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2015/01/23

耳嚢 巻之九 小はた小平次事實の事

 小はた小平次事實の事

 

 こはた小平次といふ事、讀本(よもほん)にもつゞり淨瑠璃に取組(とりくみ)、又は徘諧の附合(つけあひ)などにもなして人口に鱠(くわい)しやすれど、歌舞妓役者なりとはきゝしが其實を知らず。或人其事跡をかたりけるは、右小平次は山城國小幡(こはた)村出生にて、幼年にて父母におくれ、たよるべきものなければ其村長(むらをさ)抔世話をなし養ひけるが、一向兩親の追福(ついふく)のため出家せよと言ひしに隨ひ、小幡村淨土宗光明寺の弟子になり、出家して名は眞州と申けるが、怜悧(れいり)發明いふばかりなく、和尚も是を愛し暫く隨身(ずいじん)しけるが、學問もよろしく、何卒此上諸國を遍歷して出家の行ひもなしたきとねがひければ、金五兩をあたへ其願ひにまかせけるに、江戸表へ出、深川邊に在所者ありければ、是へたよりて暫くありけるに、與風(ふと)呪(まじなひ)祈禱など甚(はなはだ)奇瑞ありてこゝかしこより招きて、後には別段に店(たな)もちて、信仰の者多く金子抔も貯ふる程になりしが、深川茶屋の女子(をなご)に花野(はなの)といへる妓女、眞州が美僧なるを、病(わづら)ふの時加持(かぢ)致(いたし)貰ひ深く執心して、或時口説(くど)けれど、眞州は出家の身、かゝる事思ひよらずといなみけるが、或夜眞州が庵(いほり)へ花野來りて、此願ひ叶へ給はずば死するより外なし、殺し給ふやいかにと、切(せち)になげきし上、一つの香合(かうがふ)を出し、志(こころざし)を見給へと渡しける故、右香合をひらき見すれば、指をおしげなく切りて入置(いれおき)たり。眞州大きに驚き、出家の身いかにいゝ給ふとも、飽(あく)まで落入(おちい)る心なし、さりながら左程(さほど)にの給ふ事なれば、翌夜(あくるよ)來り給へ、得(とく)と考へていづれとか答ふべしとて立別(たちわか)れけるが、かくては不叶(かなはじ)と、其夜手元の調度など取集(とりあつ)め路用の支度して、深川を立退(たちの)き神奈川迄至りしが、或る家に寄(より)て一宿なしけるに、亭主は見覺へたるやうにて、御身いかなればこゝへ來り給ふやと尋(たづね)けるゆゑ、しかじかの事なりとあらましを語りければ、先(まづ)逗留なし給へとて、止置(とめおき)て世話なしけるが、右香合はけがらはしとて、途中にてとり捨(すて)しが不思議に獵師の網にかゝりて、神奈川宿にて子細ありて眞州が手へ戻りしを、亭主聞(きき)て、かく執心の殘りし香合なれば、燒捨(やきす)て厚く吊(とむら)ひ給へといふに隨ひ、讚經供養して一塚(いちづか)の内に埋(うづ)め、心がゝりなしと思ひけるに、或日大山へ參詣の者、彼(かの)家に泊(とまり)、眞州を見て、御身はいかにして爰に居給ふや、彼(かの)花野は亂心して親方の元を立出(たちいで)て、今はいづくへ行けん、行方(ゆくゑ)しらず、最早江戸表へ立歸り給へとて、口々すゝめてともなひ歸り、境町邊の半六といふ者世話をなし、浪人にて渡世なくても濟(すむ)まじとて、茶屋の手傳(てつだひ)、又樂屋の働らきなどなしける。出家にても如何(いかが)とて、げんぞくなさしめけるに、役者抔、御身も役者になり給へとて終に役者になり、初代海老藏といゝし市川柏莚(はくえん)の弟子になり、小幡(こはた)を名乘るもいかゞとて小和田(こわた)小平次といゝしが、男振(おとこぶり)は能(よ)し、藝も相應にして、中よりは上の役者になりしが、樂屋にて博奕(ばくち)致(いたし)候儀有之(これあり)、柏莚破門なしける間、詮方なく田舍芝居へ、半六同道にて下りしに、雨天續きて渡世を休みし日、右半六幷(ならびに)見世物師を渡世とせし穴熊三平連立(つれだち)て獵に出しに、不計(はからず)小平次は海へ落(おち)て水死なせしよし、〔實は花野、境町に小平次、有(ある)事を聞(きき)て尋來(たづねきた)り、夫婦(めをと)となりて有(あり)しが、三平儀(ぎ)深川の時より執心して、半六申合(まうしあひ)て、小平次を海へつきこみ殺しけるが、此事は追(おつ)て顯(あらは)れ吟味有(あり)て、三平半六ともに、御仕置(おしおき)になりしとなり。〕かくて三平半六は江戸へ歸り小平次留守へ來りしに、花野出て、なぜ遲く歸り給ふ、小平次は夜前(やぜん)歸りしといふ故、兩人甚だ不審して、實は小平次は海へ落(おち)、相果(あひはて)しゆゑ、申譯(まうしわけ)もなき仕合(しあはせ)ゆゑ申出(まうしいだ)しかねしと語りければ、妻は誠(まこと)ともせず、兩人も驚き一間(ひとま)を覗きしに、落物抔はありて形なし。其後も小平次に付ては怪敷(あやしき)事度々有(あり)しと也。其餘は聞(きか)ざるゆゑ、こゝにしるさず。享保初(はじめ)よりなかば迄の事に候由。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。著名な幽霊でヴァリアントの多いものの真相実録物と名打ったもの。「こはだ小平次」譚については、類型話柄である「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」の私の注で相当、詳しく書いたつもりであるが、ここでは総合的に纏めてみよう。まず底本の鈴木氏の注がよい(長いが、三村氏に孫引きなので問題はあるまい。同じというのも癪であるから、引用部は文語文なので引用を恣意的に正字化して示す。最後の鈴木氏の附言は「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」への参照見出しなので省略した)。

