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2015/01/10

耳囊 卷之九 駒込富士境内昇龍の事

 

 駒込富士境内昇龍の事

 

 寬政五辰八月廿五日の事なる由。駒込富士境内に護摩堂あり、淺間(せんげん)の社(やしろ)其外寺よりは少しはなれけるに、右堂へ年若き僧至りて、香花(かうげ)抔始末なして不動尊祈念なしけるに、頻りに不動は不及申に(まうすにおよばず)、こんがら精高(せいたか)十二天各(おのおの)動きけるゆゑ、甚(はなはだ)物凄くなりて早く堂を立出(たちいで)しに、右堂の脇に大木の松有(あり)しが、一本の處、二本同じ樣に連(つらな)り寄りて立(たて)るゆゑ、怖しき儘本堂の前に至り遠く是を見しに、一本の松は段々上へ上(のぼ)る樣(やう)に見へし。先のほのうを燃出(もえいで)て、見るも中々恐ろしかりしに、黑雲立(たち)おほひ、右地をはなるゝと見しに、怖(おそろ)しき物音して大雨頻りにふり出(いだ)しとや。暫く過ぎ雨はれて彼(かの)所を見しに、堂も一丈程地中へおち入りけると、其所(そこ)のもの來りて語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特にないが、ここ四つ、本格・変格の怪異譚が並び、流れが澱まない、よい話柄配置ではある。

