耳嚢 巻之九 イシマの事
イシマの事
蝦夷(えぞ)の女、人に嫁すれば、イシマとて男の方より長さ二尺ばかりの紐をあたふ。女是を腹に占(し)め置(おく)事なり。執心(しふしん)に思ふ男ありても、右イシマをしめし女なれば、其戀を思ひたゆ。達(たつ)て口説(くど)きても、イシマ有(ある)女は、其譯(わけ)いふて不從(したがはず)。若し好淫(かういん)等申懸(まうしか)け、女も得心なれば、右紐を解(とき)て心に從ふよし。幼女にても、言名付(いひなづけ)あれば、右紐締(しめ)る事の由。松前奉行河尻某語りし。夷俗にも規格ある事なり。歌に下紐(したひも)をとき、亦下紐の關(せき)など詠(よめ)るもあれば、古へ此國の俗もまたかゝる事ありしや。
□やぶちゃん注
○前項連関:特にないが、女の真心や決心と言いう点ですこぶる自然な流れで読めるように作られている点は、流石と思う。いまさら乍らであるが、根岸はある意味で通読する際の読者の意識関心の流れをしっかりと押さえて話を組んでいるのである。六つ前の「蝦夷の俗男女掟の事」の重出。さればそちらの本文と注をまずはご覧あれ。イシマの長さ、本邦習俗との類似比較(これが格別によい。根岸は幻の日本民族などに陶酔するどこぞのヘイト連中とは格段に違う)など、やや記載が詳しい。今まで、幾つかのダブり記事を批難してきたが、実は根岸にとって「耳嚢」は当初、まさに耳に入ったものの内、自身の興味を持ったものを書き記しては投げ入れておくものであった。それが十巻千話という妙な目標をこの巻の終了時に立てた(彼は始め巻九での擱筆を考えた)ことの方が、それこそいらぬ目標だったのではなかったか? だから寧ろ、こうしたダブりの方にこそ根岸の本当の興味の核心を伝える、検証する価値のある記事なのではないかという気が私には今、萌し始めているということを述べておきたい。
・「イシマとて男の方より長さ二尺ばかりの紐をあたふ」この叙述全体は完全な誤りである。ウプソルクッ(イシマ)は夫が妻に与えるものではなく、女系の神聖具として母から娘へと受け継がれてゆくものである。「蝦夷の俗男女掟の事」の「イシマ」の注を必ず参照されたい。「二尺」六〇・六センチメートル。グーグル画像検索「ラウンクッ」の幾つかのそれらしきものを見ると、この長さは首肯出来る。
・「松前奉行」ウィキの「遠国奉行」によれば、十八世紀末のアイヌの反乱(クナシリ・メナシの戦い:寛政元(一七八九)年、松前藩家臣知行地で交易場所であったクナシリ場所請負人飛騨屋との商取引や労働環境に不満を持った国後郡(クナシリ場所)のアイヌが首長ツキノエの留守中に蜂起、ネモロ場所メナシのアイヌもこれに応じ、商人や商船を襲って和人を殺害した。松前藩が鎮圧に赴き、また、アイヌの首長も説得に当たって、結局、蜂起した者たちは投降、蜂起の中心となったアイヌは処刑された)及びロシア人アダム・ラクスマンの来航を背景に、幕府は北辺警護のため、松前藩の領地であった東蝦夷地(北海道太平洋岸及び千島列島)を寛政一一(一七九九)年に上知(領地の幕府への返上)、享和二(一八〇二)年二月には箱館に遠国(おんごく)奉行として蝦夷奉行が設置されて二名を任命された(他の遠国奉行同様一名が一年交代で箱館駐在)。同年五月に箱館奉行と改称、文化元(一八〇四年)年には宇須岸館(うすけしかん:別名で河野館又は箱館)跡(現在の函館元町公園)に奉行所を置いた。文化四(一八〇七)年の文化露寇(文化三年と翌四年にロシア帝国から日本へ派遣された外交使節ニコライ・レザノフが部下に命じて日本側の北方拠点を攻撃させたロシア名「フヴォストフ事件」)を機に、和人地及び西蝦夷地(北海道日本海岸とオホーツク海岸及び樺太。なお、「樺太」は文化六年に「北蝦夷地」に改称された)も上知、この時、箱館奉行を松前奉行と改め、松前に移転した。但し、ロシアの脅威が収まった文政四(一八二一)年、和人地及び全蝦夷地は松前氏に還付され、松前奉行は廃止されている。
・「河尻某」河尻春之(はるの)。「蝦夷の俗男女掟の事」の「川尻肥州」の私の注を参照。
・「歌に下紐をとき、亦下紐の關など詠るもあれば」「下紐」は女性が襲(かさね)の裳を穿く際に下着とし着す下裳(したも)又は膝辺りまでの丈しかない肌に直接穿く袴である下袴(したばかま/肌袴(はだばかま))の紐を指す。「大辞林」では動詞として「下紐解(したひもと)く」という動詞を見出しとして載せる。他動詞としてはカ行四段活用で「下紐をほどく」とし、女が男に身を任せることに用いるとして、「伊勢物語」三十七段の「われならで」の和歌を引く。短章なので全文を示す。
