堀辰雄 十月 正字正仮名版 附やぶちゃん注(Ⅰ)
十月 堀辰雄
[やぶちゃん注:「十月」は昭和一八(一九四三)年一月から『婦人公論』に連載を始めた「大和路・信濃路」で「十月(一)」「十月(二)」と題して昭和一八(一九四三)年一月号に掲載された。後に「十月」と改題して、作品集「花あしび」(青磁社昭和二一(一九四六)年刊)に所収された。
このロケーションは発表に先立つ一年二ヶ月前の昭和一六(一九四一)年の秋十月である。この十月十日、創作のために杉並の家を単身出発、十月二十九日に帰京するまでを妻多恵子宛の書簡を基にしつつ、加筆したのが本作である。十月十日の到着から起こし、十月二十七日の琵琶湖湖畔で擱筆している(最後のクレジットは操作が入っているように思われる)。
底本は角川書店昭和二三(一九四八)年刊の「堀辰雄作品集 六 花を持てる女」所収の正字正仮名のものを用いた。各条のクレジットは底本ではポイント落ちで下二字空けインデントである。傍点「ヽ」は太字に代えた。各条の間は一行空けであるが、注を施した関係上、二行空けにしてある。 各条の後に簡単な注というか、感想を含んだ蛇足を附してある。私は奈良に数度しか行ったことがない嘲笑されるべき迂闊な人間である。されば、奈良通の方には言わずもがなのへんてこりんな注と感じられる箇所もあろうかと存ずるが、御寛恕願いたい。私は私も作中主人公と一緒に散策を同じゅうしたいだけである。奈良を分かり切っておられるという方は、本文のみを味わうに若くはあるまい。なお、注に用いた年譜的事実については、諸書の年譜資料の他、個人サイト「タツノオトシゴ」の詳細な「年譜」も参考させて戴いた。最後に御礼申し上げる。【電子化注開始2015年1月10日 藪野直史記】]
十月
一
一九四一年十月十日、奈良ホテルにて
くれがた奈良に著いた。僕のためにとつておいてくれたのは、かなり奧まつた部屋で、なかなか落ちつけさうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に沒頭してゐる最中のやうな氣もちになつて部屋の中を歩きまはつてみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよからうといふ事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛に手をかけたが、つい面倒になつて、まあそれくらゐはあすの朝の樂しみにしておいてやれとおもつて止めた。その代り、食堂にはじめて出るまへに、奮發して髭を剃ることにした。
[やぶちゃん注:この昭和十六年十月十日の午前中に杉並成宗(なりむね:在の杉並区大宮・成田東・成田西の一部を包括した旧地域名でその成田東に妻の実家があり、この前年三月に鎌倉からここへ転居していた)の自宅を出発、叙述通り、夕刻(推定午後六時代)に奈良県奈良市高畑町(たかばたけちょう)の、現在でも「西の迎賓館」呼ばれる高級ホテルである奈良ホテルに到着している。「東京紅團」の「堀辰雄の奈良を歩く」の「大和路編1」で辰雄が滞在した部屋に印を施した多恵子宛絵葉書(十六日夜附)画像が見られる。同ホテルには二十日間泊まったことになっている(例えばウィキの「奈良ホテル」の記載)が、この記録自体は正しいものの、実際には十月二十八日の早朝に荷物を奈良ホテルに預けたままで滋賀に向い、琵琶湖ホテルに一泊し、二十九日に戻って奈良ホテルを引き払っている。]
十月十一日朝、ヴエランダにて
けさは八時までゆつくりと寢た。あけがた靜かで、寢心地はまことにいい。やつと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池(あらいけ)に面してゐることだけは分かつたが、向う側はまだぼおつと濃い靄もやにつつまれてゐるつきりで、もうちよつと僕にはお預けといふ形。なかなかもつたいぶつてゐやあがる。さあ、この部屋で僕にどんな仕事が出來るか、なんだかかう仕事を目の前にしながら噓みたいに愉しい。けふはまあ輕い小手しらべに、ホテルから近い新藥師寺ぐらゐのところでも歩いて來よう。
[やぶちゃん注:「荒池」これは一般名詞ではなく、この池の通称固有名詞である。ウィキの「奈良ホテル」によれば(下線やぶちゃん)、奈良ホテルは『春日大社一の鳥居前から天理方面へ向かう』国道百六十九号(天理街道)沿いにあり、『荒池と呼ばれる農業用灌漑池の畔、かつては興福寺の塔頭である大乗院が所在した跡地の小高い丘に建って』いるとある。彼がこのホテルを選んだその時から、既にして彼のタイムマシンは作動しているのである。
