなかったのか?……万一、後になって組織的な横領が発覚した場合は、それを看過した六波羅も同罪である……よもや、そういう守護地頭への便宜を図るよう、彼らから鼻ぐすりなんどをかがされたりは、しておるまいな?――といった、澄んだ中にきらりと光る執権泰時の眼が私には見えるようだ。

・「隱容」容隠(ようおん)。犯罪者を見逃したり、匿うこと。隠匿。私の前注の謂いが響いてくる。

 

 次ぎに、寛喜三(一二三一)年五月十七日の条。

 

○原文

十七日壬寅。霽。申尅。武州御不例云々。又此間炎旱渉旬。疾疫滿國。仍爲天下泰平國土豊稔。今日。於鶴岳八幡宮。令供僧已下三十口之僧。讀誦大般若經。又十ケ日之程。可修問答講之由被定仰。

 第一日〔講師、三位僧都賴兼。問者、安樂房法眼重慶。〕

 第二日〔講、頓覺房律師良喜。問、座心房律師圓信。〕

 第三日〔講、座心房律師。問、頓覺房律師。〕

 第四日〔講、丹後律師賴曉。問、圓爾房。〕

 第五日〔講、圓爾房。問、丹後律師。〕

 第六日〔講、備後堅者(りつしや)。問、教蓮房。〕

 第七日〔講、教蓮房。問、備後堅者。〕

 第八日〔講、肥前阿闍梨。問、筑後房。〕

 第九日〔講、圓爾房。問、肥前阿闍梨。〕

 第十日〔講、安樂房法眼。問、三位僧都。〕

○やぶちゃんの書き下し文

十七日壬寅。霽る。申の尅、武州、御不例と云々。

又、此の間、炎旱(えんかん)、旬に渉り、疾疫、國に滿つ。仍つて、天下泰平・國土豊稔(ほうじん)の爲に、今日、鶴岳八幡宮に於いて、供僧已下三十口の僧をして「大般若經」を讀誦せしむ。又、十ケ日が程、問答講を修すべしの由、定め仰せらる。

 第一日 〔講師、三位僧都賴兼。 問者(もんしや)、安樂房法眼重慶。〕

 第二日 〔講、頓覺房律師良喜。問、座心房律師圓信。〕

 第三日 〔講、座心房律師。 問、頓覺房律師。〕

 第四日 〔講、丹後律師賴曉。問、圓爾房。〕

 第五日 〔講、圓爾房。   問、丹後律師。〕

 第六日 〔講、備後堅者。  問、教蓮房。〕

 第七日 〔講、教蓮房。   問、備後堅者。〕

 第八日 〔講、肥前阿闍梨。 問、筑後房。〕

 第九日 〔講、圓爾房。   問、肥前阿闍梨。〕

 第十日 〔講、安樂房法眼。 問、三位僧都。〕

・「申尅」午後四時頃。

・「堅者」は、元来はこうした仏法議論の場で質問に答える役目の僧を指すが、それが一種の学僧の高位の地位を指す語としても定式化していた。

 ご覧の通り、前の注で示した本物の「圓爾」が四・五・九日と三回も出座しており、内、二度は講の首座である講師である。当時、未だ満十九歳の彼が如何に当時の鎌倉で若き名僧として評価を得ていたかが、よく分かるではないか。青年! 頑張れ!

 

 次に寛喜三(一二三一)年六月十五日の条。

 

○原文

十五日庚午。晴。戌尅。於由比浦鳥居前。被行風伯祭。前大膳亮泰貞朝臣奉仕之。祭文者法橋圓全奉仰草之。是於關東。雖無其例。自去月中旬比。南風頻吹。日夜不休止。爲彼御祈。武州令申行給之。將軍家御使色部進平内云々。武州御使神山彌三郎義茂也。今年於京都。被行此御祭之由。有其聞。在親朝臣勤行云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十五日庚午。晴る。戌の尅、由比の浦鳥居前に於いて、風伯祭(ふうはくさい)を行はる。前大膳亮泰貞朝臣、之を奉仕す。祭文(さいもん)は、法橋(ほつきやう)圓全(ゑんぜん)、仰せを奉(うけたまは)り、之を草す。是れ、關東に於いて、其の例無しと雖も、去ぬる月中旬の比(ころ)より、南風、頻りに吹き、日夜、休止(やま)ず。彼の御祈りの爲に、武州、之を申し行はせしめ給ふ。將軍家の御使は色部(いろべの)進平内(しんへいない)と云々。

武州の御使は神山彌三郎義茂なり。今年、京都に於いて、此の御祭を行はるるの由、其の聞え有り。在親朝臣、勤行すと云々。

・「戌尅」午後八時頃。このような時間に荒天の中、祭祀を執行するわけであるから、これ、前に記した通り、とても拝殿がなくては出来ないということが分かる。

・「色部進平内」不詳。姓も名も何だか見かけない。不思議な感じがする名である。

・「在親」賀茂在親(貴志正造「全譯 吾妻鏡」の注に拠る)。姓から見ても陰陽師であろう。

 

 最後に、寛喜三(一二三一)年六月十六日の条。

 

○原文

十六日辛未。霽。今日風靜。去夜風伯祭効驗之由。有其沙汰。泰貞朝臣賜御釼等云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十六日。霽る。今日、風、靜かなり。去ぬる夜、風伯祭の効驗(かうげん)の由、其の沙汰有り。泰貞朝臣、御釼(ぎよけん)等を賜はると云々。]

2015/01/30

今日は

久々に「北條九代記」に嵌った――多分、明日公開――今日の記事はこれのみ――

2015/01/29

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 笠置

 笠置

 

くつわ虫激ち一夜に一生(よ)懸け

 

[やぶちゃん注:「一夜」は「ひとよ」で、「一生」も「ひとよ」。総表題の「笠置」は京都府南部の相楽郡笠置町にある笠置山と思われるが、年譜上の昭和三一(一九五六)年秋のデータからは来訪は窺えない。後に出る「吊り橋」は笠置橋か。現在は違うが、当時は全長一三〇メートルの鉄筋の吊橋であった(ウィキ笠置橋 (木曽川)その他のデータに拠る)。]

 

くつわ虫歴(くき)とわが影燈を負ひて

 

ひとに会ふひとは知らずに虹を負ひ

 

露の吊橋「一橋一車」ならば許す

 

すぐゆくべく揚羽蜜吸ふ翅せはし

 

法師蟬友蟬ゐねばこゑとぎれ

 

   *

 

  眼を病む

 

夕顔の匂ふ眼つむれば即ち盲ひ

 

右眼病めば左眼に青き野分充つ

耳嚢 巻之九 老媼奇談の事

 老媼奇談の事

 

 文化六年春のころ、牛込邊、境内に觀音ある寺院あり。〔寺號は追(おつ)て可申聞(まうしきくべく)、忘れたりと云々。〕老人の老尼、右寺へ來りて日々の樣に觀音堂へ參詣なしけるを、和尚見及びて、與風(ふと)右の老姥(らうぼ)へ、御身日々觀音堂へ參詣なすは何ぞ祈願の事ありやと尋(たづね)しに、老(おい)ぬる身、何か願ひ有(ある)べき、近頃夫(をつと)も身まかりし故、菩提の爲寺々へまかり、別(べつし)て觀音菩薩の埴過にて、夫の未來往生をも資(たすく)なりと申(まうし)ける故、奇特(きどく)の志なり、御身の夫ならば定(さだめ)て高年成(なる)べしと尋けるに、百三十六歳にて身まかりしといへる故、夫(それ)は珍數(めづらしき)壽なり、さるにても御身はいくつになるやと聞けるに、六十四なる由答へければ、和尚大きに笑ひて、夫婦の間かく年の違ふべきやうやある、覺え違ひならんと申けるに、夫(それ)にはおかしき咄の候、相違なき事なれば語り申さん、我身幼年の頃父母ともに身まかり、親類とてもさるべきなれば、五六歳のころなれば誠においたつべきやうなきを、我(わが)夫になりける者、其孤獨をあわれがりて引取(ひきとり)養ひ育てけるに、これも不仕合にて先妻も病死なし、子も有りけるが是も八十六の時、不殘(のこらず)不幸なりければ、わらはを杖柱(つゑはしら)と養育なして我身十五歳になりけるとき、彼(かの)老人申けるは、我身妻子にもわかれ誠の獨身(ひとりみ)なり、御身よくつかへて子の如くなれば、今は御身をのみ樂しみ家業をもなすなり、さるにても我身も心ぼそく、御身も便りなし、一向女房になりてんやと申けるゆゑ驚入(おどろきり)て、實事とも思はず笑ひければ、いやとよ、戲れ事にあらず、よくよく心得て見よとありしに、其後も度々此事申出(まうしいで)し、あながち交(まぢは)り等を押(おし)て求むるにあらず、さるにても不都合なる事ながら、幼年より海山の恩を請(うけ)し身の、むげに其心を破らむも悲しく、かくの給ふ上は我等も了簡なし、親族といふもなけれど、我をあわれむ人々もあれば、是にも心をさぐり相談なして答ふべしと、答へ置(おき)、信實なると思ふ人に物語りければ、いづれも、夫(それ)はとつけもなき事なり、斷(ことわり)て宜(よろし)からんといふ内、一人のいへるは、翁右のごとくいはゞ其望(のぞみ)に任せ給へ、翁此上活(いき)たればとていくばくをかへん、死して後は家財其外誰(たれ)もゆづる者なし、御身其讓りを請れ(うく)ば、生涯を安くおくらんといへるを、尤(もつとも)の事なり、殊に大恩受(うけ)し事なれば、其望みに任せ生涯を養育せんも、是天道の冥慮なりと會得(ゑとく)して、彼翁に向ひ、望(のぞみ)に隨(したがは)ん由を申ければ、翁も大きによろこび、夫より夫婦(めをと)となりてくらしけるが、我身十八の時、不思議にも今の伜を儲け、翁も隱居して此程身まかりし故、我身其跡を吊(とぶら)ふなり、始(はじめ)はにつかはしからぬ事と思ひしが、年をかさぬれば左も思はれず、生涯夫婦のちなみありしと語りぬと、彼(かの)住僧蒔田(まいた)某へ佛參(ほとけまゐり)のせつ、咄しけるとや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。素直に話柄に従うなら、七十三歳違いの夫婦で、話者の彼女が満十四歳、男八十八歳の時に夫婦(めおと)となり、満十七(男九十一歳)で子(話柄時間内では四十六歳)をもうけ、娘が相談した相手は「翁此上活たればとていくばくをかへん」なんどと言っているが、実際には五十年近くこの爺さんは生きていたということになる。なんともはや、という奇談ではある。尼の語りで明らかにされる意外な事実、天涯孤独の少女が養父に迎えられ、そうして……というスキャンダル仕立ては、何か前の私の偏愛する一篇「不思議の尼懺解物語の事」を結末でポジティヴにしたインスパイア物という感が強い。同一の話者か、如何にもな都市伝説の様相からも、作者が同一人であるような気が、私にはかなりするのである。ちょっと面白くないのはこの老人の家業が書いてないことである。いや、下手に具体に書くとそれこそ百歳までそんな家業が勤まるかっ! と相手に叱られちゃうかもね。

・「老媼」は「らうあう(ろうおう)」。

・「老姥」「ろうも(ろうも)」とも読める。

・「文化六年春」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。

・「境内に觀音ある寺院」現存する幾つかの寺を調べて見たがよく分からない。識者の御教授を乞う。

・「埴過」底本には右に『(値遇)』と訂正注がある「値遇」は「ちぐ」と読み、縁あってめぐり逢う、特に仏縁あるものにめぐり逢うことを言う。「知遇」も同源。

・「資(たすく)なり」は底本のルビ。

・「とつけもなき」近世口語の形容詞。思いもよらない。途方もない。とんでもない。

・「蒔田某」底本鈴木氏注によれば、当時の江戸に三家ある由。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 一人の媼(おうな)の奇談の事

 

 文化六年春の頃、牛込辺りの、境内に観音のある寺院でのことであった――寺号山号は追って訊きおこうと思いながら、つい失念致いたという――老人の、これ、相当に老いたる比丘尼が、この寺へと毎日のように参っては観音堂へ参詣するを、和尚が見、ふと、この老姥(ろうも)へ、

「――御身、日々、観音堂へ参詣なすは、これ、何ぞ、祈願のあってのことで御座るか?」

と訊ねたところ、

「――老いぬるこの身――何んの願いの御座いましょうや。近頃、夫の身罷って御座いましたによって――菩提のため、寺々へと罷り越しまして――別して、こちらの観音菩薩さまの値遇(ちぐ)にて――夫の来世での極楽往生をも助けんものと存じましてのぅ……」

と申したによって、

「――それは奇特(きどく)なる志しじゃ。御身の夫とならば、これ、定めて御高齢の大往生であられたので御座ろうのぅ。」

と訊いてみたところが、

「――はい――百三十六歳にて身罷りまして御座います。」

と答えたによって、

「……それはまた! 珍らしき御長寿であられたものじゃ!……それにしても……御身は、これ、お幾つにならるるのか、のぅ?」

とさらに聴き返せば、

「――はい――妾(わらわ)は――六十四に――なりまする。」

と答えたによって、和尚は、これ、呵々大笑致いて、

「わっ、はっ! はっ! は!……幾らなんでも、夫婦(めおと)の間、かく、年の違(ちご)うべきはず、これ、御座ない!……失礼ながら、それは、何か覚え違いをなさってはおられぬか?」

と申したところが、

「……おほほほ!……それにつきましては、これ、可笑しきお話しの御座いまするのじゃ。――これ、決して間違いのなき、まことのことなれば、では、一つ、お話し申してさし上げましょう……」

    *

……妾(わらわ)は幼年の頃、父母ともに相次いで身罷り、親類とても、これといっておりませなんだによって、未だ頑是ない五、六歳の頃のことで御座いましたれば、これ、正直、独りで生い立つようもなき身で御座いましたを、後に妾(わらわ)の夫となりました赤の他人の男が、(わらわ)が孤弱を哀れがって下さり、引き取って、これ、養い育ててくれたので御座ます。

 この男も、不幸せなめぐり合わせの人生にて御座いまして……先妻も遙か昔に病死致いて、その間に生まれたる子らも御座いましたが、これも男が八十六の折りに、残らず――皆、流行病いのための聴いております――不幸にして死別なして御座いましたによって、妾(わらわ)を杖とも柱ともしつつ、養育なしてくれたので御座います。

 さて、妾(わらわ)が十五歳になりました折りのことで御座います。

 かの老人の申しますに、

「……我が身は……とうに妻子にも死に別れ……誠(まこと)の独り身じゃ。……御身は、このような老いぼれに、実によぅ仕えてくれ、あたかも我が子の如くなればこそ、今は、御身とともにおるをのみ、これ、楽しみとして、ささやかなる家業をも営んでおる。……それにても……かくも老いたれば……これ、我が身も心細く……そうして、御身もまた、血縁の者もこれおらず、生涯を支え得るような便りの者も、これ、おらぬ。……されば、いっそのこと――我らの女房に――なってはくれまいか?!……」

と、申しましたによって、妾(わらわ)も驚き入って、本気のこととも思われず、思わず声を挙げて笑(をろ)うてしまいましたが、

「……いや、とよ!……戯れ事にては、これ、ないのじゃ!……どうか一つ、よくよく考えてみてはもらえぬかのぅ?……」

と真顔にて申しましたので御座います。

 そうして、その後も、これ、たびたび婚姻のこと、申し出でて参りました。……

 

――あ? いいぇ!……御不審の思持ちながら、強(あなが)ち……その……雲雨(うんう)の交わりなんどを……これ……強いて求めんとするなどということは……これ、それまでにも……また、かく懇請し始めてからも……一度として御座いませなんだ。……

 

 それにしても曽祖父と玄孫(やしゃご)ほども離れた七十三違い――如何にも……で御座いますわね……まあ、世間体も悪(わる)きことにては御座いました。それでも、幼き頃より海の如くに深(ふこ)う、山の如くに高き御恩を受けて参りました身なれば、無下にその御心(みこころ)に背くと申しますも、これ、悲しく、妾(わらわ)も、一つ、決心致しまして、既に申し上げました通り、親族と申すべき者は、これ一人も御座いませなんだが、知れる御仁の中には、妾(わらわ)がことを時に気づかって下さる方々も御座いましたによって、

「……かくも仰せらるる上は……一つ、気心の知れたる妾(わらわ)の数少なき信頼のおける知音(ちいん)に……その誠実なるを改めて推し量った上にて――このこと、相談なして、これ、きっとお答え申し上げます。」

と、男へ答えおき、これはと思う、誠実と信じらるるお方に、有体(ありてい)に男の申し出につき、物語りまして意見を問うたので御座います。

 しかし大方、孰れのお人も、

 

――そ、そりゃ! とんでもねえことだぜ!……断って、これ、何の問題も、ありゃせんぜ!

 

と口を揃えて申しました。

 が、しかし、その中の一人の申しまするに、

 

――あの爺さんがそういう風に請い訴えて来たんなら、……こりゃ一つ、その望みに任せるのがよかねえかな?……そもそもがだ、爺さん、何でそんなことを言いだしたってえことだあな。……これはよ、そろそろお迎えが近くなった気のするんで、急に寂しくなったんじゃあねえかい?……とすれば、よ。あの爺さん、儂(あっし)が見ても……あん? 何だ?! もう、八十八かい?! それじゃ、なおのことよ! あの爺さん……この上、生き長らえたとしても……憚りながら、これ、あと、何年も生きられやしねえ。……こらあ、確かなこったぜ!……死んじまったら後は、あの家産家財その外一切合財! これ、誰(だあれ)も譲る者(もん)はいねえんだ。……お前さんが、それを、丸(まある)ごと、全部、譲り受ける、となればよ?!……これ……若い身空のあんたは、その後の永(なげー)え生涯を、まっこと、安穏に送ること、これ、出来ようってもんじゃ、ねえか!……

 

 これを聴きまして、妾(わらわ)は、

「……それはもっともなことにて御座いますね。……いえ、もしかするとあの方の命の短かいかも知れぬと申されたことです。……そうあって欲しゅうは御座いませねど、もし万が一、そうであるとするならば……妾(わらわ)、ことに大恩を受けまして御座いますればこそ、そのお望みに任せ、そのご生涯を養育し申し上ぐること、これもこれ、天道(てんどう)の冥慮(めいりょ)にて御座いましょう!」

と、得心致しまして、直ぐに家に戻りますと、かの老翁(ろうおう)に向い、

「――お望みに随いましょう。」

と申しましたところ、翁も大きに悦び、それより八十九と十四の夫婦(めおと)となって暮らすことと相い成ったので御座いまする。

 三年(みとせ)経った妾(わらわ)十八の折りには、不思議なことに、今の倅(せがれ)をもうくること、ここれ、叶い、それより十数年の後、夫は百歳も過ぎて、やっと倅に稼業も譲り、隠居致しまして御座いました。

 このほど身罷りましたによって、妾(わらわ)、その後生(ごしょう)を弔っておるので御座いまする。

 

――そうそう……始めのうちは七十三も違(ちご)うた夫婦(めおと)……これ、夫婦(めおと)には決して見えませぬ……如何にも似つかわしゅうない夫婦(めおと)連れ――と思うことのしばしば御座いましたが……されど、年を重ぬるうち、これ、さほど気にならずなりまして……

――はい?……ええ……生涯、これ……夫婦(めおと)の契りの、方も……御座いましたよ……

   *

 以上は、蒔田(まいた)某がその牛込の寺へ墓参に参った際、寺の住僧が話しくれたとのことで御座った。

大和本草卷之十四 水蟲 介類 忘れ貝

海月 本草ニ異名玉珧珧厥甲美如珧玉又曰四

肉柱長寸許トイヘリ海月ヲタヒラキ又ミツクラケナドヽ

訓スルハ非也タイラキハ其甲美ナラス肉柱只一アリ或曰

海月ハ土佐ノ海濵ニ生スルワスレ貝ナルヘシト云萬葉集

七卷ニイトマアラハヒロヒニユカン住ノ江ノ岸ニヨルテフ戀忘貝

トヨメリ住吉ノ濵ニモアルニヤ予カ見ル處ノ忘貝ハ與是

異レリイフカシ

〇やぶちゃんの書き下し文

海月 「本草」に、『異名、玉珧〔(ぎよくえう)〕・珧厥〔(えうけつ)〕。甲、美にして、珧玉のごとし。又、曰く、四つの肉柱、長さ寸許〔(ばか)〕り』と、いへり。海月を「たひらぎ」又「みづくらげ」などと訓ずるは非なり。たいらぎは、其の甲、美ならず、肉柱、只だ一つあり。或いは曰く、『海月は土佐の海濵に生ずる「わすれ貝」なるべし』と云ふ。「萬葉集」七卷に『いとまあらはひろひにゆかん住みの江の岸によるてふ戀忘貝』と、よめり。住吉の濵にもあるにや、予が見る處の「忘れ貝」は是れと異なれり。いぶかし。

[やぶちゃん注:本種の同定は益軒自身が混乱しているようにはなはだ難しい。斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ(ハマグリ)目マルスダレガイ上科マルスダレガイ科カガミガイPhacosoma japonicum は「海月」と呼称するに相応しい形状を成す。また、同じように円形に近く、真珠光沢を持つものとしては、翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイPlacuna placenta も浮かぶ。因みに後者は、特に貝殻の内壁が雲母様で、古くから中国・フィリピン等に於いて家屋や船舶の窓にガラスのように使用され、現在でもガラスとは一風違った風合いを醸し出すものとして、照明用スタンドの笠や装飾モビール等の貝細工に多用されている。

「本草に……」「本草綱目」には以下のように載る(下線やぶちゃん)。

   *

海月

(「拾遺」)

【釋名】

玉珧(音姚)・江珧・馬頰・馬。

藏器曰、「海月、蛤類也。似半月、故名。水沫所化、煮時猶變爲水。」。

時珍曰、「馬甲、玉珧、皆、以形色名。萬震贊云『甲美如珧玉』、是矣。」。

【集解】

時珍曰、「劉恂「嶺表錄異」云、『海月大如鏡、白色正圓、常死海旁。其柱如搔頭尖、其甲美如玉。。段成式「雜俎」云、『玉珧、形似蚌、長二三寸、廣五寸、上大下小。殼中柱炙蚌稍大、肉腥韌不堪。惟四肉柱長寸許、白如珂雪、以雞汁瀹食肥美。過火則味盡也。』。」。

【氣味】

甘、辛・平、無毒。

【主治】

消渴下氣、調中利五臟、止小便。消腹中宿物、令人易飢能食。生薑、醬同食之(藏器)。

【附錄】

海鏡 時珍曰、「一名鏡魚、一名、瑣、一名、膏藥盤。生南海。兩片相合成形、殼圓如鏡、中甚瑩滑、映日光如云母。有少肉如蚌胎。腹有寄居蟲、大如豆、狀如蟹。海鏡飢則出食、入則鏡亦飽矣。郭璞、賦云、『瑣 腹蟹、水母目蝦。、即此。」。

   *

これを見ると、劉恂の「嶺表錄異」の記載及び最後の「附録」の叙述はカガミガイに酷似し(「附録」に記されてあるカクレガニ類の共生(但し、時珍の謂いとは異なる片利共生)は、カガミガイと考える方が一般的であろうと思われる)、段成式の「酉陽雑俎(ゆうようざっそ)」のそれは翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギ Atrina pectinata 或いは有意に小さいところからはウグイスガイ目ハボウキガイ科ハボウキガイ Pinna bicolor の類の記載と読める。即ち、益軒が頼ろうとした「本草綱目」自身から既にして錯綜してしまっていたのである。

「みづくらげ」刺胞動物門鉢虫綱旗口クラゲ目ミズクラゲ科ミズクラゲ属 Aurelia タイプ種 Aurelia aurita 。現行は言わずもがな、「海月」は概ね「くらげ」と読み、恐らくはそうした際、多くの人が想起するのはミズクラゲであろう。

 

『土佐の海濵に生ずる「わすれ貝」』ここで何故「土佐」かと言えば、これは以下の紀貫之の「土佐日記」の一節を念頭においているからに他ならない(引用は新潮日本古典集成木村正中校注版を恣意的に正字化した)。

   *

 四日。楫取り、「今日、風雲の氣色(けしき)はなはだ惡(あ)し」といひて、船出ださずなりぬ。しかれども、ひねもすに波風立たず。この楫取りは、日もえはからぬかたゐなりけり。

 この泊りの濱には、くさぐさのうるはしき貝、石などおほかり。かかれば、ただむかしの人をのみ戀ひつつ、船なる人のよめる、

 

  寄する波うちも寄せなむわが戀ふる

    人忘れ貝おりて拾はむ

 

といへれば、ある人のたへずして、船の心やりによめる、

 

  忘れ貝拾ひしもせじ白玉(しらたま)を

    戀ふるをだにもかたみと思はむ

 

となむいへる。女子(をむなご)のためには親幼くなりぬべし。「玉ならずもありけむを」と人いはむや。されども、「死(しん)じ子、顏よかりき」と言ふやうもあり。

   *

・「かたゐ」は原義は乞食であるが、ここは相手を罵って言う語。

・「忘れ貝」諸本の国文学者の注はこれをマルスダレガイ科の一種とし、それは異歯亜綱マルスダレガイ目マルスダレガイ科ワスレガイ Cyclosunetta menstrualis のことを指す。二殻長は約七センチメートル、殻高六センチメートルほどになり、殻幅の二・五センチメートルと大型である。殻は円形で、膨らみが非常に弱く扁平であり、しかも殻質厚く強固である。殻表は弱い放射状の細かい脈を持つものの平滑で鈍い光沢を持つが、黄褐色の薄い皮を被っており、通常は紫褐色の地にやや濃紫色の放射彩や網状の地模様を持つ、正直言って、凡そ現代の感覚からは、大きいいう点以外では、素人があまり拾って蒐集したいタイプの貝殻ではないと私は思う。諸注にはそれ以外にも、これは特定の貝を指すものではなく、二枚貝の死貝の片方の貝殻を指し、これを持っていると恋の憂さを忘れることが出来るとする伝承があったと記すが、私は、「土佐日記」のこれも、次の「万葉集」のそれもこの、漠然とした二枚貝の片貝の謂いである、と一貫して思っている。但し無論、当時の「忘れ貝」が現在のワスレガイ Cyclosunetta menstrualis でなかったという確証があるわけではない。これは私の確信感情であるとだけは申し添えておく。

・「船なる人」及び「ある人」は孰れも筆者が仮託した女性から見た貫之自身であり、アンビバレントな二首は孰れも彼の和歌なのである。

・「船の心やり」表面上はかく船旅の苦しさと言っているが、言うまでもなく、本作で一貫する失った女児への追慕の哀傷が強く裏打ちされている。

・「親幼くなりぬべし」愛する娘を失った親というのは大人げない、こんな寂しさを口にするのであろう、の謂い。

・「玉ならずもありけむを」白玉の如く美しき娘というわけでもなかったろうに。

・「死(しん)じ子」原本は「ししこ」で、これは「死にし子」の撥音便無表記である。底本の木村氏注に、『「死んだ子は縹緻(きりょう)よし」との諺があったか』とある。

 

「萬葉集」七卷に『いとまあらはひろひにゆかん住みの江の岸によるてふ戀忘貝』と、よめり。住吉の濵にもあるにや」「万葉集」巻第七の一一四七番歌、総前書に「攝津作」とある作者不詳の一首、

 

 暇(いとま)あらば拾(ひり)ひに行かむ住吉の岸に寄るとふ戀忘貝(こひわすれがひ)

 

である。初句から作者は官人であると分かる。「ひりふ」は「拾ふ」の古語。「住吉」摂津国住吉(現在の大阪府大阪市住吉区)。

『予が見る處の「忘れ貝」』益軒にとっての「忘れ貝」はどのようなものだったのか? 何故、彼は自分の知っている「忘れ貝」の形状を詳述しないのか?……これって、益軒先生にも、「忘れ貝」に纏わる秘密の恋でもあったのかしら? ちょっと気になる……]

大和本草卷之十四 水蟲 介類 タイラギ

 

【同】

タイラギ 殻大ニテ薄シ肉柱一アリ大ナリ食スヘシ腸ハ

不可食和俗※1ノ字ヲ用ユ出處ナシ江瑤及玉珧ハ本

草諸書ニノセタリ肉柱四アリ殻瑩潔ニシテ美ナリタイ

ラキハ殻不美肉柱一アリ是似テ是ナラス然レトモタ

イラキモ江瑤ノ類ナルヘシ※2※3ハ本草ニ載タリタイラキト訓

スルハ非也

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+「夜」。「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。]

〇やぶちゃんの書き下し文

【和品】[やぶちゃん注:原本は「同」。]

たいらぎ 殻、大にて、薄し。肉柱、一つあり、大なり。食すべし。腸〔(はらわた)〕は食ふべからず。和俗、※1の字を用ゆ、出處なし。江瑤〔(かうえう)〕及び玉珧〔(ぎよくえう)〕は本草諸書にのせたり。肉柱、四つあり。殻、瑩潔〔(えいけつ)〕にして美なり。たいらぎは殻、美ならず。肉柱、一つあり。是れ、似て是れならず。然れども、たいらきも江瑤の類いなるべし。「※2※3」は本草に載せたり。「たいらぎ」と訓するは非なり。

[やぶちゃん字注:「※1」=「虫」+「夜」。「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。]

[やぶちゃん注:斧足綱翼形亜綱イガイ目ハボウキガイ科クロタイラギ属タイラギについては、長くタイラギ Atrina pectinata Linnaeus, 1758 を原種とし、本邦に棲息する殻表面に細かい鱗片状突起のある有鱗型と、鱗片状突起がなく殻表面の平滑な無鱗型を、生息環境の違いによる形態変異としたり、それぞれを Atrina pectinata の亜種として扱ったりしてきたが、一九九六年、アイソザイム分析の結果、有鱗型と無鱗型は全くの別種であることが明らかとなった(現在、前者は一応 Atrina lischkeana Clessin,1891に同定されているが、確定的ではない)。加えて、これら二種間の雑種も自然界には一〇%以上は存在することも明らかとなっている(ウィキタイラギ」を参照)ため、日本産タイラギ数種の学名は早急な修正が迫られている。

「腸は食ふべからず」とあるが、実際にタイラギ漁によっては、早々に海上で内臓を捨て去ることもあると聞く。それでもタイラギのヒモ(外套膜)を食用とすることを知っている人は多いが、私はある寿司職人に勧められて新鮮なキモ(内臓)を焼いて食したことがある。これはなかなか十分美味い。騙されたと思って一度お試しになることをお勧めする。

「※1の字を用ゆ、出處なし」(「※1」=「虫」+「夜」)「※1」の字は不詳。「出處なし」とは由来も出典も不明ということであろう。

「江瑤」「玉珧」「本草綱目」には「海月」の項に『玉珧(音姚)、江珧、馬頰、馬』とある(「江瑤」は載らない)。但し、この「海月」というのは本「大和本草」の次の項に別種として出る(これは記載が混乱しており、同定が難しいが、私は斧足綱異歯亜綱マルスダレガイ(ハマグリ)目マルスダレガイ上科マルスダレガイ科カガミガイ Phacosoma japonicum を想定している)。また、寺島良安和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部でも「たいらぎ ゑぼしがい 玉珧 ヨツ チヤ゜ウ」として項を出し、「江珧(かうえう) 馬頰 馬甲【俗に太以良木と云ふ。又、烏帽子貝(ゑぼうしがひ)と云ふ。】」と記す。

「肉柱、四つあり。殻、瑩潔にして美なり。たいらきは殻、美ならず。肉柱、一つあり。是れ、似て是れならず。然れども、たいらきも江瑤の類いなるべし」以下、細かく注する。

・「四つ」でこれはタイラギと違うと思われる方もあろうが、実は、タイラギには貝柱(閉殻筋)はちゃんと二つある。但し、前閉殻筋は殻頂近くにあって小さく、我々は殻中央部の大きな後閉殻筋の方をたった一つの大きな貝柱と思って食用としているに過ぎない。こじつければ、左右両殻に切断した大小の貝柱をタイラギに於いても「四」と言えぬことはないのである。

・「瑩潔」「瑩」本文では漢音の「エイ」で読んでおいたが、呉音では「エウ(ヨウ)」で、漢詩などでは後者の読みもしばしば目にする。「潔」は、底本では(へん)が(にすい)でしかもずっと上方に小さくついている。」艶やかな輝きを持って清く美しいという謂いで、これは私の推定するカガミガイの形容として相応しい。

・「似て」とあるが、もしこれが私の推定同定であるカガミガイであるとすれば、殻の形状その他総ての点でこれは似ているなどと思う人はまずいない。思うのだが、ここで益軒が似て非なるものとしてピンとくるのは、タイラギに似るものの殻が細長く、閉殻筋も小さく、外套膜も薄い翼形亜綱ウグイスガイ目ハボウキガイ科ハボウキガイ Pinna bicolor である。

・「たいらきも江瑤の類いなるべし」既にご覧の通り、もし「江瑤」が私の推理通りカガミガイであるとすれば、タイラギは翼形亜綱ウグイスガイ目であるのに対し、カガミガイは異歯亜綱マルスダレガイ目で亜綱レベルで異なる全く縁のない種である。

 

 

『「※2※3」は本草に載せたり。「たいらき」と訓するは非なり』(「※2」=「虫」+「咸」。「※3」=「虫」+「進」。)寺島良安和漢三才圖會 卷第四十七 介貝部には、「あこやがひ ※1※2 ヒン ツイン 生※2 ※1蛤【俗に阿古夜加比と云ふ。】」と見出しで出、これはウグイスガイ目ウグイスガイ科アコヤガイ属ベニコチョウガイ亜種アコヤガイ
Pinctada fucata
martensii
 のことである。]

2015/01/28

明恵上人夢記 49

49

一、南都の修學者筑前房等、侍從房に來る。此の破邪見章(はじやけんしやう)を見せしむとて、又、上師、之を御覽ず。心に思はく、よひに御覽ずべき由を申しき。之に依りて御覽あり。其の御前に人ありて、此の書を隨喜して哭すと云々。上師云はく、「えもいはず貴き書也」と云々。

[やぶちゃん注:クレジットなし。問題は「此の破邪見章」という謂いである(「破邪見章」は邪(よこしま)な誤った仏法解釈を論難して破り、それを明確な文章で明らかにすることの謂いであろう)。底本注は、あるいは「摧邪輪」かとし、後掲するように河合隼雄の「明惠 夢に生きる」でも、これを「摧邪輪」とする。その方が理解はし易い。とすると、「明惠 夢に生きる」のように、この「49」夢、ひいてはノン・クレジットで法然繋がりの「48」と、その前の年不詳の宙ぶらりんの「47」夢もひっくるめて、総ては「摧邪輪」執筆後の夢ということになり、これらの三つの夢記述は建暦二(一二一二)年十一月の「摧邪輪」執筆後のこととなる。しかし、そうなると底本で次の「50」が『建暦二年九月十九日の夜』で始まるのと合わなくなる。無論、前に述べた通り、底本自体が十六篇の継ぎ接ぎに過ぎないから、これを以って建暦二年説を退けることは出来ない。しかし、河合氏も述べておられる通り、『この夢が『擢邪輪』執筆の前と後とで、夢に対する見方が変わってくる』という点で非常に大きな問題を孕んでいることは言を俟たない。河合氏は建暦二年説に従って意見を述べておられるから後掲する引用を参照にされたいが、私個人としては、現在の主流とは思われるその解釈や解析に敬意と理解は表するものの、これらを、

「摧邪輪」執筆後の夢

としてしまうと、この三つの夢の内容は総合的に見て、如何にも、

リアルで科学的で論理的な様相を見せてくる/見せることとなってしまう
と思うのである。ところが、私のように、これらを総て

「摧邪輪」執筆前の承元元(一二〇七)年の十一月及びそれ以降、「選択本願念仏集」を読む前、即ち知られた「摧邪輪」の筆を執ろうと決心した前の夢

ととるならば、俄然、この三つの夢は、

夢らしい夢幻性を帯び、しかも孰れもが既に注した通り不可思議なる予知夢としても立ち現われてくる

ように思われるのである。大方の御批判を俟つものではある。

「南都」奈良。

「筑前房」不詳。「26」夢に不詳の「筑前殿」が出るが、同一人物かどうかは不詳。

「侍従房」表現から見て、人名ではなく寺院か公家屋敷か宮中かの部屋の室名のように思われるが、不詳。識者の御教授を乞う。

「此の破邪見章」私は以上の観点から、これは「摧邪輪」そのものではなく、尊崇の念を持ちながらも明恵が法然の宗旨に疑念を抱き、それについて思うところを九年(法然の下で内々で「選択本願念仏集」が書かれた建久九(一一九八)年を起点とした承元元(一二〇七)年まで)に亙って書き溜めて来たところの(一朝一夕一ヶ月ばかりであの「摧邪輪」が総て書き上げられたのだとは私には思われないのである)、後の「選択本願念仏集」に対する批判文書である「摧邪輪」の、原「摧邪輪」とも言うべき草稿に類するものであったと採るものである。建暦二(一二一二)年十一月の執筆までの実に十四年の間(法然の下で内々で「選択本願念仏集」が書かれた建久九(一一九八)年を起点とした)、そういう草稿や原資料が一切なかったと考える方が、遙かに不自然であると私は思うのである。確かに、何度も述べるように、明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは、法然の死後八ヶ月後、この建暦二年九月に平基親の序を附けて版本印行されたものによるものらしいが、しかしどう考えても、それまで明恵が何とも思わずにただ只管、法然を崇敬なしていたが、活字化された「選択本願念仏集」を読んだとたん、その宗旨が仏法を破壊するとんでもないもので、彼はとんでもない破戒僧だったのだだと初めて気づいた――などという愚鈍な明恵を主人公にするシチュエーションの方が、遙かに不自然である。

