耳囊 卷之九 市谷宗泰院寺内奇說の事 / 執着にて惡名を得し事 (二話)
同一の事件を流言飛語版と真相版で書き分けたもので、「耳嚢」では珍しいものである。実際には真相版の方は十話も後に配されてあるが、本ブログ版では敢えて併置して示した。
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市谷宗泰院寺内奇說の事
市谷大日坂上(いちがやだいにちざかうへ)に宗泰院(そうたいゐん)といへる寺あり。右の旦方(だんがた)町人に娘ありて容色もありしが、文化六年の夏、風のこゝちにて身まかりぬ。則(すなはち)宗泰院へ送り、町家なれば地内の湯灌場(ゆくわんば)にて湯くわんをなしけるを、其邊の武家の家來なるや、與風(ふと)覗見(のぞきみ)て、兼て右娘に執心もありしや、夜に入(いり)、墓を掘返(ほりかへ)し彼(かの)死人を取出(とりいだ)し、いか成(なる)心なるや、夜の明(あけ)んとするゆゑ、寺の椽下(えんのした)へ投入(なげい)れ置(おき)しを、住僧墓廽りに見付(みつけ)、大きに驚き、施主へ聞えてはやすからじと、猶(なほ)下男抔に申付(まうしつけ)、葬りし。此頃專ら噺し合(あひ)ける。一說には、施主とやら住持とやら、彼是(かれこれ)六ケ敷(むつかしく)、本寺奉行所へも申立(まうしてつ)るとて、金五拾兩にて取扱(とりあつかひ)、事濟(すみ)しとも評判なしける。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。屍姦譚で、根岸はこの十章後に、このおぞましい流言飛語の真相を意識的に改めて記して猟奇性を否定している。個人的には「耳囊」の中ではこの流言飛語の本話の方は、珍しく私自身が頗る生理的不快感を持つ話である。是非、真相版を合わせて読んで戴きたい話柄ではある。
・「市谷大日坂上に宗泰院」底本鈴木氏注に、『市谷佐内坂町、曹洞宗宗泰院。(三村翁)左内坂町は後に新宿区市ヶ谷佐内町』とある。「大日坂」は文京区小日向にある坂で、ここは市谷とは距離が離れているから、佐内坂(以下を参照)の誤りと考えられる。この寺は現存するが、当地には存在せず、現在は杉並区高円寺南にある。しばしばお世話になっている松長哲聖氏の個人サイト「猫のあしあと」の「宗泰院|杉並区高円寺南にある曹洞宗寺院」によれば、永昌山宗泰院で本尊は釈迦牟尼仏。寺伝によれば、嘯山春虎和尚が天正一二(一五八四)年に麹町表四番町(現在の千代田区四番町)に草庵を結んだのが始まりとされ、開山は小田原万松院の格峰泰逸とする。文禄二(一五九三)年に幕府から寺地の寄進を受けて、堂塔を整備、その後、元和二(一六一六)年に寺地が旗本の屋敷地と定められたために、『市ヶ谷左内坂に境内地を拝領して移転、寺院の取締りにあたる市ヶ谷組寺院触頭を命ぜられ』たとある。『当寺の檀家は旗本・御家人・尾張藩士などの武家』三百五十家及びその出入商人などで、『本堂・開山堂・客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋・槍小屋・馬小屋など十六棟の伽藍を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれ』るとある、かなり格式の高い寺である。その後、『明治維新の変動により当寺も一時、寺勢が衰え』たが、明治二十年代に復興、明治四二(一九〇九)年に『陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在の地に移転し』たとある。