堀辰雄 十月 正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅲ)
十月十三日、飛火野にて
けふは薄曇つてゐるので、何處へも出ずに自分の部屋に引き籠つたまま、きのふお前に送つてもらつた本の中から、希臘悲劇集をとりだして、それを自分の前に据ゑ、別にどれを讀み出すといふこともなしにあちらこちら讀んでゐた。そのうち突然、そのなかの一つの場面が僕の心をひいた。舞臺は、アテネに近い、或る村はづれの森。苦しい流浪の旅をつづけてきた父と娘との二人づれが漸つといまその森まで辿りついたところ。盲ひた老人が自分の手をひいてゐる娘に向つて、「此處はどこだ」と聞く。旅やつれのした娘はそれでも老父を慰めるやうにこたへる。「お父う樣、あちらにはもう都の塔が見えまする。まだかなり遠いやうではございますが。ここでございますか、ここはなんだかかう神さびた森で。……」
老いたる父はその森が自分の終焉の場所であるのを豫感し、此處にこのまま止まる決心をする。
その神さびた森を前にして、その不幸な老人の最後の悲劇が起らうとしてゐるらしいのを讀みかけ、僕はおぼえず異樣な身ぶるひをした。僕はしかしそのときその本をとぢて、立ち上がつた。このまま此の悲劇のなかにはひり込んでしまつては、もうこんどの自分の仕事はそれまでだとおもつた。……
かういふものを讀むのは、とにかくこんどの可哀らしい仕事がすんでからでなくては。――そう自分に言つてきかせながら、僕はホテルを出た。
もう十一時だ。僕はやつぱりこちらに來てゐるからには、一日のうちに何か一つぐらゐはいいものを見ておきたくなつて、博物館にはひり、一時間ばかり彫刻室のなかで過ごした。こんなときにひとつ何か小品で心愉しいものをじつくり味はひたいと、小型の飛鳥佛(あすかぶつ)などを丹念に見てまはつてゐたが、結局は一番ながいこと、ちようど若い樹木が枝を擴げるやうな自然さで、六本の腕を一ぱいに擴げながら、何處か遙かなところを、何かをこらへてゐるやうな表情で、一心になつて見入つてゐる阿修羅王(あしゆらわう)の前に立ち止まつてゐた。なんといふうひうひしい、しかも切ない目ざしだらう。かういふ目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだらう。
それが何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ郷愁のやうなものが生れてくる、――何かさういつたノスタルヂックなものさへ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした。それから中央の虛空藏菩薩(こくうざうぼさつ)を遠くから見上げ、何かこらえへるように、默つてその前を素通りした。
[やぶちゃん注:昭和一六(一九三一)年十月十三日。この最後の阿修羅王(後注するようにこれは現在の興福寺の国宝館にある阿修羅像である)に対する素晴らしい感懐、「ちようど若い樹木が枝を擴げるやうな自然さで、六本の腕を一ぱいに擴げながら、何處か遙かなところを、何かをこらへてゐるやうな表情で、一心になつて見入つてゐる阿修羅王」のそれは、「なんといふうひうひしい、しかも切ない目ざしだらう。かういふ目ざしをして、何を見つめよとわれわれに示してゐるのだらう」、「それが何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ郷愁のやうなものが生れてくる」という絶妙のそれは、凡愚な私が若き日にここを訪れた際(当時の私は、何と未だ、この「十月」を読んでいない迂闊な男であった)、舐めるように、その全身を見た折りの感動と――不遜乍ら――美事に一致するものであった。そうしてまた、「――何かさういつたノスタルヂックなものさへ身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした」という箇所は、私の偏愛する堀の「淨瑠璃寺の春」のエンディングの、同じ春日の森の中で主人公夫婦が馬醉木の花に出逢ったシークエンス、
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突然、妻がいつた。
「なんだか、ここの馬醉木と、淨瑠璃寺にあつたのとは、すこしちがふんぢやない? ここのは、こんなに眞つ白だけれど、あそこのはもつと房が大きくて、うつすらと紅味を帶びてゐたわ。……」
「さうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが……」僕はすこし面倒くささうに、妻が手ぐりよせてゐるその一枝へ目をやつてゐたが、「さういへば、すこうし……」
さう言ひかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおつとしてゐる心のうちに、けふの晝つかた、淨瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあつて見てゐた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずつと昔の日の自分たちのことででもあるかのやうな、妙ななつかしさでもつて、鮮やかに、蘇らせ出してゐた。