「上師」ここまでの私の考え方から、これは、母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈ととっておく。明恵は建仁二(一二〇二)年二十九歳の時、この上覚から伝法灌頂を受けている。上覚は底本の別な部分の注記によると、嘉禄二(一二二六)年十月五日以前に八十歳で入寂しているとある。この頃はまだ生きていたか(不謹慎乍ら出来れば、死んでいてくれた方が夢としては、より面白いんだけどなぁ)。

「上師、之を御覽ず。心に思はく、よひに御覽ずべき由を申しき。之に依りて御覽あり」ここは言葉を発していないにも拘わらず、その心中で思ったことが不思議に上師に通じて、その通りになったという情景を描写しているものと読んだ。また、ここで直ぐに読まずにいて欲しいと明恵が心に念じて、有意な時間経過の後の夜になって徐ろに上師及び別な「人」がそれを読んだという如何にも迂遠な叙述が気になる。ここには実際の「摧邪輪」が、法然死後、「選択本願念仏集」を実見して義憤から書かれることの――私は――予知夢的表現であったのではないかと考えている(これが「摧邪輪」執筆後の夢となると、如何にもつまらない夢となる、という私の謂いが、少しはお分かり戴けることと思う)。

「其の御前に人ありて」もう一人、不詳人物が上師のすぐ前にいて、彼も親しくそれを読んだのである。この「人」、大変気になる。

「書」という表現は、確かに出来上がった「摧邪輪」の雰囲気はないとは言えない。しかしそれでも私は良いのである。私はこれを予知夢と解釈しているからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一、こんな夢を見た。

「南都の修学僧の筑前房らが、侍従房にやって来られた。

 私は、手元にある、この私の――法然らが布教するところの念仏衆の――その破邪見章(はじゃけんしょう)の論難について、是非とも、お見せしたいと思っていた。

 すると、その来訪された人々の中には、また、我が上師たる上覚房さまがおられ、私のその論難を綴ったものを手に取ってお読みになられようとした。

 その時、私は、心の中で、

『……上覚房さま、それは、どうか、今日これから、宵になってより、ご覧下さいまするように……』

と念じた。

 すると、上覚房さまは以心伝心を以ってそれを感受なされた。

 されば、ずっと後の夜になってから、上覚房さまはご覧になられた。

 その上師の御前(おんまえ)にも人――私の知らない人物であった――がおられたが、その方は、この私の念仏衆への論難の書を読まれ、随喜し、その後、感極まって大声を挙げてお泣きになっている。……

 上師上覚房さまは私に、

「――これはまっこと、えも言われぬ貴(とうと)き書であるぞ。」

と、おっしゃられる。……

 

[やぶちゃん補注:河合隼雄の「明惠 夢に生きる」より、本「48」「49」夢に対する解説部を引用しておく。

   *

 これらの夢は『夢記』の建永元年(一二〇六)の一連の夢の続きに、十一月の夢として記載されているものであるが、それ以前に十二月の夢が二十八日まで記されているし、奥田も指摘するように『夢記』の「記事に錯乱や順逆が考えられるから確かなことはいえない」のが実状で、これらの夢はいつのものか断定し難い。ただ、二番目の夢にある「破邪見章」が久保田らの推定するように『摧邪輪』のことであるならば、この二つの夢は『推邪輪』が執筆された建暦二年(一二一二)以後の夢ということになる。

 ここでどうして年代にこだわるのかと言えば、この夢が『摧邪輪』執筆の前と後とで、夢に対する見方が変わってくるからである。すなわち、明恵は『摧邪輪』の冒頭に、自分は年来、法然に深い仰信をいだいてきたし、いままでに一言も誹謗したことがなかったが、この『選択集』を読んで、これが念仏の真実の宗旨をけがしているのを知り恨みにさえ思っている、と記している。この夢がもし建永元年の夢であるとすると、『選択集』を明恵は未だ読んでいないわけであり、法然を尊敬していたわけで、夢のなかで、法然に仏事の導師をして貰うとしてもあまり不思議はないと思われる。

 筆者としては、第二の夢の「破邪見章」は『推邪輪』ではないかと思われ、はじめの夢も『推邪輪』執筆後のものではないかと思う。そうすると、意識的には明恵は法然を烈しく非難しつつ、無意識には法然を評価していたことになってくる。このように考えると、『行状』に記されていた、明恵の顔に「観音」とか「善導」とか書かれ、西方から光がくるという夢も、浄土教に対する明恵の高い評価を示しているものと思われて、ますます興味深く感じられる。もともと明恵は法然の『選択集』に書かれていることを非難しており、浄土教そのものや念仏などを否定しているのではないので、この夢も別に不思議ではないと言えそうであるが、やはり、明恵が根本的には華厳によっていることを考えると、注目すべきイメージであると言わねばならない。

 明恵が法然を評価する夢を見ている事実は、彼の内面の動きを示していて興味深いが、夢を見た年代を明確にできないので、断定的なことが言えず残念である。

 なお、この夢は一般に「我が仏事の導師すべし」と読まれ、明恵の仏事の導師を法然が行なったとされている。しかし、原文を見ると「我、仏事の導師すべし」とも読め、明恵が仏事の導師をするときに、法然がその聴聞に来たと考える方が妥当なようにも思われる。いずれにしても明恵と法然との関係の良さを示すもので、それほど大切な差でもないと思うが、一応意見を述べておく。

   *

「奥田」国文学者奥田勲。聖心女子大学名誉教授。明恵の「夢記」の研究者として著名。私はこの『この夢がもし建永元年の夢であるとすると、『選択集』を明恵は未だ読んでいないわけであり、法然を尊敬していたわけで』の、「選択本願念仏集」を読むまでは目出度くも手放しで『法然を尊敬していた』という明恵の楽天的な姿を、これ、想像することが出来ないのである。]

明恵上人夢記 48

48

一、一つの檜皮屋(ひはだや)有り。一人の長高(たけたか)き僧有り。白衣(びやくえ)なる心地す。笠を著(つけ)たり。心に思はく、法然房也(ほふねんぼう)。我が佛事の導師すべし。其の聽聞の爲に來られ、我が房の中に入りて、饗應して二三日を過す。明日の佛事を、使者を以て白(まう)さく。「日來(ひごろ)、佛事結構之間に、忩々(そうそう)に走り過(よ)ぎ了(をは)んぬ。今夜見參(げんざん)に入らむと欲す。明日は時畢(をは)りなば佛事有るべし。其の以前は又、忩々爲(た)るべき」由をと云々。

[やぶちゃん注:クレジットがない。大まかな推論は「47」夢の注で示しておいたが、この内容から再度、考証を試みたい。まず私はこの「明日の佛事」に着目する。これは恐らく、夢時間の中の法然来訪滞在の後の漠然とした不特定の「明日の佛事」では――ない――と私は読む。即ち、これは夢を見た日の明恵がその覚醒した翌日(或いはその日)に行われる明恵主宰の何らかの公的な「佛事」であったと私は読むのである。既に述べた通り、承元元(一二〇七)年(建永二年から同年十月二十五日に改元)秋に明恵は院宣を受けて東大寺尊勝院学頭に就任しており、まさしく遁世僧でありながら、頗る世俗的な国家宗教の只中にあって公的な「佛事」に忙しい日々を送っていたと考えてよい。これもそうした公的「佛事」だったのではないか? さればこそ、公的に追放配流されていた法然が、その公的「佛事」にやってくると約束することこそがあり得ないことであり、それだからこそまた逆に、明恵が夢として書き残したくなるところの、特異点としての夢の夢たる所以を見出し得るといえるのではあるまいか? 法然は承元元年の二月に讃岐国へ配流された(現地ではかなり自由に行動している)が、同年十二月には早くも赦免され、翌建暦元(一二一一)年には京の吉水に戻っている(その後、建暦二(一二一二)年一月二十五日に京の東山大谷で死去するまで京に居た)。そう考えると、現実に法然が赦免されてしまった後では、明恵がかく夢を見た際の彼自身の中での夢としての印象度は著しく減衰すると言ってよい。とすると、この赦免が十二月というのが俄然、私には特別に見えてくるのである。まさに、

 「48」夢は法然が未だ配流中の承元元(一二〇七)年の十一月中の夢

ではなかろうか? そう考えると、「47」夢が「十一月」(既に私は「47」も承元元(一二〇七)年十一月の夢と推測した)であることとも極めて自然に繋がるのである。そうしてしかもこれが「十一月」であることはさらに明恵にとって大きな意味を持って来るではないか! そう、これは実に後に、翌月に法然が赦免され、翌年には法然が都へと復帰することの予知夢とさえなっているという点である。これは実はまさに書き残されるべき特異点の夢だったということになるのである。

 但し、これについては、全く異なった説が河合隼雄の「明惠 夢に生きる」には記されてある。端的に言えばそこにある説は、少なくともこの「48」と「49」(叙述上のニュアンスからは「47」も含まれる感じはする)夢は、「摧邪輪」が書かれた(建暦二(一二一二)年十一月以後(ということは同年一月二十五日の法然の死後(満七十八歳。明恵より四十歳年上)ということになり、この夢の法然は既に死んでいるということになる説である)というものである。それはそれで非常に説得力がある特に法然死後と考えるとこの「48」の映像の神秘度は逆に著しく光輝を増すからである)もので、私もそれをよく存じてはいるのだが、「47」以降の以上の私の見解は、あくまで私自身が読んだ際の第一印象を大切にして分析した結果であり、それらの学説の影響は受けていない(というか、受けないように意識して独自に考証した)。それが如何なるものであるかは、次の「49」の注で引用して示すことする。

「檜皮屋」檜皮葺(ひわだぶき)。屋根葺の手法の一つで、檜(ひのき)の樹皮を剥いだものを用いた本邦独特の施工方法である。

「法然上人」底本の注には、弟子喜海の「高山寺明恵上人行状」には『紀州より帰洛の途次、独りの老僧の説教によって法然の狭義に触れたとある。明恵は、『摧邪輪』を著わして法然を論難するなど、その教義に対しては厳しい批判を加えている』と「には」とはあるものの、これは頗る不十分な注釈で、以前のべたことを繰り返すなら、明恵は専修念仏を唱導した法然の「選択本願念仏集」(建久九(一一九八)年成立)が出た六年後の建暦二(一二一二)年にそれを痛烈に批判する「摧邪輪」を著し(明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは実は、法然の死後、この建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによる思われる)、発菩提心の欠落を指弾しているものの、四十も年上の法然という禁欲的な修行を積んだ大先輩の僧に対して明恵は、その生前は実は一貫してその修道心と学才に対し、非常に強い尊敬の念を持っていたことを述べなければ、だめである。前にも述べた通り、「摧邪輪」での法然に対する破戒僧としての誹謗は極めて激烈であるが、それと同時に、かねてより法然に対する「直き心」が明恵にはあった。だからこそ、この夢で法然が「我が佛事の導師」ともなり、「其の聽聞の爲に」わざわざ来たって逗留もするのである。次の「49」の補説で掲げるように、実はこの夢は「摧邪輪」が書かれた後の夢とする説の方が強い。しかしどうだろう? 寧ろ、私はこの夢に於ける法然と明恵の疑似的子弟関係や二人の間にある穏かさは、「摧邪輪」で売僧(まいす)レベルまで引きずり落した後に見た夢と、「選択本願念仏集」さえ未だ読んでおらず、聴こえてくる彼の説く戒律のいかがわしさが気になりながらも、「直き心」を以って一方で依然として修行の人法然を尊敬していた明恵の素直な心が現われていると読む方が、如何にも腑に落ちはしまいか?

「我が佛事の導師すべし」次の「49」に全文を示すが、河合隼雄の「明惠 夢に生きる」には、ここについて『この夢は一般に「我が仏事の導師すべし」と読まれ、明恵の仏事の導師を法然が行なったとされている。しかし、原文を見ると「我、仏事の導師すべし」とも読め、明恵が仏事の導師をするときに、法然がその聴聞に来たと考える方が妥当なようにも思われる。いずれにしても明恵と法然との関係の良さを示すもので、それほど大切な差でもないと思うが、一応意見を述べておく』とある。

「明日の佛事を、使者を以て白さく」この直前に一度、法然は帰って、時間的なインターバルが入っているものか。

「結構」構成・善美を尽くして物を作ること・計画/企て・準備/用意/支度などの意があるが、ここは最後の意味で採った。

「忩々に」「忩」は、急ぐさま・俄なさま・慌てるさま。

「過(よ)ぎ」は私の読み。

「長高き僧」法然は特に身長が高いとは聞いていない。これも明恵の法然に対する尊崇の念の形象化ともとれる。

「白衣(びやくえ)なる心地す」読みは私のもの。ここの部分、表現が気になる。これは現実の「白衣」とは何か異なった、異様に薄い透明度の高いそれではなかろうか。所謂、ETの衣服のように、地球上の物質で出来ているとは思われない天の羽衣みたようなもの、である。

「明日の佛事」前で述べた通り、この夢を見た日の翌日か或いはその日の実際の公的な(例えば学頭を勤める東大寺の法会或いは公卿武士などの上流階級の私邸での修法など)があったのではなかろうか。即ち、これから実際に行われる仏事の内容や在り方に対するという意味でも、この部分にも予知夢的ニュアンスを私は感ずるのである。

「見參」「げざん」「げんぞう」「けんざん」とも読む。高貴な人や目上の人に拝謁すること・ 目下の者に会うこと/引見(いんけん)/対面、の意の他にも、節会(せちえ)や宴などに伺候した人の名を記して主君に差し出すことをも指すが、ここは対面・検閲の謂いであろう。

『「明日は時畢りなば佛事有るべし。其の以前は又、忩々爲るべき」由をと云々』この法然の台詞の意味が分からない。「時畢る」の「時」は「斎(とき)」で仏家の正式な一日唯一度の、午前中の正飯の意で採った。以下の、「其の以前は又、忩々爲るべき」の部分は――結局、私(法然)が検分をしても、結局、その準備は、明恵、そなたではまたしても大慌ての杜撰なものとなるに違いない――という意味で採ってみた。強引な力技でしかない。大方の御批判を俟つ。]

 

■やぶちゃん現代語訳

48

一、ある夢。

「一つの檜皮葺(ひわだぶ)きの庵がある。

 そこに一人の背の高い僧がおられる。

 すこぶる清澄なる白衣(びゃくえ)――あたかも天の羽衣ででもあるかのようなもの――を召されておらるるように見受けられた。

 笠も被っておられる。

――私は心の中で、

『……これは……かの法然房さまだ! 私の仏事の導師をなさってくれるためにここにおられるのだ!……』

と思った。

 やはりその通りで、法然上人さまは私の説教を聴聞されんがためにわざわざここへ来られたのであった。

 その後(のち)、親しく私の僧房の中へとお入りになられ、私は出来得る限りの誠意を以って饗応をなし、上人さまには、まことゆっくりと二、三日を過して戴いた。

 その後、上人さまは一度、かの檜皮葺きの庵へとお帰りになられたが、さても明日予定されてあるところの仏事について、御使者を以って私に、何と、

――日来(ひごろ)、そなたの仏事の準備は、いつもこれ、すこぶる慌てふためいて大急ぎにて、謂わば、やっつけ仕事で慌ただしゅう終わっておる。――今宵、我ら、そうした趣きをとくと見させてもらおうと存ずる。――明日は斎(とき)が終わったら直ぐに仏事となるはずじゃ。――さて……その以前の用意は、また、これ、……大急ぎの大慌ての杜撰ものとなるのであろうのぅ……

といった由を、この私に、告げられたのであった。……」

耳嚢 巻之九 蟲毒を去る妙法の事

 蟲毒を去る妙法の事

 

 都(すべ)て何蟲によらず、さゝれし時、澁柿ころ柿をすり附(つく)れば、痛みかゆみを去る事奇妙なり。さゝれたるのみにもあらず、御先手(おさきて)森山源五郎方の中間酒を好み、醉興にや蛇を喰ひけるに、惣身腫れなやみけるに、或人ころ柿を進め喰(くは)せければ、即座に快験(くわいげん)ありしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間療法シリーズと毒虫直連関。蛇は長虫(ながむし)と呼ばれ、立派な毒虫である。柿渋は古くから民間治療薬として知られ、特に山村や僻地に於いては家庭常備薬として重宝された。用法は飲用から塗付まで幅広く、服用薬としては高血圧・脳卒中などに、塗り薬としてはここに出る虫刺され以外にも、火傷や霜焼けの治療に利用された。

・「ころ柿」枯露柿。干し柿。

・「御先手」先手組。若年寄支配。有時には徳川家の先鋒足軽隊を勤め、徳川創成期には弓・鉄砲足軽を編制した部隊として合戦に参加したが、平時は江戸城に配置されてある各門の警備・将軍外出時の警護・江戸城下の治安維持等を担当した。

・「森山源五郎」底本鈴木氏注に、『孝盛。明和八年(三十四歳)家督。三百石廩米百俵。寛政六年御目付より御先鉄砲頭となる』とある。

・「蛇を喰ひけるに、惣身腫れなやみける」若し、原因が確かに蛇食にあるとすれば、マムシかヤマカガシかの有毒蛇を食べ、口腔内に傷があったか、飲食中に傷つけたかによって、当該有毒成分がそこから侵入して全身性の症状が発症したものと思われる。一番疑われるのは腎不全で、他にも例えばマムシ毒は筋肉融解症という、激しい筋肉の腫脹を伴う炎症を引き起こす。

・「快験」の「験」の字は底本のママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 虫の毒を消し去る妙法の事

 

 総て何虫によらず、刺され際には、渋柿や枯露(ころ)柿を、よくすり込んでおけば、痛みや痒みが消え去ること、これ奇々妙々なる由。

 刺された場合のみではなく、例えば先年、御先手(おさきて)を勤めらるる森山源五郎殿の中間が、酒好きで度を過ごし、羽目を外してでもしもうたものか、こともあろうに生きた蛇を捕まえて参って、これをその場にて生裂きにし、しかもそのまま食うたところが、総身(そうみ)の腫れ上って、痛く苦しんだによって、ある者、それを聴くや、枯露柿を仰山に持ち来り、頻りに勧めて食わせたところ、これ、即座に恢復した、とのことで御座った。

2015/01/27

僕は

この年でまた、遠い昔に実は失恋していたというニュアンスを痛感した気がしたのである――

明恵上人夢記 47

47

一、十一月、夢に云はく、二階の家有り。其の第二階に、種々(くさぐさ)、假(かり)の物有り。九品往生の圖を造ると云々。

[やぶちゃん注:「十一月」底本ではこの後の二条にはクレジットがない。しかも次の「48」の夢には何と、かの法然が登場し、しかもその次の「49」(これは全体を夢ではなく、実際の事実を記録した日記と読むことも出来るものであるが、ここでは敢えて夢として捉える)には、驚くべきことに、建暦二年十一月に明恵が撰述することになる、法然の「選択本願念仏集」(執筆自体は建久九(一一九八)年であるが、後に記す通り、明恵がそれを読んだのは法然死後の建暦二年九月と推定される)の論難書である「摧邪輪」の草稿ではなかろうかと思わせるような、『破邪見章』の文章を訪問僧や『上師』に見せるという、驚天動地の記述がある。なお、明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは実は、法然の死後、この建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによると思われる。即ち、その書き上げの短期性と、その法然に対する激烈な誹謗からも彼の「選択本願念仏集」という活字化されたそれが、明恵の激しい怒りを喚起するものであったことは分かる。しかし、としても、明恵が「選択本願念仏集」を読んでいなくても、また、法然と直接の関係はなくとも、法然の元に集う修行者やそこに出入りした修学僧らから、法然の行状・言動・思想は稀代の学才の人明恵ならばこそ当然、知尽しており、「選択本願念仏集」に現われることになる破戒的なその宗旨をも、それ以前から既にして情報として知っていたと考える方が自然であると私には思われる。

 さて話を戻して何故、これが驚天動地かと言えば、実はその「49夢」の後の「50夢」は別ソース乍ら

 建暦二(一二一二)年九月十九日

の夢記述から始まっているからである。無論、底本自体が編者によってばらばらになった訳の分からない十六篇を恣意的に継ぎ接ぎに過ぎないのだから、これを云々するのは馬鹿げているとも言えよう。しかしアカデミストでない、一介の偏奇な夢の好事家に過ぎない私は敢えてここでは、お目出度くも無批判に、この編者の編集が時系列でなされていると――読み進めたい――のである。そうした馬鹿を許してみると、実にこれは、この「48夢」は前の「47夢」の建永元(一二〇六)年十二月八日以降の「十一月」に見た夢ということになり、そうなると後の「50夢」との連続性から考えるならば、この「48夢」は、

 承元元・建永二(一二〇七)年

 承元二(一二〇八)年

 承元三(一二〇九)年

 承元四(一二一〇)年

 建暦元・承元五(一二一一)年

五年間の孰れかの「十一月」ということになる(無論、時系列に従わない書き方を明恵は実際に行ってはいる。がしかし、この建永元(一二〇六)年の「十一月」というのは、十一月二十七日に栂尾に参って住するようになった特別な月であり、見てきたように、「42」からこの「46」まではかなり小まめに詳述しているのである(但し、時系列を前後するものはある)。しかも、この「47」の「十一月」の頭には「同」がないのである。

 以上から、私は、

●「47」以下「48」「49」の三つの夢は承元元・建永二(一二〇七)年から建暦元・承元五(一二一一)年の間に記述された夢

と採りたいのである。

 而して、ではこの閉区間の中で、それを絞ることは不可能であろうか?

 ポイントは本「47」の「九品往生」である。明恵は明らかに、区別的な往生の様相をここで夢に見ている。とすれば、ここで彼は往生の様相を区別化せざるを得ない何らかの状況的認識を「ことさらに」持ったと考えてよい。それはまさに念仏衆の、彌陀の誓願によって等しく往生することが定まっているという易行門認識故ではなかったか? とすれば、法然を先輩の修行僧として高く評価していた明恵であったが、後に「選択本願念仏集」を読んで発生することになる、聴こえてくる法然の浄土宗の宗旨への深い疑惑の念が既にこの夢に現われていると見るのが自然ではないか? 先に記した通り、明恵が実際に「選択本願念仏集」を目にしたのは建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによると考えられるが、私は「摧邪輪」の成立年代から見て、その批判感情(この「九品九生」の図を明恵自らが「造る」というのを私はそのようなものとして見る。以下の注も参照されたい)が夢を形成するべく具体化していったのは寧ろ、法然と親鸞が配流になった承元元年以降ではなかったかと考えている。それは明恵が体制側の宗教者に厭がおうにも取り入れられるところの背景と、この法然・親鸞の配流とに密接な関係があると踏んでいるからである。畏敬していた法然が、破戒的布教を行い、それが公的に断罪されることはフロイト的な超自我を持ち出すまでもなく、明恵にとっては、そうなってしかるべきだという顕在的意識があったに違いない。しかし一方、彼は同時に、法然を崇敬出来る先師としても強く意識してもいたのである。しかして彼らの配流という現実は、明恵にとって、アンビバレントにして甚大な衝撃であったはずである。

 そうした明恵の意識の時間を測るとすれば、これは、

  承元元(一二〇七)年十一月

であると推定するのである(「48」以降でも再考する)。しかも、その年の秋に明恵は院宣を受けて東大寺尊勝院学頭に就任している。彼はまさに公的にも認められてしまった隠遁とは程遠い、現世的な宗教者に位置づけられてしまったのである。彼がこの「47」で「種々」「假の物」のある場所で、「九品往生」の図を自ら作ろうとするというのは、実はそうした事実と自身の現状に対する、微妙な「留保」的意識が夢に反映したのだとは言えないであろうか? 大方の御批判を俟つものではある。

「第二階」とあるのは意味深長である。階層的区別のシンボルとしての権威としての「二階」か、新しい認識若しくは真の仏法の高みという絶対的上位概念としての「二階」か、一階が何であるかが示されないだけによく分からない。

「九品往生」阿弥陀如来の住む極楽浄土に再生(というよりも真に生まれたいと考える)したい願う者の、九つの往生の著しく細分化差別化された(というのは私の認識である)段階、九品の往生の仕方を称する。浄土三部経の「観無量寿経」に説かれるもので、如何にもな、往生の分類学として、上品上生 (じょうぼんじょうしょう)から上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生までの九品(くぼん)という往生の差(詳しくはウィキの「九品」を参照)が示されてある。聖道門としての華厳僧である明恵は自身には極めてストイックな戒律と厳しい修行を課した人物であるが、例えばウィキの「明恵」に、『かれの打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたもので』、『たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀』(「三時」は六時〔六分した一昼夜〕を昼三時と夜三時に纏めたもの。晨朝(じんじよう)・日中・日没(にちもつ)を昼三時、初夜・中夜・後夜を夜三時という)『により、観無量寿経に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど』(これは一種の文字による曼荼羅であると中央公論社昭和五八(一九八三)年刊の「日本の名著5 法然」の明恵の解説の中にある。なお下線はやぶちゃん)、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった』とあって、明恵がこの易行門に於ける衆生は等しく彌陀の大慈悲心によって救われるというセオリーを、「九品往生」に独自にインスパイアしていることが分かる(因みにウィキの「九品」によれば、本来の上品上生は、誠心・深心・廻向発願心の三種の心を発して往生する者を指し、それにはまた三種の者、『慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者』・『大乗方等経典を読誦する者』・六念処(信心する上で繰り返し心で念じるべき六つの法。詳しくはウィキを参照されたい)を修行する者、とあって、『その功徳により阿弥陀如来の浄土に生じることを願えば』、一日若しくは七日で『往生できるという。この人は勇猛精進をもち、臨終に阿弥陀や諸菩薩の来迎を観じ、金剛台に載り浄土へ往生し、即座に無生法忍を悟るという』とある)。各種の鎌倉新仏教の新興思想は、そうした差別化された国家鎮護と上流階級の救済にのみ特化して腐敗していた平安旧仏教の粗い網目から徹底的に零れ落ちていた被圧的集団としての大衆という「衆生」をターゲットとした、易行プロパガンダを得意とした特異的宗教群であった。されば、ここで出る「九品往生」もまさにそうした明恵の創始した三時三宝礼を積極的に肯定するシンボルとして描写されていると考えるべきであろう。大方の御批判を俟つ。]

 

■やぶちゃん現代語訳

47

一、十一月、こんな夢を見た。

「二階建ての家がある。その二階部分には、凡そ私が見たこともない有象無象の、何とも言えぬ――私に言わせれば、仮りの相、真実の相とは思われないと感ずるところのものをも含む――仮の仏の物象を象ったものさえも多々置かれてあった。

 そこで私は独り、独自の「九品往生の図」を創り出そうとしているのであった。」……

耳嚢 巻之九 蛇犬の腹中へ入る事 / 蛇穴へ入るを取出す良法の事

 蛇犬の腹中へ入る事

 

 文化六巳年五月中旬、本所龜井戸邊、或家の飼犬(かひいぬ)、蛇をなぶり候事も有之哉(これありや)、右犬の尻の穴へ蛇這入(はひいり)候を、其邊のもの取出(とりいだ)さふと、尾をとらへ引(ひき)候へども、曾(かつ)て不出(いでず)。とふとふ右穴中に這入しが、蛇は死せしや、犬は其儘にたち歩行(ありき)しと印牧翁の別莊へ、予が老僕立寄りて、きゝしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「文化六巳年五月中旬」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。

・「印牧翁」「耳嚢 巻之四 俄の亂心一藥即效の事」「耳嚢 巻之六 十千散起立の事」の二箇所に出る、医師印牧玄順であろう。前者の私の注したものを少し書き換えて示す。馬場文耕「当代江都百化物」(宝暦八(一七五八)年序)に玄順の未亡人のゴシップ記事「鳴神比丘尼ノ弁」が載るが(リンク先はサイト「海南人文研究室」内資料。この話自体、大変面白い。剃髪した貞女は実は不倫関係の永続を求めてのことであったというとんでもない話である)、これを読むと「印牧玄順」と言う名跡は代々継がれていることが分かり、時代的にもこの中に載る『玄順病死シテ高根玄竜事、今ハ印牧玄順ト改名シケリ』という人物よりも、一~二代後の「印牧玄順」であると思われる(宝暦八年は本巻執筆推定下限よりも凡そ五十年も前)。「デジタル版 日本人名大辞典」に江戸後期医師で、文政元年に伊予松山藩に招かれて侍医となり、「霊医言」などの医書を残した脇田槐葊(わきたかいあん)という人物の解説中に、彼が印牧玄順に学んだとある。しかし、この槐葊の生年は天明六(一七八六)年で今度は少々若過ぎる感じで、この槐葊の師である「印牧玄順」かその先代という感じである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇が犬の腹の中へと入る事

 

 文化六巳年五月中旬のこと、本所亀井戸辺りのある家の飼い犬、蛇をおもちゃにしてなぶっておってでもいたものか、この犬の尻の穴へ蛇が這い潜らんとしておったを、その辺りの者がたまたま見つけ、取り出してやろうと、尾を摑んで引いて御座ったが、これ、いっかな、出て参らぬ。とうとうこの蛇、犬の尻の穴の中へとすっかり這い入ってしまったと申す。なれど、そのまま蛇は死んでしもうたものか、犬はと申せば、これ、そのまま、何事ものぅ、普通に歩いて御座った由。

 印牧(いんまき)翁の別荘へ、私の老僕が立ち寄った際、聴いた話とのことで御座った。

 

 

 蛇穴へ入るを取出す良法の事

 

 都(すべ)て蛇の穴に入らんとするはさらなり、男女の前後の陰中へ時として入る事もある由。これを出さんと、尾をとりて跡へ引(ひく)に、決(きまつ)て不出(いでざる)ものなり。醫書にも胡椒の粉を聊か蛇の殘りし所へつくれば、出る事妙なりとありしが、夫(それ)よりも多葉粉のやにをつくれば、端的に出るなりと、山崎生の物語りなり。

  蛇はいかに小さくとも、膣(ちつ)より奧へ

  は這入れぬものゝよし、啌咄(そらばなし)

  と云(いふ)。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蛇が身体に潜るの直連関。フロイト先生の登場を待つ間でもなく、本邦では「日本書紀」「日本霊異記」「今昔物語集」と古えより女性の陰門に魅入った蛇が侵入する逸話は枚挙に暇がない(かつてはかくいう私もフリーキーにこれに限定した古説話を蒐集したことがあるし、ある時にはさる高校に於いてこれらに別な好色古説話を加えて、男子生徒限定の夏休みの古文の補習を組んだところが、男子限定というのが差別だとして女性教員から槍玉に挙げられてしまったことがあった)。因みに、これがまた変容した、女が蛇になるという怪異譚については、そのタイプの近世の説話に限定して書かれた、私の愛読書でもある高田衛氏の「女と蛇 表象の江戸文学誌」(筑摩書房一九九九年刊)という労作もある。しかし今となっては、何となくそうした手持ちの資料を、ここに打ち並べたい気が、何故か、まるで起らない。前の屍姦といい、これといい、どうも不快である。これは私自身が、そうした猥雑度にうち枯れてきたからなのだろうか?(そういう風には自分では思っていないのであるが)ともかくもこの程度でここは〆たいと存ずる。

・「胡椒の粉」「多葉粉のやに」後者はしばしば蛇の忌避物質として古い説話や伝承、近世の小話などにも頻繁に登場するが、「胡椒の粉」と云うのは聴いたことがない(岩波版長谷川氏も同じように注しておられる)。識者の御教授を乞うものである。

・「山崎生」「耳嚢 巻之九 猛蟲滅却の時ある事」に出る「醫官山崎氏」なる人物か(この人物はまた、本巻の頭に出る「耳嚢 巻之九 潛龍上天の事」にフルネーム山崎宗篤として出る人物かとも私には思われ、またその後の「耳嚢 巻之九 死馬怨魂の事」にも「山崎某」と出るのもこれか。フルネームに「某」に「生」と変化するのは、何となくちょっと気になるが、ここでも明らかに医師として発言しているようではある。しかし、附言でもある通り、この話自体が如何にも胡散臭く、そうするとこの「山崎」もそれとなく胡散臭い医師という気がして来る。その辺りに私がフルネームから「某」「生」と変化して記されるところの、根岸自身の、この話者に対する不信感を嗅ぎ取るのである。ただ、この二字下げの附言というのは根岸の附言ではなく、書写したものの感想附言である可能性も除去は出来ない。しかし、私は敢えて根岸のそれとして訳した。

 ・「啌咄(そらばなし)」は底本の編者によるルビ。但し、「啌」は音「カウ(コウ)」で、叱るったり怒たりする声、口を漱ぐ、及び咽頭の閉塞する病気の意しかなく、字面からの当て字に過ぎず、一種の誤字である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蛇の人体の穴所へ入り込んだものを取り出す良法の事

 

 すべて蛇が穴に入ろうとする習性があることは言うまでもないことであるが、男性の肛門や女性の陰門へ時として侵入するということも、これ、ある由。

 こうした場合、これを出ださんと、その尻尾を握って後ろへ引っ張ると、これ、決まって一向にひきずり出せずなってしまうものである。

 医書などにもこうした場合、体外に出ておる蛇の尻尾の部分に少しく胡椒の粉をつければ、これ、引き出せること、奇々妙々であると書かれて御座るが、しかし、それよりも煙草の脂(やに)をそこにつければ、これ、確実に引き出すことに成功する。

 ――と、以上は知れる医師山崎殿の話で御座った。

(根岸附記)

 但し、蛇というものはどんなに小さい種や個体であっても、女性の膣(ちつ)より奧へは這い入ることは出来ない、と別な御仁より聴いている。以上はその御仁に言わせれば、とんでもない虚言であるとのことである。

堀辰雄 十月  正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅲ) 

 

十月十三日、飛火野にて  

 けふは薄曇つてゐるので、何處へも出ずに自分の部屋に引き籠つたまま、きのふお前に送つてもらつた本の中から、希臘悲劇集をとりだして、それを自分の前に据ゑ、別にどれを讀み出すといふこともなしにあちらこちら讀んでゐた。そのうち突然、そのなかの一つの場面が僕の心をひいた。舞臺は、アテネに近い、或る村はづれの森。苦しい流浪の旅をつづけてきた父と娘との二人づれが漸つといまその森まで辿りついたところ。盲ひた老人が自分の手をひいてゐる娘に向つて、「此處はどこだ」と聞く。旅やつれのした娘はそれでも老父を慰めるやうにこたへる。「お父う樣、あちらにはもう都の塔が見えまする。まだかなり遠いやうではございますが。ここでございますか、ここはなんだかかう神さびた森で。……」

 老いたる父はその森が自分の終焉の場所であるのを豫感し、此處にこのまま止まる決心をする。

 その神さびた森を前にして、その不幸な老人の最後の悲劇が起らうとしてゐるらしいのを讀みかけ、僕はおぼえず異樣な身ぶるひをした。僕はしかしそのときその本をとぢて、立ち上がつた。このまま此の悲劇のなかにはひり込んでしまつては、もうこんどの自分の仕事はそれまでだとおもつた。……

 かういふものを讀むのは、とにかくこんどの可哀らしい仕事がすんでからでなくては。――そう自分に言つてきかせながら、僕はホテルを出た。

 もう十一時だ。僕はやつぱりこちらに來てゐるからには、一日のうちに何か一つぐらゐはいいものを見ておきたくなつて、博物館にはひり、一時間ばかり彫刻室のなかで過ごした。こんなときにひとつ何か小品で心愉しいものをじつくり味はひたいと、小型の飛鳥佛(あすかぶつ)などを丹念に見てまはつてゐたが、結局は一番ながいこと、ちようど[やぶちゃん注:ママ。]若い樹木が枝を擴げるやうな自然さで、六本の腕を一ぱいに擴げながら、何處か遙かなところを、何かをこらへてゐるやうな表情で、一心になつて見入つてゐる阿修羅王(あしゆらわう)の前に立ち止まつてゐた。なんといふうひうひしい、しかも切ない目ざしだらう。かういふ目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだらう。

 それが何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ鄕愁のやうなものが生れてくる、――何かさういつたノスタルヂックなものさへ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした。それから中央の虛空藏菩薩(こくうざうぼさつ)を遠くから見上げ、何かこらえへるやうに、默つてその前を素通りした。

 

[やぶちゃん注:昭和一六(一九三一)年十月十三日。この最後の阿修羅王(後注するようにこれは現在の興福寺の国宝館にある阿修羅像である)に対する素晴らしい感懐、「ちようど若い樹木が枝を擴げるやうな自然さで、六本の腕を一ぱいに擴げながら、何處か遙かなところを、何かをこらへてゐるやうな表情で、一心になつて見入つてゐる阿修羅王」のそれは、「なんといふうひうひしい、しかも切ない目ざしだらう。かういふ目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだらう」、「それが何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ鄕愁のやうなものが生れてくる」という絶妙のそれは、凡愚な私が若き日にここを訪れた際(当時の私は、何と未だ、この「十月」を読んでいない迂闊な男であった)、舐めるように、その全身を見た折りの感動と――不遜乍ら――美事に一致するものであった。そうしてまた、「――何かさういつたノスタルヂックなものさへ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした」という箇所は、私の偏愛する堀の「淨瑠璃寺の春」のエンディングの、同じ春日の森の中で主人公夫婦が馬醉木の花に出逢ったシークエンス、

   *

 突然、妻がいつた。

 「なんだか、ここの馬醉木と、淨瑠璃寺にあつたのとは、すこしちがふんぢやない? ここのは、こんなに眞つ白だけれど、あそこのはもつと房が大きくて、うつすらと紅味を帶びてゐたわ。……」

 「さうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くささうに、妻が手ぐりよせてゐるその一枝へ目をやつてゐたが、「さういへば、すこうし……」

 さう言ひかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおつとしてゐる心のうちに、けふの晝つかた、淨瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあつて見てゐた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに、蘇らせ出してゐた。

   *

の、そのコーダをまさに『鮮やかに、蘇らせ出して』くれる名文であると、私は思うのである。

「飛火野」「とぶひの」と読む。奈良市の春日山の麓、春日神社(春日野町)一帯の春日野の一部を指し、春日野の別名としても使われる。名称は元明天皇の頃、ここに烽火(のろし)台が置かれたことに由来する。奈良国立博物館は奈良県奈良市登大路町にあるが、ここは春日神社の直近西北西一キロメートルの直近に位置している。