・「駒込富士」底本の鈴木氏注に、『いま富士神社という。文京区駒込神明町。もと本郷にあったが、そこに前田邸が設けられたとき現在地に移された。富士山の形を模した小丘で、六月朔日の祭礼には、参詣人が富士登山の型を行なった』と記す。これは現在は正式には駒込富士神社と呼ぶようである。現住所は東京都文京区本駒込五丁目(鈴木氏の注のそれは旧住所)。ウィキの「駒込富士神社」によれば、『祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)』で、『建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚』『の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている』。伝承によれば、天正元(一五七三)年に『本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請』したとされ、寛永五(一六二八)年、『加賀前田氏が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町』に移して、その後に『現在地に合祀した(時期不詳)』とある。『江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人(えどはっぴゃくやこう、こうちゅうはちまんにん)」といわれるほど流行した富士講のなかでも、ここは最も古い組織の一つがあり町火消の間で深く信仰された。火消頭の組長などから奉納された町火消のシンボルマークを彫った石碑が数多く飾られている』。『初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれた』。縁日の山開き(現在六月三十日から七月二日)では『土産の茄子が人気だったが、現在では周辺の宅地化により茄子の生産は全くなく、土産の茄子も売られていない。鷹匠屋敷跡は現在、駒込病院が建っている』とある。この「富士塚」というのは富士信仰に基づく富士講によって、江戸で各所に築かれた富士山に模した人工の山や塚のことをいう。以下、富士講について、ウィキの「富士講」から引く。狭義の富士講は、戦国から江戸初期に富士山麓の人穴(ひとあな:静岡県富士宮市。)で修行した角行(かくぎょう)『という行者によって創唱された富士信仰の一派に由来する。のちに旺心(赤葉庄佐衛門)らが初の講社を組み』、(以下、箇条書きを繋げた)。『良き事をすれば良し、悪しき事をすれば悪し。稼げは福貴にして、病なく命長し。怠ければ貧になり病あり、命短し。』という三つの掟(おきて)を立てている。享保期以降、富士講の指導者であった村上光清(こうせい)や食行身禄(じきぎょうしんろく)によって発展し、『村上は主に大名や上層階級から支持され、家業を真面目に勤めることが救いとなると説く食行は江戸庶民から熱狂的に支持』を受けるようになった。『身禄は角行から五代目(立場によっては六代目とする)の弟子で、富士山中において入定したことを機に、遺された弟子たちが江戸を中心に富士講を広めた。角行の信仰は既存の宗教勢力に属さないもので、食行身禄没後に作られた講集団も単独の宗教勢力であった』。『一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っており、富士山への各登山口には』御師(おし:特定の寺社に所属し、その社寺への参詣者の案内・参拝・宿泊などの世話をする者を指す。特に伊勢神宮のそれは他と区別して「おんし」と呼んだ)の『集落がつくられ、関東を中心に各地に布教活動を行い、富士山へ多くの参拝者を引きつけた。特に宝永の大噴火以降復旧に時間がかかった大宮口や須山口は、江戸・関東からの多くの参拝者でにぎわった。最盛期では、吉田口には御師の屋敷が百軒近く軒を連ねていたほどであったのである。数多くの講社があり、江戸時代後期には』前に出た通り、「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほどに爆発的流行をみた。『富士講は、江戸幕府からはその宗教政策上好ましくないと見なされしばしば禁じられた。が、死者が出るほど厳しい弾圧を受けはしなかった』。因みに、『明治以後、神道勢力からの弾圧が非常に激しくなった。その結果、やむなく富士講のその一部は教派神道と化し、食行の流れを汲む不二道による実行教、苦行者だった伊藤六郎兵衛による丸山教、更に平田門下にして富士信仰の諸勢力を結集して国家神道に動員しようとした宍野半による扶桑教などが生まれ』たが、『特に戦後、富士山やその周辺が観光地化され、登山自体がレジャーと認識されるようになり、気軽に富士登山をできるようになると、登山の動機を信仰に求めていた富士講は大きく衰退した。例えば、人穴富士講遺跡も碑塔の建設は』昭和三九(一九六四)年以降は行われておらず、富士講自体すっかり衰退し、講員の数もめっきり減少、『東京の街中などで講員が活動する姿を見ることはまず無くなったが、現在でも富士山に行けば富士講講員らが巡礼する姿を見ることができる』とある。この信仰に基づき、講中によって金を出し合って、日常の尊崇と、実際の富士に参拝登山出来ない婦女子や老人などために築造されたのが富士のミニチュアたる富士塚である。最後にウィキの「富士塚」からも引いておく。造営方法としては主に、実際の富士山の溶岩を積み上げたものと、既に存在した丘や古墳を利用したものとがあり、『頂上には浅間神社を祀り、関東地方を中心に分布する。富士山の山開きの日』(現在では七月一日)に『富士講が富士塚に登山する習慣がある。基本的に富士塚の上から富士山をのぞむことができるように築造されるが、近年の家屋の高層化に伴い富士山を直接視認できるものはほとんどない。近年では劣化を防ぐため普段は立ち入ることができない富士塚も多いが、前述の富士山の山開きに合わせて』六月末〜七月初めか、『あるいは催事などの際に登ることができるものもある』。『富士塚の名称としては後ろに富士を付して、「○○富士」のように呼ばれることがある』。安永九(一七八〇)年、『高田籐四郎(日行)が江戸の高田に建てたものが最古であるとされる。この富士塚は文化財となっており、富士講や富士信仰を知る上で重要な史蹟であったが』、昭和三九(一九六四)年頃、『早稲田大学のキャンパスを拡張』『する際に破壊され、近隣の水稲荷神社に移築されている(現在は富士講が行なわれる日にのみ入ることができる)』。『一方で、当時の場所に現存する富士塚としては東京都渋谷区千駄ヶ谷の鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士(後述の江戸八富士の一つ)が都内最古のものとなっており、東京都の有形民俗文化財にも指定されている』。『江戸市中の有名な富士塚は特に「江戸八富士」』と呼ばれた。現存するものでは『江古田の富士塚(東京都練馬区小竹町の茅原浅間神社境内)』・『豊島長崎の富士塚(同豊島区高松の富士浅間神社境内)』・『下谷坂本の富士塚(同台東区下谷の小野照崎神社境内)』・『木曽呂の富士塚(埼玉県川口市東内野)』の計四基の『富士塚が国の重要有形民俗文化財に指定されている』。ここに出た「江戸七富士」は品川富士(品川神社境内)・千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)・下谷坂本富士(小野照崎神社境内)・江古田富士(茅原浅間神社境内)・十条富士(富士神社境内)・音羽富士(護國寺境内)・高松富士(富士浅間神社境内)で、この駒込富士神社は含まれていない。

