耳嚢 巻之九 白河定信公狂歌尤の事
白河定信公狂歌尤の事
文化六年、奧州白川の二三丸(に・さんのまる)、其外城下とも燒亡の事あり。彼(かの)地より右の趣取急ぎあわたゞ敷(しく)、江戸表へ注進ありしを、定信聞(きき)給ひて、甚だ無機嫌にて、火災は天變、せん方なし、何ぞやあわたゞしく申越(まうしこし)ける。其取計(とりはからひ)にては、甚だ跡の事心もとなきとて、狂歌よみて答へられしと、
でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな
右其家士の語りしとて、人の物語りなり。いかにも此人、かゝる事有(ある)べしと感じぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。しばしば出る松平定信逸話譚。底本の鈴木氏注には、「卷三 大坂殿守回錄の節番頭格言の事」と、『同軌の逸話。定信は恐らく大坂城のときの故人の心構について前々から知っていたであろう』と記しておられる。
・「白河定信」老中松平定信は陸奥白河藩第三代藩主であった。
・「文化六年」「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏。尊号一件を背景にして寛政五(一七九三)年七月に将軍輔佐と老中を辞任した定信は、藩政に専念した(地位上は溜詰(たまりづめ)となっている。溜間(たまりのま)とは黒書院溜之間ともいい、通称を松溜(まつだまり)、またここに詰める者を溜詰と称した。代々、溜間に詰める大名家を定溜(じょうだまり)・常溜・代々溜(だいだいたまり)などといい、会津藩松平家・彦根藩井伊家・高松藩松平家の三家があった。また一代に限って溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家・姫路藩酒井家・忍藩松平家・川越藩松平家などがあった。さらに老中を永年勤めて退任した大名が前官礼遇の形で一代に限って溜間の末席に詰めることもあり、これを溜間詰格といった。定信はこれである。初期の段階では定員は四~五名で、重要事については幕閣の諮問を受けることとなっていた。また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっており、その格式は非常に高いものだった。江戸中期以降は飛溜の大名も代々詰めるようになった。また、桑名藩松平家・岡崎藩本多家・庄内藩酒井家・越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになったと参照したウィキの「伺候席」 の「溜間」にある)が、これは文化九(一八一二)年三月六日に長男の定永に譲って隠居するまでの間の出来事であり、それ故に、彼は江戸にいたのである。。なお、隠居後も藩政の実権は彼が掌握していた。
・「奧州白川の二三丸、其外城下とも燒亡の事」岩波版長谷川氏注に、白河藩藩庁であった福島県白河市の白河城の火災は文化六年二月二十五日のことであったとある。
・「でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな」「串」「焼け」「味噌」が「田楽」の縁語。「くしくし」(串々)は副詞の「ぐぢぐぢ(ぐじぐじ)」(岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では二句目が「ぐじぐじものを」と濁点を伴って表記されてある)、言葉がはっきりしないさま・ぶつぶつ言うさま、及び、ぐずぐずしているさまの意を掛けてある。「味噌をつくるな」は、田楽はしっかり焼いた後、火から取り上げた上で徐ろに生味噌をつけて喰うのが王道である(個人的に私は焼きながらつけて味噌を焦がした方が好きだが)が、それと「味噌をつける」、失敗して評判を落とす・面目を失うの意を掛けてある。これは私でもご「尤」も! と感心したくなる、まことに当意即妙の上手い狂歌である。
■やぶちゃん現代語訳
白河藩藩主松平定信公の狂歌の尤もなる事
文化六年、奧州白河の二の丸・三の丸その外、御城下など、これ、焼亡致いたことが御座った。
この時、かの地より回禄(かいろく)の報知、とり急ぎ慌ただしく江戸表へと御注進、これ、御座ったが、それを、かの定信公、お聴き届けにならるるや、特に慌てらるるさまもなけれど、いたって不機嫌な御様子になられ、
「――火災は天変――仕方なきことじゃ。……しかし、そなたら。そは、何ぞや!――何を慌ただしゅう――ばたばたおろおろと、まあ、申し越して参ったものか?! そのような慌てふためいたる取り計らいにては――これ――大事なる、この後の処置なんど、これ、如何にも、心もとなく、命じ任すことなど出来そうにも御座らぬ!」
と痛く叱責なされた後、しばし黙られた。
そうして徐ろに狂歌をお詠みになられ、かの家臣の者らへとそれを与えた。
でんがくのくしくしものを思ふとてやけたりとても味噌をつくるな
これは、その折りの家臣の御方が直かに見聞きし語っておられたことと、さる御仁の物語っておられた話で御座る。
いや! まっこと、これ、いかにも! かの名君松平定信公にしてこそ、かかる御対処と御名言のあらるる、と、私も深く感じ入って御座ったものじゃ。