耳嚢 巻之九 本然の義心其功を得 但戲場の徒も其義有事
本然の義心其功を得 但戲場の徒も其義有事
近き頃の事の由、越後の百姓にて、劍術抔其妙を得たしと、江戸に出て稼(かせが)んと暫く江戸表へ出、義太夫ぶしを好み、政太夫とて其頃の名人といへるを師匠となし、打(うち)はまり稽古しけるに其妙を得ければ、江戸表に落付(おちつき)て好む所の義太夫を語りなんと、在所の田地を賣りて江戸住ひ極(きは)むべしといふを、政太夫聞(きき)て甚だ憤り、御身こゝろざしある人と思ひしに、甚だの愚人なり、義太夫節に精を入(いれ)、我等に不劣(おとらざる)か又我より增(まさ)りたりとも、我等を見給へ、淨瑠璃かたりなり、先祖よりの田畑を賣りてかゝる下職(げしよく)を貴(たふと)ぶとは沙汰の限りなれば、向後(かうご)義絶致(いたし)、懇意をかへすなりと申(まうし)ければ、右百姓大(おほき)に愧入(はぢいり)、御意見の趣、心魂に徹したり、向後義太夫節を生涯相止むべしとて、麹町邊にて浪宅(らうたく)を構へ、在所にて覺えし劍術の師をはじめ、素より貯へ來る金子もありけるを利倍に貸付、すぎわひなしけるが、淺草三筋町の與力を勤(つとめ)ける由。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。奇人の変格技芸譚。
・「政太夫」底本の鈴木氏注に、まず初代竹本政太夫(たけもとまさたゆう 元禄四(一六九一)年~延享元(一七四四)年)の名を挙げ、『竹本播磨少掾。竹本義太夫の弟子。初名、若竹政太夫。享保十九年二代義太夫を襲名。義太夫節の大成者、浄瑠璃中興の名人。延享元年没、五十四』とするも、但し、『江戸で政太夫についたといふのは不審であり、また「近き頃」とあるので、時代的にも合わない。その門流の者か』とある(「といふ」はママ)。それに対して、岩波の長谷川氏注は、同二代目竹本政太夫とする。ウィキの「竹本政太夫」によれば二代目は宝永七(一七一〇)年生まれで明和二(一七六五)年)没、本名は薩摩屋重(十)兵衛、大坂鮮魚卸売市場ざこばで魚屋を営んでいたことから、「雑喉場政太夫」などと呼ばれたとあり、『初代政太夫(後の竹本播磨少掾)の門下で後に養子』となり、三十四歳という太夫としては結構な歳で『竹本座に初出勤。
師匠譲りそっくりの芸で評判を呼』んだ、とあり、長谷川氏は『宝暦十三年(一七六三)江戸に下り明和六年(一七六九)没、五十六歳』とされる(ウィキと長谷川氏では没年が異なる)。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、二代目だと確かに「近き頃」はおかしくないとは言える。しかしここに今一人、候補として良い人物がいる。三代目政太夫(享保一七(一七三二)年~文化八(一八一一)年)で、通称は播磨屋利兵衛、俗称を塩町政太夫と称し、初代の門下。明和四(一七六七)年に三代目政太夫を襲名している。但し、この人物はトラブル、話題が多く』、師である二代目政太夫の存命中に『勝手に江戸で政太夫を名乗ったり』、寛政四(一七九二)年には『播磨大掾を名乗ったこともある』。『登場人物の語り分けに秀で』、『大坂や江戸で人気を呼』び、『当たり芸は「心中天網島」』とある。これらの下線部と、「近き頃」からは、私はこの三代目竹本政太夫の方が(それこそ不義の行いのある変人ではあるが、だからこそ思い上がりの強いトンデモ変人が自分のことは棚上げにしておき、思い上がったトンデモ変人の弟子をきつうに諭したとする方が遙かに面白い気がするのである)よりしっくりくるようにも思うのであるが、如何であろう?
・「三筋町」底本鈴木氏注に、『元鳥越町(台東区鳥越二丁目)のうち。町の北側が大番組屋敷と書院番組屋敷によって三筋の小路に分れていたための俗称。与力は大番にも書院番にも与力、同心が付属する。ここはどちらか不明』とあり、岩波長谷川氏注には、『台東区三筋一・二丁目』とあり、こちらは現在の鳥越二丁目の北に接している地名である。鳥越は古くは三筋を含む広域名であったらしい。そもそも「淺草三筋町」自体が明治以降のそれとは異なり、広域名であったものと思われる。
■やぶちゃん現代語訳
本来持ったる義心に目覚めてまことの成果を得たる事
但し、人形浄瑠璃の徒とても、それなりの義を持ちたる事
近き頃のことの由。
越後の百姓にて、剣術などにてその妙技を得たいものと、酔狂にも江戸へと上って、まずは資金を稼がずんばなるまいと、暫くの間は江戸で何やらん商売致いて御座った由。
その合間に、今度は義太夫節に興味を持って唸りだし、さらにはその趣向の高じて、政太夫(まさたゆう)と申す、その頃の名人と呼ばれた太夫を師匠となし、すっかり入れ揚げ、嵌りに嵌って、稽古を重ねるうち、その筋も相応に御座ったものらしく、なかなかの妙技を得たによって、ある時、師匠政太夫に向い、
「――かくもなったる上は――江戸表に腰を落ち着けまして、この、まさしく、我らの好むところの、義太夫を語る太夫たらんと決しましたによって、在所越後の田畑はこれ、皆、売り払ろうて、我ら、江戸住まいせんと決まして御座いまする。」
と申した。
すると、政太夫、それを聴くや、青筋立てて憤り、
「――あんさんは、相応のしっかとした志しを――これ――持ってはるお人やと思うておったに!――いやもう――とんでもない愚人じゃったワ!――義太夫節に精を入れ――我(わて)に劣らざるか――また我(わて)より勝(まさ)らはるようになったかて、のう!――我(わて)を、よう見なはれ!――所詮は――浄瑠璃語りのカタリ者じゃ!……先祖代々よりの大事大事の田畑を、これ、売り払(はろ)うて――こないに賤しい職なんどを貴ばんとは!――沙汰の限りじゃッツ!――向後(こうご)は義絶致いて、今までの親しき交わりも、これ! なぁんもかも! 皆、返上じゃッツ!」
と、吐き捨てたれば、かの男、その師匠の言葉に目覚め、大きに愧じ入り、
「……ご、御意見の趣き……心魂に徹しまして、御座いまする。……されば我ら、向後(こうご)――義太夫節をば生涯これ相い止(や)むること――誓いまする!」
と謝して、師匠の前を辞したと、申す。
それより、この男、麹町辺りにて小さき一つ家(や)を構え、在所にて覚えて御座った、本来の願いであったる剣術の師匠を始めたと申す。
一方では、もとより、義太夫以外には質素倹約致いて貯えて参ったる金子も、これ、相応に御座ったによって、これを人に貸し付け、その利息がまた利息を産み、倍々倍々と殖え、かくも生計(なりわい)を成して御座ったが、そのうち、相応の金も溜まり、遂には近年、御家人株を買(こ)うて、晴れて武士と相い成り、今は浅草三筋町辺りの与力を勤めておる由、聞いて御座る。