「そのなかの一つの場面」次の日記で「ソフォクレェス」と名を挙げている通り、これはギリシャ三大悲劇詩人(他はアテナイのアイスキュロス及びエウリピデス)の一人、アテナイのソポクレス(Sophoklēs 紀元前四九六年頃~紀元前四〇五年頃 ソフォクレスとも表記する)の最晩年の悲劇「コロノスのオイディプス」の冒頭の部分である(ソポクレスの作品で完全な形で現存するものは、現代ではギリシャ悲劇の最高峰とされる「オイディプス王」の他、「アイアス」「トラキスの女たち」「アンティゴネ」(オイディプス死後の後日譚)「エレクトラ」「ピロクテテス」の七篇のみである。なお、「コロノスのオイディプス」の初演はソポクレス死後二~五年後のこととされる。ここは新潮文庫福田恆存訳「オイディプス王・アンティゴネ」の福田氏の解説に拠った)。堀は結局次の日記で本作をこの日の「午後」「結局」、「再びとりあげて、ずつと讀んでしまつた」と記し、そこに感懐を記しているので、ここでウィキの「コロノスのオイディプスから梗概その他を引用しておきたい。本作は時系列では「オイディプス王」に続くもので、テーバイのかつての王オイディプスが、放浪の末、『アテナイ近郊のコロノスの森にたどり着いたところから始まり、オイディプスの死に到るまでを描く』。『運命に翻弄されたオイディプスは予言に従って復讐の女神エウメニデスの聖林に導かれ、そこを自らの墓所として望み、アテナイ王テセウスもこれを認めた。そしてこれを阻もうとする息子ポリュネイケスやテーバイの現在の王クレオンにもかかわらず、オイディプスはテセウスのみが見守る中』、『コロノスの地中深く飲み込まれていく』という展開で、先行する「オイディプス王」(初演・紀元前四三〇年~同四三六年)、この「コロノスのオイディプス」、「アンティゴネ」(初演紀元前四四二年~同四四一年。以上の初演推定は前掲の福田解題に拠った)の三作品が『テーバイ王家の悲劇として密接な関連があり、時に三部作として扱われる。が、上記のように成立年代からして話の順序とは一致せず、アイスキュロスが好んだとされる三部作形式とは異なるものである』。物語の『舞台は、盲目で年老いたオイディプスが娘であるアンティゴネーに手を引かれて登場するところから始まる。彼らは乞食をしながら放浪し、コロノスのエウメニデスの神域の近くまでたどり着いたのである。そこにやってきた男に尋ねると、そこが神域であるとわかり、自分はここを動かぬつもりであること、王に使いして欲しいことを告げる』。『そこにコロノスの老人たちに扮したコロスが登場、彼がオイディプスであることを告げられると、すぐに立ち去ることを要求する。これに彼が反論していると、そこに彼のもう一人の娘、イスメネーが現れる。故郷に残った彼女は、彼の息子たちが仲違いし、兄ポリュネイケスが追い出され、国外で味方を得たことを伝え、同時にオイディプスに関する神託が出たことを告げる。それによると、彼が死んだとき、その土地の守護神となるという。そのためオイディプスを追い出した王であるクレオーンは彼を連れ戻し、国の片隅に留め置くことを考えているという。オイディプスは彼を追い出した町、そして彼が追い出されるのを止めなかった息子たちへの怒りを口にする。コロスは王がくるまでとりあえず彼を受け入れる旨を述べる』。『そこへ王テセウスがやってくる。彼はオイディプスの求めるものを問い、それに対してオイディプスは、自分の死後、ここに葬って欲しいこと、それによってこの地を守護することが出来ること、しかしクレオーンと息子たちが自分を求めていることを述べる。王は彼を受け入れることを告げる』。『そこにクレオーンが出現。丁寧な言葉でオイディプスに帰国を促す。しかしオイディプスはこれに反論、両者は次第に激高し、ついにクレオーンは娘を奪ってゆく、すでに一人は捕らえ、次はこの娘だ、とアンティゴネーを引き立てる。オイディプスはコロスに助けを求め、コロスはクレオーンを非難する。そこへテセウスが現れ、クレオーンを非難し、娘たちを取り戻すことを宣言する。クレオーンは捨てぜりふを残して退散、娘たちは取り戻される』。『すると今度は社によそ者が来ているとの通報、オイディプスに会いたがっているという。オイディプスはそれが自分の息子であると判断して、会うのを拒否するが、周囲の説得で会う。するとそれはやはりポリュネイケスであった。彼は自分が祖国を追い出されたこと、ドリスのアルゴスが味方してくれ、祖国に戦を仕掛けること、そのためにオイディプスに自分についてもらい、守護者となって欲しいことを述べる。彼はこれを全く聞き入れず、おまえは兄弟の手にかかって死ぬであろうとの呪いの言葉を述べる。アンティゴネーもポリュネイケスに説いて祖国を攻撃しないように言うが聞き入れず、彼も立ち去る』。『このとき、天は急に荒れ、雹が降り、雷が鳴り響く。オイディプスは自分の終わりが近いことに気がつき、テセウスを呼びにやる。テセウスがくると彼は娘たちの先に立って神域に入る。これに付き従ってテセウスと従者も姿を消す』。『その後、使者が現れ、オイディプスの最後の一部始終を語り、彼が死んだことを告げる。その後は二人の娘による嘆きで劇は終わる』。『この劇の一つの要点は「神との和解」である。オイディプスの伝説では、最初に示された神託がそもそも彼らの悲惨な運命を示すものであった。登場人物たちはそれぞれにそれを避けようと努力したにもかかわらず、すべてが実現してしまった。中でももっとも悲惨な運命を担ったのがオイディプスである』。『ソフォクレスは神の道が人間ではどうにもならぬものであり、また神の采配は時に恐ろしく非情であることを書いてきた。しかし、この劇では神の側からオイディプスに対して和解が示されている。また、「オイディプス王」では自分の悲惨な運命を嘆くばかりであった主人公は、この劇では一貫して自己の正当性を主張する。父親を殺したのも正当防衛であったし、他の場合でもその時その時は最善の選択をした結果であり、そこに恥じるところはないと言い切っている。一般的な伝説ではオイディプスの死にこのような話はないようで、それだけに詩人の思い入れが強く働いているとも考えられる』とある。

「飛鳥佛」奈良国立博物館公式サイトの「収蔵データベース」で二体の飛鳥仏、観音菩薩立像(飛鳥時代(白鳳期)七世紀作)と同時期の観音菩薩立像が見られる。

「阿修羅王」これは当時、奈良国立博物館に寄託・展示されていた知られた興福寺蔵の国宝阿修羅像である。グーグル画像検索「興福寺阿修羅像をリンクしておく。そこで、各人の琴線に触れる視線をお探しになられたい。

「虛空藏菩薩」奈良国立博物館公式サイトの「収蔵データベース」の虚空蔵菩薩像をリンクしておく。この虚空蔵菩薩像は、仏力によって超絶した記憶力を祈念する求聞持法(ぐもんじほう)を表象する夢幻的なイメージを感じさせる図像であるが、それを思うと私は、このシーンは、阿修羅像の切実な感懐に打たれ、この虚空蔵菩薩像の示す無限の功徳をシンボルするその眼差しに違和感を覚えて避けたというのではなくして、まさに阿修羅の視線によって喚起された、「何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ鄕愁のやうなものが生れてくる、――何かさういつたノスタルヂックなもの」を「身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした」堀が、こ「の虛空藏菩薩を遠くから見上げ」た瞬間――我々にとっての記憶、思い出――とは、如何なるものかということに思い至って、切なさがに感極まり、「何かこらえへるように、默つてその前を素通り」せざるおえなくなったのではなかったか? と、秘かに感じているのである。……] 

 

夜、寢床の上で  

 とうとう[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]一日中、薄曇つてゐた。午後もまたホテルに閉ぢこもり、仕事にもまだ手のつかないまま、結局、ソフォクレェスの悲劇を再びとり上げて、ずつと讀んでしまつた。

 この悲劇の主人公たちはその最後の日まで何んといふ苦患に充ちた一生を送らなければならないのだらう。しかも、さういふ人間の苦患の上には、なんの變ることもなく、ギリシアの空はほがらかに擴がつてゐる。その神さびた森はすべてのものを吸ひ込んでしまふやうな底知れぬ靜かさだ。あたかもそれが人間の悲痛な呼びかけに對する神々の答へででもあるかのやうに。――

 薄曇つたまま日が暮れる。夜も、食事をすますと、すぐ部屋にひきこもつて、机に向ふ。が、これから自分の小說を考へようとすると、果して午後讀んだ希臘悲劇が邪魔をする。あらゆる艱苦を冒して、不幸な老父を最後まで救はうとする若い娘のりりしい姿が、なんとしても、僕の心に乘つてきてしまふ。自分も古代の物語を描かうといふなら、さういふ氣高い心をもつた娘のすがたをこそ捉まへようと努力しなくては。……

 でも、さういふもの、さういつた悲劇的なものは、こんどの仕事がすんでからのことだ、こんど、こちらに滯在中に、古い寺や佛像などを、勉强かたがた、僕が心愉しく書かうといふのには、やはり「小さき繪」位がいい。

 まあ、最初のプランどほり、その位のものを心がけることにして、僕は萬葉集をひらいたり埴輪の寫眞を竝べたりしながら、十二時近くまで起きてゐて、五つか六つぐらゐ物語の筋を熱心に立ててみたが、どれもこれも、いざ手にとつて仔細に見てゐると、大へんな難物のやうに思へてくるばかりなので、とうとう觀念して、寢床にはいつた。 

 

[やぶちゃん注:「ソフォクレェスの悲劇」前条の私の「そのなかの一つの場面」のソポクレス作「コロノスのオイディプス」についての注を参照されたい。

「小さき繪」先行する十月十二日、朝の食堂で及び、そこの私の「Idyll」(イディル)の注を参照のこと。]

石膏となる少女の夢

今朝方、こんな夢を見た……



僕はパソコンに向って、芥川龍之介の「澄江堂遺珠」の原資料を懸命に打っている。

しかしそれは芥川龍之介の詩篇という意識ではなく、僕自身の詩篇ででもあるかのように、私は私の意志によってそれらの詩篇に何度も手を加えては、消去し、また、打ち直しているのである。

ふと――僕のすぐ脇を見ると、そこには毛布に包まった一人の娘が寝息を立てているのである。

それを見ると、何か僕も無性に眠気を覚えだして、その傍らにやはり横になった。

横になったなり、毛布越しにその娘の顔を覗き見てみると、それは三十三年も昔、僕が初めて担任となった時の、懐かしい生徒の一人――その時の姿形のまま――なのであった。

僕はそっと手を伸ばすと、その眠っている娘の頬に指先を触れた――

すると――

その少女は一瞬にして石膏の生き人形に変貌してしまったのであった……

2015/01/26

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 島原にて

M589

図―589

 

 高橋から島原湾を越して西方には、温泉岳と呼ばれる秀麗な山塊が見える。これ等の火山の頂上は、たいてい雲にかくれているが、時時姿を見せる。図589に示した輪郭図は、割合に正確である。我々を長崎へはこぶ汽船は、島原の島と町とへ一寸寄った。そこへ着いたのは午後五時であったが、日本に於る最も絵画的な場所の一つである。小さな、ゴツゴツした島嶼の間をぬけて航行すると、やがて水際にある町へ着くのである。町のすぐ後に、温泉岳の岩の多い斜面が聳え立っている。我々は、一マイルを人力車で走って、一軒の有名な旅館へ行き、そこで美事な食事を命じた。それは美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)、煮た烏賊、あげた鰻、御飯という献立で、どれも美味であった。たった二時間しか碇泊しない船へ帰る途中、我々は貝をさがし求めたが、土地の人々は我々を、いやそうな、非友誼的な目つきで凝視するのであった。この地こそ外国人の上陸に最後まで反対した場所なので、人々の目つき、動作、すべて外夷に対する反感を露出していた。

[やぶちゃん注:磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」の推定日程に従うならば、これは明治一二(一八七九)年五月二十九日の夕刻の景である。

「温泉岳」原文“Onsendake”。長崎県の島原半島中央部にある雲仙岳のことである。広義には普賢岳・国見岳・妙見岳の三峰、野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山の五岳からなる山体の総称で、「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれる。主峰は普賢岳(標高一三五九メートル)であるが、現在では平成二(一九九〇)年から平成七(一九九五)年にかけての火山活動によって形成された溶岩ドームである平成新山の方が高い(標高一九九六メートル・長崎県最高峰)。但し、実は元の漢字表記は「雲仙」ではなく、「温泉」と表記して「うんぜん」と読んでいた。現在の「雲仙岳」の表記は実はかなり新しく、昭和九(一九三四)年に日本で最初の国立公園に指定された際、「雲仙国立公園」(現在は「雲仙天草国立公園」)として改められており、しかも後の戦後の昭和二七(一九五二)年に、国の特別名勝文化財に指定された際にも「温泉岳」で登録されているから、この「温泉岳」の呼称は我々が思っているよりもずっと長生きなのである。なお、主に参照したウィキの「雲仙岳」によれば、「肥前国風土記」で『「高来峰」と呼ばれているのがこの山であり、温泉についての記述が』既にあるとあり、また、雲仙市小浜町雲仙にある大乗院満明寺は行基が大宝元(七〇一)年に開いたと伝えられているが、『この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた』ともある。一九九一年六月三日十六時八分に発生した大火砕流によって報道・消防関係者を中心に死者四十三名という大惨事となったのは記憶に新しい。それでもモースの山体のスケッチは現在の山並みと比して平成新山のドーム形成以外には大きな変化はないように見受けられる。

   *

「我々は、一マイルを人力車で走って、一軒の有名な旅館へ行き、そこで美事な食事を命じた。それは美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)、煮た烏賊、あげた鰻、御飯という献立で、どれも美味であった。」原文は以下の通り。

 

We rode through the town a mile and a half to a famous inn and ordered a fine dinner consisting of a large gasteropod, Rapana bezoar, served in its beautiful shell, boiled cuttlefish, fried eel, and rice, — all delicious.

 

 以下、ここに関しては詳細に注を試みる。

・「一マイル」とあるが、原文は「一マイル半」(二・四キロメートル)である。

・「有名な旅館」寄港地が現在の島原港として、そこから上記の距離だと、明らかに島原の島原城周辺と考えてよいのだが、明治十二年に存在した老舗旅館に行き当ることが出来なかった。最早、現存しないのか? 識者の御教授を乞うものである。

・「美しい貝殻に入ったままの大きな腹足類(Rapana bezoar アカニシ?)」“gasteropod”は腹足類(綱は“Gastropoda”)で所謂、巻貝の類を指す。“Rapana bezoar”はそれを更に説明している学名で原文には訳のような「?」はないから、この「?」は訳者石川氏の疑問と思われる。腹足綱新生腹足上目高腹足(吸腔)目タマキビ下目アクキガイ科 Rapana 属のチリメンボラ Rapana bezoar であるが、私はモースがここで「美しい貝殻」と述べていることから、高い確率で石川氏がやや自身無げに「?」を附してしまった同じ Rapana 属で本邦では食用貝として知られたアカニシ Rapana venosa としてよいのではないかと考えている。チリメンボラ Rapana bezoar はアカニシ Rapana venosa と並んで Rapana 属を代表種であり、形状から同種かその変異種と当時のモースが思ったとしてもおかしくないからである。但し、アカニシはチリメンボラよりも遙かに大きくなり、さらにアカニシ(赤螺)という名の通り、殻口内が肉のように見える独特の赤い色に染まっている。殻の大きさ・色・羅塔のすっきりとした形状(殻の結節や色彩には個体変異が著しく、一見、同種とは思えぬ様態を示す個体もある)等々は、凡そチリメンボラとは比べものにならぬほど「美しい」のである。チリメンボラは殻口縁は白色であり、殻表面は螺状脈に多くの縦脈が鰭のように交叉して立ち上がり、縮緬様の皺だらけの形状を示す。個人的に、この二つの貝殻に、料理(ここでモースが食べたのは恐らくは肉を細かく切って煮たもの、所謂、壺焼き状にしたものと私は推測する。アカニシは刺身も美味いが、壺焼きもなかなか美味しい)を盛られて出されたら、どっちの貝殻を「美しい」と表現するか――これはもう絶対にアカニシ――なのである。

・「あげた鰻」“fried eel”。これは高い確率でアナゴの天ぷらの誤認である。島原のお正月の具雑煮(ぐぞうに)には焼きアナゴが欠かせない具なのである。島原温泉観光協会公式サイトの島原の郷土料理を参照されたい。

   *

「この地こそ外国人の上陸に最後まで反対した場所」近世史に疎い私であるが、ウィキの「松平忠和」で、肥前島原藩最後の第八代藩主であった松平忠和(嘉永四(一八五一)年~大正六(一九一七)年 江戸幕府最後の第十五代将軍徳川慶喜の実弟)の事蹟を見ると、文久三(一八六三)年には『海防強化の必要性から軍制改革を行なうが、佐賀藩や薩摩藩のような洋式軍制ではなく、時代遅れの軍制であった。忠和は慶喜の弟だったことから』、元治元(一八六四)年の『第一次長州征討に幕府方として参加』、慶応二(一八六六)年の第二次長州征伐にも参加している。『ところが、忠和の佐幕的な行動は尊王攘夷派である下級武士の不満を招き、一部の過激な尊攘派藩士が脱藩して天誅組の変』(文久三(一八六三)年八月十七日に吉村寅太郎を始めとする尊皇攘夷派浪士の「天誅組」と名乗った一団が公卿中山忠光を主将として大和国で決起、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件)』や、『天狗党の乱』()に参加したりし、遂には慶応元(一八六五)年八月十三日のこと、『伊東虎之助らの過激派が藩の中老・松坂正綱の私邸を襲って松坂を殺し、「激烈組」という尊王攘夷運動を起こすほどの内紛が起こって島原藩は混乱したが、あまりに過熱化した行動は周囲の支持を得られなくなり、やがて沈静化した』とあり、この最後の辺りのことをどこかで耳にしたモースが、ここでかく言ったのであろうか。それ以外にこうした事実があるようであれば、是非、御教授願いたい(なお、松平忠和は後に、東照宮宮司となり、宮内省にも勤めたとある)。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 信濃の旅(Ⅲ)

  信濃落合

 

雪解犀川(さいかは)千曲(ちくま)の静にたぎち入る

 

[やぶちゃん注:「信濃落合」長野駅の東南五・二キロメートルの千曲川に犀川が合流する地点に架けられた落合橋附近の嘱目吟。底本年譜に昭和三一(一九五六)年五月の条に、『二十日、長野県「七曜」俳句大会に誓子と出席。開会までの数時間、長野市の山崎矢寸居に案内され、落合橋の、犀川(男流)と千曲川(女流)の合流地点に行く。犀川の渦巻く雪解け水が、静かな千曲川に流れ入っている』とある。「男流」「女流」は「おながれ」「めながれ」と読むか? こういう呼称は初めて聴いた。ネット上でも検索にかからない。識者の御教授を乞うものである。因みに、『山崎矢寸居』とあるが、これは小諸の青燕俳句会刊に「山崎矢寸尾句集」があるから、俳人山崎矢寸尾の誤植かと思われる。因みに、ここを頂点として西に延びる三角状の平坦地こそが、かの武田信玄と上杉政虎(謙信)が激しく激突した、川中島の戦いの舞台であった。

「たぎち」「浪(たぎ)つ」「激つ」などと漢字表記する。万葉以来の古語で(上代は「たきつ」とも)、水が激しく湧き流れる、湧き上がる、逆巻くの意。後に転じて、心が激しく動く、揺さぶられるの意ともなった。多佳子は後者の意味も含ませていると私は読む。この十一句の連作はそう読んでこそ、深い味わいがあるのである。しかもそれはこの当時、多佳子の心臓発作が続いていたであろう(同年年譜の最後には、『十一月、心臓発作つづく』とある)なんどということとは、無論、違った意味で、である。]

 

よろこびに合へり雪解の犀千曲

 

雪解犀川砂洲を見せては瀬を頒つ

 

こゑ出さばたちまち寂し雪解砂洲

 

假橋にて雪解水嵩に直(ぢ)かに触れ

 

[やぶちゃん注:「假橋」(「假」は底本の用字である)以下の句群の句柄からは間違いなく落合橋としか思われないのであるが、Zenmai 氏のサイト信濃風・信濃の信濃路の橋のデータを見る限りでは、当時、落合橋は仮橋ではない。しかし、他の橋のデータを見ても昭和三一(一九五六)年当時に仮橋であったものも見出せない。識者の御教授を乞うものである。]

 

假橋にて雪解犀川鳴りとほす

 

ひざついて雪解千曲をひきよせる

 

雪解落合ふ嬉々たり波鬱たる波

 

犀・千曲雪解を合はす底ひまで

 

[やぶちゃん注:「底ひ」古語。現代仮名遣「そこい」。「涯底」などとも書く。物事の至り極まるところ。果て。極み。「退(そ)き方(へ)」(遠く離れた場所・最果て)や「退(そ)く方(へ)」と同語源かとされる。]

 

眼の前の雪解の千曲かちわたらず

 

雪代の光れば天に日ありけり

 

[やぶちゃん注:「雪代」「ゆきしろ」で、雪解け水。ゆきしろみず。「代」は「形代」などと同じく、代わりとなる代用の「代」で、雪の溶けて変じたものの謂いであろう。春の季語。]

 

  木曽溪

 

紫雲英打つ木曽の青天細き下

 

[やぶちゃん注:「木曽溪」は一般的な呼称ではない。木曽川上流の流域を意味する木曽谷のことかと思われる。ウィキ木曽によれば概ね、『長野県木曽郡の全域(上松町、木曽町、南木曽町、王滝村、大桑村、木祖村)、岐阜県中津川市の一部(神坂、馬籠、山口地区)に該当』し、『木曽川の浸食により形成されたV字谷状地形が』延長約六十キロメートルに亙って続き、その主線は概ね『北北東から南南西の方角に沿う。東南方面には木曽山脈(中央アルプス)が、西北方面には御嶽山系がある。現在の長野県南西部が主な地域である。地形的には鳥居峠以南の木曽川上流の流域をさすが、歴史的には木曽路をさすことがある』とある。以下、中仙道(中央本線或いは国道十九号)を名古屋に下った際の嘱目吟である。

「紫雲英打つ」「れんげうつ」或いは「げんげうつ」(多佳子がどっちで読んだかは確証がない)。これはマメ目マメ科マメ亜科ゲンゲ Astragalus sinicus を緑肥(りょくひ/「草肥(くさごえ)」ともいう)とする作業を指す。昔は、八~九月頃、稲刈り前の水田の水を抜いてレンゲの種を蒔いておき、翌年の田植えの前にこのレンゲ畑を耕して、レンゲをそのまま鋤き込んで田の肥料とした。]

 

青木曽川堰きて一つ気にまた放つ

 

五月空真白くのぞき木曽の駒嶽(こま)

 

[やぶちゃん注:「木曽の駒嶽」木曽駒ヶ岳。長野県上松町・木曽町・宮田村の境界に聳える木曽山脈(中央アルプス)の最高峰で、標高二千九百五十六メートル。しばしば木曽駒(きそこま)と略称もされる。]

 

雪嶺の赤恵那として夕日中

 

[やぶちゃん注:「赤恵那」恵那山。長野県阿智村と岐阜県中津川市に跨る、木曽山脈最南端の山。標高二千百九十一メートル。「赤富士」同様に夕陽に照らされたその美観を実際に「赤恵那」と呼称する。]

耳嚢 巻之九 淸品の酢作りやうの事

 淸品の酢作りやうの事

 

 世に萬年酢とて、陶に作る事あり。夫(それ)に付(つき)一法あると人の語りぬ。酒壹升〔或は五合〕酢壹升〔或は五合〕に入(いれ)、夏の日向(ひなた)へ出し置(おく)事一日、其後土藏の内へ入置(いれおく)事三十四五日程、しかうして用之(これをもちふれ)ば、酢の淸漿(せいしやう)なるもの也と、云々。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。とど氏の個人サイト「からしら萬朝報」内にある「酢の美味爽風」の酢の基礎的醸造学に、『ことに近年は、伝統的な醸造法による米酢を中心とした醸造酢に人気が高いが、伝統的な酢の造り方の中で江戸時代に知られた面白い酢の造り方があるのでそれを紹介しておこう。「万年酢」という』。『江戸時代の書物によればそれは以下のように造られる。質のよい酒1升、質のよい酢1升、清水1升を混ぜ、甕(かめ)に入れて蓋をし、温かいところに置くと30から40日後に酢として成熟する。使用にあたって甕から1匙(さじ)の酢を取り出した際、甕に1匙の質のよい酒を入れる。常時こうすることによっていくら酢を取り出しても元の酢はなくならない。そこで万年酢と名づけられた』とある。この記載は、各種の辞書の「万年酢」の記載とも一致する。根岸に少し文句を言いたいのであるが、そもそもがこの「萬年酢」の「萬年」は、かく注ぎ足しをするから、全く減らぬことを以っての命名としか思われず、とすればこの本文記載はその注ぎ足しを述べていない点で致命的欠陥があると言わざるを得ないのである。さればこそ、「萬年酢」の名にし負う部分を以下の現代語訳で俄然補填せずんばならずと思うたものとお考え戴きたいのである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 澄んだ上質の酢を醸造する法の事

 

 世に「萬年酢」と称し、陶の甕を以って酢を造ることがある。

 それについて、簡便容易にして絶妙の佳品を醸(かも)し、且つ、それが何時まで経っても減らぬという奇々妙々の一法がある、とさる御仁の語って御座った。

 その法とは――

 

○陶器の甕を一つ、用意する。

○そこに、酒一升〔或いは五合〕を入れる。

○次いで、そこに酢一升〔或いは五合〕を入れる。

○そのまま、その甕を夏の青天の日の、暑い日向(ひなた)へと出だいておくこと、一日。

○その後(のち)、土蔵の内へとひき入れおくこと、三十四、五日ほど。

 

 このようにして出来た酢は用いてみれば、まことに、酢の澄み切ったる上質の、また馥郁たる香気を持った佳品となる。

 なお、この酢、その使用に当たっては、

 

○甕より一匙(ひとさじ)の酢を取り出だいたならば、その甕には必ず一匙の清酒を新たに注ぎ入れることを定(じょう)とする。而してかくせば、いくら酢を取り出だいても、甕の中の酢は、これ、尽くること、これ、御座ない。

 

 さればこそ、この酢を「萬年酢」と名づくるので御座る、と……。

2015/01/25

耳囊 卷之九 市谷宗泰院寺内奇說の事 / 執着にて惡名を得し事 (二話)

同一の事件を流言飛語版と真相版で書き分けたもので、「耳嚢」では珍しいものである。実際には真相版の方は十話も後に配されてあるが、本ブログ版では敢えて併置して示した。




 市谷宗泰院寺内奇說の事
 

 

 市谷大日坂上(いちがやだいにちざかうへ)に宗泰院(そうたいゐん)といへる寺あり。右の旦方(だんがた)町人に娘ありて容色もありしが、文化六年の夏、風のこゝちにて身まかりぬ。則(すなはち)宗泰院へ送り、町家なれば地内の湯灌場(ゆくわんば)にて湯くわんをなしけるを、其邊の武家の家來なるや、與風(ふと)覗見(のぞきみ)て、兼て右娘に執心もありしや、夜に入(いり)、墓を掘返(ほりかへ)し彼(かの)死人を取出(とりいだ)し、いか成(なる)心なるや、夜の明(あけ)んとするゆゑ、寺の椽下(えんのした)へ投入(なげい)れ置(おき)しを、住僧墓廽りに見付(みつけ)、大きに驚き、施主へ聞えてはやすからじと、猶(なほ)下男抔に申付(まうしつけ)、葬りし。此頃專ら噺し合(あひ)ける。一說には、施主とやら住持とやら、彼是(かれこれ)六ケ敷(むつかしく)、本寺奉行所へも申立(まうしてつ)るとて、金五拾兩にて取扱(とりあつかひ)、事濟(すみ)しとも評判なしける。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。屍姦譚で、根岸はこの十章後に、このおぞましい流言飛語の真相を意識的に改めて記して猟奇性を否定している。個人的には「耳囊」の中ではこの流言飛語の本話の方は、珍しく私自身が頗る生理的不快感を持つ話である。是非、真相版を合わせて読んで戴きたい話柄ではある。

・「市谷大日坂上に宗泰院」底本鈴木氏注に、『市谷佐内坂町、曹洞宗宗泰院。(三村翁)左内坂町は後に新宿区市ヶ谷佐内町』とある。「大日坂」は文京区小日向にある坂で、ここは市谷とは距離が離れているから、佐内坂(以下を参照)の誤りと考えられる。この寺は現存するが、当地には存在せず、現在は杉並区高円寺南にある。しばしばお世話になっている松長哲聖氏の個人サイト「猫のあしあと」の「宗泰院|杉並区高円寺南にある曹洞宗寺院」によれば、永昌山宗泰院で本尊は釈迦牟尼仏。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正一二(一五八四)年に麹町表四番町(現在の千代田区四番町)に草庵を結んだのが始まりとされ、開山は小田原万松院の格峰泰逸とする。文禄二(一五九三)年に幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整備、その後、元和二(一六一六)年に寺地が旗本の屋敷地と定められたために、『市ヶ谷左内坂に境内地を拝領して移転、寺院の取締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられ』たとある。『当寺の檀家は旗本・御家人・尾張藩士などの武家』三百五十家及びその出入商人などで、『本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれ』るとある、かなり格式の高い寺である。その後、『明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰え』たが、明治二十年代に復興、明治四二(一九〇九)年に『陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転し』たとある。宝暦七(一七五七)年建立の本堂、寛延三(一七五〇)年建造の開山堂は、『そのまま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物で』あるとあり、また、『なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士すずきは無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあ』るとある(以上の記載は杉並区教育委員会掲示に拠ると注記有り)。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏(これはまさに「文化六年の夏」とあるから、超新鮮なホットな噂ということになる)であるから、遺体が投げ捨てられたであろう本堂或いは開山堂が今も見られるということである。事件の猟奇性もさることながら、格式高い寺院であったが故に、表沙汰にされて妙な風聞の立つことをも恐れたという感じがしてくる。

・「町家なれば地内の湯灌場にて湯くわんをなしける」底本鈴木氏注に、『三村翁「昔しは地借では、自分の家で湯灌はつかへなかりし也、されば、葬送に、湯濯盥を持行くことは、居付地主といへる標識なりしなり。此一齣、蠹損あり、心してよみ給ふべし。」』とある。短いが、非常に分かりにくい注である。以下、「●」でこれらの語注を示す。

   *

●まず、本文の「湯灌場」は寺の一画に設けられた湯灌をするための場所をいう。当時地主や居住家屋が自分のものでなかった者は自宅で湯灌をすることが許されなかった。

 注の中の「地借」は「じがり」と読み、賃借した土地を指す。要するに、地面は自分の土地でないということである。

●注の「湯濯盥」は「ゆかんだらい」で、外で湯を沸かしておき、それを井戸の水を汲んでおいた盥に入れ、それを以って湯灌の湯とした。

●同じく注の「居付地主」とは、町内の自分の所有地に住居を構えた町人をいう。居付き家持ちとも称した。江戸の場合、地主が屋敷地内に住むことは少なく、多くは家守(やもり:大家。家主。)が屋敷地内に住居を構えて地代・店賃徴収を代行し、事実上、裏店(うらだな)の住人らを管理支配していた。ここはこうした者が湯灌盥を住人の葬儀に際し、持ち歩くことを、その権利或いは義務としていたことを指す謂いらしい。

●「一齣」は「いっく」で「部分」の意。

●「此一齣、蠹損あり、心してよみ給ふべし」「蠹損」は「トソン」と読み、虫食いのこと。実は岩波版のこの屍姦相当の箇所には長谷川氏が注して、『以下三村翻刻の芸林叢書本には屍姦を思わす語句を削る』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここは(恣意的に正字化し、読みを歴史的仮名遣に直した)、

與風(ふと)覗見(のぞき)みて、兼(かね)て右娘に心も有りしや、與風淫心を生じて、夜に入(いり)墓を掘返し彼(かの)死人を取出し、如何なる心なるや添臥(そひぶし)なして、夜の明(あけ)んとする故寺の椽下(えんのした)へ投入置(なげいおき)しを、

とある。長谷川氏の謂い方からは、これは虫食いではなく、芸林叢書本の書写或いは校訂者である三村竹清氏による意識的削除が行われたことを暗に意味しておられるように思われる。現代語訳ではこの箇所に限って、カリフォルニア大学バークレー校版を採って補った。

   *

・「旦方」旦那。檀家のこと。

・「一說には、施主とやら住持とやら、彼是六ケ敷、本寺奉行所へも申立るとて、金五拾兩にて取扱、事濟し」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが、

一說には、施主とやら住持とやら、其死骸を犯せし人も知れて彼是(かれこれ)六ケ敷(むつかしく)、本寺奉行所へも申立るとて、金五拾兩にて取扱(とりあつかひ)、事濟(すみ)し

となっている。現代語訳はここもバークレー校版を採ったが、この奉行所とか示談とかというのは、当時のシステムでは如何にも怪しげである。寺の境内で発生した事件である以上、これは町奉行の管轄ではなく、寺社奉行の担当事件となろうし、墓暴きは立派な犯罪であり、屍姦は宗教的に看過出来ない大罪として認識されていたと思われ、これだけの格式もあり、禅宗の住持が必死に揉み消しに加担するというのも、私は考え難いと思う。ちょっと考えても、この流言飛語自体、また、それが瞬く間に広まった(記載時と共時的)ということ自体が、それがまさに、おぞましい猟奇的好事家によって捏造されたものだという感じが強くするのである(実際、まさにそうであったということが、後の話で明らかにされるのである)。

・「取扱」中世以降、民事・刑事を問わず、騒擾や事件の仲介人のことを言った(単に「扱(あつかい)とも)。ここはそうした仲介者による、今で言うところの示談を指す。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 市谷宗泰院寺境内にて起ったという猟奇的な一件についての事

 

 市ヶ谷大日坂上(いちがやだいにちざかうえ)に宗泰院(そうたいいん)という寺がある。

 ここの檀家のある町人に娘がおり、なかなかの美人の評判であったが、この文化六年の夏、風邪をこじらせて身罷った。

 その日のうちに宗泰院へと遺骸を送り、町家のことなれば、その境内に設えられてあった湯灌場(ゆかんば)に於いて、湯灌の儀を滞りなくなして、葬った。

 ところがその辺りの武家の家来でもあったか、その葬儀の一部始終――分けても湯灌の折りの処女の抜けるような美しき白き肌の骸(むくろ)――をふと覗き見、兼ねてより、生前のこの娘子に執心などもあったものか――おぞましくも、死せるその娘に対する淫猥の気の昂ぶって――その夜になって――その墓を掘り返して暴くと――かの死人(しびと)を取り出だいて――何ともその心境――これ――理解に苦しむところであるが――添い臥しなど致いておったという――されど、夜(よ)の明けんと致いたによって――同寺の本堂とか開山堂とか申す――その縁の下の辺りへ、この遺骸を投げ入れ、捨ておいたというのである。

 それを、住僧が朝方の墓の見廻りの際に見出し、これ、大きに驚き、

「……娘の施主なんどへ……かくなるおぞましき変事の知られては……これ……当院の沽券に係わる!……」

と、即刻、下男などに申しつけて、元の墓へ葬ったという。

 しかし、この頃、どこから漏れたものか、専ら、その屍姦のあって云々……と申す風聞の、これ、江戸市中に広がっておる由。

 一説によれば、施主であったか、その住持であったか、が――実はそのおぞましき屍姦をなしたる武士も明らかとなり、しかもそれがまた、まずいことに相応の格式の武家の家来であったがため――かれこれ話の縺れ絡んだによって――当寺から奉行所に対し、その微妙な取り計らい方につき、内々に申し立ての御座ったによって――その武家と寺より施主に対し――金五十両と事件詳細の緘黙の約定(やくじょう)が、これ秘密裏に交わされて、以って――事件はなかったもの――として処理された――なんどと、まことしやかに風評しておるという、これ、何とも尋常ならざる事態となっておるのである。……(続く)

 

 

 執着にて惡名を得し事 

 

 市谷邊、名も聞(きこえ)し去る御旗本の厄介の伯父なる男、一體おろかなる性質(たち)にて、長屋に住居(すまひ)、厄介になり居りしが、年も中年に過(すぎ)し由。右屋鋪(やしき)門前町に五六才の娘ありしが、いたつていたいけなる生れなりしを、彼(かの)厄介なる男甚だ寵愛して、我子同前にあわれみける故、町家の兩親も甚(はなはだ)心安くなし、娘も我(わが)宿より彼(かの)人の方而已(のみ)にて遊(あそび)しが、文化六年の夏、彼人も近在に所用ありて、日數五六日も過(すぎ)て立歸(たちかへ)りしに、彼小兒痘瘡にて、四五日煩ひて身まかりしを、彼男歸り聞(きき)て甚だ愁傷し、其慈愛やみがたきや、寺も隣家なりしを、密(ひそか)に墓所に至り、右なきがらを掘出(ほりいだ)し、あくまで歎きけるを、近邊にても其愚痴を笑ひしが、傳説して、此書七十二の所に記しける通り色々作説を附會なして、却(かへつ)て附會の方實事のやう口ずさみける。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。十前の条「市谷宗泰院寺内奇說の事」の真相実記である。この実際の主人公、悪意を以って見れば若干、ペドフィリア(小児性愛)的なニュアンスを感じさせないとは言えないが、しかし状況から見ると、決して異常者とは私には思えない。底本の鈴木氏の注ではこれを『同話異伝』とするが、そもそもが猟奇性満載ながら、奉行所まで出て来て示談落ちという前話は明らかな低次元の流言飛語であり、この話こそが真実であったのだと私は思いたい。屍姦事件は実際にはある。しかし、この事件、これと前話を二つ並べて虚心に読めば、自ずとその虚実は見えてくると私は思うのである。