   《引用開始》

これにつき三村翁の長文の注あり。曰く「山崎美成海錄、閏六月二日囘向院にて、歌舞伎役者尾上松之助施主にて、直幽指玄居士、俗名こはだ小平次のために施餓鬼をなす、役者ども參詣すときゝて人々群集す、こはだ小平次が傳、未詳、旅芝居をありきし役者也と云。吉田雨岡云、こはだ小平次といへる旅役者、伊豆國に行て芝居せしが、はかばかしきあたりもなく、江戸にかへりて面目なしとて自滅す、友なるものにいふは、わが妻古里にあり、われかく死すと聞かばかなしみにたへざるべし、必我死せし事かたり給ふなと言置て死せり、その友ふるさとにかへりしに、その妻小平次が事をとひしかば、程なく歸るべしとすかし置しが、月日へてかへらねば、その妻いぶかしく思ひて、その事をせめとひし時、まことは死したりといはんとせし時、屋のむねに聲ありて、それをいひきかしてはあしゝといひしとなん、夫より小平次の話をすれば必怪事ありとて、芝居もののことわざに、はなしにもいひ出す事なしといへり。耕書堂説、小平次旅芝居にて、金をたくはへしを、友達知りて、窃に殺して金を奪ひしが、その人もしれざれば、江戸にかへりて、泣々其妻にその事かたりしに、小平次はまさしく昨夜家に歸りて、蚊屋のうちにふせり居れりと云ふ、あやしみて蚊屋の中を見れば、その形をみずといふ。又一説、小平次は、下總國印旛沼にて、市川家三郎といふ者に殺され、沼の中に埋みしといふ、もと密婦の故なりとぞ。」

   《引用終了》

「海錄」は江戸後期の考証家山崎美成が文政三 (一八二〇) 年六月から天保八(一八三七)年二月まで書き続けた考証随筆。次にそこもカバーしたウィキの「小幡小平次」を見ておこう。これらと「耳嚢 巻之四 戲場者爲怪死の事」の私の注をカップリングさせれば、ちょっと見ない「こはだ小平次」の小事典が完遂するとも思うので、やはり例外的にほぼ総てを引かせて戴く(注記号と改行を省略した)。

    *

 小幡小平次(こはだこへいじ)は本文のように「こはた小平次」、「小はだ小平次」とも表記し、『江戸時代の伝奇小説や歌舞伎の怪談物に登場する歌舞伎役者。幽霊の役で名をあげた後に殺害され、自分を殺した者のもとへ幽霊となって舞い戻ったという。創作上の人物だが、モデルとなった役者が実在したことが知られている』。

