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2015/01/14

耳嚢 巻之九 怪棒の事

 怪棒の事

 

 藝州の家士、苗字は忘れたり、五太夫は、文化五年八拾三歳にて江戸屋鋪へ致勤番(きんばんいたし)、至(いたつ)てすこやか成(なる)者の由。右五太夫十五歳の時の由、同家中に何の三左衞門とか云る者ありしが、是は壯年の若者にて、同人申けるは、當國眞定山には石川惡四郎と云へる化(ばけ)もの住(すめ)る由、誰(たれ)有(あり)て高山の惡所ゆゑ見屆(みとどけ)し者なし、罷越(まかりこし)見屆け間數哉(まじきや)と三左衞門申けれど、古來より申傳(まうしつた)へる惡所、無益の事と斷(ことわり)けれど、なんじやうの事か有(ある)べきとて三左衞門すゝめけるゆゑ、五太夫も、憶したれと云(いは)れんも口おしくともなひ登りしに、なん所(しよ)いふばかりなくかろうじて絶頂に至りけるに、ぼう風時々におこり黑雲ひまなく通行(つうぎやう)し、或は雨降り或はしんどうし、そのおそろしさいわんかたなく、三左衞門は最早絶頂まで來れば歸るべしといふ。五太夫は、夜もふけぬれば足場も心元なし、夜あけて歸るべしといひ、三左衞門とたち分れ、五太夫は岩のはざまに一宿なしぬれど、色々の怪敷(あやしき)ことども有(あり)て夜中ろくろくにいねず、翌朝下山なしけるが、三左衞門は大熱(だいねつ)いでて無中(むちう)となりて暫(しばらく)わづらひける由。然るに五太夫方(かた)へ、妖怪ありといへる事度々なり。或は鬼の形をなし、又は山臥(やまぶし)、外品々の變化(へんげ)など出て、甚(はなはだ)おそろしさ云(いは)ん方なけれど、強勇(がうゆう)の五太夫少(すこし)も不恐(おそれず)、或はのゝしり或は笑ひなどしてありければ、七日八日たちて、一人の出家と化して來り、扨々御身は強勇なる人哉(かな)、此上は我等も眞定山をたちさるべしと云けれは、尤(もつとも)の事なり、然れども御身と咄合(はなしあひ)し事、しやうこなくては如何なり、何ぞしやうこに成(なる)べき品を給(たまは)るべしと望(のぞみ)ければ、しばらく形を隱しけるが、外(そと)より何とも不知(しれざる)物をなげ込(こみ)けるゆゑ、是を見れば、三尺餘(あまり)有(ある)べき木性(きのしゃう)知(しれ)ざるねじ棒(ばう)なり。右棒は廣島の慈光寺と云(いへ)る寺へ、右の五太夫宅へ度々いでしばけ物の姿を、卷ものに繪(ゑ)書添(かきそへ)て納置(をさめおき)しと、右五太夫語りけるとなり。右文化六年、齡(よはひ)七十斗にて勤番に出、直(ぢか)に噺しけると、或人語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。これは一読、知られた「稲生物怪録」(いのうもののけろく/いのうぶっかいろく)にヴァリアントであることが分かる。「耳嚢」ではここまでで既に以下の二つのヴァリアントが紹介されてあり、これは三種目に当たる。

 「耳嚢 巻之五 藝州引馬山妖怪の事」

 「耳嚢 巻之九 妖も剛勇に伏する事」

「稲生物怪録」については、上記二つの私の注を参照されたい。上記の注で約束した通り、今回は「稲生物怪録」と比べつつ、少しく検証を試みてみたい。

 本話では知られた「稲生物怪録」の最後に登場する魔王から渡される木槌に似た贈物が登場している点にまず着目すべきであろう。さらに、採話状況が明確に書かれ、話柄の主人公の年齢が明確に示され(但し、御覧の通り、その記載が冒頭と掉尾で齟齬はする)、それが、「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年夏の極直近であること、しかもその時点で体験者である五太夫が生存しており、江戸勤番現役であって、これを根岸に伝えた話者は直接この五太夫から聴き取ったというのだから、少なくとも噂話との外見上は、超弩級に信頼性が高い話柄ということにはなる。但し、話としては「稲生物怪録」の目くるめく、意想外のオリジナリティ富んだ妖異の波状攻撃には全く劣る。絵入り本が何冊も出ているので(絵入りの方が絶対によい)、未見の方は、是非お読みあれ。怪作にして快作である。