・「七十二」現在の「耳囊」の各巻の話には遠し番号は附かないが、こうした叙述を見ると、原話にはこうした番号が附されてあったのではと考えられるようにも思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 執着のあまり悪名(あくみょう)を轟かすことになってしまったとんでもない事 

 

 市谷辺りに、名も知られた、さる御旗本に、居候して御座った、その当主の伯父とか申す男が御座った。この男、一体に、何とも愚鈍なる性質(たち)の者にて御座って、屋敷内(うち)の長屋に住まい、かなり永いこと、ここの主人に厄介になっておった者と申す。年の頃も、もう中年を過ぎた如何にもぱっとしない男で御座る由。

 さて、この御旗本の屋敷の門前町の町屋に、五、六才の娘が、これ、御座った。

 この娘子(むすめご)、至って可愛らしき生まれの子であったを、この居候の中年男、これまた、はなはだ寵愛致いて、我が子同前に慈しんで御座ったと申す。

 されば、町屋のこの娘の両親もまた、この男と、はなはだ心安くなし、この娘自身もまた、昼つ方は自分の家におるよりも、かの男の長屋へ入り浸っては遊んで御座ったと申す。

 ところが、この文化六年の夏、かの男、江戸郊外の少し離れたる田舎に所用のあって、日数(ひかず)五、六日ばかりも過ぎて、やっとたち帰って参ったところが、かの可愛がって御座った娘子、この男が留守にしたその日に、急に痘瘡を発し、四、五日も患った末、あっけのぅ、これ、身罷ってしもうておった。

 されば、かの男、帰り来たってそのことを聴くや、その愁嘆致すこと、尋常ではなかった。

 その慈愛の、これ、已みがたかったものか、娘を葬ったる寺もまた、当旗本屋敷のすぐ隣家で御座ったによって、その夜のこと、いたたまれずなった男は、こっそりその寺の墓所へと入り込み――かの娘に、これ今一度、遇いたき一念より――亡骸(なきがら)を掘り出だいては――そのまま――その骸(むくろ)を抱きしめて――夜が明くるのも忘れて、大声を挙げて、嘆き悲しんで御座ったと申す。

 近隣にても、その痴愚と言わんか、この甲斐性なき中年男の、あきれんばかりの娘への愛着を、これ、皆して、嘲笑(あざわろ)うって御座ったと申す。

 ところが、これが誤伝して、この「耳嚢」は本巻之九の七十二番目の話として記した通り――おぞましき猟奇の尾鰭を紙鳶(たこ)の如く――びらありびらびらと――あくまで猥雑に淫猥に附会なした――そうして――その、かえってその附会したる、口にするも忌まわしき話の方が、これ――実事であるかのように――人の口に上るようになってしまったのである。

 これこそが、あの語るに落ちた妖談の、これ、真相であったのである。

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅺ) 頁47~頁61 推定「第二號册子」 了

《頁47》

明るき雨のすぎ行けば

虹もまうへ まうへにかかれかし

 

[やぶちゃん注:ここに特に編者によって、『以上二行は前頁から連続している』という注が記されてある。そこでここも空行を設けずに連続させた。]

 

(夢むはとほき野のはてに

(穗麥刈り干す老ふたり

(明るき雨のすぎゆかば

(虹もまうへにかかれとそらじや

 われらにかかれと       かし

 

[やぶちゃん注:「虹もまうへに」に始まる行と最後の「われらにかかれと」の抹消との間に編者注があって、『以上四行、上方に印あり』とあるので、前例通り「(」を附した。抹消の「われらにかかれと」と「かし」の間の空白部分は何字分かは不詳。

 

(ひとり胡桃を剝き居れば

(雪は幽かにつもるなり

(ともに胡桃は剝かずとも

(ひとりいぬあるべき人ならば

 

[やぶちゃん注:ここには編者によって、いつものように『以上四行、上方に印あり』とあるのであるが、これは実は「澄江堂遺珠」の初版四十五頁のものであることが分かる。そこには佐藤春夫の注が附される。以下に引く。佐藤の注は詩より三字下げポイント落ちである。解説の改行は「澄江堂遺珠」のままである。なお、解説の行末が不揃いになっているのは原本では読点が半角で打たれているためである。

   *

 

 (ひとり胡桃を剝き居れば

 (雪は幽かにつもるなり

 (ともに胡桃を剝かずとも

 (ひとりあるべき人ならば

 

  とあり、この最後の意を言外にのこしたる

  一章には大なる弧線を上部に記して他と

  區別し、些か自ら許せるかの觀あり。かく

  て第二號册子の約三分の二はこれがため

  に空費されたり。徒らに空しき努力の跡

  を示せるに過ぎざるに似たるも、亦以て故

  人が創作上の態度とその生活的機微の一

  端とを併せ窺ふに足るものあるを思ひ敢て

  煩を厭はずここに抄錄する所以なり。

 

   *

 この解説の中に出る『第二號册子』というのは私は『第三號册子』の誤りではないかと考えている。もしかすると、現在の新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』に載る「ノート1」が実は佐藤の言う『第三號册子』、「ノート2」が『第二號册子』であった可能性もあるが、それはまた後の私の考証の課題として、ここでは今までの流れを覆さないようにかく注しておく(言っておくが、これは誤魔化しでは、ない。こうしておかないと、資料としてのこれらが錯雑してコントロール出来なくなってしまうからである。ここはどうか御寛恕願いたい)。

 「澄江堂遺珠」では佐藤が注するように、巨大なスラーのような一つの「(」(弧線)となっている。そうしてこの事実によって、この新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『上方に印あり』という『印』が恐らく総てこの巨大な「(」であると推定されるのである。]

 

《頁48》

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

明るき雨のすぎ行かば

         とぞ

虹もまうへにかかれ

         かし

 

何か寂しきはつ秋の

日かげうつろふ霧の中

ゆ立ちし鵲か

ふと思はるる人の

 

夢むは遠き野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

仄けき雨の過ぎ行かば

虹もまうへにかかるらむ

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老二人

雨も幽かにすぎ行かば

《頁49》

虹こそおぼろと虹やかかるらむ

 

[やぶちゃん注:ここに編者によって『この行は前頁から連続している』とあるので空行を設けずに繋げた。]

 

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

明るき雨すぐ

夢むはとほき野のはてに

穗麥刈り干す老ふたり

      雨はすぐるとも

われらが

われら老いなば

虹は幽

 

[やぶちゃん注:「雨はすぐるとも」の前の空白は七字分かどうかは不明。]

 

われらが末は野のはてに

穗麥刈干す老ふたり

 

虹は幽かにかかれかし

 

《頁50》

たとへばとほき野のはてに

穗麥刈り干すわれらなり

 

野もせに雨は

 

(われらはとほき今日も野のはてに

(穗麥刈り干するなる老ふたり

(           けれ

(雨は濡るるはすべなくも

(           もなし

(幽かにかかる虹もがな

 

[やぶちゃん注:前例に従い、編者注から「(」を頭に附した。]

 

穗麥刈り干すわれらなり

雨に濡るるはすべもなし

幽かにかかる虹もがな

 

《頁51》

わが戀こそはみちならね

 

雨はけむれる午さがり

實梅の落つる音きけば

ひとを忘れむすべをなみ

老を待たむと思ひしか

 

谷に沈める雲見れば

ひとを忘れむすべもなみ

老を待たむと思ひしが

 

ひとを忘れむすべもがな

ある日は 古き書のなか古き書のなか

匀も消ゆる白薔薇の

老を待たむと思ひしが

 

《頁52》

ひとを忘れむすべもがな

ある日は秋の山峽に

 

夫 scholary man

妻 model woman

敵 male

 

さあみんな支度をおし、お前は刀を持つてゐるかい

 

成程ね。お前のやうな人間が二十人もう十人もゐてくれると、宮中の廓淸が出來るのだが、

 

《頁53》

君 さやうでごさ 恐れ入ります

王 おれ おれの周圍にゐる人間一體宦官なぞと云ふやつは、みんなお前だな噓つきか泥坊ばかりだ

宦官 陛下

お前王 おやまだゐたのか

(宦官 いえ唯今參つたばかりでございます しかし決して噓つきなぞは申上げません

王(      ) た■ そり やいくらお前でもたまにさうか。そりや珍しい。

王 まあ聞けよ

は噓もつき倦るだらうさ

宮官 御言葉ではございますが、

王 兎に角お前の心がけは感心だ。

君 恐れ入ります。

王 しかし おれには難有迷惑だね。

 

[やぶちゃん注:抹消の「王 まあ聞けよ」の後に編者による『以上五行、上方に印あり』という注がある。一応、詩と同じ大きなスラー様のものと考えて、「(」を附した。但し、この『五行』とは底本(二段組)五行分ではなく、台詞の柱で五行分ととった。そうでないとおかしいからである。「噓」は総て底本の用字である。「(      )」は本文そのまま( )が本文サイズであって、そこに編者によって空白である旨の注がある。但し、空白字数は不詳である。

scholary man」は「scholarly man」の誤記か。これなら「学者気質(かたぎ)の男」となる。以下の戯曲断片と連関させるならば、儒者か道士といった感じか。

model woman」は模範的或いは貞節なその妻の意としかとれないのだが、しかし冒頭の台詞がこの人物の台詞とすると、如何にもおかしい。上手い訳が見当たらない。絵のモデルというわけでもなさそう。後の戯曲とは無関係な創作メモの可能性もある。

「廓淸」「くわくせい(かくせい)」と読む。粛清と同じ。これまでに溜まった悪いもの、乱れや不正な者を払い除いて浄化すること、或いはそう称しつつ、厳しく取り締まって反対勢力を駆逐或いは抹殺してしまうこと(因みに、現在では「郭清」とも表記して、癌を切除する際に転移の有無に関わらず、周辺リンパ節を総て切除することもこう言う。これは癌細胞がリンパ節に転移し易いことから、癌の根治・予防のため、普通に行われる術式の一つである)。]

 

《頁54》

忘れ

忘れはてなむすべもがな

ある日は

 

ゆうべとなれば

物の象は

 

物の象(かたち)はまぎれ

 

物の象はしづむのごと

老さりくれは

 

の小川も草花も

夕となれば煙るなり

われらが戀も

 

《頁55》

牧の小川も草花も

夕となれば煙るなり

わが悲しみも

老ひさりくれば消ゆるらむ

 

夕となれば家々も

畑なか路も煙るなり

わが身をせむる今は忘れぬおもかげも

老ひさりくれば消ゆるらむ

 

《頁56》

われらはけふ野べの穗麥刈り

雨に濡るるはすべ

雨に濡

 

夢むわれらはとほき野のはてに

穗麥刈るなる老ふたり

雨は

幽かにかかる虹もあり

 

われらは野べの穗麥刈り

雨に濡るるはすべもなし

穗麥の末に

幽かにかかる虹もがな

 

《頁57》

ゆうべとなれば草むらも

 

ゆうべとなれば

 

われらは野べの穗麥刈り

ひと村雨はすべもなし

鎌に

幽かにかかる虹もがな

 

ゆうべとなれば草むら海ばらも

蒼海原

今は忘れぬおもかげも

老さりくれば消ゆるらむ

濡れし袂と干す時は

 

《頁58》

ゆうべとなれば葱畑家々も

畠の葱も煙るな

 

夕となれば家々も

畑なか路も煙るなり

今は忘れぬ

老ひさり來れば消ゆるらむ

 

今は忘れぬひとの眼も

 

《頁59》

ゆうべとなれば波の穗も

船の帆綱も煙るなり

 

ゆうべとなれば波の穗も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

老ひさりくれば消ゆるらむ

 

われらは野べの老ふたり穗麥刈り

一村雨はすべもなし

濡れし穗麥を刈るときは

幽か

 

《頁60》

ゆうべとなれば波の穗も

遠島山も煙るなり

今は忘れぬおもかげも

何時か やがて 老いて何時かは夢にまがふらむ

 

老いなば夢にまがふらむ

ひとを殺せどなほ飽かぬ

妬み心も今ぞ知る

 

われらは野べの穗麥刈り

 

ひとを

 
 
[やぶちゃん注:ここに空白一頁あり、という編者注がある。]

《頁61》

Mr. G. Dauson

 

[やぶちゃん注:この以上の一行は横書である旨の注と、一行空け別立てで、ここに『カットあり』(描画図不詳)という注で、新全集の『「澄江堂遺珠」関連資料』の『ノート2』は終わっている。「G. Dauson」不詳。]




以上を以って、現在、公的(アカデミック)に「澄江堂遺珠」の原資料と呼ばれているもの本カテゴリ『「澄江堂遺珠」という夢魔』に於いて、総ての電子化を終了した。
 
これより未踏の――■5 現在知られる芥川龍之介の詩歌及び手帳並びに未定稿断片の内に於いて「澄江堂遺珠」との親和性が極めて強いと私が判断するもの――にとりかかる。――

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅹ) 頁42~頁46

《頁42》

ひとをころせどなほあかぬ

ねたみごころもいまぞ知る

 

いづことわかぬ靄の中

かそけき月によはよはと

 

啼きづる山羊の聲聞けば

はろけき人ぞ戀ひがてぬ

遠き人こそ忘られね

かそけき月によはよはと

山羊は啼き靄の

はろけき人をおもほへば

山羊の聲

 

(いづことわかぬ靄のなか

(かそけき月によはよはと

(啼きづる山羊の聲すなり

山羊さへ妻を戀ふやらむ

《頁43》

(わが人戀ふる霧のなか

 

[やぶちゃん注:ここには特に編者によって、『この行は前頁から連續しており、これら全五行の上方には印あり』と注されてある。例の大きなスラーのような丸括弧であろうか? 試みに「(」を附して、ここのみ、《頁43》の前に空行を設けなかった。]

 

ひとをころせどなほあかぬ

ねたみごころもいまぞしる

垣にからめる薔薇の實も

いくつむしりてすてにけむ

 

(垣にからめる薔薇の實も

(いくつむしりて捨てにけむ

(ひとを殺せどなほあかぬ

(ねたみ心になやみつつ に燃ゆる日 の燃ゆる日に堪ふる日は

 

[やぶちゃん注:ここにも編者によって『以上四行、上方に印あり』とあるので、試みに「(」を附した。]

 

夜毎にきみと眠るべき

男あらずばなぐさまむ

 

《頁44》

  雪

ひとり山路を越え行けば

雪はかす幽かにつもるなり

ともに山路は越えずとも

ひとり眠(いぬ)べききみ君ならば

 

[やぶちゃん注:「いぬ」は底本ではルビ。このルビは本冊子の中では特異点である。他には先行では《頁3》と《頁10》の「小翠花(シヤウスヰホア)」と後掲する《頁54》の「象(かたち)」にしか認められない。]

 

夜空

 

  劉 園

人なき院にただひとり

古りたる岩を見て立てば

花木犀は見えねども

冷たき香こそ身にはしめ

 

《頁45》

ひとり山路を越え行けば

ひとり川べを見てあれば

雪は幽かにつもるなり

ともに川べは

ひとり眠ぬべき君ならば

ひとり山路を越え行けば

月は幽かに照らすなり

ともに山路は越えずとも

ひとり眠ぬべき君ならば

 

ひとり

雪は幽かにつもるなり

ともに

ひとり眠ぬべき君ならば

 

《頁46》

雨にぬれたる草紅葉

佗しき野路をわが行けば

かた 片山かげにただふたり

住まむ藁家ぞ眼に見ゆる

 

[やぶちゃん注:「片山」の文字が出現するのには正直、私は激しく驚いている。しかも直前の《頁44》《頁45》の詩篇には「越ゆ」が合計五回出現している。周知の通り、龍之介は片山廣子のことを「越し人(びと)」と呼んでいた。私の電子テクスト「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」及び芥川龍之介「越びと 旋頭歌二十五首」などを是非、参照されたい。]
 

 

 

われら老いなばともどもに

穗黄なる穗麥を刈り干さむ

われら老いなばともどももろともに

穗麥もさわに刈り干さむ

 

われら老いなばともどもに

夢むは

穗麥刈り干す老ふたり

 

夢むは

穗麥刈り干す老ふたり

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅸ) 頁39~頁41

《頁39》

畫舫はゆるる水明り

はるけき人をおもほへば

わがかかぶれるヘルメツト

白きばかりぞうつつなる

 

幽に雪のつ

かに雪のつもる夜は

ひとりいねよと祈りけり

 

疑ひぶかきさがなれば

疑ふものは數おほし

薔薇に刺ある蛇に舌

女ゆゑなる涙さへ

 

幽かに雪のつもる夜は

ひとり葉卷をくはへつつ

幽かに君も小夜床に

[やぶちゃん注:この頁も自筆原稿が「澄江堂遺珠」の表紙見返し(左頁)で視認出来る。そこでは、

 

   畫舫はゆるる水明り

   はるけき人をおもほへば

   わがかかぶれるヘルメツト

   白きばかりぞうつつなる

 

   幽に雪のつ■■

   幽かに雪のつもる夜は

   ひとりいねよと祈りけり

 

   疑ひぶかきさがなれば

   疑ふものは數おほし

   薔薇に刺ある蛇に舌

   女ゆゑなる涙さへ

   幽かに雪のつもる夜は

   ひとり葉卷をくはへつつ

   幽かに君も小夜床に

 
 
 《頁39》には
私の判読不能箇所は存在しないことになっている。]

 

《頁40》

古き都に來て見れば

 

昔めきたる瀟湘の

夜雨

昔めきたる竹むらに

雨はしぶける夕まぐれ

 

夕さびしき大比叡は

比叡もいつしか影たてぬ

雪のゆうべとなりにけり

 

 

《頁41》

上野の圖書館に幽靈が出るのは、毎夜一時と二時との間である。この間は何處の部屋も、悉電燈が消されてゐる。が、幽靈はその暗い中にも、いくらまつ暗でも、決して滅多に躓いたり壁へぶつかつたり、階段の昇降に躓いたりはしない。これは彼自身の體から、朦朧と絶えず放射する燐光が、モウロウと行く手を照らしてくれするからである。幽靈

幽靈は

 

[やぶちゃん注:これは推測するに、芥川龍之介の怪談蒐集癖に基づくメモ書き或いは創作草稿と思われる。龍之介にはご存じのように怪奇談を採録集成した怪作椒圖志異があるが(リンク先は私の電子テクスト)、これは文体に龍之介の小説に特有な言い回しとリズムが認められ、口語表現で一貫している点、後者(創作物の草稿)の匂いが強い。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅷ) 頁37~頁38

《頁37》

竹むら多き瀟湘に

夕の雨ぞ

 

大竹むらの雨の音

思ふ今は

幽かにひと

 

夜半は風なき窓のへに

薔薇は

 

古き都は來て見れば靑々と

穗麥ばかりぞなびきたる

朝燒け

 

古き都に來て見れば

路も

 

幽かにひとり眠てあらむ

 

 

わが急がする驢馬の上

穗麥がくれに朝燒くるけし

ひがしの空ぞわすられね

 

ひがしの空は赤々と

朝燒けし

 

[やぶちゃん注:この頁も自筆原稿が「澄江堂遺珠」の裏表紙見返し(左頁)で視認出来る。そこでは、

 

   竹むら多き瀟湘に

   夕の雨ぞ

   

   

   大竹むらの雨の音

   思ふ今は

   幽かにひと■

 

   夜半は風なき窓のへに

   薔薇は

 

   古き都は來て見れば靑々と

   穗麥ばかりぞなびきたる

   朝燒け

 

[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]

 

      古き都に來て見れば

      路も

      

      

      幽かにひとり眠てあらむ

 

 

      わが急がする驢馬の上

      穗麥がくれに朝燒くるけし

      ひがしの空ぞわすられね

 

 

      ひがしの空は赤々と

      朝燒けし

 

と判読出来、私が判読不能とした抹消字三字は存在しないことになっている。]

 

《頁38》

水の上なる夕明り

畫舫にひとをおもほへば

わかぬぎたがすて行きしマチ箱の薔薇の花

白きばかりぞうつつなる

 

水のうへなる夕明り

畫舫にひとをおもほへば

たがすて行きし

わがかかぶれるヘルメツト

白きばかりぞうつつなる

 

はるけき人を思ひつつ

わが急がする驢馬の上

穗麥がくれに朝燒けし

ひがしの空ぞ忘れられね

 

さかし

 

[やぶちゃん注:ここに編者によって、『以下、欄外・横書き』という注が入る。]

 

Sois belle, sois triste ト云フ

 

[やぶちゃん注:この頁も自筆原稿が「澄江堂遺珠」の表紙見返し(右頁)で視認出来る。そこでは、本文罫欄外上部頭書様パートに、

 

 Sois belle, sois triste ト云フ

 

と記し、本文は、

 

   水の上なる夕明り

   畫舫にひとをおもほへば

   わかぬぎたがすて行きしマチ箱の薔薇の花

   白きばかりぞうつつなる

    水のうへなる夕明り

    畫舫にひとをおもほへば

    たがすて行きし

    わがかかぶれるヘルメツト

    白きばかりぞうつつなる

 

    はるけき人を思ひつつ

    わが急がする驢馬の上

    穗麥がくれに朝燒けし

    ひがしの空ぞ忘れられね

 

     さかし

     

と判読出来る。

白きばかりぞうつつなる」の「ぞ」が吹き出しで右から挿入、「驢」の字は原稿では「盧」を「戸」としたトンデモ字である。

《頁38》では白きばかりぞうつつなる」と「水のうへなる夕明り」の間に空行があるが、実際にはなく、字下げであることが分かる。最後の抹消字は不詳であるが、これは《頁38》稿では存在しないことになっている。以上、私が現認出来る原稿数箇所を見ても、それぞれに微妙に異同があることが分かる。もし、これが佐藤春夫の言う「第四號册子」で、同一物であるとすれば(私は基本的に同一物であると考えている)、残念ながら、新全集のこれら判読は必ずしも全幅の信頼をおくことは出来ないと言わざるを得ない。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅶ) 頁25~頁36

《頁25》

ひとり葉卷をすひ居れば

雪は幽かにつもるなり

かかるゆうべはきみもまた

かなしきひともかかる夜は

ひとり幽かにいねよかし

 

ひとり葉卷をすひをれば

雪は幽かにつもるなり

かかるゆうべはきみも亦

ひとり幽かにいねよかし

 

ひとり葉卷をすひ居れば

雪は幽かにつもるなり

       かかる夜は

かなしきひとも

       夜となれば

幽かにひとりいねよかし

 

《頁26》

綠はくらき楢の葉に

晝の光の沈むとき

わが欲念

わが欲念はひとすぢに

をんなを得むと

ふと眼に見ゆる

君が心

 

光は

何かはふとも口ごもりし

その

 

みどりはくらき楢の葉に

ひるの光のしづむとき

わがきみが心のおとろへを

ふとわが

 

《頁27》

ひとり

雪は幽かにつもるなり

きみも今宵はひややかに

ひとりいねよと祈りつゝ

幽かに雪のつもる夜は

ひとりココアを啜りけり胡桃を剝きにけり

きみも今宵はひややかに

ひとり寐ねよと祈りつつ

 

[やぶちゃん注:「剝」の漢字は底本の用字。以下同じ。]

 

幽かに雪のつもる夜は

ひとり胡桃を剝きにけり

君もこよひは冷やかに

ひとりいねよと祈りつつ

幽かに夜をおほへかし

 

        ひとづまも

 

幽かにひとりひとねいねよし

 

《頁28》

幽かに雪のつもる夜は

ひとり胡桃を剝きゐたり

こよひは君も冷やかに

ひとりいねよと祈りつつ

 

君の

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

きみも

幽かにひとりいねよかし

小夜床に

ひとりいねよと

 

《頁29》

幽かに雪はつもれかし

ひとなみだ

幽かにひとりいねよかし

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

 

幽かにこよひは

 

ひとり

 

こよひは君もひややかに

ひとりいねよと祈りつつ

 

[やぶちゃん注:ここに編者によって、『以下、欄外・横書き』と注がある。以下の「{」「}」は底本では一つに繋がった大きなもの。都合三パートに附くが、最後の二行は下方の閉括弧がない。]

Ibsen     Doll's House,      

Strindberg     Dol1's House 

de L’Isle  Adam    Revolt  }

 

Positive         

Negative      }

Positive but pess.

不公平

economical independence

suffragists

 

[やぶちゃん注:「Strindberg」何故ここでヨハン・アウグスト・ストリンドベリ(sv-August Strindberg.ogg Johan August Strindberg)の後に、またイプセンの「人形の家」が再度メモされているのかは不明。

de L’Isle Adam    Revolt」の「de LIsle Adam」はフランスの象徴主義の作家ジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste, comte de Villiers de l'Isle-Adam)の名で、「Revolt」は彼の一幕物の戯曲「La Révolte」(「反逆」一八七〇年作)の題名の英語表記。イプセンの「人形の家」(一八七九年作)と同系列の作品であるが、こちらの方が早い。

pess.」この単語のみ、最後にピリオドがあるから、pessimisticの省略形かと思われる。

economical independence」メモの流れから言うと「経済的自立」か。

suffragistssuffragist(婦人参政権論者)の複数形。]

 

《頁30》

幽かに雪のつもる夜は

君も幽かに眠れかいねよかし

ひとり

 

しら雪に夕ぐれ竹のしなひかな

君もかなしき小夜床に

ひとり

 

しら雪も

幽かに今はつもれかし

きみもこ

幽かにひとり 今はひとりいねよかし

 

《頁31》

幽かに

かかる 雪のかかるゆうべはきみもまた

幽かにひとりいねよかし

 

幽かに君はいね

 

幽かに雪もつもれかし

君もかかるゆうべはきみもまた

 

《頁32》

雪のゆうべとなりぬれば

幽かに今はのぼれかし

 

ひと

ゆうべとなればしら雪も

幽かに窓をおほへかし

さては

ゆうべかなしき

 

ゆきのゆうべとなりぬれば

幽かに君もいねよかし

 

幽かにひとりいねよかし

 

《頁33》

ひとり

雪はかそかにつもるなり

きみもこよひはひややかに

ひとりいねよと祈るなり

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

「思ふはとほきひとの上」

幽かにひとりいねてがな

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

きみもこよひは

幽かにひとりいねよかし

かなしきひとをおもほへば

雪も幽か

 

《頁34》

ゆきの夕は

 

こよひはとほきば人◆◆◆◆◆◆◆も

幽かにひとりいねよかし

 

[やぶちゃん注:「◆◆◆◆◆◆◆」の箇所には編者によって『この部分破損』とある。(七字分であるかどうかは不詳)。]

 

かなしき

 

かなしきひともかかる夜は

かそかにひとりいねよかし

 

《頁35》

ゆうべとなれば草花は

しつかに

 

みどりは暗き芭蕉葉に

水にのぞめる家あまた

杏竹桃

 

[やぶちゃん注:「杏竹桃」はママ。この誤字については「澄江堂遺珠」の「巻尾に」で神代種亮が言及している。]

 

ひとも幽かにねてあらむ

 

みづから才をたのめども

心弱きぞ

ひとを戀

君があたりの萩さけば

心しどろとなりにけり

 

《頁36》

妬し妬しと

嵐は襲ふ松山に

松の叫ぶも興ありや

山はなだるる嵐雲

松をゆするもおもしろし興ありや

人を殺せどなほ飽かぬ

妬み心をもつ身には

妬み心になやみつつ

嵐の谷を行く身に

 

雲はなだるる峯々に

■■

昔めきたる竹むら多き瀟湘に

昔めきたる雨きけど

 

嵐は襲ふ松山に

松のさけぶも興ありや

妬し妬しと

峽をひとり行く身には

 

人を殺せどなほ飽かぬ

妬み心も今ぞ知る も知るときは

山にふとなだるる嵐雲

松をゆするも興ありや

 

[やぶちゃん注:「■■」は編者によって『二字不明』とある。

「瀟湘」湖南省長沙一帯の地域の景勝地の呼称で、特に洞庭湖とそこに流れ入る瀟水と湘江の合流する附近を指す。中国では古くから風光明媚な水郷地帯として知られ、「瀟湘八景」と称して中国山水画の伝統的な画題となった。因みに、この画題の流行が本邦にも及び、金沢八景や「湘南」の語を生んだ。

実はこの頁は自筆原稿が「澄江堂遺珠」の裏表紙見返し(右頁)で視認出来る。そこでは、

 

 

   妬し妬しと

   嵐は襲ふ松山に

   松の叫ぶも興ありや

   山はなだるる嵐雲

   松をゆするもおもしろし興ありや

   人を殺せどなほ飽かぬ

   妬み心をもつ身には

   妬み心になやみつつ

   嵐の谷を行く身に

 

   雲はなだるる峯々に

   生贄

   昔めきたる竹むら多き瀟湘に

   昔めきたる雨きけど

 

[やぶちゃん注:ここで下段にシフトしている。]

 

      嵐は襲ふ松山に

      松のさけぶも興ありや

      妬し妬しと

      峽をひとり行く身には

 

      人を殺せどなほ飽かぬ

      妬み心も今ぞ知る も知るときは

      山にふとなだるる嵐雲

      松をゆするも興ありや

 

《頁36》では「■■」抹消部分は『二字不明』とあるが、私には「生贄」と書いて抹消したかのように見える。また、下段の最初の「嵐は襲ふ松山に/松のさけぶも興ありや/妬し妬しと/峽をひとり行く身には」は《頁36》稿では生きているが、明らかに一気に斜線を三本も引いて全体抹消していることが明らかである。特に後者は不審である。]

芥川龍之介 或阿呆の一生 三十七 越 し 人

       三十七 越 し 人

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。
 
 

 

2015/01/24

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 モースが発掘したのは「当尾貝塚」ではなく「大野貝塚」であった!

M587_2

図―587

M588_2

図―588

 

 昨日大野村からの帰りに、我々は美事な老樹の前を通ったが、その後には神社があった。日本中いたる所、景色のいい場所や、何か興味の深い天然物のある場所に、神社が建ててあるのは面白いことである。図587はこの習慣を示している。樹木の形が変っていて面白いので、その後に神社を建てたのである。ここでは、人々の宗教的義務に注意を引く可く天然を利用し、我国では美しい景色が、肝臓病の薬の大きな看板でかくされるか、或はその他の野蛮な広告によって、無茶苦茶にされる。高橋には、人々が非常に大切にしている、形も大きさも実に堂々たる一本の樟樹(くすのき)があり、地上十フィートの所に於る幹は、直径八フィートもある(図588)。

[やぶちゃん注:「大野村からの帰りに、我々は美事な老樹の前を通ったが、その後には神社があった」八代郡氷川町野津に現存する法道寺薬師堂のクスノキと呼ばれるものであるが、しかし! これはとんでもない情報なのである!

   *

 まず、熊本県公式サイト内の「地域発 ふるさとの自然と文化」から引用する。

   《引用開始》

 国道3号線を下り竜北町に入ると左側にこんもりとした丘に晩白柚(ばんぺいゆ)の畑が広がり低木が林立しています。この一帯は氷川流域に根拠を持つ有力な豪族の墳墓(野津古墳群)があり、火の国発祥の地と呼ばれています。

 法道寺跡は旧竜北町大字野津字東法道に位置し、法道寺跡のすぐ東を薩摩街道が南北に走っており、氷川左岸の宮原町と併せて江戸時代には交通の要所でした。法道寺は今から約1,300年前、白鳳時代に建てられた寺院といわれています。調査がなされていないのではっきりしたことはわかりませんが、これまでに泥塔・布目瓦が表採されています。『肥後国史』によると、法道寺は天台宗系の寺であり薬師仏を本尊としています。それを裏付けるように薩摩街道沿いの公民館には薬師堂があり、近くには「山王」「市場」の地名が残っています。

○樹齢約600年見事な老樹

 このように栄えた法道寺ですが、約600年前に廃寺になった後、寺にあった薬師如来を祭るために薬師堂が建てられました。この薬師堂を建てた際にクスノキを植えたと言われています。現在薬師堂を訪れると2本の大きなクスノキが枝を広げ、セミの鳴き声でいっぱいです。幹の周り8.2m、高さ30mのクスノキの大木が2本薬師堂を守るように並んで立っています。エドワード=モースは、日本に招かれて2年間生物学を教え、ダーウィンの進化論を紹介したり、大森貝塚をはじめ古墳を発掘したりするなど、日本の考古学の基礎を作りました。そのモースが大野貝塚の調査のため訪れた際、この法道寺の薬師堂に立ち寄り「見事な老樹」と絶賛し、そのスケッチを残しています。

   《引用終了》

この引用文より何より、リンク先の写真をご覧あれ。間違いなく、モースが「大野村からの帰りに」通ったのは、この八代郡氷川町野津に現存する法道寺薬師堂の前だったことが、モースのスケッチとの完全な一致から判明するのである!

 ところがである! この八代郡氷川町野津とはどこか?!

 リンク先にあるグーグル・マップを大きくして表示して戴きたい。

 そこは八代郡氷川町大野の私が「大野貝塚」があった場所と推定した竜北東小学校付近か南南西一・五キロメートルの直近地点なのである!

もう一つの候補地である同名の大野貝塚=「当尾貝塚」は、実にこの遙か北方九・六キロメートル熊本市寄りにあるのである!
即ち、

モースが発掘したのが松橋(まつばせ)町の旧「大野村」だったとするなら、この十キロメートルも南の八代郡氷川町野津法道寺薬師堂の前を通過しようがないのである!

これは俄然、「日本大百科全書」の「大野貝塚」の項の江坂輝彌氏の記載通り、

モースが発掘したのは、多くのデータがそうだとする現在の松橋町大野の「当尾貝塚」(別名大野貝塚」だったのではなく、直線でも八キロメートル以上南南問東に位置した全く別の八代郡氷川町大野の「大野貝塚」であった可能性が非常に高まったと言わざるを得ないのである!

そうなると、総てがゼロに逆戻りである!

かのモースが発掘した古墳も――

その近くにあった百足だらけの秘密めいた地下の人工洞窟も――
総てを検証し直さねばならない
ということになる……頭がくらくらしてきた……暫く今の錯綜状態をそのままにしておき、ゆっくらと再検討してみたいとは思う。しかし、八代郡氷川町大野の大野貝塚は江坂氏の記載よっても既に宅地化によって原形が失われているという。これらの情報収集と検証には、郷土史研究家の方の助力なしには私は到底、不可能と思われる。どうかよろしく御教授方、再度、切に、お願い申し上げるものである。

   *

 なお、今一つ、ブログ「熊本アイルランド協会」の、二〇〇六年十月二十二日附のまるぶん書店顧問樋口欣一氏の「ハーンとのかかわり」の記事の中に、

   《引用開始》

 その後、丹沢先生が「モース」の調査で再び来熊されました。モースが熊本に立ち寄ったのは明治12年6月のことでした。ハーンはスペンサーの進化論に関心を寄せていましたが、「龍南会雑誌」にモースに触れています。恰もハーン自らが大野貝塚古墳を見たようにもとれますが、この時はハーンは手取本町から坪井へ移転中であり、之は五高の鹿児島への行軍旅行の学生か、引率の秋月胤永の話を聞いて書いたのではないかと私見を申し上げて、龍北町から法道寺に来ますと、境内の大樹はモースの「その日その日」にあるスケッチ画そのものでした。

   《引用終了》

とある。私の愛するハーンと愛するモースの接点を記した文章に遂に出逢えたことに私は激しく感動している。しかもここには「大野貝塚古墳」「法道寺」の楠の「大樹」まで出ている! 何と、素晴らしいことだろう! 私をモースとハーンが導いてくれている気が、今、ふつふつと湧いてきたのである!

「一本の樟樹」これは恐らく、現在、天然記念物に指定されている熊本県熊本市西区上高橋にある「天社宮の大クスノキ」ではなかろうかと思われる。個人サイト「日本巨樹探訪記」の天社宮の大クスノキにある写真を見ると、モースのデッサンとの近似性が高く、叙述に於いて「人々が非常に大切にしている、形も大きさも実に堂々たる」という表現とも一致する巨木である。リンク先データによれば、樹高十八メートルで目通り幹囲が十一・二メートルとある。モースの直径から計算すると円周は七・六六メートルとかなり小ぶりに出るが、モースの目測はかなり甘いと考えてよく、この齟齬は私にはあまり気にならない。推定樹齢千三百年以上で、『西神社にもクスノキ巨木が立つが、大きさは、こちらの方が断然勝る。その代わり(?)神社としては、こちらの方がずいぶん小さい。現在は高橋西神社の飛地境内社とされているようだ』。『東神社の祭神は、道君首名(みちのきみおびとな)。奈良時代に実在した人物で、和銅6年(713)、筑後守に任ぜられた。のち肥後守を兼任。当地では溜池を築いて灌漑事業を行う一方、人々に生業を勧め、農耕や果樹栽培、畜産等の技術を基礎から教えて奨励した。それには条例を定め、任地を巡回して、教えに従わない者は罰することまでしたため、はじめ人々は快く思わなかったようだが、生活が豊かになるにつれ、信頼を得るようになった。そして、没後は彼を慕う人々によって、神として祀られた』。『それが、天社宮(地元の人は「天社さん」と呼ぶらしい)という神社名とどう関係するのか知らないが、そのような来歴により、五穀豊穣、商売繁盛の神様とされてきた。(明治6年(1873)に高橋東神社と改称)』。『伝承樹齢からみると、大クスノキは天社宮創建時に植えられたと考えられたようだ』が、『多くの大枝を失い、幹の太さに比べ、樹冠は小さい。しかし、残された枝は青々と葉をつけ、樹勢は悪くないように見える』。『熊本市公式WEBサイトにあった説明によれば、このクスノキそのものが御神体であった可能性があるという』とあって、『人々から慕われた国司の記憶とともに、いつまでも元気でいてもらいたいものだ』と語られてある。すこぶる同感!