・「寬政五辰」寛政五年は癸丑(みずのえうし)で誤り。岩波の長谷川氏注では、『この前後の章に文化五年(戊辰)の記事あり、文化五年の誤りか』と注しえおっれるが、確かに次の「不思議に神像を得し事」には『文化五辰年』と出るものの、前と言うのは六つも前の「稻荷奇談の事」で、これを『前後』と言うには、やや問題がある。因みに、「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏であるから、この通りなら十六年も前のこと、長谷川氏が推測する通りなら、極めてホットな都市伝説となり、その点では――民俗学上の噂話としての通例特徴という観点からは――長谷川氏の言う文化五年説を採りたくはなるのだが、考証的には従えない。訳では「辰」を除いて寛政五年で訳した。因みに寛政五年八月二十五日ならばグレゴリオ暦では一七九三年九月二十九日、文化五年のその日ならば一八〇八年十月十四日に相当する。

・「護摩堂」護摩をたき祈禱をする建物で仏教施設であるが、この時代は神仏習合で、先の駒込富士神社の記載には全く出ていないが、別当寺が併存していた。以下の諸仏から見ても不動明王を主尊とした相当数の仏像がある、相応の伽藍があったものと推測される。恐らくは皆、おぞましき明治の廃仏毀釈で消失してしまったのである。

・「淺間の社」富士信仰に基づいて富士山を神格化した浅間大神(あさまのおおかみ)又は浅間大神を記紀神話に現れる木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と見て、これを祀った社。以下、ウィキの「浅間神社」によれば、富士山は古くは「ふじがみ」「福慈神」「不尽神」と記載されるような霊妙な日本鎮護の神山であった。奈良末から火山活動が活発化すると、火山の神浅間神(せんげんしん)としての浅間(せんげん)信仰に変化して、全国的に流行るようになった。「浅間(あさま/せんげん)」という語の『語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる』(「あさま」の方が古称で、もう一つの「せんげん」の方は中世以降から用いられたとされる)。『浅間神と木花咲耶姫命が同一視されたのには木花咲耶姫命の出産が関係している。中には木花咲耶姫命の父神・大山祇神や、姉神・磐長姫命を主祭神とするものもあり、それらを含め』、現在でも全国に約千三百社の『浅間信仰の神社がある。これらの神社は、富士山麓をはじめとしてその山容が眺められる地に多く所在する。その中でも特に、富士山南麓の静岡県富士宮市に鎮座する富士山本宮浅間大社が総本宮とされている。のち、浅間神は神仏習合により「浅間大菩薩」(本地仏:大日如来)とも称された』。『祭祀の特徴として、主要な浅間神社は山中に祀られた山宮と麓の集落に鎮座する里宮が対をなして祀られることが挙げられ』、『これは、山宮が富士山を遥拝する場所、里宮は湧水池・湖沼周辺で鎮火を祈る場所であると解されている』とある。

・「こんがら」矜羯羅童子(こんがらどうじ)。不動明王の従者八大童子の第七。不動三尊の一人であり、制多迦童子(せいたかどうじ。次注参照)とともに不動明王の脇士として不動明王の左(向かって右)に祀られる。参照したウィキの「矜羯羅童子」によれば、『「矜羯羅」とは、サンスクリットで疑問詞の矜(kim)と、「作為」の意味である羯羅(kara)を合わせたもので、直訳すれば「何をするべきかを問い、その命令の通りに動く」という意味であり、奴隷や従者を指す普通名詞であるが、矜羯羅童子の場合は主人に隷属するというよりは仏法に対して恭順であるさまを表す。十五歳ほどの童子の姿をしている』とある。