・「藝州」安芸広島藩。本話にある文化五年当時は第七代藩主浅野斉賢(なりかた 安永二(一七七三)年~文政一三(一八三一)年)であるが、主人公五太夫が冒頭の「文化五年八拾三歳」とすると「十五歳の時」は元文五(一七四〇)年となり、当時は第五代藩主浅野吉長(よしなが 天和元(一六八一)年~宝暦二(一七五二)年 宝永五(一七〇八)年に家督を継いでいる)の頃である。これは文末の「齡七十斗」としてもぎりぎり彼か、若しくは第六代藩主浅野宗恒(むねつね)となる。因みに「稲生物怪録」の主人公稲生武太夫は広島藩の支藩である三次藩藩士の子である。但し、「稲生物怪録」の多くのヴァージョンでそのように語られ、しばしば稲生武太夫を「三次藩の藩士」とする現代の記載を見かけるが(例えばウィキの「稲生物怪録」)、これは既にしておかしい。何故なら、実際には三次藩は第五代藩主浅野長寔(ながざね)の夭折によって享保五(一七二〇)年に廃藩となって、広島藩に吸収されて存在しないからである。しかも諸本では、作品内時間を寛延二(一七四九)年五月から七月(本格怪異部分はこの一ヶ月)いっぱいに設定してあり、武太夫の年齢を十五或いは十六としているのであるが、これは三次藩廃藩から既に二十九年も経過している。しかも、以下に示す通り、実在した稲生平太郎(幼名平太郎/諸作でもこの名で出る)は三次藩廃藩当時では、未だ長じていたとしても数えで十四歳、実際には十二歳程度で藩士ではないからである。既にして、こうした事実との微妙な、しかし厳然としたあり得ない細部が、本話発生時の強い作話性を感じさせると私は思うのである(断っておくが、私は「稲生物怪録」自体のファンであり、フリークである。所持する「稲生物怪録」を書名に冠した専門単行書籍だけでも十数冊に及ぶ。されば、事実でないから語る価値がない作り物の怪異譚であると一蹴しようとするものでは毛頭ないことを断っておく)。いや逆に、だからこそ、本話の主人公広島藩士「五太夫」は「稲生物怪録」の主人公「稲生平太郎武太夫」、そして結局、広島藩藩士となった実在するモデル稲生武太夫と同一人物と考えてよいということにもなるのである。

・「五太夫(ごたゆう)」本話の姓不詳の主人公。「稲生物怪録」の主人公は稲生武太夫(いのうぶたゆう)で、この稲生武太夫なる人物は実在し(稲生家は現在も存続)、諸資料の記載により多少の差はあるものの、概ね享保一八(一七三三)年~享保二十年頃に出生、享和三(一八〇三)年には亡くなっている(特に没年は、「稲生物怪録」の最後に出る妖怪どもの元締めたる魔王山本(さんもと)五郎左衛門が平太郎(武太夫)に自分を呼び出すために与えた「化けもの木槌(きづち)」が現在の納められてあり、稲生武太夫の墓がある広島市東区山根町の日蓮宗自昌山國前寺についての裕氏の個人サイト「広島ぶらり散歩」のこちらページのデータに拠った)。この太夫」は例の悪の総帥山本(さんもと)郎左衛門の「」が逆転転訛したものと考えれば納得がゆく(神話学上では善悪の名指しや形象はそのパワーが著しく対極的であればあるだけ容易に相互交換も可能である)。因みに、ウィキの「山本五郎左衛門」には(こんな項目があるということは実に素晴らしいことではないか!)、「稲生物怪録」の類話として、この「耳嚢」の話を要約した上、『石川悪四郎の話は五太夫の体験談として『耳嚢』に記述されているが、内容は『稲生物怪録』とほぼ同じのため、鎮衛が書き誤ったか、もしくは五太夫が『稲生物怪録』を脚色して鎮衛に語ったとの説もある』とする。その最後の『説』は村上健司編著 「妖怪事典」(毎日新聞社二〇〇〇年刊)に基づくとあるのであるが、私は誤記の可能性はないと思うし、況や、五太夫という稲生武太夫とは全くの別人が広島藩にいて、稲生と酷似した怪談を吹聴していたなんどという推定はとてものことに、出来ない。