宝暦七(一七五七)年建立の本堂、寛延三(一七五〇)年建造の開山堂は、『そのまま移築したもので、江戸中期建造の開運弁天堂(尾張藩主の持仏堂といわれる)とともに区内有数の古い建造物で』あるとあり、また、『なお、当寺には他に類をみない乳房を嬰児にふくませている木彫の「子授け地蔵尊」が安置されているほか、明治の俳人原月舟の句碑、幕末の名剣士すずきは無念流の始祖鈴木大学重明、相撲年寄松ヶ根・東関の墓などがあ』るとある(以上の記載は杉並区教育委員会掲示に拠ると注記有り)。「卷之九」の執筆推定下限は文化六(一八〇九)年夏(これはまさに「文化六年の夏」とあるから、超新鮮なホットな噂ということになる)であるから、遺体が投げ捨てられたであろう本堂或いは開山堂が今も見られるということである。事件の猟奇性もさることながら、格式高い寺院であったが故に、表沙汰にされて妙な風聞の立つことをも恐れたという感じがしてくる。
・「町家なれば地内の湯灌場にて湯くわんをなしける」底本鈴木氏注に、『三村翁「昔しは地借では、自分の家で湯灌はつかへなかりし也、されば、葬送に、湯濯盥を持行くことは、居付地主といへる標識なりしなり。此一齣、蠹損あり、心してよみ給ふべし。」』とある。短いが、非常に分かりにくい注である。以下、「●」でこれらの語注を示す。
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●まず、本文の「湯灌場」は寺の一画に設けられた湯灌をするための場所をいう。当時地主や居住家屋が自分のものでなかった者は自宅で湯灌をすることが許されなかった。
注の中の「地借」は「じがり」と読み、賃借した土地を指す。要するに、地面は自分の土地でないということである。
●注の「湯濯盥」は「ゆかんだらい」で、外で湯を沸かしておき、それを井戸の水を汲んでおいた盥に入れ、それを以って湯灌の湯とした。
●同じく注の「居付地主」とは、町内の自分の所有地に住居を構えた町人をいう。居付き家持ちとも称した。江戸の場合、地主が屋敷地内に住むことは少なく、多くは家守(やもり:大家。家主。)が屋敷地内に住居を構えて地代・店賃徴収を代行し、事実上、裏店(うらだな)の住人らを管理支配していた。ここはこうした者が湯灌盥を住人の葬儀に際し、持ち歩くことを、その権利或いは義務としていたことを指す謂いらしい。
●「一齣」は「いっく」で「部分」の意。
●「此一齣、蠹損あり、心してよみ給ふべし」「蠹損」は「トソン」と読み、虫食いのこと。実は岩波版のこの屍姦相当の箇所には長谷川氏が注して、『以下三村翻刻の芸林叢書本には屍姦を思わす語句を削る』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版ではここは(恣意的に正字化し、読みを歴史的仮名遣に直した)、
與風(ふと)覗見(のぞき)みて、兼(かね)て右娘に心も有りしや、與風淫心を生じて、夜に入(いり)墓を掘返し彼(かの)死人を取出し、如何なる心なるや添臥(そひぶし)なして、夜の明(あけ)んとする故寺の椽下(えんのした)へ投入置(なげいおき)しを、
とある。長谷川氏の謂い方からは、これは虫食いではなく、芸林叢書本の書写或いは校訂者である三村竹清氏による意識的削除が行われたことを暗に意味しておられるように思われる。現代語訳ではこの箇所に限って、カリフォルニア大学バークレー校版を採って補った。
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・「旦方」旦那。檀家のこと。
・「一說には、施主とやら住持とやら、彼是六ケ敷、本寺奉行所へも申立るとて、金五拾兩にて取扱、事濟し」カリフォルニア大学バークレー校版ではここが、
一說には、施主とやら住持とやら、其死骸を犯せし人も知れて彼是(かれこれ)六ケ敷(むつかしく)、本寺奉行所へも申立るとて、金五拾兩にて取扱(とりあつかひ)、事濟(すみ)し