 「伝承」の項。『小平次は二代目市川團十郎の時代の江戸の役者だったが、芸が未熟なためになかなか役がつかなかった。小平次の師匠は彼を哀れんで金を握らせ、賄賂を使ってどうにか役を得るようにと言った。ようやく小平次が得たのは、顔が幽霊に似ているとの理由で幽霊役だった。彼はこれを役者人生最後の機会と思い、死人の顔を研究して役作りに努めた。苦労の甲斐あって小平次のつとめる幽霊は評判を呼び、ほかの役はともかくも幽霊だけはうまいということで、「幽霊小平次」と渾名され人気も出始めた。小平次にはお塚という妻がいたが、お塚は愚鈍な小平次に愛想を尽かし、鼓打ちの安達左九郎という男と密通していた。奥州安積郡(現・福島県)への旅興行に出た小平次は、左九郎から釣りに誘われるがままに一緒に安積沼へ行くと、そこで沼に突き落とされて命を落としてしまう。左九郎は、これで邪魔者が消えたとばかり喜んで江戸のお塚のもとへ行くと、そこにはなんと自分が殺したはずの小平次がおり、床に臥せっていた。小平次は死んだ後に幽霊となって江戸へ舞い戻ったのだが、生前あまりにも幽霊を演じることに長けていたために、そこにいる小平次の幽霊は生きていたときの小平次と変わらないものだった。驚きおののく左九郎のもとに、その後も次々に怪異が起きる。左九郎はこれらすべては小平次の亡霊の仕業だと恐れつつ、ついには発狂して死んでしまう。お塚もまた非業の死を遂げた』。

 「考証」の項。山崎美成の「海録」『によると、この小幡小平次にはモデルとなった実在の旅芝居役者がおり、その名もこはだ 小平次だったという。彼は芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという』。『またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県)で印旛沼に沈められて殺されたという説もある。山東京伝はこの説に基いて小平次が沼に突き落とされて水死するという筋書きを考えたのかもしれないと考えられている』。

 最後に「小平次の祟り」という項目。『歌舞伎の舞台では、怪談物をやる役者、それも残虐に殺されたり恨みを抱いて死んでいった者の亡霊をつとめる役者は、その亡霊が気を損ねて舞台で悪さをしないように、特に気を遣ってその霊を慰めることで知られている。『東海道四谷怪談』のお岩をつとめる役者は、初日の前と千秋楽の後に必ずお岩の墓に参ったり、また興行中も幕が引くとすぐに帰宅して夜遊びなどはしないといった慣習は、江戸時代の昔から今日にいたるまで少しも変わらない』。『大南北が書いた『彩入御伽艸』や、それを下敷きにした後代の小幡小平次物の芝居の上演にあたっても、それをつとめる役者たちの間では、小平次の話をすると彼が祟って必ず怪事が起こると長く信じられていた。幽霊役はつとめる方も命がけだったのである』。『なお威勢のいい江戸っ子の夏場の決まり文句に「幽霊が怖くってコハダが食えるけぇ!」というものがあったが、これは寿司の小鰭にこの小幡小平次をひっかけたものである』とあって――目からコハダの鱗が落ちる――というオチもつく。

   *

 ここで本話を中心に「こはだ小平次」譚の型を考証してみたい。

 まず感じるのは、本話が前半と後半で論理上の連続した型を最早失っている点である。投げ捨てた花野の小指が漁師の網に掛かったまではよかろう。それがどうしてまた真州(小平次)の手元に戻ってしまうのか、これ、「実録」を称しながら、ちっとも論理的に記していない(私は訳で何とか辻褄を合わせようと敷衍翻案を試みて見たものの、途中で馬鹿らしくなって投げた)。何より特にひどいのは小平次の溺死のシーンで、割注によって、「実は」花野とめおとだった――「実は」三平なる突然出て来たばっかりの男が昔からずっと花野に執心していた――「実は」半六はグルだった――「実は」小平次の死は事故死ではなく殺人だった――「実は」後日露顕してお裁きを受けて仕置きされた――とくるところである。これはもう、本話が既にして浄瑠璃の全般に感染しているトンデモ展開に対する免疫のキャリア(だから割注のようにトンデモ内容を記しても少しも致命的病状を発して物語が死ぬことがなく、寧ろ、勧善懲悪大団円となるのである)化していることを意味している。