   *

 なお、ここで書誌データをほぼ網羅した荒俣宏氏著の労作「平田篤胤が解く稲生物怪録」(角川書店平成一五(二〇〇五)年刊)から実在した稲生平太郎武太夫の興味深い、そしてまた、まさに謎めいてもいる経歴を以下に引用しておくこととする。

   《引用開始》

 稲生平太郎は、宝暦二年(一七五二)に二十歳になるやならずで一家の跡目を継ぎ、その名も稲生武太夫と改名している。浅野家に召し抱えられ、御供使方として八石三人扶持の俸禄を得た。しかし林良春氏によると、その翌年に御役御免となり、天明八年(一七八八)正月九日に帰藩するまでの間、ざっと三十四年間、平太郎あらため武太夫は浅野家のリストから消えるのである。いったい何があったのか。詳細はよくわからない。しかしおもしろいことに、この間、武太夫は諸国を武者修行して歩いたとの伝承があって、各地で武太夫の妖怪退治譚が残されている。また三次市の法務局三次支局の庭に建っている「稲生武太夫碑」にも、「宝暦七年二十五歳のとき諸国武者修行に出て、宝暦十三年五月三十一歳で帰落した」とある。その具体的真偽はともあれ、平太郎あらため武太夫は、わずか一年ながら藩に仕えた際、同僚たちに十六歳の夏に体験した妖怪との遭遇話を、さかんに吹聴したのである。あまりに途方もない話なので、多くの同僚は話半分に聞いたろうが、何度聞いてもディテールが変わらないし、なまなましい迫力も減じることがなかった。また妖怪の姿やかたちも独特で、聞いたこともないような細部描写をともなっていた。

 そこで、いつとはなしに稲生の怪異語を真剣に研究しようという人物があらわれた。その一人が柏正甫という同役であった。おそらく柏正甫もまた当時は二十歳前後の若い年代であったと思われる。柏は、稲生の話をメモに取り、記録に残したのである。稲生はその文章を見て、「これは事実だから他人にとやかく言われる筋はない。他人に見せてもかまわない」と納得した。しかし柏は内容が内容であるだけに他見を許さずにおいたようだ。

 その後、前述のように稲生は御役御免となったとすると、いつとはなしに稲生の怪異譚記録も箱に納められたまま忘れられてしまった。しかしそれから数十年後、柏は思いがけず、旧友の稲生武太夫とともに江戸へ旅立つという機会に巡りあった。あるいはこのとき、武太夫は三次の宗藩であった広島浅野家にふたたび召し抱えられたのかもしれない。柏正甫によれば、二人が江戸へ上ったのは天明三年(一七八三)か、あるいはその直前である。このとき宿で寝ながら語りあったが、昔聞いた怪異譚のことを話題にした。昔聞いた話をもういちど聞いたところ、内容が昔とすこしも違っていないことに仰天した柏は、あらためて以前の記録を箱から取りだし、自叙を付して書き改めた。これが天明三年のことである。その頃からふたたび稲生の怪異譚に村する興味が地元や江戸で湧きあがり、記録の閲覧を求める人もあらわれた。こうして柏正甫の筆記録は江戸の知識人からも注目されるようになつたのである。

