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2015/01/27

明恵上人夢記 47

47

一、十一月、夢に云はく、二階の家有り。其の第二階に、種々(くさぐさ)、假(かり)の物有り。九品往生の圖を造ると云々。

[やぶちゃん注:「十一月」底本ではこの後の二条にはクレジットがない。しかも次の「48」の夢には何と、かの法然が登場し、しかもその次の「49」(これは全体を夢ではなく、実際の事実を記録した日記と読むことも出来るものであるが、ここでは敢えて夢として捉える)には、驚くべきことに、建暦二年十一月に明恵が撰述することになる、法然の「選択本願念仏集」(執筆自体は建久九(一一九八)年であるが、後に記す通り、明恵がそれを読んだのは法然死後の建暦二年九月と推定される)の論難書である「摧邪輪」の草稿ではなかろうかと思わせるような、『破邪見章』の文章を訪問僧や『上師』に見せるという、驚天動地の記述がある。なお、明恵がこの「選択本願念仏集」を実際に読んだのは実は、法然の死後、この建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによると思われる。即ち、その書き上げの短期性と、その法然に対する激烈な誹謗からも彼の「選択本願念仏集」という活字化されたそれが、明恵の激しい怒りを喚起するものであったことは分かる。しかし、としても、明恵が「選択本願念仏集」を読んでいなくても、また、法然と直接の関係はなくとも、法然の元に集う修行者やそこに出入りした修学僧らから、法然の行状・言動・思想は稀代の学才の人明恵ならばこそ当然、知尽しており、「選択本願念仏集」に現われることになる破戒的なその宗旨をも、それ以前から既にして情報として知っていたと考える方が自然であると私には思われる。

 さて話を戻して何故、これが驚天動地かと言えば、実はその「49夢」の後の「50夢」は別ソース乍ら

 建暦二(一二一二)年九月十九日

の夢記述から始まっているからである。無論、底本自体が編者によってばらばらになった訳の分からない十六篇を恣意的に継ぎ接ぎに過ぎないのだから、これを云々するのは馬鹿げているとも言えよう。しかしアカデミストでない、一介の偏奇な夢の好事家に過ぎない私は敢えてここでは、お目出度くも無批判に、この編者の編集が時系列でなされていると――読み進めたい――のである。そうした馬鹿を許してみると、実にこれは、この「48夢」は前の「47夢」の建永元(一二〇六)年十二月八日以降の「十一月」に見た夢ということになり、そうなると後の「50夢」との連続性から考えるならば、この「48夢」は、

 承元元・建永二(一二〇七)年

 承元二(一二〇八)年

 承元三(一二〇九)年

 承元四(一二一〇)年

 建暦元・承元五(一二一一)年

五年間の孰れかの「十一月」ということになる(無論、時系列に従わない書き方を明恵は実際に行ってはいる。がしかし、この建永元(一二〇六)年の「十一月」というのは、十一月二十七日に栂尾に参って住するようになった特別な月であり、見てきたように、「42」からこの「46」まではかなり小まめに詳述しているのである(但し、時系列を前後するものはある)。しかも、この「47」の「十一月」の頭には「同」がないのである。

 以上から、私は、

●「47」以下「48」「49」の三つの夢は承元元・建永二(一二〇七)年から建暦元・承元五(一二一一)年の間に記述された夢

と採りたいのである。

 而して、ではこの閉区間の中で、それを絞ることは不可能であろうか?

 ポイントは本「47」の「九品往生」である。明恵は明らかに、区別的な往生の様相をここで夢に見ている。とすれば、ここで彼は往生の様相を区別化せざるを得ない何らかの状況的認識を「ことさらに」持ったと考えてよい。それはまさに念仏衆の、彌陀の誓願によって等しく往生することが定まっているという易行門認識故ではなかったか? とすれば、法然を先輩の修行僧として高く評価していた明恵であったが、後に「選択本願念仏集」を読んで発生することになる、聴こえてくる法然の浄土宗の宗旨への深い疑惑の念が既にこの夢に現われていると見るのが自然ではないか? 先に記した通り、明恵が実際に「選択本願念仏集」を目にしたのは建暦二年九月に平基親(もとちか)の序を附けて版本印行されたものによると考えられるが、私は「摧邪輪」の成立年代から見て、その批判感情(この「九品九生」の図を明恵自らが「造る」というのを私はそのようなものとして見る。以下の注も参照されたい)が夢を形成するべく具体化していったのは寧ろ、法然と親鸞が配流になった承元元年以降ではなかったかと考えている。それは明恵が体制側の宗教者に厭がおうにも取り入れられるところの背景と、この法然・親鸞の配流とに密接な関係があると踏んでいるからである。畏敬していた法然が、破戒的布教を行い、それが公的に断罪されることはフロイト的な超自我を持ち出すまでもなく、明恵にとっては、そうなってしかるべきだという顕在的意識があったに違いない。しかし一方、彼は同時に、法然を崇敬出来る先師としても強く意識してもいたのである。しかして彼らの配流という現実は、明恵にとって、アンビバレントにして甚大な衝撃であったはずである。