 また、この前後の違和感は、実は前半の小平次と後半の彼が、別人のように見えるからでもある。花野の恋慕を頑なに拒絶する清廉な美僧小平次が、美形の役者になった途端に博奕に入れ込み、あっという間に実在した名人市川柏莚から破門され、溺れ死ぬという展開には私には現実味が全く感じられない(早回しの映像を見るように私には寧ろ滑稽でさえある。そこがまた浄瑠璃である訳でもある――尤も、破戒僧の堕落――というコンセプトは、これには、あり得ないが出来たらあって欲しいと我々がどこかで望むところの――背徳的且つ隠微で淫猥な豹変の魅力――が隠れており、それこそがこの話柄の小平次の面白さであるとも言えるかも知れない)。

 そうして誰もが一読、この前半部は道成寺や清玄桜姫物の焼き直しであることに気づく。そうした、前半の古浄瑠璃の型と、後半の犯罪仕立ての当代実録風世話物の型が、軋みを起こして正直、変、なのである(これはしかしやはり浄瑠璃一般の自然態でもある)。

 怪異が最後の最後まで現われないことも特異である。幽霊画では小平次は美形の役者なればこそ、如何にも迫力も糞もない文弱顔で蚊帳や屏風の向こうから覗き込むのであるが、多くのヴァリアントは、妻に姿を見せるだけ(それも妻一人の伝聞型)、最後のポルターガイストや声の出演(これらがまた如何にも浄瑠璃的歌舞伎的演出)だけという、怪談物としては、これ、すこぶるしょぼいと言わざるを得ない。これ、怪談というよりも――美形ではあるが、根性なしのみじめな男の悲惨小説、いやさ、転落の詩集――であり、最後には何か、妙にべたっとした哀れが残るばかりである(いや、それがこの「こはだ小平次」独特の被虐的怪談の魅力かもしれない)。

 今一つの特徴は、その死や殺害がヴァリアントの殆んど総てを通じて常に水(海・沼)に関係している点であろう。そうして、ここには恐らく比較神話学的民俗学的な無意識の深層が隠れていると考えてよい。但し、今それを考察し始めると、この注がエンドレスになりそうなので、まずはここで打ち切りとしたいと思う。最後に一言。根岸自身はこの「実録」を信じてはいなかったのではないかと思われる。もし、相応の真実と考えていたとしれば、割注部の『此事は追て顯れ吟味有て、三平半六ともに、御仕置になりしとなり』という箇所に根岸が反応しないはずはないからである。彼は南町奉行である。そうした事実があるなら、その記録を容易に精査することが出来る立場にあるからである。しかし、彼はそうしたことをした雰囲気は全くない。これはとりもなおさず、彼がこれも結局、作話の類いであると判断した証拠である。

 

・「讀本」江戸後期の小説の一種。絵を主体とした草双紙に対し、「読むことを主とした本」の意に由来する。寛延・宝暦(一七四八年~一七六四年)頃、上方に興って寛政の改革以後は江戸でも流行を見せ、天保(一八三〇年~一八四四年)頃までブームが続いた。中国の白話小説の影響を受けており、本邦の史実を素材とした伝奇的傾向が強く、勧善懲悪・因果応報などを軸とし、雅俗折衷文体で記されたものが多い。半紙本五、六冊を一編と成し、口絵・挿絵を伴う。作者としては都賀庭鐘・上田秋成・山東京伝・曲亭馬琴などが著名(三省堂「大辞林」に拠った)。

・「淨瑠璃に取組」浄瑠璃の素材としても取り入れられ。ウィキの「小幡小平次」によれば、巷間に伝わる小幡小平次の奇譚が、一つの物語として形を成す最初は、享和三 (一八〇三) 年に江戸で出版された山東庵京伝作・北尾重政画の伝奇小説「復讐奇談安積沼」(ふくしゅうきだんあさかのぬま)をその嚆矢とし、次いで文化五(一八〇八)年閏六月に江戸市村座で四代目鶴屋南北作の「彩入御伽艸」(いろえいりおとぎぞうし)が初演されて、『今日に伝わる小幡小平次のあらましはこの』二作品によって決定的なものとなった、とある。根岸がこれを書こうとした、若しくはその元となった風聞の元はまさに、この記載時一年前に演じられた「彩入御伽艸」によるものであったであろうことが推測される。