   《引用終了》

そうして、後にこの話を学術的に再発掘したのが霊界博物学の権威ともいうべき平田篤胤であったのである。その詳細は荒俣氏の同書をお読み戴きたいが、ここで気になるのは、この「耳嚢」の記載された当時の「稲生物怪録」を巡る書誌的状況ということになろう。「稲生物怪録」の第一次の流布のピークの始まりは引用の通り、この柏正甫が天明三(一七八三)年に筆記した秘本と考えてよい。荒俣氏の前掲書によれば、この秘本の書写本は十九点ほどが現存し、それらは皆、江戸在と思われる猗々斎竹能(「いいさいちくのう」と読むか。酷似した名の茶人がいる)なる人物であるとある。その跋文には寛政一一(一七九九)年のクレジットがあるとするが、「稲生物怪録」の確信犯の採話である「耳嚢 巻之五 藝州引馬山妖怪の事」の載る「卷五」の執筆下限は寛政九年春であるから、実はそれよりももっと早い時期に、根岸は「耳嚢 巻之五 藝州引馬山妖怪の事」の末尾にある通り、『右武太夫方に寄宿なしける小林專助といふ者、今は松平豐前守家來にてありしが、右專助より聞しと語りぬ』という状況で「稲生物怪録」抄話を伝聞していたことが分かるのである。因みに、「卷之九」の執筆推定下限である文化六(一八〇九)年前後の状況を見ると、文化三年に平田篤胤が同秘本の最初の書写を行い、その後、文化八年に厳密な校正本を作成させているのであるが、この文化八年版が元にした新たな資料源は、実は平田の親しい友人であった国学者『屋代弘賢が文化六年(一八〇九)に作成させた、稲生平太郎自身の作画とされる画本『稲生平太郎物語』の写本であった』(前掲書一五八頁)とあるのである。これは非常に興味深い。何故なら、「耳嚢 巻之八 白川侯定信屋代弘賢贈答和歌の事」によって幕府右筆であった屋代弘賢とは根岸も親しかったからである。この屋代版は『別資料を含めていくつかの新資料が加わ』ったものと荒俣氏は述べておられる。実は根岸は本話を含め、この「稲生物怪録」系の三つの類話(若しくは第九巻の二話としてもよい)をまさに屋代弘賢から得たのではなかったろうか? 大方の御批判を俟つものであるが、ここまでくると、実は根岸はこれが「稲生物怪録」のヴァリアントであることを承知の上で、かく記していると考えざるを得ない。彼は時間軸の中で、それらを聴き知った順に配し、それが類話だと言わなかっただけなのだ。類話と称し、それらを編集して一箇所に纏めてしまうと、学術的ではあってもはっきり言って明らかに遜色が歴然と出る。並べて比較しては面白くないのである(「稲生物怪録」を集成した本を私は何冊も持っているが、実はそれを通読して「奇譚」として面白いと思ったことは実は一度もない)。根岸はまさにそれを嫌ったのではなかったか? アップ・トゥ・デイトな都市伝説を時系列の中に生き生きと散りばめて置くことで、見えてくる別な興味と真実もあるのである。「耳嚢」とは、実は結果して近代民俗学に於ける類話採集の濫觴となっているのであり、ただの千話の奇譚を集めるだけの奇体なコレクターの手すさびではなかったのではなかろうか? 今、私はそんな思いを強くしているのである。なお、私の知る限りでは、根岸鎭衞と平田篤胤は根岸の方が三十九も年長で、接点は見つからない。

   *

・「文化五年八拾三歳」再確認しておくと、この年齢では「五太夫」

   「十五歳の時」は元文五(一七四〇)年

となり、文末の「齡七十斗」となると、

   「十五歳の時」は宝暦二(一七五二)年~宝暦三(一七五四)頃

となる。この年齢記載の齟齬が如何にも、本当は嘘的な作話性を暗示させるものであるようにも見えるが、私は寧ろ小手先でリアルさを調整しようとしたのだとも見えるのである。何故なら、この十三年の齟齬分を実在したモデル稲生武太夫の没年である享和三(一八〇三)年に足してみると一八一六年になり、冒頭の文化五(一八〇八)年時点で、矍鑠として広島藩の江戸勤番を勤めていたという記載が、俄然、真実性を纏うかのように見えてくるからである

・「何の三左衞門「稲生物怪録」では隣家に住む豪傑の相撲取り三井権八姓の一部「三」が生きている。しかも、ここでも原話の魔王の名である山本(さんもと)五郎「左衞門」が生きているとも言える。妖怪の大魔王の名をヴァリアントの対抗者が「五」と「さん」と「左衞門」を分かって逆に一種の《言挙げ》として予め持つからこそ、彼らは最終的に怪異に打ち勝つ側に「在る」ことが定められているのだとも言えるのではなかろうか?