「十フィート」約三メートル。

「直径八フィート」直径約二・四四メートル。]

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 熊本城の謎の洞窟 / ムツゴロウ実見 / ミドリシャミセンガイを試食す / 高橋の大凧

 

 翌朝私は熊本の知事を訪問し、世話になったことを感謝すると共に、我々が発見した物や、大野村にある奇妙な洞窟のことに就て話した。彼はそこで、城の岩石にいくつかの洞窟があるといった。私が即座にそれ等を見たいといった性急さに、彼は微笑したが、気持よく立上って、私を洞窟へ導いた。時間に制限があったので、ごくざっとそれ等を調べることしか出来なかった。入口は崖の面にあり、それ等の多くは、木の枝葉が上からかぶさって、かくしており、中には容易に到達出来ぬものもあった。私は洞窟の二、三に入って見た。形は四角である。一つの洞窟にはそれを横切る仕切が、また他の口はそのつき当りに、床から四フィートばかりの高さの凹所があり、それが棚をなしているのは、恐らく食物を供えた場所なのであろう。日本に於る洞窟を研究したら、興味が深いだろうと思われる。それ等は国中いたる所に散在し、私の知る範囲内では、埋葬用洞窟である。

[やぶちゃん注:よく分からないが、この熊本城の洞窟というは城郭構造の一部の様にも見受けられるが、それとも、熊本城の基底部には、そこにもともとあった古墳遺跡の一部が、当時、まだ保存されてあったものか? 但し、ネット上ではそのような記載は見当たらない。郷土史研究家の方の御教授を乞うものである。

「四フィート」約一・二メートル。]

 午後高橋へ戻って見ると、残して行った者達は驚く程立派な採集をしていた。私は、大きな緑色のサミセンガイの入った樽をいくつか見て目をたのしませ、土地の人のするように、それをいくつか食って見た。食うのは脚部だけであるが、私はあまり美味だと思わなかった。

[やぶちゃん注:以前にも述べたが、私は永らく食べたいと思いながらも、未だにミドリシャミセンガイを食したことはない。ネット上を管見すると、煮付けが一般的な調理法で、好印象記事では、アサリとシジミを混ぜたような味でなかなか美味しいとあり、一方では、触手は硬い管状組織で覆われているため、歯で扱(しご)くようにして身を取り出して食べるが、可食部分は楊枝のような僅かな身のみで、コリコリとした触感は悪くないものの、食べ方が面倒で嫌になるともある。実食の折りには、私の印象を必ず追記する。]

 高橋川の川口にある小さな漁村に着いて見ると、暴風雨が来そうなので、汽船は翌日まで出帆をのばしたとのことである。これにはいやになったが、私はその日を、サミセンガイを研究して送った。泥濘(ぬかろみ)の干潟をピョンピョン飛び廻っている生物がいた。最初私はそれを小さな蟾蜍(ひきがえる)か蛙だろうと思ったが、やっとのことで一匹つかまえて見ると、胸鰭が著しく発達した小魚である。これ等の小動物は、まるで仲間同志遊びたわむれているかの如く、跳ね廻っていた。ラマークが、如何にして、努力の結果が身体の各部分を変化させる云々という考を思いついたか、容易に判る。

[やぶちゃん注:勿論、これはかのスズキ目ハゼ亜目ハゼ科オキスデルシス亜科ムツゴロウ属ムツゴロウ Boleophthalmus pectinirostris である。以下、ウィキの「ムツゴロウ」より引く。有明海・八代海(本邦ではこの二箇所に限定棲息)を含む東アジアに分布し、有明海沿岸ではムツ・ホンムツなどと呼ばれている。英語では同じ様に干潮時の干潟で活動するトビハゼ属トビハゼ Periophthalmus modestus などのハゼの仲間や同じく干潟表面の珪藻類を摂餌するタビラクチ属タビラクチ Apocryptodon punctatus などの同亜科(オキスデルシス亜科)に属する魚類を総称して「Mudskipper」(マッドスキッパー)と呼ぶ。成魚は全長十五センチメートルで、最大二十センチメートルまで達する。『同様に干潟上で見られるトビハゼの倍くらいの大きさになる。体色は褐色から暗緑色で、全身に白か青の斑点がある。両目は頭の一番高いところに突き出ていて、周囲を広く見渡せる。また、威嚇や求愛のときには二つの背鰭を大きく広げ、よく目立つ』。軟泥干潟に一メートルほどの巣穴を掘って生活し、『満潮時・夜間・敵に追われたときなどは巣穴に隠れるが、昼間の干潮時には巣穴から這い出て活動する。干潟では胸びれで這ったり、全身で飛び跳ねて移動する。干潟の上で生活できるのは、皮膚と口の中に溜めた水で呼吸するためといわれる。陸上生活ができるとはいえ皮膚が乾くと生きることができず、ときにゴロリと転がって体を濡らす行動がみられる』。『植物食性で、干潟の泥の表面に付着している珪藻などの底生藻類を食べる。口は大きく、上顎にはとがった歯が生えているが、下顎の歯はシャベル状で前方を向いている。口を地面に押し付け、頭を左右に振りながら下顎の歯で泥の表面に繁殖した藻類を泥と一緒に薄く削り取って食べる』。直径二メートルほどの『縄張りを持ち、同種だけでなく同じ餌を食べるヤマトオサガニなども激しく攻撃して追い払う。反対に、肉食性のトビハゼとは餌が競合しないので攻撃しない』。。一年のうちで『最も活発に活動するのは初夏で、ムツゴロウ漁もこの時期に行われる。この時期にはオスがピョンピョンと跳ねて求愛したり、なわばり内に侵入した他のオスと背びれを立てて威嚇しあったり、猛獣のように激しく戦ったりする姿が見られる。メスは巣穴の横穴部分の天井に産卵し、オスが孵化するまで卵を守る。孵化した稚魚は巣穴から泳ぎだし、しばらく水中で遊泳生活を送るが』、全長二センチメートルほどになると、海岸に定着して干潟生活を開始する。『日本・朝鮮半島・中国・台湾に分布するが、日本での分布域は有明海と八代海に限られる。氷河期の対馬海峡が陸続きだったころに東シナ海沿岸に大きな干潟ができ、その際にムツゴロウが大陸から移ってきたと考えられている(大陸系遺存種)。有明海・八代海の干潟は多良山系・阿蘇山などの火山灰に由来する細かい泥質干潟で、干潟の泥粒が粗いと体が傷つき弱ってしまう』とある。『旬は晩春から初夏で、漁は引き潮の間に行われる。逃げるときはカエルのように素早く連続ジャンプするので、捕えるのは意外と難しい。巣穴に竹筒などで作った罠を仕掛けて巣穴から出てきたところを捕獲する「タカッポ」や、巧みにムツゴロウをひっかける「むつかけ」などの伝統漁法で漁獲される』。『肉は柔らかくて脂肪が多い。新鮮なうちに蒲焼にするのが一般的で、死ぬと味も落ちる。ムツゴロウの蒲焼は佐賀県の郷土料理の一つである』私は蒲焼きと煮付けを食したが、個人的には圧倒的に前者の方が美味しかった。

「ラマークが、如何にして、努力の結果が身体の各部分を変化させる云々という考を思いついたか」「ラマーク」はフランスの博物学者シュヴァリエ・ド・ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck 一七四四年~一八二九年)。「biology」(生物学)という語を現代の意味で初めて使った人物の一人とされるが、ここは彼が提唱した、ダーウィンの進化論に先行する知られた進化学説の一つである「用不用説」(Lamarckism ラマルキズム)を指している。これは獲得形質(個体が後天的に身につけた形質)が子孫に遺伝し、進化の推進力になるするもので、後の遺伝子の研究発展により、後天的獲得形質の遺伝という部分の非科学性から退けられた。但し、生物の個体や種に主体的な生物進化の意識を胚胎させる考え方は、ある意味で分かり易く、人気があり、その後もそれを再主張するようなネオ・ラマルキズム或いはそれに近い学説を唱える生物学者はいる。]

 高橋の紙鳶(たこ)は、恐しく大きなものであった。八フィートあるいは十フィートの四角で、糸には太い繩を使用する。紙鳶の一つには、前にも述べた、ピカピカ輝く眼がついていた。

[やぶちゃん注:「八フィートあるいは十フィート」二・四四~三・〇四メートル。但し、熊本の凧揚げの風俗は継承されているものの、現在の熊本県熊本市西区高橋町にはこうした伝承凧は残っていないようである。郷土史研究家の御教授を乞う。

「ピカピカ輝く眼」「第十五章 日本の一と冬 凧上げ」を参照。]

橋本多佳子句集「命終」  昭和三十一年 信濃の旅(Ⅱ)

 

八ヶ嶽聳てり斑雪(はだれ)近膚(ちかはだ)吾に見せ

 

[やぶちゃん注:「斑雪」「はだら雪」とも称し、「はだれ野」などとも詠まれる。俳句では点々と残っている斑(まだ)らをなす雪として詠まれることが多く、ここも次の「近膚」(斑らに残る雪の間から顔を出した地面がくっきりと見える擬人的表現であろう)から推してそれである。但し、「はだら」にはこれ以外にも、日陰に残る雪で斑になっている景や、はらはらと虚空や地に斑らを成しながら降る薄雪の謂いにも用いる、万葉以来の古語である。]

 

みづから霧湧き阿彌陀嶺天(あま)がくる

 

[やぶちゃん注:「阿彌陀嶺」「あみだがたけ」と訓じていよう。八ヶ岳の南方、赤岳の約一キロメートル西に位置する。標高二八〇五メートル。八ヶ岳では赤岳・横岳に次いで三番目に高い。私は山岳部の生徒を連れて三度登ったが、西側からの通常ルートの登頂途中では、実はまさに、この霧があった方が登りやすいことを申し添えておく。ルートの最上部近く(梯子のある辺り)は北側にかなり切り立った断崖があって、これがピーカンだとかなり恐怖感を感じる。これは当時の部長でさえ共感してくれたことである。……ああ、懐かしいなぁ。……]

 

そのいのち短しとせず高野の虹

 

[やぶちゃん注:以下、私はこの「高野」を「たかの」と訓じたい。言わずもがなであるが、固有名詞ではなく、高原の謂いである。]

 

轍曲る五月高野の木の根つこ

 

天ちかき高野の轍黍芽立つ

 

雪嶺と童女五月高野のかがやけり

 

白穂高待ちし茜を見せざりき

 

眼を凝らす宙のつめたさ昼半月

 

[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]

 

五月の凍み童女髪の根の密に

 

[やぶちゃん注:これも個人的に好きな句である。]

 

母の鵙翔ちて地上の巣を知らるな

 

行々子高野いづこか葭ありて

 

紅鱗かさねて何の玉芽なる

 

眼おとせば大地に髪切り虫の斑

 

花しどみ倚れば花より花こぼれ

 

[やぶちゃん注:「花しどみ」花樝子。バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜) Chaenomeles japonica)のことと思われる。実や枝もボケ Chaenomeles speciosa よりも小振りで、地梨(じなし)とも呼ばれる。花は朱赤色だが、白いものもある。果実はボケやカリン同様に良い香りを放ち、果実酒の材料として人気があるが、実自体ははなはだ酸っぱく食用には適さない。語源を検索すると、この実を食べるとはなはだすっぱいことに由ると書いてあるのであるから、これは「しど実」なのであろうが、しかしいくら調べても「しど」には酸っぱいという意味はない。識者の御教授を乞うものである。因みに、ボケの属名 Chaenomeles は、ギリシア語「chino」(開ける)と「melon」(リンゴ)の合成語で、「裂けたリンゴ」の意。熟すとリンゴやナシに似た実が裂けることに由来する。秋の季語。]

 

  尖石遺趾

 

残雪光岩石斧を研ぎたりき

 

[やぶちゃん注:長野県茅野市豊平南大塩の、八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にある標高一〇五〇から一〇七〇メートルの東西に広がる長い台地上にある縄文中期の集落遺跡尖石(とがりいし)・与助尾根(よすけおね)遺跡。ここの南側に位置する尖石遺跡は戦前から発掘されてきた縄文時代を代表する遺跡の一つとして知られている。現在は同遺跡と浅い沢を隔てた北側台地上にある与助尾根遺跡と一括して扱われる。「尖石」の名称は遺跡の南側にあった三角錐状の巨石の通称に由来する(ウィキの「尖石・与助尾根遺跡」に拠る)。]

 

赤土(はに)籠めの埴輪おもへばしどみ朱に

 

花しどみ火を獲し民の代の炉焦げ

 

八つ嶽に雪牡丹に雨のふりそそぐ

 

[やぶちゃん注:「雪牡丹」とは季節的にも花菖蒲の改良品種の一種のそれではあるまいか? 児玉洋子氏の「ハーブと花の畑から」のこちらのページの最後の肥後系「雪牡丹」を参照されたい。]

 

五月高原よれば焚火の焰がわかれ

 

[やぶちゃん注:「ごぐわつ/かうげん//よれば/たきびの//ほが/わかれ」(ごがつ/こうげん//よれば/たきびの//ほが/わかれ」と読みたい。]

耳嚢 巻之九 血道祕法の事

 血道祕法の事

 

 麻苧(まを)を黑燒にして拾匁、産の節飮めば、血を治め血の道なき事、奇々妙々の由、祕法とて傳へぬ

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。民間療法シリーズ。

・「血道」ウィキの「血の道症より引く。『月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状のことで』『医学用語としては、これら女性特有の病態を表現する日本独自の病名として江戸時代から用いられてきた漢方医学の用語である「血の道」について』は、九嶋勝司氏の研究「所謂『血の道症』に就いて」(『日本医師会雑誌』一九五四年三十二巻十号)によって、『西洋医学的な検討が加えられ「血の道症」と定義された』。『同義語に「血病」(ちやまい)、「血カタ」、「血が荒れる」などがある』。『血の道症の症状の多くは』一種の『神経症様症状あるいは不定愁訴的な自覚症状』を主とし、のぼせ・冷え・心悸亢進・頻脈・遅脈、腰痛・背痛・胸痛・肩こり、皮膚表面の蟻走感症状、倦怠・脱力等の疲労感及び器質的病変を認めない不定愁訴(頭痛・頭重・眩暈・立ちくらみ・耳鳴・閃光視)で、精神症状としての不眠と不安を特異的主訴として、興奮・抑鬱等を伴い、月経異常の他、種々の身体症状も出現する。現代医学では、『上記症状を示す疾患として』、

 神経症――不安神経症・神経性心気症・ヒステリー

 精神疾患――統合失調症・周産性精神病・月経前緊張症・更年期精神病(更年期鬱病・更年期障害)

が挙げられ、自律神経失調症の一部を含んだ更年期障害を包括する病状概念と把握出来るとある。「歴史」の項を見ると、本話の記載前後の箇所に、元文五(一七四〇)年の香月牛山著「牛山活套』に、『「婦人産後は気血を補うべし、産後血の道持ちとて生涯病者なる者あり」と、産後に起る病と』あって、「血の道」という『病名が江戸時代中期には使用されている』ことが分かり、本話記載(「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏)の六年後の文化一二(一八一五)年刊になる原南陽著「医事小言」の「巻五婦人門」には、『独立した疾患として「血の道」なる表現を用いているのが見られ、「婦人産後血熱退ぎかね、或は漏血の後よりし、或は蓐に在るときの心労驚動などよりし、上衝、頭痛、大いに欠坤し、耳鳴、眩量、心気乏少、寒熱発作、五心煩熱、心中驚悸、明を悪みて暗室に入り、或は人と対することを忌む等の症を一面に血の道と称す。翠鳳散之を主る」と病因と神経症状を詳述している』とある。また、文政四(一八二一)年の加藤謙斎著「医療手引草別録下」の『産後の部には、多くの箇所に「血の道と」の記載があり、この頃には一般化されたものと考えられる』とあり、幕末の天保一二(一八四一)年の段階で既に、水野沢斎が「養生弁」の中で、『「血の道とは日本の詞にして漢土になき病名なり。方書にいえる産前、産後、経閉、崩漏など総べてをいう名にして、経行の血の道筋の煩いという意味にして男子になき病なり。経水の変より三十六疾の病となり、千変万化に悩ますなり」と述べ、器質的疾患を除外し』ない、現在の定義に近いものを「血の道」としていることも分かる。現在は、厚生労働省が内規として運用してきた「一般用漢方処方に関する承認における基準」の二〇〇八年の改定の際、『一般用漢方処方のうち「血の道症」の効能・効果を有する処方については、「効能・効果に関連する注意」として』――『血の道症とは、月経、妊娠、出産、産後、更年期など女性のホルモンの変動に伴って現れる精神不安やいらだちなどの精神神経症状および身体症状のことである。』――という表記を行うよう、定められているとある(下線やぶちゃん)。

・「麻苧」「あさを(あさお)」とも読める。麻や苧(からむし:イラクサ目イラクサ科カラムシBoehmeria nivea var. nipononivea 。南アジアから日本を含む東アジア地域まで広く分布し、古来から植物繊維を採取するために栽培された。苧麻(ちょま)。)の繊維で作った糸。漢方の記載を見ると、これは実際的な効果があることが分かる。このカラムシの根にはエモジン型アントラキノンと呼ばれる止血作用をもった薬効成分が含まれており、漢方では清熱・通淋(小便が出難い症状)・止血・安胎・解毒の効能が挙げられてあり、膀胱炎などの治療、妊娠時の性器出血及び胎動不安、小児の丹毒などに用いるとある。因みに、このカラムシの繊維で織った布に晒し加工をした奈良晒(さらし)は、武家の裃(かみしも)を始め、帷子などに用いられ、古くは鎌倉時代に南都寺院の僧尼の衣や袈裟用に法華寺の尼衆や西大寺周辺の女性たちが織りだしたと伝えられていることから、当初、私はそうした婦人の古い伝承に基づく共感呪術かと思っていた。

・「拾匁」三十七・五グラム。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 血の道を直す秘法の事

 

 麻苧(まお)を黒焼きにして十匁(もんめ)、出産の際に飲用すれば、血を治め、その後に血の道を起こさぬこと、これ奇々妙々なる由、秘法として伝えている。

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅵ) 頁24

《頁24》

ひとり葉卷を吸ひ居れば

雪は幽かにつもるなり

こよひはきみも

ひとり小床に眠れかし

きみもこよひはほのぼのと

きみもこよひはしらじらと

きみもこよひは冷え冷えと

 

みどりはくらき楢の葉に

ひるの光のしづむとき

つととびたてる大鴉

 

ひとり葉卷きをすひ居れば

雪は幽かにつもるなり

こよひはきみもしらじらと

ひとり小床にいねよかし

ひよりいねよと祈るかな

 

[やぶちゃん注:最終行の「ひより」はママ。

 ここに編者によって『以下、欄外』とある。]

 

黄龍寺の晦堂老師

吾爾に隱すことなし(論語)

 

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介直筆原稿の一部を「澄江堂遺珠」の箱の装幀で実見することが出来る。

「黄龍寺の晦堂老師」「晦堂」は「まいだう(まいどう)」と読む。宋代の黄龍祖心禅師(一〇二五年~一一〇〇年)で晦堂祖心とも称した。参照させて戴いたのは霊芝山光雲寺住職田中寛洲老師のサイト「道楽庵」の「禅修行の法悦」で、そこには以下のようにある。祖心禅師は『建仁寺開山栄西禅師がその法脈に連なる名僧であり、その嗣法の弟子には死心悟新禅師や霊源惟清禅師などの卓越した禅僧がいる。有名な黄庭堅(山谷)も在俗の身で祖心禅師の法を嗣いでいる』。『十歳にして出家得度され、長じてのちに雲峰文悦禅師に参じること三年、何らの所得もなく辞去せんとしたところ、文悦禅師は「必ず黄檗山に住する慧南禅師の道場に行ってご指導を受けよ」とさとした。そこに弟子の大成を願う、法に対する古人の大悲心が感じられる』。『祖心禅師は黄檗に至って慧南禅師のもとで刻苦すること四年、しかもなお開悟することはできなかった。この道場は自分には機縁がないと思われたのか、また辞して文悦禅師のところへ戻られた。文悦禅師が遷化されたのち、石霜山にとどまって修行に専心した』。『或るとき、中国の禅宗史である『景徳伝燈録』を読んでいて、「僧が多福(無字の公案で有名な趙州の法嗣)に、『多福の竹林とはどのようなものか』と問うと、多福は『一本、二本は斜めの茎だ』と答えた。僧が『分かりません』というと、多福は『三本、四本は曲がっている』と応じた」という箇所に出くわした。竹に託して多福の家風をたずねた僧に対して、実際の竹の光景をもって答えたのに妙味がある。この一段に至って祖心禅師は開悟して、自分がいままでついた二人の老師の作略(さりゃく、修行者を導く手法)の何たるかを徹見した』。『ただちに黄檗に戻り、慧南禅師に対して礼拝の坐具をのべようとしたところ、慧南禅師がすぐさま見抜いて、「お前はすでにわしの宗旨を会得したわい(わが室に入れり)」というと、祖心禅師は跳(と)んで踊らんばかりに歓喜して、「仏法の一大事は本来このようなものなのに、どうして老師は公案などを使ってあれこれと探索させられたのですか」と問いただすと、慧南禅師は、「もしわしがお前をそのように究め尋ねることをさせて無心の境地に到らしめ、みずから見て、みずから納得するような体験をさせなかったならば、わしはお前を台無しにしたことであろう」といった(『五燈会元』巻第十七、黄龍祖心禅師章)』とある。以下もリンク先で是非、お読み戴きたいが、そこで田中寛洲老師も述べておられるように、この話は見性開悟の機縁と公案の在り方について素晴らしく印象的である。

「吾爾に隱すことなし(論語)」これは「論語」の「述而第七」の二十三章、

 

 子曰、二三子以我爲隱乎。吾無隱乎爾。吾無行而不與二三子者。是丘也。

 

 子曰く、「二三子(にさんし)、我を以つて隱(かく)せりと爲すか。吾、爾(なんぢ)に隱すこと無し。吾は行ふとして、二三子と與(とも)にせざる者、無し。是れ、丘(きう)なり。

 

の「吾無隠乎爾」の部分を引いた。人口に膾炙する訓読では、「乎爾」を句末の強勢辞ととって「のみ」と読んで、「吾、隱すこと、無なきのみ。」と読むのが一般的でそれが意味上は正しいように思われるが、しかし、日本語の訓読では上記の芥川が採った訓読の方が、私のような凡愚でも平易に理解し得ると感じられる。なお、「者」は人称代名詞ではなく、「吾」の「行ふ」こと、自身の行動/行為/行状を指している。「WEB漢文大系」のの注に下村湖人の「現代訳論語」(昭和二九(一九五四)年池田書店刊)の訳が引かれてあるので、孫引きする。「先師がいわれた。おまえたちは、私の教えに何か秘伝でもあって、それをおまえたちにかくしていると思っているのか。私には何もかくすものはない。私は四六時中、おまえたちに私の行動を見てもらっているのだ。それが私の教えの全部だ。丘(きゅう)という人間はがんらいそういう人間なのだ」。]

やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅴ) 頁20~頁23

《頁20》

君が妻まげは楊子の河に河豚浮

 

[やぶちゃん注:「楊子」は「揚子」の、「河豚」は「海豚」の誤字。「まく」は前に示した「枕く」で妻とするの意の上代の動詞。次行も同じ。]

 

はしけやし吉井勇が妻まけはぐを楊子の河に河豚來にけり上るらむ

 

はしけやし楊子の河に海豚來る啼く吉井勇が妻まぐと啼く

 

海豚ばら楊子の河に啼く呼ぶ聞けば君が新妻まぐとなき呼びけり

 

[やぶちゃん注:これらの四首は先に注で示した大正一〇(一九二一)年五月三十日附の吉井勇宛の長沙からの芥川龍之介書簡(絵葉書・岩波版旧書簡番号九〇六)に載る「湖南長沙 我鬼」と署名のある、

 

河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり

 

という一首(「河豚」は「海豚」の龍之介の誤字)の推敲形と考えてよい。先行注を必ず参照されたい。]

 

《頁21》

みどりは

おもふは牧の水明り

花もつ草のゆらぎにも

霞ながるる西空に

 

風にふかるる曼珠沙華

      砂路をわが行けば

ひとなき國にただふたり

住むべき家ぞめに見ゆる

 

[やぶちゃん注:底本の注の記載法から見るに、二行目の空白は果たして表記の様に六字分であるかどうかは定かではない。]

 

おもふは

風に吹かるゝ

 

ひとり葉卷をすひをれば

雪は幽かにつもるなり

こよひはひともしらじらと

      眠れかし

ひとり小床に

      いねよかし

 

《頁22》

人を殺せどなほあかぬ

妬み心も今ぞ知る

 

みどりは暗き楢の葉に

晝の光は沈むとき

ひとを殺せどなほあかぬ

妬み心も覺しか

 

風に吹かるる曼珠沙華

散れる

 

夕まく夕べは

いや遠白む波見れば□に來れば

人なき

 

[やぶちゃん注:二行目の「□」は底本編者が『一字不明』と記す。]

 

《頁23》

何かはふとも口ごもりし

大路にこの この のこる夕明り

 

戸のもの櫻見やりつつ

何かはふとも口ごもりし

 

戸のもの

 

きみ

 

何かはふとも口ごもりし

せんすべなげに□まひつつ

えやは忘れむ入日空

せんすべなげに仰ぎつつ

何かはふともほほえみし口ごもりし

その日のその

 

[やぶちゃん注:抹消の二行目「せんすべなげに□まひつつ」の「□」は編者注に『一字不明』とある。]

 

2015/01/23

耳囊 卷之九 小はた小平次事實の事

 

 小はた小平次事實の事

 

 こはた小平次といふ事、讀本(よもほん)にもつゞり淨瑠璃に取組(とりくみ)、又は徘諧の附合(つけあひ)などにもなして人口に鱠(くわい)しやすれど、歌舞妓役者なりとはきゝしが其實を知らず。或人其事跡をかたりけるは、右小平次は山城國小幡(こはた)村出生にて、幼年にて父母におくれ、たよるべきものなければ其村長(むらをさ)抔世話をなし養ひけるが、一向兩親の追福(ついふく)のため出家せよと言ひしに隨ひ、小幡村淨土宗光明寺の弟子になり、出家して名は眞州と申けるが、怜悧(れいり)發明いふばかりなく、和尙も是を愛し暫く隨身(ずいじん)しけるが、學問もよろしく、何卒此上諸國を遍歷して出家の行ひもなしたきとねがひければ、金五兩をあたへ其願ひにまかせけるに、江戶表へ出、深川邊に在所者ありければ、是へたよりて暫くありけるに、與風(ふと)呪(まじなひ)祈禱など甚(はなはだ)奇瑞ありてこゝかしこより招きて、後には別段に店(たな)もちて、信仰の者多く金子抔も貯ふる程になりしが、深川茶屋の女子(をなご)に花野(はなの)といへる妓女、眞州が美僧なるを、病(わづら)ふの時加持(かぢ)致(いたし)貰ひ深く執心して、或時口說(くど)けれど、眞州は出家の身、かゝる事思ひよらずといなみけるが、或夜眞州が庵(いほり)へ花野來りて、此願ひ叶へ給はずば死するより外なし、殺し給ふやいかにと、切(せち)になげきし上、一つの香合(かうがふ)を出し、志(こころざし)を見給へと渡しける故、右香合をひらき見すれば、指をおしげなく切りて入置(いれおき)たり。眞州大きに驚き、出家の身いかにいゝ[やぶちゃん注:ママ。]給ふとも、飽(あく)まで落入(おちい)る心なし、さりながら左程(さほど)にの給ふ事なれば、翌夜(あくるよ)來り給へ、得(とく)と考へていづれとか答ふべしとて立別(たちわか)れけるが、かくては不叶(かなはじ)と、其夜手元の調度など取集(とりあつ)め路用の支度して、深川を立退(たちの)き神奈川迄至りしが、或る家に寄(より)て一宿なしけるに、亭主は見覺へたるやうにて、御身いかなればこゝへ來り給ふやと尋(たづね)けるゆゑ、しかじかの事なりとあらましを語りければ、先(まづ)逗留なし給へとて、止置(とめおき)て世話なしけるが、右香合はけがらはしとて、途中にてとり捨(すて)しが不思議に獵師の網にかゝりて、神奈川宿にて子細ありて眞州が手へ戾りしを、亭主聞(きき)て、かく執心の殘りし香合なれば、燒捨(やきす)て厚く吊(とむら)ひ給へといふに隨ひ、讚經供養して一塚(いちづか)の内に埋(うづ)め、心がゝりなしと思ひけるに、或日大山へ參詣の者、彼(かの)家に泊(とまり)、眞州を見て、御身はいかにして爰に居給ふや、彼(かの)花野は亂心して親方の元を立出(たちいで)て、今はいづくへ行けん、行方(ゆくゑ)しらず、最早江戶表へ立歸り給へとて、口々すゝめてともなひ歸り、境町邊の半六といふ者世話をなし、浪人にて渡世なくても濟(すむ)まじとて、茶屋の手傳(てつだひ)、又樂屋の働らきなどなしける。出家にても如何(いかが)とて、げんぞくなさしめけるに、役者抔、御身も役者になり給へとて終に役者になり、初代海老藏といゝし市川柏莚(はくえん)の弟子になり、小幡(こはた)を名乘るもいかゞとて小和田(こわた)小平次といゝしが、男振(おとこぶり)は能(よ)し、藝も相應にして、中よりは上の役者になりしが、樂屋にて博奕(ばくち)致(いたし)候儀有之(これあり)、柏莚破門なしける間、詮方なく田舍芝居へ、半六同道にて下りしに、雨天續きて渡世を休みし日、右半六幷(ならびに)見世物師を渡世とせし穴熊三平連立(つれだち)て獵に出しに、不計(はからず)小平次は海へ落(おち)て水死なせしよし、〔實は花野、境町に、小平次有(ある)事を聞(きき)て尋來(たづねきた)り、夫婦(めをと)となりて有(あり)しが、三平儀(ぎ)、深川の時より執心して、半六、申合(まうしあひ)て、小平次を海へつきこみ殺しけるが、此事は追(おつ)て顯(あらは)れ、吟味有(あり)て、三平半六ともに、御仕置(おしおき)になりしとなり。〕かくて三平半六は江戶へ歸り、小平次留守へ來りしに、花野、出て、なぜ遲く歸り給ふ、小平次は夜前(やぜん)歸りしといふ故、兩人、甚だ不審して、實は小平次は海へ落(おち)、相果(あひはて)しゆゑ、申譯(まうしわけ)もなき仕合(しあはせ)ゆゑ申出(まうしいだ)しかねしと語りければ、妻は誠(まこと)ともせず、兩人も驚き一間(ひとま)を覗きしに、落物抔はありて形なし。其後も小平次に付ては怪敷(あやしき)事度々有(あり)しと也。其餘は聞(きか)ざるゆゑ、こゝにしるさず。享保初(はじめ)よりなかば迄の事に候由。


□やぶちゃん注

○前項連関:なし。著名な幽霊でヴァリアントの多いものの真相実録物と名打ったもの。「こはだ小平次」譚については、類型話柄である「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」の私の注で相当、詳しく書いたつもりであるが、ここでは総合的に纏めてみよう。まず底本の鈴木氏の注がよい(長いが、三村氏に孫引きなので問題はあるまい。同じというのも癪であるから、引用部は文語文なので引用を恣意的に正字化して示す。最後の鈴木氏の附言は「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」への参照見出しなので省略した)。

   《引用開始》

これにつき三村翁の長文の注あり。曰く「山崎美成海錄、閏六月二日囘向院にて、歌舞伎役者尾上松之助施主にて、直幽指玄居士、俗名こはだ小平次のために施餓鬼をなす、役者ども參詣すときゝて人々群集す、こはだ小平次が傳、未詳、旅芝居をありきし役者也と云。吉田雨岡云、こはだ小平次といへる旅役者、伊豆國に行て芝居せしが、はかばかしきあたりもなく、江戶にかへりて面目なしとて自滅す、友なるものにいふは、わが妻古里にあり、われかく死すと聞かばかなしみにたへざるべし、必我死せし事かたり給ふなと言置て死せり、その友ふるさとにかへりしに、その妻小平次が事をとひしかば、程なく歸るべしとすかし置しが、月日へてかへらねば、その妻いぶかしく思ひて、その事をせめとひし時、まことは死したりといはんとせし時、屋のむねに聲ありて、それをいひきかしてはあしゝといひしとなん、夫より小平次の話をすれば必怪事ありとて、芝居もののことわざに、はなしにもいひ出す事なしといへり。耕書堂說、小平次旅芝居にて、金をたくはへしを、友達知りて、窃に殺して金を奪ひしが、その人もしれざれば、江戶にかへりて、泣々其妻にその事かたりしに、小平次はまさしく昨夜家に歸りて、蚊屋のうちにふせり居れりと云ふ、あやしみて蚊屋の中を見れば、その形をみずといふ。又一說、小平次は、下總國印旛沼にて、市川家三郞といふ者に殺され、沼の中に埋みしといふ、もと密婦の故なりとぞ。」

   《引用終了》

「海錄」は江戸後期の考証家山崎美成が文政三(一八二〇) 年六月から天保八(一八三七)年二月まで書き続けた考証随筆。次にそこもカバーしたウィキの「小幡小平次」を見ておこう。これらと「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」の私の注をカップリングさせれば、ちょっと見ない「こはだ小平次」の小事典が完遂するとも思うので、やはり例外的にほぼ総てを引かせて戴く(注記号と改行を省略した)。

    *

 小幡小平次(こはだこへいじ)は本文のように「こはた小平次」、「小はだ小平次」とも表記し、『江戸時代の伝奇小説や歌舞伎の怪談物に登場する歌舞伎役者。幽霊の役で名をあげた後に殺害され、自分を殺した者のもとへ幽霊となって舞い戻ったという。創作上の人物だが、モデルとなった役者が実在したことが知られている』。

 「伝承」の項。『小平次は二代目市川團十郎の時代の江戸の役者だったが、芸が未熟なためになかなか役がつかなかった。小平次の師匠は彼を哀れんで金を握らせ、賄賂を使ってどうにか役を得るようにと言った。ようやく小平次が得たのは、顔が幽霊に似ているとの理由で幽霊役だった。彼はこれを役者人生最後の機会と思い、死人の顔を研究して役作りに努めた。苦労の甲斐あって小平次のつとめる幽霊は評判を呼び、ほかの役はともかくも幽霊だけはうまいということで、「幽霊小平次」と渾名され人気も出始めた。小平次にはお塚という妻がいたが、お塚は愚鈍な小平次に愛想を尽かし、鼓打ちの安達左九郎という男と密通していた。奥州安積郡(現・福島県)への旅興行に出た小平次は、左九郎から釣りに誘われるがままに一緒に安積沼へ行くと、そこで沼に突き落とされて命を落としてしまう。左九郎は、これで邪魔者が消えたとばかり喜んで江戸のお塚のもとへ行くと、そこにはなんと自分が殺したはずの小平次がおり、床に臥せっていた。小平次は死んだ後に幽霊となって江戸へ舞い戻ったのだが、生前あまりにも幽霊を演じることに長けていたために、そこにいる小平次の幽霊は生きていたときの小平次と変わらないものだった。驚きおののく左九郎のもとに、その後も次々に怪異が起きる。左九郎はこれらすべては小平次の亡霊の仕業だと恐れつつ、ついには発狂して死んでしまう。お塚もまた非業の死を遂げた』。

 「考証」の項。山崎美成の「海録」『によると、この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名もこはだ小平次だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという』。『またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている』。

 最後に「小平次の祟り」という項目。『歌舞伎の舞台では、怪談物をやる役者、それも残虐に殺されたり恨みを抱いて死んでいった者の亡霊をつとめる役者は、その亡霊が気を損ねて舞台で悪さをしないように、特に気を遣ってその霊を慰めることで知られている。『東海道四谷怪談』のお岩をつとめる役者は、初日の前と千秋楽の後に必ずお岩の墓に参ったり、また興行中も幕が引くとすぐに帰宅して夜遊びなどはしないといった慣習は、江戸時代の昔から今日にいたるまで少しも変わらない』。『大南北が書いた『彩入御伽艸』や、それを下敷きにした後代の小幡小平次物の芝居の上演にあたっても、それをつとめる役者たちの間では、小平次の話をすると彼が祟って必ず怪事が起こると長く信じられていた。幽霊役はつとめる方も命がけだったのである』。『なお威勢のいい江戸っ子の夏場の決まり文句に「幽霊が怖くってコハダが食えるけぇ!」というものがあったが、これは寿司の小鰭にこの小幡小平次をひっかけたものである』とあって――目からコハダの鱗が落ちる――というオチもつく。

   *

 ここで本話を中心に「こはだ小平次」譚の型を考証してみたい。

 まず感じるのは、本話が前半と後半で論理上の連続した型を最早失っている点である。投げ捨てた花野の小指が漁師の網に掛かったまではよかろう。それがどうしてまた真州(小平次)の手元に戻ってしまうのか、これ、「実録」を称しながら、ちっとも論理的に記していない(私は訳で何とか辻褄を合わせようと敷衍翻案を試みて見たものの、途中で馬鹿らしくなって投げた)。何より特にひどいのは小平次の溺死のシーンで、割注によって、「実は」花野とめおとだった――「実は」三平なる突然出て来たばっかりの男が昔からずっと花野に執心していた――「実は」半六はグルだった――「実は」小平次の死は事故死ではなく殺人だった――「実は」後日露顕してお裁きを受けて仕置きされた――とくるところである。これはもう、本話が既にして浄瑠璃の全般に感染しているトンデモ展開に対する免疫のキャリア(だから割注のようにトンデモ内容を記しても少しも致命的病状を発して物語が死ぬことがなく、寧ろ、勧善懲悪大団円となるのである)化していることを意味している。