「新藥師寺」奈良ホテルの同じ高畑町の西南西にあり、直線で一・二、実測歩行距離約一・五キロメートル。]
夕方、唐招提寺にて
いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いてゐる。けさ新藥師寺のあたりを歩きながら、「或門のくづれてゐるに馬醉木(あしび)かな」といふ秋櫻子の句などを口ずさんでゐるうちに、急に矢やも楯たてもたまらなくなつて、此處に來てしまつた。いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたつて、屋根瓦の上にも、丹(に)の褪めかかつた古い圓柱にも、松の木の影が鮮やかに映つてゐた。それがたえず風にそよいでゐる工合は、いふにいはれない爽やかさだ。此處こそは私達のギリシアだ――さう、何か現世にこせこせしながら生きてゐるのが厭いやになつたら、いつでもいい、ここに來て、半日なりと過ごしてゐること。――しかし、まづ一番先きに、小説なんぞ書くのがいやになつてしまふことは請合ひだ。……はつはつは、いま、これを讀んでゐるお前の心配さうな顏が目に見えるやうだよ。だが、本當のところ、此處にかうしてゐると、そんなはかない仕事にかかはつてゐるよりか、いつそのこと、この寺の講堂の片隅に埃だらけになつて二つ三つころがつてゐる佛頭みたいに、自分も首から上だけになつたまま、古代の日々を夢みてゐたくなる。……
もう小一時間ばかりも松林のなかに寢そべつて、そんなはかないことを考へてゐたが、僕は急に立ちあがり、金堂の石壇の上に登つて、扉の一つに近づいた。西日が丁度その古い扉の上にあたつてゐる。そしてそこには殆ど色の褪めてしまつた何かの花の大きな文樣(もやう)が五つ六つばかり妙にくつきりと浮かび出てゐる。そんな花文のそこに殘つてゐることを知つたのはそのときがはじめてだつた。いましがた松林の中からその日のあたつてゐる扉のそのあたりになんだか綺麗な文樣らしいものの浮き出てゐるのに氣がつき、最初は自分の目のせゐかと疑つたほどだつた。――僕はその扉に近づいて、それをしげしげと見入りながらも、まだなんとなく半信半疑のまま、何度もその花文の一つに手でさはつてみようとしかけて、ためらつた。をかしなことだが、一方では、それが僕のこのとききりの幻であつてくれればいいといふやうな氣もしてゐたのだ。そのうちそこの扉にさしてゐた日のかげがすうと立ち去つた。それと一しよに、いままで鮮やかに見えてゐたそのいくつかの花文も目のまへで急にぼんやりと見えにくくなつてしまつた。
[やぶちゃん注:「唐招提寺」一度、奈良ホテルへ戻ったものであろうが、唐招提寺は実に奈良駅を挟んで正確に真西の対称位置に位置しており、この主人公の動きが私には非常に面白いものに感ぜられるのである。
「或門のくづれてゐるに馬醉木かな」水原秋桜子の句集「葛飾」(昭和五(一九三〇)年馬酔木発行所刊)所収の「大和の春」の中の一句。季は春。この想起の句が実際の秋と混淆して時空間を変容(メタモルフォーゼ)させていることに注目されたい。
「褪めかかつた」「さめかかつた」と読む。
「まづ一番先きに、小説なんぞ書くのがいやになつてしまふことは請合ひだ」ここにこそ辰雄の、近代芸術の持つ矮小性や限界性への感懐が吐露されていると私は読む。近代文芸などというものは、古の歴史の時間の前にあっては、まさにその程度のものでしかないと、私も思うからである。しかし、この謂いは同時に書いている自身を危うくする。そのために巧みに主人公は現実の時間を錯覚させようと試み、その程度のものでしかないながら自身の書かんとしている小説内時間へと、自身をダブらせてゆくのである。
「この寺の講堂の片隅に埃だらけになつて二つ三つころがつてゐる佛頭みたいに、自分も首から上だけになつたまま、古代の日々を夢みてゐたくなる」私の非常に好む箇所である。
「何かの花の大きな文樣」現在では(恐らく辰雄が見た八十四年前も)摩耗が著しく現在はその紋様をみることは不可能に近いが、現在の画像を見る限りでは、扉上方に骰子の五の目型に丸い紋様全景があるように視認出来る。これは恐らく、宝相華文(ほうそうげもん)と呼ばれる仏教系文様の一種と思われる。「ブリタニカ国際大百科事典」によると、「宝相」とはバラ科に属する植物の中国名で、これを文様としたものとも言われるが、別にまた、蓮華文の変化したものとも、アオイ科のブッソウゲを文様化したものとも言われる。優美に文様化された植物の装飾文様で唐花・瑞花とも言う、とある。グーグル画像検索「宝相華文」をリンクして、その「幻」の花を読者のそれぞれにイメージして戴いたところで、この条の注を終わることとする。私はこの条のエンディングを、殊の外、偏愛しているのである。]