・「精高」制多迦童子。不動明王の従者八大童子の第八。ウィキの「制多迦童子」によれば、不動三尊の一人で前の矜羯羅童子と一緒に『不動明王の脇士を務める。通常は不動明王の右(向かって左)に配置される。「制多迦童子」とはサンスクリットで奴隷・従者の意』であるとある。私は個人的には、遠い二十の昔に、一度だけ、昔の恋人と訪れた、高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)の二脇侍像が好きだ。

・「十二天」「十二天」仏教を守護する十二の天尊。四方・四維の八天、上・下の二天、日・月の二天のこと。八方を護る諸尊に天地日月を護る諸尊を加えたもの。帝釈天(東)・火天(南東)・閻魔天(南)・羅刹天(らせつてん・南西)・水天(西)・風天(北西)・毘沙門天(北)・伊舎那天(いしゃなてん・北東)、及び梵天(上)・地天(下)と日天・月天。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 駒込富士境内にて昇龍のあったる事 

 

 寛政五年八月二十五日のことなる由。

 駒込富士の境内に護摩堂のあって、浅間(せんげん)の社(やしろ)その他(ほか)は、寺よりは少し離れたところに祀られてあったが、その堂へ、未だ年若き僧が一人参り、香華(こうげ)など手向(たむ)け、頻りに不動尊に祈念致いて御座ったと申す。

 すると……主尊の不動明王像は申すに及ばず、左右脇侍の矜羯羅童子(こんがら)・制多迦(せいたか)、その他にも祀られてある、ありとある十二天なんどの像が……これ、悉く……しきりに震えて、鳴動し出したと申す。……

 はなはだ、もの凄き気味となったによって、早々に堂を立ち出でたところが、その護摩堂の脇に、大木の松が御座った。先に入堂する際に見た折りには、確かに一本しか御座らなんだはずのそれが……何故か……二本目のあって、同じ如(ごと)、本来あったる大松のすぐ横に、同じき太さで連なって……寄って立って御座った。……

 あまりの怖しさに、そのまま本堂の前まで走り逃げ、そこでようやっと背後を振り返って、遠く、護摩堂の方(かた)を見た……ところが……

 その……新たに出現致いた……新しき方の「松」は……これ……だんだん……だんだん……上へ……上へ……しゅるしゅる……しゅるしゅる……と音を響かせ……気を震わせ……昇りに昇ってゆくかの如く……見えた。……

 僧はそこで、その昇ってゆく「松」の先のある、遙かな虚空の彼方を、眺めてみた。……

 と……その昇りゆく「松」の先からは……紅蓮の焔(ほのお)が……ごうごう……ごうごう……と……吹き出だし……ぼうぼう……ぼうぼう……と……燃え出でて御座って……いや、もう、見るもなかなかに……これ、恐ろしきもので御座った。……

 すると、たちまち、どす黒き黒雲(こくうん)……これ……もくもく……もくもく……と……空を覆い尽くした。

 そうして……かの「松」が……遂に!……地面を離れた!……と……見るや!……

――фτϢЦςδДЮηЯψξζξ!!!

と! 形容しがたき怖ろしき物音の致いて

――ダァーーーーーーーーーーーーーーッツ!!!

と、天海に穴の開いたかと思わるるが如き、大雨の、俄かに激しく降り出だいたと申す。

――と――

しばらく過ぎて――ぱったり――雨は――霽(は)れた。

 僧が、徐ろに、先ほどの護摩堂の辺りを見――驚いた!……

 堂は一丈ほども……地の中に開いたる……大きなる穴の中へ……陥っておったからで御座った。………… 

 

 これは、その駒込富士別当におる者が来た折り、私に語った話で御座る。

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