・「眞定山」底本及び岩波版も不詳とする。実際、広島県内にはこのような山はない(ネット検索をかけてもかかってくるのは悉くこの「耳嚢」に話を紹介したページばかりで、しかもどれも真定山の実在を検証していない。原話のみの紹介なら許そう。しかし、これを現代語訳したり、抄述紹介したりする場合、私はこういう不仕儀にはすこぶる怒りを感ずる人間である。都市伝説を示す時、明らかに事実に反する箇所については、紹介者は一言添えるべき絶対の《義務》があると考えている。面白可笑しく読者を騙してただ喜ぶという無責任な人間でよいという現代の市井の伝承者を気取らないのであればという謂いで、である)。「稲生物怪録」では実在する広島県三次市の比熊山である。現代語訳では一応、「まさだやま」と訓じておいた。

・「石川惡四郎」鈴木氏は『石川悪四郎は、『芦屋道満大内鑑』の石川悪右衛門の焼直しの感あり、実説ではあるまい』とする。既に示した通り、「稲生物怪録」では山本(さんもと)五郎左衛門。「川」は「山」のづらしであるし、「四郎」は「五郎」のずらしであるとともに稲生平「太郎」に対する遙かな劣位の表現(しかも相棒は「三」でやはり上位にある)。因みに「惡」は古えの武士の通称名に頻繁に用いられた「強い」の謂いであって邪悪の意は伴わない。遊びで現代語訳では「石川」を「せきかわ(せきかは)」と読んでおいた。

・「當國眞定山には石川惡四郎と云へる化もの住る由、誰有て高山の惡所ゆゑ見屆し者なし、罷越見屆け間數哉と三左衞門申けれど、古來より申傳へる惡所、無益の事と斷けれど、なんじやうの事か有べきとて三左衞門すゝめけるゆゑ、五太夫も、憶したれと云れんも口おしくともなひ登りしに、なん所いふばかりなくかろうじて絶頂に至りけるに、ぼう風時々におこり黑雲ひまなく通行し、或は雨降り或はしんどうし、そのおそろしさいわんかたなく、三左衞門は最早絶頂まで來れば歸るべしといふ。五太夫は、夜もふけぬれば足場も心元なし、夜あけて歸るべしといひ、三左衞門とたち分れ、五太夫は岩のはざまに一宿なしぬれど、色々の怪敷ことども有て夜中ろくろくにいねず、翌朝下山なしける」本話柄は二人で山に登っているのは最初の絵入本「稲生平太郎物語」などに見られる特徴すこぶる自然で怪奇譚に必要なプレのリアリズムがあると私は思う。柏正甫本「稲生物怪録」では登るのは、権八に肝試しを挑まれ、籤引きで当たった平太郎の方一人だけである(翌朝、山頂まで権八が迎えに来るから、こちらでも異界に踏み入れてはいるので祟られてもおかしくはないが、如何にも弱く、寧ろ、この冒頭に必要なリアリズムが減衰してしまう。私は原型は本話のように二人で登ったものであったと断じたい。恐らく平太郎自身が本話が盛んに持て囃されるようなって、自分一人の英雄性を高める意図で以ってかく話柄を創り変えたのではないかと私は疑っている)。

・「なんじやう」「なんでふ」が正しい。「何でふ」。「何といふ」の転で「何条」と漢字を当てる。疑問・反語の意の連体詞で、何という・何ほどの、の意。ここは無論、反語。

・「三左衞門は大熱いでて無中となりて暫わづらひける」「無中」底本では右に『(夢中)』と訂正注がある。「稲生物怪録」は諸本で怪奇現象が始まると、隣家に住んでおり怪異を起動させた共同正犯であるにも拘わらず、権八の出番は急速に少なくなってゆく(後代のヴァリアントになればなるほどその傾向が強いように私は感じる)。私は原形ではこの権八が恐らく現在のものよりももっと道化役として顔を出していたのではないかと想像している。その方が怪異譚は格段に面白くなるからである(その分、平太郎の純粋な英雄性が減衰してしまうと話者である平太郎自身が感じ、改作したのではなかったか?)。