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むかし、男、色好みなりける女にあへりけり。うしろめたくや思ひけむ、
われならで下紐解くなあさがほの
夕影またぬ花にはありとも
返し、
ふたりして結びし紐をひとりして
あひ見るまでは解かじとぞ思ふ
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因みにこの後者の一種は、「万葉集」巻十二の二九一九番歌、
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二人して結びし紐を一人して
吾れは解きみじ直(ただ)に逢ふまでは
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「大辞林」ではさらにカ行下二段活用の自動詞として、「下紐がほどける」で、人に恋い慕われていると、下紐が自然に解けてしまうという俗信があったと記し、以下に「万葉集」第三一四五番歌を引く。
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我妹子(わぎもこ)し我(あ)を偲(しの)ふらし草枕
旅の丸寢(まろね)に下紐解けぬ
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「下紐の關」の方は陸奥(現在の宮城県白石市越河字樋口)の歌枕。福島・宮城の県境のにある「伊達の大木戸」「伊達関」の通称で、坂上田村麻呂が蝦夷を防ぐために設けたとされる。当地には「石大仏」とも呼ばれる「下紐の石」なるものがあるが、伝承としては聖徳太子の父用明天皇の皇妃玉世姫(たまよひめ)が、この石の上でお産の紐を解かれたという伝説が伝わる(これは室町期に成立した幸若舞「烏帽子折」が淵源か)。幾つかの和歌を示す。
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あづま路のはるけき路を行きかへり
いつか解くべき下紐の關
(「詞華和歌集」太皇大后宮甲斐)
あひみじと思ひかたむる仲なれや
かく解けがたし下紐の關
(「六百番歌合」藤原季経)
現(うつつ)とも夢とも見えぬほどばかり
通(かよ)はばゆるせ下紐の關
(「新後拾遺和歌集」大中臣能宣)
立ち返りまたやへだてむ今宵さへ
心も解けぬ下紐の關
(「新続古今和歌集」左大将公名(きみな))
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また、私の出身校である國學院大學公式サイト内の「万葉神事語辞典」の「下紐」の記載も参照されんことをお薦めする。
■やぶちゃん現代語訳
イシマの事
蝦夷(えぞ)の女性(にょしょう)は、人に嫁(か)すれば、「イシマ」と申す長さ二尺ばかりの紐を、男の方(かた)より与えると申す。
[やぶちゃん注:「男の方より与える」は誤り。注を必ず参照されたい。]
女はこれを、普段は必ず、腹に締めおくことを掟(おきて)とする。
かりに執心(しゅうしん)を以って彼女に思いを懸くる男のあっても、このイシマを腰に締めておる女性であったなら、その恋の思いは、男の方から、絶たねばならぬのである。
強引に口説(くど)きても、イシマを締めたる女は、
「私には唯一人愛しい夫がいる」
と言うて、決して言う通りにはならぬ。
但し、男が懸恋(けんれん)の切なるを以って、覚悟の姦通を申しかけ、それに対してまた、その女もその男に心底惹かれて得心の上でのことなれば、女は――そのイシマを解いて外し――男の意に従うとのことで御座る。
[やぶちゃん注:その場合の、驚くべき誠実さに富んだ――それは神の名の元になされると私は思う――女の夫への告白及び夫の密夫に対する処置については、「蝦夷の俗男女掟の事」の本文を必ず読まれたい。]
未だ幼なき女児であっても、許嫁(いひなづけ)として既に夫が決まっておるならば、このイシマを必ず締めており、頑是なき者なれど、必ず貞節を守るとのことで御座る。
以上は松前奉行河尻春之(はるの)殿の直話にて御座った。
……さても蝦夷の風俗にも、このような古えよりの掟(おきて)の、これ、ある、ということを知り、まっこと、興味深く思うて御座った。本邦の和歌にても「下紐(したひも)を解き……」「下紐の関……」と詠めるもあればこそ、古え、この北の国の民の民俗にも、また、全くかく同じき、心のゆかしさのあるということを思えば、何やらん、しみじみと致いては参らぬかのう?……(根岸談)