・「徘諧」底本では「徘」の右に『(俳)』と訂正注する。

・「附合」連歌俳諧に於いて長句(五七五)・短句(七七)を付け合わせること。交互に付け連ねてゆくこと。先に出された句を前句、それに付ける句を付句と呼ぶが、そこでは見立てを変えることが要求され、そうした素材として、この「こはだ小平次」の素材やシーンが使われたことを示す。これはまさにちょっとしたシーンのショットを暗示するだけで、誰もが「こはだ小平次」の話を想起出来た、恐ろしいほどに人口に膾炙していたことを如実に示す好例なのである。

・「鱠しや」底本では「しや」の右に『(炙)』と注する。膾炙に同じい。

・「山城國小幡村」現在の京都府宇治市木幡(こわた)。

・「光明寺」底本鈴木氏注には、京都府『綴喜郡宇治田原町岩山』とし、岩波版長谷川氏注も『宇治市隣の宇治田原市岩山。浄土宗』とする(長谷川氏の『宇治田原市』。は宇治田原町の誤りであろう)のであるが、現在、京都府綴喜郡宇治田原町岩山にはそのような寺はない。サイト「納骨堂」の「京都府のお寺一覧」の「綴喜郡」の一覧を見てもそれらしい浄土宗の寺はないのである。一つだけ、気がついたことはある。この宇治田原町岩山から東北東直線五・九キロメートルの地点、山越えをした滋賀県甲賀市信楽町宮尻に、実は浄土宗の光明寺という寺が現存するのである。しかし甲賀郡は古くも近江国であって山城国の現在の宇治田原町岩山に所属していたことはないと思われる。この寺の誤りか? 識者の御教授を乞うものである。

・「怜悧發明」頭の働きが優れており、すこぶる賢いさま。聡明利発。

・「香合」香盒とも書く。香を入れる蓋のついた容器。木地・漆器・陶磁器などがある。香箱。

・「境町」現在の中央区日本橋人形町三丁目。江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝居小屋江戸三座の一つ、中村座があった。江戸三座はここと市村座・森田座(後に守田座と改称)。

・「半六」偶然か、後に出る市川柏莚の父初代市川団十郎を舞台上で刺殺したのは役者の生島半六という。

・「浪人」岩波の長谷川氏注に『一般に失業の者をいう』とある。

・「げんぞく」底本では右に『(還俗)』と注する。

・「初代海老藏といゝし市川柏莚」「初代海老藏」は誤り。「柏莚」は初代九蔵、二代目海老蔵同二代目市川團十郎(元禄元年(一六八八)年~宝暦八(一七五八)年)。父(柏莚は長男)であった初代が元禄一七(一七〇四)年に市村座で「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中に役者生島半六に舞台上で刺殺(動機は一説に生島の息子が団十郎から虐待を受けており、生島はそれを恨んでいたとも言われるも真相は不明。ここはウィキの「市川團十郎(初代)」に拠る)されて横死(享年四十五歳)した後、襲名、現在に続く市川團十郎家の礎を築いた名優。

・「落物」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版は『荷物』。それで採る。

・「享保初よりなかば迄の事に候由」本話中で、柏莚の登場とともに、実在した小平次の年代が推測出来る数少ない情報源である。享保は,正徳六・享保元(一七一六)年から享保二十一・元文元(一七三六)年までであるから、一七一六年から享保十三(一七二八)年位が半ばとはなる。柏莚の団十郎襲名は元禄一七(一七〇四)年であるが、未だ十七歳であったから、最下限まで引っ張って享保十三(一七二八)年とすると、柏莚満四十歳となる。

因みに「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年(根岸満七十二歳)であるから、小平次が生きていたのは八十年以前で、残念ながら、根岸の生まれるちょっと前ということになるようである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 実在した小幡小平次(こはたこへいじ)の事

 

 「小幡小平次」と申す話柄は、これ、読本(よもほん)にも綴られ、浄瑠璃や歌舞伎でも取り上げられ、はたまた、俳諧の附け合いなどにまでも、もて囃されて、これ、すこぶる人口に膾炙しておる話であるが、この主人公小幡小平次なる者、これ、歌舞伎役者であった、とは聞いておるものの、それが事実であるかどうかは寡聞にして確認したことがなかった。

 ある時、さる御仁が、実在した小幡小平次なる人物につき、その事跡を、細かく語り聴かせてくれたので、以下に記載しておく。

   *

 この小平次は山城国小幡(こはた)村の出生(しゅうしょう)にして、幼年に於いて相い次いで父母に先立たれ、天涯孤独となって頼るべき者もなかったため、その小幡村の村長(むらおさ)などが世話致いて養育していたが、その村長より、