・「山臥」山伏。数多の絵本・絵巻を確認してみても、変化(へんげ)の中に山伏姿の者は見かけない。印象に残るものでやや近く感じるのは、無数の虚無僧がぞろぞろ家内へ上り込んで、足の踏み場もなくなり、尺八を吹き鳴らして喧しきこと限りなしというシークエンスか。山伏の方が怪異としては古形で自然である。悪所禁断の山を冒している平太郎を天狗が襲うのは、実に理が通っており、古くから天狗は山伏姿に化けるのは御承知の通りである。そもそもが変化の王の名、山本(さんもと)という姓は如何にも天狗であろう

・「七日八日たちて」現在知られる「稲生物怪録」では実に七月一杯一ヶ月に及ぶ怪異が手を換え品を替えて語られる。そのバラエティが本話の面白さでもあるが、如何にもな、読者サービスの作話性を私は感ずる。寧ろ、原形はここにあるように一週間ほどであったのではなかろうか?

・「一人の出家と化して來り」この「化して」の謂い方に注意されたい。これは則ち、そこまでの「七日八日」の間に起った怪異は総てが、この「化」け物独りが成したことであり、ここではそのただ一匹の「化」け物が一人の僧に変じて現われたと述べている点である。現行の「稲生物怪録」は総てが、最後に百鬼夜行を配しており、この最後に登場するのはの妖怪の総帥という設定となっている。また、これも大事なところで、最後に出現するのは「稲生物怪録」では一貫して僧形なんどではなく、裃に帯刀した厳めしい武士姿ある。僧形が古形かどうかは不明であるが、私は悪の総帥の変化としては、かなり違和感を感じる。

・「外より何とも不知物をなげ込けるゆゑ」この部分、底本では、

 外より何とも不知。物をなげ込けるゆゑ

となっているが、如何にも繋ぎが悪く、訳しようがない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に基づき、例外的に以上の如く本文を訂した。

・「三尺」約九十一センチメートル

・「ねじ棒」鼻捻(はなねじ)。暴れ馬を制するための道具で、先端に鎖や紐の小さな環をつけた五十センチメートルほどの棒で、その輪を馬の鼻に引っ掛けて捩じって制する馬具。はなひねり。はなねじり。現行の「稲生物怪録」では山本(さんもと)を呼び出すための六寸(十八・一八センチメートル)の木槌(但し、原形に近いものではこうした平太郎に与え残されるアイテムは存在しないようである)。前掲した通り、実在したモデル稲生武太夫の墓がある広島市東区山根町の國前寺に現存する(実見は出来るが撮影は不可)。先に紹介した裕氏の個人サイト「広島ぶらり散歩」のこちらページによると、現存する木槌は三十センチメートル程の長さの黒色をしたもので、『打つ面が盛り上がってい』るとある。

・「慈光寺」岩波版の長谷川氏注に、『佐伯郡草津村(広島市西区草津町)に日蓮宗の寺あれど如何か』と注する。日蓮宗の古刹普門山慈光寺であるが、公式サイトにもネット検索にも稲生武太夫との関係性を見出せない。前注通り、伝承では奉納されたのは木槌で、奉納先は広島市東区山根町の國前寺であり、そこに現存する。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 怪棒(かいぼう)の事

 

 安芸国の家士にて――苗字は失念致いた――五太夫(ごだゆう)と申す者は、文化五年の頃、八十三にして、未だ広島藩江戸屋敷へ勤番致し、高齢ながら、いたって健康なる御仁の由。

 この五太夫殿が十五の砌りの話の由。

 

 五太夫の友にて、同広島藩御家中に〇〇三左衞門とか申す者が御座ったが、この者、壮年の血気盛んなる若者にして、ある夜のこと、五太夫と雑談の折りから、

「……当国の真定山(まさだやま)には、石川悪四郎(せきかわあくしろう)と申す化け物、これ、住んでおると聴く……聴くがしかし、これ誰(たれ)一人として――まんず、高き山の悪所なれば、の――見とどけた者はおらん。……どうじゃ? 一つ、二人して今から真定山の頂上へ、これ、登って、そんなもんが居るか居らぬか、見とどけるっちゅうんは、これ、なし、か、のう?」

