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2015/01/19

日本その日その日 E.S.モース(石川欣一訳) 第十七章 南方の旅 貝塚発掘 ――切に考古学者の見解を乞う! モースが発掘したのは「当尾貝塚」だったのか? それとも「大野貝塚」だったのか?――

 翌朝我々は五時に出発した。そして人力車で、凸凹の極めて甚しい道路を二十四マイルという長い、身のつかれる旅をして、大野村へ着くと、ここには私がさがしていた貝塚がいくつかあった。道はそれ等の間を通っている。ここから海岸までは、すくなくとも五マイルある。この堆積はフロリダの貝塚の深さに等しく、即ちすくなくとも三十フィートはあるかも知れない。貝殻の凝固した塊は Arca granosa から成っているが、他の貝の「種」もいろいろ発見された。

[やぶちゃん注:「翌朝」明治一二(一八七九)年五月二十五日の朝。磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」によれば(二五二頁)、『八代に近い大野村(現松橋(まつばせ)町)に到着、終日この地の当尾貝塚を発掘して土器や獣骨、人骨を採集。その夜は八代に泊り、翌日当尾貝塚を再訪、また貝塚の近傍にある石棺と石室も調査した。当尾貝塚と石棺のことは、地質学者のベンジャミン・スミス・ライマン教授から教わっていたのである』とある(アメリカ人鉱山学者でお雇い外国人であったライマン教授については第十五章 日本の一と冬 邦楽の奏者たちで既注)。……しかし……ここで私の中で……大きな問題が発生した……

「二十四マイル」三十八・六キロメートル。この数値は八代までならば納得出来る数値で、実際にモース一行はこの日は八代に泊まっているから、これから考えると、前で書かれた「三十四マイル」というのは単なる誤記ではなかろうかと疑われてくるのである。

「大野村へ着くと、ここには私がさがしていた貝塚がいくつかあった」当尾(とうのお)貝塚。大野貝塚とも呼ぶ旧大野村、現在の熊本県宇城(うき)市松橋(まつばせ)町大野にある。国道三号線沿いの、縄文後期末の御領式土器の時期の貝塚で、人骨を出土している。当尾は旧地名を当尾村と呼んだことによる。ところがである。参照した「日本大百科全書」を見ると、熊本県八代郡氷川町大野の同じ国道三号沿いの同地区の小学校付近一帯にある遺跡として同じ名の違う「大野貝塚」が記されてあり、こちらは、縄文後期の土器片・人骨などが出土したとある(但し、近年殆んどの地域が宅地化して壊滅寸前にあるとある)のである。しかも、そこには本貝塚は1879年(明治12)モースが九州旅行中同貝塚を訪れており、モースの滞日日記『日本その日その日』にも掲載され、九州地方では学界にもっとも古く知られた縄文文化の貝塚遺跡の一つであるとあり、両者は直線距離にして8キロメートル余の地にあり、誤りやすい』と記すのである(江坂輝彌氏執筆)。この江坂氏の記載によるならば、モースが訪れたのは宇城市松橋町大野の「当尾貝塚」ではなく、この八代郡氷川町大野の「大野貝塚」であったとしか読めない。地図上で確認すると、後者の「大野貝塚」は竜北東小学校付近かと思われ、江坂氏の記載通り、氷川町大野とは直線で有意に八キロメートルも離れており、この遺跡は連続したものではないしかし磯野先生の「モースその日その日 ある御雇教師と近代日本」も『当尾貝塚』とし、その引用元である「大森貝塚」でも、『なお最近、帝国の南部にある貝塚を調査して、食人風習の明白な証拠をひじょうに多く発見した』(『大森貝塚』近藤義郎・佐原真編訳岩波文庫一九八三年刊)とし、その注でも一貫して『当尾貝塚』と記すのである。この江坂氏の記載との齟齬はどう解釈したらよいのであろう? 孰れの説をも好意的に考えるならば、この当尾と大野の二つの貝塚を両方とも発掘したという解釈である。実際、「大森貝塚」では別な箇所で、《この発掘した「貝塚」》のことを『九州肥後国では最大級のひろがりと厚さをもつ貝塚』(序文冒頭)とか、『肥後の広大な一貝塚』(「扁平な脛骨」)と書いてはいる。しかし、正直、八キロメートルも離れた場所を連続した『広大な貝塚』とは普通言わない。これ以上、私には同定不能である(以上の通り、諸記載では圧倒的に「当尾貝塚」が優勢ではある。一つのヒントは、前に示した通り、磯野先生がモースはこの時、《その貝塚の近くにある石棺と石室も調査しているという事実》である(だか、これが「当尾貝塚」と「大野貝塚」の中間点にあったとしたらヒントにさえならなくなってしまう)。さらに言わせてもらえば、江坂氏の筆圧は確信犯的で、モースが発掘したのは「大野貝塚」であって断じて「当尾貝塚」ではない、九州の貝塚を知る考古学者ならばそれは誰もが理解しているといった強い主張を感じるのである)。考古学者の方の御意見を切に伺いたく思うのである。

「五マイル」約八キロメートル。この距離は実は気になるのである。何故なら、「当尾貝塚」から海までは長く採ってみても四キロメートルもないのに対して、「大野貝塚」からは、最短でも六キロメートルを越えるからである。この数位は実に、モースの発掘したのは実は「当尾貝塚」ではなく「大野貝塚」であった可能性を強く示唆する、数少ない証左と言えるのではあるまいか?

「三十フィート」九・一四メートル。これはモースも指摘する通り、人為的な貝塚層としては異例の深さであると思われ、この異様な深さを「当尾貝塚」と「大野貝塚」の孰れもが持っていたとは私には考え難い。されば両方の発掘データを見れば、モースの発掘したのが「当尾」であったか、「大野」であったかは一目瞭然であると思うのであるが?……

Arca granosa 」底本では直下に石川氏の『〔アカガイの種〕という割注が入る。第十五章 日本の一と冬 大森貝塚出土の貝類と現生種の比較で既注であるが再掲しておく。斧足綱翼形亜綱フネガイ目フネガイ科リュウキュウサルボウ亜科ハイガイであるが、現在の学名は Tegillarca granosa である。当時はフネガイ科 Arcidae より下位の属が細分化されていなかったためであろう(以下も同様に現在の学名と異なる)。因みにフネガイ科のタイプ属名Arca はラテン語で「箱」の意で、タイプ種である一見忘れ難い学名を持つノアノハコブネガイ Arca noae の殻の形に由来している。]

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