「……坊(ぼん)……かくも数奇なる半生……ひたすらに両親が追福(ついふく)をせんがため……出家致すが、これ、身のためじゃて、のぅ。……」

と諭されたに従い、小幡村に御座った浄土宗の光明寺という寺の御弟子となり、出家して名を真州(しんしゅう)と改めた。

 彼の怜悧発明(れいりはつめい)なるは、これ、謂いようもなきほどであって、和尚もこの真州を殊の外愛し、暫く親しく己れの随身(ずいじん)として遣っていたが、

「……見聞を広めての学問は申すまでもなく、この上、さらに諸国を遍歴致しまして一人前の出家としての行脚をも成しとう存じますれば! 何卒!……」

と切(せち)に乞い願(ねご)うたによって、師は金五両を与え、その願いに任せた。

 

 江戸表へと出て、深川辺りに在所小幡村出身の知れる者があったので、これを頼りとしてしばらくの間、ここへ腰を落ち着けた。

 すると、僧なれば、ちょっとした人より、呪(まじな)いやら、祈禱などを頼まれてこなしいるうち、これがまた、病いは全快、憑き物退散、悪霊調伏――と――はなはだ奇瑞のある美僧――と、ここかしこより、引きも切らず招きのあって、後には、これ、彼のための別なお店(たな)をも借り、そこへまた、信仰する者がひっきりになしに参って、その御礼賽銭などの金子をも得、相応に小金を貯えるほどにまではなった。

 

 さてここに、深川茶屋の女子(をなご)で花野(はなの)と申す妓女があって、たまたま、ちょっとした病いを患(わづろ)うた折り、人の紹介を以って、この真州に加持祈禱を致いてもらったところが、この真州の美僧なるを見初め、深く執心して、果ては僧たるにも拘わらず、色仕掛けで口説(くど)いたりし始めたという。

 ところが真州は、

「……我ら、出家の身なれば。……かかることは、これ、思いもよらぬこと!……」

と、きっぱり拒んでいたという。

 ところが、ある夜(よ)のこと、

 独り真州が勤行して御座った庵(いおり)へ、花野の来って、

「……妾(わらわ)のこの願い……叶えて下さらぬとならば……妾――死するより外――これ、ございませぬ!……妾を!……殺して下さりませ!……さあ!……どう、なさいますッ?!」

と、切(せち)に歎いて、真州が元へと、にじり寄って参った。

 そうして、徐ろに、懐より一つの香合(こうごう)をとり出だすと、

「……妾(わらわ)の覚悟! ――これ――ご覧なされませ!……」

と真州の手へ渡した。

 されば真州が、これを開いて見る……と……

……そこには……

……花野の手の……

……小指の一本が……

……これ……惜しげもなく切られて……

……入れおいてあった。…………

 真州、これを見るや、大いに驚き、

「……し、出家の身なれば……い、いかに、おっしゃられても……こ、これ……あくまで邪淫へ陥るの心は、これ、御座ない!……さりながら……あなたが……さほどにまで、これ、仰せにならるるとなれば――明日の夜(よ)――また、いらっしゃらるるがよい。……我らとくと、このこと、考え、きっと、悪いようには致さぬ、はっきりとした、お答えを――これ――差し上げましょう!……」

と、諭し、その日は花野、これに従って素直に帰って行った。

 それを見送った真州は、

『……かくなっては、最早、万事休す……』

と、その夜(よ)のうちに、手元の調度類などをとり纏め、路金の支度なども急ぎ整えた上、深川を秘かに立ち退いた。

 よっぴいて走りに走り、夜(よる)も深更となってより、ようよう、神奈川の宿まで何とか辿り着いた。

 とある旅籠に寄って、夜分ながらと一宿を乞うたところが、そこの亭主、これ、真州がことを見覚えておる人であったによって、

「……お前さんは……あの、深川の坊(ぼう)さんじゃ、ござんせんか?! 御坊……これ、何がどうして……こんな夜更けに、そんな格好で、こんなところまで、息急き切って参られた?」

と訊ねたによって、

「……実は……しかじかのことの、これ、あって……」

と、あらましを正直に語ったところ、

「――相い分かりやした!……先(せん)の病いの折りは、よう祈禱して下すったによって、今もこうして元気にしておりやすで!……さ、さっ! まずは、ゆるりと逗留なさいますがよろしい!」