 また、この前後の違和感は、実は前半の小平次と後半の彼が、別人のように見えるからでもある。花野の恋慕を頑なに拒絶する清廉な美僧小平次が、美形の役者になった途端に博奕に入れ込み、あっという間に実在した名人市川柏莚から破門され、溺れ死ぬという展開には私には現実味が全く感じられない(早回しの映像を見るように私には寧ろ滑稽でさえある。そこがまた浄瑠璃である訳でもある――尤も、破戒僧の堕落――というコンセプトは、これには、あり得ないが出来たらあって欲しいと我々がどこかで望むところの――背徳的且つ隠微で淫猥な豹変の魅力――が隠れており、それこそがこの話柄の小平次の面白さであるとも言えるかも知れない)。

 そうして誰もが一読、この前半部は道成寺や清玄桜姫物の焼き直しであることに気づく。そうした、前半の古浄瑠璃の型と、後半の犯罪仕立ての当代実録風世話物の型が、軋みを起こして正直、変、なのである(これはしかしやはり浄瑠璃一般の自然態でもある)。

 怪異が最後の最後まで現われないことも特異である。幽霊画では小平次は美形の役者なればこそ、如何にも迫力も糞もない文弱顔で蚊帳や屏風の向こうから覗き込むのであるが、多くのヴァリアントは、妻に姿を見せるだけ(それも妻一人の伝聞型)、最後のポルターガイストや声の出演(これらがまた如何にも浄瑠璃的歌舞伎的演出)だけという、怪談物としては、これ、すこぶるしょぼいと言わざるを得ない。これ、怪談というよりも――美形ではあるが、根性なしのみじめな男の悲惨小説、いやさ、転落の詩集――であり、最後には何か、妙にべたっとした哀れが残るばかりである(いや、それがこの「こはだ小平次」独特の被虐的怪談の魅力かもしれない)。

 今一つの特徴は、その死や殺害がヴァリアントの殆んど総てを通じて常に水(海・沼)に関係している点であろう。そうして、ここには恐らく比較神話学的民俗学的な無意識の深層が隠れていると考えてよい。但し、今それを考察し始めると、この注がエンドレスになりそうなので、まずはここで打ち切りとしたいと思う。最後に一言。根岸自身はこの「実録」を信じてはいなかったのではないかと思われる。もし、相応の真実と考えていたとしれば、割注部の『此事は追て顯れ吟味有て、三平半六ともに、御仕置になりしとなり』という箇所に根岸が反応しないはずはないからである。彼は南町奉行である。そうした事実があるなら、その記録を容易に精査することが出来る立場にあるからである。しかし、彼はそうしたことをした雰囲気は全くない。これはとりもなおさず、彼がこれも結局、作話の類いであると判断した証拠である。

・「讀本」江戸後期の小説の一種。絵を主体とした草双紙に対し、「読むことを主とした本」の意に由来する。寛延・宝暦(一七四八年~一七六四年)頃、上方に興って寛政の改革以後は江戸でも流行を見せ、天保(一八三〇年~一八四四年)頃までブームが続いた。中国の白話小説の影響を受けており、本邦の史実を素材とした伝奇的傾向が強く、勧善懲悪・因果応報などを軸とし、雅俗折衷文体で記されたものが多い。半紙本五、六冊を一編と成し、口絵・挿絵を伴う。作者としては都賀庭鐘・上田秋成・山東京伝・曲亭馬琴などが著名(三省堂「大辞林」に拠った)。

・「淨瑠璃に取組」浄瑠璃の素材としても取り入れられ。ウィキの「小幡小平次」によれば、巷間に伝わる小幡小平次の奇譚が、一つの物語として形を成す最初は、享和三(一八〇三) 年に江戸で出版された山東庵京伝作・北尾重政画の伝奇小説「復讐奇談安積沼」(ふくしゅうきだんあさかのぬま)をその嚆矢とし、次いで文化五(一八〇八)年閏六月に江戸市村座で四代目鶴屋南北作の「彩入御伽艸」(いろえいりおとぎぞうし)が初演されて、『今日に伝わる小幡小平次のあらましはこの』二作品によって決定的なものとなった、とある。根岸がこれを書こうとした、若しくはその元となった風聞の元はまさに、この記載時一年前に演じられた「彩入御伽艸」によるものであったであろうことが推測される。

・「徘諧」底本では「徘」の右に『(俳)』と訂正注する。

・「附合」連歌俳諧に於いて長句(五七五)・短句(七七)を付け合わせること。交互に付け連ねてゆくこと。先に出された句を前句、それに付ける句を付句と呼ぶが、そこでは見立てを変えることが要求され、そうした素材として、この「こはだ小平次」の素材やシーンが使われたことを示す。これはまさにちょっとしたシーンのショットを暗示するだけで、誰もが「こはだ小平次」の話を想起出来た、恐ろしいほどに人口に膾炙していたことを如実に示す好例なのである。

・「鱠しや」底本では「しや」の右に『(炙)』と注する。「膾炙」に同じい。

・「山城國小幡村」現在の京都府宇治市木幡(こわた)。

・「光明寺」底本鈴木氏注には、京都府『綴喜郡宇治田原町岩山』とし、岩波版長谷川氏注も『宇治市隣の宇治田原市岩山。浄土宗』とする(長谷川氏の『宇治田原市』。は宇治田原町の誤りであろう)のであるが、現在、京都府綴喜郡宇治田原町岩山にはそのような寺はない。サイト「納骨堂」の「京都府のお寺一覧」の「綴喜郡」の一覧を見てもそれらしい浄土宗の寺はないのである。一つだけ、気がついたことはある。この宇治田原町岩山から東北東直線五・九キロメートルの地点、山越えをした滋賀県甲賀市信楽町宮尻に、実は浄土宗の光明寺という寺が現存するのである。しかし甲賀郡は古くも近江国であって山城国の現在の宇治田原町岩山に所属していたことはないと思われる。この寺の誤りか? 識者の御教授を乞うものである。

・「怜悧發明」頭の働きが優れており、すこぶる賢いさま。聡明利発。

・「香合」香盒とも書く。香を入れる蓋のついた容器。木地・漆器・陶磁器などがある。香箱。

・「境町」現在の中央区日本橋人形町三丁目。江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋江戸三座の一つ、中村座があった。江戸三座はここと市村座・森田座(後に守田座と改称)。

・「半六」偶然か、後に出る市川柏莚の父初代市川団十郎を舞台上で刺殺したのは役者の生島半六という。

・「浪人」岩波の長谷川氏注に『一般に失業の者をいう』とある。

・「げんぞく」底本では右に『(還俗)』と注する。

・「初代海老藏といゝし市川柏莚」「初代海老藏」は誤り。「柏莚」は初代九蔵、二代目海老蔵同二代目市川團十郎(元禄元年(一六八八)年~宝暦八(一七五八)年)。父(柏莚は長男)であった初代が元禄一七(一七〇四)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺(動機は一説に生島の息子が団十郎から虐待を受けており、生島はそれを恨んでいたとも言われるも真相は不明。ここはウィキの「市川團十郎(初代)」に拠る)されて横死(享年四十五歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。

・「落物」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『荷物』。それで採る。

・「享保初よりなかば迄の事に候由」本話中で、柏莚の登場とともに、実在した小平次の年代が推測出来る数少ない情報源である。享保は,正徳六・享保元(一七一六)年から享保二十一・元文元(一七三六)年までであるから、一七一六年から享保十三(一七二八)年位が半ばとはなる。柏莚の団十郎襲名は元禄一七(一七〇四)年であるが、未だ十七歳であったから、最下限まで引っ張って享保十三(一七二八)年とすると、柏莚満四十歳となる。因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年(根岸満七十二歳)であるから、小平次が生きていたのは八十年以前で、残念ながら、根岸の生まれるちょっと前ということになるようである。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 実在した小幡小平次(こはたこへいじ)の事 

 

 「小幡小平次」と申す話柄は、これ、読本(よもほん)にも綴られ、浄瑠璃や歌舞伎でも取り上げられ、はたまた、俳諧の附け合いなどにまでも、もて囃されて、これ、すこぶる人口に膾炙しておる話であるが、この主人公小幡小平次なる者、これ、歌舞伎役者であった、とは聞いておるものの、それが事実であるかどうかは寡聞にして確認したことがなかった。

 ある時、さる御仁が、実在した小幡小平次なる人物につき、その事跡を、細かく語り聴かせてくれたので、以下に記載しておく。

   *

 この小平次は山城国小幡(こはた)村の出生(しゅうしょう)にして、幼年に於いて相い次いで父母に先立たれ、天涯孤独となって頼るべき者もなかったため、その小幡村の村長(むらおさ)などが世話致いて養育していたが、その村長より、

「……坊(ぼん)……かくも数奇なる半生……ひたすらに両親が追福(ついふく)をせんがため……出家致すが、これ、身のためじゃて、のぅ。……」

と諭されたに従い、小幡村に御座った浄土宗の光明寺という寺の御弟子となり、出家して名を真州(しんしゅう)と改めた。

 彼の怜悧発明(れいりはつめい)なるは、これ、謂いようもなきほどであって、和尚もこの真州を殊の外愛し、暫く親しく己れの随身(ずいじん)として遣っていたが、

「……見聞を広めての学問は申すまでもなく、この上、さらに諸国を遍歴致しまして一人前の出家としての行脚をも成しとう存じますれば! 何卒!……」

と切(せち)に乞い願(ねご)うたによって、師は金五両を与え、その願いに任せた。 

 

 江戸表へと出て、深川辺りに在所小幡村出身の知れる者があったので、これを頼りとしてしばらくの間、ここへ腰を落ち着けた。

 すると、僧なれば、ちょっとした人より、呪(まじな)いやら、祈禱などを頼まれてこなしいるうち、これがまた、病いは全快、憑き物退散、悪霊調伏――と――はなはだ奇瑞のある美僧――と、ここかしこより、引きも切らず招きのあって、後には、これ、彼のための別なお店(たな)をも借り、そこへまた、信仰する者がひっきりになしに参って、その御礼賽銭などの金子をも得、相応に小金を貯えるほどにまではなった。

 

 さてここに、深川茶屋の女子(をなご)で花野(はなの)と申す妓女があって、たまたま、ちょっとした病いを患(わづろ)うた折り、人の紹介を以って、この真州に加持祈禱を致いてもらったところが、この真州の美僧なるを見初め、深く執心して、果ては僧たるにも拘わらず、色仕掛けで口説(くど)いたりし始めたという。

 ところが真州は、

「……我ら、出家の身なれば。……かかることは、これ、思いもよらぬこと!……」

と、きっぱり拒んでいたという。

 ところが、ある夜(よ)のこと、

 独り真州が勤行して御座った庵(いおり)へ、花野の来って、

「……妾(わらわ)のこの願い……叶えて下さらぬとならば……妾――死するより外――これ、ございませぬ!……妾を!……殺して下さりませ!……さあ!……どう、なさいますッ?!」

と、切(せち)に歎いて、真州が元へと、にじり寄って参った。

 そうして、徐ろに、懐より一つの香合(こうごう)をとり出だすと、

「……妾(わらわ)の覚悟! ――これ――ご覧なされませ!……」

と真州の手へ渡した。

 されば真州が、これを開いて見る……と……

……そこには……

……花野の手の……

……小指の一本が……

……これ……惜しげもなく切られて……

……入れおいてあった。…………

 真州、これを見るや、大いに驚き、

「……し、出家の身なれば……い、いかに、おっしゃられても……こ、これ……あくまで邪淫へ陥るの心は、これ、御座ない!……さりながら……あなたが……さほどにまで、これ、仰せにならるるとなれば――明日の夜(よ)――また、いらっしゃらるるがよい。……我らとくと、このこと、考え、きっと、悪いようには致さぬ、はっきりとした、お答えを――これ――差し上げましょう!……」

と、諭し、その日は花野、これに従って素直に帰って行った。

 それを見送った真州は、

『……かくなっては、最早、万事休す……』

と、その夜(よ)のうちに、手元の調度類などをとり纏め、路金の支度なども急ぎ整えた上、深川を秘かに立ち退いた。

 よっぴいて走りに走り、夜(よる)も深更となってより、ようよう、神奈川の宿まで何とか辿り着いた。

 とある旅籠に寄って、夜分ながらと一宿を乞うたところが、そこの亭主、これ、真州がことを見覚えておる人であったによって、

「……お前さんは……あの、深川の坊(ぼう)さんじゃ、ござんせんか?! 御坊……これ、何がどうして……こんな夜更けに、そんな格好で、こんなところまで、息急き切って参られた?」

と訊ねたによって、

「……実は……しかじかのことの、これ、あって……」

と、あらましを正直に語ったところ、

「――相い分かりやした!……先(せん)の病いの折りは、よう祈禱して下すったによって、今もこうして元気にしておりやすで!……さ、さっ! まずは、ゆるりと逗留なさいますがよろしい!」

と歓待してくれ、しばらくの間、ここへ匿わるることと相い成り、奇特なことに、この亭主が、これ、いろいろと日々の世話まで致いてくるることとなった。 

 

 さて、かの香合であるが、これ、如何ともしようのなければ、深川を夜逃げ致いた折りには、まだ懐に入れおいたままにあったれど、夜道をひた走るうち、懐で転がる香合の動きにつれ、その中身――花野の小指一つ――を、はたと思い出し、

『……こ、これぞ!……い、如何にも穢らわしき、もの!……』

と気づいたによって、途中の川っ端にて、ぶうんと、流れへ投げ捨てて御座った。

 ところが、これ、その朝方、下流の河口にて漁師の引いておった網に掛かる。

 漁師の開き見、人の指の入って御座ったれば、吃驚仰天、川中へ投げんとしたものの、ふっと見上げたその香合の底に、これ、

――シンシフさま花の――

と記しあるを見、思い止まって御座ったと申す。

 委細は略せど、この記された「シンシフ」がきっかけとなり、この香合、廻り回って、かの旅籠におったる真州が手元へと、これまた、まっこと、不思議な因縁の如(ごと)、舞い戻って参ったと申す。

 されば、亭主、この小指の戻れる一部始終を聴き、

「……かく執心の残れる香合なれば……これ、焼き捨てて手厚く指を弔(とむろ)うてやりなさるが、よろしかろう。」

と申したのに従い、読経供養の上、旅籠の傍の堤の脇にあった、塚の中にこれを埋(う)めた。

 真州は、

「……これにて、最早、心配、御座るまい。」

と思うて御座った由。 

 

 さて、ある日のこと、大山へ参詣する者が、この真州のおる旅籠に泊った。

 その中の一人が、真州を見、

「……お前さん! どうして?! こんなところにおらるるんじゃ?!……何?……花野?……ああ! あの! あんたにぞっこんだったコレか?……あの花野のはのぅ……あんたがおらずなってから、これ、直きに気鬱となって、そのまま乱心、親方の元から足抜けしよって……今は、どこへ行ったもんやら……もう永いこと、行方知れずの、まんまじゃ。……何?……小指をもろうた?!……げぇえっ!……へっ! そうか!……そんなこと、あったんかい!……さればよ! 最早、江戸表へ立ち帰っても、これ、平気の平左じゃ! おう! 思いついたが吉日じゃ! ほれ! あんたの知っとる熊公も八も一緒じゃ! 皆と一緒に、帰(けえ)ろうじゃねえか!」

と、他の連中も寄ってたかって、頻りに慫慂したによって、真州、彼らとともに江戸へと戻った。 

 

 深川の庵は既になく、在所の知り合いにも顔向けのし難かったによって、かの一緒に戻った連中の中のある者が、境町辺りの半六と申す者を紹介してくれたによって、取り敢えずは、そこに転がり込んだ。

 数日の経った頃、

「――かくなる浪人暮し――生計(たつき)を立つるもののないと申すも、これ、そのままにては済むまいぞ。……」

と決して、芝居の中村座なんどの直近かの住まいで御座ったによって、半六なる男も、そうした仕事に携わって御座ったれば、その紹介もあって、芝居茶屋の手伝い、また、中村座楽屋の下働きなどんを成すようになって御座った。

 ある日のこと、半六が、

「……おめえさん。……どうも、そのつるんつるんの出家っちゅうんも、ここではのぅ。……如何(いかが)なもんかのぅ?……」

と申したによって、真州も、何やらん、宙ぶらりんの数ヶ月のことを思うと、半六の言(げん)に肯んじたと申す。

 かくして半六の添え人となって還俗させ、半六同道の上、中村座楽屋へと顔見世興行と洒落たところ、何人もの役者連が、

「……つるっ禿げの金柑頭の時、……まあ、美しい坊さんじゃぐらいにしか思わなんだけど……」

「……これ……なかなかに! ええ顔じゃが!」

「……お前さん! お前さんも、役者におなりぃな!」

「……ほんまに! それがええで!」

と、しきりに煽ったによって、何だか、彼もそう言われてみると、これ、気分のほんわかと致いて参ったによって、遂には役者として立つこととなった。

 それも、彼を一目見るなり、

「――よっしゃ! 弟子にしたろう!」

と、二つ返事で引き受けてくれたのが、これ、何と!

――かの二代目海老蔵を称した市川柏莚(はくえん)

かの御弟子となって――さても故郷の――小幡(こはた)――を名乗らんとも思うたが、そのままと申すも、これ、土地神さまに畏れ多きことと、――小和田(こわた)小平次――と称することと相い成って御座ったと申す。

 これがまた!

――男振りは抜群――

――芸もこれ上々――

で御座ったれば、瞬く間に、番付にても、

――中よりは上の役者――

と評判となって御座った。

 ところが、永き禁欲と修行から解放された彼は、これ、異様なまでに賭博に入れ込むようになった。

 ある時、こともあろうに、中村座楽屋内(うち)にて、こっそり禁制の大博奕(ばくち)を興行致いて、これがまたばれてしまい、師柏莚からは破門を申し渡されてしまう。 

 

 最早、江戸にては役者として立つこともならずなったによって、詮方なく、田舎廻りの芝居小屋へ、半六を連れとしてあちこち、まあ、所謂、ドサ回りをして暮らす、という仕儀と相い成った。 

 

 さて、そんなある折りのことで御座った。

 雨天の続いて、永いこと――既にその頃には、小屋掛けと申しても半ば露天の乞食芝居ぐらいしか役の依頼の回ってこなんだと申す――役者の仕事ものぅ、休んでおったある日のこと、かの半六と、以前より知れる、見世物師を渡世として御座った穴熊三平(あなぐまさんぺい)と申す男と連れ立って、海釣りに出でた。

 ところが――

――そこで

――不慮の事故のあって

――小平次

――これ

――海へ落ちて

――水死致いた

……というのである。

   ――――――

 *話者割注

 実はこれには、ここまででは語っていない別な事実と事情がある。

 実は、小平次がまだ境町で役者として評判をとっていた頃のこと、かの花野が、境町に小平次と申す、かの思い人真州と瓜二つの人物がいるということを噂に聴き知って、訪ねて参り、既に還俗もなし、指の戻って参ったという奇瑞もあったればこそ、晴れて小平次と花野は、これ、夫婦(めおと)となっていた、のである。

 ところが、その頃から丁度、知り合いとなっておった、この怪しげな三平なる人物――これが実は、花野が深川芸者であった頃より、花野に執心していた男であった。

 そうして、金で籠絡した半六と申し合わせ、事故に見せかけて――小平次を海へ突き落として殺した――というのが実に真相であったのである。

 この謀略については、おって犯行が露顕致し、奉行所にて吟味のあって、三平・半六ともに御仕置きを受けたと伝えている。

   ――――――

 かくて三平と半六は、そのまま江戸へと戻って、翌日、陽の高くなってから、小平次の留守宅をやおら訪ねた。

 すると、妻の花野が出て参り、

「……なじょうして、かくも遅うにお帰りになられましたんや?……小平(こへ)さまは、昨日の夜前(よるまえ)、早々に帰って参りましたえ?」

と申したによって、両人は吃驚仰天、はなはだ不審気(げ)なる顔つきのまま、

「……え、えッツ?……小平次は……その……昨日……海へ落ちての……命を落としてしもうたんでぇ……我ら、一緒にいながら……申し訳なきことと相い成ってしもうたによっての……かくも……申し出に参ること……これ、し難(がと)ぅ御座ったれば……のぅ……」

と告げたところが、花野、それを一向に信じようとせず、

「あんたら! 何を言うとるんです?! 小平次(こへ)さまは、そこに、おりますよ!……」

と家内(いえうち)を指差した。

 両人、またしても驚き、恐る恐る、奥の一間(ひとま)を覗いて見た……ところが……

――いつもの小平次の

――旅装束と荷物なんどが

――これ

――確かにおいてある。……

……ところが……

……そこに小平次の姿は

……なかった。…………

   *

*根岸附記

 その後(のち)も、この小平次に就いては、彼のその家や、彼の役者として出たことのある芝居小屋などに於いて、いろいろと怪しきことの、これ、たびたび起ったという流言飛語の類いが、これ無数にあると聴いたが、それを含め、以上の事実――と申すところの内容――以外には、私は直接に聴取しておらず、また、検証もしておらぬによって、ここには記さずにおくこととする。

 何でも、享保初めより半ばまでの間の出来事で御座った、とは聞いておる。

   以上。

 

尾形龜之助 「美しい街」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    美しい街

 

         尾形龜之助

 

街よ

私はお前が好きなのだ

お前と口ひとつきかなかつたやうなもの足りなさを感じて歸るのは實にいやなのだ

妙に街に居にくくなつていそいで電車に飛び乘るやうなことは堪へられなくさびしい

街よ

私はお前の電燈の花が一つ欲しい

 

Utukusimati

 

 美丽城市


         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

城市,你呀!……

我喜欢你!

我不愿意拥有像和你完全没说话似的寂寞感而回家

如果我总觉得不舒服而急忙跳上电车那会十分凄凉

城市,你呀!……

我想要你的名为电灯的一朵花

 



              
矢口七十七/

尾形龜之助 「旅に出たい」 心朽窩主人・矢口七十七中文訳

 

    旅に出たい

 

         尾形龜之助

 

夜る

 

靑いりんごが一つ

テーブルの上にのつてゐる

 

はつきりとしたかげとならんで

利口な啞のやうに默りこんでゐる

 

そして

この靑いりんごは私の大きい足の前に

二十五位のやせた未婚の女のやうにやさしい

 

 

Tabinidetai

 
 
    
想去旅行


         
作 尾形龟之助
         
译 心朽窝主人,矢口七十七

 

夜里

 

桌子上

放着一个绿苹果

 

和它的明显影子并排

像聪明的哑巴一样沉默无言

 

于是

这个绿苹果在我大脚前边

像一个二十五岁瘦瘦的未婚女一样温顺

 

 


         
矢口七十七/

2015/01/22

40年前の僕の恋人の送ってくれた雨晴の海岸

40年前の僕の恋人が今日送ってくれた雨晴海岸の写真に、僕は何か異様にしみじみとしたのであった……


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やぶちゃん版「澄江堂遺珠」関係原資料集成Ⅵ ■4 推定「第三號册子」(Ⅳ) 頁4~頁19

ここ以降では、他のヴァリアントとの詳細比較は今は行わないこととする。そうしないと「第三號册子」の全電子化がずるずると延びるばかりとなるからである。なるべく早く、そこまでは辿り着きたいのである。そこに初めて、本当の「澄江堂遺珠」の夢魔のスタート・ラインが引けると僕は考えているからである――

《頁4》

紅蓮と見れば炎なり

炎と見れば紅蓮なり

安養淨土は何處ならむ

救はせ給へ技藝天

 

せんなき

 

羽織の胸を抱きつつ

 

町はほのけ

かそ

 

窓にな

障子さ

 

《頁5》

鳳陽丸 18 7A.M.

兵陽丸 19 8A.M.

南陽丸 200

 

[やぶちゃん注:「鳳陽」「長江游記」の「一 蕪湖」(Wúhú 芥川は「ウウフウ」と振る。長江中流に位置する港湾都市。現在の安徽省南東部の蕪湖市蕪湖県)に『西村は私を招く爲に、何度も上海へ手紙を出してゐる。殊に蕪湖へ着いた夜なぞはわざわざ迎への小蒸氣(こじようき)を出したり、歡迎の宴(えん)を催したり、いろいろ深切を盡してくれた。(しかもわたしの乘つた鳳陽丸は浦口(プウカオ)を發するのが遲かつた爲に、かう云ふ彼の心盡しも悉(ことごとく)水泡に歸したのである。)』とあり(「西村」は西村貞吉で芥川の府立三中時代の同級生。東京外国語学校(現在の東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川が中国から帰還した直後の大正一〇(一九二一)年九月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている)、同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期―大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号十五)。その資料によれば、大正四(一九一五)年に貨物船「鳳陽丸」( FENG YANG MARU)として進水、船客 は特一等十六名・一等十八名・特二等十名・二等六十名・三等二百名。昭一四(一九三九)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍したが、昭一九(一九四四)年八月三十一日に揚子江の石灰密に於いて空爆を受けて沈没したとある。この時間は出船時刻らしいが、実際と合わせて見るても、よく分からない。現在の最新の年譜(岩波版新全集の宮坂覺氏の年譜)上では大正一〇(一九二一)年五月十七日の夜に鳳陽丸で浦口(pŭkŏu 現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、一九六八年に竣工した南京長江大橋が出来るまでは、南京への渡し場・長江の港町として栄えた)を出発、蕪湖(ウーフー)には十九日夜に到着している。もしかすると、この時刻は蕪湖への到着時刻かも知れない。(なお、「長江游記」の「一 蕪湖」の上記の謂いから、実際には芥川はこの前日(五月十八日)の夕刻に蕪湖に到着する予定であったのではないかと私は思っている)。

「兵陽丸」不詳。

「南陽丸」「長江游記」の「二 溯江」の冒頭には、『私は溯江の汽船へ三艘乘つた。上海(シヤンハイ)から蕪湖(ウウフウ)までは鳳陽丸、蕪湖から九江(キウキヤン)までは南陽丸、九江から漢口(ハンカオ)までは大安丸である』とある。同名の船がやはり長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号百五十五)。その資料によれば、明治四〇(一九〇七)年に「南陽丸」(NANYO MARU)として進水、船客は特一等が十六室・一等二十室・二等四十六室・三等二百五十二室、明治四〇(一九〇七)年に日清汽船(東京)に移籍後に南陽丸「NAN YANG MARU」と改名している。昭和一二(一九三七)年、『上海の浦東水道(Putong Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とある。「長江游記」にはこの船で同船となった日本画家竹内栖鳳や同南陽丸船長らとも親しく交流してさまが描かれてある。蕪湖の出船は二十二日で、この日のうちに九江に到着している。]

 

紅蓮と見れば炎なり

炎と見れば紅蓮なり

常寂光安養淨土は何處やらむ

救はせ給へ技藝天

 

[やぶちゃん注:《4頁》冒頭で芥川龍之介が詩篇全体を抹消したものが、ここで改めて芥川龍之介自身によって復元されて蘇生している。

「常寂光」常寂光土と書こうとして抹消したものである。「じやうじやくくわうどじょう(じゃっこうど)」は、主に天台宗で説く四土(しど)の一つで、法身(ほっしん)の住んでいる浄土。真理そのものを世界としてとらえた一切の浄土の根源的な絶対世界。寂光土・寂光浄土。因みに、「法身」は仏の三身(さんじん)の一つで永遠不滅の真理そのもの。理法としての仏。法性身(ほっしょうしん)。をいう。「三身」は他に報身(ほうじん:仏性のもつ属性や働きの様態、或いは修行して成仏する姿を指す。)と応身(おうじん:現世に於いて悟って人々の前に顕現した具体な釈迦の姿を指す。)。

「安養淨土」「あんやうじやうど」(連声で「あんにょうじょうど」と発音するのが一般的)阿弥陀仏の極楽浄土のこと。心を安んじて身を養うことが出来るという謂い。]

 

《頁6》

ひるの曇りにしんしんと

石菖の葉はむらだてり

ひるの曇りにしんしんと

痛む心は堪へがたし

 

かそかに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

こよひはきみも冷やかに

ひとりねよとぞ祈るなる

 

梨花を盛る一村の風景暗し

 

[やぶちゃん注:ここに編者により、以上の『一行は天地逆』に書かれてある旨の記載がある。]

 

《頁7》

人を殺せどなほ飽かぬ

妬み心も今ぞ知る

 

幽かに雪のつもる夜は

 

 

こよひはきみもひややかに

ひとり寐よとぞいのるなる

 

かそかに雪のつもる夜は

ココアココアの碗もさめやすし

こよひはきみもひややかに

ひとりねよとぞいのるなる

 

[やぶちゃん注:ここに編者により、以下の八連分が、同頁の欄外に天地逆で記されてある旨の記載がある。]

 

薊まばらし

 

薊花まばら

アカシアの花踏みしつとりと黄な

 

薊花すぎしつとり

 

アカシアの落ち花しつとりと黄な瓦踏む

 

薊花なき

 

薊しつとりと黄な

 

穗麥うなだれ

 

アカシアの花ともるゝしつとり

 

《頁8》

かそかに雪のつもる夜は

ココアの湯氣もさめやすし

きみもこよひは冷やかに

ひとりねよとぞ祈るなる

 

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

きみ 君もこよひ

こよひは君も冷やかに

獨りねよとぞ祈るなる

 

 

[やぶちゃん注:現在知られる関連詩篇に「呉」の字を含む詩篇はない。この「呉」は詩篇の一部ではないメモの可能性もある。

 次の行の前後に編者により、以下の一行とカット(描画図不詳)が欄外にある旨の記載がある。]

 

竹 竹 水黑 請 戞玉音

 

[やぶちゃん注:「戞」は音「カツ」で、「戛」の俗字。動詞としては打つ・軽く叩く。また、しばし見かける熟語には「戛戛」があって、これは固い物ものが触れ合う際のオノマトペイアである。下の抹消字の「竹」のそれとしては相応しい。]

 

《頁9》

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

今宵は きみひとも冷やかに

ひとり寐よとぞ祈るなる

雲は谷間に沈みつつ

森も音

 

 

幽かに雪のつもる夜は

ココアの色も澄みやすし

こよひはひとも冷やかに

ひとり寐よとぞ祈るなる

 

[やぶちゃん注:ここに編者により『カットあり』(描画図不詳)と注する。]

 

識東披狂醉處

至今泉聲

 

[やぶちゃん注:「欲識東坡狂醉處」は「識らんと欲す 東坡狂醉の處」、「至今泉聲」は「至今(しこん) 泉の聲」(今なお、往時より湧き出ずる泉の音が聴こえる)か。龍之介が訪ねた蘇東坡の旧跡としては西湖があり、「江南游記 六 西湖(一)」「江南游記 九 西湖(四)」などに蘇東坡の名が出る。特に前者の叙述には、この「■4 推定「第三號册子」の詩篇に登場する「玫瑰(メイクイ)」の茶を飲むシーンや「畫舫」なども登場する。

 ここに編者により『以下、欄外』と注した後、次の行の後に『欄外にカットあり』(描画図不詳)と注する。]

 

窮巷賣

 

[やぶちゃん注:このたった三文字であるが、これは実は芥川龍之介自作の漢詩の冒頭である。以下、私の芥川龍之介漢詩全集 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈(通し番号(二十四)の七絶)から引く。

   *

 

窮巷賣文偏寂寞

寒厨缺酒自淸修

拈毫窓外西風晩

欲寫胸中落木秋

〇やぶちゃん訓読

 窮巷 文を賣りて 偏へに寂寞(せきばく)

 寒厨(かんちゆう) 酒を缺きて 自(おのづ)から淸修(せいしう)

 毫(がう)を拈(と)る 窓外 西風の晩

 寫(うつ)さんと欲す 胸中落木の秋

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。丁度この頃、龍之介は上野の小料理屋清凌亭で仲居をしていた田島稲子(後の作家佐田稲子)と出逢って親交を結んでいる(自死の直前には自殺未遂経験のあった彼女に自殺決行当時の心境を問うている)。

大正九(一九二〇)年五月十一日附與謝野晶子宛(岩波版旧全集書簡番号七一五)

に所載する。詩の前に、鉄幹が「詩を作られる事を知」ったのは「愉快です」とあって(この「詩」とは漢詩のことと思われる)、

この頃人の書畫帖に下手な畫を描いた上同じく下手な詩を題しました景物に御らんに入れます

と書いて本詩を掲げている。「景物」とは、場に興を添えるもの、珍しい芸の意。本詩を画賛と記しているが、当該の画と思われるものは、一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したことがある。産經新聞社の同展解説書に載る「1-33」の「落木図」がそれである(但し、写真でモノクロームであるから、実物は現存しない可能性がある)。その解説には、

一九二〇(大正九)年晩秋、小穴隆一の実家にて游心帖に描いたもの。冬枯れの木も、龍之介が好んで描いたものの一つ。しかし、この画を描いた際の龍之介は、落木図を見せたかったのではなく、実はできたての七言絶句を示したかったのであろうといわれる。この七絶を、小穴は『黄雀風』の裏表紙に入れようとしたが、龍之介に断られている。

とある(晩秋とあるのが引っ掛かる。芥川はこれ以前に同様な画賛を誰かに贈っているのかも知れない。その礼節から大正一三(一九二四)年七月刊行の作品集「黄雀風」への装幀を拒絶したともとれる)。当該図版で確認すると、詩は冒頭に二行書き、

「缺」は「欠」

で、中央にくねった枯木の絵を配した後に(枯葉を数枚各所の枝先にぶら下げ、三葉が地面に散ったものであるが、御世辞にも上手い絵とは私は思わない)、

       庚申晩秋

         我鬼山人墨戲

と記す。

 書簡の文面は如何にも卑小な謙遜をしているが、未だ知り合って間もない天下の名歌人晶子(当時満四十二歳。鷺年譜によれば、龍之介が晶子の歌会に出て親しく接するようになったのは大正八(一九一九)年末頃と思われる)へ示すというのは、本詩への龍之介の自信の在りようが見て取れる。

「窮巷」「陋巷」と同じい。狭い路地。貧家の比喩。

「寒厨」寒々とした貧乏人の厨(くりや)。同じく貧家の比喩。

「淸修」仏教や道教で、人と交わらずにたった独りで瞑想修行することを指す。

「毫を拈る」筆を執る。]

[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:承句「修xiu1」と結句「秋qiu1」が脚韻を踏む。起承句では、実生活のことをあれこれ述べ立てているが、転結句では急速に描写の対象が深化、抽象化、純化していく。そして、生活臭を完全に去った結句で、風景に心を語らせる。よくある手法だなどと侮ってはいけない。転句と結句の作り方には、特筆すべきものがあると思う。この詩人、やはり只者ではない。転句、読者の目は作者によって窓外に導かれる。西風が吹く肌寒い晩秋の淋しい夜だ。もう真っ暗で、戸外は物の形も分からない。ところが結句、外の暗闇にあった読者の意識は、一気に心の中に引き戻される。その視線の振らせ方が絶妙だ。ほら見なさい、と遠くを指差しておきながら、実は私が見せたいのは私の(あなたの)心の中なのですよ、と告白される。不意を衝かれた読者は、ただ口を噤むしかない。そして振られた反動で、心のより深いところに一気に下りていき、闇をじっと見つめさせられる。その暗黒の風の中に、全ての葉を吹き落とされた木が一本、孤独に佇立しているのが見える。そういう意味で、「落木秋luo4mu4qiu1」が、この作品の核心とも言うべき存在だろう。この三字がなければ、全二十八字の詩世界は瓦解する。読者の心は最後にここに辿り着き、そこではじめて詩人の(いや、自分自身の)魂を凝視させられる。ところで、なぜ“落葉秋”と言わないのか。葉が落ちるのだから、その方が矛盾がないではないか。これは愚問を失礼。もう落ち葉のイメージさえ許されないくらいの淋しさなのだ。そして木という象形文字。画数の少ないこの字にしてはじめて、葉を全部落した晩秋の樹木の姿が、そして孤独な心の佇まいが、立ち現れてくる。いや、そして何よりも、“落葉秋”では、この詩で最も大切な、恐ろしいほどの寂寥感、“凄さ”が消えてしまうのだ。

 

――売文に勤しんでも金にならず、こうやってさびしい生活を続けるばかり。酒を買うにも事欠き、厨房には蓄えもない。西風が物寂しく窓を鳴らす夜、戸外の暗闇には何も見えない。しかし、目を閉じて見つめる……そこには見える……。やはり、描かずにはいられない。心の暗闇に佇立する、ぞっとするほど淋しい、この晩秋の木立を……この私というものを――

 

この、「ぞっとするほど」の「淋しさ」とは、西行の和歌『ふるはたのそばの立木にゐる鳩の友呼ぶこゑのすごき夕暮』にいう、「凄」さなのである。]

   *

 この漢詩は中国行の凡そ一年前の作であるが、芥川龍之介の当時の心境を知り、ひいては本詩篇群の字背を読む上でも、極めて貴重な一首であると私は思う。]

 

 

《頁10》

(しらべかなしき蛇皮線に

(小翠花(シヤウスヰホア)はうたひけり

(耳環は耳にゆらげども

(きみに似たるを如何にせむ

(何かは君にかうも似し

 

[やぶちゃん注:ここに編者により、『以上五行、上方に印あり』とある。「澄江堂遺珠」に準ずるならば先に示したような、巨大なスラーのようなものか? 一応、「(」を附しておいた。]

 

しらべかなしき蛇皮線に

小翠花はうたひけり

異國をめける すがたは

きみに似たるを如何にせむ

 

忘れがたしやこの心

晝はいきるる草中に

大石象はそびへけり

 

[やぶちゃん注:「大石象」中国の墳墓や廟のエントランスの両側にしばしば見られる石像の象である。]

 

《頁11》

かそかにゆきのつもるよは

 

こよひばかりはひややかに

ひとりいぬ

 

入日の空を仰ぎつつ

何かはふともくごもりし

せんすべ

消えし言葉は如何なりし

 

運河むるる上る鯉魚の群あまた

波もさざらに上るとき

「思ふはとほきひとの上」

波に音なきたそがれは

 

