橋本多佳子句集「命終」 昭和三十一年 信濃の旅(Ⅱ)
八ヶ嶽聳てり斑雪(はだれ)近膚(ちかはだ)吾に見せ
[やぶちゃん注:「斑雪」「はだら雪」とも称し、「はだれ野」などとも詠まれる。俳句では点々と残っている斑(まだ)らをなす雪として詠まれることが多く、ここも次の「近膚」(斑らに残る雪の間から顔を出した地面がくっきりと見える擬人的表現であろう)から推してそれである。但し、「はだら」にはこれ以外にも、日陰に残る雪で斑になっている景や、はらはらと虚空や地に斑らを成しながら降る薄雪の謂いにも用いる、万葉以来の古語である。]
みづから霧湧き阿彌陀嶺天(あま)がくる
[やぶちゃん注:「阿彌陀嶺」「あみだがたけ」と訓じていよう。八ヶ岳の南方、赤岳の約一キロメートル西に位置する。標高二八〇五メートル。八ヶ岳では赤岳・横岳に次いで三番目に高い。私は山岳部の生徒を連れて三度登ったが、西側からの通常ルートの登頂途中では、実はまさに、この霧があった方が登りやすいことを申し添えておく。ルートの最上部近く(梯子のある辺り)は北側にかなり切り立った断崖があって、これがピーカンだとかなり恐怖感を感じる。これは当時の部長でさえ共感してくれたことである。……ああ、懐かしいなぁ。……]
そのいのち短しとせず高野の虹
[やぶちゃん注:以下、私はこの「高野」を「たかの」と訓じたい。言わずもがなであるが、固有名詞ではなく、高原の謂いである。]
轍曲る五月高野の木の根つこ
天ちかき高野の轍黍芽立つ
雪嶺と童女五月高野のかがやけり
白穂高待ちし茜を見せざりき
眼を凝らす宙のつめたさ昼半月
[やぶちゃん注:個人的に好きな句である。]
五月の凍み童女髪の根の密に
[やぶちゃん注:これも個人的に好きな句である。]
母の鵙翔ちて地上の巣を知らるな
行々子高野いづこか葭ありて
紅鱗かさねて何の玉芽なる
眼おとせば大地に髪切り虫の斑
花しどみ倚れば花より花こぼれ
[やぶちゃん注:「花しどみ」花樝子。バラ目バラ科サクラ亜科リンゴ連ボケ属クサボケ(草木瓜)
Chaenomeles japonica)のことと思われる。実や枝もボケ
Chaenomeles speciosa よりも小振りで、地梨(じなし)とも呼ばれる。花は朱赤色だが、白いものもある。果実はボケやカリン同様に良い香りを放ち、果実酒の材料として人気があるが、実自体ははなはだ酸っぱく食用には適さない。語源を検索すると、この実を食べるとはなはだすっぱいことに由ると書いてあるのであるから、これは「しど実」なのであろうが、しかしいくら調べても「しど」には酸っぱいという意味はない。識者の御教授を乞うものである。因みに、ボケの属名
Chaenomeles は、ギリシア語「chino」(開ける)と「melon」(リンゴ)の合成語で、「裂けたリンゴ」の意。熟すとリンゴやナシに似た実が裂けることに由来する。秋の季語。]
尖石遺趾
残雪光岩石斧を研ぎたりき
[やぶちゃん注:長野県茅野市豊平南大塩の、八ヶ岳西側山麓地帯の大扇状地上にある標高一〇五〇から一〇七〇メートルの東西に広がる長い台地上にある縄文中期の集落遺跡尖石(とがりいし)・与助尾根(よすけおね)遺跡。ここの南側に位置する尖石遺跡は戦前から発掘されてきた縄文時代を代表する遺跡の一つとして知られている。現在は同遺跡と浅い沢を隔てた北側台地上にある与助尾根遺跡と一括して扱われる。「尖石」の名称は遺跡の南側にあった三角錐状の巨石の通称に由来する(ウィキの「尖石・与助尾根遺跡」に拠る)。]
赤土(はに)籠めの埴輪おもへばしどみ朱に
花しどみ火を獲し民の代の炉焦げ
八つ嶽に雪牡丹に雨のふりそそぐ
[やぶちゃん注:「雪牡丹」とは季節的にも花菖蒲の改良品種の一種のそれではあるまいか? 児玉洋子氏の「ハーブと花の畑から」のこちらのページの最後の肥後系「雪牡丹」を参照されたい。]
五月高原よれば焚火の焰がわかれ
[やぶちゃん注:「ごぐわつ/かうげん//よれば/たきびの//ほが/わかれ」(ごがつ/こうげん//よれば/たきびの//ほが/わかれ」と読みたい。]
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