となっている。現代語訳はここもバークレー校版を採ったが、この奉行所とか示談とかというのは、当時のシステムでは如何にも怪しげである。寺の境内で発生した事件である以上、これは町奉行の管轄ではなく、寺社奉行の担当事件となろうし、墓暴きは立派な犯罪であり、屍姦は宗教的に看過出来ない大罪として認識されていたと思われ、これだけの格式もあり、禅宗の住持が必死に揉み消しに加担するというのも、私は考え難いと思う。ちょっと考えても、この流言飛語自体、また、それが瞬く間に広まった(記載時と共時的)ということ自体が、それがまさに、おぞましい猟奇的好事家によって捏造されたものだという感じが強くするのである(実際、まさにそうであったということが、後の話で明らかにされるのである)。
・「取扱」中世以降、民事・刑事を問わず、騒擾や事件の仲介人のことを言った(単に「扱(あつかい)とも)。ここはそうした仲介者による、今で言うところの示談を指す。
■やぶちゃん現代語訳
市谷宗泰院寺境内にて起ったという猟奇的な一件についての事
市ヶ谷大日坂上(いちがやだいにちざかうえ)に宗泰院(そうたいいん)という寺がある。
ここの檀家のある町人に娘がおり、なかなかの美人の評判であったが、この文化六年の夏、風邪をこじらせて身罷った。
その日のうちに宗泰院へと遺骸を送り、町家のことなれば、その境内に設えられてあった湯灌場(ゆかんば)に於いて、湯灌の儀を滞りなくなして、葬った。
ところがその辺りの武家の家来でもあったか、その葬儀の一部始終――分けても湯灌の折りの処女の抜けるような美しき白き肌の骸(むくろ)――をふと覗き見、兼ねてより、生前のこの娘子に執心などもあったものか――おぞましくも、死せるその娘に対する淫猥の気の昂ぶって――その夜になって――その墓を掘り返して暴くと――かの死人(しびと)を取り出だいて――何ともその心境――これ――理解に苦しむところであるが――添い臥しなど致いておったという――されど、夜(よ)の明けんと致いたによって――同寺の本堂とか開山堂とか申す――その縁の下の辺りへ、この遺骸を投げ入れ、捨ておいたというのである。
それを、住僧が朝方の墓の見廻りの際に見出し、これ、大きに驚き、
「……娘の施主なんどへ……かくなるおぞましき変事の知られては……これ……当院の沽券に係わる!……」
と、即刻、下男などに申しつけて、元の墓へ葬ったという。
しかし、この頃、どこから漏れたものか、専ら、その屍姦のあって云々……と申す風聞の、これ、江戸市中に広がっておる由。
一説によれば、施主であったか、その住持であったか、が――実はそのおぞましき屍姦をなしたる武士も明らかとなり、しかもそれがまた、まずいことに相応の格式の武家の家来であったがため――かれこれ話の縺れ絡んだによって――当寺から奉行所に対し、その微妙な取り計らい方につき、内々に申し立ての御座ったによって――その武家と寺より施主に対し――金五十両と事件詳細の緘黙の約定(やくじょう)が、これ秘密裏に交わされて、以って――事件はなかったもの――として処理された――なんどと、まことしやかに風評しておるという、これ、何とも尋常ならざる事態となっておるのである。……(続く)
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執着にて惡名を得し事
市谷邊、名も聞(きこえ)し去る御旗本の厄介の伯父なる男、一體おろかなる性質(たち)にて、長屋に住居(すまひ)、厄介になり居りしが、年も中年に過(すぎ)し由。右屋鋪(やしき)門前町に五六才の娘ありしが、いたつていたいけなる生れなりしを、彼(かの)厄介なる男甚だ寵愛して、我子同前にあわれみける故、町家の兩親も甚(はなはだ)心安くなし、娘も我(わが)宿より彼(かの)人の方而已(のみ)にて遊(あそび)しが、文化六年の夏、彼人も近在に所用ありて、日數五六日も過(すぎ)て立歸(たちかへ)りしに、彼小兒痘瘡にて、四五日煩ひて身まかりしを、彼男歸り聞(きき)て甚だ愁傷し、其慈愛やみがたきや、寺も隣家なりしを、密(ひそか)に墓所に至り、右なきがらを掘出(ほりいだ)し、あくまで歎きけるを、近邊にても其愚痴を笑ひしが、傳説して、此書七十二の所に記しける通り色々作説を附會なして、却(かへつ)て附會の方實事のやう口ずさみける。