《頁12》

「思ふはとほき人の上」

船のサロンにこのゆうべただひとり

玫瑰の茶を啜りつつ

       寂しさは

ふとつぶやきし

       人の上

 

[やぶちゃん注:「玫瑰」音は「まいくわい(まいかい)」訓じて「はまなす」と読むが、ここでの並びから見ても歌柄は間違いなく、芥川の中国行の際のものであり、その場合、寧ろ、音「マイクワイ(マイカイ)」或いは中国音を音写した「メイクイ」で読むべきである(先に注した通り、江南游記 六 西湖(一)を参照されたい)。中国原産のバラ亜綱バラ目バラ科バラ属ハマナス Rosa rugosa は、あちらでは普通に花を乾燥させて茶や酒の香料とする。中国音「méigui」。]

 

たどきも知らずわが來れば

ひがしは暗き町ぞらに

怪しき虹ぞそびえたる

 

かすかに

幽かに雪の

「思ふはとほきひとの上」

畫舫昔めきたる竹むらに

 

《頁13》

Art

 

心ふたつにまどひつつ

夕立すぎし須田町に

たどきもしらずわが來れ

怪しき

 

[やぶちゃん注:「須田町」東京府神田区須田町(現在の東京都千代田区神田須田町)。当時は市電の一大ターミナルで、「須田町」駅と「万世橋」駅との乗換え地点として繁華街を形成していた。万世橋近くにあった西洋料理店「ミカド」は多くの文士が好んで使ったことで知られる。大正八(一九一九)年六月十日、芥川龍之介は、このミカドで開かれた岩野泡鳴を囲む文学サロン「十日会」の席上――龍之介のファム・ファータル――歌人秀しげ子に初めて逢った。この一篇と次の一篇は初行の「心ふたつにまどひつつ」から見ると、その時の龍之介の不倫へと傾斜する/した意識の表出とも読める。少なくともしげ子との関係を原風景とするものであることは間違いない。私のマニアックな評釈附の芥川龍之介我鬼窟日錄の同日以降を参照されたい。]

 

心ふたつにまどひつつ

わが

夕立すぎし須田町に

怪しき虹ぞかかりたる

 

《頁14》

幽かに雪のつもる夜は

 

かかるゆうべはひややかに

ひとり寐ぬべきひとならばねよとぞ思ふなる

 

この河に河豚はのぼる日のまひるきみがつままぐたより讀みけり

 

[やぶちゃん注:「河豚」は「海豚」の誤字であろう。クジラ目ハクジラ亜目ヨウスコウカワイルカ科ヨウスコウカワイルカ Lipotes vexillifer である。現在、国際自然保護連合 (IUCN)のレッドリストでは、絶滅危惧IA類であるが、私は残念ながら最早、絶滅してしまっていると思う。

「まぐ」は正しくは「まく」、「枕く」で「枕を共にする・共寝する・妻となる」の謂い。但し、龍之介はこれに、性交渉の意を強く含んだ「まぐはふ」のニュアンスを附加していると考えてよい。それはこれが詠まれた相手によるものである。この「きみ」というのは間違いなく、この中国旅行中に結婚した歌人吉井勇のことと思われる。大正一〇(一九二一)年五月三十日附の吉井勇宛の長沙からの芥川龍之介書簡(絵葉書)が残るが(岩波版旧書簡番号九〇六)、そこに、「湖南長沙 我鬼」と署名した、

河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり

という一首が載るからである(この「河豚」も「海豚」の龍之介の誤字)。吉井勇は情痴歌集として騒がれた明治四三(一九一〇)年刊の吉井勇の名歌集「酒ほがひ」や、花街の放蕩を詠んだ大正五(一九一六)年の「東京紅燈集」など、きわどい艶麗風で知られ、芥川龍之介も一高時代に傾倒した一時期があったのである。なお、「芥川龍之介新辞典」(翰林書房)などを見ると、吉井と芥川の直接の接触はなかったとあるが、かくも親しげに、かくもきわどい一首を添えた絵葉書を、全く面識のない五歳先輩の文壇の有名歌人に出すほど龍之介が厚顔であったとは、私には思われない(但し、書簡類で吉井勇宛はこの一枚のみで、しかも原本ではなく昭和四(一九二九)年二月十七日発行の『週刊朝日』からの転載である)。記録や資料として残っていないだけで、龍之介と勇は直接の面識が何度かあったに違いなく、少なくとも作品集の贈答などは頻繁にあったものと考えた方が自然である。因みに、この時吉井勇が結婚した相手は、後の昭和八(一九三三)年に発生した上流婦人界の性的スキャンダルである不良華族事件の中心人物柳原徳子(歌人柳原白蓮の兄伯爵柳原義光の次女)であった(但し、結婚後も勇の放蕩が止まなかったこともこのスキャンダルの大きな要因であった。勇は事件後に離婚し、料亭の看板美人と謳われていた水商売の女性と再婚している)。

 

雲は幽かにきえゆけり

みれん

 

《頁15》

夕づく牧の水明り

花もつ草はゆらぎつつ

幽かに雲も消ゆるこそ

みれんの

 

水は明るき牧のへも

花もつ草のさゆらぎも

わすれがたきをいかにせむ

みれんはう

みれんは牧の水明り

花もつ草の

 

《頁16》

別るゝや

そらをよこぎる玉蟲の

かなしきものは夕明り

空にながるる玉蟲

 

ひんがしの空は朝

ひんがしゆ風吹きぬ

 



 

みれんは牧の水明り

消あるは花もつ草の

 

晝は音なきつばな原

まどかに春の月

 

[やぶちゃん注:「つばな」単子葉植物綱イネ目イネ科チガヤ(茅萱)Imperata cylindrica のこと。日当たりのよい空き地に一面に生え、細い葉を立てた群落を作って初夏に細長い円柱形の白い綿状の穂を出す。グーグル画像検索「チガヤ。]

 

《頁17》

渚はしろながき水明り

春の雜木の枝かげに

ほのめき

 

かかるゆうべはひややかに

ひとりねよいねよと祈るなりりつつ

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

かかるゆうべはただひとり

幽かにいねむきみならば

いくたびきみもひややかに

ひとりいねよと祈りけむ

 

《頁18》

みれんは牧の水明り

さゆらぎやすき草の花

あるは

 

幽かに雪のつもる夜は

折り焚く柴もつきやすし

おもふは

幽かにいねむきみならば

 

ひとりいぬべききみならば

幽かにきみもいねよかし

 

《頁19》[やぶちゃん注:ここに編者により、本頁が総て横書きである旨の記載がある。)

Kunst

1)  Kunst Wesen Ausdruck ナリ單ナル Liebe ニ非ズ。

2)  Ausdruck ハ即 Eindruck ナリ、

3)  Ausdruck Wesen トスル Kunst Technique ナカルベカラズ( Cézanne ノ例、

4)  Technique ハ手段ナリ Ausdruck ハ目的ナリ本末顚倒ノ弊アルベカラズ

 

[やぶちゃん注:本頁は冒頭の「1」の「Wesen ハ」が抜けている他は、ほぼ完全に「澄江堂遺珠」に転載され、佐藤春夫の丁寧な邦訳が下に附されてある。使用されている語は概ねドイツ語であるが、「Technique」の綴りはフランス語である。ドイツ語は「Technik」。フランス語経由で入った外来語だからであろうか。但し、フランス語「Technique」自体もフランス語にとって外来語で、もとはギリシャ語の「techne」(テクネー)で「technique」は「techne」の形容詞形「technikos」(テクニコス)が直接の語源である。参照した独協医科大学ドイツ語教室のサイト内のこちらのエッセイによれば、ギリシャ語の「technikos」は一旦、「technicus」(テクニクス)というラテン語形に変化し、それがフランス語への橋渡しとなったらしい。則ち、「technikos」(ギ)→「technicus」(ラ)→「technique」(仏)→「Technik」(独)や「technique」(英)となった旨の記載がある。英語学が専門の芥川にとってはフランス語として知られた違和感のない綴りだったのであろう。]

さっきツイッターで呟いたこと――

最近、どうも時差が逆転した地域の人々のツイートする絵画や写真の方が、日本人のそれらよりも遙かに僕の琴線に触れるということを知った。
昼間はピンときてリツイートしたくなるアートが格段に減少する。

但し、思うにこれは、日本の殆んどのサイトが、著作権の切れた絵画を撮った平面画像に性懲りもなく©を主張していることと無縁ではないと思う。
言わずもがなだが、文化庁はそんなものに著作権は発生しないとちゃんと言っているのにである!

今時、世界で、写真撮影の出来ない美術館と博物館だらけなのは日本ぐらいなもんだろう。
手で触れるべき彫刻作品に触って係員が飛んでこない美術館は、極めて稀である。
こんな国だから、大衆の芸術的レベルが貧困なのだと私は真面目に思っているんである。

人の心を震わせる一枚の写真や絵を軽んじ、また、神棚へ上げて「お宝」として国家的に独占する――そういう輩はやっぱり、人殺しの道具作りを最高学府で許可するのがお似合いだ――

耳囊 卷之九 賤尼氣性ある事

 

 賤尼氣性ある事

 

 大久保に住居(すまひ)ける橫田物語りせしは、彼(かの)近邊に子供もなく親族もなくて托鉢(たくはつ)をなし、其間には近隣の武家町へ至りて何かの用を辨じ、分(わけ)て產婦の乳はりてくるしむをもみ、其外介抱なす事甚だ妙を得し故、こゝかしこにてももてはやし通途(つうと)の尼よりは、獨(ひとり)ぐらしの店持(たなもち)にても貧しからずくらしぬるが、或人尼も年老(おい)て煩ふの事もあるべし、其そなえありたきといゝしが、尤(もつとも)とや思ひし、又兼て心得やありけん、夫婦養子をなしてしかじかの事を賴、我等地面をかりて家は手前ものなり、家財ある限り幷(ならびに)聊(いささか)貯へし金錢も、不殘(のこらず)夫婦へあたふるなりとて、是を讓り其身は別に聊かの住居をしつらい、是迄の通り托鉢をなし、心安き家々へはこれまでの通り被雇(やとはれ)、または通ひて、世話抔なせしが、天その惇眞(じゆんしん)を守るにや、養子夫婦も至極(しごく)の生質(きしつ)にて、彼(かの)老尼を實母のごとく孝養なしけるが、文化六年の春、彼養子なる者相果(はて)ぬ。其取片付(とりかたづけ)なども尼が一(ひと)まき取計(とりはから)ひしが、兼て生質をしれる近隣の者も厚く世話なしける。右養子の果しは歎きを求めぬるやうなれど、かゝる生質の尼故、又此上の天助もあらんと、橫田かたりぬ。 

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。

・「一まき」「一卷き」。名詞で一切・一式の意。

・「橫田」横田袋翁。頻出の根岸昵懇の情報屋。既注

・「惇眞」「惇」は厚いの他に真心の意もある。純真の意でよかろう。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 賤しき尼にも気骨のある事 

 

 大久保に住もうておる知音(ちいん)、横田殿の物語れること。

 かの大久保近辺に、子供もなく親族もなく、托鉢(たくはつ)をなして、その合間には近隣の武家町(まち)などを経巡っては、何かと雑用なんどをこなし、わけても、産婦の乳が張って苦しむを、乳を揉むなどしていろいろと介抱をなすこと、これ、はなはだ上手との評判を得たゆえ、ここかしこにても、これ、もて囃し、されば、小金も貯まり、普通の尼よりは、独り暮らしにして、しかも住める庵(いおり)は自分の持ち分と、まあ、貧しゅうはなき暮らしぶりであった。

 が、ある時、ある人の、

「……さても……比丘尼(びくに)もこれ、年老いたらば……煩うということもあろうほどに。……何か、それ相応の備えは……そろそろ、これ……なされた方が、よろしいかと存ずるがのぅ……」

と申したによって、尼は――それをまた尤もなることとでも思ったものか、或いはまた、以前よりそうした心づもりがもともとあったものか――夫婦(めおと)養子をなして、老後に万一のことのあった折りのことを頼んだ上、

「……そのかわり……妾(わらわ)、この地面は借りては御座れど、建っておるこの家は、手前のもの。――それから、家財はこれ、ある限り総て――それに加えて――いささか貯えおいた金銭も――これ、残らず――そなたら夫婦へお渡しますによっての。」

と申し、その通りに、これら総てを譲った上、その身は別に、また同じ敷地の僅かな場所に、小さき新たな庵(いおり)を別に設(しつら)え、また、これまでの通り、托鉢をなし、馴染みになって御座る家々へは、これまでの通り、雑用や乳張りほぐしなんどに雇われ、或いは通い仕事なんど致いて、巷にては――まあ、小金稼ぎとは申せ――方々にて、なかなかの誠意のある世話やら、働きなんど、なして暮らして御座った。

 されば、天も――その純真なる真心に感じてこれを守ったものか――尼の迎えた養子夫婦も、これ、至極(しごく)孝心厚き気質の二人にして、かの老尼をあたかも実母の如く、孝養して御座った。

 ところが、この文化六年の春、かの養子となった息子は、これ、残念なことに、相い果ててしもうた。

 その折りの葬儀なんども、この尼一人が、歎き打ち萎れた嫁ごを慰めつつ、その一切を取り計ろうて、成し終えて御座ったと申す。

 その後も、残った嫁は勿論、かねてこの尼の気質の直(なお)きを知れる近隣の者らは皆、……厚く、この尼の世話を、今も、なして御座る。 

 

「……老少不定(ろうしょうふじょう)とは申せ、かの養子の果てたること、これ、なかなか……しきりに歎き続けては御座るようなれど……かかる直き気性の尼ごぜで御座るによって、またこの後も、かの――天の助け――これ、御座ろうものと、我ら、思うておりまする。……」

と、横田殿の語って御座った。

耳嚢 巻之九 白河定信公狂歌尤の事

 白河定信公狂歌尤の事

 

 文化六年、奧州白川の二三丸(に・さんのまる)、其外城下とも燒亡の事あり。彼(かの)地より右の趣取急ぎあわたゞ敷(しく)、江戸表へ注進ありしを、定信聞(きき)給ひて、甚だ無機嫌にて、火災は天變、せん方なし、何ぞやあわたゞしく申越(まうしこし)ける。其取計(とりはからひ)にては、甚だ跡の事心もとなきとて、狂歌よみて答へられしと、

  でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな

右其家士の語りしとて、人の物語りなり。いかにも此人、かゝる事有(ある)べしと感じぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。しばしば出る松平定信逸話譚。底本の鈴木氏注には、「卷三 大坂殿守回錄の節番頭格言の事」と、『同軌の逸話。定信は恐らく大坂城のときの故人の心構について前々から知っていたであろう』と記しておられる。

・「白河定信」老中松平定信は陸奥白河藩第三代藩主であった。

・「文化六年」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。尊号一件を背景にして寛政五(一七九三)年七月に将軍輔佐と老中を辞任した定信は、藩政に専念した(地位上は溜詰(たまりづめ)となっている。溜間(たまりのま)とは黒書院溜之間ともいい、通称を松溜(まつだまり)、またここに詰める者を溜詰と称した。代々、溜間に詰める大名家を定溜(じょうだまり)・常溜・代々溜(だいだいたまり)などといい、会津藩松平家・彦根藩井伊家・高松藩松平家の三家があった。また一代に限って溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家・姫路藩酒井家・忍藩松平家・川越藩松平家などがあった。さらに老中を永年勤めて退任した大名が前官礼遇の形で一代に限って溜間の末席に詰めることもあり、これを溜間詰格といった。定信はこれである。初期の段階では定員は四~五名で、重要事については幕閣の諮問を受けることとなっていた。また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっており、その格式は非常に高いものだった。江戸中期以降は飛溜の大名も代々詰めるようになった。また、桑名藩松平家・岡崎藩本多家・庄内藩酒井家・越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになったと参照したィキ伺候席 の「溜間」にある)が、これは文化九(一八一二)年三月六日に長男の定永に譲って隠居するまでの間の出来事であり、それ故に、彼は江戸にいたのである。。なお、隠居後も藩政の実権は彼が掌握していた。

・「奧州白川の二三丸、其外城下とも燒亡の事」岩波版長谷川氏注に、白河藩藩庁であった福島県白河市の白河城の火災は文化六年二月二十五日のことであったとある。

・「でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな」「串」「焼け」「味噌」が「田楽」の縁語。「くしくし」(串々)は副詞の「ぐぢぐぢ(ぐじぐじ)」(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では二句目が「ぐじぐじものを」と濁点を伴って表記されてある)、言葉がはっきりしないさま・ぶつぶつ言うさま、及び、ぐずぐずしているさまの意を掛けてある。「味噌をつくるな」は、田楽はしっかり焼いた後、火から取り上げた上で徐ろに生味噌をつけて喰うのが王道である(個人的に私は焼きながらつけて味噌を焦がした方が好きだが)が、それと「味噌をつける」、失敗して評判を落とす・面目を失うの意を掛けてある。これは私でもご「尤」も! と感心したくなる、まことに当意即妙の上手い狂歌である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 白河藩藩主松平定信公の狂歌の尤もなる事

 

 文化六年、奧州白河の二の丸・三の丸その外、御城下など、これ、焼亡致いたことが御座った。

 この時、かの地より回禄(かいろく)の報知、とり急ぎ慌ただしく江戸表へと御注進、これ、御座ったが、それを、かの定信公、お聴き届けにならるるや、特に慌てらるるさまもなけれど、いたって不機嫌な御様子になられ、

「――火災は天変――仕方なきことじゃ。……しかし、そなたら。そは、何ぞや!――何を慌ただしゅう――ばたばたおろおろと、まあ、申し越して参ったものか?! そのような慌てふためいたる取り計らいにては――これ――大事なる、この後の処置なんど、これ、如何にも、心もとなく、命じ任すことなど出来そうにも御座らぬ!」

と痛く叱責なされた後、しばし黙られた。

 そうして徐ろに狂歌をお詠みになられ、かの家臣の者らへとそれを与えた。

 

  でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな

 

 これは、その折りの家臣の御方が直かに見聞きし語っておられたことと、さる御仁の物語っておられた話で御座る。

 いや! まっこと、これ、いかにも! かの名君松平定信公にしてこそ、かかる御対処と御名言のあらるる、と、私も深く感じ入って御座ったものじゃ。

耳嚢 巻之九 棺中出生の子の事

 棺中出生の子の事

 

 享保の中ごろ、御廣舖御小人(おひろしきおこびと)を勤めし星野又四郎といへるものゝ妻、懷胎して産に臨(のぞみ)てうまずして死しぬ。せんかたなければひつぎに納め、菩提寺の僧をむかへ火葬して、母子の死骸を分(わけ)んなど評しけるを、妻の兄なる者、我等聞(きき)し事あれば火葬は無用なり、我等菩提寺へ至りて談判すべしとて、彼(かの)寺に至り和尚に問ひ、火葬の事心にくし、哀れ其儘に葬送せんといひければ、和尚のいえるは、母子ともに死すとも※娩(ぶんべん)すべしとて、彼(かの)宅に來り棺の前に坐して觀念をなし、此事夜の九ツ時過(すぐ)べからずとて、夜の五ツ過るころにもありける、一喝を下すに應じて棺中に小兒の泣聲きこゆ。やがて開(あけ)て出すに男子出生す。和尚の曰(いはく)、此子六歳迄在命せば、必(かならず)我(わが)弟子となすべしと約し、六歳の時彼寺へ送りて弟子となす。右寺は牛込原町淸久寺といふ禪寺にて、彼和尚は大枝(だいし)と云(いへ)り。彼小兒出家して大方(だいはう)と號し、後に武州世田ケ谷勝光院に住職す。七十三歳にて隱居せり。又四郎は後妻をむかへ、男子を又もふけ、則(すなはち)又四郎と名乘(なのり)、御廣鋪下男の頭(かしら)を勤(つとめ)たり。親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時、御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ。其頃大方は七拾六歳の由聞しと也。

[やぶちゃん字注:「※」=「女」+「分」。]

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。話の内容自体はかなり古い都市伝説であるが、詳細な事実記載が附されてあり、特に実際に死後に男児を出産したという亡妻の夫の直話で、しかもその男児が成長し、出産に立ち逢った僧(実名表記)を師匠として同じく禅僧となり、その法名と事蹟が記されていること、各人の年齢やクレジットの明記等々、実話譚としての体裁を何とかして整えてようと意識的に努力している都市伝説(アーバン・レジェンド)である。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるが、ここで話者原田翁は、この話を「親又四郎」本人が「寛政九巳年」(西暦一七九七年)に、当時「御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語」ったとあるから、棺桶から子が生まれたのは八十年ほども前ではあるものの(この亡き母から生まれて禅僧となった「大方」の年齢から逆算すれば、この不思議な事件は享保七(一七二二)年に特定出来るのである)、この話を亡夫から直接に聴いたのは書かれた十二年前となる点にも注意したい(ここでは最後の「親又四郎」以下の文の「七拾三歳の時」の箇所を意識的に外した。後注参照)。但し、話者の先行作から見ると、捏造可能性の疑義(後注参照)はある。

・「享保の中ころ」享保年間は元年(一七一六年)から享保二十一年(一七三六年)であるから、享保七(一七二二)年~享保一三(一七二八)年前後となり、直前で述べた通り、享保七(一七二二)年に限定出来る。

・「御廣舖御小人」底本の鈴木注によれば、大奥広敷(おおおくひろしき)に詰めて、普請その他の雑務に従事する下級役人の称とする。この「広敷」は江戸城の本丸と西丸(にしのまる)との大奥へ出入り際の関門の称で、ここに詰めて、大奥の事務を受け持つ者には、広敷番頭以下番衆、その他に御広敷伊賀者などがあったとある。

・「心にくし」訝(いぶか)しい。気になる。懐妊したまま、出産を見ずに死去した場合のタブーがあって火葬としようとしたものか。古くは特殊な病気による死者や変死者などは火葬にふしていたが、魂を二つ宿した状態での妊婦の死というのは、民俗学的に見ても異常な遺体であり、これを火葬のしようとした意図は分かるような気がする。但し、禅宗について調べてみると某大学名誉教授で理学博士の個人サイト「禅と悟り:その合理的アプローチ」の「第5章 日本の禅とその歴史: その1」に、通説で日本に最初に禅を紹介した人物とされる飛鳥時代の僧道昭(舒明天皇元(六二九)年~文武天皇四(七〇〇)年)についての記載の中に、道昭は七十二歳で縄床(じょうしょう:縄を張ってつくった粗末な腰掛け。主に禅僧が座禅の際に用いた。)『に端座したまま坐亡したと伝えられ』、『道昭は死に臨み火葬を遺言した。弟子達は粟原寺』(おうばらでら:飛鳥(奈良県桜井市粟原)にあった寺。現在は廃寺。)『で遺体を荼毘に付し粉にして散骨したことが記されている(「続日本紀」卷第一、文武天皇紀に道昭の記事がある)。これは日本初の火葬である。道昭は禅受容の初伝者であるとともに日本で最初に火葬によって葬られた人である。道昭の火葬後火葬は天皇はじめ貴紳の間で急速に普及した』とある(ウィキの「道昭には、「続日本紀」の記述として、熱心に座禅を行っており、時によっては三日に一度、七日に一度しか座禅を解いて立つことをしなかったとし、『ある日、道昭の居間から香気が流れ出て、弟子達が驚いて、居間へ行くと、縄床』『に端座したまま息絶えていた。遺言に従って、本朝初の火葬が行なわれたが、親族と弟子達が争って骨をかき集めようとした。すると不思議なことに、つむじ風が起こって、灰と骨をいずこかへ飛ばしてしまったとされる。従って、骨は残されていない』と逸話を載せる。――この遷化の逸話、禅僧らしくて、とても、いいね――私もそれでいい――)。なお、江戸時代にはまた、浄土真宗が火葬を常式とする一種の死生観改革をしているようで、相当浸透していたらしい。しかし、本話での措置が普通であったか、そうでなかったかは、文脈からは微妙に計り難いが、兄が異議を唱えるところからは一応、禅宗の常式としての火の方を採って訳しておいた。

・「聞し事」不詳。一応、火葬にするという菩提寺(禅宗)の常式に対して、兄なる人物(彼は宗旨が異なるのであろう)が自分の信心する宗派(不詳)の死生観から、肉体が焼かれることへの疑義を持った、と採る。前注参照。

・「※娩」(「※」=「女」+「分」)分娩。

・「觀念」仏教の瞑想法の一つ。精神を集中して仏や浄土の姿・仏教の真理などを心に思い描いて思念すること。

・「此事夜の九ツ時過べからず」誤読していたが、岩波の長谷川氏注の、『午前零時前後以前にこの事は解決する』という注で、目から鱗。

・「夜の五ツ」初更。午後八時前ぐらい(冬至)から午後九時(夏至)頃までの間に相当。

・「淸久寺」底本鈴木氏注では、『三村翁「清久寺、牛込原町一丁目、曹洞宗なり、小夜中山妊婦塚の伝へと相似たり、かゝる話諸国に多し、これもその一なるべし。」いわゆる赤子塚説話』とあり、岩波版も新宿区原町と注するのであるが、調べてみると、もうこの寺はないようである(廃寺か移転かは不詳)。だの氏のブログ「だnow」の「写真供養」の中に撮影日二〇一四年二月二十七日附で『新宿区原町二丁目』『旧清久寺境内』の写真があり、そこには既に寺と思しいものはない。なお、鈴木氏は本話を赤子塚伝承の類型的一話(異界との通路である周縁たる村境にある行路死病人などを葬った塚から赤子の泣き声が聞こえてくると伝えられる塚。死んでも幼児の霊は遠くへは行くことが出来ず、こうした場所にある道祖神の近くにその霊を留めたと信じられ、それが姑獲鳥(うぶめ)などの妖怪譚や亡母が飴を買って墓内で生まれた子を育てるといった怪談などと集合変化して、行倒れの妊婦を葬った塚中で子が出生するという形になったものと考えるのであろう)として、実話としては全く見ていないことが分かる。こういう、細部の検証もしない、けんもほろろの一蹴式の、日本の民俗学のその考え方や処理法が――実は私は――すこぶるつきで嫌いである――と述べておきたい。これだから、日本の民俗学は学問たり得ないのである。

・「勝光院」底本の鈴木注に、『世田谷区世田谷四丁目。曹洞宗』とする。

・「七十三歳にて隱居せり」母の死後に出生したこの男子、方(だいほう)和尚の隠居は、寛政六(一七九四)年(「卷之九」の執筆推定下限文化六(一八〇九)年の十五年前)となる。

・「原田翁」底本の鈴木注に、『種芳(タネカ)。安永七年(四十八歳)家督、廩米二百俵。天明元年小十人頭より御広敷番頭に転ず。根岸鎮衛にくらべれば役職の点ではずっと低いが、年長であるので、大事にしている様子が見える。年齢のみならずこの人の人柄もよかったのであろう』と記されてある。この人物、「耳嚢 巻之八 奇子を産する事」之九 痴僧得死榮事」に既に登場している。しかしその前者「奇子を産する事」の内容がちょっと気になるのだ。この爺さん、よっぽどこの手の異常出産譚が好きだったということである。その辺には少し、本話の作話可能性が臭うという気はするのである。但し、後者の「痴僧得死榮事」は私のすこぶる愛する一篇でもあり、これは十全に事実として信じられる話ではある。

・「親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時、御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ。其頃大方は七拾六歳の由聞しと也。」この読点(編者によるものと思われる)は問題があるように思われる。これでは「親又四郎」が寛政九年で73歳なのに、その息子が「其頃」76歳ということになって、トンデモない話になってしまう。これを以って本話の詐欺性が実証されているなどと鬼の首を獲るのは、阿呆である。そんな馬鹿にも分かる見え透いた馬鹿を、こんなに細部まで緻密なリアリズムを配することを好んだ人間がやるはずがないからである。そこで私はこれを、一度、句読点のない状態に戻し、

 

親又四郎寛政九巳年七拾三歳の時御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ物語りぬ其頃大方は七拾六歳の由聞しと也

 

とし、改めて、

 

親又四郎、寛政九巳年七拾三歳の時御廣敷の頭勤ぬる原田翁へ、物語りぬ。其頃、大方は七拾六歳の由、聞しと也。

 

と、句読点を打ち直して、現代語訳した。意味はお分かり戴けるものと思う。なお、これから推測すると、原田翁がこの話を聴いた時、親の又四郎は、既に九十三を越えていたことにはなるが、これはあり得ぬことではない。それでもトンデモ話として一笑に附したい方は、初めから、「耳嚢」など読まぬがよろしい。――やせ細っておぞましい退屈で下劣な今のこの世の現実に満足されれば、それで、結構――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 棺桶の中にて出生(しゅっしょう)した子の事

 

 享保の中頃のことである。

 御広敷御小人(おひろしきおこびと)を勤めていた星野又四郎という者の妻が、懐妊して出産に臨んだものの、産むことなく亡くなった。

 仕方なく柩(ひつぎ)に納め、菩提寺の役僧などを迎えて、禅宗なれば、火葬にして、その後(のち)、母子の遺骨を分けて葬ることとせんと、打ち合わせを成したところが、この妻の兄なる者が、

「……我ら……別に信心しておる宗旨の御座るが……これ、葬りに就き――聞き及んでおること、これ、あり! 火葬は、これ! 無用のことで御座る! 我ら、こちらの菩提寺へと参り、どうあっても火葬にせんとせば、これ、談判致さんと存ずる!――」

と譲らず、すぐ、星野を連れて菩提寺へと至って、和尚へと直談判に及び、

「……火葬に致すとのこと、これ、いっかな、承服出来申さぬ。……哀れなる我が妹なれば……どうか一つ!……そのままに、葬送、これ、成さんことを御願い申し上ぐる!……」

と切(せち)に請うた。

 されば、和尚の曰く、

「――分かり申した。――但し、母子ともに一体のままに死しておるということは、これ、二つの魂(こん)の一体となっておって、これをそのままに土に葬ると申すは――引導の障りともなり申す。……されば……我らが――分娩をして――これ――葬ることと――致そうず。――」

と、告げた。

 そうして、和尚は、すぐ二人とともに水野の屋敷へ同道した上、柩の前に座すと、しばらく瞑想した後(のち)、

「――この事――夜(よ)の九ツ時を過ぐる前に――成就致す!――」

と、きっぱりと会葬の者らへ告げた。

 それより、和尚は低声(ひきごえ)にて経を唱え続けた。

 夜(よる)の五ツも過ぎた頃であった。

 和尚が突如、

「喝ッツ!――」

と――

――一喝を下した

――それに

――応ずる如(ごと)

――柩に中(うち)より

「……ふぅん……きゃァ……おぎゃァ……おぎゃア! おんぎゃあ!……」

と力強い小児の泣き声が聴こえた。

 すぐに柩の蓋を開けてみると、

――元気な男子(おのこ)が出生(しゅっしょう)して盛んに泣き叫んでいた。

 ここに和尚の曰く、

「――この子――六歳まで恙のぅ在命(ぞんめい)にてあったれば――必ず――我が弟子と、成すがよい!」

と告げ、父又四郎もその場にて、これを誓った。

 

 その後、この子はすくすくと元気に育ち、盟約に随い、六歳となった折り、かの寺へと送り出し、かの和尚の弟子と相い成った。

 

 この寺と申すは、牛込原町清久寺(せいきゅうじ)という禅寺にて、この時の和尚は大枝(だいし)和尚と称された。

 かの童子は、出家して大方(だいほう)と号し、後に武蔵国世田ヶ谷勝光院(しょうこういん)の住持と相い成り、その後、七十三歳にて隠居した。

 また、大方(だいほう)の父で亡妻の夫であった又四郎は、その後(のち)、後妻を迎え、男子をまた一人もうけた上、その子に家督を継がせ、同じく又四郎と名乗らせたが、この子又四郎もまた、同じく御広敷下男の頭(かしら)を勤めた。

 

 以上は、この親の方(ほう)の又四郎――大方(だいほう)の父――が、寛政九年の巳年(みどし)の年――その時、御広敷の頭(かしら)を勤めておられたのが、私の知音(ちん)原田翁(当時、七十三歳)で――その原田翁へ、昔語りに参った老又四郎が、直かに物語った話で御座ったと申す。

 なお、その折り、

「……その頃、この不思議な出生(しゅっしょう)をなされた息子の大方和尚も、これ、七十六で御健在の由、聞き及んで御座いまする。……」

と、原田翁が付け加えられた。

2015/01/21

僕は

僕は如何なる神も信じない――僕は僕自身さえ信じていない――しかし――ある神を信ずる人々の神をせせら笑い、その神の「ケツ」の穴を描いて人々の笑いをさそう「クソ」野郎を――心底――憎悪する部類の人間である――

「シャルリー・エブドでは銃弾を防げない」 SNSに風刺画掲載で少年逮捕……なんじゃあ、こりゃア!?

「なんじゃあ、こりゃア!?」(ジーパン刑事の台詞で)
   
あのえげつない風刺画を「面白おかしく」載せた「シャルリー・エブド」について――描いた画家自身が、あれを描くことで殺されるかもしれないという「覚悟なしに」あの風刺画を書いたとすれば、それは「クソ」以外の何ものでもない――と私は心底ずっと思っている人間である。
 
「クソ」のような元首を「クソ」のようにおちゃらかした「クソ」のような映画を公開することが、民主主義の自由の象徴だと謳歌するような連中も「クソ」だとずっと真面目に私は思っている。
 
しかし、こう書くと、私がフランス在住の人間なら――テロリストを擁護したことになる――これは恐るべきことではないか?――そいういう世界こそが「クソ」以外の何者でもないことは最早、言を俟たないと私は声を大にして言いたい。
 
――「何かが」恐ろしくおぞましく最下劣に間違って「クソ」である――ことは最早――明明白白である――
 
どうぞ――幾らでも私を逮捕して戴きたい――

耳嚢 巻之九 猫忠死の事 ――真正現代語大阪弁訳版!――

既に僕は「耳嚢 巻之九 猫忠死の事」を疑似的な大阪弁で公開しているのだが、僕自身がネイティヴな大阪弁を知る人間でないことが気になっていた。
本日只今、僕の教え子で、僕の山(山岳部)の女房役であった「むすぶん」君が、僕の貧相な現代語訳を、非常に緻密な検証の下、素晴らしい真正大阪弁訳にインスパイアしてくれた。

以下に、一切の修正を加えず、彼の附記もそのままに、原文を添えて示したい。

これが大阪弁やで!

むすぶん――ありがとう!