と三左衞門、如何にもな、もの謂いにて水を向けたれど、

「……あれは古来より申し伝えたるとびきりの悪所。軽々に、かくなる仕儀を致さんとするは、これ、無益なことじゃ。」

と一度は断ったものの、三衛門が頻りに、

「――ほんなもん! なんぼのもんじゃい!」

煽り、なおも頻りに誘うたによって、五太夫も、三左衛門の目の内に幽かな侮蔑の光りを垣間見、

『憶したか――と言われずとも――これ、思われもせんは、口惜しきことじゃ。』

と感じたによって、三左衛門を伴い、真定山へと登ることと決した。

 さても、難所とされし道筋は、これ噂に違わず、曰く言い難き悪路にて、深夜となって、辛うじてようよう絶巓(ぜってん)へと登りつめたれど、如何にも酷(ひど)き暴風が断続して吹き起こり、黒雲(こくうん)の蒼穹を覆いて間断なく天空を行き交い、また、あるいは、天海に穴の空いたるかと思わるるほどの激しき雨の降り、また、あるいは、恐ろしき地震(ない)に山全体が震動致いて、その怖ろしさたるや、三左衞門にとっては、言わんかたなきもので御座ったによって、登頂致いて間もなくのこと、直きに五太夫に向い、

「……最早……絶頂まで来たればこそ……帰ろう!」

と申した。

 ところが、五太夫は、一向に、ものに怯える様子ものぅ、

「――夜も更けぬれば、足場も心もとなし。夜の明けてより、帰ると致すが得策じゃ。」

と平然と言い放った。

 とてもつき合い切れぬと、内心、びびったる三左衛門は、早々に下山するため、彼とはたち分れた。

 五太夫は山上の岩の狭間に身を入れて横たわり、悪所真定山山巓にて一宿をなした。

 されど、いろいろなる怪しきことどもが、たて続きに起ったによって――恐ろしくはなけれど――ともかくも――その変事、夜中じゅう、ひっきりなしのことなれば、ろくろく寝(い)ぬることも叶わず、翌朝、五太夫、欠伸(あくび)をしいしい、下山致いたと申す。

 ところが、訊いて見れば、三左衛門は――これ、高熱を発して夢中に譫言(うわごと)を言うという体たらくとなって御座った(その後もかなり長い間、そのまま患(わずろ)うておった由)。

 五太夫の方は、これ、すこぶる健勝で御座ったものの……実は……この下山したその日より、五太夫方の屋敷にて、妖怪の出た、としか申しよう、これなき、如何にも妖しきことの、たびたび起こるようなって御座った。……

――あるいは――鬼の形を成し

――または――妖しき山伏となり……

……その他、さまざまなる――変化(へんげ)――なんどの出でて、執拗(しゅうね)き怪異の数々――後に聴いた者は、これ誰(たれ)もがはなはだ恐ろしき思いを致し、その恐怖たるや、言葉にさえ出来ぬほどのもので御座ったと申す――のあったれど、強勇の五太夫、これ、少しも恐れず、
――あるいは――平然と叱りつけ

――あるいは――呵呵大笑して笑ひ飛ばす……

……といった塩梅で過ぎて御座った。……

 さてもかく七日、八日ほど経った頃、

――遂には

――その変化

――これ

――五太夫と面会致さんがため

――一人の出家

と化して来ったと申す。

 して、徐ろに、

「……さてさて御身は強勇なる御仁なるかな……かくなる上は……我らも……真定山を立ち去らずんば……なりますまいて……」

と申したによって、

「――それは、まこと、尤もなることじゃ。――しかれども、御身と話し合(お)うたること、これ、証拠なくては如何なものか? 何ぞ、証拠になるべき品を、一つ、給わりとう存ずる。――」

と望んだところ、

――ふっ

と、しばらくの間、姿を隠しておったが、外庭の方より、

――ドン!

と、何とも知れぬ物を投げ込んで参ったによって、これを見てみれば、

――三尺あまりもあろうかという

――何の木で作られたものかは知れざる

――捩じ棒

のあったと申す。……

 

……さても、この棒はその後(のち)、広島は慈光寺と申す寺へ――この五太夫宅へ出でたるもろもろの化け物の姿を巻物に描(えが)き添えたるものと併せて――納めおいた。……

 

……と、その五太夫が語ったと申す。

 

 これは――五太夫は文化六年の折りにても、齢(よわい)既に七十ばかりになんなんとするに、未だ勤番に出でて御座った由――その当人が直かに話したることと、ある御仁の語って御座った話である。

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