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の、そのコーダをまさに『鮮やかに、蘇らせ出して』くれる名文であると、私は思うのである。
「飛火野」「とぶひの」と読む。奈良市の春日山の麓、春日神社(春日野町)一帯の春日野の一部を指し、春日野の別名としても使われる。名称は元明天皇の頃、ここに烽火(のろし)台が置かれたことに由来する。奈良国立博物館は奈良県奈良市登大路町にあるが、ここは春日神社の直近西北西一キロメートルの直近に位置している。
「そのなかの一つの場面」次の日記で「ソフォクレェス」と名を挙げている通り、これはギリシャ三大悲劇詩人(他はアテナイのアイスキュロス及びエウリピデス)の一人、アテナイのソポクレス(Sophoklēs 紀元前四九六年頃~紀元前四〇五年頃 ソフォクレスとも表記する)の最晩年の悲劇「コロノスのオイディプス」の冒頭の部分である(ソポクレスの作品で完全な形で現存するものは、現代ではギリシャ悲劇の最高峰とされる「オイディプス王」の他、「アイアス」「トラキスの女たち」「アンティゴネ」(オイディプス死後の後日譚)「エレクトラ」「ピロクテテス」の七篇のみである。なお、「コロノスのオイディプス」の初演はソポクレス死後二~五年後のこととされる。ここは新潮文庫福田恆存訳「オイディプス王・アンティゴネ」の福田氏の解説に拠った)。堀は結局次の日記で本作をこの日の「午後」「結局」、「再びとりあげて、ずつと讀んでしまつた」と記し、そこに感懐を記しているので、ここでウィキの「コロノスのオイディプス」から梗概その他を引用しておきたい。本作は時系列では「オイディプス王」に続くもので、テーバイのかつての王オイディプスが、放浪の末、『アテナイ近郊のコロノスの森にたどり着いたところから始まり、オイディプスの死に到るまでを描く』。『運命に翻弄されたオイディプスは予言に従って復讐の女神エウメニデスの聖林に導かれ、そこを自らの墓所として望み、アテナイ王テセウスもこれを認めた。そしてこれを阻もうとする息子ポリュネイケスやテーバイの現在の王クレオンにもかかわらず、オイディプスはテセウスのみが見守る中』、『コロノスの地中深く飲み込まれていく』という展開で、先行する「オイディプス王」(初演・紀元前四三〇年~同四三六年)、この「コロノスのオイディプス」、「アンティゴネ」(初演紀元前四四二年~同四四一年。以上の初演推定は前掲の福田解題に拠った)の三作品が『テーバイ王家の悲劇として密接な関連があり、時に三部作として扱われる。が、上記のように成立年代からして話の順序とは一致せず、アイスキュロスが好んだとされる三部作形式とは異なるものである』。物語の『舞台は、盲目で年老いたオイディプスが娘であるアンティゴネーに手を引かれて登場するところから始まる。彼らは乞食をしながら放浪し、コロノスのエウメニデスの神域の近くまでたどり着いたのである。そこにやってきた男に尋ねると、そこが神域であるとわかり、自分はここを動かぬつもりであること、王に使いして欲しいことを告げる』。『そこにコロノスの老人たちに扮したコロスが登場、彼がオイディプスであることを告げられると、すぐに立ち去ることを要求する。これに彼が反論していると、そこに彼のもう一人の娘、イスメネーが現れる。故郷に残った彼女は、彼の息子たちが仲違いし、兄ポリュネイケスが追い出され、国外で味方を得たことを伝え、同時にオイディプスに関する神託が出たことを告げる。それによると、彼が死んだとき、その土地の守護神となるという。そのためオイディプスを追い出した王であるクレオーンは彼を連れ戻し、国の片隅に留め置くことを考えているという。オイディプスは彼を追い出した町、そして彼が追い出されるのを止めなかった息子たちへの怒りを口にする。コロスは王がくるまでとりあえず彼を受け入れる旨を述べる』。『そこへ王テセウスがやってくる。彼はオイディプスの求めるものを問い、それに対してオイディプスは、自分の死後、ここに葬って欲しいこと、それによってこの地を守護することが出来ること、しかしクレオーンと息子たちが自分を求めていることを述べる。王は彼を受け入れることを告げる』。『そこにクレオーンが出現。丁寧な言葉でオイディプスに帰国を促す。しかしオイディプスはこれに反論、両者は次第に激高し、ついにクレオーンは娘を奪ってゆく、すでに一人は捕らえ、次はこの娘だ、とアンティゴネーを引き立てる。オイディプスはコロスに助けを求め、コロスはクレオーンを非難する。そこへテセウスが現れ、クレオーンを非難し、娘たちを取り戻すことを宣言する。クレオーンは捨てぜりふを残して退散、娘たちは取り戻される』。『すると今度は社によそ者が来ているとの通報、オイディプスに会いたがっているという。オイディプスはそれが自分の息子であると判断して、会うのを拒否するが、周囲の説得で会う。するとそれはやはりポリュネイケスであった。彼は自分が祖国を追い出されたこと、ドリスのアルゴスが味方してくれ、祖国に戦を仕掛けること、そのためにオイディプスに自分についてもらい、守護者となって欲しいことを述べる。