と歓待してくれ、しばらくの間、ここへ匿わるることと相い成り、奇特なことに、この亭主が、これ、いろいろと日々の世話まで致いてくるることとなった。

 

 さて、かの香合であるが、これ、如何ともしようのなければ、深川を夜逃げ致いた折りには、まだ懐に入れおいたままにあったれど、夜道をひた走るうち、懐で転がる香合の動きにつれ、その中身――花野の小指一つ――を、はたと思い出し、

『……こ、これぞ!……い、如何にも穢らわしき、もの!……』

と気づいたによって、途中の川っ端にて、ぶうんと、流れへ投げ捨てて御座った。

 ところが、これ、その朝方、下流の河口にて漁師の引いておった網に掛かる。

 漁師の開き見、人の指の入って御座ったれば、吃驚仰天、川中へ投げんとしたものの、ふっと見上げたその香合の底に、これ、

――シンシフさま花の――

と記しあるを見、思い止まって御座ったと申す。

 委細は略せど、この記された「シンシフ」がきっかけとなり、この香合、廻り回って、かの旅籠におったる真州が手元へと、これまた、まっこと、不思議な因縁の如(ごと)、舞い戻って参ったと申す。

 されば、亭主、この小指の戻れる一部始終を聴き、

「……かく執心の残れる香合なれば……これ、焼き捨てて手厚く指を弔(とむろ)うてやりなさるが、よろしかろう。」

と申したのに従い、読経供養の上、旅籠の傍の堤の脇にあった、塚の中にこれを埋(う)めた。

 真州は、

「……これにて、最早、心配、御座るまい。」

と思うて御座った由。

 

 さて、ある日のこと、大山へ参詣する者が、この真州のおる旅籠に泊った。

 その中の一人が、真州を見、

「……お前さん! どうして?! こんなところにおらるるんじゃ?!……何?……花野?……ああ! あの! あんたにぞっこんだったコレか?……あの花野のはのぅ……あんたがおらずなってから、これ、直きに気鬱となって、そのまま乱心、親方の元から足抜けしよって……今は、どこへ行ったもんやら……もう永いこと、行方知れずの、まんまじゃ。……何?……小指をもろうた?!……げぇえっ!……へっ! そうか!……そんなこと、あったんかい!……さればよ! 最早、江戸表へ立ち帰っても、これ、平気の平左じゃ! おう! 思いついたが吉日じゃ! ほれ! あんたの知っとる熊公も八も一緒じゃ! 皆と一緒に、帰(けえ)ろうじゃねえか!」

と、他の連中も寄ってたかって、頻りに慫慂したによって、真州、彼らとともに江戸へと戻った。

 

 深川の庵は既になく、在所の知り合いにも顔向けのし難かったによって、かの一緒に戻った連中の中のある者が、境町辺りの半六と申す者を紹介してくれたによって、取り敢えずは、そこに転がり込んだ。

 数日の経った頃、

「――かくなる浪人暮し――生計(たつき)を立つるもののないと申すも、これ、そのままにては済むまいぞ。……」

と決して、芝居の中村座なんどの直近かの住まいで御座ったによって、半六なる男も、そうした仕事に携わって御座ったれば、その紹介もあって、芝居茶屋の手伝い、また、中村座楽屋の下働きなどんを成すようになって御座った。

 ある日のこと、半六が、

「……おめえさん。……どうも、そのつるんつるんの出家っちゅうんも、ここではのぅ。……如何(いかが)なもんかのぅ?……」

と申したによって、真州も、何やらん、宙ぶらりんの数ヶ月のことを思うと、半六の言(げん)に肯んじたと申す。

 かくして半六の添え人となって還俗させ、半六同道の上、中村座楽屋へと顔見世興行と洒落たところ、何人もの役者連が、

「……つるっ禿げの金柑頭の時、……まあ、美しい坊さんじゃぐらいにしか思わなんだけど……」

「……これ……なかなかに! ええ顔じゃが!」

「……お前さん! お前さんも、役者におなりぃな!」

「……ほんまに! それがええで!」

と、しきりに煽ったによって、何だか、彼もそう言われてみると、これ、気分のほんわかと致いて参ったによって、遂には役者として立つこととなった。

 それも、彼を一目見るなり、

「――よっしゃ! 弟子にしたろう!」

と、二つ返事で引き受けてくれたのが、これ、何と!