 そうした明恵の意識の時間を測るとすれば、これは、

  承元元(一二〇七)年十一月

であると推定するのである(「48」以降でも再考する)。しかも、その年の秋に明恵は院宣を受けて東大寺尊勝院学頭に就任している。彼はまさに公的にも認められてしまった隠遁とは程遠い、現世的な宗教者に位置づけられてしまったのである。彼がこの「47」で「種々」「假の物」のある場所で、「九品往生」の図を自ら作ろうとするというのは、実はそうした事実と自身の現状に対する、微妙な「留保」的意識が夢に反映したのだとは言えないであろうか? 大方の御批判を俟つものではある。

「第二階」とあるのは意味深長である。階層的区別のシンボルとしての権威としての「二階」か、新しい認識若しくは真の仏法の高みという絶対的上位概念としての「二階」か、一階が何であるかが示されないだけによく分からない。

「九品往生」阿弥陀如来の住む極楽浄土に再生(というよりも真に生まれたいと考える)したい願う者の、九つの往生の著しく細分化差別化された(というのは私の認識である)段階、九品の往生の仕方を称する。浄土三部経の「観無量寿経」に説かれるもので、如何にもな、往生の分類学として、上品上生 (じょうぼんじょうしょう)から上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生までの九品(くぼん)という往生の差(詳しくはウィキの「九品」を参照)が示されてある。聖道門としての華厳僧である明恵は自身には極めてストイックな戒律と厳しい修行を課した人物であるが、例えばウィキの「明恵」に、『かれの打ち立てた華厳密教は、晩年にいたるまで俗人が理解しやすいようさまざまに工夫されたもので』、『たとえば、在家の人びとに対しては三時三宝礼の行儀』(「三時」は六時〔六分した一昼夜〕を昼三時と夜三時に纏めたもの。晨朝(じんじよう)・日中・日没(にちもつ)を昼三時、初夜・中夜・後夜を夜三時という)『により、観無量寿経に説く上品上生によって極楽往生できるとし、「南無三宝後生たすけさせ給へ」あるいは「南無三宝菩提心、現当二世所願円満」等の言葉を唱えることを強調するなど』(これは一種の文字による曼荼羅であると中央公論社昭和五八(一九八三)年刊の「日本の名著5 法然」の明恵の解説の中にある。なお下線はやぶちゃん)、『表面的には専修念仏をきびしく非難しながらも浄土門諸宗の説く易行の提唱を学びとり、それによって従来の学問中心の仏教からの脱皮をはかろうとする一面もあった』とあって、明恵がこの易行門に於ける衆生は等しく彌陀の大慈悲心によって救われるというセオリーを、「九品往生」に独自にインスパイアしていることが分かる(因みにウィキの「九品」によれば、本来の上品上生は、誠心・深心・廻向発願心の三種の心を発して往生する者を指し、それにはまた三種の者、『慈心をもって殺生を行わず戒律行を具足する者』・『大乗方等経典を読誦する者』・六念処(信心する上で繰り返し心で念じるべき六つの法。詳しくはウィキを参照されたい)を修行する者、とあって、『その功徳により阿弥陀如来の浄土に生じることを願えば』、一日若しくは七日で『往生できるという。この人は勇猛精進をもち、臨終に阿弥陀や諸菩薩の来迎を観じ、金剛台に載り浄土へ往生し、即座に無生法忍を悟るという』とある)。各種の鎌倉新仏教の新興思想は、そうした差別化された国家鎮護と上流階級の救済にのみ特化して腐敗していた平安旧仏教の粗い網目から徹底的に零れ落ちていた被圧的集団としての大衆という「衆生」をターゲットとした、易行プロパガンダを得意とした特異的宗教群であった。されば、ここで出る「九品往生」もまさにそうした明恵の創始した三時三宝礼を積極的に肯定するシンボルとして描写されていると考えるべきであろう。大方の御批判を俟つ。]

 

■やぶちゃん現代語訳

47

一、十一月、こんな夢を見た。

「二階建ての家がある。その二階部分には、凡そ私が見たこともない有象無象の、何とも言えぬ――私に言わせれば、仮りの相、真実の相とは思われないと感ずるところのものをも含む――仮の仏の物象を象ったものさえも多々置かれてあった。

 そこで私は独り、独自の「九品往生の図」を創り出そうとしているのであった。」……

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