彼はこれを全く聞き入れず、おまえは兄弟の手にかかって死ぬであろうとの呪いの言葉を述べる。アンティゴネーもポリュネイケスに説いて祖国を攻撃しないように言うが聞き入れず、彼も立ち去る』。『このとき、天は急に荒れ、雹が降り、雷が鳴り響く。オイディプスは自分の終わりが近いことに気がつき、テセウスを呼びにやる。テセウスがくると彼は娘たちの先に立って神域に入る。これに付き従ってテセウスと従者も姿を消す』。『その後、使者が現れ、オイディプスの最後の一部始終を語り、彼が死んだことを告げる。その後は二人の娘による嘆きで劇は終わる』。『この劇の一つの要点は「神との和解」である。オイディプスの伝説では、最初に示された神託がそもそも彼らの悲惨な運命を示すものであった。登場人物たちはそれぞれにそれを避けようと努力したにもかかわらず、すべてが実現してしまった。中でももっとも悲惨な運命を担ったのがオイディプスである』。『ソフォクレスは神の道が人間ではどうにもならぬものであり、また神の采配は時に恐ろしく非情であることを書いてきた。しかし、この劇では神の側からオイディプスに対して和解が示されている。また、「オイディプス王」では自分の悲惨な運命を嘆くばかりであった主人公は、この劇では一貫して自己の正当性を主張する。父親を殺したのも正当防衛であったし、他の場合でもその時その時は最善の選択をした結果であり、そこに恥じるところはないと言い切っている。一般的な伝説ではオイディプスの死にこのような話はないようで、それだけに詩人の思い入れが強く働いているとも考えられる』とある。
「飛鳥佛」奈良国立博物館公式サイトの「収蔵データベース」で二体の飛鳥仏、観音菩薩立像(飛鳥時代(白鳳期)七世紀作)と同時期の観音菩薩立像が見られる。
「阿修羅王」これは当時、奈良国立博物館に寄託・展示されていた知られた興福寺蔵の国宝阿修羅像である。グーグル画像検索「興福寺阿修羅像」をリンクしておく。そこで、各人の琴線に触れる視線をお探しになられたい。
「虛空藏菩薩」奈良国立博物館公式サイトの「収蔵データベース」の「虚空蔵菩薩像」をリンクしておく。この虚空蔵菩薩像は、仏力によって超絶した記憶力を祈念する求聞持法(ぐもんじほう)を表象する夢幻的なイメージを感じさせる図像であるが、それを思うと私は、このシーンは、阿修羅像の切実な感懐に打たれ、この虚空蔵菩薩像の示す無限の功徳をシンボルするその眼差しに違和感を覚えて避けたというのではなくして、まさに阿修羅の視線によって喚起された、「何かわれわれ人間の奧ぶかくにあるもので、その一心な目ざしに自分を集中させてゐると、自分のうちにおのづから故しれぬ郷愁のやうなものが生れてくる、――何かさういつたノスタルヂックなもの」を「身におぼえ出しながら、僕はだんだん切ない氣もちになつて、やつとのことで、その彫像をうしろにした」堀が、こ「の虛空藏菩薩を遠くから見上げ」た瞬間――我々にとっての記憶、思い出――とは、如何なるものかということに思い至って、切なさがに感極まり、「何かこらえへるように、默つてその前を素通り」せざるおえなくなったのではなかったか? と、秘かに感じているのである。……]
夜、寢床の上で
とうとう一日中、薄曇つてゐた。午後もまたホテルに閉ぢこもり、仕事にもまだ手のつかないまま、結局、ソフォクレェスの悲劇を再びとり上げて、ずつと讀んでしまつた。
この悲劇の主人公たちはその最後の日まで何んといふ苦患に充ちた一生を送らなければならないのだらう。しかも、さういふ人間の苦患の上には、なんの變ることもなく、ギリシアの空はほがらかに擴がつてゐる。その神さびた森はすべてのものを吸ひ込んでしまふやうな底知れぬ靜かさだ。あたかもそれが人間の悲痛な呼びかけに對する神々の答へででもあるかのやうに。――
薄曇つたまま日が暮れる。夜も、食事をすますと、すぐ部屋にひきこもつて、机に向ふ。が、これから自分の小説を考へようとすると、果して午後讀んだ希臘悲劇が邪魔をする。あらゆる艱苦を冒して、不幸な老父を最後まで救はうとする若い娘のりりしい姿が、なんとしても、僕の心に乘つてきてしまふ。自分も古代の物語を描かうといふなら、さういふ氣高い心をもつた娘のすがたをこそ捉まへようと努力しなくては。……
でも、さういふもの、さういつた悲劇的なものは、こんどの仕事がすんでからのことだ、こんど、こちらに滯在中に、古い寺や佛像などを、勉強かたがた、僕が心愉しく書かうといふのには、やはり「小さき繪」位がいい。
まあ、最初のプランどほり、その位のものを心がけることにして、僕は萬葉集をひらいたり埴輪の寫眞を竝べたりしながら、十二時近くまで起きてゐて、五つか六つぐらゐ物語の筋を熱心に立ててみたが、どれもこれも、いざ手にとつて仔細に見てゐると、大へんな難物のやうに思へてくるばかりなので、とうとう觀念して、寢床にはいつた。
[やぶちゃん注:「ソフォクレェスの悲劇」前条の私の「そのなかの一つの場面」のソポクレス作「コロノスのオイディプス」についての注を参照されたい。
「小さき繪」先行する「十月十二日、朝の食堂で」及び、そこの私の「Idyll」(イディル)の注を参照のこと。]