――かの二代目海老蔵を称した市川柏莚(はくえん)

かの御弟子となって――さても故郷の――小幡(こはた)――を名乗らんとも思うたが、そのままと申すも、これ、土地神さまに畏れ多きことと、――小和田(こわた)小平次――と称することと相い成って御座ったと申す。

 これがまた!

――男振りは抜群――

――芸もこれ上々――

で御座ったれば、瞬く間に、番付にても、

――中よりは上の役者――

と評判となって御座った。

 ところが、永き禁欲と修行から解放された彼は、これ、異様なまでに賭博に入れ込むようになった。

 ある時、こともあろうに、中村座楽屋内(うち)にて、こっそり禁制の大博奕(ばくち)を興行致いて、これがまたばれてしまい、師柏莚からは破門を申し渡されてしまう。

 

 最早、江戸にては役者として立つこともならずなったによって、詮方なく、田舎廻りの芝居小屋へ、半六を連れとしてあちこち、まあ、所謂、ドサ回りをして暮らす、という仕儀と相い成った。

 

 さて、そんなある折りのことで御座った。

 雨天の続いて、永いこと――既にその頃には、小屋掛けと申しても半ば露天の乞食芝居ぐらいしか役の依頼の回ってこなんだと申す――役者の仕事ものぅ、休んでおったある日のこと、かの半六と、以前より知れる、見世物師を渡世として御座った穴熊三平(あなぐまさんぺい)と申す男と連れ立って、海釣りに出でた。

 ところが――

――そこで

――不慮の事故のあって

――小平次

――これ

――海へ落ちて

――水死致いた

……というのである。

   ――――――

 *話者割注

 実はこれには、ここまででは語っていない別な事実と事情がある。

 実は、小平次がまだ境町で役者として評判をとっていた頃のこと、かの花野が、境町に小平次と申す、かの思い人真州と瓜二つの人物がいるということを噂に聴き知って、訪ねて参り、既に還俗もなし、指の戻って参ったという奇瑞もあったればこそ、晴れて小平次と花野は、これ、夫婦(めおと)となっていた、のである。

 ところが、その頃から丁度、知り合いとなっておった、この怪しげな三平なる人物――これが実は、花野が深川芸者であった頃より、花野に執心していた男であった。

 そうして、金で籠絡した半六と申し合わせ、事故に見せかけて――小平次を海へ突き落として殺した――というのが実に真相であったのである。

 この謀略については、おって犯行が露顕致し、奉行所にて吟味のあって、三平・半六ともに御仕置きを受けたと伝えている。

   ――――――

 かくて三平と半六は、そのまま江戸へと戻って、翌日、陽の高くなってから、小平次の留守宅をやおら訪ねた。

 すると、妻の花野が出て参り、

「……なじょうして、かくも遅うにお帰りになられましたんや?……小平(こへ)さまは、昨日の夜前(よるまえ)、早々に帰って参りましたえ?」

と申したによって、両人は吃驚仰天、はなはだ不審気(げ)なる顔つきのまま、

「……え、えッツ?……小平次は……その……昨日……海へ落ちての……命を落としてしもうたんでぇ……我ら、一緒にいながら……申し訳なきことと相い成ってしもうたによっての……かくも……申し出に参ること……これ、し難(がと)ぅ御座ったれば……のぅ……」

と告げたところが、花野、それを一向に信じようとせず、

「あんたら! 何を言うとるんです?! 小平次(こへ)さまは、そこに、おりますよ!……」

と家内(いえうち)を指差した。

 両人、またしても驚き、恐る恐る、奥の一間(ひとま)を覗いて見た……ところが……

――いつもの小平次の

――旅装束と荷物なんどが

――これ

――確かにおいてある。……

……ところが……

……そこに小平次の姿は

……なかった。…………

   *

*根岸附記

 その後(のち)も、この小平次に就いては、彼のその家や、彼の役者として出たことのある芝居小屋などに於いて、いろいろと怪しきことの、これ、たびたび起ったという流言飛語の類いが、これ無数にあると聴いたが、それを含め、以上の事実――と申すところの内容――以外には、私は直接に聴取しておらず、また、検証もしておらぬによって、ここには記さずにおくこととする。

 何でも、享保初めより半ばまでの間の出来事で御座った、とは聞いておる。

   以上。

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