 

 猫忠死の事

 

 安永天明の頃なる由、大阪農人(のうにん)橋に河内屋(かはちや)惣兵衞と云へる町人ありしが、壹人の娘容儀も宜(よろしく)、父母の寵愛大方ならず。然るに惣兵衞方に年久敷(ひさしく)飼置(かひおけ)る猫あり、ぶち猫の由、彼(かの)娘も寵愛はなしぬれど、右の娘につきまとひ片時も不立離(たちはなれず)、定住座臥、厠(かはや)の行來(ゆきき)等も附(つき)まとふ故、後々は彼娘は猫見入(みいり)けるなりと近邊にも申成(まうしな)し、緣組等世話いたし候ても、猫の見入し娘なりとて斷るも多かりければ、兩親も物憂(ものうき)事に思ひ、暫く放れ候場所へ追放(おひはな)しても間もなく立歸(たちかへ)りけるゆゑ、猫はおそろしきものなり、殊に親代より數年飼置けるものなれど、打殺(うちころ)し捨(すつ)るにしかじと内談極(ないだんきはめ)ければ、彼猫行衞なくなりしゆゑ、さればこそと、皆家祈禱其外魔よけ札(ふだ)等を貰ひいと愼みけるに、或夜惣兵衞の夢に彼猫枕元に來りてうづくまり居(をり)けるゆゑ、爾(なんぢ)はなにゆゑ身を退(しりぞき)、又來りけるやと尋(たづね)ければ、猫のいわく、我等娘子を見入たるとて殺(ころさ)れんと有事(あること)故、身を隱し候、よく考へても見給へ、我等此家先代より養はれて凡(およそ)四拾年程厚恩を蒙りたるに、何ぞ主人の爲(ため)あしき事をなすべきや、我(われ)娘子の側を放れざるは、此家に年を經し妖鼠(ようそ)あり、彼娘子を見入(みいり)て近付(ちかづ)んとする故、我等防(ふせぎ)のために聊(いささか)も不放(はなれず)、附守(つきまも)るなり、勿論鼠を可制(せいすべき)は猫の當前(たうぜん)ながら、中々右鼠、我(われ)壹人の制(せい)に及びがたし、通途(つうと)の猫は二三疋にても制する事なりがたし、爰に一つの法あり、島(しま)の内口(うちぐち)河内屋市兵衞方に虎猫壹疋有(あり)、是を借りて我と倶に制せば事なるべしと申(まうし)て、行方不知(ゆくえしれず)なりぬ。妻なる者も同じ夢見しと夫婦かたり合(あひ)て驚きけれども、夢を强(しい)て可用(もちふべき)にもあらず迚、其日はくれぬるに、其夜又々彼猫來りて、疑ひ給ふ事なかれ、彼猫さへかり給はゞ災(わざはひ)のぞくべしと語ると見しゆゑ、彼(かの)島の内へ至り、料理茶屋躰(てい)の市兵衞方へ立寄(たちより)見しに、庭の邊(へん)椽頰(えんばな)に拔群の虎猫ありけるゆゑ、亭主に逢(あつ)て密(ひそか)に口留(くちどめ)して右の事物語りければ、右猫は年久敷(ひさしく)飼(かひ)しが、一物(いちもつ)なるや其事は不知(しらず)、せちに需(もと)めければ承知にて貸しけるゆゑ、あけの日右猫をとりに遣しけるが、彼れもぶち猫より通じありしや、いなまずして來りければ、色々馳走(ちそう)などなしけるに、かのぶちねこもいづちより歸りて虎猫と寄合(よりあひ)たる樣子、人間の友達咄合(はなしあふ)がごとし。扨その夜、又々亭主夫婦が夢に彼ぶち猫來り申(まうし)けるは、明後日彼鼠を可制(せいすべし)、日暮(くる)れば我等と虎ねこを二階へ上げ給へと約しけるゆゑ、其意に任せ翌々日は兩猫に馳走の食を與へ、扨夜に入(いり)二階へ上置(あげおき)しに、夜四ツ頃にも有之(これある)べくや、二階の騷動すさまじく暫しが間は震動などする如くなりしが、九ツにも至るころ少し靜(しづま)りけるゆゑ、誰彼(たれか)れと論じて、亭主先に立ちあがりしに、猫にもまさる大鼠ののどぶへへ、ぶち猫喰ひ付たりしが、鼠に腦をかき破られ、鼠と俱に死しぬ。彼(かの)島の内のとら猫も鼠の脊にまさりけるが、氣力つかれたるや應(まさ)に死に至らんとせしを、色々療治して虎猫は助りけるゆゑ、厚く禮を述(のべ)て市兵衞方に歸しぬ。ぶち猫は其忠心を感じて厚く葬(とむらひ)て、一基(いつき)の主となしぬと、在番中聞しと、大御番勤(おほごばんづとめ)し某(なにがし)物語りぬ。 

 

■やぶちゃんの不十分現代語訳を補正せる「むすぶん」現代大阪弁訳


 猫忠死の事

 

 安永天明の頃やった、とか。
 大坂農人橋に、河内屋惣兵衛ちゅう町人がいはったんやけど、ここの一人娘がえろぅ器量よしやったさかい、お父うおっ母あの可愛がりようは、もう一方ならんかったそうや。
 けど、惣兵衛の家には、こらまた年しゅう飼うてはった猫がおって――ぶち猫やったっちゅうこっちゃ――その娘さんもこの猫をよう可愛がったはってん。
 けど、この猫、度が過ぎとったんや。その娘子につきまとうて、つきまとうて、これがまあ、かた時も離れへんっちゅうこっちゃ。常住座臥……なんやな……そのぉ……へへっ……厠の行き来なんかにも、つきっぱなしのまといっぱなし、ちゅうわけや。
 そんなこんなやったから、のちのちには、
「……河内屋はんとこの、あのごりょうはん、なんや猫に魅入られとるっちゅう、もっぱらの噂やでぇ……」
と、近隣どころか、大坂中、もうえらい知れ渡ってしもた。そうなったら、こらもう、美人やいうて、これ縁談の世話なんか焼いても、
「……そやかて……あのごりょうはん、これ、猫に魅入られたっちゅう、評判の――猫娘――だっしゃろぅ?!」
と、どこもかしこも、けんもほろろに断って参ったによって、流石に、そのふた親も、えろぅ、もの憂いことになったっちゅう訳や。
 時に、しばらくの間、お店から遠く離れた所へ、追っ放してみても、これ、ふふっと気ぃついたら、立ち返って、娘のお膝へ、ちんまり座っとる。
「……猫っちゅうもんは恐ろしいもんや。……とりわけ、親の代より可愛がって、数年この方飼うてる猫やけど。……しゃあないわ。……打ち殺して捨てるしかおまへんやろなぁ……」
と内々に相談しはって、これ、極まったはってんて。
 けど、そう話し合うた翌朝のこと――その猫――どっか行方知れずになってもうて、
「……やっぱそうやったんかい!」
と、家を挙げて、祈禱師を呼んで猫調伏を祈るやら、その他もろもろ、化け猫魔よけのお札なんかぎょうさん貰うてからに、そこらじゅうに、これ、べたべた、べたべた、貼りに貼っては、家内の者、皆して精進潔斎、慎んだはったっちゅうことや。
 ところが、それからほどない、ある夜のことやった。
……惣兵衛の夢に…何と…あの猫が出たんや!……
……枕元に来おって、これがまた、じぃーっとうずくまってな……恨めしそうな眼ぇで……惣兵衛のことを……これまた……じぃーっと……見つめとったそうや……

 

 それで惣兵衛は、
「……あ、あんたは!……な、なんで、身ぃ隠しとったくせに、……こ、こないにまた……も、戻ってきたんや?……」
って質いたら、…猫が…人の声で…答えたんやて!……
その言うことには、
「……わては……ごりょうはんを魅入ったからいうて……殺されるっちゅうこと……聞き及びましたよって……身ぃ隠しとりましたんや……よう考えてもみなはれ……わては……
この家のご先祖様より養われて……まず……凡そ四十年ほども厚い恩を蒙ってきましたからに……どうして……どうしてご主人様のために……そないな恐ろしいことしますのん?わてがごりょうはんのそばを離れへんかったんは……実に……この家に年取ってる妖鼠がおって……そいつこそが……かのごりょうはんに魅入って……これ……近づこうとしとったからなんですわ。せやからこそ……わては……その防ぎのために……いささかも……ごりょうはんのそばを離れんと……ついて守ろうとしとったんですわ。……勿論……鼠を制するんは……これ……猫にとっては当たり前のことやとはいえ……なかなか……あのけったいな鼠……これ……わて一人の身では……制することはできませんで……そんじょそこらの猫やったら……とてものこと……二匹三匹でも……これ……制すんのは……難しい物の怪……
 せやけど……ここに一つ方法が……ございます。……島の内口に……ご主人さまと同じ屋号の河内屋市兵衛ていう人がいはるんです……そのお方のとこに……虎猫が一匹……おるんです。一つ……これを借り受けて……わてとともに、あのけったいな鼠を制したってなったら……ことは……これ……確かに……成就間違い……ございません……」
と、申したかと思うたら……ふっと……影も形も見えんようになった――と――眼ぇが醒めた。
 せやけど、眼ぇ醒めてたら、隣の嫁はんも、こらまた、蒼い顔して、起きとった。
 惣兵衛、
「……実は……今……こないなけったいな夢を……見たんや……」
って言うたら、その嫁はんも唇震わせながら、
「……わ、わても、そ、それとおんなじ夢を、見ました!……」
と身体をわななかせて言いよったから、夫婦揃うて、ひしと抱きおうたそうや。
 せやけど、
「……たかが、夢を……これ、強いてやるっちゅうことも……何やしのぅ……」
と、何もせんと、その日は暮れたんや。
 ところがや……
その日の夜……またまた……あの猫が……二人の夢に現れたんや!ほんで、
「……疑わんといて下さい……あの猫さえ借りてくれはったら…お主さまの……この災い……きっと……除いて……見せますから!」
って言うたそうや。
 せやから、翌朝になんのを待って、惣兵衛は、あの申し状の通り、島の内へ行って、料理茶屋風の河内屋市兵衛っていう人がやってるお店の方へ立ち寄って、それとなぁ、店内を見てみたら、その内庭のあたり、縁端のとこにこれ、一目見て――これや!――って思う、まあ、実にまるまるとした剛毅な虎猫が、陽だまりにうずくまっとったから、惣兵衛が亭主に声掛けして、直々に逢うて、密かに口止めを申し述べた上、この顛末の仔細、これ物語ったところ、
「……いや……この猫は年久しゅう飼うてはおります。……せやけど、そのように傑物なんかどうか……まんず、よう分かりまへんなぁ。……せやけど、まあ、切にお求めやっちゅうんやったら……」
とて、承知の由、言質を受けたことによって、その場で貸しもろうことを約束して、別れはった。
 明けの日、下男に、その虎猫を借り受けに遣わしたら、その虎猫も――信じられへんことやけど、あのぶち猫より通じ取ったかのごとく――嫌がる様子ものうて、素直に下男の懐にちんまりと収まって、惣兵衛の家へ参上したんやて。
 そんで、その虎猫にいろいろご馳走とか遣わしとったところ……あの……行方知れずやったぶち猫が……これ……どっからともなく、ひょいと惣兵衛の店へ戻ってきて……この虎猫と寄り添うて、
「……ゴロコロ……ニャア! ゴロ……ゴロ! ニャアニャア……」
って、互いに、しきりに喉を鳴らし合うとる。その様子は、これ、あたかも人間の友だち同士が話し合うてるような塩梅やった。
 そんで、その夜のこと、またまた惣兵衛夫婦の夢に、あのぶち猫がやってきて言うには、
「……明後日……あの鼠を成敗致そうと存じます……日が暮れたら……わてと虎猫殿を……これ……二階へ上げ置いて下さいませ……」
と、きっと約束しはったそうや。
 せやったら、その意に任せ、翌々日、二匹の猫に、これ、相応のご馳走の膳を供した上で、そのうち夜になって、お店の二階へ上げといた。
 夜も既に四ツ時かと思う頃のこと、
ドンガラ! ガッシャン! ド! ドッツ! ドッスン!
フンギャア! ヒイイーッツ!
――と!――二階の騒動!――これ、まあ!――すさまじく!――しばらくの間は、お店全体が地震のごとく、ビリビリ顫えとった……
 九ツにも至らんとする頃愛、少し静まってきたから、
「……た、誰か!……」
「……い、いや!……お前が!……」
なんどと家内の皆々が、言い合いになったから、
「……わ……わてが、参りまひょ!……」
と、亭主惣兵衛自ら、先に立って二階へと上がってみた。
……と……
……猫にも勝る大鼠の……
……その喉笛へ……
……あのぶち猫……
……食らいついとったけど……
……鼠にその脳みそを掻き破られて……
……大鼠ともに……
……既に事切れとった……
 ほんで、あの島の内の虎猫も、これ、鼠の背ぇにはるかに勝る大猫やったけど、気力も何も、使い尽くしたんか、まさに瀕死の身体になっとったけど、この虎猫の方は、いろいろと治療を尽くして、命を救うことができたそうや。
 せやから、惣兵衛は、虎猫が十分元気になったところで、あの島の内の市兵衛方へ、厚く例を述べて、虎猫殿を返さはったそうや。
 ――ぶち猫は――これ――その河内屋への忠心に感じ――厚く葬いをも成して――一基の墓も建立しはったそうや。
 以上、「在番中に聞いたことでっせ」って、大御番を勤めたはった某殿が、私に直接、物語ってくれはった話や。

 

<むすぶん注> 
①.大阪弁だと、「捨てる」の意で「ほかす」という言葉も使いますが、「ほかす」は主に物やごみに対して使うため、ここではあえて「捨てる」という表現のままにしています。
②.「けったい」は、「不思議なさま、奇妙なさま」を示す関西の方言です。ただし、「よう分からん、得体が知れない」というニュアンスを含んでいるため、ネガティブな意味で使われることがほとんどです。
<解釈>
1.いろいろ迷いながらも、原作の雰囲気を極力壊さない程度に口語訳にしました。
2.語り手から聞き手への敬意に関しては、「ございます」といった敬意表現を抜いて、語り手から聞き手に読み聞かせるようなものにしてあります。
3.語り手から猫に対しては、動物に対して言及しているので敬語表現を抜いてあります。
4.今回のお話は町人が主人公のお話なので、町人である惣兵衛や市兵衛に対する敬語表現は、「はる」言葉を多用しています。
(例:「行かはる」「見たはる」「したはる」「言うたはる」など)
 私自身、「はる」言葉は、「標準語の敬語を使うほどではないが、全く敬語がないのもどこか落ち着かない」という場合に使うことが多いです。そうした絶妙な敬意を表現するのに便利なので、主に気心が知れた先輩や同級生・近所の人・著名人や後輩など、あらゆる人に対して「はる」言葉を使っています。先生や上司といった目上の人のときも、当人がいない場で話題に出す場合は「はる」言葉を使っています。
 今回の例でいうと、惣兵衛の娘さんに対しては、別に敬語を使わなくてもいいところですが、「はる」言葉を使うことで、娘さんに対しても少しばかりの敬意を込めることができ、また表現も柔らかくなる効果があります。
 ただし、関西人どうしの会話ですと、お偉いさんに対しても「はる」言葉を使うこともあるようです。
<参考文献>
旺文社編 国語辞典 第八版
<参考URL>
大阪弁完全マスター講座



これで、僕の「耳嚢」は素晴らしくブラッシュ・アップされたのであった――

だいじなことは……なんやな……わてのひねこびてもうた、この、ひこばえを……わての若い教え子が……ただしてくれることやったんやなぁ……

耳嚢 巻之九 奇頭の事

 奇頭の事

 

 文化六巳年、山本某語りけるは、五年以前丑年四月中、松本領中房川、大雨にて崩れけるにひとつのしやれかふべ出けるを、信州山家組荒井村安左衞門所持せるよしにて、東都へ持來(もちきた)りけるを山本見たりとて、其形をも妻にかき見せける。

 

Toukotu_2

 

  按ズルニ蛇頭ナラン、又曰(いはく)

  狒猅(ひひ)の類(たぐ)ヒナランカ、

  何レモ其説不詳(つまびらかならず)。

 

 同年同役、北廰へ市中より右に類(るい)し候大頭(だいとう)もち參り候由。然る處、右は下腮(したあご)もありて齒は魚(うを)のはのごとし。うたがふらくは、拵(こしら)へしものならんかと、土州(どしふ)物語なりし故、同物ならんかと考へしが、一方は下腮なし、其外同物とも不相聞(あひきこえず)候。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:よきライバル北町奉行小田切直年の共通ソースで連関。二つ前の山本某でもソース連関。奇物遺骸譚、未確認生物シリーズの一つである。

なお、図のキャプションを右から順活字化し、以下に数値を換算しったものを《 》で示しておく。

   髙七寸六分

《上顎歯列下端から残存する頭部上端までの高さ:二十三センチメートル》

           歯九枚

           眼穴一寸一分
《眼窩の平均的直径:三十三センチメートル》

     此ワタリ二尺二寸五分
《左右顴骨間の長さ:六十八・二センチメートル》
 

 なお、底本の鈴木氏注には、『三村翁注に曰く「予が姻戚大野氏、もと高砂町にて美濃利といふ質屋なりしか、九鬼家より質にとりしと伝ふる、鬼の干物あり。打見たる所、十歳位の童子程にて蹲踞せり、頭に短き角二ツあり其色猪牙の如し、髪は薄く銀色したる白髪にて、前は几たり、指は手足とも五指あり、眼円にして鼻低く、牙は獣の様なりしと覚えし、大学へも見せたれど、拵物なるべしとの事なりし由、これ癸亥の震災にて亡びし。」』と記す。「几たり」は「きたり」と読むか。肘を机についているような感じに折り曲げているということか。「癸亥の震災」の「癸亥」(みずのとい)は大正一二(一九二三)年で関東大震災のこと。

・「文化六巳年」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年己巳(つちのとみ)の夏。

・「山本某」本巻での特異点の情報屋。「予が親友山本某」(「吐血を留る奇法の事」)と記すほどの親密な仲でもある。

・「五年以前丑年」文化二(一八〇五)年乙丑(きのとうし)。年齢の数えと同じくその年も含めて数えるから、五年前でおかしくない。

・「松本領中房川」底本の鈴木氏注に、『中房は長野県南安曇郡穂高町有明。有明温泉の所在地』とある。信濃松本藩六万石。当時は第七代藩主・戸田松平家第十二代の松平光年(みつつら)。中房川は長野県安曇野市穂高有明を流れる川で長野県安曇野市北西の異形の峰、燕岳に源を発し、中房温泉を通って安曇野市穂高有明で乳川と合流、ここから穂高川と名を変えて南流、その後、犀川(梓川の下流)に合流、それがまた千曲川と合う。これらの場所は皆、私が山に登っていた頃の、如何にも懐かしい地名ばかりである。

・「信州山家組荒井村」底本の鈴木氏注に、長野県『松本市荒井。山家(ヤマンべ)郷は和名抄に筑摩郡山家郷とある』と記すが、岩波版長谷川氏注では、長野県『茅野市宮川新井か。山家は山鹿で山鹿郷即ち茅野市辺をいうか』と異なる。私は地理的には鈴木氏の説の方が自然な気がする。有明から、鈴木氏の荒井なら十五キロメートルほどしか離れていないが、長谷川氏の示す茅野の新井では四十六キロメートル以上離れてしまうからである。

・「蛇頭」大型個体の蛇、蟒蛇(うわばみ)の損壊した頭部という謂いであろうが、上顎の歯列の形状が蛇のものではない。

・「狒猅」狒狒。これは現在の実在するサル目オナガザル科ヒヒ属 Papio に属する哺乳類の総称名ではないことに注意。無論、実在する異国に住む猿の一種という耳学問のニュアンスも既に多少は混入している可能性もあるが、これは寧ろ、本邦固有種のオナガザル科オナガザル亜科マカク属ニホンザル Macaca fuscata の大型の老成個体及びそこから夢想された妖怪・幻獣としての「狒々(ひひ)」である。以下、ウィキの「狒々」より引いておく。『山中に棲んでおり、怪力を有し、よく人間の女性を攫うとされる』。『柳田國男の著書『妖怪談義』によると、狒々は獰猛だが、人間を見ると大笑いし、唇が捲れて目まで覆ってしまう。そこで、狒々を笑わせて、唇が目を覆ったときに、唇の上から額を錐で突き刺せば、捕らえることができるとい』い、『狒々の名はこの笑い声が由来といわれる』。また同書では、天和三(一六八三)年に越後国(現在の新潟県)、正徳四(一七一四)年には伊豆で狒々が実際に捕らえられたとあり、前者は体長四尺八寸(一・四五メートル)、後者は七尺八寸(二・三六メートル)あったという。『北アルプスの黒部谷に伝わる話では、伊折りの源助という荒っぽい杣頭(樵の親方)がおり、素手で猿や狸を打ち殺し、山刀一つで熊と格闘する剛の者であったという。あるとき源助が井戸菊の谷を伐採しようと入ったとき、風雲が巻き起こり人が飛ばされてしまい、谷へ入れないので離れようとした途端、同行の樵が物の怪に取り憑かれて気を失い、狒狒のような怪獣が樵を宙に引き上げ引き裂き殺したという。源助も血まみれになり、狒狒は夜明け近くになりやっと立ち去ったという。この話では狒狒は風雲を起こしてその中を飛び回り、人を投げたり引き裂く妖怪とされる』。『もとは中国の妖怪であり、江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には西南夷(中国西南部)に棲息するとして、『本草綱目』からの引用で、身長は大型のもので一丈(約3メートル)あまり、体は黒い毛で覆われ、人を襲って食べるとある。また、人の言葉を話し、人の生死を予知することもできるともいう。長い髪はかつらの原料になるともいう。実際には『本草綱目』のものはゴリラやチンパンジーを指すものであり、当時の日本にはこれらの類人猿は存在しなかったことから、異常に発育したサル類に『本草綱目』の記述を当てはめたもの、とする説がある』。『知能も高く、人と会話でき、覚のように人の心を読み取るともいう。血は緋色の染料となるといい、この血で着物を染めると退色することがないという。また、人がこの血を飲むと、鬼を見る能力を得るともいう』。『山童と混同されることもあるが、これは「山で笑うもの」であることから「山ワラハ」が「山童」(やまわろ)に転じたとの説がある』。『岩見重太郎が退治した怪物としても知られ』、『人身御供を要求して人間の女性を食べる』邪悪な『妖怪・猿神と同一視されることもある』。また、『エドワード・S・モースが、東京の大森貝塚を発見した際に大きなサルのような骨を見つけ、日本の古い記録に大型のサルを記したものがあるか調査したところ、狒々の伝承に行き当たり、この骨を狒々の骨かもしれないと結論づけている』とある。モース先生! 遂に私の「耳嚢」の注にも登場しましたよん!

・「北廰」北町奉行所。根岸は南町奉行。

・「土州」北町奉行小田切土佐守直年。前条の私の注を参照のこと。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇(く)しき頭骨の事

 

 まず。

文化六年巳年のこと、山本某(ぼう)の語って御座ったこと。

 

――五年以前の文化二年丑年の四月中、松本藩御領内の中房川が、大雨によって川岸が大きく崩れ、そこから、一個の奇体なしゃれこうべれが出土した。

 これは現在、信州山家組荒井村在の安左衛門なる人物が所持しているとのことで、それが借り受けられ、東都へと持参されたものを、山本自身が実見検分したとのことで、その形について、それを描いたものを作成し、妻にも概略を描いて見せた、とのことであった。

 以下、山本が持参した絵と、そこに附された文章を写しおくこととする。

   ――――――

Toukotu_3

(附記)

 按ずるに、これは所謂、妖しき蛇の変じた「蟒蛇(うわばみ)」の、その「蛇頭(じゃとう)」ででもあろうか? いや、はたまた、別な、山の妖怪として知られる「狒々(ひひ)」の類(たぐ)いでも、これ、あろうか? 何れの説も、よく、この頭骨を説明しているとは言えず、この謎のしゃれこうべについては詳細は不分明である。(山本文責)

   ――――――

 さて同じ年のこと、私と同職の北町奉行所へ、市中より――この山本が私に見せ呉れたものに非常によくにておるところの――大きな生物の頭骨が持ち込まれたという。

 但し、こちらは下顎(したあご)もあって、その歯の形状は魚(うお)の歯のようにギザギザとしている、という。

「……如何にも胡散臭い代物なれば、拙者は誰かが人為的に拵えたものではないかと疑っている。」

と、同役たる北町奉行小田切土佐守直年(なおとし)殿の物語で御座ったによって、この山本が私に報告したものと、これは、同一の物体ではないか? とも考えたのであるが、ただ……

――一方は下顎がなく……

――あるとする、こちらの方の歯の形状というのも、山本のそれとは、微妙に異なるように感じられ……

その他の情報では、その後に

――同一物であるとも……

――全く異なる物であるとも……

さらには……

――それが如何なる生物の頭骨であるかということも……

一向、耳に入っては来ない。

 さればやはり、このしゃれこうべ――捏造品――ででもあったものか?

耳嚢 巻之九 痘瘡咽に多く生し時呪の事

 痘瘡咽に多く生し時呪の事

 

 痘瘡咽(のど)に多く生じぬれば、小兒乳を飮(のみ)、又は食事等に難儀をなすとき、字津(うつ)の屋の十團子に を黑燒にして用(もちふ)れば、奇妙に食乳(しよくにゆう)を通ずと、小田切かたりけるなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:民間伝承記録で連関。民間療法・呪(まじな)いシリーズ。

・「疱瘡」天然痘。既注

・「字津の屋の十團子」「駿河の字津谷峠の茶店で売っていた名物団子。一串に小粒の団子十箇をさしてあった』とあり、岩波版の長谷川氏注には、『静岡県宇津ノ谷。東海道の岡部宿と丸子宿の間に位置し、豆粒ほどの団子を麻糸で十づつ貫いた十団子が名物』とある。宇津ノ谷(うつのや)峠は静岡県静岡市駿河区宇津ノ谷と藤枝市岡部町岡部坂下の境にある峠で、中世以来の東海道の要衝として和歌にも詠まれ、現在も国道一号線が通る。標高は百七十メートル。しかし大事なのは、これは食べるものではなく、お守りであるという点である。その辺を二人の注釈は落している。分かり切ったことだったからなのか? しかしその結果として、全く「十団子」を知らない人間がこれを読んで注を見ても、「これって? 根岸のタイアップ広告?」などと勘違いをしてしまうことにもなるのである(事実、かつて初読時、私はまさにそう思って、いやな印象をずっと持っていた)。グラフィック・デザイナー溝口政子氏のサイト「le studio」の「宇津ノ谷の十団子」が画像も豊富で、独特の団子の形状――これが食べるものではなくお守りであること――もよく分かる。しかし今度は、何故、この団子にこの小児の天然痘のこの咽喉に特化した箇所に呪いとしての治療効果があるのかが気になってくる。そこでこの「十団子」のお守りの由来を調べて見たところ、非常に興味深い事実が分かってきたのである。それは実は、頑是ない童子が食人鬼と化したという、如何にも私好みの哀しい怪異譚が元だからである。その伝承は「藤枝市郷土博物館・文学館」公式サイト内の食人鬼供養の十団子に詳しくその文章も相応に長いであるが、それ自体が『岡部のむかし話」(平成10年・旧岡部町教育委員会発行)より転載』とあり、私としてはどうしても引く必要性を感じさせるものでもあり、以下に例外的に全文を引用させて戴く。

   《引用開始》

いつ頃のことだったのか宇津ノ谷峠の北側に深い谷があり、その下に梅林院というお寺があった。そこの住職は原因不明の難病にかかり、その痛みがとてもがまんできず、仕方なしに時々小僧にその血膿(ちうみ)を吸い出してもらっていた。血膿を吸ってもらうとしばらくは痛みも止まったのである。

ところがこの小僧、血膿を吸うことが重なって自然に人肉の味を覚えてしまい、ついに人を食べる鬼となってしまった。そうしてこの峠を住居として住み、峠を行き来する旅人を捕えてたべたりして困らせた。そのためにこの峠はおそれられて人が通らなくなり、宿場もさびれてしまった。どのくらい年代が過ぎた時のことだろうか、京都の在原業平(ありはらのなりひら)が時の天皇の命令で東国(とうごく)へ出かけ、この峠(蔦の細道)へさしかかるにあたって地蔵菩薩に祈願をした。

「今駿河の宇津ノ谷に峠に鬼神がいて村人たちを悩まし、通路も絶えてしまった。どうか、菩薩の神通力(じんつうりき)で村人の苦難を救って欲しい。」すると菩薩は旅の僧となってたちまち消えた。

それからしばらくたって一人の旅の僧が宇津ノ谷峠にさしかかった。その僧の前にかわいらしい子供があらわれたので、僧はこのただならぬ子供をじっと見つめた。そうして子供に話しかけたら、子供は

「私は祥白童子(しょうはくどうじ)というものです。あなたこそこの夕方どこにお出かけですか」

と。僧はすかさず、

「お前は、祥白童子などとはまっかなうそ、この村人や通行の旅人を食(く)い殺す鬼だろう。わしはお前を迷いから救うためにやってきたのだ。早く正体をあらわせ」

と大声でさけんだ。

怒りをふくんだ僧の一声は静かな山々にこだました。この一声に子供の姿は消えて、見るもおそろしい六メートルあまりの大鬼が目を光らし、今にもとびかからんばかりだった。僧は少しもあわてずに言った。

「なる程お前は神通力(じんつうりき)が自由自在だな。わしはもうお前にたべられてもしかたがない。しかし、死出(しで)の土産(みやげ)にお前のその力をもっと見せてくれないか」

鬼は得意になっていろいろな形に身をかえてみせた。僧はまた話しかけた。

「思い切り小さくなってわしの手の平の上に乗ることができるか」

得意になって鬼は一粒の小さい玉となって僧の手のひらに乗った。この時僧は持っていた杖で、手の平の玉を打った。すると不思議なことに空が急にくもり百雷が一時に落ちるような音がしたかと思うと、玉はくだけて十個の粒となった。

僧は、

「お前が将来里人を困らせることがないように迷いから救ってやろう」

と、一口にのみこんでしまった。

その後、この峠には鬼の姿があらわれなくなった。村人はもちろん旅人も大助かりをしたのである。

旅の僧が誰であったかは村人は知らない。ここのお地蔵様だろうと、お地蔵様の参けいはより盛んになった。

また、十の団子にわれた鬼のたたりを心配した村人は、玉を型どった十個の小さい団子を作って供養した。この供養は先の地蔵菩薩が夢の中のお告げで

「十団子を作ってわしに供え、固く信心してこれを食べれば旅も安全。願いごともうまくはかどる」

といったということからだという。

梅林院はいま桂島の谷川(やかわ)に移されて、院号も谷川山梅林院と言われ、十団子の伝えを残して居り、十団子は宇津ノ谷の慶竜寺のほうでつくっている。

   《引用終了》

ここで大事なことは二つ。一つは、この痘瘡神にダブる悪鬼がカニバリズムに陥って変じた童子であること。今一つは、地蔵菩薩の変じた僧が、その元童子の悪鬼を小さな粒のような団子(これは痘瘡の膿疱にすこぶる形状が似る対象物である点で類感的呪物であると考えてよかろう)に変えた上、呑み込む(咽喉と直連関)ことによって、迷妄が解けて悪鬼は消え去ってやすらかに往生する(治癒のイメージ)というシンボライズの重層性である。少なくとも私はここまで調べて初めて、「十団子」がここで呪物(まじもの)として登場し、相応の効果を持つということに、心底、納得出来たのである。だからこそ、私としても先の異例の全文引用が必要だったのだと御理解戴きたいのである。

・「 を黑燒にして」底本は二字分の空白で、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも空白(長谷川氏は三、四字分と注されておられる)である。総ての伝本がここを空白とすることはかなり不審である。不審の背後に特に何かを感じているという訳ではないが、やっぱり不審である。これは単に後で書こうとして忘れたといった感じではない。そもそもが、この黒焼きにした添加物だけを忘れるというのもおかしな話だと私は思うのである。実は確信犯で根岸は書かなかったのではないか? それは実は文字にはし難い、破廉恥なものだったのではないか? しかも当時、読む人の多くは「あれか!」と大方、分かったのではないか? だから空欄でも十分に意が伝わる記載だったのではないか?……などと関係妄想的に考えが広がってしまう……つまらないことが気になる……僕の、悪い癖――である。何か、お気づきの方は是非、御教授戴きたいものである。

・「小田切」「耳嚢 巻之四 怪刀の事 その二」及び「耳嚢 巻之五 蘇生の人の事」に登場する北町奉行小田切直年。リンク先の私の注を参照されたいが、この根岸の呼び捨てが、寧ろ逆に、根岸にとって彼がよきライバルにして知音でもあったことを伝えるように私には思われる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 痘瘡(とうそう)にて膿疱(のうほう)の咽喉(のど)に多く発症したる際の呪(まじな)いの事

 

 痘瘡に罹患し、咽喉(のんど)の内側に膿疱(のうほう)が、これ、多く生ずると、小児は乳を飲んだり、食を摂ったりすること、これ、はなはだ困難となって、そのために滋養を摂ることの出来ずなって、衰弱し、死に至る虞れの増すこと、これ、ままある。

 このような折りには、知られた駿河は字津(うづ)の屋の例の「十(とを)団子」御守りに、×××を黒焼きにして、併せて服用さすれば、これ驚くばかりに食事や授乳、これ、進むように、なる――

とは、これ、盟友小田切の語っておったことで御座る。

耳嚢 巻之九 毒氣物にふれて增長の事

 毒氣物にふれて增長の事
 夏秋は諸蟲多く、ゲジゲジといへる毒らしき物ながら、人家道に徘徊し強て是にふれて毒ありといふ程の事もなし。しかるに右蟲眞鍮にふれぬれば、毒氣を增す事甚だし。或人眞鍮のきせるを側に置(おき)しが、其上を右の蟲はい渡りける故追退(おひのけ)しが、彼(かの)人自若として多葉粉を右きせるを以(もつ)て飮(のみ)けるに、血を吐(はき)しを見しと、横田翁かたりし。心得置くべき事なり。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。民間伝承毒物篇。ゲジゲジの迷信として知られたものとしては、「ゲジゲジに頭を舐められ(這われる)と禿げる」というのがある。あの簡単に自切脱落(しかも動いている気味悪さ!)する歩脚の類感呪術であろうが、それにしても、この場合は何故、真鍮なのであろう? 私は、これはムカデが金などの鉱石を採集する技術者集団及びそうした地価の鉱物の鉱脈と関連付けられて語られる伝承をスライドさせたものではなかろうかと疑っている。蜈蚣(むかで)の本物の「金」に対する、蚰蜒(げじ)のまがい物の金色の「真鍮」である。なお、調べてみると、韓国ではゲジゲジのことを「トンポルレ(돈벌레)」と呼び(「トン(돈)」は「金」、「ポルレ(벌레)」は虫)、これ(以下に示す小型種のゲジ属ゲジ Thereuonema tuberculate 若しくはその近縁種であろう)が家にいると「ブジャ(부자)」(漢語「豊者」から。「金持ち」の意)になれるとして、喜ばれるという記載がネット上にはある。この招福「益虫」説の方が、蜘蛛とかダニを食うからなんどという、まことしやかな科学的「益虫」説より、私は何か腑に落ちるタイプの人間である。大方のご批判を俟つ。
・「ゲジゲジ」節足動物門多足亜門唇脚(ムカデ)綱ゲジ目 Scutigeromorpha の属する多足類。ウィキの「ゲジ」より引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『伝統的にはゲジゲジと呼ばれるが、「ゲジ」が現在の標準和名である。天狗星にちなむ下食時がゲジゲジと訛ったとか、動きが素早いことから「験者(げんじゃ)」が訛って「ゲジ」となったという語源説がある』。『構造的にはムカデと共通する部分が多いが、足や触角が長く、体は比較的短いので、見かけは随分異なっている。移動する際もムカデのように体をくねらせず、滑るように移動する。胴体は外見上は八節に見えるが、解剖学的には十六節あり、歩肢の数は十五対である。触角も歩脚も細長く、体長を優に超える。特に歩脚の先端の節が笞のように伸びる。この長い歩肢と複眼や背面の大きな気門などにより徘徊生活に特化している。オオムカデ』類(Scolopendridae オオムカデ科)よりはイシムカデ類(Lithobiids イシムカデ科)に近いとある(ウィキの「イシムカデ」にも、ムカデ類の仲間であるが、多くの種が大きくても成体は三センチメートルを越える程度であり、その形態は小さなムカデに酷似するものの、体は有意に扁平で歩脚数は十五対(オオムカデ目では概ね二十一か二十三対)で、『最後の二対が特に長い。体が小さいのに比べ、触角が長い。ムカデとゲジの中間に属する種という見方もされており、形態はムカデ然としているが、触角と最後尾の脚が長いことに、体節の上限が』十五という点では『ゲジ類と共通している』。また、『イシムカデ目トゲイシムカデ科のゲジムカデ(Esastigmatobius)という属は、形態がイシムカデ属と類似しているものの、脚がイシムカデに比べて長く、イシムカデとゲジの中間といった姿をしている。また、どの種も繁殖方法や、脱皮して成長するところも、どちらかといえば、ムカデよりはゲジ類に近い』とある。以下、ゲジの解説に戻る)。『幼体は節や足の数が少なく、脱皮によって節や足を増やしながら成長し、二年で成熟する。寿命は五~六年』。『食性は肉食で、昆虫などを捕食する。ゴキブリなどの天敵である。走るのが速く、樹上での待ち伏せや、低空飛行してきた飛行中のガをジャンプして捕らえるほどの高い運動性を持つ。また他のムカデと異なり、昆虫と同じような一対の複眼に似た偽複眼を有し』、高い視覚性能を持つ。『鳥等の天敵に襲われると足を自切する。切れた足は暫く動くので、天敵が気を取られている間に本体は逃げる。切れた足は次の脱皮で再生する』。『夜行性で、落ち葉・石の下・土中など虫の多い屋外の物陰に生息する。屋内でも侵入生物の多い倉庫内などに住み着くことがある』。本邦には以下の二種が棲息する。
●ゲジ属ゲジ Thereuonema tuberculata
 成虫でも体長三センチメートル程度の小型種で、体は比較的柔軟で本体体節表面に灰色の斑を持つ。
●オオゲジ属オオゲジ Thereuopoda clunifera
 本体体節部の長さが七センチメートルにも達する大型種。足を広げていると大人の掌に収まりきらないほど大きい。本州南岸部以南に棲息。体は頑強で褐色や緑色を帯びて光沢を持つ。夜行性・暗所性で昼間は通常、洞穴の天井や物陰などに隠れている。なお、図鑑や危険動物を扱う諸本にはこれを益虫としつつ、〈無毒であるが大型個体に噛まれると痛い〉と記されてあるのをしばしば見かける。実は小さな頃から、山野・屋内を問わず、いろいろな機会にこの者にしばしば遭遇してきた私は(実見したものの中には体節長が十センチメートルになんなんとするものもいた)咬まれたことはなく、また咬まれたという人も知らない(臆病であり、凡そ元来が摑みたくない/摑めないタイプの虫であり、人がこれに咬まれる可能性というのは極めて低いと私は考えている。この謂い方は私は一種の都市伝説レベルではないかとさえ考えている。因みに私はムカデともよく遭遇し、その最大個体は鎌倉市岩瀬の自然保護地域で保存樹林の谷間に住んでいた折りに室内に侵入してきた唇脚綱オオムカデ目オオムカデ科オオムカデ属 Scolopendra subspinipes mutilans の個体で、全長が有に十五センチメートルを越えていた。かなり長い菜箸で摑んだが、巻き上がってきて、指を嚙まれそうになった。沸かした湯に入れて退治したが、この湯を捨てた際、それが少し掌に――触れた――ひっかかったのであるが、その――湯に触れた――部分は翌朝――かかった湯水の形のままに赤い炎症を発して、激しい掻痒感を覚えた――のであった。本文ではゲジゲジが触れることで毒性が強化されるとある訳だが、私はこの三十五年も前の戦慄の出来事を、今回、読みながら鮮やかに思い出していた。
・「横田翁」横田袋翁。頻出の根岸昵懇の情報屋。既注。
■やぶちゃん現代語訳
 微弱なはずの毒性が特定の対象物に接触すると恐るべき強毒化を示すという事
 夏・秋は諸々の虫の類いが、これ、すこぶる多く出ずる。
 中でも、ゲジゲジと申すは、奇体なるあの体つきからして、如何にも不気味で、さも毒の、これ、ありそうにも見える虫であるが、家内(いえうち)や道端に、こ奴の徘徊しおるに遭遇し、これに咬まれたり、或いは、触れたり致いたからというて、その毒に当たった、と申すようなことは、まずこれ、聴いたこともない。
 ところが――このゲジゲジと申す虫――ひとたび真鍮に触るると、これ、その微弱なはずの毒性が恐るべき強毒へと変ずることは、これ、想像を絶するものなのである。
 ある人、真鍮製の煙管(きせる)を自分の傍らに置いておいた。
 その上を――かのゲジゲジ虫が――吸い口から這い上って――煙管の上をすうっと渡って這っておるを見つけによって、それをぱっと払いのけた。
 ところが、その御仁、それからやおら、その煙管で煙草を吸い出したところが、
――グエーッツ!
と! 血を吐くを、これ、実際に見たことが御