□やぶちゃん注
○前項連関:なし。十前の条「市谷宗泰院寺内奇說の事」の真相実記である。この実際の主人公、悪意を以って見れば若干、ペドフィリア(小児性愛)的なニュアンスを感じさせないとは言えないが、しかし状況から見ると、決して異常者とは私には思えない。底本の鈴木氏の注ではこれを『同話異伝』とするが、そもそもが猟奇性満載ながら、奉行所まで出て来て示談落ちという前話は明らかな低次元の流言飛語であり、この話こそが真実であったのだと私は思いたい。屍姦事件は実際にはある。しかし、この事件、これと前話を二つ並べて虚心に読めば、自ずとその虚実は見えてくると私は思うのである。
・「七十二」現在の「耳囊」の各巻の話には遠し番号は附かないが、こうした叙述を見ると、原話にはこうした番号が附されてあったのではと考えられるようにも思われる。
■やぶちゃん現代語訳
執着のあまり悪名(あくみょう)を轟かすことになってしまったとんでもない事
市谷辺りに、名も知られた、さる御旗本に、居候して御座った、その当主の伯父とか申す男が御座った。この男、一体に、何とも愚鈍なる性質(たち)の者にて御座って、屋敷内(うち)の長屋に住まい、かなり永いこと、ここの主人に厄介になっておった者と申す。年の頃も、もう中年を過ぎた如何にもぱっとしない男で御座る由。
さて、この御旗本の屋敷の門前町の町屋に、五、六才の娘が、これ、御座った。
この娘子(むすめご)、至って可愛らしき生まれの子であったを、この居候の中年男、これまた、はなはだ寵愛致いて、我が子同前に慈しんで御座ったと申す。
されば、町屋のこの娘の両親もまた、この男と、はなはだ心安くなし、この娘自身もまた、昼つ方は自分の家におるよりも、かの男の長屋へ入り浸っては遊んで御座ったと申す。
ところが、この文化六年の夏、かの男、江戸郊外の少し離れたる田舎に所用のあって、日数(ひかず)五、六日ばかりも過ぎて、やっとたち帰って参ったところが、かの可愛がって御座った娘子、この男が留守にしたその日に、急に痘瘡を発し、四、五日も患った末、あっけのぅ、これ、身罷ってしもうておった。
されば、かの男、帰り来たってそのことを聴くや、その愁嘆致すこと、尋常ではなかった。
その慈愛の、これ、已みがたかったものか、娘を葬ったる寺もまた、当旗本屋敷のすぐ隣家で御座ったによって、その夜のこと、いたたまれずなった男は、こっそりその寺の墓所へと入り込み――かの娘に、これ今一度、遇いたき一念より――亡骸(なきがら)を掘り出だいては――そのまま――その骸(むくろ)を抱きしめて――夜が明くるのも忘れて、大声を挙げて、嘆き悲しんで御座ったと申す。
近隣にても、その痴愚と言わんか、この甲斐性なき中年男の、あきれんばかりの娘への愛着を、これ、皆して、嘲笑(あざわろ)うって御座ったと申す。
ところが、これが誤伝して、この「耳嚢」は本巻之九の七十二番目の話として記した通り――おぞましき猟奇の尾鰭を紙鳶(たこ)の如く――びらありびらびらと――あくまで猥雑に淫猥に附会なした――そうして――その、かえってその附会したる、口にするも忌まわしき話の方が、これ――実事であるかのように――人の口に上るようになってしまったのである。
これこそが、あの語るに落ちた妖談の、これ、真相であったのである。
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